長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

19章 その3

2015-07-23 17:52:17 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

まずは、最終章である第19章について、特に、そこで言及されている「続編」について書きます。(内容的には、「検討編」というより、「紹介編」に近いです。)

この19章では、著者の見解がキリスト教の三つの主要な流れとの比較の中で、大胆かつ明瞭に表現されています。御霊のバプテスマの「経験」としての側面についても明快に記されていますし、水のバプテスマを信仰による救いの後に置くのではなく、信仰が救いに至るための必須的表現として捉えられている点も、明快に説明されています。

同時に、本書の研究を通して、課題として残された部分について、簡潔にではありますが言及されているのが注目すべきところです。特に最後の段落で示されている問いは重要です。「御霊の賜物が人をクリスチャンにするのであれば、彼が御霊を受けたのかどうか、またいつ受けたのかを、本人や他の人々はどのようにして知るのか?」(229頁)この点については、かなり曖昧な表現ではありますが、異言を含む霊的賜物も、一定の役割を果たすであろうことも示唆されているように思われます。ただ、この問いについての十分な取り扱いは、もう一冊本を必要とするのであり、著者は、「御心であれば、ふさわしい課題でこの課題に取り組みたい」と、続編の誕生を暗示する形で本書を結んでいます。

実際に続編として書かれたのは、"Jesus and the Spirit : a study of the religious and charismatic experience of Jesus and the first Christiaan as reflected in the New Testament"です。1975年にSCMにより発行されました。(私の手元にあるのは、Eerdmansによって1997年に発行された版。)"Baptism in the Holy Spirit"が1970年発行ですので、5年後の発行になります。

"Baptism in the Holy Spirit"より簡単な本を予想していましたが、購入してみると、反対に倍以上のボリュームを持つ本でした。上記の問いに対してどんな回答を著者が用意したのか、気になるところですが、序文のところに、上記の問いを自ら引用して、著者は次のように記しています。「続く章の研究は、これらの問いを新約聖書レベルで答えようと言う企図として始まった。しかし、それは宗教経験自体の探求へとすぐに広がった。なぜなら、『御霊の経験』という用語のみで考えることは続く事柄と方法に人工的制限を負わせることになるだろうから。」(6頁)従って、この本は、上記の問いに対する直接的回答というよりは、より広い課題としてイエスと初代教会の宗教経験を調べるものになっています。ですから、上記の問いに対する直接的答えを見い出すことは、この本全体を読んだ上でなければ難しいのですが、私にはその力も余裕もありません。

それでも、目次を頼りに、上記問いに対して直接に関わると思われる個所に当たりをつけながら、いくつかの箇所に目を通してみました。以下のような箇所が目に留まりました。


第7章「ルカの解雇における熱狂的始まり」第34節「目に見える証拠?」より(189-193頁)

今世紀、この問いはペンテコステ派の中で最も鋭い形で広まった。彼らの答えは簡単で適切なものだった。「御霊が力をもって命の中に入ったことの特別な徴は、異言である」。(例証としての引用省略)

ペンテコステ派の提題のため、すぐに言われなければならないのは、彼らの答えはしばしば認められているよりも新約聖書において健全に根ざしているということである。ルカがペンテコステの異言を御霊の注ぎの外的徴として言及していることは確かに本当である。(以下、使徒行伝におけるいくつかの例省略)もしそうだとすると(サマリヤの例で、「聖霊が与えられるのを見た」という表現が異言を示唆するのだとすると)、ルカが御霊の賜物について描いているすべての場合に、異言が伴い、それによって「証拠づけられている」ということが事実だということになる。容易にそこから導かれる結論は、ルカが異言を御霊の注ぎの「最初の真諦的証拠」として描こうと「意図している」ということである。(省略)

しかしながら、二つの点が明確にされなければならない。一つ目は、ルカの御霊の概念、あるいは、よりよくは、御霊経験、一般的宗教経験の概念は、かなり粗雑に描かれているだけだという点である。(省略)

二つ目は、ペンテコステ派の命題は、次の問いに答えるものである。「御霊、あるいは御霊の注ぎの特有の現われは何か」。ルカはこの問いに答えていないし、答えようともしていない。(以下、「特有の」という点に対してルカがほとんど意識していないことを指摘する議論、省略)

これら二つの点から、初期共同体における宗教経験のルカの取り扱いは、必然的に偏ったものであるということになる。(省略)

結果として、異言についてのペンテコステ派の命題に対して新約聖書解釈の観点からいくつかのコメントが求められる。第一に、ルカは異言を10:45の紙への賛美や19:6の預言と共に、御霊が来たことの「一つの」現われとしている。(省略)

第二に、ルカの表現は偏っているため、ペンテコステ派によって提出された問いに答えるには十分なデータを持っていない。(省略)

しかし、第三に、もし御霊の注ぎのルカの記述を今日の御霊経験、御霊のバプテスマその他の経験の規範として受け取ろうとし続けるのであれば、ルカと共に道を進まなければならない。使徒行伝において御霊の到来を表わす異言は、恍惚的語りであり、紛れもなく発声のほとばしりである。(省略)

(省略)要するに、異言が教会の最初期において御霊の現われとして認められていたことはほとんど疑いない。しかし、初期の信仰者たちが現代のペンテコステ派が異言に与えるような重要性を異言に与えていたということは、ルカの記事から正統に引き出されうる結論ではない。神が異言がにそのような重要性を持つよう意図されていたと結論づけることはなおさらできない。


第11章「第二世代のキリスト教概観と結論的所見」第59節「結論的所見」より(359-361頁)

我々が第一及び第二世代のキリスト教における「宗教経験の共同体的次元」に目を向けるとき、事実上少なくとも四つの異なるモデルに直面する。それらはおそらく当時の(そして今の)信仰者に可能なキリストの出来事に対する異なった対応の枠組みとして役立つであろう。

第一は、ルカであり、第一世代のカリスマ的、恍惚的経験の活力におけるルカの無批判的栄誉の態度である。(省略)

第二は、パウロのカリスマ的共同体のビジョンである。すなわち、共同体、キリストの体として、共有された御霊経験と、その時々、あるいは常日頃の礼拝の言葉や行為における御霊の様々な現われとを通して、形づくられていく教会のビジョンである。その教会の権威は特に使徒とカリスマにあり、両者は福音伝統、愛、教会のよきわざの基準ですべての者によって評価される。(省略)

第三は、パウロ後の状況に対する牧会書簡の応答がある。そこには、ルカの活力やパウロのビジョンのための余地はほとんどない。(省略)すべてはケリュグマ的伝統の保存に従属させられているように見え、既に御霊が捕えられ、公職と制度の内に伝統が拘束衣となる大きな危険性が存在している。

第四は、ヨハネである。牧会書簡やクレメントが既に来たるべき事柄の形を指示し始めている時代に書かれ、ヨハネ文書はおそらくこの傾向に対する反応として見るのが最もよいであろう。彼は故意に当時の増大する制度化と礼典主義に背を向け、御霊を伝統に従わせることなしに過去とのパウロ的つながりを維持し、終末論的緊張の緩和の問題を制度化よりも個人的礼拝によって解決しようとした。(省略)

私自身、最も魅力的なのはパウロの説明の活力と成熟であることを告白しなければならない。(この後のかなり長い部分、省略)

要するに、宗教経験は最初期のキリスト教共同体にとって基本的であり、共同体を産み出すものでもあるので、宗教経験は最初期のキリスト教神学にとって基本的であり、また神学を産み出すものともなった。常に新鮮な宗教経験がキリストの出来事への最初の証言とダイナミックに相互作用することが新約聖書神学の生きたマトリックスであった。後者がなければ信仰はあまりに簡単に熱狂主義になり、それ自体燃え尽きてしまうであろう。しかし、前者がなければ、すなわち、宗教経験における生きたリアリティとしての神なしには、信仰は命に至ることなく、神学は不毛で死んだままであろう。


最初の問いに対する著者の見解は、これらの文章を通して、その方向性についてはおぼろげながら予想することができそうです。ただ、最後に示された4つのモデルの内、パウロ、牧会書簡、ヨハネの三つのモデルにおいて、上記問いに対する直接的な答えがどのようなものになるのか、もう少し詳しく読まないと分からないようです。

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