「聖書が告げるよい知らせ」
第十九回 ゲツセマネの祈り
マタイ二六・三六‐五六
十字架前夜、イエス・キリストは、弟子たちといわゆる「最後の晩餐」と呼ばれる食事会をなさいました。それは、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りの最中の出来事であり、過ぎ越しの食事として行われました(マタイ二六・一七)。この食事の中でイエス様は、翌日の十字架の死が人々の罪の赦しのために起こることであり、それによって神様が新しい契約を結ぼうとしておられるということをお示しになりました(マタイ二六・二八、ルカ二二・二〇)。さらに、弟子たちがご自分を見捨てて逃げ去ることをも予告されますが、弟子たちはそれを真に受けることができませんでした(マタイ二六・三一‐三五)。
この食事会の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲツセマネと呼ばれる園にでかけられます。イエス様はそこで十字架に向かうまでの最後の祈りをささげられます。この祈りにおいて、十字架の死がどのようなものであるか、イエス様がどのような思いで十字架に向かわれたのかを伺い知ることができます。
一、苦い杯
イエス様がゲツセマネに向かわれたときは、弟子たちと一緒でした。しかし、園の入り口で「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい。」と言われ、弟子たちをその場所に残されました。ペテロとゼベダイの子二人だけは一緒に連れていかれましたが、そこでイエス様は「悲しみもだえ始められ」(ルカ二六・三八)、次のように言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」(マタイ二六・三八)
イエス様にとって、十字架の死が待ち受けていることは先刻ご承知だったはずです。しかし、そこには私たちには測り知ることのできない何かがあったように思われます。イエス様のもとに襲ってくる悲しみは、イエス様をもだえ苦しませるものであり、「悲しみのあまり死ぬほど」と言われるものでした。
三人の弟子たちをそこに残し、イエス様はさらにそこから少し進んで行かれ、ひれ伏して祈られました。
わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ二六・三九)
「この杯」とは、十字架での苦しみと死を指していると思われます。弟子たちにも、ご自分がこの杯を飲むことになることは予告済でした。イエス様の歩みは常にこの杯に向かって進められてきたはずです。しかし、ここに至って「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とはどういうことなのでしょうか。このようなイエス様の祈りを理解するために、ここには私たちの測りがたい何かがあると考えなければなりません。
まず、「杯」という言葉は、旧約聖書で神の憤りによる審判をさす表現として用いられてきたことを思い出しましょう(イザヤ五一・一七、二二、エレミヤ二五・一五、一七)。本来、この杯は罪を犯した者たちが飲むべきものです。しかし、十字架はその杯を代わって飲み干そうとするものです。
世界中の人々の罪に対する神の憤り、裁きというものがどれほど恐ろしいものか、私たちには測り知ることができません。しかし、イエス様にはその恐ろしさが分かっておられたでしょう。その暗黒の深さ、苦悩の激しさを、私たちは想像することもできません。しかし、イエス様はそれを知り得るお方でした。ですから、「できることなら」と率直に祈られました。それは御子イエス様でさえも、悲しみもだえるほどの苦い杯でした。
二、しかし、あなたが望まれるままに
「できることなら」と、率直な思いを父なる神様に告げられたイエス様ですが、続いてこう祈られました。
しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ二六・三九)
待ち受ける杯の苦さ、恐ろしさを思えば、「わたしから過ぎ去らせてください」とは率直な願いでした。しかし、ご自分の思い、願いよりも、父なる神様の思い、願いが優先されるようにと祈られました。
この祈りは、一度ならず、二度、三度と重ねられました。「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られました(マタイ二六・四二、四四)。
このようなイエス様の祈りの間、弟子たちはどうだったでしょうか。イエス様が弟子たちのところに戻って来ると、彼らは眠っていました。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましてはいられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」(マタイ二六・四〇、四一)このことは、二度目、三度目の祈りにおいても同様でした。「まぶたが重くなっていたのである」とありますが(マタイ二六・四三)、おそらくは霊的な世界において激しい戦いがあって、目を覚まして祈っていることが困難だったのでしょう。イエス様は、見えない世界での激しい戦いの中で、お一人で祈り続けられました。そして、「みこころがなりますように」という祈りで、その戦いに決着を付けられました。この祈りの結果として、イエス様は十字架に向かって最終的に歩み出されます。
三、さあ、行こう
三度目の祈りの後、弟子たちのところに来て、イエス様は彼らに告げられました。
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」(マタイ二六・四五、四六)
祈りの中で最終的な決着は付いていました。「人の子は罪人たちの手に渡されます。」とは、単なる予告以上に、その事態を引き受けるという主イエス様の決意表明でもありました。「立ちなさい。さあ、行こう」とは、自らその事態に向かって進み行こうとされる姿勢を示したお言葉でした。
「わたしを裏切る者が近くに来ています」とは、弟子の中で師を裏切ったユダが近づいてくることを指しています。ユダは、イエス様をとらえようとする人々の先頭に立ち、イエス様に口づけをすることによって、それがイエス様であることを人々に示す手はずになっていました。
ユダの口づけ後は、あっという間の出来事でした。人々はイエス様に手をかけ、捕えます。それを防ごうと剣を抜いて切りかかった者もいましたが、イエス様はお止めになり、言われます。「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するでしょうか。」(マタイ二六・五四)この道を進まない選択肢もありました。しかし、イエス様の中ではこの道を進むことで決着済みであり、そうしてこそ聖書の言葉が成就するのだと言われました。
これらの言葉を聞いて、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ去ります。イエス様は最終的にはおひとりでこの道を進むほかありませんでした。