第二十五回 救われるためには 使徒一六・二五‐三四
聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、復活の主の証人として立ち上がり、大胆な宣教活動が始まりました。その中で、最初はクリスチャンたちへの迫害者であった人物が主イエスを信じ、宣教の働きに加わります。彼は後にパウロと呼ばれ、特に異邦人への宣教に重荷を持ち、地中海世界一帯に福音を宣べ伝えました。今回は、彼の働きを通してピリピの町のひとりの牢獄看守が信仰に導かれた経緯を学びます。
一、不思議な囚人たち
真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒一六・二五)
ピリピの牢獄に連れて来られた二人連れは、不思議な囚人たちでした。彼らは見たところ、粗暴な振る舞いをせず、言動も落ち着いていましたから、犯罪者のように見えませんでした。
聞くところによると、彼らはイエス・キリストを伝える宣教者たちでした。彼らに「占いの霊につかれた若い女奴隷」が付きまとい(使徒一六・一六)、彼らの働きを妨げたため、彼らのうちの一人、パウロという人物が「イエス・キリストの名によって」霊を女から追い出したというのでした(使徒一六・一八)。彼女はそれでおとなしくなったのですが、占いの霊が出て行ったため、彼女は霊的な力を失い、以後、占いができなくなります。彼女の主人たちは、金儲けの手段が消えてしまったことを怒り、二人の宣教者たち、パウロとシラスを長官たちに訴えます。長官たちは二人をむちで打たせたのち、牢に入れ、看守に厳重な見張りを命じたというのが、事の次第でした。
そんな目に遭いながら、二人の囚人はなお不思議な落ち着きを見せていました。夜中になると、彼らは神に祈りをささげ、神を賛美する歌を歌い始めます。日頃は怒声やつぶやきしか聞こえない牢獄に、神への祈りと賛美の歌声が響いたことにより、ほかの囚人たちも思わずその声に聞き入っていました。
ところが、その時、大きな地震が起こります。牢獄の土台が揺れ動くような大きな地震でした。この揺れのため、牢獄の扉は全部開いてしまい、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。いつの間にか寝入っていた看守は、慌てます。見ると、牢の扉が開いてしまっていますから、囚人たちが逃げてしまったと判断しました。とっさに彼が考えたのは、見張りを命じられていた自分が責任を問われるだろうということでした。絶望に陥った彼は、剣を抜き、自殺しようとします。
ところが、夜の闇の中から、彼の行動をとどめる声が響きます。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」…パウロの声でした(使徒一六・二八)。
二、救われるためには
パウロの声に、看守は明かりを手にした上で、もう一度夜の暗がりの中、目を凝らします。すると、確かに囚人たちは牢の中に留まっており、逃げてしまったわけではなさそうです。状況の把握ができたとき、彼はもう一度パウロの言葉を思い返さずにはおれませんでした。もしパウロが黙っていたらどうだったでしょう。剣は自分を刺し貫き、その場で命果てたことでしょう。そうなれば、囚人たちに紛れてパウロたちはその場から立ち去ることもできたはずです。しかし、パウロは判断を誤って自殺しかける自分をそのままにはしておかず、大声で止めてくれました。看守にとって、パウロは命の恩人となりました。
この時、看守は牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏します。そして、二人を外に連れ出した上で、思わず彼らに問いかけます。
そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。(使徒一六・三〇)
救われなければならないと、彼はどうして思ったのでしょうか。救われるとはどういうことで、救われたらどうなると考えたのでしょうか。詳細は分かりませんが、パウロとシラスから多少なりとも聞いていたところがあったのかもしれません。人間が神に背き、罪を抱えていること、そのことが人間を神の祝福から遠ざけ、彼らにのろいと滅びをもたらすものとなっていることを、多少なりとも聞いていたかもしれません。いずれにしても、彼はこの時、自分が救われなければならないと感じました。そして、そのためにどうしたらよいか、パウロたちに尋ねたのでした。
三、主イエスを信じなさい
二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒一六・三一)
これがパウロたちの答えでした。「何をしなければなりませんか」という看守の問いは、自然なものでした。しかし、パウロが示したのはただ、主イエスを信じることでした。救われるために必要なすべてのことは主イエスが成し遂げてくださいました。このお方は、私たちの罪のために十字架に死に、三日目によみがえられました。そして、私たちを罪の赦しと聖霊による新しい生涯へと招いてくださいます。私たちがなすべきことは、自分の罪を率直に認め、このお方を主、救い主として信じ仰ぐことだけでした。
「あなたもあなたの家族も」と言ったのは、その場に彼の家族も居合わせていたのでしょう。パウロたちは彼ら全員にさらに詳しく「主のことば」、すなわち、主イエスについての教え、福音を語りました。看守は、二人を引き取り、打ち傷の手当てをしました。そして、彼とその家の者全員が、主イエスに対する信仰を言い表し、バプテスマを受けました。
それから看守は二人を自分たちの家に案内し、食事のもてなしをしました。「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」とあります(使徒一六・三四)。その食事会は、神を信じ、主イエスを信じたことによる喜びに満ち溢れていました。
私たちは、福音を思いがけない時に、思いがけない形で聞くかもしれません。しかし、どんな状況で語られたとしても、福音は私たちを主イエスに対する信仰へと招きます。私たちはこのお方への信頼を人生の土台に置いて生きるとき、神が備えられた救いを受け取ります。それは神を信じる喜びに満ちた生涯の始まりです。