長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

15章 その7

2015-01-26 17:45:11 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】


(7)ペンテコステの日以降、信じる者は即御霊を受けることをヨハネによる福音書は予告しているか

ヨハネによる福音書が、御霊を受けるということについて、新しいディスペンセーションの到来を予告していることは(2)で指摘させて頂きました。しかし、他方でその新しいディスペンセーションにおいて、信じる者が即御霊を受けることになるのかという点についてはどうでしょうか。新しいディスペンセーションの到来を指摘するヨハネ7:39だけで、この問いに答えることは難しいと思います。「後になってから信じる者が御霊を受ける」ことについては語っていても、「信じる者が即御霊を受ける」とまでは語っていないからです。

これまで見てきたように、ヨハネによる福音書全体のテーマである「永遠のいのち」と聖霊の働きとは密接に関連づけられています。たとえば、7:37-39と4:10-14とを比較すれば、イエス様が栄光を受けられた後、信じる者が御霊を受けるようになるということは、同時に永遠のいのちを得るようになると置き換えてもよさそうに思えます。

あるいは、3:5については、二つの解釈の可能性がありましたが、いずれにしても新しく(上から)生まれることについて、御霊の働きの中心性が示唆されているということは言えます。特に、υδωρ=「水のバプテスマ」、πνευμα=「御霊のバプテスマ」と解釈するならば、単純に見れば「御霊のバプテスマによって新しく(上から)生まれる」という理解が成り立つように見えます。

しかし、福音書全体から見たときに、「永遠のいのち」と聖霊の働きの密接な関連性については十分明らかにされているものの、弟子たちがペンテコステの日に永遠のいのちをうけなかったとまでは断言することが難しいようです。また、3:5においてπνευμα=「御霊のバプテスマ」と解釈する場合には、同時にυδωρ=「水のバプテスマ」と解釈することが必然となります。この点を踏まえると、「御霊のバプテスマによって生まれる」という機械的解釈に一定の考慮を求められることになります。

ヨハネの福音書において、新しいディスペンセーション後、信じる者が即聖霊を受けるようになることが示唆されていると考えることは、全体的には妥当なようにも思われますが、同時に、ヨハネの福音書だけを土台としてということであれば、その点で断定的になることは避けた方がよい、ということになりそうです。

ヨハネによる福音書への検討の後には、ヨハネの手紙への検討に進むことになります。

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