長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

19章 その5

2015-08-06 20:58:01 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

前回、課題として残したのは、信仰と聖霊の賜物との乖離の可能性の問題で、この点についてのパウロとルカの強調点、主張点の違い(と思われるもの)の問題でした。パウロがその手紙の中で聖霊を受けることと信仰による回心を固く結びついて離れないものであることができた一方で、ルカが使徒行伝において信仰と聖霊を受けることとの乖離の可能性を示唆することができたということは、どのようにして可能だったのかという問いは、相当の難問です。この課題は、本書の検討を進める間、私の中では解決の道が見えてはいませんでした。しかし、ここに至って、一つの可能性に思い至りました。これを最後にご紹介したいと思います。

一方のパウロは、読者(クリスチャン)たちに対して、聖霊を受けていることを前提としていました。時にはその点に例外がないことさえ明確に主張しました(ローマ8:9、第一コリント12:13)。他方、ルカは、信仰と聖霊を受けることとの乖離が可能であることを示唆しているように思われます。これは、一見矛盾に見えるわけですが、なぜ矛盾であると考えられるかを考えてみますと、信仰をある時点で瞬時的に始まるもののように考えているからではないでしょうか。一方ではダンが主張する通り、「聖霊を受けること」を明確な経験と考えるとします。他方、信仰をある時点において瞬時に始まるものと考えるとします。そうすると、両者が一致するのか乖離するのかは二者択一の問題となります。ところが、「聖霊を受けること」を明確な経験と考える一方、信仰を段階性、成長性を持つものと考えると、必ずしも二者択一の問題ではなくなります。

たとえば、ある時点から、主イエス様に対する信仰の種のようなものが芽生えます。しかし、最初はまだその内容においても強さにおいても、ぼんやりとしており、また、強まったり弱まったりしています。しかし、様々な経緯の中で次第に信仰の形が明確となり、安定に向かいます。そのような経緯の中で、ある時点で、「聖霊を受ける」ということが起こるとしたらどうでしょう。そして、「聖霊を受ける」ということは、個人の信仰に対して、神様からの応答であり、聖書において「救いが与えられた」と言い得るのはこの時点であると考えるたらどうでしょうか。このような理解で考えると、信仰の芽生えは「聖霊を受けた」時点よりはかなり早いのですが、救いを受けたすべてのクリスチャンは、聖霊を受けているということになります。

このような理解について子細に検討する余裕は現在ありません。ですから、このところではその可能性を指摘するにとどまる他ありません。しかし、かなり重要な可能性ではありますので、現段階でいくつかの観点からおおまかな検討は加えておきたいと思います。

第一に、ダンの理解との比較です。

このような理解は、聖霊の賜物を明確な経験として位置付ける点、さらには、回心―入信式のクライマックスに聖霊の賜物を置き、本来すべてのクリスチャンは聖霊を受けているものと考える点で、ダンの見解に一致しています。ただ、信仰についての理解が多少異なっています。

信仰を段階性・成長性を持つものととらえる発想は、ダンの理解の中にも全くないわけではないと思います。聖霊の賜物を回心―入信式の出来事全体のクライマックスに置くということは、それ以前の信仰にある程度の段階性、成長性を考えているとも言えるでしょう。しかし、同時に、ダンの中には、信仰が救いに至るに十分なものとなったら即聖霊の賜物を受けるという理解も強く主張するため、信仰の段階性・成長性の理解はあまり明確にはなっていません。その結果、「サマリヤの謎」を扱う際、ダンは、ペテロとヨハネが遣わされるまでのサマリヤ人たちの信仰が十全なものではなかったと強く主張します。しかし、この問題への検討の際、指摘したように、彼らの福音理解や信仰の内容は妥当なものであったと考える方が自然です。そうであっても、なお聖霊を受けるに至らないということがあるのだということになります。

ここで、「彼らの福音理解や信仰の内容が妥当であった」=「彼らはクリスチャンであった」と考えると、パウロの手紙の主張との矛盾を避けることができません。しかし、福音理解や信仰の内容が妥当であっても、聖霊を受けないでいるということがありえるのであり、その後、聖霊の賜物を受けた時点でクリスチャンと呼ばれたのだとしたらどうでしょう。使徒行伝から自然に得られる結論(信仰と聖霊を受けることとの乖離の可能性)と、パウロの手紙から明確に得られる結論(すべてのクリスチャンは聖霊を受けたものである)の矛盾が解消されることにならないでしょうか。

第二に、信仰についてのこのような理解を支持すると思われる聖書記述についてです。

たとえば、ヨハネは、「信じる」「弟子」という表現を繰り返し用いる中で、その内容には救いに至る信仰には至らない信仰、結果的には主イエスから離れることになる弟子たちの存在を指摘しているように思われます(2:23-25、6:66)。これは、救いに至る信仰に至らない信仰も、ある面からは「信仰」と呼ばれうることを示しています。しかも、そのような場合の「信じる」あるいは「弟子」という表現は、それ以外の場合の「信じる」あるいは「弟子」という表現と、表面上の差は見られません。これは、救いに至る信仰にも段階性、成長性があるという理解と適合しているように思われます。

第三に、このような理解がもたらすと思われる神学的課題についてです。

「福音理解や信仰の内容が妥当であっても、聖霊を受けないでいるということがありえるのであり、その後、聖霊の賜物を受けた時点で、クリスチャンと呼ばれる」ということは、救済論において根本的な課題がもたらされることになりそうです。一般に、「福音理解や信仰の内容が妥当」でありさえすれば、即救われるのであり、同時にクリスチャンと呼ばれるのだと考えられているからです。

この点については、今後慎重な吟味を加えていく必要を覚えます。ここでは、この課題に対する可能な回答として考えられるもののアウトラインを示してみるくらいのことしかできません。
(1)新約聖書が書かれた当時、福音理解や信仰の内容が妥当であれば、一般的にはほぼ同時的に聖霊の賜物を受けていたと考えられる。この点は、使徒行伝によっても支持される。サマリヤ人の例や、エペソの弟子たちの例は、信仰を表明し、更には内容妥当な信仰を持ちながら、聖霊を受けていないということは、例外的なことであり、直ちに是正されなければならない状況であると理解されたことを示している。新約聖書の各書が書かれた背景として、このような状況を前提に考える必要がある。
(2)使徒2:38には、悔い改め(=信仰)、水のバプテスマ、聖霊の賜物の三要素が示されている。使徒2:38において自然に想定される順序は、悔い改め、水のバプテスマ、聖霊の賜物というものである。使徒行伝の諸事例の検討から分かるように、水のバプテスマと聖霊の賜物との順序は、逆になることもあるが、基本的にはこの順序が想定されていたと考えられる。この場合、水のバプテスマの前に少なくともある程度の悔い改めと信仰の表明が前提とされているはずである。ダンが主張するように、水のバプテスマにおいて信仰の表明がより明確になり、十全となると理解し、そのように十全とされた信仰の表明としての水のバプテスマに対して、神からの応答として聖霊の賜物が与えられるとすれば、聖霊の賜物がくだるまでに、ある程度の悔い改めと信仰の表明がなされることが想定されていると言える。ここで、水のバプテスマ以後、聖霊の賜物が与えられるまでに時間的乖離がありえるとすれば、聖霊の賜物を受けるまでに内容的に妥当な信仰がある程度の期間維持されているケースを想定することができる。
(3)このような理解は、ダンが回心―入信式を一連の出来事の総体として見た見方を更に拡大したものと言える。そこでは、聖霊の賜物をクライマックスとしつつ、そこに至るまでの信仰は、内容的に妥当でありつつ、ある程度の時間的継続を持つものとしてとらえられる。このような信仰が、水のバプテスマを経て(あるいは、時には水のバプテスマを経ずにも)、聖霊の賜物において回心―入信式のクライマックスを迎える。
(4)このような理解において、神学的に可能な一つの整理の仕方として、水のバプテスマを入信者の信仰に対する教会の受諾表明ととらえ、聖霊の賜物(=聖霊のバプテスマ)を入信者の信仰に対する神の受諾表明ととらえることもできるかもしれない。
(5)あるいはまた、信仰が内容的に妥当なものであったとしても、最終的に回心―入信式のクライマックスとしての聖霊の賜物を受けてはじめて、「救いに至る信仰」となると整理することも可能である。
(6)(4)と(5)は、神学的整理として微妙に異なっているのか、実際的には一致するものとして両立可能なのかは、より子細な検討が必要である。
(7)このような理解は、プロテスタント教理史において独自のものであるのか、あるいはむしろ伝統的なものに近いのであるか、今後の検討を必要とするもう一つの課題である。
(8)内容的に妥当な信仰が一定期間、聖霊の賜物を受けずにいることが可能であり、しかも(パウロ等によれば)聖霊の賜物を受けるまでは「救われた」とか、「クリスチャン」とは呼ばれ得ないのだとすれば、内容的に妥当な信仰を持ちつつ、いまだ救われていない、あるいはクリスチャンと呼ばれ得ない人々が存在する可能性があるということを意味する。これは、救済論的に大きな課題をもたらすと考えられる。(9)但し、新約聖書自体にそのような人々の存在について触れていないことについては、いくつかのことを指摘することができる。
a.(1)で見たように、内容妥当な信仰を持ちながら聖霊を受けていないということは、例外的なことであったと考えられ、あまり問題にならなかったのかもしれない。
b.パウロや他の使徒による手紙は読者がクリスチャンであることを前提としているので、そのような人々について触れる機会がなかったのかもしれない。使徒行伝は、福音宣教の進展の中で人々が救いを受ける過程を描いているため、例外的ではあってもそのような人々のケースに触れているとも考えられる。
c.内容妥当な信仰を持ちつつ、水のバプテスマを受けない人は当然存在しえるが、新約聖書ではそのような人々についても触れられていない。

第四に、このような理解がもたらす牧会的課題についてです。

もしこのような理解が聖書自体からは支持可能なものだとしても、なお牧会的な課題をもたらす可能性があります。上に見たように、内容妥当な信仰を持ち、それを水のバプテスマによって十全な形で表明してもなお、聖霊を受けないでいる場合、彼らは救われたと言われず、クリスチャンと呼ばれ得ないのだとしたら、これは大きな牧会上の問題をもたらすことになるのではないでしょうか。しかし、一見深刻に思われるこの課題についても、適切な対応がどのようなものであるのか、聖書自体から一定の方向性を考えることができるように思われます。すなわち、そのような課題こそは、使徒行伝が記録した二つのケースを検討することによって適切な対応を考えることができるからです。サマリヤ人たちの例にしても、エペソの弟子たちの例にしても言えるのは、そういった状況に直面したとき、使徒たちは慌てず、驚かず、しかし、そのままに放置するのでもなかったということです。主イエスを信じる者が当然聖霊を受けることを明確にしつつ、必要な説明を加え、人々が聖霊を受けるよう導きました。

第五に、このような理解が多くの課題を持つ一方で、いくつかの強みも持っていることも指摘しておきたいと思います。

(1)聖書各書の強調点や主張点をそれ自体として受け止めた上で総合的に考えるという神学的方向性を持っている。
(2)結果として、「聖霊を受けること」が持つ役割の多様性と豊かさを総合的に受け止める。
(3)「聖霊を受ける」ということの回心との深い結びつきを踏まえつつ、明確な経験としての側面を踏まえつつ、なおかつ、妥当な信仰を持ちつつなお明確な聖霊経験を持たない者の存在を聖書の証言から理解する方向性を提示している。
(4)「聖霊を受けること」を回心と切り離せないものと考える教派・クリスチャンと、第二の転機として考える教派・クリスチャンとの間の調停を図る可能性を持つ。

なお、最初にも書きましたように、このような理解は、本書の検討の最後に至ってはじめて思い至ったものです。私自身の中でも、今後吟味検討していく必要を感じています。各方面からのご検討、ご意見を頂けましたら幸いです。

このシリーズを始めたときには、これほど長いものになるとは予想しませんでした。ダンの見解をどれほど正確に把握できたかも分かりませんが、私なりに取り組めたと思います。終盤の頃と比べてみると、初期の頃は紹介部分と検討部分が混在していたり、水のバプテスマについてのダンの見解を捉え損なっていたり、色々不備もあります。更には、最後に至って、上記のような新しい理解の可能性に思い至ることになるとは想像もしていませんでした。新たに全体を一貫した観点から整理し直して、首尾一貫した内容にする機会があればとも思いますが、当面、またの機会に譲る他ありません。とりあえず最後まで一通り終えたということで、これで一応の結びとしたいと思います。お読みいただいた皆様(そのような方がおられるかどうか、分かりませんが)、長らくのお付き合いを頂き、ありがとうございました。

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