長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「聖書が告げるよい知らせ」第17回 救いをもたらす主イエス

2022-05-26 19:28:34 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十七回 救いをもたらす主イエス

ルカ一九・一‐一〇

 

 聖書が告げるよい知らせの一つに、「あなたは孤独ではない」というものがあります。神様から離れた人間は、本質的な孤独を抱えて生きることになります。しかし、そういう私たちに神様は近づき、回復の道を備えてくださり、「あなたは孤独でない」と語りかけてくださいます。

神様はそのような回復のために、御子キリストを遣わしてくださいました。この方によって、孤独に満ちたこの世界に救いがもたらされる…これが聖書の告げるよい知らせです。

 今日の箇所に登場するひとりの人物にまつわる出来事は、このことを分かりやすく証しています。

 

一、孤独な取税人

 

それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。(ルカ一九・一‐四)

 

ザアカイはエリコの町で取税人のかしらでした。取税人は、ユダヤ人を支配するローマ帝国のため、税金の取り立てをする人々。規定以上の取り立てをして、自分の懐に入れるケースも多く、基本的に人々から憎まれる対象でした。その「かしら」、すなわち責任者のような存在ですから、ザアカイがどれ程金持ちであったとしても、ユダヤ人仲間からは良く思われていなかったことでしょう。

ところが、そのザアカイがイエス・キリストのうわさを聞き、関心を持ちました。取税人とも分け隔てなく接しておられると聞いていたのかもしれません。町をお通りになると聞き、ぜひとも一目見たいと考えました。

ところが、困った事態が起きました。「背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」のです。これは、彼の抱えていた孤独を如実に物語っています。彼がイエス様を見ることができなかったのは、「背が低かった」からでしたが、それだけでもなかったでしょう。おそらくは、ザアカイだと分かると、人々は彼をイエス様の前に出してやるどころか、さりげなく進む道を閉ざしたのではないでしょうか。

この後の展開を見れば、ザアカイも人々からのそのような評価や振る舞いを、ある面、仕方ないものと考えていたのかもしれません。取税人のかしらとして金持ちにはなりましたが、人々から憎まれて当然という意識も、どこかにあったのではないでしょうか。

しかし、ザアカイはどうしてもイエス様を見たい一心で、思い切った行動に出ます。いちじく桑の木に登って、木の上からイエス様を見ようとします。おそらく、孤独な彼の心の中に一条の光が差し込む可能性を、このお方の中に見出したのでしょう。

 

二、取税人に近づく主イエス

 

イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。(ルカ一九・五‐七)

 

 思い切った行動を見せたザアカイに対して、その場所まで来られたイエス様もまた、人々の予想しない行動をとられます。ザアカイの家に泊まることを申し出られるのです。

 「泊まることにしている」とは、直訳的には「泊まらなければならない」という表現です。見方によれば、強引な申し出のようにも思えます。しかし、これはザアカイにとってうれしい申し出ではなかったでしょうか。

「泊まってもいいかい」と言われたら、遠慮しなくてはならないと考えたかもしれません。しかし、「泊まることにしている」とまで言われたとき、遠慮する必要がないことを知り、イエス様をお泊めしました。それは彼にとって迷惑なことではなく、喜びが自然に沸き起こって来ることでした。おそらくは、彼の家に泊まろうとする人は皆無に等しかったでしょうから。

しかし、イエス様がザアカイの家に入ると、様子を見ていた人々からはつぶやきが漏れ出ました。「あの人は罪人のところに行って客となった」と。当時のユダヤ人社会にあっては、「取税人」=「罪人」であり、その家に行って客となったイエス様もその仲間ではないか、というつぶやきでした。

ザアカイは人々にそのようなつぶやきをもたらすような生き方を確かにしてきました。しかし、主イエス様は、そういう彼であることを先刻ご承知で、彼の家の客となりました。

 

三、救いがこの家にきた

 

 イエス様を家に迎え入れたとき、ザアカイは立ち上がり、イエス様にこういうことを言い出しました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」(ルカ一九・八)

 これは、それまでの彼の生き方からは考えられない発言でした。彼の中に何か大きなことが起こったことは間違いありません。孤独に満ちた彼の心に、衝撃が走りました。自分のような者を愛し、受け入れ、近づいてくださるお方が目の前にいる…そう感じた彼は、殻に閉じこもり、「自分さえ良ければよい」という今までの生き方を捨て去るべきだと感じたのでしょう。

これまで顧みることのなかった貧しい人々のことを思いました。自分が今持っている富で、彼らを助けることができると、初めてのように気づきました。自分がしてきたかもしれない数々の不正が恥ずかしく思えてきました。彼は思わず、イエス様に先のような申し出をしました。

この時、イエス様は次のように言われます。

 

今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカ一九・九、一〇)

 

 「人の子は、失われた者を捜して救うために来た」…イエス・キリストがこの世界に来られたのは、まさにこのためでした。この後、イエス様は十字架に死なれ、三日目によみがえられますが、それもまた、神様から失われた者を救うためでした。

神様から離れ、「自分さえ良ければ」という生き方の中で人々からも孤立していたザアカイが、神様の愛を知り、自分の殻を打ち破り、周囲の人々を思いやる生き方へと変えられた…それはザアカイのもとに「救い」が来た瞬間でした。イエス様が来られたのは、このようなことが世界中に起こるためでした。

 私たちも、ザアカイのように、自分の心と生活に悔い改めと信仰をもって主イエス・キリストをお迎えするなら、同じことが起こります。

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「聖書が告げるよい知らせ」第十六回 父なる神の御心

2022-05-20 08:41:26 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十六回 父なる神の御心

ルカ一五・一一‐二四

 

 神様に背を向け、罪を犯して生きる人間が神の祝福を失っていること、しかし、そのような者たちを救う計画を神様が備えておられることを見てきました。そこには、罪人をあわれむ神の御心が示されています。この点について、イエス様は「放蕩息子のたとえ話」として知られる物語を通して分かりやすく教えておられます。

 

一、落ちぶれた放蕩息子

 

 「ある人に二人の息子がいた」と言われます(ルカ一五・一一)。物語はまず、弟息子に焦点が当てられます。(物語は、後で兄息子についても焦点を当てますが、ここでは取り上げません。)彼は、ある時、父親にひとつの要求をします。「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」(ルカ一五・一二)。これは、やがて父親が死んだときに与えられるはずの相続財産を今欲しい、ということです。随分な要求のようですが、父親はそれを許し、財産を二人の息子に分け与えます。ところが、弟息子はさらに父を悲しませる行動をとります。

 

それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。(ルカ一五・一三)

 

弟息子は父親から離れて生きることが自由をもたらし、幸せへと通じると考えたのかもしれません。しかし、その結果はひどいものでした。莫大と思えた財産もたちまちに使い果たされてしまいます。すっからかんになった丁度その時、折悪く、その地方に飢饉が起こります。食べることにも窮し始めた彼は、ようやく仕事を探し始めますが、そんな時に良い仕事先が簡単に見つかるはずもありません。ユダヤ人にとっては「汚れた動物」と言われる豚飼いの仕事しかありませんでした。彼の空腹はひどいもので、「豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだった」と言われます(ルカ一五・一六)。

このような弟息子の姿は、決して他人事ではありません。むしろ、創造主にしてわれらの父であられる神様のもとを離れ、自分勝手な生き方へと突き進んできた私たち人間の姿そのものと言えるでしょう。

天の父なる神様のもとで幸せに生きるようにと造られた私たちですが、神様のもとでの生活を何か窮屈なもののように思い、神様から離れ、自分一人で生きていくことに幸せを見出そうとしていないでしょうか。しかし、もしそうであれば、その結果はどのようなものでしょうか。浅はかな自分の考えで進むことにより、神様のもとでの豊かで創造的な生き方から離れ、本来あったはずの豊かさを失ってしまったのではないでしょうか。むなしいもので心を埋めようとして、かえって心の飢え渇きを募らせているのではないでしょうか。

 

二、我に返る放蕩息子

 

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ・一五・一七‐二〇)

 

 みじめさの極みに置かれた弟息子は、そこで大きな気づきを与えられます。「我に返って」とは、直訳的に訳せば、「自分自身に来て」となります。すなわち、本来自分自身のあるべき姿が思い起こされたということでしょう。

これを聖書に現れるもう一つの大切な言葉で言いかえれば、「悔い改める」と表現することができます。これは心の方向転換を意味する言葉です。神様に背を向け、神様から離れて生きていたとすれば、体の向きを一八〇度変え、神様に顔を向けなおし、神様に近づくことです。

弟息子の言葉と行動から考えると、悔い改めには少なくとも四つの要素のあることが分かります。

第一に、本来自分がいるべき場所が神様のもとであると認めることです。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。」第二に、自分が神様に対して取ってきた態度が間違っていたと認めることです。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。(略)』」第三に、その結果、神の子と呼ばれる資格を失ったことを認めることです。「もう、息子と呼ばれる資格はありません。」第四に、以上のような認識に基づき、今ある場所から立ち上がって、神様のもとに進み出ることです。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。」

 このような悔い改めによって、私たちは「我に返る」、すなわち、本来の自分自身の姿に帰っていくことができます。具体的には、たとえば以下のように祈ることができます。

 「天の父なる神様。今まで私は、神様から離れ、自分の力で生きていこうとしてきました。しかし、そこには本当の幸せはありませんでした。神様のもとで生きることが私にとっても一番幸せなことであると分かりました。神様を無視して歩んできた私の罪をお赦しください。今、私はあなたのもとに立ち返ります。その資格はありませんが、私の罪を赦し、もう一度神様の子としてください。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン」

 

三、放蕩息子を迎えた父

 

 さて、父親のもとに帰ろうとして立ち上がった弟息子にとって、問題は父親が自分をどう迎えてくれるかということだったでしょう。果たして自分を家に迎え入れてくれるのか、思い悩みながら、重い足取りで家に向かったのではないでしょうか。しかし、家に近づいた弟息子を迎えたのは、驚くべき出来事でした。

 

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ一五・二〇)

 

 父親が彼を見つけたとき、「まだ家までは遠かったのに…駆け寄って」来ました。なぜでしょうか。おそらく、父は来る日も来る日も、息子が出て行った方向を見ていたのではないでしょうか。ですから、とぼとぼと歩いてくる息子の姿を遠くからみとめ、走り寄り、その首をだいて口づけしました。自分が間違っていたと告げる息子の言葉を最後まで言わせず、一番よい衣を着せ、指輪を手にはめ、履き物をはかせます(ルカ一五・二二)。「息子と呼ばれる資格はありません」と告げる息子に、「いや、おまえは確かに私の息子だ」と言わんばかりです。子牛を調理しての宴会には、息子を迎えた父の心が表れています(ルカ一五・二三)。「自分を迎えてくれるだろうか」という弟息子の心配は杞憂に終わり、はちきれんばかりの喜びで迎えられたのです。

 私たちがこれまでどれ程神様に背を向け、神様から遠く離れたところを生きてきたとしても、心配する必要はありません。「我に返り」、神様のみもとに来るならば、神様はこの父親のような喜びの心で迎えてくださいます。これは、聖書が告げるよい知らせそのものです。

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韓国語教室

2022-05-06 21:46:38 | 教会便り

今日は韓国語教室の第一回の集いがありました。

主に口コミで案内、今日は10名の方々が集ってくださいました。

担当は貞美。

第一回ですので、自己紹介の後は、ハングル文字や簡単な挨拶の学習。

韓国語でのゴスペル曲の紹介も。

教会や信仰に関心を持って頂く機会ともなれば感謝。

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塩屋聖会

2022-05-04 21:02:29 | 教会便り

今日は塩屋聖会2日目。

教会員の多くは、自宅で視聴しておられると思いますが、

今日、午前、午後の集会は、会堂でも視聴できるよう準備しました。

貞美や父の他、午前、午後、お一人ずつ、教会員も参加くださいました。

講師は塩屋聖会ではおなじみの先生方で、

懐かしい雰囲気の中、み言葉の恵みを頂きました。

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岡山へ

2022-05-04 20:46:02 | 長田家便り

GW、岡山の瞳の様子を見に、夫婦ででかけました。

(恵は総体。)

下宿に着くと、まずは、持ち来たるおかずや食材を冷蔵庫へ。

机の上は、教科書が並び、少しは大学生らしくなっていました。

瞳がお世話になっている岡南教会。

外側だけ見て帰ろうかと話していましたが、中におられた

教会のご婦人方が出て来られて、中を案内してくださいました。

(貞美は初めて。)

ひと通り見終わったところで、中島先生ご夫妻も出てこられ、

少しの時間、お交わりもいただきました。

最後は、瞳がまだ行っていないという後楽園へ。

岡山城は11月まで令和の大改修ということで、入れませんでした。

短い滞在ではありましたが、

岡山の地での瞳の様子が多少なりとも伺えて感謝でした。

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「聖書が告げるよい知らせ」第15回 わたしをだれだと言いますか

2022-05-01 14:28:01 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十五回 わたしをだれだと言いますか

マルコ八・二七‐三八

 

 聖書が告げるよい知らせを理解するためには、鍵となる問いがいくつかあります。イエス様によってここで問われている問いは、その中でも最重要のものです。すなわち、「わたしをだれだと言いますか」という問いです(マルコ八・二九)。イエス様をどのような方として見、理解するか、これは聖書全体の教えを正しく理解するための鍵と言えます。

 

一、イエスはキリスト

 

 イエス様はまず弟子たちに、より一般的な質問をされました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」弟子たちは自分たちが見聞きしたことを口々に言葉にしました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」(マルコ八・二八)

続いてイエス様は、もう一つの質問をされました。

 

「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」(マルコ八・二九)

 

 この質問は、イエス様にとっても弟子たちにとっても、より重要な問いでした。イエス様の身近にあって弟子として歩んできた彼らが、イエス様のことをどう理解しているのか、これは、イエス様にとってもより大きな関心事だったことでしょう。先の質問には口々に答えが出てきましたが、この質問には一瞬、沈黙が漂ったかもしれません。その沈黙を打ち破り、発言したのはペテロでした。

 

ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」(マルコ八・二九)

 

 「キリスト」とは、ヘブル語の「メシア」に相当するギリシア語です。もともとは「油注がれた者」を意味する言葉で、王や祭司、預言者など、神の働きをする者に油が注がれたことに由来する言葉です。彼らは神の民、イスラエルにおいてその働きを進めましたが、民をリードするはずの指導者たちが神に背き、民を間違った方向へ導きました。この結果、民は滅びと離散を余儀なくされます。このような中で、預言者たちが語ったのが、やがて来るべきお方、メシア(キリスト)についての預言でした。

人々はキリストの出現を待望しました。弟子たちもユダヤ人として同じ期待を持っていました。そして、寝食を共にしながら、イエス様の教えに耳を傾け、イエス様のみわざを間近に見てきた弟子たちの中には、この信仰が芽生えていました。「この方こそ神が遣わされたキリストだ」と。

 イエス様に対する評価としてこれほど的を射たものはありませんでした。しかし、この評価は当面、多くの誤解や混乱を招きかねないことでもありましたから、イエス様は「自分のことをだれにも言ってはいけない」と彼らを戒められました(マルコ八・三〇)。

 

二、苦難を受けるキリスト

 

 ところが、続いてイエス様が語られたことは、弟子たちを驚かせました。

 

それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。(マルコ八・三一、三二)

 

 すなわち、ご自分が当時の宗教指導者たちによって捨てられ、殺されること、そして三日目によみがえるべきことを語られました。これほど明白に、ご自分の受難と復活について弟子たちに語られたのは初めてのことでした。

 ペテロはイエス様の言葉が受け入れられなかったようです。「するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた」とあります(マルコ八・三二)。「キリストが人々に捨てられ殺されるなんてことがあってはならない」ということだったでしょうか。

しかし、ここでペテロにとって忘れられないことが起こりました。

 

しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ八・三三)

 

 つい先ほど、「あなたこそキリスト」と、イエス様のご質問に正解らしきことを答えることができたペテロは、得意満面だったかもしれません。しかし、次の瞬間、イエス様から「サタン」と言われてしまいます。「神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われます。何が問題だったのでしょうか。

 おそらく、ペテロの「キリスト」に対するイメージがかなり偏ったものだったのでしょう。ペテロにとっては、キリストはユダヤ民族の救い主、政治的解放者としてのイメージが強かったのではないでしょうか。ですから、「簡単に死んでしまっては困る」と考えたのでしょう。このような「キリスト」へのイメージは、当時のユダヤ人にとって一般的なものだったようです。ペテロだけでなく、その場にいた弟子たちも、ペテロと同様な思いを抱いていたかもしれません。しかし、それはかなり偏ったイメージでした。

 旧約聖書には、「王」、「解放者」としてのメシアについてのメッセージが沢山見られます。しかし、私たちは同時に、「苦難のしもべ」についてのイザヤの預言もこれまでに学んできました。そこで示されていたのは、多くの人々の罪を負い、苦しみ、捨てられ、殺されるメシアの姿でした。しかし、弟子たちは、神が遣わされるメシアが苦難の道を歩むということを理解していませんでした。

 苦しむことのないメシア、十字架抜きのキリスト…そのような誤解が現代でもないわけではありません。キリストを正しく理解し、受け止め、信じさせていただきましょう。

 

三、自分の十字架を負って

 

 ここでイエス様は弟子たちだけでなく、群衆も呼び寄せながら、次のように言われました。これは、彼らだけでなく、現代に生きる私たちへの招きでもあります。

 

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。(マルコ八・三四、三五)

 

 私たちのために自分を捨て、十字架への道を歩んでくださったイエス様こそ、私たちの王、私たちの主です。このお方に従う道は、自分の思いを捨て、自分の十字架を負う道。「自分の十字架」とは、神様からそれぞれに託された使命です。「十字架」ですから苦難がないはずはありません。しかし、それをしっかり負い、イエス様についていくなら、そこに真のいのち、幸いな生涯があります。

 十字架に向かって歩んでくださったイエス様を見上げ、「あなたも自分の十字架を」と言われるイエス様のチャレンジにお応えして、いのちの道を歩んで参りましょう。

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