長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

瞳の洗礼式

2013-12-22 16:44:44 | 瞳便り
本日のクリスマス礼拝の中で、長男、瞳が洗礼を受けました。

牧師夫人に導いていただいて、3週間前受洗を決心。心境のほどは恥ずかしいのか黙して語らずですが、洗礼が決まってとにかくうれしそうにはしているので、祈りつつこの日を迎えました。感想を聞いたら、「うれしいです!」の一言。

これからの信仰生涯、色々な試練や誘惑もあると思いますが、神様の守りの中、神の子としてまっすぐに歩んでいってほしいです。
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4章 その3追記

2013-12-19 21:07:40 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第7章に入る前に、ここで突然、第4章に戻らせて頂きます。第7章では、コルネリオの回心についての検討がなされています。ところが、コルネリオの回心に関わる聖書個所で、既に第4章で取り上げられたものがありました。実はその聖書個所について、第7章についての検討を準備しながら、新しく気付いた点があったわけです。第4章について、もはや自分でも何を書いたか忘れかけていますが、思い出しながら追記します。

第4章は、ペンテコステの日の出来事を検討する章でした。著者は、この日の出来事が「新しい契約の時代」をもたらすものであったことを強調しました。そのことを詳述する中で、最後のポイントとなったのは、「クリスチャンとなる信仰が始まったのはペンテコステからである」というものでした。そして、このことを説明するにあたりカギとなったのが使徒11:17でした(コルネリオの回心について、ペテロが人々に説明する箇所の一部)。

「私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」「彼ら」とはコルネリオたち異邦人をさします。「私たち」とは、ペテロたちであって、ペンテコステの日に神様が彼らに聖霊の賜物を与えた出来事と、コルネリオたちに聖霊がくだった出来事とを比べています。

著者は、第4章でこの聖書個所を取り上げ、逆にペンテコステの日の出来事について示唆を与える個所として取り上げているわけです。一般的なペンテコステ派の主張では、弟子たちがペンテコステの日に聖霊を受けるはるか前にキリストを信じていたはずだと言いますが、著者はこの箇所に注目します。神様がペテロたちに聖霊を与えられたのは、ペテロたちが「主イエス・キリストを信じたとき」だと言います。このことに基づき、著者は、ペテロたちの信仰がペンテコステの日に初めて真に彼らをクリスチャンにするものとなったと主張します。

これに対し、私は、著者の主張の不思議さを指摘しました。著者は、ペンテコステの日の出来事が新しい時代をもたらしたのだと主張してきました。すなわち、彼らに聖霊がくだったその日以来、それまでなかった時代がもたらされたわけです。いくつかのポイントについて著者はその議論を展開します。その最後に、その日、信仰も真にクリスチャンになる信仰となったと言います。しかし、ペンテコステの日が新しい時代をもたらしたのは、聖霊がくだったからであるとすれば、聖霊がくだる以前には、その直前まで、信仰は古いままであるということにならないのだろうか、それとも、聖霊がくだる以前にどういうわけか信仰が新しい次元のものになったのだろうか・・・。ここに不思議さが残ると指摘しました。

ただ、使徒11:17で「私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を」と本当に書かれているとすれば、ペテロたちの真の意味での信仰が、ペンテコステの日に始まったと理解せざるを得ないということも言えそうです。この点について、真正面から取り上げた注解書も手元になかったので、この件についてはこう締めくくらせて頂きました。「どう理解したらよいのかも分かりませんが、一応この不思議さを心に留めつつ、判断を保留しておくほかなさそうです。」

今回、この点について、新しく気づいたことは、「私たちが主イエス・キリストを信じたとき」と訳されている箇所が、もしかしたらそのように訳さなくてもよいかもしれないという点です。原文では、"ωσ και ημιν πιστευσασιν επι τον κυριον Ιησουν Χριστον"ですが、直訳すると、「(神が)主イエス・キリストを信じた私たちに(聖霊を与えた)ように」となります。すなわち、ペテロたちに聖霊が与えられた時と、主イエス・キリストを信じた時とは、必ずしも一致しなくてもよいことにならないだろうか、ということです。

実は、今回、20年前の自分の神学校卒業レポートに次のように書かれているのを発見したのでした。「ちなみに、11:17の『わたしたちが主イエス・キリストを信じた時にくださったのと同じ賜物を…』(口語訳)と訳されている言葉は、原語から直訳すると、『主イエス・キリストを信じたわたしたちに対するのと同じ賜物を…』となり、信仰と聖霊の賜物を受けることとの同時性が言われているわけではない」。

「新約聖書学の大家が、こんなところを見逃すわけがない」という気もしますが、私が見る限りでは「同時とは限らない」というのが正しいようにも見えます。ギリシヤ語に詳しい方、どなたかご教示頂ければ感謝です。

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子どもクリスマス会

2013-12-15 18:25:29 | 教会便り
神戸中央教会の子どもクリスマス会(ハッピーシープ)がありました。

今回のメッセージは家内で、随分前から緊張しながらも、なかなか準備が進まず、どうなることかという感じでしたが、何とか務めを果たせたようです。

子どもたちのペープサートも、何とか間に合ったようです。

子どもたちに続いて神様が働いてくださいますように。
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クリスマスフェスティバル

2013-12-14 10:06:43 | 長田家便り
神戸クリスマスフェスティバルに、家族で参加しました。

「東北と神戸を結ぶ希望の絆」とサブテーマが掲げられ、東日本大震災を振り返る映像が流されたり、ゴスペルにより神様への希望と祈りが歌われたり、東日本大震災の中をくぐり抜けてこられた佐藤彰牧師のメッセージが語られたりしました。

「光は闇の中に輝いている」との御言葉が、心に深く残ったフェスティバルでした。

集会後、懐かしい方々ともお会いできました。参加するまでは、見たかったテレビが見られないと、不平いっぱいだった子供たちも、それなりに神様の恵みを感じ取った様子。余韻を心に味わいながらともに帰路につきました。
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ルミナリエ

2013-12-14 10:05:21 | 長田家便り
久しぶりにルミナリエに行ってみました。5年前とほとんど変わらない様子で、懐かしい思いがしました。
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晩秋の事務所

2013-12-14 10:04:33 | 事務所便り
晩秋(今月初め)の事務所です。
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5章 その3

2013-12-07 11:59:32 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

「サマリヤの謎」に対する5つの見解を退けたのち、著者は独自の主張を展開します。しかし、強い説得力を持つように見える著者の主張も、落ち着いて使徒行伝を読み返してみると、必ずしもすべての疑問を解決しているわけではないようです。このような状況で更に別の見方を追求することは勇気のいることでもありますし、私自身、確たる見通しを持った上で論を展開するわけでもないのでなおさらですが、「こう考えてみたら?」という思いは今のところ消えていませんので、一応、「サマリヤの謎」を解くもう一つの線を提案してみたいと思います。

(1)『サマリヤの謎』を生じさせているのは間違った方向から考えているからではないか

そもそも、『サマリヤの謎』についての著者の説明はこうでした。「サマリヤの人々は信じ、バプテスマも受けたが、彼らはしばらく後になるまで聖霊を受けなかった」ように見えることに対して、次のような問題が生じるということでした。「新約聖書の他の個所からすれば、これらの事実は互いに相反するものであり、全く調和しない。もし彼らが信じ、主イエスのみ名によって洗礼を受けたのであれば(12、16節)、彼らはクリスチャンのはずではないか。しかし、もし彼らが聖霊を受けていなかったのであれば、その時まで彼らはクリスチャンと呼ばれ得ないはずではないか(最も明瞭にはローマ8:9)。」(55頁)

すなわち、ここで謎を生み出しているのは、「もし彼らが聖霊を受けていなかったのであれば、その時まで彼らはクリスチャンと呼ばれ得ないはずではないか」という前提です。これは、ローマ8:9などの、主にパウロの手紙から生まれた前提です。しかし、第4章で、ぺンテコステの出来事について、ペンテコステ派などがヨハネの福音書から引証して議論することに対して、著者は反対しています。「ヨハネの福音書に訴えることは基本的な方法論上の問題をもたらす」というわけです(39頁)。すなわち、聖書各巻は、その著者独自の強調点や思想上の文脈を持っているので、それを無視して一定の神学的枠組みに合うように聖書個所を選び、何らかの結論を導き出すのは妥当でないと言うのが、著者の論点でした。この点からすると、ローマ8:9等のパウロの手紙からの議論を、使徒行伝の記事の理解の検討の中に、不用意に持ち込んで良いのか、という疑問が生まれます。

もちろん、「聖霊をうけていない者は、クリスチャンとは呼ばれ得ない」ということは、福音的な神学者たちによって大方受け入れられている前提ではあります。しかし、それ自体がこの本が扱うべき大きな課題であるとすれば、パウロの手紙を扱う前に、その前提を持ってきて、使徒行伝の検討の中に持ち込むことは、「基本的な方法論上の問題をもたらす」ことにはならないのでしょうか。このような点から、パウロの手紙からのこのような前提なしに使徒行伝を読むとどうなるのか、というのが私の発想の第一です。

(2)ここまでの検討では、オルド・サルティスの詳細について、未だ明確にされていなかったのではないか

更に、本書に対するここまでの検討を通して私なりに示唆してきましたのは、「聖霊を受けること」についてのオルド・サルティスの詳細は、未だ明らかになっていないということでした。ヨハネのバプテスマ、イエス様のバプテスマについての検討、更に、使徒行伝の記述についての検討を通して、聖霊の新しい時代の到来ということについては、明確に受け入れることができるものの、悔い改めと信仰、バプテスマ、聖霊を受けることなど、その関係や順序についての詳細は、未だ明確になっていないのではないか、という点を指摘してきました。

(その13)で指摘しましたように、オルド・サルティスに関するこのような点の詳細について、最もカギとなるのは、使徒2:38です。ところが、著者はこの点の検討を、使徒行伝の検討の最後(第9章)に置いています。ですから、この点についての検討は、第9章まで持ち越されるわけですが、そうすると、本書において、「サマリヤの謎」を扱うこの時点では、「聖霊を受ける」ということについてのオルド・サルティス的な前提はまだ示されいない(少なくとも議論の余地のない形では)ということになります。

(3)「聖霊を受ける」ということに関して、使徒行伝8章に至るまでの使徒行伝の記述だけから考えると、どうなるのか

そこで、「聖霊を受ける」ということに関して、パウロの手紙などからの神学的前提なしに、使徒行伝だけを読んでいくと、最も自然な解釈はどのようなものになるのでしょう。

まず、使徒2:38については、第9章の検討において再度議論するわけですが、ここで関係する限りにおいて、少し検討してみます。文の構造として、文の前半には、「悔い改めなさい」と「バプテスマを受けなさい」という二つの命令形があります。文の後半には、「賜物として聖霊を受けるであろう」という未来形の約束があります。この両者がκαι(and、そうすれば)で結ばれているわけです。このような形において、「賜物として聖霊を受ける」ということが「悔い改め」や「バプテスマを受ける」ことと時間的に同じであることは必ずしも明らかではないように思います。(ギリシヤ語に詳しいわけではありませんが、恐らくそうだと思います。)

そうすると、使徒行伝において、聖霊を受けることに関して、オルド・サルティスの詳細を定めていくのは、その後の聖霊を受けた人々についての諸々の記事に委ねられることにならないでしょうか。ルカが、悔い改め、バプテスマを受けることにより、即聖霊を受けるということを立証したかったとすれば、ペンテコステの日の出来事は特別だとして除くとしても、その後、悔い改め、バプテスマを受けた人々については、即聖霊が与えられたことを記録していくだろうと予想されます。ところが、ペンテコステの日にペテロたちの説教によって信仰を持った人々について聖霊を受けたかどうか、どういうわけか明らかにされません。使徒4:31で「一同は聖霊に満たされ」とあるのは、ペテロやヨハネを含めた弟子達であるので、「聖霊を受けた」後に再び「聖霊に満たされ」たのであると理解できます(本章末尾につけられた付加的ノート2参照)。そう考えてくると、サマリヤ人たちが聖霊を受けた記録は、使徒行伝において明確にされている記事としては、ペンテコステの日の出来事に次ぐ、二番目の記録ということになります。この記事を、パウロの手紙などからの神学的先入観なしに読むと、「悔い改め」や「バプテスマ」の条件が満たされたならば、ただちに「聖霊を受ける」ということよりもむしろ、何らかの理由により、両者の間に時間的かい離が起こることもあるという例として受け止めることが可能であり、また自然でさえあるように思われます。

(4)今後の検討の方向性

使徒2:38を覚えつつ、もう少し何度か使徒8章を読み返してみると、「聖霊がくだる」、「聖霊を受ける」ということについて、更にいくつかの仮説を立てることも自然なのではないかと私には思われます。
(仮説1)悔い改め、バプテスマを受けたのであれば、聖霊が下ることが期待される。(聖霊がくだっていないのを見たペテロやヨハネが即座に行動を起こしたことから。)
(仮説2)しかし、悔い改め、バプテスマを受けても、何らかの理由により聖霊がまだ下らないということが起こり得る。(ここで想定される理由は、たとえば、サマリヤ人の置かれていた特別な状況、特にエルサレムとの関係、神による主権的配慮などであるが、明らかにはされていないので、その理由を断定的に特定することはできない。)
(仮説3)悔い改め、バプテスマを受けていても聖霊が下っていない場合、基本的な条件はすでに満たされているので、そこで改めて聖霊がくだるように祈ったり、按手したりということを契機として、その人々は当然のこととして聖霊を受けることができる。(ペテロやヨハネはそこで改めて詳しく福音を解きなおしたり、聖霊について語り教えたりもせず、ただ祈り、按手しただけであるので。)

その後の、パウロの回心の記事(本書6章で扱われる)、コルネリオの記事(本書7章で扱われる)、エペソの弟子たちの記事(本書8章で扱われる)を検討しながら、総合的に考えていく必要がありますが、少なくとも、使徒8章までの記録から自然に導き出されるのは、上記のような受け止め方ではないかと思います。そして、そのような理解で使徒8章を読み直してみると、「サマリヤの謎」は解消されてしまうわけです。他の聖書個所からのオルド・サルティス的先入観なしに、使徒8章をもとにしてオルド・サルティス的な判断をしたわけですから、ある面、それは当然のことです。

このような線で、聖霊を受けることについてのオルド・サルティス的判断を使徒行伝全体で進めていくならば、パウロの手紙などをもとに考えるのとはまた違った定式で表現することが可能になるのではないか、という期待も生まれます。それは、使徒行伝に記された「聖霊を受ける」ことについての色々な記述に適合したものになるはずです。これは、追求してみる価値のある線ではないでしょうか。

(5)この線で考えることの結果、起こると想定される問題

もちろん、この線上では、使徒行伝の記述を自然に理解できるようになる代わりに、より大きな問題が生まれる可能性があります。つまり、「聖霊を受ける」ということのオルド・サルティスにおける位置づけについて、使徒行伝から自然に導き出される結果と、パウロの手紙などから自然に導き出される結果とが矛盾するという、新約聖書内のより大きな謎、「聖霊に関する新約聖書の謎」が生まれる可能性があるわけです。「小さな謎を解消しようとして、より大きな謎を産み出すのでないか」ということも言えそうです。けれども、聖書各巻の持つそれぞれの神学的主張の独自性を尊重するという原則からは、むしろそういう線で考えることも、一つの可能性としてはありえるのではないか、という気がします。

(6)この線での理解は、従来の見解とどこが異なっているのか

上で示した方向性は、使徒8:4-13をそのまま受け取ろうとするところから生まれています。その点では、著者が退けた5つの見解と同じです。ですから、(1)~(5)の中には、多少なりとも近い考え方のものがあります。特に、(3)の後半の考え方と(5)の考え方です。

まず、(3)の後半の考え方は、「救い」と「聖霊を受ける」ということとを明確に区別する考え方でした。これに対して、著者は、救いの条件と聖霊を受けることの条件とが一致していることで反論しています。これについては、私も、使徒行伝から見る限りその通りであるように思えます。ただ、同じ条件のもとで与えられるのであるが、何らかの理由により両者の間に時間的かい離が起こることがありえることをルカが示しているのではないか、ということです。

また、私が提案する考え方は、(5)の見解(ランプらの見解)に似ている部分もあります。サマリヤ人の場合、神の主権により聖霊を与えられることが控えられたとするものです。原理的には信じてバプテスマを受けたのですから、聖霊を与えられてもよいはずですが、何らかの理由により神が主権をもってそうされたと考えます。この点、私が提案する考え方も同様です。ただ、ランプらの見解は、サマリヤ人たちの経験が特別なものであったことを強調します。例外的なものと考えるわけです。私としてはむしろ、使徒行伝において、サマリヤ人たちの経験が、標準的とは言えないとしても、しばしば起こりえることとして提示されている可能性があるように思えます。

ですから、私が考えてみたい線というのは、(3)の後半と(5)の中間であると言えるかもしれません。

以下の章では、使徒行伝の各箇所に対する著者の見解を調べるとともに、ここで提案させていただいた線で考えるとどうなるか、確認していってみたいと思います。

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