長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

柿の葉の出現

2022-02-27 16:48:01 | 長田家便り

柿の葉が伸びてきました。

いまだに頭に種の殻が引っ付いているのが面白い。

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「聖書が告げるよい知らせ」第七回 苦難のしもべ

2022-02-25 08:26:39 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第七回 苦難のしもべ

イザヤ五二・一三‐五三・五

 

見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

(イザヤ五二・一三)

 

 イザヤはここで神様から「わたしのしもべ」と呼ばれるお方について語っています。ここで語られる神のしもべもまた、不思議な存在です。王であるようでありながら、同時にしもべとして苦しみを受けるお方でもあると言います。ここに、神様が備えられたメシアのもう一つの面を見ることができます。

 

一、わたしのしもべ

 

 「わたしのしもべ」という表現は、イザヤ書の後半(四〇章以降)に何度も現れます。それぞれの個所を見てみると、この表現をどう理解するか、随分難しい問題だと分かります。たとえば、ある個所では、明らかにイスラエルの民を指しています(イザヤ四一・八)。しかし、他の個所では、預言者イザヤのことをさしているように思われます(イザヤ四九・一‐六)。また、イスラエルの民のようでありながら人間をさしているようにも見える個所もあります(イザヤ四二・一‐四)。おそらくは、イスラエルの民、その民に対する重荷を担う預言者イザヤと重なり合うようにしながら、やがて現れるひとりのメシアを指し示そうとしているのでしょう。たとえば、この神のしもべは、「民の契約として、国々の光」とされるお方です(イザヤ四二・六)。ユダヤ人を越えて、世界中の民がこの方を通して光を受け、救いを受けます(イザヤ四九・六も参照)。このお方こそ、世界のメシアです。

しかし、このメシアは、どのようにしてそのような働きを成し遂げようとするのでしょうか。

 

二、苦難のしもべ

 

 神のしもべの姿は、大変不思議なものでした。「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」と言われますが(イザヤ五二・一三)、その直後にはこう言われます。「多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」(イザヤ五二・一四)。また、「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。」(イザヤ五三・二)という表現は、「エッサイ(ダビデ王の父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ一一・一)という預言に似ており、ダビデの子孫として生まれる王なるメシアを示しているように見えます。ところが、直後にイザヤが語るのは、次のような言葉でした。

 

彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ五三・二、三)

 

 王なるメシアに期待されるような外見の輝きや見栄えがないと言います。人々に歓迎されるのでなく、蔑まれ、のけ者にされると言います。喜びや力に包まれるよりも、悲しみの人で病を知っていると言います。ここには確かに人々を驚かせるものがあります。もしこのお方が本当に世界を救う王なるメシアであるなら、この苦難に包まれた姿を私たちはどう理解したらよいのでしょうか。

 

三、私たちの咎と罪のために

 

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。(イザヤ五三・四、五)

 

 ここに、メシアが苦難を負うべき理由が示されています。彼が病を知っているのは、私たちの病を負ったからだと言います。彼が悲しみの人であるのは、私たちの痛み、悲しみを担ったのだと言います。人々は彼の苦しみを誤解します。「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」と。しかし、実のところ、「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」のです。

 もう一度、預言者イザヤの時代の状況を考えてみましょう。北イスラエルが滅び、また、南ユダも滅びようとするのは、彼らが神様に背き、罪を犯してきたからでした。神様は彼らの回復のためにメシアを備えられました。しかし、このメシアが彼らを救い、彼らに真の回復を与えるためには、彼らが抱えている罪の問題の解決が必要でした。

 「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。(略)彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ五三・一一、一二)神のもとでの祝福に満ちた日々が回復されるために、このメシアが「彼らの咎を負う」、「多くの人の罪を負う」ことが必要でした。

 私たちは、イスラエルの民のようには罪を犯さなかったと言うことができるでしょうか。彼らが抱えている問題は、私たちが抱えている問題でもあるのではないでしょうか。そうだとすれば、このメシアが負った咎は私たちの咎、メシアが負った罪は私たちの罪でもあるのではないでしょうか。

 イエス・キリストが十字架に死なれ、復活し、天に挙げられた後、ピリポというキリストの弟子がひとりのエチオピア人と出会いました。彼はちょうどイザヤ書五三章を読んでいました。彼はピリポが聖書についての知識を持っていると知り、尋ねます。「預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」(使徒八・三四)この時、ピリポが口を開き、この聖句から説き起こして語ったのは、イエス・キリストのことでした。エチオピア人はピリポの話にじっと耳を傾け、やがてその場で洗礼を受けたと言います。

あなたは、イザヤが預言した苦難のしもべの姿をどう理解し、受け止めるでしょうか。

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配線工事

2022-02-20 14:13:09 | 教会便り

先日来、会堂内周囲を這うケーブルがむき出しになっていたのを何とかしたいと思い、

ケーブルカバーを購入、かぶせてみました。

 

工事途中。

完成。

曲がり角や隙間もカバーできれば万全なのでしょうが、

私の仕事としては上出来かと思います。

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作品

2022-02-20 14:10:37 | 恵便り

恵の作品。

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「聖書が告げるよい知らせ」第六回 不思議な男の子の誕生

2022-02-17 21:24:12 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第六回 不思議な男の子の誕生

イザヤ九・一‐七

 

 前回は、「神の民」とされたはずのイスラエルの民が、律法に背いたこと、にもかかわらず神様は彼らを回復に導き、祝福と幸い、命の道に導こうとされたことを見ました。今日の個所は、そのための鍵として、神様が不思議な男の子を誕生させるというイザヤの預言を学びます。

 

一、闇の中に大いなる光

 

 まず、歴史的な状況を確認しましょう。前回はイスラエルの民がエジプトを出て約束の地に進む中で、律法を与えられたことを見ました。その後、彼らは約束の地に入り、部族ごとに分かれて住みます。しかし、やがて彼らは周囲の民と同じように王を立てることを要求します。そこで、神様は王が神様の御心に従う政治をすることを条件にそれを許されます。

最初の王サウロは神の御心に背いたため退けられ、替わって立てられたのがダビデでした。ダビデとその子ソロモンの時代は、イスラエル王国の黄金時代と言えるでしょう。しかし、最初は神の御心に従っていたソロモンも、次第に神様に背くようになり、次の世代には南北に国が分かれてしまいます。北イスラエル王国に立てられた王は、神様に背くことが多く、イザヤの時代には大国アッシリアによって滅びます。これに対して、南ユダ王国ではダビデ直系の王が立てられます。しかし、それでも、良い王と悪い王が入れ替わり立ち替わり立つことになり、次第に国全体が悪い方へと傾いていきます。

イザヤはそのような時代に立てられた預言者でした。彼は、民が悪に染まっていることを嘆きつつ指摘します。そして、北イスラエル王国だけでなく、やがては南ユダ王国も滅ぼされてしまう時が来ると預言しました。彼の目には、地は暗黒に覆われているように見えました。しかし、ここでイザヤはそのような地にも回復の時が来ると預言しました。

 

闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。(イザヤ九・二)

 

神の裁きはある。しかし、その向こう側に光が照るのだと言いました。

現代の世界はどうでしょうか。おそらく、イザヤがこの時代に生まれたならば、「見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒…」と言うのではないでしょうか(イザヤ八・二二)。しかし、このような世界のためにも、神様は大いなる光を備えてくださいました。それがひとりの男の子の誕生でした。

 

二、不思議な男の子

 

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ九・六)

 

 イザヤはここで、ひとりの男の子の誕生について語り出します。国家の危機的状況の中で希望の光について語った後、「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」について語り出すのは奇妙に聞こえたかもしれません。しかし、この男の子は、「主権はその肩にあり」、すなわち、国を治めるべき人物となると言います。

 イザヤはその男の子の「名」について語ります。「名」というのは、「呼び名」というよりも、その方がどんな方であるのか、その性質、本質を表すものです。

その名は大変不思議な「名」でした。まずは「不思議な助言者」。新共同訳聖書では「驚くべき指導者」と訳されます。さらに驚くべき名は、「力ある神」です。唯一の創造主なる神様を信じるイスラエルの民は、イザヤのこの預言をどう聞いたでしょうか。「ひとりの男の子」が「力ある神」と呼ばれるようになるとは、不思議としか言いようがなかったでしょう。「永遠の父」、「平和の君」・・・永遠的な保護者、平和をもたらすリーダーであると言います。単に優秀な指導者という以上に、天的なお方、不思議な指導者となるのだと言いました。

 

三、不思議な国

 

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。(イザヤ九・七)

 

 「ダビデの王座に就いて」、「その王国を治め」と言いますから、そのお方はダビデの子孫として生まれ、王国を治める者となるということでしょう(イザヤ一一・一参照)。しかし、不思議なのはその国が普通の国々とは随分様子が違っていることでした。

「その主権は増し加わり、平和は限りなく」とあります。「さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。」ともあります。歴史上偉大な王国は多くありました。しかし、多くの場合、そこには不義があり、争いがありました。また、彼らの統治は決して永遠のものではなく、時代が過ぎれば支配権は別の指導者に移っていきました。しかし、イザヤは言います。この国は正義と平和に満ちており、永続するものだと。

後のイエス・キリストの教えから見れば、この国は、ダビデの子孫として生まれたキリストを通して、信じる者の心のうちに始まる「神の国」のことを予告したものと言えるでしょう(マルコ一・一五、四・三一、三二)。

 

四、万軍の主の熱心

 

万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ九・七)

 

不思議な男の子、すなわちメシアの誕生によって、暗黒の地に大いなる光が照るようになる…イザヤはそう預言しました。このことは、単に歴史の偶然によって起こることではありません。闇覆う世界に光をもたらし、不義と争いに満ちた世界に義と平和の国をもたらそうとする神のご熱心によることでした。

 

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梅の花

2022-02-13 15:11:15 | 長田家便り

先日の祝日、教会のお仕事の合間に、次男も連れて

石ケ谷公園の梅を見に行きました。

少し早かったのかもしれませんが、

あちこち咲いている花がきれいでした。

 

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『新約聖書の世界』到着

2022-02-10 13:09:38 | 栄一便り

『新約聖書の世界―愛と真理の言葉に聴く』が到着しました。

(発行はヨベル、定価1,800円+税)

一昨年発行した『旧約聖書の世界』の続編となります。

これらの書を通して、一人でも多くの方が聖書の世界に親しんでくださり、

イエス・キリストを信じる信仰の世界に導かれて参りますように、

また読まれた信仰者の方々の歩みが強められますように、

祈ります。

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「聖書が告げるよい知らせ」第五回 いのちを選びなさい

2022-02-04 17:22:17 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第五回 いのちを選びなさい

申命記三〇・一五‐二〇

 

 前回は、悪を行なった人間に対する祝福回復のご計画のために、キーパーソン、鍵となる人物として、神様はアブラハムを選ばれたことを見ました。アブラハムの子孫を大きな国民とするという約束は、息子イサク、孫のヤコブにも更新されました。ヤコブは後にイスラエルと呼ばれます。その子孫が増え広がったとき、「イスラエル」はその民族の呼び名ともなりました。

彼らは神の不思議なご計画の中、エジプトの地で増え広がります。やがて彼らは、モーセを指導者としてエジプトを旅立ち、神様が備えられた約束の地へと向かいます。こうして、「神の民」と呼ばれるイスラエル民族がかたちづくられていきます。

この民に対して、神様はモーセを通して律法と呼ばれる数々の戒めを与えられます。律法は、エジプト脱出直後、シナイ山で与えられ、ひと世代後、約束の地に入る直前、モアブの地で再度確認されます。今日の聖書の個所は、その最後の部分です。

 神様は数々の戒めによって彼らに何を教えようとされたのでしょうか。また、それは私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

 

一、律法の内容

 

 律法の内容は、シナイ山で与えられたものについては出エジプト記、レビ記、民数記に、モアブの地で再び与えられたものについては申命記に記されています。その内容は、神様を礼拝する幕屋の作り方から、伝染性皮膚病に対する処置対応に至るまで多岐にわたっています。しかし、その本質的な部分は、十戒として知られる十の戒めの中に分かりやすく表されています。

 前半、第一戒~第四戒は、神様に関する戒めです。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。(略)主の名をみだりに口にしてはならない。(略)安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。(略)」(出エジプト二〇・三‐一一。申命記五・八‐一六も参照。)

 万物の創造者なる神様は唯一のまことの神様ですから、それ以外のものを神としてはならないこと、神様は目に見えない霊なるお方ですから、刻んだ像に造ってはならないし、それらを拝んではならないこと、神様は尊いお方ですから、冗談半分に神様のことを語ってはならないこと、週に一度は仕事も休んで神様を礼拝する日として聖別すること…これらは、まことの神様を敬い、大切に考え、このお方を心から愛することを教えるものです。

 申命記の初めの方では、十戒が再び教えられると共に、有名な次の言葉が記されています。

 

聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記六・四、五)

 

 これは、十戒の前半を要約したような教えであると言えるでしょう。今日の個所でも、「もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら」(申命記三〇・一六)と語られます。神様の戒めに従うということと、神様を愛することとは一体であると教えられます。

 十戒の前半が神様に関する教えであるのに対して、十戒の後半、第五戒~第十戒は、人に関する戒めです。「あなたの父と母を敬え。(略)殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲してはならない。(略)」(出エジプト二〇・一二‐一七。申命記五・一六‐二一も参照。)

 神様が与えてくださった父母を大切にすること、人の命を大切にすること、配偶者、すなわち生涯の伴侶を大切にし、裏切らないこと、人の所有物を大切にし、盗まないこと、横取りしようと欲しさえしてはならないこと、人を偽りによって傷つけてはならないことが教えられています。これは、一言で言えば、周囲の人々を愛し、大切にするべきことを教えていると言えるでしょう。別のところに記された次のような教えは、これらの戒めを要約するものと言えます。

 

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(レビ一九・一八)

 

 神様を愛すること、人を愛すること…これらは、「神のかたち」に造られた人間にとって、造られた本来の生き方をすることだと言えるでしょう。律法を与えられたイスラエル民族だけでなく、私たちもまた、これらの戒めを通して人としての生き方の根幹を知ることができます。

 

二、いのちを選びなさい

 

 さて、神様からの戒めをイスラエルの民に教えてきたモーセは、最後に彼らに決断を迫ります。

 

見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。(略)私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記三〇・一五、一九)

 

 ここには二つの道が示されています。神様を愛し、その戒めを行う道か、神様とその戒めに背く道か、いずれかを選ぶように迫ります。神を愛してその戒めに従えば、いのちと幸い、祝福が与えられます。神様とその戒めに背を向けるなら、死とわざわい、のろいがもたらされます。

イスラエルの民はここで示された二つの道のうち、いずれの道を選んだでしょうか。いのちの道を選んだかに見えた時期もありました。しかし、明確に死の道を選んだ時期も多くありました。その度に、彼らは神様の祝福から遠ざけられ、地をのろいが覆うようになりました。やがて、彼らは約束の地とされていたはずの場所からも追いやられて、遠く離れた場所に住むことにさえなります。

 しかし、実はそのことは、律法が与えられた時点で既に予告されていたことでもありました。今日の個所のすぐ後にはこのように記されています。「主はモーセに言われた。『見よ、あなたは間もなく先祖とともに眠りにつこうとしている。この民は入って行こうとしている地の異国の神々を慕い、自分たちのうちで淫行を行い、わたしを捨てて、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破る。(略)多くのわざわいと苦難が降りかかるとき、…』」(申命記三一・一六、二一)しかし、更に驚くべきことは、律法が与えられたその時点で、そのようなわざわいに陥った場合の回復の道も示されていることです(申命記三〇・一‐一〇)。

 これらのことは、イスラエルの歴史が進むにしたがって、少しずつ明らかにされていくことです。しかし、ここで分かることは、人間がいかに愚かで、間違った選択をしやすい存在であるかということ。もう一つは、にもかかわらず、神様が彼らを見捨てず、回復に導こうと心を砕かれるお方であることです。このような神様の憐れみのみわざの究極として、アブラハムの子孫の中からイエス・キリストが現れます。

 神の願いは、私たちがいのちの道、幸いと祝福の道を選ぶことです。私たちは罪深く、愚かで、間違った道を選びやすい者です。しかし、そのような私たちであっても、イエス・キリストを通していのちの道に進むことができます。「あなたはいのちを選びなさい!」神様の招きに信仰をもってお応えしましょう。

 

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