nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

岸和田城

2013年03月31日 | 大阪府の城郭・環濠

 岸和田城は、楠木正成の一族、和田高家が、築いたのが最初と言われています。戦国時代末期(16世紀半ば)には、当時和泉地域を治めていた松浦氏の居城となっていました。織田信長が支配すると、家臣の津田信張、蜂屋頼隆がしばらく居城した後、羽柴秀吉の子飼いの家臣中村一氏を城主として紀州の根来寺や雑賀衆への押さえとしました。天正12年(1584年)の岸和田合戦では、紀州勢の大軍を相手に城を守り抜き、翌年の天正13年[1585年),岸和田城を拠点として根来寺を焼き討ちにして、和泉地域から根来勢力を一掃しました。その後、秀吉の叔父の小出秀政に城郭と城下町の整備を依頼します。豊臣氏滅亡後、松平(松井)二代を経て、寛永17年(1640年),岡部宣勝が6万石で入城し以後明治維新まで岡部氏13代がここで岸和田藩を統治しました。江戸時代の岸和田城は、大阪南部の守りとして、幕府の西国支配に重要な役割を果たしました。岡部氏は、徳川家中にあっては珍しいい今川家の旧臣として知られています。明治6年(1873年)廃城となり、城は、破壊されました。しかし、岸和田市民の力によって、昭和29年(1954年)約1年の歳月をかけ数々の課題を乗り越えて、町のシンボル不在だった本丸に鉄筋コンクリート造りの三層三階の模擬天守が、昭和44年には城壁と多聞櫓・隅櫓が再建されました。  

 [所在地:大阪府岸和田市岸城町9番1号]   

アクセス>南海・蛸地蔵駅西出口から徒歩7分

岸和田城(千亀利城とも呼ばれている)             

内堀                                   ▼多聞櫓・隅櫓

 

櫓門

 

岡部氏記念碑 岸和田城址碑

  

本丸          八陣の庭

 

小天守() と 天守閣()

 2013/03/30 訪城

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久米田の戦 永禄5年(1562年)

 和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大坂府岸和田市)に布陣する三好義賢13,000騎に対し、畠山高政20,000騎が攻め入った合戦。三好義賢はこの戦で戦死し、三好氏没落の遠因となった。

紀伊雑賀合戦 天正5年(1577年)

 雑賀が石山本願寺の兵站基地のため、織田信長軍50,000余騎で雑賀城を攻める。織田軍は雑賀川の戦いで、雑賀の鈴木孫一の率いる雑賀衆の鉄砲攻撃に敗れ,一時退却したが、雑賀衆には余力がなく、力尽きて雑賀城は落城する

織田信長の高野山攻め 天正9年(1581年)

 高野聖1300余を殺害し、織田信孝軍約130,000騎で高野山攻撃開始する。高野山方は、僧兵、浪人約37000騎で応戦する。対陣中に本能寺の変が起こり(1582),織田信孝は高野山攻めを中止し、退却する。

岸和田合戦 天正12年(1584年)

  小牧・長久手の合戦に出陣した豊臣秀吉の隙をついて、大坂をめざした根来衆・雑賀衆・粉河衆など約30,000騎。一方、岸和田城を守る兵は、5,000騎、しかし奮戦によって城はかろうじて落城を免れた。

豊臣秀吉の根来寺攻め 天正13年(1585年)

 和泉・紀伊に寺領75万石を有する根来寺の勢力を恐れ、豊臣秀吉軍約100,000騎で、根来、雑賀勢に攻撃開始し、根来寺を焼き討ちする。根来衆、雑賀衆屈服。

豊臣秀吉の名草郡太田城攻め 天正13年(1585年)

 根来寺衆討伐後、豊臣秀吉軍約100,000騎で太田党・雑賀衆約5,000騎で守る太田城を攻める。紀ノ川にそそぐ大門川(宮井川)の水を塞き止めて、水攻めを行う。太田城は約1ケ月持ちこたえたが城兵に疲れがではじめ、城将らが自刃して落城した。

豊臣秀吉の高野山攻め 天正13年(1585年)

 豊臣秀吉軍約100,000騎で、高野山を攻める。高野山の客僧木食上人応基(おうご)が和議の使者となる。高野山攻め中止、秀吉に服従。高野山方は、寺領17万石を失う。