休日の終り、大蔵海岸にて。
聖書が告げるよい知らせ
第四回 祝福の計画
創世記一二・一‐四
前回は、最初の人、アダムとエバが悪を行った結果、何が起こったかを見ました。聖書を続いて読んでいくと、人々が地に増え広がるにつれて、いくつかのものが増え広がるのを見ることができます。人間の罪と悪、暴虐(創世記四・七、六・五、一一)、そしてのろいです(創世記三・一七、四・一一)。
先に見たように、人間を造られた時の神のご期待は、人が地に増え広がるにつれて神の祝福が増え広がることでした。しかし、人が罪と悪を行った結果、祝福のかわりにのろいが地を覆っていきました。
しかし、そうではあっても、人を祝福しよう、祝福したいという神のお心に変わりはありません。人間の罪悪が増え広がる中にも、のろいではなく祝福が地にもたらされるため、神様はなお一つの計画を備えられました。それはどのようなものだったのでしょうか。
一、信仰と従順の人アブラハム
主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記一二・一)
神のご計画の中で、キーパーソン、鍵となる人物がいました。後にアブラハムとして知られるようになるアブラムという老人でした。神様がこの時、声をかけられたのは、アブラムが七五歳の時(創世記一二・四)。現代の日本であれば、後期高齢者です。しかし、神様がこの老人に目を留め、この人を神様の壮大なご計画の中に置かれたのには理由がありました。彼は信仰と従順の人でした。
「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて」とは、三重の別離です。慣れ親しんだ土地を離れたり、長年一緒に時を過ごしてきた家族、親族に別れを告げたりすることは、簡単なことではありません。しかし、彼は神の言葉に従いました。
後に、ある人は彼のこの行動が信仰によるものだと指摘しています。「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」(へブル一一・八)「神様の仰ることなら間違いはない。」との気持ちだったのでしょう。
創世記は、彼のそれからの生涯をかなり詳しく描いています。波瀾万丈の生涯の中で、彼の信仰は何度も試されます。時には失敗もしますが、その度に神様によって立ち戻され、信仰と従順の生涯を全うしていきます。
ひとりの老人に過ぎない人物を通して、罪とのろいに満ちたこの地に回復と祝福をもたらそうとする神様のご計画は無謀に見えたかもしれません。しかし、信仰と従順のあるところ、人の思いを越えた神様のご計画が進められることは、今も昔も変わりません。
二、祝福となりなさい
続いて神様は、アブラハムにこう言われました。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。(創世記一二・二、三)
ここには、最初に人を造られた時以来、聞かれなくなっていた「祝福」という言葉が何度も繰り返し語られています。何とかして人々を祝福したいという神様のお心があふれています。
しかし、ここで示される神のご計画において、その祝福はまずアブラハムとその子孫に注がれようとしていました。「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて」といった離別への招きに、信仰と従順を持って応えようとしたひとりの人。神様はご自分の計画のキーパーソン、鍵となる人物としてアブラハムを選びました。
これ以降、聖書を読み進めていくと、彼の子孫を通してイスラエル民族が生まれます。神様は彼らに特別な恵みと啓示を与え、ご自身の臨在の中で導こうとされます。そして、その子孫の中から現れるひとりのメシア、すなわちイエス・キリストを通して、神様は祝福のご計画を進めようとしておられました(ガラテヤ三・一六)。
「祝福となりなさい」という言葉は、私たちに随分強い印象を与えます。「祝福そのものとなりなさい」ということでしょう。「祝福の塊のような存在となり、あなたを通して祝福が周囲に増え広がるようにしなさい」ということです。神様の壮大なご計画の中で、祝福の源流となるべき人物として、ひとりの老人を選ばれたということは、何と不思議に見えることでしょう。
三、祝福の広がり
さて、最後に神様は、アブラハムに言われました。
地のすべての部族は、あなたによって祝福される。(創世記一二・三)
ここまでの神様の言葉を見ると、神の祝福のご計画は、アブラハムの子孫に限定されてしまったように見えるかもしれません。しかし、神のご計画は、祝福が小さなところにとどまるようにというものではありません。むしろ、最初は小さな所から始まるとしても、大きく広がっていくことが神のご計画でした。「地のすべての部族」、世界のすべての人々が神様の視野の中に含まれていました。
アブラハムの肉の子孫であるイスラエル民族、後にユダヤ人と呼ばれるようになった人々は、神の祝福は自分たちだけに注がれているとしばしば誤解したようです。神のご計画が、彼らを軸として進められたことは確かです。しかし、祝福が彼らの内側でとどまることは、神様のご意図ではありませんでした。
後に、「異邦人への使徒」とも呼ばれるようになったパウロは、キリストにあっては「ユダヤ人もギリシヤ人もなく」、信仰によってキリストに結びつけられた者は、霊における「アブラハムの子孫」であると指摘しています(ガラテヤ三・二八、二九)。パウロは次のようにも書いています。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び…(ガラテヤ三・一三、一四)
今、神のご計画の中で、「祝福を受けるように」という神様からの呼びかけは、「異邦人」である私たちにも及んでいます。今、自分の弱さと失敗の中で、様々なのろいに取り囲まれていると感じる人がいたとしても、希望は神のご計画の中にあります。神様はイエス・キリストを通して、私たちをのろいから解放し、祝福の中で生きる者としてくださいます。
さらにまた、もし私たちが、アブラハムのように、信仰と従順の道を歩むなら、祝福の塊、祝福の源流として生きることができます。もしもかつて周囲にのろいをもたらすような生き方をしていたのだとしても、キリストによってその存在の根底から造り変えられ、周囲に祝福をもたらす人として生きることができます。
「祝福となりなさい!」神様の招きに、信仰をもってお応えし、立ち上がりませんか。
聖書が告げるよい知らせ
第三回 悪の結果
創世記三・六‐一三、一七‐二四
前回、神様によって造られた人間が、本来はすばらしく造られたことを学びました。同時に、本来「神のかたち」に造られたはずの人間が、いつの間にか造られた時のすばらしさを失ってしまっている現実があることも学びました。それはなぜだったのでしょうか。
今回の聖書個所では、それは人間が悪を行ったからだと言います。最初の人、アダムとエバは、楽園とも言える「エデンの園」に住んでいました。園には、食用となる実を結ぶ多くの木が生えており、彼らはそれを意のままに食べることができました。しかし、園の中央には「善悪の知識の木」が生えており、その木からは「食べてはならない」と、神様によって命じられていました(創世記二・一七)。しかし、彼らは誘惑者の誘いにより、その木の実を取って食べてしまいました。彼らはそれまで知らなかった悪を経験的に知ってしまいました。その結果、どんなことが起こったでしょうか。
一、神の御顔を避けて
それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。(創世記三・八)
ある時、「神である主が園を歩き回られる音」を彼らは耳にしました。いつもでしたら、「神様だ」と気づけば、喜んで神様に前の出ていた彼らでした。しかし、その時の彼らは違っていました。「神様だ」と思った瞬間、「神である主の御顔を避けて…身を隠した」のです。
神の御顔を仰ぎ、神様のほうに自分の顔を向けて生きる…それが人間本来の姿であり、そこにこそ「神のかたち」が表わされるはずでした。しかし、その時の彼らは、そのような「神のかたち」を失っていました。
実は、神様が「善悪の知識の木からは、食べてはならない」と命じられたとき、一つの警告が加えられていました。「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という警告でした(創世記二・一七)。しかし、誘惑者の巧みに言葉に乗せられて、彼らはその木の実を食べたのです。
すぐにバタッと倒れて死ぬことはありませんでした。しかし、何かが確かに変わりました。神様との自由で喜びに満ちた交わりが失われました。その時既に、彼らの霊的な命、神様との麗しい関係は見事に損なわれ、失われていました。
二、人間関係の破壊
主は言われた。「(略)食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記三・一一、一二)
それまでにない彼らの言動を見られた神様は、禁断の木の実から「食べたのか」と問われました。この時、とっさにアダムが語ったのは、「この女が、あの木から取って私にくれたので」という言葉でした。確かにそれは事実でした。しかし、アダムはエバよりも先に神様からのご命令を聞いて、その内容を知っていました。エバが勧めても断ればよかったはずです。それは言い訳であり、責任転嫁であると、彼自身、語りながらも気づいていたのではないでしょうか。
私たちも、自分の過ちに気づいたとき、同様のことをしてしまうことがあります。つい、誰か人のせいにしてしまいます。時には身近で大切な人のせいにしてしまうこともあります。それほど人間は自分がかわいいということでしょう。
「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉」(創世記二・二三)。これは、アダムのもとにエバが連れてこられたときの彼の言葉です。その言葉には、人格的に触れ合うことのできる相手に遂に出会ったという喜びが満ち溢れていました。しかし、悪を行った瞬間、大切なエバとの関係にひびが入りました。
三、のろわれた大地
大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。(創世記三・一七、一八)
前回は、造られた人間には神様から地を管理する使命が与えられていることを見ました。ところが、人が悪を行った結果、地から食物を得ることが困難になりました。地を管理するという祝福に満ちた働きは、骨の折れる仕事になりました。「大地は…のろわれ」たものとなったのです。ここには、人間の悪の結果が人間だけにとどまらず、被造世界全体に影響を及ぼした様子を見ることができます。
四、肉体の死、そして、永遠の命からの隔離
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。(創世記三・一九)
大地ののろいの宣告に続き、神はこのように語られました。「必ず死ぬ」(創世記二・一七)と言われていた彼らは、即座には死にませんでした。彼らに即座に訪れたのは、神様との交わりの破壊であり、人と人との関わりの破壊でした。しかし、神様がここで告げておられるのは、彼らのもとにいつかは必ず死が訪れるという宣告でした。
「土のちりに帰る」…まさに人間の生涯の終わりはこのようです。日本のように火葬であっても、海外に残っているような土葬であっても、土のちりに帰るという現実は変わりません。
さらに続いて神様は、次のように言われました。
見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。(創世記三・二二)
そう言われた神様は、アダムとエバをエデンの園から追い出し、「いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた」と言います(創世記三・二四)。おそらく、人には本来、永遠の命に至る可能性もあったのでしょう。しかし、今や、「必ず死ぬ」と言われていた通り、肉体の死を迎えると共に、永遠の命からは遠ざけられた存在となりました。
人が行った悪の結果は、このようなものでした。そして、聖書を見る限り、人間の歴史はそのことを何度も確認し、証明し続けることになります。
最後に、アダムとエバが神様から身を隠したとき、神様が彼らに呼びかけた言葉をご紹介します。
あなたはどこにいるのか。(創世記三・九)
神様から遠ざかり、身を隠そうとする私たち。しかし、神様は私たちのために回復の道を備えてくださいました。(次回学びます。)そして、「私に帰りなさい」と呼びかけてくださいます。今自分がどこにいるのか確認し、もし神様との距離を感じるなら、神様が備えられた道を通り、神様のもとに帰らせて頂きましょう。その道はいつも開かれているのですから。
聖書が告げるよい知らせ
第二回 造られた人間
創世記一・二六‐三一
前回は、神様が天と地、万物を創造されたことをご一緒に見ました。そして、その最後に造られたのが人間であることも見ました。私たちが今、神様の造られた世界と、そこに生きる人間を見るとき、どんな思いがするでしょうか。時には、「すばらしい」と感じることがあります。しかし、時には、「何か間違っている」と感じることもあるのではないでしょうか。
地震や台風など、いろいろな自然災害を見て脅威を感じることがあります。「神様はなぜこのようなことを許されたのだろう」と考えるかもしれません。あるいは、人間を見てもそうです。人の思いやりに触れたり、助け合う姿勢を見たりして感動することもあります。しかし、争い、傷つけ合う姿を見て悲しくなることもあります。
こういう中で、聖書が告げる「よい知らせ」の一つは、世界も、その中に生きる人間も、最初からこうではなかったということです。神様は世界をすばらしく造られ、特に人間をすばらしいものとしてお造りになりました。もちろん、聖書は世界の現実、特に人間の悲しい現実から目を背けません。むしろ、私たちに人間の恐ろしい現実を直視させます。しかし、人間は元からそのように造られたのではなかった。ここに私たちの希望の根拠があります。
一、はなはだ良かった
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記一・三一)
まず、今日取り上げる聖書箇所の結論部分から見てみましょう。すべての物が造られ、最後に人間が造られました。そのすべてを見られた神様は、「非常に良かった」という評価をされました。それまでの創造のみわざの各段階で、「神はそれをよしと見られた」という言葉が繰り返されています(創世記一・三、一〇、一二、一八、二一、二五)。しかし、最後に人間が造られた後、世界のすべてを見られた神様は、「非常に良い」と評価されました。人間はいわば創造の冠であり、人間の創造によってこの世界は、単に「良い」だけでなく、「非常に良い」ものとなりました。
私たちは、自分を見たとき、自分自身をどう評価するでしょうか。「こんな良いところがある。でも、こんな良くないところもある。」と考えるでしょう。中には「自分の悪い所ばかり目に付く」という人もあるかもしれません。しかし、神様は私たちを元はと言えば「非常に良い」ものとして造ってくださいました。今現在、どんな欠けがあったとしても、あるいは今の自分の状況がどんなにひどいと感じたとしても、私たちには希望があります。神様が造られたそもそもの人間の姿は、「非常に良い」ものだったという、その一点に希望があります。
二、神のかたちに造られた
人間が持つひときわユニークな点については、次のように表現されています。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記一・二七)
神様は動物も植物も、多種多様に造られ、それらは皆すばらしいものでした。しかし、神様がご自分の「かたち」に創造されたと言われるのは人間だけでした。これはどういうことでしょうか。
神様にも人間のような肉体がある、ということではありません。神様は肉眼では見えない霊なるお方です。「かたち」というのは物質的な形ではなく、その性質を表します。人間が神のかたちに造られたということは、人間がどこか神様の持っておられるような性質を持つ者として造られたということです。
たとえば、神様は知恵深い方です。ですから人間は知恵を働かせることができます。また、神様は豊かな感情を持っておられます。ですから、人間も感情豊かです。神様は意志的なお方です。ですから、人間も衝動的な本能だけで動くのでなく、多くの場合、自分の意志で右か左か選ぶことができます。
人格的なお方である神様は人格的な関わりを求められます。相手に対して関心を持ち、自分の思いを伝え、関わりを持とうとします。そのように、人間は神様との人格的な関わりの中で生きることができます。神様の語りかけに応答し、神様に対して語りかける存在です。
また、人と人との間でも、人格的な関わりを持つことができます。「すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とありますが、男と女は多くの場合、物の見方、感じ方がかなり違っています。違っていますが、互いに惹かれ合い、近づこうとします。相手を大切に考え、その思いをくみ取り、時には自分の大切なものを相手に与えようとさえします。「愛」というのは、そのような人格的な働きの究極にあります。
神様がいつくしみ深いお方であるように、私たちも神様を愛し、人を愛することができる。そこに「神のかたち」に造られた人間のすばらしさがあります。
三、使命が与えられた
こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。(創世記一・二六)
「神のかたち」に造られた人間は、すばらしい使命も与えられました。世界を治め、地のすべてのものを治めるという使命でした。それは決して、人間が自分勝手に、自分の都合のよいように、すべての物を扱ってよいということではありません。むしろ、神様の代理人のようにして、きちんと管理し、治めていくことです。
今、世界を見渡すと、自然が破壊され、色々な資源の枯渇が危惧されています。人間は与えられた使命をうまく果たしていないようです。しかし、人間は本来、この使命を十分果たし得る者として期待され、造られたということを思い出す必要があるでしょう。
四、神の祝福を受けた
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創世記一・二八)
最後に、人間は神様に祝福される存在でした。神様が彼らを祝福された後、「生めよ。増えよ。地を従わせよ。」と命じられたのは、彼らが神様の祝福を身に受けて地に神様の祝福を満たすようにという神様のご計画を表していました。
今、人間が地に増え広がるにつれ、神様の祝福よりものろいが増え広がるように見えるかもしれません。実際、聖書はそのような人間の恐ろしい一面も指摘しています。しかし、希望があります。人間はそもそもそうなるように神様が意図して造られたのではないということです。むしろ、神様が意図されたのは、私たちを通して神様の祝福が地を覆うようになることでした。
世界にどれ程の悲惨があっても、希望はあります。人間がどれ程弱く醜い者であったとしても、望みがあります。私たちを愛し、私たちを創造時の本来の姿へと回復してくださる神様がおられる。ここに私たちの希望があります。
ひと月ほど前に貞美が植えた柿の種。
少し前から土が盛り上がり始め、
1月8日。
手前左のところから種が持ち上がってきました。
そして、今日午前、手前右側のところから茎が見え始め・・・
午後になると・・・
茎が種を持ちあげました。
この先、どう育てたらよいのか、知識はほとんどありませんが、
どうなることやら。
年末、教会員が召されました。
年末感謝礼拝には普通に来ておられ、挨拶もしてお別れした方でした。
斎場の関係で、年明けの式(3日)となりました。
急なご召天となりましたが、イエス様への信仰のゆえに、
今は天の御国に移されていることが慰めです。
ご遺族の皆様の上になお豊かな慰めをお祈りします。