長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

Happy Sheep

2014-06-29 16:48:10 | 教会便り

今日、神戸中央教会でHappy Sheep(地域の子どもたちのための集い)が開催されました。

今回は、10時の教会学校からの参加も多く、最初から和んだ雰囲気。

紙ひこうき大会も、シンプルなゲームですが、とても盛り上がりました。

子どもたちの笑顔が心に残る集いでした。

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結婚式

2014-06-29 16:46:38 | 教会便り

昨日、神戸中央教会で結婚式がありました。

若いお二人のこれからの歩みに、主の祝福がありますように。

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11章 その2

2014-06-28 19:48:31 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

続いて、第一コリントから2か所、第二コリントから2か所を取り上げます

第一コリント10:1-5

著者によれば、この箇所は、間違った礼典主義に対する警告として通常受け取られていると言います。すなわち、イスラエルは私たちが持っているように礼典を持っていたが、彼らは滅びを免れなかった、だから気を付けよう、という受け取り方です。しかし、著者は、この受け取り方がポイントを取り違えていると言います。パウロが言っているのは、イスラエルが礼典を持っていたということではなく、あるいは、クリスチャンの礼典を持っていても滅びるかもしれないということでもない。彼が語っているのは、イスラエルが贖いと神の恵みの力強い経験を持っていたにも関わらず、偶像礼拝と罪に陥り、滅ぼされたということである。これらの偉大な恵みの救済的みわざはクリスチャン時代のキリストにある救済と恵みの経験を指し示すアレゴリー(比喩)である。救済と恵みを経験した者たちが同じように罪に陥り、キリストに拒まれる可能性が常にあることを、彼らは私たちに警告している。すなわち、この節全体は、9:24-27に基づく(γαρ-1節)訓練と忍耐への励ましにおける例証(τυποι-6節)である。この節を理解する鍵は、パウロが出エジプトと荒野での旅の出来事をクリスチャン経験の比喩として使っていることを理解することである。

(1)「岩とはキリストです。」パウロはここで先在のキリストについて語っているのではない。キリストが物質的岩「であった」とか、岩の中にいたとか、あるいはキリストがイスラエル人たちに水を供給したとか言っているのでもない。彼はただ、キリストが「我々の」霊的維持の源であると言っているだけである。

(2)「御霊の食べ物(飲み物)」パウロは、イスラエルが霊的食物にあずかったと言っているのではなく、マナや水がマナや水以上のものであったと言っているのでもない。彼はただ、イスラエルが神から受けたまさに食物であるマナや水を、クリスチャンがキリストから受ける霊的食物の例証として用いているだけである。

(3)「モーセにつくバプテスマを受け」ここでもパウロは、イスラエルが実際にバプテスマを受けたと言っているのではなく、モーセの中にバプタイズされたとか、モーセとの関係あるいはモーセに対する忠誠の中にの中にバプテスマを受けたとかいうのではなおさらない。彼はむしろキリストの中へのクリスチャンのバプテスマについて考えていたのであり、出エジプトをクリスチャンのキリストの中への結合の例証として用いていたのである。

著者はこの後、この種のクリスチャン的「ミドラシュ」の背後にある原理について、具体例を挙げて例証しています(ガラテヤ3:8、4:21-31、Ⅰコリント9:8-10、第二コリント3:7-18)。その上で、第一コリント10章における紅海渡りと荒野の経験が「礼典」であるのは、それらが新しい時代、すなわちクリスチャンの時代の霊的現実の光で見られ、そこから「礼典」としての重要性を引き出すからに過ぎないことを指摘します。従って、実際にはパウロは紅海におけるモーセにつく「バプテスマ」について語っていたのではなく、キリストの中への聖霊のバプテスマについて語っていたのだと言います。

また、この部分の最後の方で、著者は、パウロが問題にしていたのが「自分はクリスチャンである」と「考えている」人々についてでなく、実際にクリスチャンである者が倒れうるということを彼らに警告しているのだと言っています。

第一コリント12:13

聖霊のバプテスマについて明瞭に語っているパウロの一節として、この箇所はペンテコステ派にとって決定的だと、著者は言います。この節を彼らの神学の線に合わせるため、様々な試みがなされてきたと言います。

(1)パウロは水のバプテスマについて語ったのでもなく、御霊のバプテスマについて語ったのでもなく、第三のバプテスマ、すなわち御霊「による」バプテスマ、言い変えれば回心について語った。

この解釈は、大方の新ペンテコステ派が放棄したものだと指摘しつつ、著者は、次のようにこの主張を退けます。

これは主にRSVの翻訳に基づいている。ενが具格を伴うことは多くの学者に支持されているが、この解釈はほぼ確実に拒否されるべきである。新約聖書ではβαπτιζεινと共に用いられるενは、決してバプテスマを施す人を示さない。反対に、それは常にバプテスマ受領者が浸される要素(あるいは彼が・・・される要素)を示している。(もちろん、εν τη ερημωやεν τω ονοματιのように、より完全な節の一部である場合を除くが。)御霊のバプテスマについて語る他の6つの節(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33、使徒1:5、11:16)では、ヨハネのバプテスマで用いられる要素が水であるのに対して、メシヤのバプテスマで用いられる要素は御霊である。

(2)より微妙な議論:εισには「・・・において」、「・・・のために」という意味を持つ。

ルカは場所的意味でενの代わりにεισを用いることがあるが、パウロにおいてはそのような混乱はまれである。従って、パウロにおいてεισは、「ある目標に向かっての動き」という基本的意味を持つと常に仮定してよい。この場合、目標は「一つのからだ」であり、御霊のバプテスマの効果は体への統合、言い変えればキリストとの結合である(ガラテヤ3:17、ローマ6:3、4)。パウロが語っているのは、御霊のバプテスマの実行場所についてではなく、御霊のバプテスマの働きと効果について語っている。βαπτιζειν εισが「・・・でバプテスマを授ける」という意味を持つケースはない。また、ここでεισ=「・・・のために」と取ることもできない。εισの目標は動作でなく状態である。βαπτιζεινのような動作の動詞の後につけば、εισはある状態に至る動きの意味を持つことができるのみである。

このような議論を受け、著者はペンテコステ派の議論が失敗に帰すると言います。すなわち、パウロにとってはクリスチャンになることとキリストの体の一部になることとは同じ意味である。従って、御霊のバプテスマはコリントの人々をキリストの体の一部、すなわちクリスチャンにしたものである。

(この後、ここでパウロが水のバプテスマについて語っているという主張に対しても、かなり長い反論が記されますが、省略します。)

第二コリント1:21、22

著者によれば、この節は様々に解釈されてきたそうですが、適切な解釈は回心―入信式における御霊の経験についての描写だと言います。

(1)この節の主要な関心は確信―キリストと御霊の保証において表現された神の真実に基づく確実性である。

これは、コリント人たちが何らかの儀式を思い出すことにより確信を得たり、確信を活性化されたということではない。御霊を受ける経験はそれ自体で十分生き生きとしていて、外的な現われにおいても(ガラテヤ3:5、第一コリント1:4-9)、道徳的変革においても(第二テサロニケ2:13、第一コリント6:9-11)、悟り(第一コリント2:12)、喜び(第一テサロニケ1:5-9)、愛(ガラテヤ5:22、ローマ5:5)、子としての意識(ガラテヤ4:6、ローマ8:15)、自由と命の感覚(第二コリント3:17、ローマ8:2)、そして一般的には聖霊の臨在と力の意識においても、生き生きしている。パウロ(とヨハネ)にとって御霊の最高最良の働きの一つが救いの確証であることを理解することは重要である。確信の経験を他の源泉に帰することは新約聖書におけるクリスチャン経験の性質についての無知を告白することである。

ここには、著者の「聖霊のバプテスマ」理解が、かなりの程度総合的に表われているように思われます。以下、著者は次のような論点を追加していきます。(議論の詳細省略)

(2)「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち」とは、御霊のバプテスマについて語っている。
(3)「私たちに油を注がれた」という表現で、パウロは御霊のバプテスマについて考えていた。
(4)「確認の印を私たちに押し」とは、御霊による証印について語っているものである(エペソ1:13、4:30)。
(5)「保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」とは、このようにして与えられた御霊は来たるべき完全な救いの担保、保証金であると言うことに他ならない。

第二コリント3章

著者は、この章がパウロの聖霊論を理解しようとする場合、決定的な章であると言います。まず、ペンテコステ派の足元を切り崩す論点は次の通りです。(要約のみ)

(1)3節。コリント人たちは彼らの心に神の御霊でキリストによって書かれた手紙であるが、ここでパウロが考えているのは回心によってコリント人たちの生涯に表わされた明確な道徳的変革である。
(2)3、6節。「人の心の板に」「新しい契約」と書き、モーセの律法と御霊とを対照させているので、パウロは明らかにエレミヤ31:31-33、エゼキエル36:26について考えている。新しい契約の中心は御霊である。御霊を受けることなしに新しい契約に参与することはできない。
(3)6、7節。御霊は命を与える。御霊なしに命はない。御霊の賜物はクリスチャンにとってオプション的なおまけではない。
(4)8、9節。キリスト教が新しい時代に属するのはクリスチャンが御霊を持っているからである。この時代は義の時代でもあり、義を持つことは御霊を持つことと同じことである。
(5)16、17節。律法の束縛が後にされ、御霊の十全さが入ってくるのは、御霊に向く=御霊を受けることによってである。

従って、この章全体において御霊の第二の賜物と言う考えはない。実際それはありえない。御霊は新しい契約が人に適用される時の本質またすべてであるので、御霊の内住から離れた新しい契約を考えることは不可能である。(以下、著者は古い契約における律法の役割と新しい契約における御霊の役割との間に対照があると指摘します。)

他方、入信におけるバプテスマの役割を強調する人々は、回心-入信式において顕著なのは御霊の賜物であることに気付くべきであると著者は言います。このための論点は、次の通りです。(要約のみ)

(1)ここでパウロが明確に区別し、対照させているのは、外的、物質的な局面で働く宗教と内的、霊的局面で働く宗教である。もし水のバプテスマがこの命を与える働きにおいて決定的役割を果たすなら、その対照は力を失うことだろう。
(2)キリストは彼らの心に御霊によって手紙を書かれた。キリストの郵便配達人として、パウロは宣教の働きを通してその手紙を配ったのである。
(3)信仰は16、17節に暗示されている。クリスチャンになることは御霊なる主に向くことである。
(4)ここで水のバプテスマは不在である。それがあっても議論や理解に何物をも加えない。その不在は議論や理解から何物をも差し引かない。他方、これらの最初のクリスチャンたちの御霊の経験の完全で生き生きとした性質は大変著しい。

以上、第一及び第二コリントの各箇所の検討を要約しつつ、著者は、ペンテコステ派も礼典主義者もここに自らを支持するものを見つけることはできないと言います。

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牧師夫人研修会

2014-06-26 17:48:06 | 事務所便り

明石海峡大橋のすぐ近くのホテルで、教団の牧師夫人研修会が開催されました。

久しぶりの参加で、お顔を見ただけでは名前の分からない先生方も結構おられました。

日本全国に戻って行かれた先生方のため、続けてお祈りさせて頂きたく思いました。

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かぼちゃの花

2014-06-26 17:46:00 | 事務所便り

事務所屋上のかぼちゃに花が咲きました。

「かぼちゃの種を蒔きました。芽が出てふくらんで、花が咲いたらジャンケンポン♪」

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つばめの巣

2014-06-26 17:44:36 | 事務所便り

久しぶりに事務所建物につばめが巣を作りました。

今朝も、登校中の子どもたちが、「いるいる」と見上げていました。

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花の日

2014-06-08 15:43:38 | 教会便り

今日は花の日でした。

警察署と消防署でお花をお渡ししました。

昨年はお兄さんたちがやっていた挨拶、今年は瞳が担当。

かなり暑かったですが、楽しいひと時でした。

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オープンスクール

2014-06-08 15:41:26 | 長田家便り

昨日はオープンスクールでした。瞳は、討論の勉強、恵はリレーや地図の読み方など。

それぞれ、それなりに成長しているようです。

写真の背番号4が恵。

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11章 その1

2014-06-07 19:05:25 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

コリント人への手紙からは、第一、第二合わせて、9か所取り上げられます。コリント人への手紙には多くの回心―入信式に関する節があり、それらは、ペンテコステ派、礼典主義者両方のために鍵となるテキストを多く含んでいると著者は言います。今回は、第一コリントからの5か所を取り上げます。

第一コリント1:4-9

この箇所では、回心が(1)恵みの賜物、(2)霊的賜物を豊かにすること、(3)メッセージを確証すること、(4)イエス・キリストとの交わりに招かれることとの関係で考えられていると著者は言います。そして、これらすべてが御霊との密接な関係にあることを指摘します。

(1)χαρισとπνυμαは人に対する神の完全な賜物という意味を持っているという意味で重なる。ある個所ではχαρισはほとんで意味を変えずにπνυμαで置き換えられうる。別の箇所ではχαρισは、御霊が「着せられる」こと、御霊が賜物においてご自身を現わされることとして見られるべきである。
(2)御霊がコリント人の生活に入ってきたことにより、彼らは言葉と知識という霊的賜物に豊かになった。
(3)εβεβαιωθη(確かになった)は、御霊がもたらす確信について言及するものである。
(4)εκληθητε(召した)とκοινωνια(交わり)とのつながりもまた、9節の背後にある思想が御霊を中心にしていることを示唆している。

ここでも見ることができるのは、御霊についてもバプテスマについても語られていない回心―入信式において、表面に最も近い所にあるのは、御霊についての思想であるということである。

第一コリント1:10-17

この節は、礼典主義者とその反対者の両方が勝利を主張する戦場であると、著者は言います。13節は、礼典主義者の砦であり、17節はその反対者の砦である。この箇所はバプテスマについて何を語っているのか。

この箇所についての著者の議論は、かなり長いものであり、3つのステップに分けられていますが、詳細は割愛します。13節からクリスチャンの入信式が入信者をカルバリの救いの出来事にあずからせると結論づけることはテキストからの読み込みすぎだと言います。そして、バプテスマは入信式において重要な役割を果たしているけれども、それに重要性を与えすぎてはいけないことは17節から明らかだと言います。

第一コリント2:12

この一文は、信仰にあずかるために、信仰に先立って聖霊を与え、受け取ることがあるという見解を支持するものとして引用されてきたと著者は言います。しかし、第一コリント2:10-3:4では、クリスチャン(御霊を受けたゆえの「霊に属する人」)とノンクリスチャン(御霊が全くない「生まれつきの人」)との間に基本的な対照がある。成熟しているという意味で「霊に属する人」であるクリスチャンと、まだ「肉に属する人」であるクリスチャンとの間に区別はある。しかし、(信仰にあずかるために御霊を受けたことにより)「霊に属する人」であるノンクリスチャンについての考えはない、と指摘します。

事実によれば、新約聖書が語る唯一の御霊の受領は、信じる者への御霊の賜物であり、彼をクリスチャンとする御霊であると、著者は言います。

第一コリント6:11

著者によれば、ほとんどの注解者にとって、これは「バプテスマ的一文」であり、バプテスマが解釈の鍵となっていると理解されているようです。「イエス・キリストの御名」、「洗われ」といった表現に注目する故のことでしょう。しかし、著者は、パウロがより語っているのはバプテスマのことでなく、クリスチャンの生涯をひっくり返し、不道徳で汚れた者を聖徒に変える回心の偉大な霊的変革について語っているのだと言います。

そのように言う根拠として、(1)「洗われ」は前節(10節)からの文脈を考えると、バプテスマの水による体の洗いのことでなく、霊的洗いとして理解されるべきである。(2)「主イエス・キリストの名によって」という表現でパウロが考えているのは、バプテスマの儀式のことではなく、コリント人たちを汚していた罪に対してイエスが十字架上での勝利によって獲得された権威と力を行使する神の働きのことである。「名によって」という表現の福音書やパウロの手紙の用法から等から。(3)「わたしたちの神の御霊によって」という表現から、御霊が神のみわざの代理人であり、執行者であると見られている。

これらの議論は、主に礼典主義者を意識したものですが、(3)の議論は、自然な流れとして、ペンテコステ派に対する議論につなげられます。「洗われ」「聖なる者とされ」「義と認められた」という三つの動詞は(回心-入信式という)一つの出来事について語っている。「御霊によって…洗われ」という表現は、多少なりとも直接的に聖霊のバプテスマについて語っている(使徒15:9)。「聖なる者とされること」は、回心における御霊の最初の働きである(第二テサロニケ2:13)。義認が御霊において起こることは、それがパウロの手紙の主要テーマであるので重要であるが、ガラテヤ3章1-14節で見出したことを確証するだけのことである。これらの事実は、この主題についてのペンテコステ派の立場を撃つものである。

信仰は、「洗われ」(απελουσασυε)という中態において、また「義と認められ」に含まれるものとして、示唆されている。それゆえ、ここでも、我々が使徒行伝でみた回心-入信式の三つの要素が一緒に結び付けられている。違いは、使徒行伝において、ルカは三つの主要な要素を取り上げつつ、お互いを非常に明確に区別しているが、パウロは彼の手紙においてそれらをあえて区別せず、神が主イエス・キリストの権威によって御霊を通して働かせる霊的変革について強調しているということである。

第一コリント6:14-20

この箇所は、回心-入信式についての文脈ではありませんが、信仰者がクリスチャンになるとき入れられる状態、また関係について、直接的に語っている箇所だと、著者は言います。そして、特にペンテコステ派が注目するべき箇所だと指摘します。

(1)15節(「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であって・・・」)と、19節(「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり・・・」)は明らかに並行節であり、同じことを言っている。聖霊の宮であることはキリストのからだのメンバーとなることである。12:13同様、聖霊を受けることは個人をキリストのメンバーとすることである。

(2)6:17(「主と交われば、一つ霊となるのです」)は特に重要である。というのは、ここでパウロは、霊的次元においてクリスチャンになることを、身体的次元において結婚、あるいは身体的に一つになることと等しいものとして語っている。回心-入信式は個人を大変密接で親しい方法でキリストへと人格的に結び付け、その結果として彼らは一つの霊となる―個人の霊とキリストの霊という二つの霊ではなく。6:17は、内住の御霊がキリストとの結合から離され得ず、御霊の賜物こそがこの結合を有効にするものだということを議論の余地なく示している。

(3)19、20節(「・・・聖霊の宮・・・あなたがたは代価を払って買い取られた・・・)の思想の流れは、個人に対するキリストの贖いが有効にされるのは、御霊によることを示している。御霊は、十字架が買い取られた財産を所有するために、主イエスの代わりに来られた執事である。イエスの死と復活によって得られた救いと贖いを適用するのは御霊である。クリスチャンになるとは、神の霊を受けることであり、キリストの主権のもとに来ることである。

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退院しました

2014-06-02 18:33:44 | 貞美便り

本日、無事退院しました。(写真は病院の壁の前で。)

シンチ検査の結果は、とても良好でした。

昨年の検査後にはかなりはっきりとヨードの集積が見られましたが、

今回、特に見当たりませんでした。

チラージン(甲状腺ホルモン剤)を抜いた状態でのマーカーも0.5と低かったので、

チラージンを飲み続けていけば、当分はRI治療の必要もないだろうとのことでした。

チラージンの服用再開は、木曜日から。

それまでは、ヨード制限食も続きますし、なお当分忍耐の日々ですが、

その後は回復に向かっていくと思います。

主に感謝。

また、皆様のお祈りに感謝いたします。

 

 

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