長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

恩師奥様の葬儀

2017-10-17 21:32:02 | メッセージ

青年時代お世話になった船田幸枝先生が一昨日召天され、

母教会である京都聖徒教会で、昨日前夜式、本日告別式が

執り行われました。

昨日は教区牧師会に出席、今朝は早天祈祷会の説教ご奉仕があり、

それを終えてから、家内と合流、告別式に出席させて頂きました。

青年時代、私自身の信仰生活の中で、幸枝先生の影響は決して小さくないと、

改めて思い起こしました。

祈りの大切さ、祈りの力について、言葉だけでなく生活でも語ってくださいました。

たらたらしたことをしていると、一喝のお言葉が飛んでくるような先生でもありました。

脳裏には「アハハハ」と愉快そうに笑っておられる姿も浮かんできます。

葬儀も幸枝先生をお送りするにふさわしく(?)、少しにぎやかな葬儀でした。

「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起こしなさい。

彼らの生活の最後を見て、その信仰にならないなさい。」(ヘブル13:7)

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「大いなる光を見た」(イザヤ9:1-7、2016年12月4日、神戸聖泉教会にて)

2016-12-04 18:05:51 | メッセージ

イザヤ9章を開きました。イエス様誕生の700年以上前、預言者イザヤがメシアの誕生を預言した箇所です。今回特に2節に注目したいと思います。

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。」(イザヤ9:2)

「先行き不透明時代」と言われますが、イザヤの時代もそうでした。イスラエルの国は、周辺諸国に攻められ、大国の勢力も拡大しつつあり、暗雲垂れ込める状況でした。そのような中で、イザヤはどうして「大いなる光を見た」と言うことができたのでしょうか。

1.暗やみの現実を見ていたから

第一のことは、逆説のようですが、イザヤが暗やみの現実をしっかりと見ていたからではないでしょうか。「大丈夫じゃない?」と、気休めを言うことは簡単です。しかし、そういった言葉が説得力を持つためには、現実を見据えた言葉である必要があります。

イザヤは現実の闇の深さを知っていました。8章後半には、北イスラエル王国がやがては大国アッシリアに滅ぼされ、「見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり」(8:22)という状況が訪れることが記されます。その意味で、イザヤはこれからどんな闇が覆うようになるか、その厳しい現実を見据えた上で、そのような闇を貫き通すような形で「光を見た」と言いました。9:1に出て来る様々な地域は、アッシリアに滅ぼされる諸地域であって、そのようにして闇が覆うようになるその只中に、光が照るようになるのだ、と言いました。

しかも、イザヤは、そのような闇の背後にあるものを見抜いてもいました。神様に背く人の罪こそこのような暗黒の源であると、預言書の中でしばしば指摘しました。そこまで見ていたイザヤだからこそ、逆に説得力をもって「光を見た」と言い得たのではないでしょうか。

2.地上に現実に現われる神の救いを見ていた

第二に、イザヤが見ていた救いは、地上に現実に現われるものでした。決して絵空事でなく、神の救いのみわざが、地上の歴史の中で一人の方の誕生を通して行われると告げました。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(イザヤ9:6)

夢物語ではありません。空想話でもありません。歴史の現実の只中でのことなのだ、と言います。

数年前、イスラエルに行かせて頂く機会がありました。ガリラヤ湖畔に立って、ここで嵐が起こり、イエス様が静められたのだ、エルサレムに行っては、このところでイエス様が十字架につけられ、死なれた、収められた墓は、ここだろうか、と見させて頂きました。少年時代を過ごされたナザレの町は、小さな町ですが今でも残っています。町中を歩きながら、少年イエスはこのあたりを走り回っておられたのだろうかと、不思議な感じがしました。イエス様が赤ん坊として誕生され、成長し、この地上で30数年生きられたということは、現実のことだったという、当たり前のことを心に深く刻む時でした。

信仰の歩みをしておりましても、時に神様の愛はどこにあるのか、と言いたくなることがあります。神様の救いは確かな事なのかと、問いかけることもあるかもしれません。しかし、イエス様の生涯、十字架上での死、そして復活は、神様が起こしてくださった現実です。神様の救いは現実であり、神様の愛は、これらの歴史的事実の中に証しされています。私たちの希望の根拠はそこにあります。

3.天からの救いを見ていた

第三に、イザヤは天からの救いを見ていました。イザヤがその誕生を示したメシアはどのような方だったでしょうか。

「まつりごとはその肩にあり」(6節)、「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め…」(7節)後の時代、ユダヤ人にとってこれらの言葉は特に大切なものとなりました。大国に滅ぼされ、他国の支配下に置かれた中で、ダビデの子、民族的解放者、政治的な王としてのメシアを求めました。

しかし、よく見ると、このところに記されているのは、ここに言われている方がそれ以上の方であるということです。「その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。人を越えたお方、天からの方、永遠なる方、神ご自身です。

地上には人間ではどうすることもできない事が沢山あります。その奥底には人間の罪と死の現実が大きく横たわっています。これらの問題の根本的解決を地上にさがしても見つけることはできません。天から、神様だけに解決があります。イザヤは単なる地上的な救いではなく、天からの救いを見ていました。

4.救いの背後にある神様の思いを見ていた

第四に、これらすべてのことの背後にある神様の御思いを見ていました。「万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ9:7)千々万々の天使率いる万軍の主なる神様ですから、当然のことながら何でもおできになります。ちょっと指を動かせば宇宙さえ揺り動かすことがおできになります。そのお方が、気紛れではない、熱心をもってこれをなさるのだと言います。私たちを罪から救い、私たちに御国を与えるこの救いは、決して気紛れでのことではない、大能の神が本気を示して行われたもの。

だからこそ、神様がここに示された光は、途中でふっと消えてしまうものではない、私たちを新天新地、永遠の御国に至るまで導き入れることのできる光です。

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「迷える羊への招き」(ペテロ第一2:21-25、2015年7月12日、北大阪教会にて)

2015-07-12 17:43:34 | メッセージ

聖書中、人間と神様との関係はしばしば羊と羊飼いの関係に譬えられています。以下の箇所もまさにそのような箇所の一つです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)「魂の牧者であり、監督者である方」とは、天地を造られた神様です。神様を離れ、さまよっていた迷える羊であったあなたがたが、羊飼いである神様のところに帰ってきたのだと言います。今も神様の目には、言わば多くの迷える羊の姿が映っているのではないでしょうか。「帰って来なさい」という、迷える羊に対する神様の切々として訴えに耳を傾けましょう。

1.迷える羊

学生時代、夏目漱石の「三四郎」を読みました。主人公が出合った不思議な雰囲気を持つ女性が残した「迷える羊」という言葉が、小説全体のテーマとなります。確たるものを持ち得ず、いつも迷い、戸惑う人間の現実が描かれていました。聖書は言います。人は皆迷える羊だと。羊の幸せはどこにあるでしょうか。羊飼いのもとにあります。人間がおるべき所は、私たちの造り主なる神様のもとにあります。そこで、全能者にして愛なる神様に守られ、養われ、導かれる・・・そこに、私たちが安心して、幸せに生きる道があります。神様から離れ、さ迷ってしまっている・・・そこに人間のあらゆる問題の根源があるのだと、聖書は言います。

2.戻るための道

迷える羊に対して、神様は常に呼びかけます。「戻って来なさい」と。しかし、迷える羊は、「戻ってきなさい」と言われても戻ることができない存在でもあります。戻る道が分からなくなっている、分かったとしても、神様に背き離れて生きてきた生き方を今更変えることができないということもあるでしょう。同時に、神様に背いて生きてきた現実は、ただでは神様のもとに帰ることができないということをも意味します。そのような迷える羊のために、神様は、ご自身に戻るための道を自ら備えてくださいました。それが、御子イエス・キリストの遣わされた理由です。

実は、ペトロはここで、手紙の読者に、不当な苦しみを受けても耐え忍ぶことを勧めています。その模範としてイエス様を指し示しています(21節-23節)。神の御子が人となり、人として歩まれたお方、罪なくきよいお方、そのお方が受けるはずの理由のない、不当な苦しみを受けられます。そして、その最後には、極悪非道の犯罪者だけに与えられるはずの十字架刑に処せられます。なぜでしょうか。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです(24節)。実に、私たちのために、御子はその苦しみを担ってくださいました。その苦しみは、私や皆さん一人一人のためであったと言います。

神様を離れ、神様に背き、自分勝手に、自己中心に生きることを、聖書では「罪」と言います。そのような罪の中を生きてきた私たちの、その罪を背負い担って、死なれた・・・それがイエス様の十字架です。十字架に死なれたイエス様は、神の御子としてよみがえり、今も生きておられる救い主、主です。このお方を信じ仰ぐとき、過去の一切の罪が赦され、新しく神様のもとで生きていくことができる・・・神様はそのような道を神様の側で開いてくださいました。道を開いて下さった上で、「帰って来なさい」と招いてくださいます。

3.神様の招き

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)羊飼いから離れた羊ほどみじめな者ない、羊飼いのもとで、安心して、喜んで、生きていかないかと、神様は日々招いてくださいます。この主のもとに立ち返る者が起こされますように。

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「聖霊の大河」(エゼキエル47:1-12、2015年5月24日、知多教会にて)

2015-05-24 17:16:43 | メッセージ

ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。2千年前、イエス様の弟子達に聖霊が下った事を記念する日ですが、単なる記念日ではなく、聖霊の恵みを覚え、新しく恵みに与かる日でもあります。ペンテコステの出来事は新約聖書に記されていますが、そこから始まる聖霊の働きを預言したのが今日の聖書箇所であると言えます。エゼキエルは神殿から川が流れ出しているという幻を見ました。このところから、聖霊の働きがどういうものであるのかを見ましょう。

1.聖霊の働きの源

「見よ、水が宮の敷居の下から、東の方へ流れていた」(1節)。川は宮の敷居の下から流れ出していました。宮(神殿)は、神様を礼拝する所であり、神様がおられる所です。聖霊の働きは神様のおられる所から始まります。2千年前、御子イエス様は死から復活し、天に昇られ、神の右に座せられました。その場所から聖霊をお下しになったのがペンテコステの出来事です。聖霊は神の御座から流れ下ったと言えます。

更には、新約聖書において、イエス様を信じる私達自身が神の宮であると言われます(第一コリント3:16)。罪深い私達をイエス様はきよめてくださり、聖霊の住まわれる神の宮としてくださいます。その所から聖霊の働きが始まると言うこともできます。

ペンテコステを迎え、私達はその事を深く心に留めたいものです。私達の生活において、私達の内側からあふれる物は何でしょうか。つぶやきとか人の悪口とかいうものではなく、神への賛美、イエス様を証しする言葉であれば幸いです。

2.聖霊の働きの進展

神殿から流れ下る川の幻を見たエゼキエルは、水の流れに沿って進みました。1千キュビト(約450m)進む度に水の深さを測ってみると、1千キュビトで水はくるぶしの高さであったのが、更に1千キュビト進むと、ひざ、更に1千キュビト進んで腰の深さになり、更に1千キュビト進むと、渡り得ない程の川、泳げる程、越え得ない程の川になりました。

聖霊の働きというものは、最初小さく見えても、決して軽んじてはなりません。2千年前、小さな群れであった弟子達に聖霊くだり、教会の働き、宣教の働きが始まりましたが、その後その働きは世界中に広がり、なお進展し続けています。日本において、聖霊の働きはまだとどめられているかのように見えます。どこに聖霊の働きがあるのだろうかと思われることもあります。しかし、よくよく見ると、確かに聖霊は働いておられるのを見い出すことができます。それは、まるで小さな点のように見えるかもしれません。しかし、そのような聖霊の働きを軽んじてはなりません。そのような所から、やがて大きな聖霊の働きが始まっていくことがあります。

3.聖霊の働きの影響力

神殿から流れ下る川の先では、どんなことが起こっていたでしょうか。両岸には多くの木がありました。よどんだ海に、その川の水が流れ込むと、海の水はきよくなり、多くの魚が生きるようになりました。私達が住むこの世界は、罪と汚れに満ちています。しかし、聖霊が働き出すと、そこにきよさが生まれ、命が生まれます。

4.聖霊の働きに対する私達の決断

エゼキエルが見た幻は、栄光に満ちた素晴らしいものでしたが、最後に不思議なことが記されています。「ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る(11節)。よどんだ海に川の水が流れ込むと、水はきよまり、多くの魚が生きるようになりましたが、沢と沼がきよめられないまま残ったというのです。

2千年前のペンテコステの日以来、聖霊の働きは大きく進展してきました。世をきよめ、人々を救い、生かしてきました。しかし、すべてがきよめられたわけではなく、きよめられないままの部分が大きく残っています。聖霊の働きは素晴らしいですが、聖霊の働きを受け入れるか否かは、私達の決断によります。この朝、「神様、罪深い私の心を血潮によってきよめ、聖霊の働きの影響力中で生きる者としてください。」と祈ろうではありませんか。

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 「宣教への派遣」(マタイ28:16-20、2015年4月12日、放出教会にて)

2015-04-12 16:39:24 | メッセージ

4月は新しい出発の時期。緊張しながら日々を過ごしておられる方も多いことでしょう。しかし、少しずつ落ち着いた日々に向かっていかれることと思います。そんな中、改めて考えてみたいのは、神様が私たちに与えておられる使命についてです。

復活の主にお出会いしてまずなすべきは礼拝でしょう(28:17)。同時に、礼拝は宣教に向かいます(29:19、20)。二千年前、ガリラヤの山の上で弟子たちを宣教に遣わされた復活の主は、この日、私たちをも同じように遣わそうとしておられます。

1.宣教に遣わされるお方

復活の主は、開口一番、こう語られました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(28:18)死に打ち勝たれた主にとって、天においても、地においても、その権威が及ばない場所や領域はありません。そのようなお方に個人的にお出会いするならば、このお方を礼拝するのみならず、そのお方の御声に聞き、「私は何をなすべきでしょうか」と尋ねるのが自然であり、当然なことです。

2.宣教の範囲

 「行って、すべての国民を弟子として」(28:19)。宣教の対象はすべての国民、宣教の範囲は全世界。「宣教師」は、このことを真剣に受け止め、御声に聞いて異国に遣わされていく人々です。しかし、全世界の中には、日本も含まれます。日本の中には私たちのすぐ隣のあの人も、この人も含まれます。そのような方々にイエス様を証しするよう、私たちも主から遣わされているのです。

3.宣教の目標

 「弟子として…バプテスマを施し…いっさいのことを守るように教えよ」(28:20)。宣教の目標は、伝えるだけにとどまりません。伝えられた人々が、イエス様を信じ、弟子として生きるようになること、バプテスマを受け、イエス様の御言葉に生きるようになることまでを含みます。そうだとすれば、伝える者の生き方が変えられつつあることが大切です。未熟な所は多々あったとしても、昨日よりは今日、今日よりも明日と、イエス様によって造り変えられつつ、イエス様を証しして参りましょう。

4.派遣に伴う約束

 「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(28:20)イエス様は私たちを遣わし放しにはされません。「共にいる」とのお約束をもって遣わされます。厳しいこの社会で主を証しすることに、困難を覚えたり、弱さを覚えたりしたとしても、主が共におられるなら、私たちは使命を果たし行くことができます。 

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「ガリラヤから始まる神のみわざ」(マタ4:12-22、2015年3月1日、笹谷教会にて)

2015-03-05 20:18:28 | メッセージ

イエス様の宣教の働きはガリラヤから始まりました。ガリラヤは、都エルサレムから見ればはるか北にあり、言わば田舎です。しかし、そんな所からイエス様はお働きを始めなさいました。そこには意味があるのではないでしょうか。

特にマタイは、そのことを強調しているようです。イエス様はガリラヤで宣教を始められただけでなく、復活後再びガリラヤの山に弟子たちを呼び寄せられました。そして、そのところで弟子たちに「行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」と、大宣教命令をお与えになりました。マタイもガリラヤ出身だったからでしょうか、どうもマタイは、神様のみわざがガリラヤから始まったのだと強調しているようです。しかし、イエス様はなぜガリラヤから働きを始められたのでしょうか。そこにはいくつかの意味が見出されるようです。

1.暗やみの中でこそ光は輝く

イエス様の宣教はガリラヤから始まりました。マタイはそのことを記しながら、イザヤ書の言葉を引用します。「ゼブルンの地とナフタリの地…異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(15、16節)。イエス様がガリラヤの地で宣教を開始されたとき、それは、このようなイザヤの預言が成就したことなのだと言うのです。

当時、ガリラヤは田舎というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれました。度々異国人の侵略を受け、混血の人々も多かったようです。宗教的にも混乱していました。道徳的にも、宗教的にも闇が覆う地、そんなイメージがあったようです。そのような地にイエス様は宣教を始められました。それは、暗闇の中に光が輝く出来事であったと言います。しかし、裏返して考えるならば、光が明るく輝くことのためにイエス様はあえてこの地を選ばれたと言えないでしょうか。

昼間街灯がついていることがあります。しかし、ほとんど人々に気づかれることはありません。他方、真夜中、街が闇に閉ざされた中で街灯がついていたならばどうでしょう。暗い足元を照らす貴重な光となります。今、私たちの周りを闇が覆っていると感じるかもしれません。霊的に深い闇があるように思えるかもしれません。そうだとしても、否そうであればこそ、神様はご計画をもってみわざを進めてくださるのではないでしょうか。

2.無学なただ人を通して神様のみわざは進む

18節以降には、イエス様がガリラヤ湖畔を歩きながら、ガリラヤの漁師達を招いて弟子とされる様子が描かれています。ペテロ、アンデレ兄弟もそうですし、ゼベダイの子ヤコブとヨハネもそうでした。後に使徒とされたパウロは、パリサイ人であり、ユダヤ人の中ではエリート的な存在でした。しかし、彼らは、特に学があるわけでもない、ただの漁師たち。そんな彼らの中からまず弟子集団が作られました。不思議と言えば不思議です。しかし、後に、彼らがエルサレムで聖霊を受け、人々に大胆にイエス様を証したとき、人々は驚いて言いました。「無学な普通の人ではないか」。彼らがイエス様と一緒にいた人々だと分かったとき、人々の目は彼らを越えてイエス様に向けられることになりました。

後に、パウロはコリント教会宛の手紙に書きました。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者たちは多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第一コリ1:26-28)。

私たちはしばしば、「神様用いられるために、自分にはあれが足りない、これが足りない」と考えやすいです。しかし、むしろ人間的に足りないところ多い者を神様はあえて用いられることがあります。そこに栄光の光が輝くことがあります。神様のみわざのそのような側面を覚える必要があります。

3.イエス様は人々を遠くからでも引き寄せられる

23節以降には、イエス様の宣教の働きがガリラヤ地方一帯広まる様子が描かれています。その影響はガリラヤ地方だけにとどまらず、「こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った」(25節)と言います。ガリラヤのような田舎で働き始めてどんな働きができるかと私たちは考えます。しかし、「イエス様の教えはすばらしいそうだ」、「どんな病気も癒すそうだ」、そんな噂がたちまち広がり、遠くからも人々が押し寄せたのです。

もちろん私たちはイエス様ではありませんから、高邁な教えを語ることができないかもしれません。癒しの奇蹟が度々現わされるということもないかもしれません。しかし、無学なただ人であるガリラヤの漁師たちが、聖霊に満たされ、日々イエス様共に歩んでいた者たちであることが注目されたとき、人々は感じ取ったのではないでしょうか。「ここに希望の光がある、ここに求めるべきものがある」と。

今この時代、神様がみわざを始めようとしておられるガリラヤの地はどこでしょうか。私たちの思いを越えて働かれる神様を覚えましょう。そして、小さな私たちであったとしてもが、その存在が人々に希望の光を与えるものとなりますように。

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「必要なことはただ一つ」(ルカ10:38-42、2015年1月11日、東播磨中央教会にて)

2015-01-11 16:40:43 | メッセージ

有名な姉妹マルタマリアのお話です。聖書に親しんでおられたら、一読してまざまざと光景を思い浮かべることのできる方も多いのではないでしょうか。今日はこの所から私たちの信仰生活において忘れてはならないことをご一緒に考えたいと思います。

1.マルタの姿

まず、私達の目をマルタの様子に向けてみたいと思います。彼女は、イエス様を家にお迎えしました。敬愛します先生をお迎えし、自慢の腕によりをかけて沢山ご馳走をお出ししましょうと、メニューを考え、あれこれと忙しく準備していました。ふと見ると妹のマリアがイエス様の前に座り込んでお話を聞いています。マルタは思わずイラっとしてしまいます。そして、イエス様に訴えます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)。「忙しくしている自分を横目に、自分だけ何をしているの」という思いでした。

ところが、イエス様は「そうだよね」とは仰いませんでした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)と仰いました。これは、マルタの急所を突くお言葉でした。マルタが自分でも気づかない自分自身の姿をズバっと示されるお言葉でした。

このようなことは私たちにも起こり得ることではないでしょうか。「今年こそ心穏やかに」と願いつつ、自分だけあたふたとしている横でのんびりされたりすると、ついイラッとなったりします。有能な人ほど、色々な必要が目に見えて、あれこれ動き回るのですが、そういうことに無頓着な人に我慢できない、といったことも起こり得ます。

パウロは言いました。「(愛は)いらだたず」と(コリント一13:5)。また、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と(コロサイ3:14)。多くのことに思い悩み、信仰者として持つべき心の平安をつい失ってしまう…マルタの姿に私たちが陥りやすい姿を見ます。

2.マリアの姿

次にマリアの姿に目を留めることができます。「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)。彼女は、イエス様が語られるお言葉を一つも聞き漏らすまいと耳を傾けていました。このマリアの姿勢を主はよしとされました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)

ここに、対照的な二人の姿があります。片やマルタは多くの事に思い悩み、心乱しています。他方のマリアは、心をただ一つの事に集中していました。「それは彼女にとって必要なことだから、取り上げてはいけない」と仰いました。

イエス様の御声を聞くこと…それは、ただマリアにとって必要なだけではありません。マルタにとっても、あるいはすべての人にとっても必要なことでした。しかも「必要なことはただ一つ」とさえ言われます。イエス様の御言葉に耳傾ける事は、それなければ本当の意味で価値ある生き方ができないというほど、大切で、必要なただ一つの事だと仰いました。マリアはそのことに心を集中させていたのでした。

3.主がマルタに伝えたかたったこと

マルタとマリアの姿を見てきました。しかし、今回この箇所を読んで改めて気づいたのは、このエピソードがイエス様からマルタへのお言葉で終わっていることです。私達の目はマルタの姿を見、マリアの姿を見ます。しかし、そこで終わるのではいけないのかもしれません。イエス様はマリアの姿を示しながら、マルタに何かを教えたかったのではないでしょうか。

「必要なことはただ一つ」と仰いました。これは、マリアにとってだけではなく、マルタにとってもそうだと言うのでした。そうかと言って、ここでマルタに対して、「奉仕をやめよ」とも仰っていません。そうではなく、「あなたの心と生活の真ん中にどうしても必要なただ一つの事をしっかりと据えなさい。あなたの奉仕を、私との関係に根差したものとしなさい。」ということではないでしょうか。

年頭に当たり、皆さんの心はどうでしょうか。必要なただ一つの事に集中させて頂き、キリストの平和の中にご一緒に歩んで参りましょう。

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「万軍の主の熱心が」(イザヤ9:1-7、2014年12月14日、西大和キリスト教会にて)

2014-12-31 14:47:53 | メッセージ

特に、7節終りに心に留まっています。「万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」

「悟り世代」ということを聞きました。1980年代半ば以降生まれた世代をさすそうです。この世代は、バブル崩壊後不況経済しか知らないためか、欲がなくほどほどで満足するそうです。また、無駄な努力や衝突を避ける、過度に期待したり夢を持ったりしない、そんな特徴をもったのがこの世代だそうです。そんな世代のことを聞きながら、若い人たちに限らず、教会の中にもそんな風潮が入り込んではいないだろうか、私自身どうだろうかと問われます。

アドベントのこの時期、主の熱心ということをご一緒に覚えたいと思います。

1.主の熱心によるご計画

「万軍の主の熱心がこれをなされる」とあります。何をなされるのでしょうか。大きく言えば、とこしえの御国を立てるという偉大なご計画の成就と言えるでしょう。当時、イスラエルの国を巡る状況は不安定でした。大国や周辺諸国が押し迫っていました。国はどうなるのかという不安がありました。国の外側だけではなく、内側にも不正や不信仰が満ちていました。そんな中で、ダビデの位に座する君が現われ、「その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」と語られました(7節)。永遠の御国を立てると言われました。

神様が熱心をもって立てようとされるとこしえの国とはどんな国でしょうか。

第一に、光に満ちた国です。「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる」(1節)、「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」(2節)。当時、国の状況は闇で覆われていました。そんな中、光が照ると言われました。

第二に、平和の国です。当時、地は争いに満ちていました。しかし、「戦場で、歩兵のはいたくつと、地にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる」(5節)と語られました。更に、国を治めるお方は「平和の君」と呼ばれると言われました(6節)。

第三に、公平と正義の国です。当時、罪悪、不義、不正が満ちていました。しかし、その国は「公平と正義」によって治められる国でした(7節)。

光と平和、公平と正義に満ちたとこしえの国が立てられ、保たれる。そのすべては万軍の主の熱心によって成し遂げられると言うのでした。これは、私達に大きな励ましを与えるのではないでしょうか。今、私たちの周りには、当時のイスラエルに似た状況があります。闇があり、争い、不義、不正があります。万軍の主が働いて下さらなければ望みを持つことができない状況でしょう。しかし、主は熱心をもって、この時代にも光と平和、公平と正義に満ちた国を打ち立ててくださる…これは励ましです。

2.主の熱心によるご計画の焦点

このような主のご計画の焦点は、ひとりの男の子の誕生だと言います。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(6節)

続いて「まつりごとはその肩にあり」とあります。とこしえに揺らがない御国の統治を担うのは、ひとりのみどりご、ひとりの男の子だと言うのです。この時期、諸教会では聖誕劇が行なわれます。そこでは、不思議な光景が見られます。一人の赤ん坊の前に、人々が来て、宝物をささげたり、礼拝をしたりします。「まつりごとはその肩にあり」、この赤ん坊こそはとこしえの御国を打ち立てるお方だと言うのです。

更に驚かされることに、聖書全体を通して教えられるのは、この赤ん坊こそ神の独り子であり、神と等しいご本質をお持ちのお方であり、そのお方が栄光ある姿を捨てて赤ん坊としてお生まれになったのであるということです。「言は肉体となり、私たちのうちに宿った」(ヨハネ1章14節)。天地を造られたお方が罪悪に満ちた地に入り込んでくださり、人として生きてくださった。それどころか私たちの醜悪な罪悪贖い、むごい死を遂げてくださった。更には、死に打ち勝ち、三日目に復活し、御国に入る道開いてくださった…神様だけがお考えになることできることばかりです。

「万軍の主の熱心がこれをなされる」。クリスマスは神様の愛が現われた日と言われますが、その愛は決してセンチメンタルなものではありません。あなた達のためどんな犠牲を払ってもよいという、決然とした思いがそこには表わされています。

3.主のご熱心をどう受け止めるか

このような主のご熱心を私たちはどう受け止めたらよいでしょうか。

第一に、自分自身のためのご熱心であると受け止めることです。他人事ではありません。闇は私たちの外にあるだけではありません。内にもあります。闇を抱えた私自身のためのご熱心です。内なる罪を悔い改め、赦しと潔めを頂きましょう。私たち自身がまず、光の国、義と平和の国に生きる者とならせて頂きましょう。

第二に、主の熱心を私たちの熱心ともさせて頂きましょう。御国建設の戦いを担わせて頂きましょう。闇は深いのです。決して容易い事業ではありません。しかし、万軍の主は熱心をもって今も働いておられます。私たちもまた同じ熱心をもって働きたいものです。主のご熱心を内に注いでいただきながら。

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「我らの戦い―勝利の秘訣」(出エジプト17章8~16節、2014年11月9日、放出教会にて)

2014-12-31 13:40:49 | メッセージ

エジプトを出、荒野の旅を続ける中で、民の中には弱る者も出てきました。そのような時、攻めてきたのがアマレク人でした(申命記25章18節)。困難と見える彼らの戦いに勝利をもたらしたのは何だったでしょうか。

1.祈り

モーセはヨシュアを戦いのリーダーに立て、人々を戦いに遣わしました。しかし、モーセ自身は丘の上に向かいました。彼は、杖を手に取り、両手を上げて神に祈りました。彼の手が上げられている間イスラエルが勝ち、手が下がるとアマレクが勝ちました。彼らの戦いの勝利は、平地での実際の戦いの場ではなく、丘の上でもたらされました。我らの戦いにおいても、祈りの手が上げられているかどうかが勝敗の鍵です。

2.一致協力

勝利の背景には、人々の一致協力があったことも見逃せません。モーセの祈りを背後に受け、実際に困難な戦いを戦ったヨシュアたちがいました。また、モーセの手が重くなったとき、両側からその手を支えたアロンとホルがいました。手足を動かす者、指導者の祈りを支える者、様々な人々の一致と協力によって勝利がもたらされます。

3.神様ご自身

祈るモーセ、戦うヨシュアたち、モーセを支えるアロンとホル。しかし、究極的な勝利の源は神様ご自身でした。勝利の後、モーセは祭壇を築き、その名を「主はわが旗(アドナイ・ニシ)」と呼びました。勝利において常に栄光を神様に帰することは大切です。我らの勝利の源は、神様ご自身にあるからです。

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「過ぎ越しの恵み」(出エジプト12章1~14節、2014年10月26日、放出教会にて)

2014-12-31 13:38:02 | メッセージ

イスラエルの民にとって、過ぎ越しの祭りは大変大切な祭りです。神様は、この祭りによって、「過ぎ越しの恵み」というものがあることを示しておられます。

1.過ぎ越しの恵みの背景

この恵みの背景には、あらゆる罪の審判者なる偉大な神様のご存在があります。イスラエルの民を絶対的権力で支配し、苦しめていたエジプトの王と民は、次々に起こる十の災いによって屈服せざるを得ませんでした。このことは無慈悲なエジプト王と、彼らが拝んでいた偽りの神々に対する神様の審判でもありました(12節)。どんなに地上で強大な力を誇示するものであっても、創造者なる神様の前には、裁かれるべき存在です。

2.過ぎ越しの恵みの根拠

十の災いは、エジプトの民の上にだけくだり、イスラエルの民にはくだりませんでした。しかし、その根拠は、民の中にではなく、「血」にありました。小羊の血が家の入口の二つの柱とかもいに塗られなければなりませんでした。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越す」(13節)。「わたしたちの過越の小羊であるキリストはほふられたのだ」(Ⅰコリント5:7)。ここにこそ過ぎ越しの恵みの根拠があります。

3.過ぎ越しの恵みの確認

イスラエルの民は、年に一度この祭りを祝い、神が過ぎ越してくださった恵みを覚えます(14節)。同じことをイエス様は私たちにも命じておられます。それが聖餐式です。何度も何度も、私たちがこの恵みを思い起こし、この恵み以外に私たちが御前に立ち得る根拠のないことを確認するためです。

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