俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

便器の蓋

2014-09-22 10:08:30 | Weblog
 昔の和式便器には蓋があった。物を落とさないためでもあり、何よりも汲み取り式だったから臭いを拡散させたいために蓋が必要だった。水洗式になってからは蓋は見られなくなった。
 洋式トイレにも蓋が付いていた。多分これも当初は臭いを拡散させないためだっただろうから、水洗式になった時点で本来、不必要になるものだ。しかし西洋では蓋が役に立った。バスとトイレが隣接するので入浴するために脱いだ服を置く場所として利用できたからだ。
 日本で洋式トイレの蓋が無くなり始めたのは10年ぐらい前からだろう。それまで誰も見直そうとしなかったのは、見慣れた物を正しい物と人は考えてしまうからだ。
 駅や商業施設や学校などで蓋を撤去することは利用者・管理者の双方にとって役立つ。
 利用者にとっては蓋を開けるという無駄な動作を省略できるので緊急時には助かる。水洗レバーを押す時も蓋が邪魔にならない。無駄な時間が減ればその分、早く用が終わるので次の人の待ち時間が減る。
 管理者のメリットはもっと大きい。部品が減るのだから設置費が下がるし運送費も少しぐらい減るだろう。余計な部分が無くなれば故障が減るし清掃時間も短縮される。トイレの回転率が上がれば客数が増えてもトイレを増設せずに済むから施設の面積効率が下がらない。
 以前、総合企画本部に所属していた私が蓋の撤去を大真面目に発表したら散々批判された。「臭いが広がる」「安っぽい」「流さない人がいれば汚い」などだった。巷の便器から蓋が取り払われつつある現状を考えるなら、これらの批判が的外れだったことは明らかだ。
 和式の便器に蓋が付いていれば誰もが「これは何だ?」と思うだろう。ところがと洋式トイレの蓋についてはそんな無駄な構造が疑われずに何十年も放置されていた。
 可動式の便座が今も使われているが、これも大半の公衆トイレでは無駄な機能だ。便座を上げることの無い女子トイレや「大」専用の男子トイレであれば固定式のほうが壊れにくいし安上がりだ。人は固定観念に凝り固まり勝ちであり見直すことが苦手な動物だとつくづく思う。

誉める効果(2)

2014-09-22 09:35:38 | Weblog
 当たり前の話だが平均点50点の人は毎回50点を取れる訳ではない。毎回50点を取ることは毎回100点を取るよりも難しい。30点から70点ぐらいの間でバラ付いて、その結果として平均点が50点になる。つまり実力の変化が無くても、運が良ければ70点を取れて運が悪ければ30点になるということだ。
 70点を取った時、本人も周囲も何かの成果だと考える。努力の甲斐があったと思うだろう。しかし大半の場合ただの運だ。何度も試験を受ければ良い時も悪い時もある。
 70点で誉められた人は次の試験では実力どおりに50点前後に戻る。これは確率的には当然のことだ。幸運が2度続くことは殆んどあり得ない。ところがこれが正当に評価されない。誉めたにも拘わらず成績が悪化したと誤解される。
 30点であれば本人は悔やむし叱られるかも知れない。しかし次の試験では実力どおりの50点前後に戻るだろう。これは反省したからでも叱られたからでもない。平均へ回帰することは必然とさえ言える。
 人が誉められるのは実力以上の結果が得られた時だ。だから誉められた後はほぼ確実に実力相応の結果に戻る。逆に、叱られるのは実力以下の結果だった時だ。当然、次は実力相応の結果に戻る。叱られたからではない。こんな事情から誉める効果は過小に、叱る効果は過大に評価される。
 全盛期のイチロー選手でも毎試合、5打数2安打のペースで打てた訳ではない。チャンスで悉く凡退した翌日、大当たりをしてもそれはマスコミに叩かれて発奮したからではない。大当たりの翌日、ノーヒットに終わってもそれは天狗になったからではない。あくまで偶然のことだ。
 成績はバラ付くものだ。叱れば上がると思うのは錯覚に過ぎない。だから誉めて気分を良くさせるほうがずっと良い。少なくともやる気が高まることは確実だ。このことを総ての親と教育者に理解して貰いたい。
 伊勢にある南部自動車学校は「ほめちぎる教習所」として全国に知られている。地方都市の人口減少と若者の自動車離れという二重の逆風の中でこの学校の業績は好調だ。本人の成績だけではなく経営にとっても誉める効果は大きい。カリスマ販売員もやはり誉め上手だ。