長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  18.神と共に生きる

2020-03-31 21:13:48 | 信仰への招き

キリスト者のあり方について確認してきましたが、その中核にあるものを表現するとすれば、「神と共に生きる」と表現できるでしょう。福音が回復を与えたのは、人が神と共にあるということでした。

人が神のかたちに造られたということは、神との人格的な関わりを持つことのできる存在として造られたことを意味しました。しかし、彼らが罪を犯したとき、肉体の死よりも先に訪れたのは、神との交わりの破壊でした。「人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:9)神の御顔を仰ぎながら生きるように造られたはずなのに、そのとき彼らは、神の呼びかけに身を隠すことしかできませんでした。その後、人類救済の神のご計画において、神が人と共にあり、人が神と共にあること、人が神の御顔を仰ぎつつ生きることの回復は大きなテーマとなりました。

信仰の父と呼ばれたアブラハムは、子孫を増すこと、カナンの地を受けつぐことを神から約束されましたが、その契約は「わたしの(顔の)前に歩み、全き者であれ」との召しとセットになっていました(創世記17:1)。また、イスラエルと呼ばれるようになったアブラハムの孫ヤコブは、カナンと地を一時離れようとする際に、神が共におられることを知り、その地をベテル(神の家)と名づけます(創世記28:19)。やがて多くの年月を経て約束の地に戻ろうとするとき、神の顔を見るような経験をし、その地をペニエル(神の顔)と名づけます。

イスラエルの子孫はその後エジプトで広がり、出エジプトの出来事を通して神の民としての歩みを始めようとします。その旅路は、神の臨在を表す「雲の柱」「火の柱」が伴うものでした(出エジプト13:23)。彼らが神の民として守るべき律法を与えられた直後、その戒めを破ったとき、神は「あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらない」と言われます(出エジプト33:4)。民はそれを「悪い知らせ」として聞き、憂えます。モーセの必死のとりなしの内に、「わたし自身(私の顔)が一緒に行く」との神の言葉を受け(出エジプト33:14)、神は再び律法に基づく契約を再更新し、雲の柱、火の柱に導かれての旅が再び始まります。

同時に神は、イスラエルの民に幕屋を作らせます。幕屋の奥には律法を書き記したあかしの板が納められた契約の箱が置かれ、その所で神はモーセと会い、語ると言われます(出エジプト25:22)。幕屋完成後は、雲の柱火の柱は幕屋と共にあり、幕屋と移動することになります(出エジプト40:34-38)。

やがてイスラエルの民が約束の地に定住し、王が立てられるようになると、幕屋に替わって神殿が建てられます。ソロモン王が神殿を完成させたとき、神の栄光が神殿に満ち、ソロモンは神に祈ります。「わたしはあなたのために高き家、とこしえのみすまいを建てた」と(列王上8:13)。

しかし、神の臨在の祝福は、彼らが律法を守ることを条件として与えられました。彼らが罪に罪を重ね、悔い改めることもしなくなるにつれ、神の臨在の祝福は遠ざかり、やがては神の臨在の場として定められた神殿さえ、敵国に滅ぼされ、異国の地での生活を余儀なくされます(歴代志下36:17-20)。

約束の期間が過ぎ、民がパレスチナの地に戻ってきたとき、まず取り組んだのは神殿の再建でした(エズラ1:3)。しかし、帰還した民の中にも繰り返し律法違反が起こりました。神の臨在の祝福が安定して与えられるためには、民の内的変革が必要でした。

預言者達はやがての時、神がそのような恵みを与えてくださるとの約束を告げました。預言者エレミヤはそれを「新しい契約」と呼びました。「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。」(エレミヤ31:33、34)

時至り、イエス・キリストが誕生します。マタイはそのの誕生の次第を書き記すに当たり、イザヤ7:14を引用し、約束のメシヤが「神われらと共にいます」ということをもたらす方であると示唆します(マタイ1:23)。他方、使徒ヨハネはキリストの誕生をいわゆる受肉降誕の出来事として表現します。その際の表現は次の通りです。「そして言(受肉前のキリストを彼はこのように表現します)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」(ヨハネ1:14)「宿った」と訳される言葉は、直訳的には「幕屋を張った」と訳されます。このお方の内に神の栄光が表され、神をあらわすお方となることが告げられます。

これまでに見てきたように、主イエスは神を父と呼び、弟子達にも父としての神を教えられました。そこでは、遠くにおられる神でなく、私たちを顧み、愛し、近寄ってくださる神のイメージが伝えられます。有名な山上の説教においても、「天にいますわれらの父よ」との呼びかけで始める祈りを教え、私たちが食べるもの、着るものを備えてくださる神を信頼すること、求めるならば与えてくださる神であることを教えられました(マタイ6:9、25-34、7-10)。

主イエスは私たちに近づいてくださる父なる神を教えると共に、イエスご自身が信じる者たちと共にあることを教えられました。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)復活後、弟子たちに語られたのも同様でした。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあながたと共にいるのである。」(マタイ28:20)

更に主イエスは、やがてご自分が肉体においては弟子たちを離れる時が来ることを示しながら、彼らと伴う方を送るとの約束を与えました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」(ヨハネ14:16、17)

使徒行伝は、主イエスの復活後、祈り待ち望む弟子たちに聖霊がくだり、彼らは聖霊に満たされて主イエスの証人としての働きを展開する様子を描きます。彼らの宣教は、聖霊に助けられ、導かれての働きでした(使徒4:31、6:10、8:39、10:19、20、13:2、15:28、20:22)。それと共に、彼らが語った福音は、「聖霊を受ける」ということを含むものであり(使徒2:38)、実際信じる者たちが聖霊を受ける様子が描かれています(使徒8:17、10:44、11:15、19:6)。

使徒パウロは、信仰者をキリストに結びついたもの(ローマ6:5)、キリストを着た者(ガラテヤ3:27)として描いています。「キリスト(主)にあって」といったパウロに特徴的な表現は、このような信仰者とキリストとの結びつきを表現したものと言えます。(パウロ書簡に130回。)その点では「キリストと共に」という表現も重要です(ローマ6:4、6、8等)。

更にパウロは、信仰者が御霊を受けた者として描きます(ローマ8:15、第一コリント2:12、ガラテヤ3:2)。特に注目すべき表現として、パウロは信仰者を「聖霊の宮」と言います(第一コリント6:19)。さらにパウロはエペソ教会に信仰者たちに対して、彼らが「聖なる宮に成長し」、「霊なる神のすまいとなる」と言います。(エペソ2:21-22)御霊は神の子としての生き方を生み出し、助けます(ローマ8:15、16、26、ガラテヤ4:6)。また、罪の力から解放されて、きよい生活をするためにも聖霊の働きが大きな役割を果たします(ローマ8:4、ガラテヤ5:16-22)。従って、力強い信仰者としての歩みのために、御霊に満たされていることが勧められます(エペソ5:18、19)聖霊は信仰者の神と共にある生き方を生み出し、支え、現実化する働きをすると言えそうです。

信仰者の歩みは、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊と共にある生活であると言えます。信仰者にはこのことを自覚すること、またこのことが常に保たれているよう注意を払うことが求められます。

ヨハネは黙示録の最後に、世の終り、古い天と地が消え去り、新しい天と地があらわれるときの状況を様々に描きますが、その中心にあるのは、次のことであると言えるでしょう。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして…」(黙示録21:3)

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