長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

19章 その2

2015-07-04 08:45:59 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


[著者は最終章最後の部分で、本書の要約的結論を述べると共に、残された課題も提示します。]

要するに、始まりにおいて、バプテスマを受けていないクリスチャンはなかったが、バプテスマを受けているものすべてがそのこと自体でクリスチャンだというのではなかった。御霊を持たないクリスチャンはない。というのは、御霊を持つ(受けた)者たちだけがそのこと自体でクリスチャンであるからだ。この点における新約聖書の教えはエピグラム的に以下のように表現されうる。

信仰はその表現としてバプテスマを要求する。
バプテスマはその妥当性のために信仰を要求する。
御霊の賜物はその条件として信仰を前提とする。
信仰は御霊の賜物によってのみ純粋であると示される。

全体としてのキリスト教にとってこの結論の重要性は根源的な問いがなされる時代にあって低く評価されてるべきではない。この時代、多くのクリスチャンは聖書や伝統、また自分達自身の内を探求し、すべての付着物や本質的でないものをはぎ取ったクリスチャン信仰の根、あるいは生きた心臓を把握しようとする。この時代、増大する頻度で、またとくにクリスチャンたち自身によって、問いがなされている。クリスチャンとは何か。クリスチャンを区別する証明は何か。我々の研究はこの問いに対する新約聖書の答えをいくらかの正確さで我々に与える。自分自身をよみがえられた主なるイエスにコミットすることによって聖霊お賜物を受けた人、そしてイエスに従って生きる人がクリスチャンであると。

もしこれが新約聖書のキリスト教の正確な評価であるとすれば、また、使徒の伝統と教えが今日の我々にとって何らかの規範的重要性を持っているとすれば、それは今度は教派レベルでも超教派レベルでも今日のキリスト教にとって大きく重要ないくつかの他の問いを不可避的にもたらす。たとえば、回心―入信式についての現代神学は適切か。教会は御霊、信仰、バプテスマそれぞれの役割を本当に理解しているのか。あるいは色々なリタージーや入信行為においてそれらのものに教会は適切な表現を与えているのか。幼児洗礼は今日行き渡っている先行的恵みの議論によってなおも正当化されるのか。現代の伝道は御霊の約束を十分明瞭に提示してきたのか。それらに答えることは今回の研究の視野を越えているので、そのような問いは尋ねられ得るだけである。

しかし、我々の結論がもたらす更に基本的な問いがある。その問いは、これらの他の問いが十分扱われる以前に答えられなければならないものである。御霊の賜物が人をクリスチャンにするのであれば、彼が御霊を受けたのかどうか、またいつ受けたのかを、本人や他の人々はどのようにして知るのか?御霊はどのようにしてその到来と臨在を表わすのか。ある会衆やある状況において御霊が働いているということの示唆は何かあるのか?クリスチャンの生涯と活動のすべてのポイントにおいて、これらは明らかに第一の重要性を持つ問いである。私がペンテコステ派に行ったことがないだけであると考えられることのないように、これらの問いに関して付け加えさせてもらいたいのは、異言を含む霊的賜物についてのペンテコステ派の教えはやはりバランスを欠いているのではあるが、一般に認められているよりもずっと健全に新約聖書に基づいている。しかし、今ここでは、これらの問題の適切さを指摘することができるのみである。なぜなら、御霊の現われを議論することはそれ自体重要課題であるからである。御心であれば、ふさわしい課題でこの課題に取り組みたいと思う。それは、今回の研究の必要な続編であるから。

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