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読書歴 プロイセン史研究序説

2012-10-14 14:08:52 | 読書暦 音聴歴
プロイセン史研究序説
山田作男
昭和57年
8800円
風間書房

この年代発行でこの値段。恐るべき高価だ。専門書扱いゆえの金額だろう。

サラディンがサラヂン表記なのに時代を感じてしまった。


ドイツ騎士団の発端
ドイツ騎士団の始原を辿ると、12世紀初めあるドイツ人夫妻によって聖地に設けられた病院まで遡る。このドイツ人病院はヨハネ騎士団の支配下に入れられていた。(1143年のケレンスティン2世の教書によるとヨハネ騎士団の支配下にあった)
病院の傍には簡素な教会もつくられ、もっぱらドイツ人巡礼の看護に当たった。本にはこう書いてあります。ここで疑問に思った人は賢いです。すでにヨハネ病院やヨハネ騎士団があるのにどうして小さなドイツ人病院をつくる必要があるのかな。それは当時のラテン勢力がドイツ人を区別、差別していたからです。ラテン勢力はドイツ人を助けなかった。マムルークという単語聞いたことありますか。奴隷軍人ぐらいの意味ですが、ドイツはそういう扱いを受けてました。そもそもローマ現役の頃から、ゲルマンは軍事力として利用するものでした。この辺りは歴史の本を見てください。すぐわかります。テルマエ・ロマエ2巻の第7話がわかりやすいです。
 もちろんすべてのラテンがゲルマンを差別していたわけではないでしょうけど、そもそも言葉が通じないし、でかいし、怖いし。で、しかたなくドイツ語民はドイツ語民だけでかたまったんですね。
 
大きな嵐は白い花も青い花も散らす。1187年にサラディンによって聖地が奪われた時、この病院も付属物も全く失われた。ちなみにエルサレムは90年間ほどキリスト勢力下にあった。90年と言えば平均寿命の短い当時では4から5世代交代している。王様はともかく庶民達は完全にこの土地の人です。
 参考までにベルリンの壁があったのが約30年間、ドイツが分かれていたのが約40年間、ドイツではむしろドイツは分かれているのが普通じゃないかという意見も強かった。だってプロイセンが無理やりまとめるまでずーっとばらばらでしたから。で、統一して22年。いまだに格差は消えない。むしろ、固定している。人は自分の育った時代の空気を簡単には変えれない。世代が代わるまで本当の変化は無い。そう思えます。

壁が壊された時分けられていた家族の再会に涙した人は多いです。これぎりぎりのタイミングだったとも聞きます。だってあと10年20年の時が過ぎれば分けられていた家族の当事者世代は鬼籍に入ってしまいますから。
 さて、90年間。聖地という名のわが町で庶民はそれなりに暮らしていました。

聖地エルサレムが失われたと聞いてヨーロッパ(キリスト教社会)大ショック。聖地を取り戻せ運動が起きて、前の十字軍は諸侯が中心だったけど、今度はもっと強い人に行ってもらうべということになってできたのが第3回十字軍。イギリス王、フランス王、ドイツ皇帝という豪華メンバー。特にドイツ軍は数が多くて、サラディンもドイツには大変警戒していました。どうもこの時代神様はいぼ痔だったのか、大変不幸な事故のためドイツ軍は途中帰国してしましました。ドイツ皇帝は途中の道沿いの川でおぼれ死んだのです。  青池先生のサラディンの日がわかりやすいです。
 一部のドイツ軍は皇帝の息子や親せき筋のオーストリア公に連れられて、聖地に来ましたが数がむちゃくちゃへってる。大笑いしたのはサラディン。APHネタなら迷子ネタがでそうですね。(迷子になったからますます数が減った)
 第3回十字軍はイギリス王やフランス王ががんばって1191年アッコンを取り戻した。フランス王は帰国しイギリス王はサラディンと休戦協定を結ぶ。一応、アッコンがあるから巡礼もエルサレムに行けるし、それなりの成果はあった。ただ、この時事故とは言え途中で帰ってしまったドイツ勢力をラテンはどうおもったか。
歴史にもしもが入れるなら、この時事故が無くヨーロッパ勢力みんなでエルサレムを取り戻せてたら、その後のヨーロッパ史はどうなったのか。
 

 仮定の話はともかくとして、ドイツ騎士団ですが、産まれたのはどこでいつなのか。
第3回の十字軍がアッコンを包囲していた際にドイツ人の傷病者を看護するため、ブレーメンやリューベックの商人が城壁の前に船の帆で野戦病院をつくった。
この話聞いたことがある人もいるかもしれません。ドイツ騎士団の公式プロフィールではこれがドイツ騎士団の誕生です。つまり公式のギル君は第3回十字軍の生まれになってます。1191年生まれです。産まれたのはアッコンです。しかし、APHではそこまで細かいプロフィールは出てません。
 ブレーメンやリューベックの商人が野戦病院をつくったのは1190年中ごろである。これは公式史実です。ちょっと不思議に思う人。あなたは正しい。それなのにどうして1143年にギルの記録が残っているのか。

 中国が自称4000年やら5000年やら言ってるし、カンコクは起源を主張。国や民族にとって古いのは価値があるはず。どうして、ドイツ騎士団はわざわざ古い始まりを無視しているのか。
これは養育権争いと親権争いのせいです。
APHファンなら養育権争いやら親権争いの語でそく思い出すのは7週間戦争。ドイツ坊やの親権をプロイセンとオーストリアさんが争った。
 さて、こっからはねたがらみです。なぜ、プロイセンは共同親権や後見人の形でオーストリアさんとともにドイツを後見しなかったのか。歴史的な話はうっちゃいまして、これプロイセンの経験がそうさせたのではないか。
自分(ギルベルト)も戦って親権をとられて、ドイツ皇帝の保護下に入った。親になるには戦って勝ち取るのだとごく自然にそう思っていた。
 ギル君のときには1241年3月に教皇グレゴリウス9世と神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が争い、ギルは兄ヨハネ騎士団から引き離され、皇帝の命令で北に送られます。
この1241年から北の十字軍まで誰か書いてないですか。甘えたのお兄ちゃん子だったギルが、自分の民を自覚し国を目指すまで。


ギルがどの時点で産まれたかは諸説あるのですがうちでは、公式には1191年生まれ。でも実際は12世紀の初め生まれ(ヨハネ騎士団のドイツ館に空から降りてきた。受け止めたのはヨハネさん。)産まれたのはエルサレム。これを知っているのはヨハネさんとあと数人のみ。60年間ほどヨハネさんに溺愛される。
聖マリア病院ができてからは修道士として、ヨハネさんのところから通っていた。(ドイツ騎士団の会則はヨハネ騎士団、ソロモン騎士団のコピペです。)
 1241年の争いでヨハネさんから完全に引き離された。(ギル君の涙時代)




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