長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

川本伝道60年記念礼拝

2016-10-24 17:57:03 | 栄一便り

川本伝道60年記念礼拝に参加、説教のご奉仕をさせて頂きました。

川本教会は、神学校卒業後、最初に遣わされた初陣の地。

懐かしい皆様と共に、神様を見上げる礼拝のひと時。

午後は、感謝会で、お証しあり、賛美演奏あり、感謝と喜びにあふれた時でした。

(写真は、昼食後、感謝会前の談笑のひと時。)

20年以上前にタイムスリップしたような感覚と共に、

その頃信仰を持たれた方々が立派に教会員として育っておられる姿を見聞きし、

それぞれの地で主に育てられてきた20年でもあることを思いました。

JR三江線の廃止が決まったとお聞きし、地方の現実を肌で感じもしました。

私自身の奉仕は拙いものでしたが、地方にあって、神様を仰ぎつつ、

信仰に励んでおられる皆様に少しでも励ましとなればと、

心を込めて語らせて頂きました。

続いての祝福をお祈りしつつ、帰ってきました。

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文化祭

2016-10-24 06:55:50 | 瞳便り

一昨日、瞳の中学校で文化祭がありました。

瞳は、午前、午後と、2学年代表のクラス合唱の自由曲伴奏。

何とかつっかえずに最後まで弾けたようです。ご苦労さん!

展示では、本の帯制作では三浦綾子さんの本。(写真)

英語での人物紹介ではイエス・キリスト。

英語の文法が滅茶苦茶でしたが・・・。

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音楽コンクール

2016-10-18 18:40:15 | 瞳便り

瞳の中学校で音楽コンクールが行なわれました。

瞳は自由曲の伴奏担当で、夏休み前からそれなりに準備をしてきていましたが、

昨日の練習の様子を見ていると、幾分不安。親も少々緊張しながらの参加でした。

貞美は教区の牧師夫人研修会に参加のため、私だけでの参加。

2年生5クラスの内、瞳のクラス2組の演奏は最後。

初めの4クラスが演奏を終えた時点で、5組の演奏が比較的よく、音楽としても楽しめました。

「優勝は5組?」

いよいよ2組の演奏が始まると、ビデオ撮影に集中。

そのため演奏の具合はよく分かりませんでしたが、「まあまあ?2位くらい?」

瞳も大きな失敗なく、無事務めを果たせたようでした。

結果発表・・・「2位5組、1位2組」!

優勝してしまったため、今週末の文化祭では、他の学年優勝クラスと共に演奏しなくてはならないようです。

ご苦労さん!

 

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CS遠足

2016-10-15 15:57:30 | 教会便り

今日は教会学校の遠足。絶好の遠足日和で、気持ちよく、楽しく過ごしました。

王子動物園は、神戸市民が最も親しんでいる動物園かと思いますが、

今回参加した長田家三人は初めて。

(いつものように部活で不参加の瞳は、幼稚園の時参加。)

ゾウ、トラ、キリン、ゴリラ、パンダ、ペンギンその他、見応え十分でしたが、

中でも今回の一番人気は手長ザル(恵談)。忍者のように木と木の間を飛び回る様に、

しばらく見入ってしまいました。

(写真はその時のもの、サルが写っていないのが残念。)

おなじみのメンバーが、大きい子も小さい子も仲良く一日を過ごせたのが感謝でした。

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第8章 神により新しくされた人間性

2016-10-11 20:16:44 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第8章 神により新しくされた人間性


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)

一方でパウロは、キリストにあって新しくされた人間性は、純粋なものであって、異教を特徴づける、破砕され、貶められた人間性とは明らかに対照的であると信じていた。他方で、彼は、キリストにあって新しくされた人間性は、イスラエルの召しの成就であって、不信仰のイスラエルが達し得なかったものであると信じていた。

キリストにある人間性の更新についてのパウロのビジョンは、単に一時限的な倫理ではないことを示したい。それは、単に「救われ」そして、「振る舞い方を学ぶ」という問題ではない。それは複合的に織り込まれたビジョンであって、様々な特別のニーズに合うように一緒に編まれ、神が彼の内に鼓舞した(と彼は主張する)全エネルギーによって促進された。

○新しくされた人間性の中心:礼拝

純粋な人間性についてのパウロのビジョンの中心にあるのは、ひとりの真の神に対する真の礼拝である。

第一テサロニケ1:9で、彼はテサロニケの人々に最初に福音を語った時起こったことを描いている。「あなたがたは偶像から立ち返り、生ける真の神を礼拝するに至った。」彼は異教世界を偶像礼拝によって特徴づけられると見ている。彼が切望するのは、これが真の神への礼拝で置き換えられることである。

ガラテヤ4:1-11では、真の礼拝へのパウロの招きの二重の論点がある。真の神礼拝は真実であり、そのリアリティに対して、異教の偶像礼拝はパロディであるということはパウロは前提と考える。しかし、驚くべきことに、そしておそらく怖いことには、この視点からは、不信仰のユダヤ教自体、異教への妥協であると示されことを我々は発見する。割礼を行うことは実際上、諸霊と諸力に屈服することである。

第一コリント8:1-6でパウロは再び異教主義に反対する高い根拠を主張する。(シェマを引用しつつ、その中にイエスを置いていることについては4章も参照。)しかし、一人の神への高いユダヤ教礼拝を調べてみると、それはイエスの顔に神を認められない、あるいは認めようとしないユダヤ教に対するチャレンジを含んでいることが分かる。

ローマ1:18から始まる長い節全体のポイントは、異邦人が偶像礼拝者であり、それゆえ彼らの人間性が自滅しているということである。これに対して、真に神を礼拝している神の民であると主張するであろう普通のユダヤ人たちに対して、パウロは2:17-24で答えている。ユダヤ人の誇りはよしとされ得ない。なぜなら、イスラエルはなお捕囚下にあり、他の人々の問題を深いレベルで共有していることを示すのろいのもとにあるから。それでは解答は何か。神は新しい共同体を召された(2:25-29)。そこでは割礼も無割礼も無関係であって、大切なのは、その人が「ユダヤ人」であるかどうかである(2:29、パウロは「真のユダヤ人」とさえ言っていない。)。ローマ4章におけるアブラハムと彼の信仰の描写が、ローマ1章におけるアダム的人間性の描写とその偶像礼拝を明確に反転させていることに注目することができよう。

○新しくされた人間性のゴール:復活

真の人間性への道が真の礼拝だとすれば、神によって新しくされた人間性の目的及びゴールは、もちろん復活である。第一コリント15章、ローマ8章、コロサイ3章、第二コリント4,5章、ピリピ3章の終りが基本的テキストとなる。

異教主義は、将来に何を望むことができるかについてかなり不明瞭である。復活は将来の命のリアリティであり、異教主義が提供するのはそのパロディに過ぎない。復活は単なる蘇生ではなく、変貌であり、原罪の物質的様式を新しい様式に変えることであり、イエスはご自身の復活の体においてその唯一の原型である。

復活の教理においてパウロは二つの反対の危険を避けている。創造された秩序の神格化と、創造された秩序の二元論的拒絶である。

同時に、パウロの復活への解説は、彼の時代のユダヤ教信仰への明らかな代替を提供している。もはや異邦人は真の敵ではなく、罪と死が敵であって、神はドラマの最後の偉大な行為においてそれを滅ぼされるであろう。

パリサイ人として彼は、今我々は、異教徒を打ち負かし、イスラエルを解放する、歴史のおいて偉大な神のみわざの前の最後の時代に生きていると言ったことであろう。しかし、クリスチャンとしてパウロは、我々は罪と死を打ち負かし、全宇宙を解放する、歴史において偉大な神のみわざの後の最初の時代に生きていると言った。そして付け加えるであろう。キリストにおいて始まったことの完成をもたらす神の偉大なみわざの前に終りの日があると。しかし、初めの言述がより重要である。

(パウロが予期した偉大な激変の出来事についての議論省略。)

○新しくされた人間性の変容:ホーリネス

この新しくされた人間性の始まりと終わりとの間には何が起こるのか。パウロの基本的答えは、変容がそこかしこで始まるというものである。古典的なテキストはもちろん、ローマ12:1-2である。ここでは礼拝とホーリネスとが結合されている。再び、ローマ1:18-32は明らかに反転させられている。

彼のビジョンは異教主義への明らかな代替である。パウロは人間性についてのユダヤ教的ビジョン、すなわち、知恵とホーリネスによって特徴づけられた人間性の成就を提供している。

ホーリネスは複雑で難しいトピックである。パウロはホーリネスをオプションのエキストラ、すなわち他の者たちが半異教主義にとどまることがゆるされる一方で、あるクリスチャンたちだけが召されるような何かとは見ない。同時に彼は現実主義者である。ある注解者が考えるように、パウロはクリスチャンが聖霊のバプテスマや聖霊の内住、その他何であれ、常に100%きよい生活ができるとは考えていない。彼にとっては、新しくされた人間性の生涯は、「今や」と「未だ」の緊張関係の中で保たれる。(第一コリント、コロサイ3章、ピリピ3:12-14)

特にパウロは、パリサイ人として彼が熱心に従っていたようにユダヤ教のトーラーに従うことによっては所持され得ないと考えている。クリスチャンホーリネスの彼の説明に組み込まれているのは、トーラーに対する強い批判である。すなわち、トーラーは、自ら差し出すきよい生活を与えることができない。

ローマ7章でもガラテヤ5章でも、パウロはイスラエルを肉にあり、アダムにある者として描いていると私は示したい。それ故、イスラエルがトーラーを抱く時、それがなしうるのはイスラエルを罪に定めることだけである。まず、ローマ7章を取り上げよう。ここでパウロは自伝的工夫として「私は」を用いる。彼が描く窮状は、熱心なパリサイ人としてそうであったところのものである。イスラエルのアダム的人間性がキリストにあって取り扱われる時―それは、イエスの死と復活において、バプテスマにおいてそれらの出来事とクリスチャンが一体化することにおいて起こるのであるが―初めて、「命の御霊の法則があなたがたを罪と死との法則から解放する」ことができる(ローマ8:2)。

ガラテヤ5章においては、ガラテヤ人たちは古い異教からできるだけ遠ざかろうとしてトーラーを熱心に抱いている事実に直面する。彼らは以前の異教的偶像や不道徳をありのままに見て、真の人間性、ホーリネスと礼拝の道に進もうと決心している。「そそのかす者たち」は、彼らがこの目的をトーラーを抱くことによって達成できると語りかける。そうではない、とパウロは言う。もしあなたがたがそうするなら、あなたがたは自分たちを古い人間性、肉に縛り付けるものを強調することになるだけであろう。トーラーを抱く徴が割礼であるという事実は、このポイントをより明確にする。もしトーラに固執するなら、あなたがたはかえって自分達を異教主義のレベルにまで戻す。もしあなたがたが純粋なものを欲するのであれば、御霊によって歩かなければならない。

パウロの著述を通して、純粋なホーリネスはキリストと共に死によみがえるという用語の中に見い出される。このテーマは、第二コリントにこれ以上なく明確に表現されている。そこでパウロは、大きな痛みと悲しみを描き出す(第二コリント6:4-10)。純粋な人間性は安易にはやって来ない。

○新しくされた人間性の結合力:愛

純粋な人間性の破砕は、個人の内で起こるだけでなく、人類の一部が自分自身を他の部分と対立的に定義する時にも起こる。パウロにとって、このことは単にプライドと怖れにある人間の働きであるだけではなく、世界を切り分ける諸霊と諸力の働きの結果でもある。そして、パウロにとって、これらはキリストにあって打ち負かされている。それがもはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、すべての者がキリスト・イエスにあって一つである理由である(ガラテヤ3:28)。それ故、この点において、新しくされた人間性の中心的特徴は愛である。

決定的な点は、教会が一つの家族として機能するべきであり、そこではすべてのメンバーが同等のメンバーであるということである。そのような共同体の存在がまさに諸霊と諸力に対して、彼らの時が終わったことを示すものとなる。それがエペソ人への手紙の中で絶頂のステートメントを見い出す理由である。福音の目的は、「教会を通して神の何重もの知恵が天の場所にある諸力と諸霊に対して知られる」ということである(エペソ3:10)。愛の共同体の存在がまさに神の霊が働いているとパウロに告げる決定的証拠である(コロサイ1:8)。

明らかにそのような共同体の存在と養いとが異教世界に対してイエス・キリストの福音が自ら主張する通りのものであるということを示すものである。それが第一コリントを書く時、パウロが議論を少しずつ積み上げ、遂に13章に達する理由である。パウロがすべてのトピックについて語ってきたすべてのことは、結局、アガペーへのアピールである。異教主義は、常にそれをめざそうとするが、なしうることは人格的カルトや党派争い、けばけばしいエロティシズムへの堕落でしかない。

しかし、再びアガペーのこのような生き方は、パリサイ的ユダヤ教に対する内側からの批判としても役立つ。ユダヤ人プラス異邦人のキリストにある統一的家族への彼のアピールは、キリスト教をユダヤ教の一派とするすべての試みを遮断するものである。もし教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンに分かれ、おそらくはある異邦人クリスチャンが割礼を受けることによりユダヤ人クリスチャンに加わるようなことがあれば、これは諸霊と諸力がなお世界を支配していることを意味する。

ローマ4章、ガラテヤ3、4章で、彼はこのユダヤ人プラス異邦人の信仰の家族の到来は、一人の真の神が、アブラハムを召された瞬間から、常に御心に抱いて来られたものであると、彼は議論する。彼が打ち立てた共同体はその召しに従うことが決して簡単でないことを見い出すという事実に対して、パウロは力強く取り組む。しかし、このことがそこでの彼のビジョンであるということは疑いないことである。

○新しくされた人間性の熱心:宣教

以前の章で、パウロにとってはイエス・キリストの主権性が皇帝の主権性に挑戦することを見た。ここで私がしたいのは、一人の真の神を礼拝することを通して、新しくされた人間性が世界に対する権威の中に据えられるとパウロが信じる仕方に注意を向けることである。教会の宣教はリアリティであり、、異教の帝国はそのパロディである。

これは、神を真に礼拝する人々の中で回復される神のかたちについてのパウロの基本的神学に関係している。クリスチャンは「造り主の形に従って知識の内に新しくされた」存在であると彼は言う(コロサイ3:10)。彼らは「御子のかたちに似る」ようにと選ばれている(ローマ8:29)。しかし、神のかたちに新しく造られた人間について考えることは何を意味するのであろうか。

人類における神のかたちの教理は、単に人間が神を神に戻すという重要性を持つという信念だけではない。彼らは神を世界に反射させるという重要性を持っている。ローマ8章で、このプロセスの終りが何かを全く明瞭に見る。神の民が復活の内に遂に完全に新しくされるとき、全被造物はそれ自体滅びの縄目からかいほうされ、神の子らの栄光ある自由を共有する。従って、教会の宣教は神の国を全世界に告げ知らせることを意味する。パウロは「他の王、すなわちイエス」がおられることを告げて回った(使徒17:7)。彼は続く者たちが同様にすることを期待する。

もちろん、イエスは皇帝に対して違った種類の王である。しかし、パウロにとって、その違いは、一方は「霊的」であり、他方は「一時的」であって、互いに何の関係もない二つの区別された領域に固定されているというようなものではない。「イエス・キリストを主として告白する」という全ポイントは、彼の御名に対してすべての膝が屈むであろうというものである。

パウロの宣教はそれゆえ、単に個人的伝道、将来の天国のために一人一人魂を救うというものではない。確かに、イエス・キリストの福音を告げることにおいて、彼はすべての個々人がイエス・キリストの主権性に対して従順な信仰に従うようチャレンジした。信じた者に対して彼は、神の一つの家族のメンバーとして、彼らは擁護され、死者の中からよみがえらされ、来たるべき新創造の栄光を共有するであろうという確信を与えた。しかし、パウロは単にそのような用語だけで自分の宣教を見なかった。彼は福音が「天の下のすべての被造物に対して告げられている」と言う(コロサイ1:23)。彼は自分がしていることが、イエスの復活で始まり、すべてのものの更新で終わる宇宙的運動の一部に過ぎないことを知っている。彼は王の使者である。そしてその王は、王の王、主の主である。イスラエルの王が全世界の王となるというユダヤ人の望みは、メシアなるエスにおいて真実となった。

○結論

私がこの章で示そうとしてきたのは、パウロが聴き手に対して主張し、回心者に迫り、教会において維持しようとベストを尽くしたのは、神によって新しくされた人間性のリアリティであったということである。それはあらゆるレベル、あらゆる道でリアリティあって、異教主義はそのパロディに過ぎないことが証明されたのであり、あらゆるレベル、あらゆる道でイスラエルの熱望の成就であって、不信仰なイスラエルが異教主義に妥協していることを示すものであることが証明された。

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

ライトはこの章で福音によって新しくされる人間性がどのようなものかを概観します。ウェスレー主義の伝統の中で育ってきたものとして、それは、「ホーリネス」と一括して表現したくなりますが、ライトはむしろ、「複合的に織り込まれたビジョン」と表現し、その中心には礼拝があり、そのゴールには復活があり、その変容はホーリネスと呼ばれ、その結合力は愛であり、その熱心は宣教に表われると、5つの側面からまとめます。

新たにされた人間性について、真の神への礼拝を中心的かつ初期的なものとして位置付ける点、また特に復活という面から終末論的要素を見据えている点、ユダヤ人も異邦人も一つとされた共同体形成と深く関わる側面として愛を位置づける点、そして、宣教という点においても、イエス・キリストの主権性の宣言を中心に置き、宇宙論的視点も忘れない点など、ライトの特徴をよく表わす章となっています。

その中で、ホーリネスの扱い方はむしろ伝統的な内容とも見えますが、特にローマ7章やガラテヤ5章から、ユダヤ人律法の限界性と異教主義へ戻りゆく危険性を指摘しているところがライトらしいところと言えるでしょうか。

全般的に、すべての点において、異邦人に対するメッセージと、ユダヤ人に対するチャレンジの両方を常に意識しながら、議論を展開しているところが最も特徴的なところと思いました。

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うろこ雲

2016-10-10 16:43:14 | 神戸便り

三連休最終日、朝はうろこ雲が空一面に覆っていると思ったら、

しばらくして青空が広がりました。

夕方になるとまたうろこ雲が広がりました。

本格的な秋の到来を感じた日でした。

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自然学校

2016-10-09 17:14:39 | 恵便り

4泊5日の自然学校を終え、恵が昨日帰ってきました。

台風18号が近づく中での開催、少し心配しましたが、

初日は台風到来前でしたので大丈夫、2、3日目、台風が来た折は室内でのプログラムも交えて乗り切り、

その後晴れて、諸プログラムを楽しく過ごすことができたようです。

5日間、我が家はひっそり。

帰ってきて、早速恵がお兄ちゃんとカードゲームを始めると、いつもの我が家に・・・。

少しずつ自然学校の様子も聞かせてくれたところからすると、

恵も楽しく過ごせたようです。

神様の守りに感謝。

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第7章 義認と教会(その4)

2016-10-02 20:44:37 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会

【補遺:第6回日本伝道会議に参加して】

前回の投稿は、たまたま第6回日本伝道会議(9月27-30日、神戸)参加直前のアップとなりました。この会議に参加して、ライトの義認論に関わるいくつかの示唆を受けましたので、補遺の形でまとめてみます。

残念ながら、分科会「神学ディベート―N.T.ライトの義認論」には参加することができませんでしたが、主講師であるクリス・ライトの講演、及び、プロジェクトワークショップから、以下の点で示唆を受けました。

(1)ローマ人への手紙の書かれた背景

クリス・ライトの講演内容では、N.T.ライトの視点に近いものを感じる点がいくつかあったと思いますが、特に義認論に関わるものとしては、最後の講演でローマ人への手紙全体に触れていたことが参考になりました。特に、ローマ人への手紙が書かれた背景、目的についての指摘は、私が見逃していた点を衝いていました。まず、クリス・ライトは、地中海世界の東側での宣教を進めてきたパウロが、地中海世界の西側にあるローマに目を向け、ローマの教会が宣教の拠点となるべきことを覚えたとの指摘は、私自身も、そのように受け取ってきたところでした。しかし、そのような目でローマの教会を見たとき、パウロには一つの問題が緊急に取り組むべき課題として見えてきたという指摘には、ハッとさせられました。その問題と言うのは、ローマの教会に分裂があり、それはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間の分裂だったというものでした。そのことを前提として、その講演の第一ポイントは、福音が一つとされたコミュニティーを創造したことを指摘します。第二ポイントでは、14、15章が取り上げられますが、いわゆる、「信仰の弱い者」「強い者」の問題を、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの問題であると指摘します。パウロは両者の分裂問題の解決を目的として、この手紙を書いたという指摘は、N.T.ライトの義認論を検討してきた者として、聞き過ごすことのできないものでした。

これまで、ローマ教会の中にユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがおり、パウロは読者としてその両方を意識してこの手紙を書いたということはよく指摘されてきたところと思います。しかし、それは、教理の体系的提示の読者として、その両方を意識したと言うにとどまり、それ以上執筆目的に深く関わらせる指摘はあまり聞いて来なかったように思います。しかし、そう指摘されてみれば、それ以外には考えられない程、内容的に符合する点が多いように思われます。

ガラテヤ人への手紙が、割礼問題をどう扱うかを巡るものとして比較的明確に表現されているのに対して、上記のような分裂問題が手紙の背景にあるという指摘は、そう指摘されなければ分かりにくい形ではありますが、指摘されてみれば納得のいく、といった形で手紙の全体に表わされていると理解できます。

もしそのような前提を受け入れるなら、この手紙の義認用語を検討する際にも、この背景を踏まえる必要が出てきます。義認用語を教会論的視点で理解しようとするN.T.ライトの主張は、このような前提によく合ってくるようにも思われます。

ただ、私としては、手紙の書かれた背景にユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの分裂問題があったのであり、パウロはその問題を踏まえつつ福音がユダヤ人も異邦人もない新たなコミュニティを創造したのだということを指摘したのだとしても、その議論の最初には、ユダヤ人も異邦人も罪のもとにあるという指摘がまずなされたということは見逃せないと思います。ユダヤ人も異邦人もない、新たなコミュニティーの創造は、この前提を踏まえ、ただキリストの贖いに基づき、神の恵みにより、信仰による神からの義を受けることによってなされたのだという議論の展開がなされたと考えます。従って、N.T.ライトによる義認用語検討において私が考えたことに大きな違いが起こるわけではないのですが、それでも、クリス・ライトの指摘は私にとっては心に深く残るものとなりました。私としては、義認用語が個人の救済に関わると同時に、教会論にも深く関わるものと整理づけたく考えたのですが、クリス・ライトの指摘は、そのような考え方をより強めるものともなったと言えそうです。

このあたり、ダンやN.T.ライトのローマ書注解書ではどう扱われているのか、興味深いところです。とにもかくにも、早く購入してみないといけませんね。

(2)N.T.ライトの「信仰」についての見解について

もう一つの示唆は、プロジェクト・ワークショップの中で与えられました。私は15のプロジェクトの中で、「聖書信仰の成熟を求めて」を選び、中でも「聖書信仰とNPP」の討論グループに加わらせて頂きました。そのための資料はT牧師が用意されたのですが、その資料では、N.T.ライトはひと言触れられるだけで、主にサンダースとダンが取り扱われていました。私としては、少々不満に覚えたのですが、討論に際しての補足説明で、T師は、「分科会ではN.T.ライトの義認論が中心に議論されたが、ここではNPPの根っこの部分を取り上げた」と言われました。そういった点を考慮しつつ、一つ思い起こされたのは、伝道会議直前に読み返していたダンの「パウロ研究の新しい視点」(『新約学の新しい視点』所収、すぐ書房)の中での「信仰」についての言及でした。「律法の行ない」については、それらを「契約の行い」すなわち「割礼、食物規定、安息日を守ること」と限定的に理解した上で(71頁)、それが「ユダヤ的なものの指標、すなわち人種と民族を指示するバッジと見做されていた」(79頁)と指摘するのに対して、「信仰」については、これを「契約の構成員のバッジとして」十分考えるべきことをパウロがガラテヤ人への手紙の中で主張していると指摘します(83頁)。

私はこれまで"What St. Paul Really Said"を中心に、N.T.ライトの主張を検討してきました。そして、N.T.ライトがピリピ人への手紙の義認用語を検討する中で「信仰」を「契約的メンバーシップのバッジ」(125頁)と主張する部分について、次のように書きました。「オルド・サルティスにおける信仰の位置について、後期改革派神学が、『人がどのようにしてクリスチャンになるか』と関わらせないことにより、信仰が結局のところ代理的『行為』になることを避けたことを指摘しつつ、ライトは、『信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない』と主張し(125頁)、『人が既にメンバーであると宣言するバッジである』と結論づけます(132頁)。」

今読み返すと、当該部分は原文では、以下のようになっています。「この描写における信仰の位置は、長い間後期改革派の教義学において、議論の対象であった。信仰は神の好意をえるために私が『する』ことなのか。そうでなければ、信仰の果たす役割は何か。一旦パウロの義認言語を『人がどのようにしてクリスチャンになるか』を表現しなければならないという重荷から解放したら、このことはもはや問題ではなくなる。クリスチャンの信仰を結局のところ代理的『行為』やとりわけ道徳的義の代替的形態と考える危険性はない。信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが『なす』ことではない。」(125頁)

よく読めば、「後期改革派神学が、『人がどのようにしてクリスチャンになるか』と関わらせないことにより、信仰が結局のところ代理的『行為』になることを避けたことを指摘し」ているわけではなく、ただ、後記改革派神学においてその種の議論があったということを書いているだけです。その点、不正確な書き方をしました。更に、それ以上に大きな問題は、その後に続く、N.T.ライトのいわばオルド・サルティスと受け取れるものについての考え方の表明に引きずられて、私は、ここでオルド・サルティスにおける信仰の位置に焦点を当ててしまったことです。上記ダンの議論における「信仰」についての議論と比較するならば、N.T.ライトの議論は明らかに重なる点があります。ですから、「契約的メンバーシップのバッジ」として「信仰」を見る考え方は、NPP全体に流れる考え方として捉えるべきだったと思います。ダンとライトは、NPPに関わる議論においても、細部においては異なる点が多々あるように思われますが、この点では一致しているわけですので、この点を見逃すわけにはいかないと思います。決して小さな問題とは言えないこの点を自覚させてくれたことだけでも、今回のプロジェクトワークショップは、私にとって有意義なものでした。

今後、この視点からもう一度、検討し直す必要が出てくるかと思いますので、いつか更に補遺を設けるか、この章全体の検討内容を全面的に書き換える必要が出て来るかもしれません。ただ、そのためには、ダンの論文を詳細に検討していく必要も出てきますので、そう簡単にはまとまらないだろうと予測します。一旦、本書全体の検討を最後まで終えた後、ダンの論文ももう少し詳しく調べた上で、どうするか、考えてみたいと思います。

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