長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

16章 その1

2015-01-31 20:42:18 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


この章では、ヨハネの手紙についての検討がなされます。

第4福音書の著者は、使徒たちの霊のバプテスマが彼らの新生とは区別され、新生に続くものであったこと、また上からの誕生に水のバプテスマがカギの役割を果たすと信じていたかもしれない。ペンテコステ派や礼典主義者は、彼の他の文書の中に自分たちの見解を支持する何かを見つけることができるであろうか(ヨハネの手紙は彼の筆によると仮定して)。注意を求められる箇所は、第一ヨハネ2:20、27、3:9と5:6-12である。

第一ヨハネ2:20、27、3:9

我々は、これらの箇所を一緒に扱う。というのは、χρισμα(油注ぎ)とσπερμα(種)は明らかに密接に関連しているからである。ほとんどの者は、それらが同じものに言及していることに同意する―御言葉か、御霊か、御言葉を伴う御霊かである。

χρισμαに対して提案されている意味はより広い。それらは二つの題目のもとに要約されうる。

(a)言及されているのは御霊よりほかの何かについてである。
(1)バプテスマか塗油かの礼典的儀式
(2)御言葉、すなわち福音。

(b)言及されているのは御霊についてである。
(1)御霊だけ。回心―入信式とは区別される。
(2)バプテスマやあるいはいくらかより複雑な儀式において与えられる御霊。

σπερμαに対して提案される意味の範囲はより限定的である。御言葉、御霊だけ、特にバプテスマにおいてあるいはバプテスマを通して与えられる御霊。

第一の選択肢は、我々は直ちに退けることができる。χρισμαは確かに比喩的に用いられており、文字通りの儀式でもなければ魔術的な儀式でもない。油を注ぐ儀式は召命不可能であり、新約聖書時代には「全くありそうもない」ばかりか、決定的なことは、χρισμαが彼らの「内に」とどまること、また、彼らを教えるという人格的働きをするという事実である(2:27)。

第二の選択肢―χρισμα=教え、神の言葉―はずっと重要である。ヨハネはしばしば証し(μαρτυρια―ヨハネ3:11、32、33、5:34、第一ヨハネ5:9)、戒め(εντολη―ヨハネ10:18、第二ヨハネ4)、御言葉(ρηματα―ヨハネ12:48、17:8)を受け入れる(λαμβανειν)ことについて語っている。さらになお重要なことは、ヨハネがこの神の教えが彼らの内にとどまり(μενειν)、あるいは存在する(ειναι)とどうして語ることができるかということである。他方で、ヨハネは同様に御霊を受けること(ヨハネ7:39、14:17、20:22)、また、弟子たちの内の御霊と神的臨在について(14:17、20、15:4、第一ヨハネ3:9、24、4:12、13、15、16)語っている。

(主の頭に注がれた油についてのイグナティウス及びアレクサンドリアのクレメンスの見解、省略)

答えは、ヨハネがχρισμαについて語る時、一方か他方かを明確に考えているのではなく、両方を考えているのかもしれない。しかし、両者を全く区別することはおそらく間違っているであろうが、我々は御霊を第一の場所に置かなければならない。御霊は御言葉と共に、また御言葉を通してさえ働くのだとしても、χρισμαは御霊である。

(以下、三つの点の指摘については、要約のみ)

第一に、χρισμαはすべてのことについてあなたを教える。ヨハネにとって教師の役割は常に人格的なものである。
第二に、σπερμαによってヨハネは御霊を意味しているという結論を避けることは大変難しい。特にそれを神的誕生について語っている時にはそうである。
第三に、御霊と教えとの関係については、以下の点に留意するべきである。
(1)正しい告白の背後にあり、それを促進するのは神の御霊である。(4:2)
(2)御霊は真理である(5:6)―この故に、χρισμαは真理であるという記述がある。(2:27)
(3)御霊はイエスについて証しする存在として約束されていた(ヨハネ15:26)。
(4)4:4と5:4を比較せよ。そこでは勝利が「あなたがたのうちにおられる方」と「私たちの信仰」の両方に帰せられている。
(5)ヨハネ6:63でのρηματαと御霊の密接な関係などを忘れてはならない。

それゆえに我々は、χρισμαとσπερμαは御霊について語っていること、しかし、御霊は福音の宣言と教えを用いること、従って一方に応答することは他方を受け入れることであることを、いくらかの確信を持って言うことができる。

しかし、御霊のこの働きをより詳しく定義づけ、何らかの特定の儀式に結び付けるべきであろうか。あるいはむしろ、ヨハネは我々がそうすべきであると考え、そのような文脈を前提としているであろうか。あるいは他方で、我々はペンテコステ派が願うように、御霊についての言及を回心―入信式と完全に引き離すべきであろうか。

これらすべての質問に対する答えは同じである―No!バプテスマについての記述がないという点で顕著な手紙において、ヨハネがバプテスマにおける御霊の働きについて考えていると言うことは全く根拠がない。(以下略)

他方で、これらの節についてのペンテコステ派の見解―すなわち、油が注がれることは回心の後に続く御霊のバプテスマである―に従うことは不可能である。

第一に、σπερμα=聖霊であり、神的なσπερμαは新生のエージェントであるなら、新生はσπερμα(御霊)が入信者にとどまるために来られることであるという結論を避けることはほとんどできない。

第二に、χρισμαとσπερμαは共にグノーシス的な用語であるということは全くありえることであり、2:20、27はグノーシス主義の教師たちに向けられていることはほとんど確実である。ドッドが指摘しているように、「これらの初期の異端者たちは、彼らの後継者である二世紀のグノーシス主義者のように、普通のクリスチャンが持ちえないと考えられたよりすぐれたグノーシス、すなわち神の事柄についての知識を主張したことは妥当な仮定である。」この主張に対して、我々は御霊のバプテスマについてのペンテコステ派の教えと比較することができる。(以下中略)ヨハネが論じたのは、全くそのような秘密の党派的な教えに対抗してのことである。すべてのクリスチャンは知識を持っている。なぜなら、すべてのものが聖霊によって油注がれたのであるから。この油注ぎをなお待っている幾人かのクリスチャンがいるのではない。ヨハネにとって油注がれていないクリスチャンがいあるという可能性さえ論外であった。なぜなら、それは異端者たちに対する決定的な点を譲歩することになるからである。キリストのχρισμαによる油注ぎは神のσπερμαによる新生と切り離されてはならない。御霊によって誕生したすべての者はそのこと自体で御霊に油注がれている。

第三に、御霊は教えにいかに密接に関連しているかを見てきた。しかし彼らの内にとどまっている教えは、彼らが「初めから」聞いていたことである(2:24。参照2:7、3:11、第二ヨハネ6)。彼らの内にとどまる御霊を受けること(2:27)は、この教えを受けることと切り離すことはほとんどできない。言い換えれば、御霊を受けることは教えを受けることと同様、クリスチャン生涯の始まりにおいてであり、始まりとしてである。

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15章 その7

2015-01-26 17:45:11 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】


(7)ペンテコステの日以降、信じる者は即御霊を受けることをヨハネによる福音書は予告しているか

ヨハネによる福音書が、御霊を受けるということについて、新しいディスペンセーションの到来を予告していることは(2)で指摘させて頂きました。しかし、他方でその新しいディスペンセーションにおいて、信じる者が即御霊を受けることになるのかという点についてはどうでしょうか。新しいディスペンセーションの到来を指摘するヨハネ7:39だけで、この問いに答えることは難しいと思います。「後になってから信じる者が御霊を受ける」ことについては語っていても、「信じる者が即御霊を受ける」とまでは語っていないからです。

これまで見てきたように、ヨハネによる福音書全体のテーマである「永遠のいのち」と聖霊の働きとは密接に関連づけられています。たとえば、7:37-39と4:10-14とを比較すれば、イエス様が栄光を受けられた後、信じる者が御霊を受けるようになるということは、同時に永遠のいのちを得るようになると置き換えてもよさそうに思えます。

あるいは、3:5については、二つの解釈の可能性がありましたが、いずれにしても新しく(上から)生まれることについて、御霊の働きの中心性が示唆されているということは言えます。特に、υδωρ=「水のバプテスマ」、πνευμα=「御霊のバプテスマ」と解釈するならば、単純に見れば「御霊のバプテスマによって新しく(上から)生まれる」という理解が成り立つように見えます。

しかし、福音書全体から見たときに、「永遠のいのち」と聖霊の働きの密接な関連性については十分明らかにされているものの、弟子たちがペンテコステの日に永遠のいのちをうけなかったとまでは断言することが難しいようです。また、3:5においてπνευμα=「御霊のバプテスマ」と解釈する場合には、同時にυδωρ=「水のバプテスマ」と解釈することが必然となります。この点を踏まえると、「御霊のバプテスマによって生まれる」という機械的解釈に一定の考慮を求められることになります。

ヨハネの福音書において、新しいディスペンセーション後、信じる者が即聖霊を受けるようになることが示唆されていると考えることは、全体的には妥当なようにも思われますが、同時に、ヨハネの福音書だけを土台としてということであれば、その点で断定的になることは避けた方がよい、ということになりそうです。

ヨハネによる福音書への検討の後には、ヨハネの手紙への検討に進むことになります。

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神を味わう(ヘンリー・ブラッカビー&クロード・キング、ICM出版)

2015-01-24 12:14:04 | 

近年、どちらかと言えば、自分自身の聖書理解、信仰理解を広げる書物に取り組んでいますが、時にこういう本を読むと、正直、ホッとする自分自身を見い出します。保守的な聖書理解に立ちつつ、霊的覚醒、リバイバルをも視野に入れ、チャレンジに満ちた内容でありながら、健全さ、バランスの良さを感じさせる本だと思いました。

帯には、本の内容について、
「あなたと神との関係を一新する本!
神は本当に語られる
神を味わうことに関する7つの真実」
と紹介されています。

「神を味わうことに関する7つの真実」とは、以下の内容です。

・神は常にあなたの周りで働いておられます。
・神は現実的かつ個人的な愛の関係をあなたと絶えず持つことを求めておられます。
・神はご自身の働きにあなたが共に携わるよう招いておられます。
・神はご自身とそのみこころ、その道を現わすために、聖書、祈り、状況、教会の中で聖霊を通して語られます。
・神と共に働きに携わるという招きは、常に信仰と行動が要求される信仰の危機にあなたを導くことになります。
・神のされていることに加わるためには、あなたの人生を大きく調整し、適当させなければなりません。
・神に従っていく中で、神を味わい神を知るようになっていきます。そして神があなたを通してその働きを成し遂げてくださるのです。

心に残った箇所、考えさせられた箇所をいくつか抜き書きしてみます。

「神は、あなたが神のためにどのようなことができるのかということよりも、はるかにあなたと愛の関係を持つことに関心を持っておられます。神の願いは、あなたが神を愛するようになることです。」(84頁)

「多くの人々は、神が大きな任務を与えてくださることを望んでいます。けれども愛の関係を飛ばそうとしてしまいます。」(143頁)

「何らかの理由で、神と自分の関係が現実的で個人的な、そして実際的なものであった時を思い出せないという場合には、少し時間をとって神と自分の関係を評価してみる必要があるでしょう。」(182頁)

「座り込んで、まず自分が神のためにしたいことを考え、それからそれを実現できるよう、神に助けを求めるというのではありません。自分たちが神に従い、そして神がこれからなさろうとしていることを示してくださるまで待ち望むか、または神が自分たちの周りでどのようなことをしてくださっているのかを見きわめ神に加わるというのが、聖書に見られるパターンです。」(197頁)

「近所の人や友人、あるいはあなたの子どもの一人が霊的なことにつじて質問をし始めたと考えてみましょう。神がその人を引き寄せようとしておられるのだろうかなどと自分する必要はありません。そうしたことは神だけがおできになることです。その人の人生の中で神が働いておられない限り、誰も神を求めることはありません。」(228頁)

「神との親しい愛の関係こそが、神の御声を聞き分け、神が語られる時に聞き取るための秘訣です。愛の関係の中で、神を味わうことによって神の御声を知るようになります。(中略)ある人々は、愛の関係を飛ばしてしまおうとします。奇跡的なしるしを求めたり、「方式」やあるいは神のみこころを知るためのステップといったものに頼ろうとする人もあります。けれども神との親しい関係に取って替えられるものはありません。」(253頁)

「私たちが抱えている最大の問題は、神だけが決定権を持っておられる点において、自分たちの知恵に頼って計画を立て、それを実行していってしまうことです。」(284頁)

「神にあることについて願い求め、そして何か違ったことが起こるならば、私は必ず起こり始めたことに対して応えていくことにしています。」(318頁)

「神が沈黙されるのは、ご自身に対するより深い理解へあなたを導く備えをしておられるからなのです。沈黙が訪れるならば、神が最後に命じられたことをやり続けてください。そして、神との新しい出会いを見守り、待ち望んでください。」(326頁)

「悲劇や困惑させられる状況の真っ直中にあって、祈りの中で、自分でも本当は真実ではないとわかっていることを、神のせいにして、神を非難し始めてしまったという経験はないでしょうか。(中略)ではどうすればよいのでしょうか。まず神のみことに行き、自分の状況を神の視点から見せてくださるよう願ってください。」(337頁)

「困惑させられる状況に出会ったとしても、神を責め始めてはいけません。神についていくことをあきらめてしまってもいけません。神のみもとに行ってください。自分の状況に関する真理を教えてくださるよう、神に願ってください。神の視点を示してくださるよう願ってください。それから主を待ち望んでください。」(343頁)

「神は私たちを互いに依存する者としてお造りになりました。私たちは互いに必要とし合っています。(中略)ですから神にどのように応えていけばよいのかを知るためには、神がからだの中で、またからだを通してどのようなことをしておられるのかが重要になってきます。」(364頁)

「神にしかおできにならないことに関わろうとする信仰が神の民に欠けていることが、この世の大多数がキリストとその教会に魅力を感じない理由なのです。」(395頁)

「神がご自身に加わるようにあなたを招かれ、あなたが信仰の危機に直面する時、その次にとる行動があなたが神について信じていることを教えてくれます。ことばよりも行動の方がより多くを語ってくれるのです。」(401頁)

「神が語られたことに従い、ついていくために必要な調整をする心構えがない限り、あなたは神にとって役立つ者となることはほとんどないでしょう。そうした調整の時こそ、神についていく上でもっとも困難を感じる時からもしれません。」(415頁)

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物語の神学(後半)

2015-01-16 21:09:31 | 神学

6.福音主義神学における物語の神学の評価と展開

物語の神学は、北米の大学から始まったものではありますが、世界の福音主義神学にも大きな影響を及ぼしています。

福音主義神学は、一方ではリベラリズムに反対して聖書啓示に無比の権威を認めます。同時に、ファンダメンタリズムにも距離を置く面があり、聖書の一面的な字義的解釈に走ることにも慎重な姿勢を示します。そのような中で、リベラリズムに対抗するポストリベラリズムのあり方は、福音派神学者にとっても大きな関心を呼ぶものであったと言えます。

当然のことながら、福音主義の立場からポストリベラリズム、あるいは物語の神学に対して神学的評価をしようとする動きも起こりました。そのような初期の動きの中で最も重要なものとしては、北米の福音主義神学者として著名な、カール・F・H・ヘンリーによるものでしょう。彼は、1985年、イェール大学で連続講義を行う中で、物語の神学、特にハンス・フライの著作に対する批判を行ないました。このフライに対する批判は、フライの応答と共に、1987年、トリニティー・ジャーナルに掲載されました("Narrative Theology:An Evangelical Appraisal,"Trinity Journal 8(Spring 1987))。彼は、フライの方法が歴史的言及に関してあいまいである点を指摘し、聖書の言語霊感、無誤性の立場を擁護しようとしました。

その他、多くの福音主義神学者もそれぞれの視点から物語の神学やポストリベラリズムに対する評価や批判を行ないました。たとえば、英国の神学者マクグラスは、カール・ヘンリーよりはかなり広い立場のように思われますが、物語の神学の長所として多くの点を認めつつも、聖書の物語の権威や真理性の問題が回避されていることを問題点として指摘しています(注3)。

このように、福音主義の立場からは批判されるものを持っている物語の神学ですが、にも拘らず、福音主義神学の世界におけるこの神学の影響は広がり続けているように思えます。福音主義における聖書解釈においても、文書ジャンルに応じた解釈の必要が認識されるようになってきていたこともあったでしょう。あるいはまた、聖書学の進展の中から、従来の神学的枠組みの限界が感じられるような機会が増えつつあったということもあったかもしれません。そして、おそらくこの神学を巡る議論で大きな説得力を持ったのは、従来の福音主義神学のあり方がモダニズムのパラダイムを共有していたのではないかという思いがけない指摘だったかもしれません(注4)。更につけ加えれば、保守的な立場以外の神学者とも交流を持ってきた福音派神学者が、聖書物語の権威や真理性の問題を一旦横に置いた上で、共通の神学的枠組みを持ちながら神学的取り組みを進めることができると感じた一面もあるかもしれません(注5)。

7.福音主義神学における物語の神学への取り組み事例

現状において、福音主義神学の中で物語の神学がどのような形で取り組まれてきているのか、その全貌をつかむことは私にはとてもできません。今回は、とりあえず、ネット上を含め、日本語のもので目に留まったものをご紹介します。

*「神の物語を生きる-聖書のナラティブと神学」『リバイバル・ジャパン2011年8月 日号』(山崎ランサム和彦(リバイバル聖書神学校校長、日本福音主義神学会中部部会理事長)、地引網出版、30-33頁)
部分的紹介・・・http://www.revival.co.jp/rj/2011/08/post-179.php

雑誌『リバイバル・ジャパン』において、「福音主義の中における様々な神学と聖書解釈を主張していただく」ことを趣旨とする「他者からも学ぶ 神学交歓」というシリーズの中の1回として掲載されたもの。N・T・ライト、リチャード・ヘイズといった福音主義的な神学者の物語神学への取り組みを踏まえつつ、物語神学の基本的理解を簡潔、的確にまとめて提示しています。

*「一つの物語としての聖書」(マイケル・ゴーヒーン:トリニティ・ウェスタン大学、リージェント・カレッジ大学教授)http://church.ne.jp/ayabe/history.html

日本の教会関係者に対してなされた講演の要旨のようです(講演がなされた状況、経緯など、詳細は不明)。福音の要約、福音の性質の解説から始まり、N.T.ライトの「物語は世界の現状を語る最善の方法である」という言葉を引用しつつ、特に全世界がどのようなものかを伝える最も基本的な方法として物語を提示しています。

*『神の物語』(マイケル・ロダール、日本聖化協力会出版委員会、2011年)

著者自身の説明では、「この本は、物語の神学をスタイルとして採用しつつ、神学的にはウェスレアン神学に立つキリスト教神学の入門書である」と紹介されています。保守派においては、真理命題の集積のように扱われて来た組織神学ですが、「物語の神学を反映した組織神学」というものが可能だとすれば、それはどういうものになるのか、ウェスレアンの立場で一つの形を提示したものと言えそうです。

これらは、雑誌の論考、講演要旨、書物と、文書の性質も違いますし、物語の神学の提示の仕方もかなり違っています。しかしながら、聖書文書のジャンルにおけるナラティブ(物語)の重要性を示し、物語が人の世界観や生き方に大きな影響を与えること等を強調している点など、共通したものを持っています。教派的背景も様々のようですが、物語の神学を福音主義神学に取り入れる試みが多方面に渡って行われていることを伺わせます。

また、注目したいのは、これらの事例において、物語の神学を福音主義神学に取り込むために必要な、一定の保留条件が付けられていることです。

・聖書の物語は神の物語であり、その主役は神である(ロダール13頁)
・書かれている出来事の史実性を尊重する(但し、ナラティブの文学的な側面を分析することと両立するものであること、あるいは、物語が出来事に対する解釈の要素を含むことを指摘)(山崎32頁、ゴーヒーン5頁、ロダール18-24頁)
・聖書が神の霊感を受けて書かれたものであり、神の啓示であることを踏まえる(ロダール25頁)

おそらく、今後も福音主義神学において物語の神学が広がっていくとするなら、これらの点がある程度統一的に明確にされることが鍵になりそうです。

今後のことは分かりませんが、福音主義神学のあり方を根底から改編していく可能性もあるように思われますから、その意味で神学者の方々には慎重な判断、吟味をお願いしたいと思います。同時に、これまでの神学的枠組みでは捉えきれなかった聖書の豊かなメッセージを汲み出す可能性を秘めたアプローチだとも思います。今後も、この神学の動向に注目していきたいと思います。

注3 マクグラス『キリスト教神学入門』(教文館、237頁)
注4 David K. Clark 'Narrative Theology and Apologetics'"Journal of the Evangelical Society Vol.36"p507(下記ネット上の参考ページ参照)
注5 『リバイバル・ジャパン 2011年8月21日号』(上記紹介記事、地引網出版、32頁)


その他のネット上の参考ページ(再掲)

「屋根裏部屋の思考」―「神学の二つのモデル」
http://okegawax.cocolog-nifty.com/blog/cat8535834/index.html

長谷川琢哉「宗教間対話とポストリベラル神学を巡って」『宗教学研究室紀要 第3号』(京都大学文学研究科宗教学専修)(2006年、28-41頁)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/57733

堀江宗正「「物語と宗教」研究序説―リクール「物語神学を目指して」を読む」『東京大学宗教学年報』XV(1998年、61-78頁)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/26083

David K. Clark(Bethel Teological Seminary) 'Narrative Theology and Apologetics'"Journal of the Evangelical Society Vol.36"(1993,p499-515)
http://www.etsjets.org/JETS/36-4

Robert Weston Siscoe'Postmodern Development in Evagelical Theology'(2011)
http://digitalcommons.olivet.edu/honr_proj/

Gerald R. Mcdermott Ph.D.'The Emerging Divide in Evangelical Theology'(2013)
http://www.virtueonline.org/emerging-divide-evangelical-theology

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物語の神学(前半)

2015-01-12 21:01:27 | 神学

近年、福音的な神学者の発言や文章の中に「物語の神学」という表現を見聞きすることが多くなりました。その表現の用いられ方や使われる頻度からすると、現在の福音派神学界にかなりの影響を与えているもののように思われます。しかしながら、この神学に対する福音派の神学者による解説が日本語のものとしてはわずかであるため、どう受け止めてよいか迷うのも事実です。今回、英語のものも含め、ネット上の情報を中心に調べてみました。今後も、関連情報に注目していきたいと思いますが、中間報告的にまとめておきたいと思います。

1.歴史的発端

この神学の発端としては、イェール大学神学部に求められるようです。ハンス・フライ、ジョージ・リンドベック、スタンリー・ハワーワスといった人々の名が挙げられます。主要な著作物としては、ハンス・フライ『聖書物語の蝕』(The Eclipse of Biblical Narrative, Yale University Press, 1974)が最も初期のものとして挙げられます。続いて、ジョージ・リンドベック『教理の本質―ポストリベラル時代の宗教と神学』(ヨルダン社、2003年)(The Nature of Doctrine: Religion and Theology in a Postliberal Age、Westminster John Knox Pr、1984)が挙げられます。

他方、このようなイェール大学の神学者たち((新)イェール学派と呼ばれる)に対して、同じく「物語の神学」を掲げつつ、もう一つの流れを産み出したのが「シカゴ学派」と呼ばれる人々です。P・リクール、D・トレイシーといった人々が挙げられます。

このような「物語の神学」の起源としては、カール・バルトやH・リチャード・ニーバーが挙げられることもあります(注1)。彼らは共に神の啓示についての神学を深めた人々と言えますが、その過程において啓示の表現としての物語、あるいは神の物語としての聖書に注目したという指摘がなされるようです。

2.イェール学派の主張点・強調点

イェール学派の人々の間でも主張や強調点の違いはあるようですが、特に取り組んでいた神学的課題の領域には違いがあるようです。

まず、この学派の人々の中で先頭に立ったハンス・フライは、主に聖書解釈の課題に取り組んだと言えそうです。彼は、聖書解釈において聖書諸文書が持つ物語(ナラティブ)としての性質を優先的に重要視すべきことを主張しました。これは、18世紀以降の啓蒙主義的傾向の中でなされてきた批判的聖書学のあり方に疑問を投げかけるものでした。そして、聖書に描かれている物語が哲学概念や象徴的な意味へと置き換えられることなく、そのまま受け止められるべきことを強調しました。

次に、リンドベックは、神学の類型化、また宗教間対話に関心を持ち、取り組みました。彼は、神学や宗教のモデルを三つに類型化しました。神学をある客観的な対象について知識を与える命題とみなす「認知・命題」モデル(保守的神学)、宗教を何らかの宗教的経験の象徴的な表出とみなす「体験・表出」モデル(シュライエルマッハ―等)に対し、第三のモデルとして宗教を言語やそれに対応する生活形式に類似するものとして理解しようとする「言語・文化」モデルを提示し、これこそが今日の世界において求められる神学の形だと言いました。これに基づき、教理の規則理論、テキスト内在性(intratextual method)の概念、アドホックな護教論(基礎付け主義的な護教論に反対して)を展開しました。

更に、ハワーワスは、このような流れを受けて、キリスト教倫理の面で取り組みをしました。彼は、福音書の物語がキリスト教徒に適切な行動様式を提示している主張しました。

その他の人々を含め、イェール学派の人々の間には、取り組んだ領域の違いはありましたが、共通した主張点・強調点を見出すことができます。言語の役割を他の者の役割の上におくこと、抽象的なものでなく具体性を強調すること、キリスト教真理のユニーク性の強調などです。

3.シカゴ学派の主張点・強調点

これに対して、リクールに代表されるシカゴ学派は、イェール学派とは異なった主張点・強調点を持っています。イェール学派が物語が世界を吸収するという方向性を強調するのに対して、リクールは、ストーリーからメタストーリー、メタストーリーからストーリーの相互循環を分析したり、「物語」以外の聖書ジャンルの多様性を尊重したりと、イェール学派が強調した視点を取り入れつつ、より広い視野から神学や宗教を分析しようとする傾向があるようです。そういう意味合いからでしょうか、両学派は、「純粋主義」(イェール学派)と「非純粋主義」(シカゴ各派)として区分されることもあるようです。

4.ポストリベラリズム

このように、イェール学派、シカゴ学派から広がった神学的運動は、ポストリベラリズムと表現されるようになります。この運動は、自由主義的世界観の信憑性に対して疑問を投げかけ、神学の物語的アプローチを大切にします。マクグラスによるポストリベラリズムの解説においては、ハンス・フライやリンドベックの名前と共に、哲学者アラスデア・マッキンタイアの名前が挙げられ、彼の主張点が比較的詳しく紹介されています(注2)。

5.ポストリベラリズムとポストモダニズム

ポストリベラリズムについては、ポストモダニズムとの親和性を指摘されることがよくあります。

ポストモダニズムとは、モダニズム(近代主義)の価値観が崩れた後に登場した思想的傾向の総称と言えます。モダニズムが人類共通の理念や絶対的価値観に信頼を置こうとするのに対して、二つの世界大戦を経、そのような価値観への疑問が出される中から、多元主義や多様性を尊重する価値観が強調されるようになりました。このようなポストモダニズムは、特定の思想的流れと言うよりは時代的な趨勢と言ってもよいようなものかと思います。

このような傾向の中で、リベラリズムの持っていた啓蒙主義的、モダニズム的傾向に反対するポストリベラリズムの主張が好意的に受け止められたという見方も可能なようです。(「・・・イズム」が沢山並んで頭が痛くなりそうですが、リベラリズム、ポストリベラリズムはキリスト教神学内の流れを表わし、モダニズム、ポストモダニズムは、広くキリスト教神学外の思想的潮流を表わすと考えたら分かりやすいかと思います。)

後半は、このような物語の神学が福音主義神学において、どのように評価され、広がっていったかをまとめてみたいと思います。

注1 マクグラス『キリスト教神学入門』(教文館、233頁)
注2 マクグラス前掲書(171頁)

ネット上の参考ページ

「屋根裏部屋の思考」―「神学の二つのモデル」
http://okegawax.cocolog-nifty.com/blog/cat8535834/index.html

長谷川琢哉「宗教間対話とポストリベラル神学を巡って」『宗教学研究室紀要 第3号』(京都大学文学研究科宗教学専修)(2006年、28-41頁)
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/57733

堀江宗正「「物語と宗教」研究序説―リクール「物語神学を目指して」を読む」『東京大学宗教学年報』XV(1998年、61-78頁)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/26083

David K. Clark(Bethel Teological Seminary) 'Narrative Theology and Apologetics'"Journal of the Evangelical Society Vol.36"(1993,p499-515)
http://www.etsjets.org/JETS/36-4

Robert Weston Siscoe'Postmodern Development in Evagelical Theology'(2011)
http://digitalcommons.olivet.edu/honr_proj/

Gerald R. Mcdermott Ph.D.'The Emerging Divide in Evangelical Theology'(2013)
http://www.virtueonline.org/emerging-divide-evangelical-theology

 

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信徒大会

2015-01-12 15:58:48 | 教会便り

今年の教区信徒大会は、明石人丸教会で行われました。

午前は、聖会。共に福音にあずかるために、

取り扱われ、使命を確認し、そのために「本気になる」ことを語って頂きました。

午後は、各教会聖歌隊による賛美の集い。

大きな人数でも、小さな人数でも、

声を合わせ、心を合わせてささげられる賛美のすばらしさを思いました。

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干し柿

2015-01-12 15:57:27 | 長田家便り

干し柿、できました。

こんなに大きな干し柿、久しぶりに食べました。

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15章 その6

2015-01-11 21:20:14 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

(6)ヨハネの福音書全体における聖霊の約束の位置づけ

御霊についてのヨハネの福音書の記述は、ダンによって二種類に分けられていました。「もうひとりの助け主」「聖霊のバプテスマ」についての言及と御霊の命を与える働きについての言及でした。前者はペンテコステの日に成就し、後者はヨハネ20:22に成就したと考えられていました。しかし、両者ともにペンテコステの日に成就したのだと考えて差し支えないのだとすれば、むしろヨハネの福音書全体においては、両者の記述を全体的に踏まえる必要が出てきます。

ヨハネの福音書全体のテーマは、「イエスが神の子キリストであること」、及び信じる者が「イエスの御名によっていのちを得る」ことであると言ってもよいと思います(20:31)。このことを踏まえると、聖霊の約束は、これらのテーマを下支えするものとして与えられていると言えます。

聖霊のバプテスマの約束は、バプテスマのヨハネのあかしを通して与えられたものです。それは、人々の「あなたはどなたですか」との問いに対する答えとして与えられました。その回答の最初は「私はキリストではありません」でした(1:20)。やがて「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」と語り、水でバプテスマを授けている自分ともうひとりのお方(イエス様)を対置しています(1:26)。翌日、ヨハネはイエス様が近づいてこられるのを見て、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」とあかしすると共に(1:29)、「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」との神からの言葉を紹介した上で(1:33)、「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」と言います(1:34)。ここでは、イエスが神の子キリスト(油注がれた者)であることへの証言としての意味合いが強くあることが分かります。

やがて、イエス様ご自身が語られた「水と御霊によって生まれなければ」との言葉は、信じる者に与えられる命を産み出すお方が御霊であることを証ししています(3:5)。このことは、パン論争の中で語られた「いのちを与えるのは御霊です」というお言葉によっても明確にされます(6:63)。

祭りの終わりの日、イエス様が語られたのは「生ける水の川」についてでした。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とのお言葉は、イエス様を信じることによる永遠のいのちへの招きであると言えるでしょう(7:38)。しかし、この言葉に対してヨハネがつけた説明は、その働きが聖霊の働きの中で行われることを示唆しています。「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(7:39)。

やがて、イエス様は受難の時を前にして、「もうひとりの助け主」について語られます(14:15)。この表現は、御子の代務者としての聖霊の働きを思わせますが、単なる代務者を越え、「いつまでもあなたがたと、ともにおられる」、「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」お方であり、信仰者と共にあり、内に住まわれるお方であることを示します(14:16、17)。繰り返されして語られる「真理の御霊」(14:17、15:26、16:13)という表現は、聖霊の働きの中心が真理をあかしすることにあることを表現し、具体的には、「すべてのこと」、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」(14:26)、「わたしについて」(15:26)、「罪について、義について、さばきについて」(16:8)、「すべての真理」(16:13)を教え、あかしし、思い起こさせる働きをします。更に、「御霊はわたしの栄光を現わします。」という表現は、聖霊のお働きの最終目的を表現していると言えます(16:14)。この聖霊が父なる神及び御子イエス様から遣わされることが明らかにされています。(14:26、15:26、16:7)。このような聖霊についての教えは、聖霊が御父及び御子と信仰者との人格的な関わりを助け、もたらすお方であり、特に教え、あかしする働きを通してそのようにされることを示しています。これは、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」というイエス様のお言葉と合わせ考えると、聖霊の働きは永遠のいのちをもたらし、支えるお方であり、特に教え、あかしすることを通してそうされると言い変えることができます。

受難と復活の後、弟子たちの前に立たれたイエス様は、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣われたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われ、彼らに息を吹きかけた後、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのままに残すなら、それはそのまま残ります。」と言われました(20:21~23)。息を吹きかける行為の前後のイエス様のお言葉は、弟子たちに宣教の使命を与え、確認するものと言えるでしょう。弟子たちが「聖霊を受ける」こと自体、ペンテコステの日に成就したのだとすれば、これらのお言葉はやがて開始されようとする聖霊による宣教の働きの開始を告げる意味合いが強いようにも思われます。ダンが指摘するように、この時の息を吹きかけるイエス様の行為は創世記2:7を思い起こさせるのも確かです。しかし、その前後のお言葉と合わせ考えると、聖霊による宣教の開始はキリストよって与えられる新しい命に根ざし、またそれが外部にまで表現されることとして起こらなければならないことをこの行為は示唆していると、整理して考えることができそうです。

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「必要なことはただ一つ」(ルカ10:38-42、2015年1月11日、東播磨中央教会にて)

2015-01-11 16:40:43 | メッセージ

有名な姉妹マルタマリアのお話です。聖書に親しんでおられたら、一読してまざまざと光景を思い浮かべることのできる方も多いのではないでしょうか。今日はこの所から私たちの信仰生活において忘れてはならないことをご一緒に考えたいと思います。

1.マルタの姿

まず、私達の目をマルタの様子に向けてみたいと思います。彼女は、イエス様を家にお迎えしました。敬愛します先生をお迎えし、自慢の腕によりをかけて沢山ご馳走をお出ししましょうと、メニューを考え、あれこれと忙しく準備していました。ふと見ると妹のマリアがイエス様の前に座り込んでお話を聞いています。マルタは思わずイラっとしてしまいます。そして、イエス様に訴えます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)。「忙しくしている自分を横目に、自分だけ何をしているの」という思いでした。

ところが、イエス様は「そうだよね」とは仰いませんでした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)と仰いました。これは、マルタの急所を突くお言葉でした。マルタが自分でも気づかない自分自身の姿をズバっと示されるお言葉でした。

このようなことは私たちにも起こり得ることではないでしょうか。「今年こそ心穏やかに」と願いつつ、自分だけあたふたとしている横でのんびりされたりすると、ついイラッとなったりします。有能な人ほど、色々な必要が目に見えて、あれこれ動き回るのですが、そういうことに無頓着な人に我慢できない、といったことも起こり得ます。

パウロは言いました。「(愛は)いらだたず」と(コリント一13:5)。また、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と(コロサイ3:14)。多くのことに思い悩み、信仰者として持つべき心の平安をつい失ってしまう…マルタの姿に私たちが陥りやすい姿を見ます。

2.マリアの姿

次にマリアの姿に目を留めることができます。「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)。彼女は、イエス様が語られるお言葉を一つも聞き漏らすまいと耳を傾けていました。このマリアの姿勢を主はよしとされました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42節)

ここに、対照的な二人の姿があります。片やマルタは多くの事に思い悩み、心乱しています。他方のマリアは、心をただ一つの事に集中していました。「それは彼女にとって必要なことだから、取り上げてはいけない」と仰いました。

イエス様の御声を聞くこと…それは、ただマリアにとって必要なだけではありません。マルタにとっても、あるいはすべての人にとっても必要なことでした。しかも「必要なことはただ一つ」とさえ言われます。イエス様の御言葉に耳傾ける事は、それなければ本当の意味で価値ある生き方ができないというほど、大切で、必要なただ一つの事だと仰いました。マリアはそのことに心を集中させていたのでした。

3.主がマルタに伝えたかたったこと

マルタとマリアの姿を見てきました。しかし、今回この箇所を読んで改めて気づいたのは、このエピソードがイエス様からマルタへのお言葉で終わっていることです。私達の目はマルタの姿を見、マリアの姿を見ます。しかし、そこで終わるのではいけないのかもしれません。イエス様はマリアの姿を示しながら、マルタに何かを教えたかったのではないでしょうか。

「必要なことはただ一つ」と仰いました。これは、マリアにとってだけではなく、マルタにとってもそうだと言うのでした。そうかと言って、ここでマルタに対して、「奉仕をやめよ」とも仰っていません。そうではなく、「あなたの心と生活の真ん中にどうしても必要なただ一つの事をしっかりと据えなさい。あなたの奉仕を、私との関係に根差したものとしなさい。」ということではないでしょうか。

年頭に当たり、皆さんの心はどうでしょうか。必要なただ一つの事に集中させて頂き、キリストの平和の中にご一緒に歩んで参りましょう。

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新カテゴリー「神学」について

2015-01-09 21:21:45 | 神学

当ブログに、「神学」という新しいカテゴリーを設けることにしました。

私は神学の分野で学位を持つわけでもなく、その意味ではこの分野の専門家とは言えません。それでも、このカテゴリーを設けて、私なりの取り組みをアップしていきたいと思ったのは、以下のような思いからです。

・私自身の取り組みの記録として

カテゴリー「本」にも書きましたが、「福音とは何か」「宣教とは何か」「救いとは何か」が当面の私のテーマになっています。このようなテーマを突き詰めていけば、当然神学的な領域に入り込んでいくことになります。関連する書籍を読み進める一方で、少しずつでも私なりにまとまってきた部分があれば、自分自身の覚え書きとして文章化し、まとめていきたいと思います。最終的結論と言うよりは中間報告的なものになるかと思います。探求が進む中で、軌道修正も度々行われると思いますので、そのようなものとして読んで頂けましたら幸いです。

・一牧師からの神学への接近の試みとして

私だけの感じ方かもしれませんが、神学を専門的に学ばれた方とそうでない牧会者との間の溝がかなり大きくなっているのではないかと思います。知識量だけでなく色々な問題意識においても、かなりのギャップが生じてきていて、相互のコミュニケーションにも困難があるのではないかとさえ危惧されます。役割分担という面はあるかと思いますが、両者が緊密な関係を持ちながらそれぞれの働きを進めるという本来的あり方が難しくなっているように思われます。神学者の方々に、現代的な取り組みについて分かりやすくまとめて提示して頂くことも必要かと思いますが、他方では、牧会者の側からもその溝をいくらかでも埋める努力が必要なように感じます。そういう意味で、一牧師としての神学への取り組みにも意味があるのではないでしょうか。

学の浅い者ですので、稚拙な部分も出てくると思いますが、暖かい目で見守って頂けましたら幸いです。なお、おかしなところ、不足したところなどが目に付きましたら、ぜひご教示頂けましたら幸いです。

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