長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「万軍の主の熱心が」(イザヤ9:1-7、2014年12月14日、西大和キリスト教会にて)

2014-12-31 14:47:53 | メッセージ

特に、7節終りに心に留まっています。「万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」

「悟り世代」ということを聞きました。1980年代半ば以降生まれた世代をさすそうです。この世代は、バブル崩壊後不況経済しか知らないためか、欲がなくほどほどで満足するそうです。また、無駄な努力や衝突を避ける、過度に期待したり夢を持ったりしない、そんな特徴をもったのがこの世代だそうです。そんな世代のことを聞きながら、若い人たちに限らず、教会の中にもそんな風潮が入り込んではいないだろうか、私自身どうだろうかと問われます。

アドベントのこの時期、主の熱心ということをご一緒に覚えたいと思います。

1.主の熱心によるご計画

「万軍の主の熱心がこれをなされる」とあります。何をなされるのでしょうか。大きく言えば、とこしえの御国を立てるという偉大なご計画の成就と言えるでしょう。当時、イスラエルの国を巡る状況は不安定でした。大国や周辺諸国が押し迫っていました。国はどうなるのかという不安がありました。国の外側だけではなく、内側にも不正や不信仰が満ちていました。そんな中で、ダビデの位に座する君が現われ、「その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」と語られました(7節)。永遠の御国を立てると言われました。

神様が熱心をもって立てようとされるとこしえの国とはどんな国でしょうか。

第一に、光に満ちた国です。「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる」(1節)、「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」(2節)。当時、国の状況は闇で覆われていました。そんな中、光が照ると言われました。

第二に、平和の国です。当時、地は争いに満ちていました。しかし、「戦場で、歩兵のはいたくつと、地にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる」(5節)と語られました。更に、国を治めるお方は「平和の君」と呼ばれると言われました(6節)。

第三に、公平と正義の国です。当時、罪悪、不義、不正が満ちていました。しかし、その国は「公平と正義」によって治められる国でした(7節)。

光と平和、公平と正義に満ちたとこしえの国が立てられ、保たれる。そのすべては万軍の主の熱心によって成し遂げられると言うのでした。これは、私達に大きな励ましを与えるのではないでしょうか。今、私たちの周りには、当時のイスラエルに似た状況があります。闇があり、争い、不義、不正があります。万軍の主が働いて下さらなければ望みを持つことができない状況でしょう。しかし、主は熱心をもって、この時代にも光と平和、公平と正義に満ちた国を打ち立ててくださる…これは励ましです。

2.主の熱心によるご計画の焦点

このような主のご計画の焦点は、ひとりの男の子の誕生だと言います。

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。」(6節)

続いて「まつりごとはその肩にあり」とあります。とこしえに揺らがない御国の統治を担うのは、ひとりのみどりご、ひとりの男の子だと言うのです。この時期、諸教会では聖誕劇が行なわれます。そこでは、不思議な光景が見られます。一人の赤ん坊の前に、人々が来て、宝物をささげたり、礼拝をしたりします。「まつりごとはその肩にあり」、この赤ん坊こそはとこしえの御国を打ち立てるお方だと言うのです。

更に驚かされることに、聖書全体を通して教えられるのは、この赤ん坊こそ神の独り子であり、神と等しいご本質をお持ちのお方であり、そのお方が栄光ある姿を捨てて赤ん坊としてお生まれになったのであるということです。「言は肉体となり、私たちのうちに宿った」(ヨハネ1章14節)。天地を造られたお方が罪悪に満ちた地に入り込んでくださり、人として生きてくださった。それどころか私たちの醜悪な罪悪贖い、むごい死を遂げてくださった。更には、死に打ち勝ち、三日目に復活し、御国に入る道開いてくださった…神様だけがお考えになることできることばかりです。

「万軍の主の熱心がこれをなされる」。クリスマスは神様の愛が現われた日と言われますが、その愛は決してセンチメンタルなものではありません。あなた達のためどんな犠牲を払ってもよいという、決然とした思いがそこには表わされています。

3.主のご熱心をどう受け止めるか

このような主のご熱心を私たちはどう受け止めたらよいでしょうか。

第一に、自分自身のためのご熱心であると受け止めることです。他人事ではありません。闇は私たちの外にあるだけではありません。内にもあります。闇を抱えた私自身のためのご熱心です。内なる罪を悔い改め、赦しと潔めを頂きましょう。私たち自身がまず、光の国、義と平和の国に生きる者とならせて頂きましょう。

第二に、主の熱心を私たちの熱心ともさせて頂きましょう。御国建設の戦いを担わせて頂きましょう。闇は深いのです。決して容易い事業ではありません。しかし、万軍の主は熱心をもって今も働いておられます。私たちもまた同じ熱心をもって働きたいものです。主のご熱心を内に注いでいただきながら。

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「我らの戦い―勝利の秘訣」(出エジプト17章8~16節、2014年11月9日、放出教会にて)

2014-12-31 13:40:49 | メッセージ

エジプトを出、荒野の旅を続ける中で、民の中には弱る者も出てきました。そのような時、攻めてきたのがアマレク人でした(申命記25章18節)。困難と見える彼らの戦いに勝利をもたらしたのは何だったでしょうか。

1.祈り

モーセはヨシュアを戦いのリーダーに立て、人々を戦いに遣わしました。しかし、モーセ自身は丘の上に向かいました。彼は、杖を手に取り、両手を上げて神に祈りました。彼の手が上げられている間イスラエルが勝ち、手が下がるとアマレクが勝ちました。彼らの戦いの勝利は、平地での実際の戦いの場ではなく、丘の上でもたらされました。我らの戦いにおいても、祈りの手が上げられているかどうかが勝敗の鍵です。

2.一致協力

勝利の背景には、人々の一致協力があったことも見逃せません。モーセの祈りを背後に受け、実際に困難な戦いを戦ったヨシュアたちがいました。また、モーセの手が重くなったとき、両側からその手を支えたアロンとホルがいました。手足を動かす者、指導者の祈りを支える者、様々な人々の一致と協力によって勝利がもたらされます。

3.神様ご自身

祈るモーセ、戦うヨシュアたち、モーセを支えるアロンとホル。しかし、究極的な勝利の源は神様ご自身でした。勝利の後、モーセは祭壇を築き、その名を「主はわが旗(アドナイ・ニシ)」と呼びました。勝利において常に栄光を神様に帰することは大切です。我らの勝利の源は、神様ご自身にあるからです。

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「過ぎ越しの恵み」(出エジプト12章1~14節、2014年10月26日、放出教会にて)

2014-12-31 13:38:02 | メッセージ

イスラエルの民にとって、過ぎ越しの祭りは大変大切な祭りです。神様は、この祭りによって、「過ぎ越しの恵み」というものがあることを示しておられます。

1.過ぎ越しの恵みの背景

この恵みの背景には、あらゆる罪の審判者なる偉大な神様のご存在があります。イスラエルの民を絶対的権力で支配し、苦しめていたエジプトの王と民は、次々に起こる十の災いによって屈服せざるを得ませんでした。このことは無慈悲なエジプト王と、彼らが拝んでいた偽りの神々に対する神様の審判でもありました(12節)。どんなに地上で強大な力を誇示するものであっても、創造者なる神様の前には、裁かれるべき存在です。

2.過ぎ越しの恵みの根拠

十の災いは、エジプトの民の上にだけくだり、イスラエルの民にはくだりませんでした。しかし、その根拠は、民の中にではなく、「血」にありました。小羊の血が家の入口の二つの柱とかもいに塗られなければなりませんでした。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越す」(13節)。「わたしたちの過越の小羊であるキリストはほふられたのだ」(Ⅰコリント5:7)。ここにこそ過ぎ越しの恵みの根拠があります。

3.過ぎ越しの恵みの確認

イスラエルの民は、年に一度この祭りを祝い、神が過ぎ越してくださった恵みを覚えます(14節)。同じことをイエス様は私たちにも命じておられます。それが聖餐式です。何度も何度も、私たちがこの恵みを思い起こし、この恵み以外に私たちが御前に立ち得る根拠のないことを確認するためです。

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「楽園を破壊したもの」(創世記3:6-19、2014年5月25日、池田中央教会にて)

2014-12-31 13:34:46 | メッセージ

人類の歴史の中には、数多くの痛ましい失敗があります。なお悲惨なことは、自分の過ちがどんなに大きな結果をもたらしたのか、知らないでいることが多いことです。人類の祖アダムの場合も同様でした。神様のご命令を破ったことを知られた神様は、アダムに問われます。「あなたは、いったいなんということをしたのか」と。何かが変わりました。ひと言で言えば、楽園が破壊されました。私たちは、罪のもたらす結果がどんなものか知っているでしょうか。

一、神と人との関係の破壊

まず、平和と喜びに満ちた神様と人間との関係が破壊されました。神様と人間との間には、親しい愛の交わりがありました。ところが、罪を犯したアダムとエバは、神様の臨在が近づくのを知ったとき、思わず身を隠してしまいました。神様の前に喜びをもって出る自由が失われてしまいました。

 二、人と人との関係の破壊

次に、人と人との関係が破壊されました。「楽園」において、最初アダムは一人でした。沢山の動物たちに囲まれていても、彼は満足しませんでした。エバが造られアダムの前に立ったとき、彼はようやく満足を得ました。「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。しかし、罪を犯した直後、彼は自分の罪の責任をエバに着せてしまったのです。

三、自然と人との関係の破壊

更に、自然界と人との関係も破壊されました。実り多かったはずの地はのろわれ、茨とあざみを生えさせ、楽しかったはずの労働は苦痛の多いものとなりました。

四、回復への道

これらのことは、人間の歴史において、また私たち自身の経験において、繰り返されているのではないでしょうか。今も罪によって、神様との関係、人との関係、自然との関係は、破壊され続けているように見えます。しかし、神様は、回復の道をも備えてくださいました。十字架に死に、よみがえられた神の御子イエス様こそは、その道です。このお方によって、罪赦され、破壊された一つひとつを回復して頂いて、悲しみ多いこの世にあっても、「楽園」を回復して頂こうではありませんか。

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「洗足に表われた十字架の意味」(ヨハネ13章1~15節、2014年3月16日、放出教会にて)

2014-12-31 13:32:11 | メッセージ

十字架にかかられる前夜、イエス様は突然、弟子たちの足を洗い始められました。このイエス様の行為は、互いに仕えることの大切さを教えると共に、十字架が何を意味するのかを表わすものでした。そこには、十字架のどんな意味が表わされているのでしょうか。

1.十字架=神の御子が仕える姿を取ること

ペテロは、「主よ、あなたが?」と驚きました(6節)。なぜなら、それは普通、奴隷がする仕事だったからです。「仕えられるためではなく、仕えるため」(マルコ10:45)に来られたイエス様は、人の汚い罪をかぶる救い主としての働きを成し遂げるため、十字架についてくださいました。

2.十字架=私たちの罪をきよめ、新しい関係を始めるもの

驚いたペテロは、「わたしの足を洗わないで」と願いました。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と言われました(8節)。イエス様は十字架の血潮によって私たちの罪をきよめ、そのことを通して私たちとの間に新しい関係を築こうとされたのです。

3.十字架=互いに仕え合う新しい生き方を始めさせるもの

 「わたしは手本を示した」と言われました(15節)。互いに仕え合う生き方を示すと共に、イエス様は十字架を通して、そのような新しい生き方を私たちの中に始めようとしておられます。十字架には、それによって救われる者に、そのような生き方を始めさせる力があります。

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メッセージをアップします

2014-12-31 12:08:26 | メッセージ

もともと、長田家の様子を知り合いの方々にお知らせする目的で始めたこのブログですが、

「本」のカテゴリーは、神学研究の色合いが強く、全体的に堅めの記事が多くなっています。

また、日中は事務仕事、空いた時間は神学研究、ということだと、牧師本来のお仕事はどこに行ったのかということになりそうです。

自分自身の神様からの召しの中心は、あくまでも「祈りと御言葉のご奉仕」にあると考えていますので、

その証しとして、メッセージの要約をアップさせて頂くことにしました。

現在、決まったメッセージのご奉仕はなく、時々諸教会からの依頼によりさせて頂いています。

年間通して言えば、月に一回程度になるかと思います。

聖書個所が指定されている場合もあれば、祈って決めさせて頂く場合もありますが、

いずれにしても、私としては貴重な御言葉の奉仕の機会です。

その教会の週報に要約を載せさせて頂く場合はもちろん、そうでない場合も、今後、できるだけアップしていきたいと思います。

まずは、今年1年間のメッセージを週報掲載分中心にアップしていきます。

読まれる方がお一人でも神様の御声に耳を傾けて頂く機会となれば幸いです。

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15章 その4

2014-12-30 17:43:18 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

(4)ヨハネ3:5について

第15章では、特にヨハネ3:5に対する検討が行われました。著者は、この箇所の検討を特に礼典主義者を意識しながら議論を進めているように思われます。しかし、私自身の関心はどちらかと言えば、聖霊論にありますので、その視点から私なりの検討を加えたいと思います。

この節の「υδωρ και πνευμαによる誕生」について、ダンはかなり綿密な吟味をしています。その議論は複雑で、単純化しにくいと言えます。たとえば、ヨハネによる福音書での「水」の用法には、二つの区別される用法、すなわち、対照と同一視とがあることを指摘します(186頁)。しかし、3:5は、そのいずれでもないことを指摘します。「3:5を単に他の水ー御霊の箇所の線でリストに挙げることはできない。というのは、3:5において、水と御霊は対照されているのでもなければ同一視されているのでもなく、むしろ互いに調和的に作用すると位置づけられている。」(190頁)結果として、ダンは、二つの可能性を提示します。「それは密接な関連性の内に水の(クリスチャン)バプテスマと御霊の賜物とから成っているか、あるいは御霊によるきよめ、すなわちヨハネの水のバプテスマによって象徴されるきよめから成っているか、いずれかである。」(190頁)

そのいずれが妥当な解釈であるのか結論づけるために、ダンは更に詳しく文脈を確認た後、こう指摘します。「そのフレーズは二詞一意であり、両方の言葉を一つの前置詞が支配していることは、υδωρ και πνευμαが一つの概念(水―霊)を形づくっていることを示唆する。」(192頁)そして、再度、二つの解釈の可能性を指摘します。「このことは、クリスチャンの回心ー入信式が水のバプテスマと御霊のバプテスマの両方が統合的部分となっている(神学的)単一性であることを示唆するか(その場合、この節はそれらがどのように関わっているかを語ってはいない)、あるいは、水が4:14や7:38のように、命を与える御霊の力の象徴であることを示唆しているかである。」(192頁)

ダンはここで、後者の解釈をより妥当なものとして支持します。「旧約聖書では水が人々に命をもたらす神のみわざについてのふさわしい象徴であり(参照聖句省略)、ユダヤ思想では水は御霊が与えられることによる終末論的再創造と更新にしばしば関連付けられているという事実からすると、後者がよりありえるものであろう」(192頁)。特に、クムラン共同体における「水と霊」の用法に注目しながら、以下のようにダンは結論づけます。「霊的な礼拝を可能にするのは『真理の御霊』(πνευμα και αληθεια)であるように(4:23、24)、上からの誕生をもたらすのは、『御霊の水』(υδωρ και πνευμα)である。

複雑なダンの議論をあえて単純化してみると、A και Bを「AとB」(対照)とも「AすなわちB」(同一視)とも訳さず、「BのA」と訳すことの提案と言えそうです。そして、ここで、A=「水」=「きよめ」であり、B=「御霊」と考えられており、υδωρ και πνευμα=「御霊のきよめ」と解釈していることになるようです。

ところで、ダンは、3:5における可能な解釈のうち、上記解釈についての説明を詳細に行っているのに対して、もう一方については、不思議なほどにほとんど説明を加えていません。実は、ヨハネの手紙を扱う次章において、ヨハネの福音書の検討を振り返りながら、ダンはこう書いています。「第4福音書の著者は、(中略)上からの誕生に水のバプテスマがカギの役割を果たすと信じていたかもしれない。」(195頁)従って、ダン自身はあまり触れていない解釈が正しい可能性を相当意識しているようにも思えます。そこで、私としては、こちらの解釈についても、踏み込んで検討してみたいと思います。

ダンが3:5の解釈としてもう一つの可能性として示唆しているのは、以下のようなものです。「それは密接な関連性の内に水の(クリスチャン)バプテスマと御霊の賜物とから成っている」(190頁)、「クリスチャンの回心ー入信式が水のバプテスマと御霊のバプテスマの両方が統合的部分となっている(神学的)単一性であることを示唆する」(192頁)。このような解釈について著者が付記している説明は、引用の後者につけられた以下のようなもののみです。「その場合、この節はそれらがどのように関わっているかを語ってはいない」(192頁)。

この解釈は、「水と霊」を「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」として理解します。すなわち、3:5を、「人は、水のバプテスマと霊のバプテスマとによって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言い換える理解です。但し、前置詞が"υδωρ και πνευμα"の前に一つだけですので、

この解釈によれば、3:5は、1:33で洗礼者ヨハネが水のバプテスマと聖霊のバプテスマを対照させて語っていることを背景としていることになります。そこでは、水のバプテスマと聖霊のバプテスマとは、明らかに対照的な位置にあるものとして提示されています。しかし、3:5においては、両者が共に回心―入信式において本質的な役割を果たすことが語られていることになります。これは、必ずしも二つの箇所において相矛盾することが語られているというわけではないと思います。

たとえば、ダンは使徒行伝について検討した際、特に回心―入信式についての詳細な検討を加えました。特に、使徒2:38についての検討の最後に、(水の)バプテスマと聖霊との関係について検討し、その結論を次のようにまとめています。「ルカによれば、水のバプテスマは回心―入信式において本質的な役割を果たすこと、また水のバプテスマが表現している信仰を通して霊のバプテスマと(通常は密接に)関連していることを認めつつも、霊のバプテスマと水のバプテスマが別個の実体であり、クリスチャンの回心―入信式の焦点、神経中枢は御霊の賜物であることを認めなければならない。」(101、102頁)すなわち、ダンによれば、回心―入信式において、水のバプテスマと霊のバプテスマとの両方が本質的な役割を果たし、かつ両者は密接に関連しています。但し、ダンにとっては、両者は別個の実体であると共に、回心―入信式の焦点は霊のバプテスマのほうにあるのだということになります。そのような意味で、「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」との双方が密接に関わりながら、回心―入信式に至ることを「神の国にはいる」ことの条件としている・・・そんな受け取り方が可能となります。

もちろん、ダンが指摘するように、ヨハネによる福音書自体において、「この節はそれらがどのように関わっているかを語ってはいない」ことはよく踏まえる必要があります。「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」とが相互にどのような関係にあるかについて、ヨハネによる福音書自体は何も語っていません。ですから、受け取りようによっては、たとえば、「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」の両方が必須であるという機械的な理解も可能になります。ただ、そのような理解については、この章でダンが詳しく指摘しているように、ヨハネによる福音書全体の記述から、またこの箇所の文脈からは逸脱しているように見えます。特に、直後の文脈(3:6~8)においては御霊の働きにのみ言及されていることを十分考慮する必要があります。

要約すれば、ヨハネ3:5においては、二つの解釈が可能です。一方の解釈によれば、υδωρ και πνευμα=「御霊のきよめ」と解釈することになります。もう一方の解釈によれば、υδωρ και πνευμα=「水のバプテスマと霊のバプテスマ」ですが、両者は一つの前置詞に支配されているので、神学的単一性を認めなければならないことになります。その上で両者の関わり方については明確にされていませんが、文脈からは「霊のバプテスマ」に焦点が当てられていることを踏まえる必要があります。いずれにしても、新しく(上から)生まれることについて、御霊の働きの中心性が語られていることになります。

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淡路島

2014-12-30 17:04:52 | 長田家便り

家族で淡路島のペンションに泊まって来ました。

色々スケジュールがあるので、息子達も冬休みの宿題をがんばり、

長男は既に全部終え、次男も見通しが立ってきたので、安心して出発。

行ってみると、淡路島西側の瀬戸内海を目の前にしたペンションでした。

海辺を散歩した後、北淡震災記念公園へ。

http://www.nojima-danso.co.jp/

ここは、阪神淡路大震災の震源となった野島断層のずれの状況をそのまま保存した場所。

震災時の揺れの体験館や、断層が敷地内を通った家をそのまま保存したところもあり、

当時の状況を垣間見ることができました。

翌日、帰りにはハイウェイオアシスから県立淡路島公園に出て、しばらく遊ぶことができました。

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新・戦争論(池上彰・佐藤優、文春新書)

2014-12-25 21:00:34 | 

休日、家族で本屋をのぞいた際、たまたま目についたこの本を買いました。複雑な国際関係について、色々書いたものはありますが、何冊も読むだけの余裕はありません。かと言って、お一人が書いたもの一冊だけ読んでも、その人の情報への信頼性を問う必要がありますし、片寄り具合もあるかもしれないと考えてしまいます。その点、国際情勢についての情報量では定評のあるお二人が、「そうそう」と言い合いながら語る内容には、一定の信頼が置けそうで、その意味では国際政治初心者の私も安心して読むことができました。

特に近年話題になっている国際問題当事者である国々について、宗教、民族、経済、政治など、要所要所を紹介しながら分析しています。なるほど、そういうことだったかと納得しながら読む部分が多々ありました。

一方の池上彰は、もとNHKで記者やニュースキャスターをされていた方だけに、幅広い方面から信頼を受けている方だと思いますが、他方の佐藤優は、外務官であったものの背任・偽計業務妨害容疑で逮捕、拘留され、最高裁までいったものの執行猶予付き有罪が確定されていたり、小林よしのりとの論争があったり、かなりのあくの強さを感じさせる面があります。しかし、母親がクリスチャンであり、自らも19歳で洗礼を受けています。

http://president.jp/articles/-/10292?page=4

また、同志社大学神学部で組織神学を学び、神学修士号を持ちます。外務省に入ったのも、チェコの神学者を学びたかったからだとか。独房生活で彼を支えたのも、聖書の言葉であったようで、「日本人のためのキリスト教神学入門」というサイトも開いています。

http://webheibon.jp/blog/satomasaru/

世界情勢を見つめる冷徹な目と、キリストへの信仰がこの人の中でどうつながり、一体となっているのか、今後興味を持って見ていきたいと思いました。

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事務所のクリスマス

2014-12-25 18:00:48 | 事務所便り

今日は事務所でささやかなクリスマス食事会。

息子達も呼んで頂きました。

ビッグな差し入れ(チキンの丸焼き)もあり、おなか一杯、大満足。

明日で今年の事務局業務も終了、一年の守りを主に感謝しつつ。

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