長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

18章 その2

2015-05-16 09:45:04 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】

第一ペテロ1:2

これらの言葉は、回心の二つの側面を一つにしている。すなわち、人の従順と神のきよめである。思想は御霊における新しい契約についてであり、そこにおいて信仰者のυπακοη(従順)とキリストの血のραντισμοσ(注ぎかけ)は、古い契約を確立した従順と注ぎかけに対応している(出エジプト24:7、8)。思想は主に霊的きよめの領域に移る。υπακοηの行為はおそらくバプテスマにおいて表現されると考えられている(3:21参照)。しかし、キリストの血の注ぎかけは、心についての注ぎかけであり、2:24のキリストの打ち傷による内的及び霊的癒しに正確に一致している。注ぎについてのバプテスマの儀式については何も言及されていないし、バプテスマの水がキリストの贖いの血の恵みを含むということも何ら示唆されていない。著者の考えの正面に立っているのは、聖別の思想であり、人の聖別と人を神に取り分けるキリストの注がれた血の聖別とを結びつけ、このようにして神と人との間の新しい契約関係を打ち立てる、聖別する御霊の働きである。

第一ペテロ1:22

ここには観念の同じ組み合わせがある。きよめと従順である。ヤコブ4:8や第一ヨハネ3:3におけるのと同様、もう一度、きよめは道徳的及び霊的であり(τασ ψυχασ υμων ηγνικοτεσ)、バプテスマについての言及はない。更に注意すべきことは、このきよめは神によってなされた何かではなく、他の公同書簡のように人がなす何かであるということである。第一ペテロにおいて、これは恐らく回心―入信式における一回限りの従順について言及している(ηγνικοτεσ―完了形)。事実、それはバプテスマに言及していると言ってもよい―福音に対する信仰の応答、そこでなされるチャレンジと招きを受け入れること、こうして宣言されるお方に対するコミットメント。これは再び3:21にまさるとも劣らず、ここでのυπακοη(従順)はそこでのεπερωτημαとそれほど違ってはいない。いずれにしてもここでバプテスマが考えられているとすれば、ペテロにとってバプテスマは本質的に神のきよめるみわざではなく、人の従順の行為であるということ、きよめをもたらすのは「従順」であり、バプテスマの儀式ではなく、バプテスマにおいて表現される従順であることが確立される。

第一ペテロ1:3、23

これまで我々は回心―入信式における人の行為にペテロがいかに大きな強調を置いていかを見てきた(υπακοη、επερωτημα、2:25も参照)。ここでは彼は神のみわざに対してだけ注意を集中する。NTの他の箇所のように、回心における特に決定的な要素は新創造における神のみわざである(例えばヨハネ3:3-8、第二コリント5:17、テトス3:5、ヤコブ1:18)。新生についての神の手段は御言葉(λογοσ)であり、ペテロはそれを読者のもとに来た福音の特殊な宣告(ρημα)に等しいものとする(参照ヤコブ1:18、21)。

ここでは再び、バプテスマについての何の考えもない。思想は回心と入信式が区別されるとすれば入信式についてではなく回心についてのものである。3:21でバプテスマは神に対する人の応答の手段であるが、1:23で御言葉が人の内に新しい誕生をもたらす神の手段である。それらが区別される出来事であるかのように、これらの間にくさびを打ち込むことは愚かなことであろう。というのは、前者はきよめと救いに結びついており(1:21、3:21)、後者は新生に結びついている。我々はここで再び統一性を壊すことのできない複雑な回心―入信式の出来事の間にいるのである。

(テトス3:5との関わりについて、省略)

それゆえペテロがバプテスマは神が人に近づく手段であるよりも人が神に近づく手段であると主張するとき、我々は彼と十分調和する。神は御言葉の宣教を通して人に近づき、出会いは聖霊において(εν αγιασμω πνυματοσ)起こる。


御霊についてはどうなのか。また、第一ペテロはペンテコステ派の教理に関連性があるのだろうか。パウロのような卓越性がペテロに与えられないことは本当である。しかし、1:2は第二テサロニケ2:13や第一コリント6:11と比較され、1:12は第一コリント2:4のようなパウロ的な節と比較されることに注目すべきである。更に、1:12はペンテコステをほのめかし(αποστλεντι απ ουρανου)、ここで言及されている福音の宣教が宗教的リバイバルをもたらし、多くの人々がその中で回心し、御霊が説教者を通して不思議を行ない、御霊の力と臨在が経験され、大変明瞭な仕方で現わされたことを、恐らくは示唆するかもしれない。1:12の光の中では、恐らく我々は1:23の御言葉の新生させる力が御霊によるものと考えるべきであろう。第一ヨハネがσπερμαについて行ったように、ペテロは同義語σπορα(εκ)(種)とλογοσ(δια)(言葉)とを区別し、前者を御霊と等しいものにしようとしているのかもしれない。また彼はイザヤ40:6-8の七十人訳を引用するが、彼はイザヤ40:7がruahについて語っていると考えているのかもしれない―主のruahが上に吹くので、肉体とその美しさは枯れ、しぼむのだと。しかし、神の御言葉についてはそうではない。神がその上にruahを吹くと、枯れ、しぼむどころか、聞く者すべてに命をもたらす創造的力となる(1:12、13参照)。最後に、4:14はクリスチャンが自分と共にある御霊の絶えざる臨在があることを知っていると示唆する。特に注目すべきは、苦しみ(13節)と御霊が共にキリストのものであり(14節はイザヤ11:2をほのめかす)、未だ現わされていないキリストの栄光(13節)と栄光の御霊(14節)との間の関係は、パウロが御霊を栄光、つまり終りの時代の栄光のαρραβων(保証)とαπαρχη(初穂)として語ったことを示唆していることである。このことはクリスチャン生涯の最初に、クリスチャンが終わりまで耐えることができるよう、御霊が人の上にとどまるために「キリストにあって」人のところに来るということ、それによってキリストの高められた栄光に最初にあずかるようにするということを示唆している。これらすべてにおいて、我々が確実に言えることは、ペンテコステ派の御霊のバプテスマの教理は、第一ペテロには根拠を持たないということ、逆に、第一ペテロはこの点においてこの教理に対する我々の完全な拒絶を確証する上で、パウロに十分近いということである。

ヤコブは我々の研究に関連性を持っていない。4:5では、πνευμαは文脈が示すように人間の霊として理解するのが最良である(Dibelius266-8頁、B.S.easton,The Interpreter's Bible 12頁、[1957年版]56頁) 。ありそうにないが、ヤコブが回心者たちをκτισματα(創造)のαπαρχη(初穂)とする御言葉の新生させる力について語ったとき(1:18-Diberius136頁参照)、また、魂を救う力のあるεμφυτοσ λογοσ(植えつけられた御言葉)を受けることについて語ったとき(1:21)、御霊について考えていたということは可能である。C.L.Mitton'The Epistle of James'(1966)は、「聖霊が深く植えられた種、キリストに似た性質における豊かな実を結ばせる種として考えられている」ガラテヤ5:22と比較している(65頁)。けれども、全般的にヤコブでは、他の新約聖書記者が御霊に対して与える位置に、主に知恵の思想がついている(Buchsel464頁)。

それゆえ我々のヘブル書及び第一ペテロの研究は、我々の初期の結論を確証づける。新約聖書のキリスト教のエッセンスは、御霊を受けるという経験―御言葉を聞くことに密接に結びついている経験、終末論的力において現わされた受領である(ヘブル6:4、5、参照2:4、第一ペテロ1:12、23、4:14、ヤコブ1:18、21)。しかしヘブルと第一ペテロは新約聖書のキリスト教が全体として水のバプテスマを信仰と悔い改め(ヘブル6:2)、υπακοη(従順)とεπερωτημα(約束)(第一ペテロ1:2、22、3:21)の表現として理解しているということ、またそのきよめる働きを肉体的な体に制限しているということ(ヘブル10:22、第一ペテロ3:21)を強く確証していることにおいて最も顕著である。

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