長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

しばしのおでかけ2

2020-04-25 15:32:20 | 長田家便り

今週もしばしのおでかけ。

いつもお世話になっているひよどりごえ森林公園で昼食。

ここはいつもほとんど人がおらず、こういう時は特に助かります。

快晴の空の下、森林の中を気持ちよく歩きました。

行き帰りのつつじ、ハナミズキ、八重桜もきれいでした。

 

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長田家での礼拝

2020-04-19 13:30:37 | 長田家便り

神戸聖泉教会では、説教文章をお送りして各家庭で礼拝。

わが家も今日から自宅での礼拝。

いつもの時間、10時15分より。

司会は貞美、説教は私が文章を読み上げ。

息子たちは神戸中央教会員ですが、主管牧師のご了解を頂き、一緒に礼拝。

献金もおささげしました。(保管は教会別。)

教会の皆さんのご家庭での礼拝、どうだったでしょうか。

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おでかけ

2020-04-18 17:05:21 | 長田家便り

家の中での生活が続く中、家族でおでかけ。

ドライブスルーでハンバーガーを四人分を買い、

須磨浦公園の駐車場で車の中で昼食。

海を見たり、散りかけの桜を見たり、

少し駐車場内ををぶらぶらして、

しばしのおでかけを終えました。

それなりに気分転換できました。

 

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貞美誕生日

2020-04-14 19:55:33 | 貞美便り

貞美の誕生日でした。

いつもありがとう。

 

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復活日礼拝、そして家庭主日礼拝へ

2020-04-12 21:43:27 | 教会便り

赴任したばかりの神戸聖泉教会。
復活日の礼拝を終えてから、
緊急事態宣言下の今後の対応を話し合い。
来週より各家庭での礼拝に移行。
各ご家庭でささげられる週ごとの礼拝に、
復活のイエス様が共にいてくださいますように。

写真は、初めて使ったチョコのイースターエッグ。



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信仰への招き  あとがき―二兎を追う者?

2020-04-11 14:14:08 | 信仰への招き

ブログ・シリーズ「信仰への招き」を終えて心に浮かぶのは、「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉です。

このシリーズを始めるに当たり、私としては二つのねらいがありました。聖書が語る「福音」とは何なのか。近年の神学的な論議も踏まえながら、もう一度自分自身の中でまとめなおしたいということ。もう一つは、その上で、現代の日本人にも届く形でこの福音をお届けしたいということ。

しかし、前者においても多くの不十分さが残りました。全体的に色々な要素が錯綜しており、整理しきれていない面もあります。また、神学的な議論としてはもう少し精密にしなければならない点が多々あります。あるいは神学的吟味に焦点を絞って再度やり直すかもしれません。

後者については更に不十分なものとなりました。「現代の日本人にも届く形で福音を」という願いが今回の文章によって果たされたとはとても思えません。この面については、かなり違ったアプローチから新たに取り組みなおす必要がありそうです。

このように、多くの点で不十分さを感じつつ、このシリーズをやってみてよかったという思いもあります。福音理解についての神学的取り組みのゴールがどの辺にありそうか、自分なりには見えてきた思いもします。また、このように拙い文章であっても、聖書の語る福音に多少なりとも関心を持つ方が一人でもいてくだされば大変うれしいことです。

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信仰への招き  20.約束に立ち、希望に生きる

2020-04-11 14:10:59 | 信仰への招き

信仰者のあり方として、旧新約聖書が一貫して示しているのは、神の約束に立つ生き方です。旧約聖書は、アブラハムに告げられた神の約束がいかに成就していったかを記すと共に、民の背きの罪にもかかわらず、なおも約束の実現に向かって進んでいくべきことを告げています。新約聖書は、旧約聖書で告げられた約束がイエス・キリストを通して果たされたことを告げると共に、終りの時、なお実現していない領域が主イエスの再臨と共に果たされることを告げています。

これらのことを踏まえつつ、福音に生かされた者の生き方は「希望に生きる」ということであることに触れて、このブログ・シリーズを終えていきたいと思います。

「神の国」について取り上げたとき、それは「すでに」と「いまだ」の両面を持っていることをご説明しました。このことは、「永遠のいのち」、「救い」といった表現についても同様です。使徒ヨハネは、御子を信じる者は既に永遠のいのちを持つと書き(ヨハネ3:36)、同時に、将来、善を行った者が生命を受けるためによみがえる時があるとの主イエスの言葉を記録します(ヨハネ5:29)。使徒パウロも、キリスト者は既に「新しいいのちに生きる」者とされていると言いますが(ローマ6:4)、同時に「永遠のいのち」はきよき信仰者の歩みの終極のものとしています(ローマ6:22)。使徒パウロは更に、信仰者は既に「救われた」と言いますが(エペソ2:5、8)、同時に、「救われるであろう」(ローマ5:10)とも言います。すなわち、罪を悔い改め、キリストを信じた者は、「すでに」永遠の命を持ち、神の国に生かされており、救われていますが、同時に、「いまだ」という側面も持っており、永遠の命を受け、神の国に入り、救われることが将来のこととして残されている、ということです。

このようなことを踏まえると、福音は私たちに「希望に生きる」よう招くものでもあることが分かります。「希望」という言葉の意味合いは、受け取り方によって様々であるかもしれません。場合によっては、淡い夢のようなイメージを抱くこともあるかと思います。しかし、福音が示す希望は、「すでに」ということを土台とした希望です。既に神の国に入れられているので、将来神の国に入れられることについて確信を持つことができます。既に永遠の命を持ち、救われているので、将来、永遠の命が与えられ、救われることについて疑う必要がありません。そして、「すでに」ということは、聖霊を受けていることを通して確証されます(エペソ1:14)。

また、キリスト者の希望は揺らぐことのない神の約束に立った希望です。「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」(ローマ5:10)この神の約束に立ち、私たちは希望に生きることができます。その希望は、信仰者が地上にあって経験する様々な苦難を耐え忍ぶ時の土台となります(ローマ5:2-5、8:17-25)。

信仰者の希望の実現は、私たちの主イエスが再びおいでになる時にもたらされます。「そして、(あなたがたがどんなにして)死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」(第一テサロニケ1:10)

将来与えられる救いの中心にあるのは、永遠に神と共にいます幸いでしょう(黙示録22:3-5)。しかし、その時起こることは、いわゆる霊的な領域にとどまるのではないことに注意する必要があります。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:20、21)ここにはキリストの復活のみわざに基づき、信じる私たちにも栄光の体が備えられることが示唆されています。

更に、将来の救いは、キリストにある者だけにとどまらず、被造物全体にも及ぶことさえ示唆されます(ローマ8:19-21)。天と地さえも新しくされることが告げられています(黙示録21:1)。

神様が天地万物を創造されたとき、「それは、はなはだ良かった」と言われました(創世記1:31)。しかし、人が罪を犯したとき、「地はあなたのためにのろわれ」ることが告げられました(創世記3:17)。楽園は食べるに良い多くの木があったはずですが、「いばらとあざみとを生じ」るものとなりました(創世記3:18)。しかし、世の終わり、新天新地において現れる聖なる都の情景は次のようです。「御使いはまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。」(黙示録22:1-3)

もちろん、世の終わり、どのようなことが起こるのか、具体的に、詳細にわたって告げられているわけではありません。むしろ、今はまだ分からないことのほうが多いに違いありません。しかし、古くからの約束(旧約聖書の約束)に従って、御子を送ってくださり、私たちに救いを与えてくださった神様が、やがて世の終わりに、再び御子を通して、最終的な救いに導き入れてくださることを確信することができます。

その希望は、私たちの生き方を揺るがないものとします。神の御心にかなうきよい道へと私たちを励まします。あらゆる苦難に耐えさせます。終りの時を目指しつつ、今を誠実に生きさせます。

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(第一ヨハネ3:2、3)

「わたしは思う。今この時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(略)それだけでなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちはこの望みによって救われているのである。」(ローマ8:18-24)

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神戸聖泉教会での奉仕

2020-04-05 18:05:35 | 教会便り

今年度は、貞美共々神戸聖泉教会での奉仕。(事務局兼務。)

本日、少人数ではありましたが、

懐かしい方々と共に礼拝をささげました。

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信仰への招き  19.人と共に生きる

2020-04-04 10:42:17 | 信仰への招き

前回、福音が回復を与える人の生き方の中心にあるのは、人が神と共にあるということだということを見ました。しかし、福音が回復を与えるもう一つの側面があります。愛の内に人が人と共にあるということです。

人が罪を犯したとき、神のかたちに造られた人間が損なってしまったものの一つは、人との間に築かれるはずの愛の関わりでした。アダムはエバが与えられたときの喜びも吹き飛び、いつのまにか罪の責任をエバに転嫁していました。罪がもたらした人と人との関係破壊は、世代が下ると共に広がり、深まります。アダムの次の世代には、人殺しも起きました。ノアの時代になると、「暴虐が地に満ち」ました(創世記6:11)。

このような中、神様はアブラハムとの間に契約を結ばれます。それは、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」という約束でした(創世記12:2)。これは、神様の祝福をアブラハムの子孫にだけ限定するという約束ではなく、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」というように(創世記12:3)、アブラハムの子孫を通して神様の祝福が地のすべての者たちに広がる計画を含んでいました。

やがて、アブラハムの子孫の中からイスラエル民族が生まれます。この民を神様は「わたしの民」と呼ばれます(出エジプト3:7)。シナイ山で神様は彼らに律法を与え、民との間にいわゆるシナイ契約が結ばれます。十戒が示すように、律法は神を敬い大切にすると共に、人を大切にすることを教えるものでした。彼らは神に選ばれた宝の民でしたが(申命記7:6)、神の民としてのあらゆる祝福は、律法を守ることが条件とされました(申命記28章)。

しかし、その後のイスラエル民族の歴史は、律法を守らず、祝福でなくのろいを受ける歴史を繰り返すものでした。その中で、既に繰り返し見てきたように、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を立てる日が来ることが告げられます。その内容は、「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」というものでした(エレミヤ31:33)。

やがて、イスラエルの民の中に現れた主イエスは、弟子たちの前に律法の成就者としてご自分を示されます(マタイ5:17)。その教えは、人との関わりにおいて心の内面のあり方を示唆するものでした(マタイ5:21-28)。また、隣人愛の戒めが歪められ、「隣り人を愛し、敵を憎め」と言い慣わされていたことに対し、「敵を愛する」という衝撃的な教えを語られました(マタイ5:43-48)。

ルカによる福音書には、主イエスがなさった一人の律法学者との対話が記されています。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」、「律法にはなんと書いてあるか。」「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる。」対話がここまで進んだとき、律法学者はどういう訳か「自分の立場を弁護しようと思って」主イエスに質問しました。「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

ここには、当時のユダヤ人たちの「隣り人」に対する考え方が伺えます。すなわち、彼らの中では「隣り人」と「敵」を区別し、「隣り人」だけを愛すればよいという考え方です。おそらくは、そこには「隣り人」=ユダヤ人、「敵」=異邦人という考え方も色濃くあったでしょう。しかし、そこでイエスがなさったたとえ話は、彼(ら)のそのような概念を打ち破るものでした。あるユダや人が旅の途中、強盗に襲われ、半殺しの目に遭います。そこに一人の祭司、次には一人のレビ人が通りかかります。しかし、彼らはこの人を見かけつつも、道の向こう側を通って過ぎていきます。最後にサマリヤ人が通ります。当時、サマリヤ人とユダヤ人は仲の悪い状況がありましたが、どういうわけかこのサマリヤ人はこの人に近寄り、手当てをし、宿屋まで連れて行って介抱します。宿賃さえ払ってその場を立ち去ります。このような話をされて、最後に主イエスは律法学者に問います。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。」律法学者は話の上でのことであったとしても「サマリヤ人が」とは言いたくなかったのでしょうか。「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えます。すると、主イエスは言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:25-37)。ここには、「隣り人」と「敵」を分けようとする考え方でなく、あらゆる枠を越えて「隣り人となる」生き方が示されています。

更に、マタイによる福音書を見ると、主イエスは終末について弟子たちを教えた最後に、次のように言われます。「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼たちが羊とやぎを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。」(マタイ25:31-33)この時、羊とは「最も小さい者のひとり」に対して「空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ね」た者たちであり、キリストはそのような者たちの働きをご自分にしてくれたとみなされ、彼らは御国を受けつぐと言われます。逆にやぎとは「最も小さい者のひとり」に対してそのようにしなかった者たちであり、彼らはキリストに対してそうしなかったとみなされ、永遠の刑罰を受けると言われます。ここには、社会の困窮者たちに対する愛のわざの有無が終末における審判の基準となることが教えられています。

なお、福音書、使徒行伝、およびパウロの手紙を綜合的に見ると、神がアブラハムと結ばれた契約が、血縁的な子孫(すなわちイスラエル民族)を中心としたものから霊的な子孫(すなわちキリストを信じる者たち=教会)を中心にしたものへと重心を移したと考えることができます。特に、パウロの手紙では、血縁的なアブラハムの子孫に与えられた律法が、霊的なアブラハムの子孫において初めて真の成就がもたらされるという神の計画が明らかにされます。「律法からの解放と律法の成就」の回で書いたように、「彼はユダヤ人律法が一時的役割を終えたことを示唆し、そこからの解放を明確に打ち出すと同時に、その本質的役割は愛の律法において継続され、信仰と聖霊によって成就されていくことを明示」しています。こうして、キリストへの信仰によって結び合わされた信仰共同体(教会)は、「愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)、「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」(エペソ4:32)と、愛とゆるしの共同体であるべきことが教えられます。

他方、ヨハネによる福音書は、主イエスが弟子たちに「新しい命令」を与えられたことを記録します。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34-35)。主イエスの愛を信じる信仰者共同体が特色とすべきなのは「互に愛し合う」ということであるべきだと言われます。「新しい戒め」については、ヨハネの手紙でも言及され(第一ヨハネ2:8)、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」と、主イエスの言葉とも重なる示唆を与えます(第一ヨハネ4:11)。

また、ヤコブの手紙では特に社会的に弱い立場にある人々への無関心を打ち破るべきことが示唆されます。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)これは、主イエスが弟子たちに語られた終末の審判についての教えと重なります。

以上のことを総合的に考えると、楽園において破壊された人と人との関係が回復されるための神の計画の焦点は、主イエスを通して神の愛のもとに集められた信仰共同体に置かれていることが分かります。そこには聖霊の働きがあり、内的な変革が与えられ、互いに愛し合いゆるし合う生き方が励まされていきます。それは、単に共同体内部で互いに愛し合うことで終わるものではなく、そのことによって、互いに愛し合う生き方を世に示します(ヨハネ13:35)。世界に向けての宣教は、神と共に生きる生き方への招きであると同時に、互いに愛し合う生き方への招きでもあります。更に、彼らの信仰はより具体的に社会において困窮した人々への愛のわざとなって結実すべきことが教えられています。

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