長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「聖書が告げるよい知らせ」第25回 救われるためには

2022-07-21 19:28:26 | 聖書が告げるよい知らせ

第二十五回 救われるためには 使徒一六・二五‐三四

 

聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、復活の主の証人として立ち上がり、大胆な宣教活動が始まりました。その中で、最初はクリスチャンたちへの迫害者であった人物が主イエスを信じ、宣教の働きに加わります。彼は後にパウロと呼ばれ、特に異邦人への宣教に重荷を持ち、地中海世界一帯に福音を宣べ伝えました。今回は、彼の働きを通してピリピの町のひとりの牢獄看守が信仰に導かれた経緯を学びます。

 

一、不思議な囚人たち

 

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒一六・二五)

 

 ピリピの牢獄に連れて来られた二人連れは、不思議な囚人たちでした。彼らは見たところ、粗暴な振る舞いをせず、言動も落ち着いていましたから、犯罪者のように見えませんでした。

聞くところによると、彼らはイエス・キリストを伝える宣教者たちでした。彼らに「占いの霊につかれた若い女奴隷」が付きまとい(使徒一六・一六)、彼らの働きを妨げたため、彼らのうちの一人、パウロという人物が「イエス・キリストの名によって」霊を女から追い出したというのでした(使徒一六・一八)。彼女はそれでおとなしくなったのですが、占いの霊が出て行ったため、彼女は霊的な力を失い、以後、占いができなくなります。彼女の主人たちは、金儲けの手段が消えてしまったことを怒り、二人の宣教者たち、パウロとシラスを長官たちに訴えます。長官たちは二人をむちで打たせたのち、牢に入れ、看守に厳重な見張りを命じたというのが、事の次第でした。

そんな目に遭いながら、二人の囚人はなお不思議な落ち着きを見せていました。夜中になると、彼らは神に祈りをささげ、神を賛美する歌を歌い始めます。日頃は怒声やつぶやきしか聞こえない牢獄に、神への祈りと賛美の歌声が響いたことにより、ほかの囚人たちも思わずその声に聞き入っていました。

ところが、その時、大きな地震が起こります。牢獄の土台が揺れ動くような大きな地震でした。この揺れのため、牢獄の扉は全部開いてしまい、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。いつの間にか寝入っていた看守は、慌てます。見ると、牢の扉が開いてしまっていますから、囚人たちが逃げてしまったと判断しました。とっさに彼が考えたのは、見張りを命じられていた自分が責任を問われるだろうということでした。絶望に陥った彼は、剣を抜き、自殺しようとします。

ところが、夜の闇の中から、彼の行動をとどめる声が響きます。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」…パウロの声でした(使徒一六・二八)。

 

二、救われるためには

 

 パウロの声に、看守は明かりを手にした上で、もう一度夜の暗がりの中、目を凝らします。すると、確かに囚人たちは牢の中に留まっており、逃げてしまったわけではなさそうです。状況の把握ができたとき、彼はもう一度パウロの言葉を思い返さずにはおれませんでした。もしパウロが黙っていたらどうだったでしょう。剣は自分を刺し貫き、その場で命果てたことでしょう。そうなれば、囚人たちに紛れてパウロたちはその場から立ち去ることもできたはずです。しかし、パウロは判断を誤って自殺しかける自分をそのままにはしておかず、大声で止めてくれました。看守にとって、パウロは命の恩人となりました。

 この時、看守は牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏します。そして、二人を外に連れ出した上で、思わず彼らに問いかけます。

 

そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。(使徒一六・三〇)

 

 救われなければならないと、彼はどうして思ったのでしょうか。救われるとはどういうことで、救われたらどうなると考えたのでしょうか。詳細は分かりませんが、パウロとシラスから多少なりとも聞いていたところがあったのかもしれません。人間が神に背き、罪を抱えていること、そのことが人間を神の祝福から遠ざけ、彼らにのろいと滅びをもたらすものとなっていることを、多少なりとも聞いていたかもしれません。いずれにしても、彼はこの時、自分が救われなければならないと感じました。そして、そのためにどうしたらよいか、パウロたちに尋ねたのでした。

 

三、主イエスを信じなさい

 

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒一六・三一)

 

 これがパウロたちの答えでした。「何をしなければなりませんか」という看守の問いは、自然なものでした。しかし、パウロが示したのはただ、主イエスを信じることでした。救われるために必要なすべてのことは主イエスが成し遂げてくださいました。このお方は、私たちの罪のために十字架に死に、三日目によみがえられました。そして、私たちを罪の赦しと聖霊による新しい生涯へと招いてくださいます。私たちがなすべきことは、自分の罪を率直に認め、このお方を主、救い主として信じ仰ぐことだけでした。

 「あなたもあなたの家族も」と言ったのは、その場に彼の家族も居合わせていたのでしょう。パウロたちは彼ら全員にさらに詳しく「主のことば」、すなわち、主イエスについての教え、福音を語りました。看守は、二人を引き取り、打ち傷の手当てをしました。そして、彼とその家の者全員が、主イエスに対する信仰を言い表し、バプテスマを受けました。

 それから看守は二人を自分たちの家に案内し、食事のもてなしをしました。「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」とあります(使徒一六・三四)。その食事会は、神を信じ、主イエスを信じたことによる喜びに満ち溢れていました。

 私たちは、福音を思いがけない時に、思いがけない形で聞くかもしれません。しかし、どんな状況で語られたとしても、福音は私たちを主イエスに対する信仰へと招きます。私たちはこのお方への信頼を人生の土台に置いて生きるとき、神が備えられた救いを受け取ります。それは神を信じる喜びに満ちた生涯の始まりです。

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「聖書が告げるよい知らせ」第24回 聖霊が注がれた日

2022-07-14 19:22:11 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十四回 聖霊が注がれた日

使徒二・一‐六、一四‐一八、三二‐三九

 

イエス様はよみがえって後、四十日にわたって弟子たちに姿を現されましたが、その後天に挙げられました。しかし、その際、一つの命令と約束を残されました。それは、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」というものでした(使徒一・四、五)。

ご命令に従い、弟子たちは祈り続けました。ちょうどユダヤ人の祭り、五旬節(ペンテコステ)の日に、次のようなことが起こりました。

 

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒二・一‐四)

 

 物音を聞きつけた人々が集まってきました。ユダヤ人の祭りに参加するため、色々な国々に住む離散したユダヤ人たちも集まってきましたが、彼らは生まれ故郷の言葉で弟子たちが神のみわざについて語っているのを聞いて驚きます。中には、「酒に酔っているのだ」とあざ笑う者もいました。

その時、使徒ペテロが立ち上がり、人々に語り出します。彼の言葉を通して、私たちはこの日の出来事の意味をよく理解することができます。

 

一、約束の成就

 

 「酒に酔っている」という声に対して、「今は朝の九時ですから、(略)酔っているのではありません」と答えた後、ペテロは次のように言いました。

 

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。(略)』(使徒二・一六‐一八)

 

 ヨエルは、神に背いた民に対して、いなごの襲来という形で神の裁きがもたらされたことを告げた預言者です。そうしながら、ヨエルは人々に神への悔い改めを迫ると共に、回復の時が備えられることも預言しています。そのような中で語られたのが、すべての者に神の霊が注がれる時が来るという預言でした(ヨエル二・二八‐三二)。限られた預言者たちだけに聖霊が注がれていた時代は過ぎ去り、すべての神の民が聖霊により神を証しする者となるというのでした。

 ヨエルに限らず、イスラエルの預言者たちは皆、民の罪が神の祝福を失わせていることを指摘します。同時に、回復の道が備えられていると告げます。そのカギとなるのがメシアの到来であり、神の霊の注ぎでした(イザヤ三二・一五、エゼキエル三六・二五‐二七)。神の霊の注ぎこそは、神の祝福回復の中心的な出来事であり、神の民としてふさわしい歩みをもたらすものでした。

 ペテロは、預言者たちを通して示されてきた神の約束が、五旬節のこの日、成就したのだと語りました。

 

二、天に挙げられたキリストが聖霊を注いだ

 

 それからペテロは、イエス様について語り始めます。神から遣わされたお方として数々の奇跡をなさったこと。しかし人々はこのお方を十字架につけて殺したこと。ところが、神はこのお方を死からよみがえらせたこと。自分たちはその証人であること。そして、ペテロはこのように続けます。

 

ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。(使徒二・三三)

 

 今、人々は弟子たちが聖霊に満たされ、色々の国の言葉で神様を証ししているのを見聞きしています。理解しがたいようなこの出来事こそ、イエス様が死からよみがえり、天にいます神の右に上げられ、父なる神様から約束の聖霊を受けて、それを弟子たちに注がれたことの結果だと言いました。自分たちが見聞きしていることを考えると、人々はペテロの言葉を否定することができませんでした。

 ペテロは続いて語りました。

 

ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒二・三六)

 

 ペテロの言葉は明確であり、人々の心に突き刺さりました。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った」と言います(使徒二・三七)。自分たちがとんでもない間違いを犯していたと気づかされた瞬間でした。

 

三、遠くの者一同にも与えられている約束

 

 「どうしたらよいでしょうか」との人々の問いに、ペテロはこう答えました。

 

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒二・三八)

 

 過ちを悟った彼らがその時なすべきことは、悔い改めること、そのしるしとしてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けることでした。その結果与えられる恵みは、「罪の赦し」、そして「賜物として聖霊」を受けることでした。これは神の大いなる約束が確かに成就したことを告げる、よい知らせでした。

 ペテロは最後に、次のように付け加えました。

 

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(使徒二・三九)

 

 その時、その場にいた人々だけではありません。その子孫にも、さらには、「遠くにいるすべての人々」にも与えられている約束だと言いました。すなわち、この約束は時代や民族、国籍を越え、すべての者に与えられているのだと。

 このよい知らせは、私たちにも向けられています。どんなに神様に背を向け、間違った歩みをしてきたとしても「罪の赦し」は備えられています。どんなに神の祝福から遠く歩んできたとしても、「賜物としての聖霊」を受けることができます。

経験や現象は様々です。この日の弟子たちと全く同じ経験をする人はむしろ少ないでしょう。しかし、形は違っても同じ聖霊を注いで頂いて、内側を新しく造り変えて頂くことができます。悔い改め、イエス様を主、キリストとして信じましょう。

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ソプラノコンサート

2022-07-10 13:49:47 | 教会便り

昨日、7月9日(土)、献堂17周年記念集会としてソプラノコンサートを開催。

例年この時期献堂記念集会を開催してきましたが、コロナ感染拡大により

二年は中止になっていましたので、3年ぶりの開催となりました。

今回は、小早川由起子さん(独唱と証し)と藤田まどかさん(伴奏)をお迎えしました。

お二人は姉妹でもあり、私が神学生時代、奉仕教会であった枚方希望教会のメンバーであられた方々。

(小早川さんは現在宇治福音自由教会メンバー。)

会堂には87名の方々が集ってくださり、

同時に実施されたライブ配信は約40名の方々が視聴くださいました。

小早川さんは若い頃から声楽の研鑽を積んでこられましたが、

肝臓の難病を患い、二度の生体肝移植を受けられた方。

ご経験を通しての証しと、澄んだ歌声による演奏が一つとなって、

集われた方々に神様の豊かな恵みを伝えてくださいました。

ライブ配信は、諸機材購入しての初めての配信。

リハーサルなど重ねて準備にあたりましたが、

いくつか今後の課題も残りました。

(本プログラム:涙する方々もあったようです。)

https://www.youtube.com/watch?v=hwnSx2uqfHA

(アンコール:思わず場が和みました。)

https://www.youtube.com/watch?v=uGWi07jDTVw

顔認識用の四角囲み、どうしたら消えるのか、

これから調べたいと思います。

集われた皆さんに、続いての神様の恵み、導きをお祈りします。

 

 

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「聖書が告げるよい知らせ」第23回 復活の一週間後

2022-07-07 19:26:50 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十三回 復活の一週間後

ヨハネ二〇・二四‐二九

 

 ヨハネの福音書には、イエス様はよみがえられたその日、弟子たちの間にも姿を現されたことが記されています(ヨハネ二〇・一九)。しかし、トマスという弟子だけはその場に居合わせませんでした。彼が復活の主イエス様に対する信仰に導かれるためには、なお一週間を必要としました。

 

一、疑うトマス

 

弟子たちに復活の主イエスが現れなさった日、トマスが帰ってくると、他の弟子たちは、興奮した面持ちで口々に復活の主の出現について語りました。しかし、トマスの反応は否定的でした。

 

そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。(ヨハネ二〇・二五)

 

 「見なければ信じない」、「触ってみなければ信じない」というトマスは、現代の実証主義者の態度に似ています。「疑い深い弟子」として見られやすいトマスですが、一面では、まじめな真理の探究者という見方をすることもできます。周囲の声に惑わされず、真理であるのか、そうでないのか、見極めようとする態度が彼の中には見られます。

 「失意のあまり、幻でも見たのではないか」、「自分をからかう作り話ではないか」、いろいろ考えたかもしれません。主イエスが本当に復活したのか、あるいはそうでないのか、これは決して小さなことではありません。人の言葉だけで容易に動かされまいとする姿勢は、大切なものでもありました。

 

二、一週間後の顕現

 

 そのようなトマスの態度に対して、主イエスもまた、憐れみ深く、また忍耐深く、トマスを導かれました。一週間後のこと、弟子たちが同じように家の中に集っていました。今度はトマスも一緒でした。そして、その場にもう一度復活の主が現れなさいました。前回同様の状況下、主が再度現れたご目的は何だったでしょうか。それはまさに、前回いなかったトマスのためだったと言うことができます。実際、その後主は、トマス一人に対して語りかけられます。

 

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ二〇・二七)

 

 「この目で見なければ」、「この指を手の釘あとにさし入れてみなければ」と言っていたトマスに、「さあ、そうしてみなさい」と語られました。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と招かれました。

 

 ああ主の瞳 眼差しよ

 疑い惑う トマスにも

 御傷示して 「信ぜよ」と

 宣(の)らすは誰ぞ 主ならずや

 (日本福音連盟新聖歌編集委員会編集『新聖歌』教文館発行、二二一番三節)

 

三、見ないで信じる幸い

 

 主イエスのお言葉に対して、おそらくトマスは、実際に自分の指を主の手の釘あとにさし入れはしなかったことでしょう。自分の目で見ましたので、十分だと考えたことでしょう。見たところ、イエス様の御手には、確かに十字架に釘づけられた跡がありました。彼は主イエスに答えました。

 

「私の主、私の神よ。」(ヨハネ二〇・二八)

 

 死人の中からよみがえられたイエスこそは、神様が送ってくださった神の御子であり、主であると、トマスは知りました。彼の内側に信仰が起こってきました。その信仰が、「私の主、私の神よ」との言葉に凝縮されました。

 これに対して、主イエスは更に語りかけられました。

 

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ二〇・二九)

 

 トマスは見て信じました。主は彼の信仰を受け入れられましたが、同時に、「見ないで信じる幸い」に彼を招かれました。なぜなら、信仰とは本来、見えないものを見ていく働きだからです。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル一一・一)。

 やがて主は天に帰っていかれ、肉眼では見ることができなくなりました。しかし、その後もトマスは、他の弟子たちと共に主イエスを心に信じ、主の弟子として生き続けました。いろいろな困難や迫害もあったでしょう。しかし、彼は、復活の主、生きておられるお方を信じ仰ぎつつ生涯を全うしました。彼はその後、インドで宣教活動をし、その生涯の終りは殉教であったと言い伝えられています。

 イエス様の弟子たちは、復活の主にお会いし、主のご復活を信じました。いわば見て信じた人々です。私たちは、復活の主にお会いした弟子たちをうらやましく思うかもしれません。しかし、主は「見ないで信じる人たちは幸い」と言われます。私たちの信仰を励ますために、いろいろな出来事や様々な出会いを通してご自身を示し、招いてくださいます。しかし、最終的に主は私たちを見ないで信じる幸いへと招かれます。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」」、「見ないで信じる人たちは幸いです」…イエス・キリストの招きにお応えしましょう。

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