長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

3章 その1

2013-09-29 19:30:10 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第3章では、「ヨルダンでのイエスの経験」についての検討がなされます。ここで検討されるのは、主に、ペンテコステ派及び礼典主義者による以下のような2種類の主張についてです。

(1)ペンテコステ派:もしイエスがヨルダン川で聖霊によるバプテスマ受けたことが、聖霊による超自然的な誕生の約30年後、自らの使命のために力を授かる付加的恵みであったとすれば、なおさらクリスチャンは上からの誕生後、奉仕のために力を授かるために聖霊のバプテスマを受けるべきではないか。

(2)礼典主義者:ヨハネによるイエスのバプテスマには、ヨハネのバプテスマとクリスチャンのバプテスマをつなぐ結合がある。すなわち、ヨハネの水のバプテスマを約束された聖霊のバプテスマと一つにし、水と聖霊によるクリスチャンのバプテスマを形づくったのは、イエスのバプテスマである。

今回は、まずペンテコステ派による(1)の主張についての著者の検討についてご紹介します(23-32頁)。

この点についてのペンテコステ派の主張は、イエスが(誕生後)生涯のどの部分もヨハネほどには聖霊に満たされていたであろうこと(ルカ1:15)、知恵と恵みにおけるイエスの成長は、聖霊を所有することによっていたであろうこと(ルカ2:40、52)、聖霊と神の子であること(またはその意識)とのつながりもまたこの方向へのヒントとなるであろうこと(ルカ1:35、2:49、3:22)などに基づくようです。ヨルダンでイエスに聖霊がくだったことは、確かに聖霊のバプテスマと呼ばれてよいものであったし、続く使命のための力と権威をイエスに与えたのはこの聖霊の注ぎであった事を否定はできないと著者は認めます。ペンテコステ派の主張は、このようなイエス様の経験をそのままクリスチャンの生涯に当てはめようとするもの、ということになります。

このようなペンテコステ派の主張に対する著者の反論のポイントは、私たちが扱っているヨルダンでの出来事の重要性が救済の歴史における役割にあるという事実を彼らが把握し損ねているのではないかというものです。ヨルダンでの出来事は、救済の歴史において数少ない枢要な出来事の一つであり、この出来事において救済の歴史全体が新しい新路に向かって回転しているのだと言います。言いかえれば、救済の歴史において同じ時代区分に属するイエスの生涯の諸段階を扱っているというよりも、救済の歴史そのものにおける諸段階を扱っているということになります。ヨルダンにおけるイエスの経験は、単に個人的なものではなく、歴史においてユニークな瞬間であり、救済の歴史における新しい時代の始まりであり、「終りの時」、メシヤの時代、新しい契約の始まりであるということです。従って、イエスの聖霊の注ぎはイエスにとって聖霊の第二の経験として表現されることは可能であるかもしれないが、それは新しい契約の中でのイエスの第二の経験ではない、ということになります。イエスにとっての新しい契約を始めるのは事実この出来事であり、この出来事がメシヤの時代を始め、イエスをメシヤの時代に入れるものであると言います。著者は、このことを以下のようなステップで論証します。

(a)ヨハネとイエス―救済の歴史の転換は、ヨルダンでイエスが聖霊の注ぎを受けたことにより起こった。


ヨハネにとって終りの時はなお将来に属するものであり、ヨハネは先駆者、道備えをする者、来たるべきお方の到来を告げるため先を進む者でしかなかった。しかし、イエスにおいては、成就の様相がある。終りの時は少なくともある意味では到来した(マタイ11:4-6、ルカ10:23、24)。王国は彼らの中にある(マタイ12:28、ルカ17:20、21)。サタンは既に縛られ、彼の所有は略奪されている(マルコ3:27)。要するに、時代のシフトが起こったのである。どの時点でか?ヨルダンにおいて、イエスが聖霊の注ぎを受けた時である(マルコ1:12、15、ルカ4:18、19、マタイ12:28)。

(b)旧約聖書からの議論―イエスの聖霊の注ぎの物語にはいくつかの終末論的特徴がある。

天が開かれたということは黙示文学における共通の特徴である。聖霊の注ぎを受けたメシヤについての預言者の終末論的希望がこの瞬間成就した(イザヤ11:2、61:1)。鳩もまた、終末論的な重要性を与えられうる(創世記1:2、洪水後の鳩)。更に天からの声が詩篇2:7とイザヤ42:1の結合として意図されているとするなら、福音書記者たちはこれをイエスがメシヤとして聖霊の注ぎを受けた瞬間とみなしていると言わなければならない。イエスがメシヤ(油注がれた者)と呼ばれうるようになったのはこの瞬間であり、この時、イエスはメシヤとしての働きを受け取り、この時、メシヤの時代が始まったと言える。

(c)イエスのメシヤ意識について―ヨルダンの出来事におけるポイントはイエスの本質や個人的意識の変化でなく救済の歴史の転換にある。

「聖霊がくだった時はイエスが神の子とされメシヤとして任命された瞬間ではなく、単に子またメシヤとしての自覚が増してきたことのクライマックスに過ぎなかったのではないか」という論点がしばしば提示される。しかし、この議論は、ポイントをイエスの本質や個人的自覚に置いている点で間違っている。ポイントは贖いの歴史に置かれるべきである。聖霊がイエスに注がれたことにより、イエスご自身やその本質、立場が変わったのではなく、救済の歴史の新たな段階が始まったのである。

(d)イエスの新たな役割とは何か―イスラエルの代表、新しいアダム

聖霊の注ぎによりイエスにもたらされた新しい役割とは何か。共観福音書記者は、「イスラエルの代表、新しいアダム」と答える。(マルコ:鳩…イスラエルの象徴、聖霊の授与…シナイ山での律法授与、最初のアダムへの誘惑…新しいアダムへの誘惑。マタイ:イスラエルは40年間荒野に…イエスは聖霊の注ぎ直後荒野に。ルカ:イエスへの聖霊の注ぎと荒野での試みの間にアダムに至る系図。)

これらの議論を受けて、著者は、ヨルダンでのイエスの経験をもとにペンテコステ派が自説を打ち立てることができないと指摘します。聖霊の注ぎは、本質的に始める経験である。それは終りの時代を始め、イエスを終りの時代に導き入れた。イエスの超自然的誕生とクリスチャンの誕生を比較しようとしても無駄である。イエスの誕生は全く古い契約に属するからである、と言います。

聖霊の注ぎにおいて新しい時代が始まり、イエスご自身、イスラエル及び人類の代表として新しい時代に入られる。この最初の聖霊のバプテスマは後のすべての聖霊のバプテスマの代表としてみなされうる。

確かに、イエスへの聖霊の注ぎは、癒し教える彼の働きのために彼を備えるものであったと言えるかもしれない。しかし、「奉仕のための力」は、油注ぎの主要な目的ではなく、その自然の結果に過ぎない。言いかえれば、聖霊のバプテスマの主要な働きは、クリスチャンを奉仕のために備えることにあるのではなく、彼に油を注いで(キリスト)、個人を新しい時代と契約に入れること、それにより、彼を新しい時代と契約における生涯と奉仕に備えることにある。ここにおいて、イエスの新しい時代と契約に入られたことは、すべての入信者が新しい時代と契約に入ることの型である、と言います。

ここでの著者の議論全体を振り返ってみると、ヨルダンでのイエスへの聖霊の注ぎを、救済の歴史における転換点として見ることがカギになっています。これは、ヨルダンの出来事が「唯一の」転換点だったというわけではありません。復活と昇天もまたその大きな転換点として指摘されています(28、29頁)。それでも、ヨルダンにおける出来事の中に、これほど大きな役割を見出すことは、かなり斬新な見解と言えるかと思います。ただ、この時の出来事がイエス様の公生涯の始まりともなるわけですから、それ位に重要な役割を持っていたとしても不思議ではないかとも思えます。

ただ、ここでの議論は、ペンテコステ派の議論の論拠を崩すものではありますが、必ずしもその主張自体を否定するものになっていないかもしれない、と思います。ヨルダンにおいてイエス様が聖霊の注ぎを受けられたことによって、救済の歴史の中に新しい時代が始まったとして、その新しい時代に、聖霊のバプテスマがクリスチャン経験の中でどのように位置付けられるようになるかということについて、ヨルダンでの出来事だけからは明確に結論づけることができないのではないでしょうか。

前章についての検討の中でも、「オルド・サルティスの細部に至るまで結論づけてしまうのは、少し性急なようにも思えます」と書きました(その6)。ここでも、同じことが言えるような気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運動会

2013-09-28 17:14:51 | 長田家便り
大開小学校での初めての運動会でした。

瞳は、最初の競技のリレーに出場、最初の組のトップランナー。
前日夜になって、バトンをどこから持ってきたらよいのか分からないと・・・。
お祈りしながら臨み、無事務めを果たしました。

恵は、フラフープがまだできないので、できるようにとお祈り。
本人としては「できなかった」と言っていますが、
親から見れば随分かっこよくできてるようでした。

さわやかな秋晴れも感謝!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

看板直りました

2013-09-28 17:05:37 | 事務所便り
看板、無事直りました。台風にも間に合いましたし、
今日の運動会にも間に合いました。
大開小学校のグラウンドからよく見えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家族で休日

2013-09-23 20:17:03 | 長田家便り
今日はフルーツフラワーパークで休日を過ごしました。
運動会を前に、広場で、[恵-瞳のリレー]対お父さんで対決。負けました。
ちょっと真剣味が足らなかったかな?
真剣にやっても勝てない時が来るのも、そう遠くない気がしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞳誕生日

2013-09-23 20:11:48 | 瞳便り
先週9月20日は、瞳の誕生日。ささやかにお祝いしました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

看板が外れました

2013-09-23 20:06:44 | 事務所便り
先日の台風で、事務所の屋上の看板が外れました。
業者には依頼していて、見積もり、発注も終わっていますが、お忙しいようでなかなか来てくれません。次の台風が来ないうちに!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2章 その4

2013-09-22 18:39:56 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(3)クリスチャン経験(特にクリスチャンのバプテスマ)との関わり


バプテスマのヨハネの言葉についての三つ目の問題について、以下のように記されます。「聖霊と火とのバプテスマについてのヨハネの預言の言葉をクリスチャンとしてどう理解したらよいかという問題について、この点での福音書の記録はどんな光を投げかけているか。」(18頁)

これまでの議論においては、ヨハネのバプテスマと聖霊と火とのバプテスマとの間に、対照があるという点が指摘されてきました。図式化すれば、以下のような対照になります。

ヨハネの水のバプテスマ


聖霊と火のバプテスマ

そのような議論の中で、クリスチャンのバプテスマはどこに位置付けられるのか、という問題でもあります。

「聖霊と火のバプテスマ」という表現において、「バプテスマ」という言葉を文字通り、「(水の)バプテスマ」ととることにより、多くの人々は、こう答えます。「預言者は、クリスチャンのバプテスマのことを言っている」と。上記の図式でいえば、下のようになります。

ヨハネの水のバプテスマ


聖霊と火のバプテスマ・・・→クリスチャンのバプテスマ

しかし、このような捉え方に対して、著者は「ほとんどありえない」と言います。すなわち、「βαπτιζειν」そのものは、水を明示しているわけではなく、マルコ10:38、39やルカ12:50のように、聖霊の「バプテスマ」は明らかに比喩だと言います。従って、図式化すれば、むしろ以下のようになる、というのが著者の主張です。

ヨハネの水のバプテスマ・・・→クリスチャンのバプテスマ


聖霊と火のバプテスマ

この点について、著者は各福音書記者の記録から立証していきます。

a.ルカ

ルカにとっては、聖霊のバプテスマは、「バプテスマ」の比喩的使用であり続けており、儀式については何も語っていない。(使徒1:5、11:16)使徒行伝において、聖霊を受けることが「聖霊のバプテスマ」という表現で描かれている二つの例は、ペンテコステの出来事と、カイザリヤでの出来事。ところが、それらの出来事は、クリスチャンの水のバプテスマとは全く離れ、独立している。

b.マタイ

マタイは、ヨハネの水のバプテスマと来るべき方の聖霊と火のバプテスマの対照についてのヨハネの言葉について、ルカと同じQ伝承を受け入れている。

c.マルコ

マルコがヨハネの言葉から裁きについて語るものであるという理由で意識的に「と火」を省略したとすると、クリスチャン経験に最も知られた形でヨハネの言葉を保存したことになる。その場合、彼はほぼ確実にペンテコステについて考えている。結果として、二つのバプテスマの対照はより鮮明となっている。

εγω βαπτισα υ΄δατι
αυτοσ βαπτισει πνευματι α΄γιω.
(マルコ1:8)

ここで強調されている言葉は、「私」と「彼」、「水」と「聖霊」である。水は、ヨハネのバプテスマと将来のバプテスマを区別するものとして、霊に対置されている。もし聖霊のバプテスマが水のバプテスマと等しい、あるいは融合されるとするなら、預言者の意味するところをひどくゆがめることになるだろう。

d.ヨハネ

「私は水でバプテスマを授けているが」(1:26)と、バプテスマのヨハネは自分のバプテスマが水によることを強調し、来るべきお方のバプテスマが違う種類のものであることを告げている。キリストのバプテスマは水によるのでなく、聖霊によるのである。(1:33)

このような考察の結果として、以下の図式が成立すると著者は考えます。

ヨハネの水のバプテスマ・・・→クリスチャンの(水の)バプテスマ


聖霊と火のバプテスマ

混乱しやすいところですが、理路整然とした著者の議論により、少なくとも著者の主張としては明晰に示されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2章 その3

2013-09-21 13:16:58 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(2)ヨハネの水のバプテスマの役割


バプテスマのヨハネの言葉についての2番目の問題として、ヨハネの水のバプテスマについて、その役割、特に聖霊と火とのバプテスマとの関わりをどのように理解するかということがあります。この点についての著者の主張を要約的にご紹介しますと、次のようなものです。

・ヨハネのバプテスマは本質的に準備的なものである。このバプテスマを受けることによって、悔い改めた者は来るべき方のバプテスマを受けるように自分自身を備える。御国を始め、御国に入れるのは、ヨハネのバプテスマではなく、来るべき方のバプテスマ、すなわち聖霊と火のバプテスマである。

・ヨハネのバプテスマは悔い改めの表現であり、方向転換(「悔い改め」と訳されるメタノイアの原意)の行為を構成するものである。(マルコ、ルカ「悔い改めのバプテスマ」、マタイ、マルコ「自分の罪を告白し」、マタイ「悔い改めるために、水のバプテスマを授けている」)

・ヨハネの水のバプテスマは、赦しをもたらす手段ではない。(マルコ1:4、ルカ3:3「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」において、「罪がゆるされるための」は、「バプテスマ」にでなく、「悔い改め」にかかっている。ルカ24:47「罪の赦しを得させる悔い改めが」参照。)罪の赦しをもたらすのは悔い改めであり、ヨハネのバプテスマはその悔い改めの表現である。

・ヨハネのバプテスマの意味は、旧約聖書における儀式の文脈で探さなければならない。それらは神ご自身が儀式から離れて働かせるきよめのみわざの象徴である。象徴以上のものでもあって、それらは神がへりくだった者を励まし、ご自身に近づく悔い改めた者に対しては神の恵み深いみ心を知らせることにより確信を与えるための手段である。預言者が儀式を攻撃し、儀式から離れた悔い改めへと招くのは、儀式が真の悔い改めと純粋な願いから離れた時のみである。神のみ心は儀式と悔い改めが一つであることであり、儀式が悔い改めの生きた表現を与えることである。儀式的行為は、きよめの手段ではないがその機会である。この意味で、ヨハネのバプテスマは「礼典」であり、有効なしるしであるが、それが意味するところのものを働かせるのではない。

非礼典主義者としての著者の主張が、この点でも明確に表されているように思います。この部分は、ヨハネのバプテスマについての見解が記された部分ですが、このような見解がクリスチャンのバプテスマについての議論にも連続的に引き継がれていくことになります。

旧約聖書の特に預言書からの議論は説得力を感じさせますが、多少気になる点もあります。神の民の経験における儀式の役割という点から見て、「旧約聖書の祭儀儀式」=「ヨハネのバプテスマ」ということが言える、という点が論点の要になるわけですが、著者の議論では、それが「立証」されているというよりは、それが「前提」とされているようにも見えます。今後の礼典に関する議論の土台の一つとなっていくだけに、もう少し十分な検討があってよいようにも思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2章 その2

2013-09-19 18:04:37 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(1)「聖霊(と火)によってバプテスマを授ける」とは(続き)

聖霊と火によるバプテスマについてのヨハネの予告の言葉を調べてきました。伝統的な二つの解釈を不適切なものとして退けながら、著者は、「最もありえる解釈」として、次のような解釈を示します。

「聖霊と火とは、悔い改めた者も悔い改めない者も両方が経験することになるであろうメシヤ的裁きのきよめる
単一の働きを共に示している。すなわち、この単一の働きを前者は祝福として、後者は滅亡として経験するであろう。」(11頁)

この結論は、オリゲネスの解釈(1)についての議論の流れを受けて導かれます。この辺の議論の流れは、少し分かりにくいのですが、ヨルダン川に浸すという考え方が、それ自体、裁きと贖いの両方の概念を伝えることができるものであるが、来るべき方の働きを示す比喩としての「バプテスマ」は、明らかにヨハネの働きを最も特徴づけている儀式から取られているので、聖霊と火のバプテスマも、裁きと贖いの両方の概念を伝えるものとなるであろう、ということのようです。

ここに、ヨハネが予告した「聖霊と火のバプテスマ」が何を意味するのか、著者としての一応の主張が示されたわけですが、これを立証するため、著者は、「川」「火」そして「霊」について、旧約聖書がどのように語っているかを示しながら議論を深めていきます。

a.「川」(洪水)

これらは、旧約聖書において災難に襲われることの比喩として用いられています(詩篇42:7、69:2、イザヤ43:2)。しかし、川はメシヤ的祝福を示すこともできます(エゼキエル47:3)。ナアマンは、ヨルダン川に身を浸すことによって皮膚病が癒されました。ヨハネは確かに自分のバプテスマをある意味で来るべき怒りから逃れる方法として理解したでしょうし、彼のバプテスマは来るべき方がヨハネの宣教によって悔い改めた人々を祝福するために用いるであろう手段を予表した、と著者は言います。

b.「火」

火が裁きを意味することは確かです。しかし、ユダヤ人の終末論において、火は不義なる者の滅亡を象徴するだけでなく、義なる者のきよめ(すなわち、裁きではあっても滅亡ではない)をも意味することができます。マラキがきよめる火と滅亡の火の両方について語ったように(3:2-3、4:1)、ヨハネは火のバプテスマを、きよめ、かつ滅ぼす火として、理解したと、著者は指摘します。

c.「霊」

他方、イザヤは「霊」の意味を明らかにします。すなわちイザヤにとって、「ルーアハ(霊)」は、しばしばきよめ、裁く霊です(4:4、30:28)。ある者たちにとって、「霊」は純粋に刑罰的であり(29:10)、滅亡的です(11:15)。しかし、神の民にとって、「霊」は、祝福、繁栄、義をもたらすものです(32:15-17、44:3)。おそらくヨハネの心にあったのは、イザヤ4:4であったでしょう。「さばきの霊と焼き尽くす霊によって」エルサレムをきよめるということは、聖霊と火によるメシヤ的バプテスマにとても近いものと言えます。

更に言えば、旧約聖書において聖霊の賜物を示す標準的な方法の一つが「液体的」動詞であったという事実を見れば、ヨハネが聖霊のメシヤ的賜物について語る時、自分の儀式からの比喩によって語ったことも頷けます。

以上のような考察をもとに、著者は、「聖霊と火のバプテスマ」がやさしく恵み深いだけのものでもなく、焼き滅ぼすものでもあり、ユダヤ人だけ、あるいは異邦人だけによって経験されるものでもなく、悔い改めた者だけ、あるいは悔い改めない者だけによって経験されるものでもなく、すべての者によって経験されるものだと言います。すなわち、それはすべてのものが浸されなければならない激しいプニューマ(霊)であり、吹きわける炉のように、すべての汚れをきよめるものです。悔い改めない者には、全くの滅亡を意味します。悔い改める者には、すべての不義と罪をきよめ、取り除くものであり、救いをもたらし、メシヤ的王国の祝福を楽しむ資格を与えます。これらは、メシヤ的王国をもたらす受難であり、それによって悔い改めた者は御国に入れられると、著者は結論づけます。

このように、著者は旧約聖書からの考察によって、ヨハネが予告した「聖霊と火のバプテスマ」の意味合いを示します。途中、議論の流れが分かりにくくなっている部分もありますが、こうして議論を整理してみると、いくつかのことに気づかされます。

a.同じ単一の聖霊と火のバプテスマが、ある者にはきよめる恵みとなり、ある者には滅びをもたらすものとなるという理解は、バプテスマのヨハネの言葉に即している。

著者にとってはあまりに当然のことだからでしょうか、本書ではあまり強調されていませんが、上記の著者の結論は、バプテスマのヨハネの次のような言葉に即しています。

(聖霊と火とのバプテスマの予告に続いて)「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:12。ルカも同様。)

聖霊のバプテスマをどのように捉えるとしても、直後のこのヨハネの言葉を見れば、「火による裁き」との関連性を認めざるを得ません。同時に、そこには、「きよめる恵み」が示唆されてもいます。著者の捉え方は、ヨハネのこの部分の言葉にピッタリと合っています。

b.ヨハネの上記の言葉(マタイ3:12)はマラキの言葉(3:2、3、4:1)との強い結びつきを持っている。

旧約聖書からの議論は、それらしい予告なく(と私には思えるのですが)始まっているため、「著者はなぜ今こんな議論をしているのだろう」という思いになりますが、聖霊のバプテスマの予告に続く上記ヨハネの言葉(マタイ3:12など)に注目すると、まず、マラキの言葉(3:2、3、4:1)との強い結びつきを持っていることが分かります。

まず、マラキ4:1では、「燃えながら」、「焼き尽くし」と、「火」と関連した表現があり、同時に、「わらのように」、「根も枝も残さない」と、植物による比喩的表現があります。4:1では、「高ぶる者、すべて悪を行なう者」への裁きとしての火ですが、3:2、3には、「精練する者の火」、「銀を精練し、これをきよめる」、「レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」とあり、同じ火がきよめ、純粋にする働きをすることを示唆しています。そして、極めつけは、これらの言葉の直前に、「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」と、イザヤ40:3(マタイ3:3などで引用される言葉)との深い関わりを持つ言葉が見いだされることです。

これらの点を考えれば、バプテスマのヨハネの言葉から旧約聖書の考察に導かれることは、それなりに必然性を持つことが分かります。

c.裁きを通してのきよめという概念は、旧約聖書の至る所に見いだされる。

著者が示唆するように、「火」だけでなく、「水」「霊」を手がかりとして旧約聖書の語るところに目を向けてみれば、そこかしこに類似した概念を見いだすことができます。すなわち、「裁きを通してのきよめ」という概念です。著者が指摘している個所以外にも、「水」や「霊」などのキーワードから離れて見渡せば、おそらく無限と言ってもよいほどの個所をあげることができるだろうと思います。

d.このような旧約聖書的概念を背景として考えると、「聖霊のバプテスマ」理解に一つの筋道がつけられる可能性がある。

「聖霊のバプテスマ」についての論議は、それぞれの立場から種々様々な論議がなされ、新約聖書の細部において、複雑な議論が重ねられていくことになります。そのような論議に一つの方向付けをするものとして、旧約聖書からの視点に注目することは理にかなっているのではないでしょうか。

「回心-入信式」の中でクライマックスとして起こることと考えるか、第二の転機として考えるか、あるいは、クリスチャン生涯全体に渡って起こることととらえるか、新約聖書からの議論は、オルド・サルティス的に考えれば、切りのない議論を生み出しますが、上記のような旧約聖書からの視点を踏まえると、「聖霊のバプテスマ」は、大きく言えば、神様の裁きを背景にしてなされるきよめのみわざとしてとらえるのが自然、ということになりそうです。

この意味では、「聖霊のバプテスマ」を「きよめ」に結び付ける捉えかたは、(オルド・サルティスにおける議論は残るとしても)あながち見当はずれとは言えないということになりそうです。

e.著者はここで既に「聖霊のバプテスマ」を回心後のこととして考えることを拒絶している

しかし、ここでの著者の結論を注意深く見ると、ここで既に「聖霊のバプテスマ」を受けることが「御国に入る」ことの条件とされていることが分かります。聖霊のバプテスマが、「悔い改める者には、すべての不義と罪をきよめ、取り除くものであり、救いをもたらし、メシヤ的王国の祝福を楽しむ資格を与えるものを意味する」と言っているからです(14頁)。すなわち、「聖霊のバプテスマ」を回心後のこととして考える考え方を退けていることになります。

このような結論が著者の議論のどこから来ているのか、改めて考えてみますと、「聖霊のバプテスマ」を、悔い改める者と悔い改めない者とを「吹き分ける炉」として捉えるところからではないでしょうか。そのような捉え方をすれば、悔い改めていながらなお聖霊のバプテスマを受けていないということはありえないという結論に自然に導かれるのも一理あります。

ただ、「吹き分ける炉」としての聖霊のバプテスマは、旧約聖書からバプテスマのヨハネの言葉への関連性に注目する所から生まれた捉え方でもあります。旧約聖書の言葉が新約聖書で成就する仕方は、単純なものではありません。例えば、旧約聖書のある個所の成就として、キリストの初臨と再臨の両方を考え得るという個所は決して少なくないように思います。旧約聖書からの論議をもとに、オルド・サルティスの細部に至るまで結論づけてしまうのは、少し性急なようにも思えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台風

2013-09-16 08:05:46 | 神戸便り
昨晩の台風で事務所前の公園の掲示板が倒れました。(起こしてあげました。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする