長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

第10章 パウロ、イエス、そしてキリスト教の起源

2016-11-22 19:39:09 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第10章 パウロ、イエス、そしてキリスト教の起源


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


パウロは、「キリスト教の創始者」であろうか。言いかえれば、彼はナザレのイエスの信仰と召しを、イエス自身が知らなかったようなシステムと運動に変革することにより、我々が今知るようなキリスト教を造り出したのであろうか。

最近出た本でこの点を公衆の面前に押し出したものがある。私はそれをこの結論の章における主要な対話の相手としたい。小説家、伝記作家のA.N.ウィルソンは、最近「Paul:The Mind of the Apostles(パウロ:使徒の心)」という題の本を出した。ウィルソンは、明らかにパウロに魅せられているが、その書いたものは「不可解」と主張する。

パウロにとって「キリスト」は歴史的イエスとほとんど、あるいは全く関係がないと彼は示唆する。パウロにとって、キリストはエルサレムのクリスチャンたちが覚えていた人ではなく、むしろ信者たちの心の中の神的愛の実在であった。彼は、そうでなければ時間の束縛を受けた地域的、政治的メッセージのままであったろうものをどこでもいつでも人々に応じられる心の宗教に変革した(とウィルソンは言う。)

それでは、パウロはどこからこの新しい宗教を得たのか。彼はサウロがタルソの異教宗教の中で育ち、特にミトラ神の儀式や神的ヘラクレスの礼拝を知っていたと考える。それから彼はエルサレムに行き、祭司長の雇用に入り、神殿の僕として動いた。その立場で彼はイエス自身を見聞きし、十字架について知り、恐らくは目撃した。彼はイエスを捕縛することを助けさえしたかもしれない。彼はローマの協力者であった。

パウロは自分が手伝ったことを振り返り、パウロの心と想像力は、異教礼拝から取られたカテゴリーに捉えられた。ミトラ神の帰依者は、犠牲の牛の血を浴び、「血が犠牲から流れると、彼らがそれから力を受ける」のを彼は見た。こうして続く数年の間に、「十字架はパウロの異常なまでの宗教的注意の焦点となった」。

彼はイエスを神話化した。

ウィルソンによれば、パウロが説教者、また宣教者になった途端、彼の視界はこの神話的構成概念と、それを他の人々に知らせる差し迫った必要によって支配された。


1.その肖像画の問題点

パウロについてのウィルソンの描写は極度に色彩豊かで興味をそそるものである。しかし、パウロについてのウィルソンの肖像画は深刻な問いを必要とする決定的ポイントがいくつかある。

○サウロの背景

まず、タルソのサウロがローマの協力者であったということは歴史的に問題外である。

○ユダヤ教とヘレニズム

ウィルソンの再構成全体のもとでは、古い宗教史学派の最も深刻な弱さが見出される。彼は、ユダヤ教が地域的で、ほとんど部族宗教であるのに対して、ヘレニズムの様々な形態は普遍的なシステム、あるいは哲学であると仮定する。

○十字架と復活

イエスの重要性についてのパウロの概念の源泉について、これらの奇妙で不可能な推測は、イエスの死と復活についての実際の意味をウィルソンが理解しなかったことによって生れた真空状態を満たすために現われたものである。3章で見たように、それは、終末論的成就の出来事である。

○イエスと神

もちろん、このことはキリスト論に我々を導く。イエスについてのパウロの描写の中心には、4章で見たように、唯一神論の中にイエスを置くことによる唯一神論の再定義がある。ウィルソンは、ユダヤ教唯一真論から一種の異教主義へのステップとして、イエスと神を横に並べようとする。

○歪んだイメージ

歴史的にウィルソンはパウロの背景、回心、宗教思想の発展について、それ自体説得力のない仮説を提供している。神学的に、彼はパウロの死思想について、その主要点を見逃したような再構成を提供する。釈義的に、彼はいくつかの手紙について興味深い熟考を提供するが、真のテストケース、すなわち、ローマ人への手紙に来ると、ウィルスンはその神秘性を貫き始めない。適用については、どうだろうか。ウィルソンは、神の愛の調べを聞き取っている。一連の誤解の内にあるとは言え、真理のいくつかの要素を認めている。


2.イエスからパウロへ―そして将来

パウロ、イエスとキリスト教の起源との間の関係がどんなものかは、もちろん、パウロをどう考えるかだけでなく、イエスをどう考えるかにかかっている。このトピックについては、他のところで長く書いてきた。(最近では、"Jesus and the Victory of God"(イエスと神の勝利)において。)その光の中では、議論をどこから始めるか、明らかである。

もしわれわれがイエスとパウロを一世紀ユダヤ教の世界の中に置くなら、宗教や倫理の無時間的システムはもちろん、人がどのように救われるかについての無時間的なメッセージを、両者とも語らなかったはずだという事実に直面しなければならない。二人とも自分たちが、イスラエルの神によって設けられた、神の長い御目的の成就のドラマの役者であることを信じていた。

従って、イエスの鍵概念(たとえば、悔い改めと来るべき国)とパウロの鍵概念(たとえば、信仰による義認)を挙げ、それらを対置するやり方はうまくいかない。

イエスはイスラエルに対して、待ち望んでいた御国が来たことを告げた。しかし、その御国は、イエスの同時代人たちが想像していたのとは違ったように見えた。

イエスがエルサレムに入ったことと、神殿での彼の行為において、イエスは文字通りステージの真ん中に上がられた。彼のドラマチックな行為は、ご自分がメシアであって、イスラエルの運命が実現されるべきお方との信念を象徴していた。ご自分のめしを自覚しながら、弟子たちとの最後の晩餐において符号化された新しいエクソダス、偉大な解放という、更に他の偉大な象徴を演じられた。

イスラエルの最も大きな望みは、ヤーウェ、彼女の神が自ら戻って来られること、裁き主及び贖い主としてシオンに来ることであった。イエスのエルサレムへの最後の旅、及び神殿と二階座敷における行動において、彼はそのリターンを劇的に象徴した。イスラエルと世界の望みと恐れはご自分の死によって一回限り一つとされるであろうと信じて、イエスは死に向かわれた。これは、偉大な出来事、イスラエルの歴史の頂点、贖い、新しいエクソダスとなるであろう。

当時の他のユダヤ人殉教者たち同様、イエスはご自分が神の御心に従って死んだなら、死からの復活によって擁護されるだろうと固く信じていた。他の殉教者たちと違って、彼の復活は遅れなく来ると信じていたように見える。「三日目に」よみがえるであろうと。他の物事と同様、イエスはこのことによって、神が常に約束しておられたことをご自分の民のためについに果たすための手段となるという召しを自覚している1世紀のユダヤ人たちの世界観の内にあって、完全な意味を持つことを信じていた。

これらすべてのことから、パウロがただイエスの教えのすべての線をオウム返しにするだけでは、イエスを支持したことにならないことは明らかである。我々が期待すべきなのは、終末論的タイムテーブルの違った地点にある二つの生きた人々、生きていると自覚する人々の間の適切な連続性である。

イエスはご自分の召しがイスラエルの歴史にクライマックスをもたらすことであると信じていた。パウロはイエスがその目的を果たされたと信じた。パウロは、彼自身が全世界に対して、そのようにしてイスラエルの歴史にクライマックスがもたらされたことを告げるよう召されていると信じた。パウロが「福音」を異邦人世界に伝えたとき、彼は自覚的にイエスの達成を補完した。彼は「別個の宗教を創設した」のではない。

イエスとパウロの間には一対一の対応があるというのではもちろんない。相互にラディカルに異なったパースペクティブを十分許す首尾一貫性、適切な相互関係、統合性がある。

パウロはもちろん、春の最も早い時期に生きていると信じていた。従って、「固く立って動かされず、いつも主のわざに励む」(第一コリント15:58)というのが、カルバリとイースターの勝利と、神がすべてのすべてとなられる日との間に生きる者にとってふさわしい態度と行動である。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

パウロをどう見るかという問題には、イエスをどう見るかという問題がいつも伴います。ライトは、両者の関わり方について、この最終章で取り上げています。「私はそれをこの結論の章における主要な対話の相手としたい。」(p167)と言って取りあげたのが、A.N.ウィルソンの"Paul:The Mind of the Apostles"という著作です。パウロの思想を歴史のイエスと切り離されたものと考える神学的試みも多いですが、この本もそのようなものの一つのようです。英米国では話題となった本のようですが、日本ではなじみもなく、内容的にも、チャレンジに満ちたこの本の最終章で「主要な対話の相手」と選ばれるには、少し物足りないもののようにも思われますが、致し方ないところでしょうか。むしろ、後半部分のほうが熟読に値するものと思いました。

その冒頭、イエスをどう見るかについては、"Jesus and the Victory of God"で扱っているとのことですので、日本語訳が出るのが待たれるところです。

ライトはまず、イエスとパウロ、両者を、1世紀ユダヤ教の世界に置いて考えるべきことを指摘します。そして、そうするならば、「宗教や倫理の無時間的システムはもちろん、人がどのように救われるかについての無時間的なメッセージを、両者とも語らなかったはずだという事実に直面するはず」と言います(178、179頁)。私はこれまで、このようなライトの文章を読むと、(極端に言えば、)ライトは、「人がどのように救われるかについてのメッセージを(イエスもパウロも)語らなかった」と読んでしまっていたような気がします。そうではなく、「人がどのように救われるかについての無時間的なメッセージを語らなかったはずだ」という指摘です。ライトはパウロの言葉にしても、イエスの言葉にしても、イスラエルと世界に対する神のご計画との関わりの中で理解すべきことを主張しているものと思います。

イエスの十字架の死については、「これは、偉大な出来事、イスラエルの歴史の頂点、贖い、新しいエクソダスとなるであろう。これが御国の来るための方法であった。」と言います(180頁)。また、復活については、「神が常に約束しておられたことをご自分の民のためについに果たすための手段となるという召し」との関わりを指摘します(180頁)。

そして、イエスとパウロとの関係については、「イエスはイスラエルの歴史に頂点をもたらした。パウロはその頂点の光の下で生きた」「イエスの行動とメッセージ、及びパウロのアジェンダと手紙との間には、(もちろん)1対1の対応があるというのではなく、相互にラディカルに異なったパースペクティブを十分許す首尾一貫性、適切な相互関係、統合性がある。」と指摘します(182頁)。

この辺りのところは、私としても肯定的に受け止められるところと思いました。イエスとパウロの関係性については、個人的にももう少し深く掘り下げて考えてみたいテーマの一つですが、大枠、ライトが示している線とそれほど違わない方向性で取り組むことになるのではないかと思います。

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第9章 パウロの福音 当時と今

2016-11-22 19:38:17 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第9章 パウロの福音 当時と今


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)

聖パウロが実際に語ったことについて、私がこれまで語ってきたことが、パウロが言わんとするところの今日的適用について、かなりの量の新鮮な思想を励ますものとなるよう願う。しかし、この点で特に光を当てる必要のあるいくつかの領域を示唆したい。私は特にこの書の中で二つの事、「福音」と「義認」について集中してきた。

パウロにとって「福音」は教会を造り出し、「義認」は教会を定義する。パウロにとって福音の宣言は人々を救う力を帯びる。「福音」それ自体は、思想のシステムでもなければ、人々をクリスチャンにする一連の技術でもない。福音はイエスの人格についての人格的宣言である。それこそ福音が教会、すなわちイエスは主であり、神は彼を死からよみがえらせたと信じる人々を造り出す理由である。「義認」はその福音を信じる者は誰でも神の家族の真のメンバーであると宣言する教義である。


1.パウロの思想に関する考察について

まず、私が提供してきたスケッチが、パウロの思想の中心において戸惑わせる二律背反、あるいは矛盾でさえあるようにみえるものの意味を明らかにする仕方を指摘したい。私は1章で、シュバイツァーからサンダースに至る思想のラインについて書いた。彼らは「法廷」用語を退け、シュバイツァーが「神秘的」領域、、サンダースが「参与主義者」領域と呼ぶものを主張する。我々がパウロの思想の契約的性質を把握し、契約がその中心において常に神の偉大な法廷の意味を伝える仕方を把握するなら、この二律背反はありのままに示される。それらはずっとのちの哲学や神学にその起源を負う違いをパウロに反映させることである。パウロにとって、「キリストにあること」は、「メシアを巡って再定義される神の民に属すること」である。それは言い換えれば特別に契約的言い方である。しかし、同様に、「義」の擁護は一貫して契約的である。

同様なことは、私が本書ではこれまで述べてこなかったが殊に現代のアメリカのパウロ研究を支配する他の議論についても真実である。パウロの「契約的」読みに反対して、J.L.マーティンのような何人かの学者は、パウロ思想の「黙示的」性質を強調してきた。契約的範疇はアブラハムからキリスト以降への定常的発展、旧約聖書と新約聖書との間の連続性を意味すると考えられている。しかし、パウロにおいて見出されるのは、むしろ明らかな断絶、すべての以前の期待を立つはりつけの荒々しい衝撃という(いわば)「黙示的」観念であるというわけである。第二コリント5:16(5:17)はこのことについてのスローガンとして機能するかもしれない。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」。

問題はもちろん、その節自身が基本的に、また明らかに契約的であるということである。

同様に、「黙示的」ということは、「新約聖書と神の民」10章で論じたように、それ自体、契約的である。

パウロの福音の当時と今についての章のはじめに、パウロの神学のパターンと形についてこのような振り返りを含めた理由は、我々がパウロのような思想家を捉えようとするとき、すぐにパウロが実際には後の時代が創り上げた様式やモデルに適合されうると想定してしまう危険が常にあるからである。


2.王の告知

○イエス・キリストを主と宣言する

福音はイエスが主―世界の主、宇宙の主、地球の主、オゾン層の主、くじらと滝、木々や亀の主―であることの宣言である。このことを正しく理解するなら、「福音を伝えること」と「社会的行動」あるいは「社会正義」などと呼ばれてきたものとの間に存在してきた危険な二分法を打ち砕くことができる。福音を伝えることはイエスを世界の主と宣言することを意味する。そして、矛盾したことを言うつもりがないなら、その主権性を世界のすべての領域に及ぼそうとしないでその宣言をすることはできない。

後期現代主義の偉大な預言者はもちろん、マルクス、フロイト、ニーチェである。彼らの偉大なテーマ、金、性、権力について、パウロの福音は何を語るだろうか。

まず、もしイエスが全世界の主であるなら、偉大な神マンモンは全世界の主ではない。

同様に、もしイエスが世界の主であるなら、性愛の女神アプロディーティーは全世界の主ではない。

次は権力を考えよう。西洋民主主義は全体主義と無政府主義の恐るべき代替物の間で二世紀の間、安定した場所と思えるものを提供してきた。そうあり続けるかどうかは、教会が次のような主張をすることができるかどうかにかかっている。すなわち、イエスは世界の真の主であって、違った種類の力、より強力な種類の力、弱さの内に完全にされる力があるという主張である。

私はこのことすべてが、イエス・キリストは全世界の主であるとの宣言に多かれ少なかれ直接に含意されていると考える。

福音は本質的に「経験」ではなく忠誠を造り出す。イエスの召しによって保証される唯一の経験は、十字架を担うというものである。


3.義認、当時と今

○義認と共同体

福音は個々のクリスチャンの一グループを造り出すのではなく、共同体を造り出す。もしあなたの神学の中心に伝統的な意味での義認を置くという古い道をとるなら、そのような種類の個人主義を維持するという危険の中に常にあることだろう。「個々の」クリスチャンというものはない。パウロの福音は共同体を造った。彼の義認の教義はそれを支持した。我々の福音も同様でなければならない。

○エキュメニカルな働き

パウロの信仰義認の教理は、教会がバラバラにされている現状では、教会にエキュメニカルな働きを強いる。義認の教理は単にカトリックとプロテスタントが一生懸命なエキュメニカルな努力の結果として賛同できるようになるだろうという教理ではない。義認の教理はそれ自体でエキュメニカルな教理である。

○それを知らずに義とされる

偉大なアングリカンであるリチャード・フッカー(訳注:1554-1600年)が言うように、「人は信仰義認を信じることによって信仰により義とされるのではない。」現代の多くのクリスチャンは、教理の正確さについてあまり明瞭でないかもしれない。しかし、いかに不明瞭であっても、彼らはイエスにしがみついている。パウロの教えによれば、彼らはそれ故信仰によって義とされている。家族の一員として構成されている。

○義認とホーリネス

我々が福音と義認の教理を私が概説したような仕方で把握すれば、我々の理論や行為において、「信仰義認」とクリスチャンのホーリネスへの責務との間の衝突の危険はない。

パウロの義認の教理は完全に彼の福音に依存しており、我々が見て来たように、それはイエスを主と告白することである。パウロの鍵となる節の一つは、「信仰の従順」である。信仰と従順は正反対ではない。両者は正確に一緒に存在する。実際、大変しばしば、「信仰」という言葉自体、「真実」と訳されうる。もちろん、このことは福音や義認を妥協させ、後ろの戸から「行い」をそっと持ち込むことではない。信仰は、この積極的意味においてさえ、神の家族の中に入るためにも、またそこにとどまるためにも、決して人間の側から準備された資格ではない。それは神によって与えられたメンバーシップのバッジであって、それ以上でもそれ以下でもない。恵みによってだけ自分自身を神の家族の信仰メンバーとして見い出す者たちにとって、ホーリネスは適切な人間の状態である。

○義認と諸力

教会のメンバーシップをイエス・キリストへの忠誠以外の何かによって定義しようとするいかなる試みも偶像崇拝的である。義認の真意はエペソ3:10において要約される。「教会を通して神の多種多様な知恵が天井にある諸霊や諸力に知られるようになる」。一つの信仰共同体として生きている教会によって、諸霊や諸力は彼らの時が終わったことを明確に知らされるのである。


4.神の再定義と神の義

私は以前、最近10年間に西洋世界が直面するようになった大きな変化の一つは、「神」という言葉が単一義でないことを人々が悟り始めたということだと語った。

絶対多数の人々が信じている「神」は、ほぼ確実に理神論者の神であって、パウロの世界ではエピクロス派の神、あるいは神々に相当する。パウロの福音宣言は驚く異教徒たちに本当の神がおられ、生き、動き、心にかけ、愛するお方であり、歴史と人間との間で全世界を再創造するために働かれ、また働いておられるお方であるという知らせをもたらした。イエスの福音についての我々の宣言も同様のメッセージを含まなければならない。

近年、フロアから沸き立ち始めている偽の神々とも直面している。ニューエイジ・ムーブメントのいくらかは、明らかにネオ・異教主義である。ユダヤ教唯一神論が二元主義、異教主義、エピクロス派、ストア哲学と対峙したように、ユダヤ教唯一神論のクリスチャンバージョンも、パウロの説教においてそうであったように、あらゆる代替神学に対峙しなければならない。

「神学」という言葉が不適切な理論に対するあざ笑いの言葉であるうるのは、理神論的文化が支配的な状況においてである。パウロの福音のように、イエスと御霊において知られた一人の唯一の神について語る高度な基礎を主張するならば、神学の言語が全生活、文化、愛、芸術、政治、宗教とさえ、いかに密接に、また決定的に関連しているかを示す用意がなければならない。

特に、神についてのパウロの再定義は、神の義の再定義を含んでいた。このテーマは、ローマ書で展開され、8章において一つのクライマックスに達している。そこでパウロは、ある日全宇宙が偉大なエクソダス、滅びの縄目からの解放を得るという望みを概観し、祝福している。神とイスラエルとの間の契約は、全世界を救う神の手段となるよう常に意図されていた。決して、世界の残りが地獄に行く一方で、個人的な小さなグループの人々を得るための手段となるよう想定されていたわけではない。

私は実際、いわゆる神の義のテーマの一部として、正義の問題を考え抜くよう備えられるべきだと主張する。「ディカイオスネー」という言葉は、「義」と同様に、「正義」とも訳すことができる。もし神が全世界を新しくするおつもりだということが本当で、ローマ8章や第一コリント15章でパウロがナンセンスを語らなかったとすれば、現代において正義、あわれみ、平和の行動は、神の決定的企図に対する不可避的に部分的な、また断続的かつ戸惑わせるような待望だとしても、適切なものである。

神の義を終りまで探究すると、それは神の愛―造られた宇宙に対する造り主の愛、それを損ない、ゆがめる力に対するキリストの勝利を通してそれを造り直すという決心を啓示する。もし福音が神の義を啓示し、教会が福音を宣言するように命じられているとしたら、不公平、圧迫、暴力が神の世界にはびこっているのに教会が満足していることはできない。


5.結論

パウロがポスト・モダニズムに対して何と言うだろうかという問いを扱ってはこなかったが、そこでもパウロは我々があちこちで聞くような恐れに満ちたつぶやきとは全く違った強壮なクリスチャンの誠実さで挑戦に直面するのを助けてくれるだろうと思う。

もちろん、パウロの福音は人々に対してパウロのあとに続く危険を引き受けるよう命じるであろう。クリスチャンが福音を宣べ伝えようとするなら、福音を生きることから免れることは期待すべきでない。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

パウロの福音及び義認についての思想が、今日の教会と世界の状況に対して何を語りかけるかを取り上げた章です。ライトは、教会の中の保守派層から見ればかなりラディカルに見える一方で、世俗の世界に対しては、極めて保守的な発信を行っている一面があり、このような章を読むと、その両面が伺えます。

私としては、教会論寄りのライトの義認理解は、個人的救済論的の側面をあまりにも簡単に軽視しているように見えますし、「神とイスラエルとの間の契約は、全世界を救う神の手段となるよう常に意図されていた。」(163頁)以下の表現は、普遍救済主義と誤解されかねない表現のようにも思えます。しかしながら、ポスト・モダンと言われるこの時代に、世俗社会にあっても強力な発信力を持つライトの神学表現は、世界のキリスト教会に有益なものをももたらしているように思われます。

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第8章 神により新しくされた人間性

2016-10-11 20:16:44 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第8章 神により新しくされた人間性


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)

一方でパウロは、キリストにあって新しくされた人間性は、純粋なものであって、異教を特徴づける、破砕され、貶められた人間性とは明らかに対照的であると信じていた。他方で、彼は、キリストにあって新しくされた人間性は、イスラエルの召しの成就であって、不信仰のイスラエルが達し得なかったものであると信じていた。

キリストにある人間性の更新についてのパウロのビジョンは、単に一時限的な倫理ではないことを示したい。それは、単に「救われ」そして、「振る舞い方を学ぶ」という問題ではない。それは複合的に織り込まれたビジョンであって、様々な特別のニーズに合うように一緒に編まれ、神が彼の内に鼓舞した(と彼は主張する)全エネルギーによって促進された。

○新しくされた人間性の中心:礼拝

純粋な人間性についてのパウロのビジョンの中心にあるのは、ひとりの真の神に対する真の礼拝である。

第一テサロニケ1:9で、彼はテサロニケの人々に最初に福音を語った時起こったことを描いている。「あなたがたは偶像から立ち返り、生ける真の神を礼拝するに至った。」彼は異教世界を偶像礼拝によって特徴づけられると見ている。彼が切望するのは、これが真の神への礼拝で置き換えられることである。

ガラテヤ4:1-11では、真の礼拝へのパウロの招きの二重の論点がある。真の神礼拝は真実であり、そのリアリティに対して、異教の偶像礼拝はパロディであるということはパウロは前提と考える。しかし、驚くべきことに、そしておそらく怖いことには、この視点からは、不信仰のユダヤ教自体、異教への妥協であると示されことを我々は発見する。割礼を行うことは実際上、諸霊と諸力に屈服することである。

第一コリント8:1-6でパウロは再び異教主義に反対する高い根拠を主張する。(シェマを引用しつつ、その中にイエスを置いていることについては4章も参照。)しかし、一人の神への高いユダヤ教礼拝を調べてみると、それはイエスの顔に神を認められない、あるいは認めようとしないユダヤ教に対するチャレンジを含んでいることが分かる。

ローマ1:18から始まる長い節全体のポイントは、異邦人が偶像礼拝者であり、それゆえ彼らの人間性が自滅しているということである。これに対して、真に神を礼拝している神の民であると主張するであろう普通のユダヤ人たちに対して、パウロは2:17-24で答えている。ユダヤ人の誇りはよしとされ得ない。なぜなら、イスラエルはなお捕囚下にあり、他の人々の問題を深いレベルで共有していることを示すのろいのもとにあるから。それでは解答は何か。神は新しい共同体を召された(2:25-29)。そこでは割礼も無割礼も無関係であって、大切なのは、その人が「ユダヤ人」であるかどうかである(2:29、パウロは「真のユダヤ人」とさえ言っていない。)。ローマ4章におけるアブラハムと彼の信仰の描写が、ローマ1章におけるアダム的人間性の描写とその偶像礼拝を明確に反転させていることに注目することができよう。

○新しくされた人間性のゴール:復活

真の人間性への道が真の礼拝だとすれば、神によって新しくされた人間性の目的及びゴールは、もちろん復活である。第一コリント15章、ローマ8章、コロサイ3章、第二コリント4,5章、ピリピ3章の終りが基本的テキストとなる。

異教主義は、将来に何を望むことができるかについてかなり不明瞭である。復活は将来の命のリアリティであり、異教主義が提供するのはそのパロディに過ぎない。復活は単なる蘇生ではなく、変貌であり、原罪の物質的様式を新しい様式に変えることであり、イエスはご自身の復活の体においてその唯一の原型である。

復活の教理においてパウロは二つの反対の危険を避けている。創造された秩序の神格化と、創造された秩序の二元論的拒絶である。

同時に、パウロの復活への解説は、彼の時代のユダヤ教信仰への明らかな代替を提供している。もはや異邦人は真の敵ではなく、罪と死が敵であって、神はドラマの最後の偉大な行為においてそれを滅ぼされるであろう。

パリサイ人として彼は、今我々は、異教徒を打ち負かし、イスラエルを解放する、歴史のおいて偉大な神のみわざの前の最後の時代に生きていると言ったことであろう。しかし、クリスチャンとしてパウロは、我々は罪と死を打ち負かし、全宇宙を解放する、歴史において偉大な神のみわざの後の最初の時代に生きていると言った。そして付け加えるであろう。キリストにおいて始まったことの完成をもたらす神の偉大なみわざの前に終りの日があると。しかし、初めの言述がより重要である。

(パウロが予期した偉大な激変の出来事についての議論省略。)

○新しくされた人間性の変容:ホーリネス

この新しくされた人間性の始まりと終わりとの間には何が起こるのか。パウロの基本的答えは、変容がそこかしこで始まるというものである。古典的なテキストはもちろん、ローマ12:1-2である。ここでは礼拝とホーリネスとが結合されている。再び、ローマ1:18-32は明らかに反転させられている。

彼のビジョンは異教主義への明らかな代替である。パウロは人間性についてのユダヤ教的ビジョン、すなわち、知恵とホーリネスによって特徴づけられた人間性の成就を提供している。

ホーリネスは複雑で難しいトピックである。パウロはホーリネスをオプションのエキストラ、すなわち他の者たちが半異教主義にとどまることがゆるされる一方で、あるクリスチャンたちだけが召されるような何かとは見ない。同時に彼は現実主義者である。ある注解者が考えるように、パウロはクリスチャンが聖霊のバプテスマや聖霊の内住、その他何であれ、常に100%きよい生活ができるとは考えていない。彼にとっては、新しくされた人間性の生涯は、「今や」と「未だ」の緊張関係の中で保たれる。(第一コリント、コロサイ3章、ピリピ3:12-14)

特にパウロは、パリサイ人として彼が熱心に従っていたようにユダヤ教のトーラーに従うことによっては所持され得ないと考えている。クリスチャンホーリネスの彼の説明に組み込まれているのは、トーラーに対する強い批判である。すなわち、トーラーは、自ら差し出すきよい生活を与えることができない。

ローマ7章でもガラテヤ5章でも、パウロはイスラエルを肉にあり、アダムにある者として描いていると私は示したい。それ故、イスラエルがトーラーを抱く時、それがなしうるのはイスラエルを罪に定めることだけである。まず、ローマ7章を取り上げよう。ここでパウロは自伝的工夫として「私は」を用いる。彼が描く窮状は、熱心なパリサイ人としてそうであったところのものである。イスラエルのアダム的人間性がキリストにあって取り扱われる時―それは、イエスの死と復活において、バプテスマにおいてそれらの出来事とクリスチャンが一体化することにおいて起こるのであるが―初めて、「命の御霊の法則があなたがたを罪と死との法則から解放する」ことができる(ローマ8:2)。

ガラテヤ5章においては、ガラテヤ人たちは古い異教からできるだけ遠ざかろうとしてトーラーを熱心に抱いている事実に直面する。彼らは以前の異教的偶像や不道徳をありのままに見て、真の人間性、ホーリネスと礼拝の道に進もうと決心している。「そそのかす者たち」は、彼らがこの目的をトーラーを抱くことによって達成できると語りかける。そうではない、とパウロは言う。もしあなたがたがそうするなら、あなたがたは自分たちを古い人間性、肉に縛り付けるものを強調することになるだけであろう。トーラーを抱く徴が割礼であるという事実は、このポイントをより明確にする。もしトーラに固執するなら、あなたがたはかえって自分達を異教主義のレベルにまで戻す。もしあなたがたが純粋なものを欲するのであれば、御霊によって歩かなければならない。

パウロの著述を通して、純粋なホーリネスはキリストと共に死によみがえるという用語の中に見い出される。このテーマは、第二コリントにこれ以上なく明確に表現されている。そこでパウロは、大きな痛みと悲しみを描き出す(第二コリント6:4-10)。純粋な人間性は安易にはやって来ない。

○新しくされた人間性の結合力:愛

純粋な人間性の破砕は、個人の内で起こるだけでなく、人類の一部が自分自身を他の部分と対立的に定義する時にも起こる。パウロにとって、このことは単にプライドと怖れにある人間の働きであるだけではなく、世界を切り分ける諸霊と諸力の働きの結果でもある。そして、パウロにとって、これらはキリストにあって打ち負かされている。それがもはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、すべての者がキリスト・イエスにあって一つである理由である(ガラテヤ3:28)。それ故、この点において、新しくされた人間性の中心的特徴は愛である。

決定的な点は、教会が一つの家族として機能するべきであり、そこではすべてのメンバーが同等のメンバーであるということである。そのような共同体の存在がまさに諸霊と諸力に対して、彼らの時が終わったことを示すものとなる。それがエペソ人への手紙の中で絶頂のステートメントを見い出す理由である。福音の目的は、「教会を通して神の何重もの知恵が天の場所にある諸力と諸霊に対して知られる」ということである(エペソ3:10)。愛の共同体の存在がまさに神の霊が働いているとパウロに告げる決定的証拠である(コロサイ1:8)。

明らかにそのような共同体の存在と養いとが異教世界に対してイエス・キリストの福音が自ら主張する通りのものであるということを示すものである。それが第一コリントを書く時、パウロが議論を少しずつ積み上げ、遂に13章に達する理由である。パウロがすべてのトピックについて語ってきたすべてのことは、結局、アガペーへのアピールである。異教主義は、常にそれをめざそうとするが、なしうることは人格的カルトや党派争い、けばけばしいエロティシズムへの堕落でしかない。

しかし、再びアガペーのこのような生き方は、パリサイ的ユダヤ教に対する内側からの批判としても役立つ。ユダヤ人プラス異邦人のキリストにある統一的家族への彼のアピールは、キリスト教をユダヤ教の一派とするすべての試みを遮断するものである。もし教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンに分かれ、おそらくはある異邦人クリスチャンが割礼を受けることによりユダヤ人クリスチャンに加わるようなことがあれば、これは諸霊と諸力がなお世界を支配していることを意味する。

ローマ4章、ガラテヤ3、4章で、彼はこのユダヤ人プラス異邦人の信仰の家族の到来は、一人の真の神が、アブラハムを召された瞬間から、常に御心に抱いて来られたものであると、彼は議論する。彼が打ち立てた共同体はその召しに従うことが決して簡単でないことを見い出すという事実に対して、パウロは力強く取り組む。しかし、このことがそこでの彼のビジョンであるということは疑いないことである。

○新しくされた人間性の熱心:宣教

以前の章で、パウロにとってはイエス・キリストの主権性が皇帝の主権性に挑戦することを見た。ここで私がしたいのは、一人の真の神を礼拝することを通して、新しくされた人間性が世界に対する権威の中に据えられるとパウロが信じる仕方に注意を向けることである。教会の宣教はリアリティであり、、異教の帝国はそのパロディである。

これは、神を真に礼拝する人々の中で回復される神のかたちについてのパウロの基本的神学に関係している。クリスチャンは「造り主の形に従って知識の内に新しくされた」存在であると彼は言う(コロサイ3:10)。彼らは「御子のかたちに似る」ようにと選ばれている(ローマ8:29)。しかし、神のかたちに新しく造られた人間について考えることは何を意味するのであろうか。

人類における神のかたちの教理は、単に人間が神を神に戻すという重要性を持つという信念だけではない。彼らは神を世界に反射させるという重要性を持っている。ローマ8章で、このプロセスの終りが何かを全く明瞭に見る。神の民が復活の内に遂に完全に新しくされるとき、全被造物はそれ自体滅びの縄目からかいほうされ、神の子らの栄光ある自由を共有する。従って、教会の宣教は神の国を全世界に告げ知らせることを意味する。パウロは「他の王、すなわちイエス」がおられることを告げて回った(使徒17:7)。彼は続く者たちが同様にすることを期待する。

もちろん、イエスは皇帝に対して違った種類の王である。しかし、パウロにとって、その違いは、一方は「霊的」であり、他方は「一時的」であって、互いに何の関係もない二つの区別された領域に固定されているというようなものではない。「イエス・キリストを主として告白する」という全ポイントは、彼の御名に対してすべての膝が屈むであろうというものである。

パウロの宣教はそれゆえ、単に個人的伝道、将来の天国のために一人一人魂を救うというものではない。確かに、イエス・キリストの福音を告げることにおいて、彼はすべての個々人がイエス・キリストの主権性に対して従順な信仰に従うようチャレンジした。信じた者に対して彼は、神の一つの家族のメンバーとして、彼らは擁護され、死者の中からよみがえらされ、来たるべき新創造の栄光を共有するであろうという確信を与えた。しかし、パウロは単にそのような用語だけで自分の宣教を見なかった。彼は福音が「天の下のすべての被造物に対して告げられている」と言う(コロサイ1:23)。彼は自分がしていることが、イエスの復活で始まり、すべてのものの更新で終わる宇宙的運動の一部に過ぎないことを知っている。彼は王の使者である。そしてその王は、王の王、主の主である。イスラエルの王が全世界の王となるというユダヤ人の望みは、メシアなるエスにおいて真実となった。

○結論

私がこの章で示そうとしてきたのは、パウロが聴き手に対して主張し、回心者に迫り、教会において維持しようとベストを尽くしたのは、神によって新しくされた人間性のリアリティであったということである。それはあらゆるレベル、あらゆる道でリアリティあって、異教主義はそのパロディに過ぎないことが証明されたのであり、あらゆるレベル、あらゆる道でイスラエルの熱望の成就であって、不信仰なイスラエルが異教主義に妥協していることを示すものであることが証明された。

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

ライトはこの章で福音によって新しくされる人間性がどのようなものかを概観します。ウェスレー主義の伝統の中で育ってきたものとして、それは、「ホーリネス」と一括して表現したくなりますが、ライトはむしろ、「複合的に織り込まれたビジョン」と表現し、その中心には礼拝があり、そのゴールには復活があり、その変容はホーリネスと呼ばれ、その結合力は愛であり、その熱心は宣教に表われると、5つの側面からまとめます。

新たにされた人間性について、真の神への礼拝を中心的かつ初期的なものとして位置付ける点、また特に復活という面から終末論的要素を見据えている点、ユダヤ人も異邦人も一つとされた共同体形成と深く関わる側面として愛を位置づける点、そして、宣教という点においても、イエス・キリストの主権性の宣言を中心に置き、宇宙論的視点も忘れない点など、ライトの特徴をよく表わす章となっています。

その中で、ホーリネスの扱い方はむしろ伝統的な内容とも見えますが、特にローマ7章やガラテヤ5章から、ユダヤ人律法の限界性と異教主義へ戻りゆく危険性を指摘しているところがライトらしいところと言えるでしょうか。

全般的に、すべての点において、異邦人に対するメッセージと、ユダヤ人に対するチャレンジの両方を常に意識しながら、議論を展開しているところが最も特徴的なところと思いました。

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第7章 義認と教会(その4)

2016-10-02 20:44:37 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会

【補遺:第6回日本伝道会議に参加して】

前回の投稿は、たまたま第6回日本伝道会議(9月27-30日、神戸)参加直前のアップとなりました。この会議に参加して、ライトの義認論に関わるいくつかの示唆を受けましたので、補遺の形でまとめてみます。

残念ながら、分科会「神学ディベート―N.T.ライトの義認論」には参加することができませんでしたが、主講師であるクリス・ライトの講演、及び、プロジェクトワークショップから、以下の点で示唆を受けました。

(1)ローマ人への手紙の書かれた背景

クリス・ライトの講演内容では、N.T.ライトの視点に近いものを感じる点がいくつかあったと思いますが、特に義認論に関わるものとしては、最後の講演でローマ人への手紙全体に触れていたことが参考になりました。特に、ローマ人への手紙が書かれた背景、目的についての指摘は、私が見逃していた点を衝いていました。まず、クリス・ライトは、地中海世界の東側での宣教を進めてきたパウロが、地中海世界の西側にあるローマに目を向け、ローマの教会が宣教の拠点となるべきことを覚えたとの指摘は、私自身も、そのように受け取ってきたところでした。しかし、そのような目でローマの教会を見たとき、パウロには一つの問題が緊急に取り組むべき課題として見えてきたという指摘には、ハッとさせられました。その問題と言うのは、ローマの教会に分裂があり、それはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間の分裂だったというものでした。そのことを前提として、その講演の第一ポイントは、福音が一つとされたコミュニティーを創造したことを指摘します。第二ポイントでは、14、15章が取り上げられますが、いわゆる、「信仰の弱い者」「強い者」の問題を、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの問題であると指摘します。パウロは両者の分裂問題の解決を目的として、この手紙を書いたという指摘は、N.T.ライトの義認論を検討してきた者として、聞き過ごすことのできないものでした。

これまで、ローマ教会の中にユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがおり、パウロは読者としてその両方を意識してこの手紙を書いたということはよく指摘されてきたところと思います。しかし、それは、教理の体系的提示の読者として、その両方を意識したと言うにとどまり、それ以上執筆目的に深く関わらせる指摘はあまり聞いて来なかったように思います。しかし、そう指摘されてみれば、それ以外には考えられない程、内容的に符合する点が多いように思われます。

ガラテヤ人への手紙が、割礼問題をどう扱うかを巡るものとして比較的明確に表現されているのに対して、上記のような分裂問題が手紙の背景にあるという指摘は、そう指摘されなければ分かりにくい形ではありますが、指摘されてみれば納得のいく、といった形で手紙の全体に表わされていると理解できます。

もしそのような前提を受け入れるなら、この手紙の義認用語を検討する際にも、この背景を踏まえる必要が出てきます。義認用語を教会論的視点で理解しようとするN.T.ライトの主張は、このような前提によく合ってくるようにも思われます。

ただ、私としては、手紙の書かれた背景にユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの分裂問題があったのであり、パウロはその問題を踏まえつつ福音がユダヤ人も異邦人もない新たなコミュニティを創造したのだということを指摘したのだとしても、その議論の最初には、ユダヤ人も異邦人も罪のもとにあるという指摘がまずなされたということは見逃せないと思います。ユダヤ人も異邦人もない、新たなコミュニティーの創造は、この前提を踏まえ、ただキリストの贖いに基づき、神の恵みにより、信仰による神からの義を受けることによってなされたのだという議論の展開がなされたと考えます。従って、N.T.ライトによる義認用語検討において私が考えたことに大きな違いが起こるわけではないのですが、それでも、クリス・ライトの指摘は私にとっては心に深く残るものとなりました。私としては、義認用語が個人の救済に関わると同時に、教会論にも深く関わるものと整理づけたく考えたのですが、クリス・ライトの指摘は、そのような考え方をより強めるものともなったと言えそうです。

このあたり、ダンやN.T.ライトのローマ書注解書ではどう扱われているのか、興味深いところです。とにもかくにも、早く購入してみないといけませんね。

(2)N.T.ライトの「信仰」についての見解について

もう一つの示唆は、プロジェクト・ワークショップの中で与えられました。私は15のプロジェクトの中で、「聖書信仰の成熟を求めて」を選び、中でも「聖書信仰とNPP」の討論グループに加わらせて頂きました。そのための資料はT牧師が用意されたのですが、その資料では、N.T.ライトはひと言触れられるだけで、主にサンダースとダンが取り扱われていました。私としては、少々不満に覚えたのですが、討論に際しての補足説明で、T師は、「分科会ではN.T.ライトの義認論が中心に議論されたが、ここではNPPの根っこの部分を取り上げた」と言われました。そういった点を考慮しつつ、一つ思い起こされたのは、伝道会議直前に読み返していたダンの「パウロ研究の新しい視点」(『新約学の新しい視点』所収、すぐ書房)の中での「信仰」についての言及でした。「律法の行ない」については、それらを「契約の行い」すなわち「割礼、食物規定、安息日を守ること」と限定的に理解した上で(71頁)、それが「ユダヤ的なものの指標、すなわち人種と民族を指示するバッジと見做されていた」(79頁)と指摘するのに対して、「信仰」については、これを「契約の構成員のバッジとして」十分考えるべきことをパウロがガラテヤ人への手紙の中で主張していると指摘します(83頁)。

私はこれまで"What St. Paul Really Said"を中心に、N.T.ライトの主張を検討してきました。そして、N.T.ライトがピリピ人への手紙の義認用語を検討する中で「信仰」を「契約的メンバーシップのバッジ」(125頁)と主張する部分について、次のように書きました。「オルド・サルティスにおける信仰の位置について、後期改革派神学が、『人がどのようにしてクリスチャンになるか』と関わらせないことにより、信仰が結局のところ代理的『行為』になることを避けたことを指摘しつつ、ライトは、『信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない』と主張し(125頁)、『人が既にメンバーであると宣言するバッジである』と結論づけます(132頁)。」

今読み返すと、当該部分は原文では、以下のようになっています。「この描写における信仰の位置は、長い間後期改革派の教義学において、議論の対象であった。信仰は神の好意をえるために私が『する』ことなのか。そうでなければ、信仰の果たす役割は何か。一旦パウロの義認言語を『人がどのようにしてクリスチャンになるか』を表現しなければならないという重荷から解放したら、このことはもはや問題ではなくなる。クリスチャンの信仰を結局のところ代理的『行為』やとりわけ道徳的義の代替的形態と考える危険性はない。信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが『なす』ことではない。」(125頁)

よく読めば、「後期改革派神学が、『人がどのようにしてクリスチャンになるか』と関わらせないことにより、信仰が結局のところ代理的『行為』になることを避けたことを指摘し」ているわけではなく、ただ、後記改革派神学においてその種の議論があったということを書いているだけです。その点、不正確な書き方をしました。更に、それ以上に大きな問題は、その後に続く、N.T.ライトのいわばオルド・サルティスと受け取れるものについての考え方の表明に引きずられて、私は、ここでオルド・サルティスにおける信仰の位置に焦点を当ててしまったことです。上記ダンの議論における「信仰」についての議論と比較するならば、N.T.ライトの議論は明らかに重なる点があります。ですから、「契約的メンバーシップのバッジ」として「信仰」を見る考え方は、NPP全体に流れる考え方として捉えるべきだったと思います。ダンとライトは、NPPに関わる議論においても、細部においては異なる点が多々あるように思われますが、この点では一致しているわけですので、この点を見逃すわけにはいかないと思います。決して小さな問題とは言えないこの点を自覚させてくれたことだけでも、今回のプロジェクトワークショップは、私にとって有意義なものでした。

今後、この視点からもう一度、検討し直す必要が出てくるかと思いますので、いつか更に補遺を設けるか、この章全体の検討内容を全面的に書き換える必要が出て来るかもしれません。ただ、そのためには、ダンの論文を詳細に検討していく必要も出てきますので、そう簡単にはまとまらないだろうと予測します。一旦、本書全体の検討を最後まで終えた後、ダンの論文ももう少し詳しく調べた上で、どうするか、考えてみたいと思います。

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第7章 義認と教会(その3)

2016-09-21 21:06:06 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

(4)ライトの「義認」用語理解のマクロ的側面についての見解

ライトの「義認」論を以上のように理解するとして、私個人としてはライトの義認論をどのように評価するか、まだまだ暫定的なものでしかありませんが、マクロ的側面とミクロ的側面に分けてまとめてみたいと思います。

まず、マクロ的側面についてですが、パウロの義認論を考えるとき、全体として個人的救済論の枠組みにおいてだけで理解しようとするのでなく、神の救済のご計画の歴史的展開の中に位置づけようとすることは、今後も必要なことではないかと思いました。また、その中で特にイスラエルに対する神の契約との関わりに注目し、イエスをイスラエルの代表ととらえ、イエスの十字架と復活をイスラエルとの神の契約のクライマックスとして位置付けるライトの理解は、パウロの神学を考える上で、今後も大きな影響を与えていくものと思われます。私としては、細部における吟味は必要と思いますが、大きな理解としては非常にすぐれたものと思いました。また、パウロの義認論を「開始された終末論」に似た枠組みで理解しようとするライトの見解も、それ自体としては間違っていないと思います(ガラテヤ5:5)。ローマ2章についてのライトの見解については疑問を感じますが、それはミクロ的側面として扱われるべき議論になります。

ただ、「福音」についてのライトの主張に対しては、私としては、暫定的にではありますが、異なった理解に立ちたいと思います。ライトは、福音について「人々がいかにして救われるかの説明ではない。それは以前の章で見たように、イエス・キリストの主性の宣言である」と言います(133頁)。しかし、前章についてのコメントでも触れたように、私としては、福音を「人々がいかにして救われるかの説明」を含むものと考えたく思います(前章コメント、ローマ1:17検討部分参照。また、(5)のローマ人への手紙検討部分参照。)。

(5)ライトの「義認」用語理解のミクロ的側面についての見解

このように、パウロの「義認」用語のライトの理解のマクロ的側面について、「福音」理解以外の部分については、私として賛同してよいのではないかと考えます。ただ、それは、パウロの「義認」用語理解の枠組みとして、尊重すべきものとして受け入れるということであって、細部においての検討は必要と考えます。従って、パウロの「義認」用語理解についてのライトの理解のミクロ的側面についても検討していく必要があります。ここで、そのすべてを子細に検討する余裕はありませんが、先に要約列挙したライトの釈義的主張について、一つひとつ取り上げながら検討します。

○ガラテヤ人への手紙

*ライトの主張*
【パウロがこの手紙で扱っているのは、「元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か」という問題である。】

ガラテヤ人への手紙の中で、パウロが取り扱おうとしている緊急かつ実際的な課題は、「元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か」ということであったことは間違いのないことと思います(5:2-12、6:12-15)。多少問題を広げて理解したとしても、異邦人信仰者が真の神の民となるために、割礼その他のユダヤ教的な行いを必要とするかどうかが、この手紙の主題となっていることは確かなことだと思います。この点については、2世紀以降、聖書解釈者の間で長い間共通理解があったことをF.F.ブルースは指摘しています(NIGTC、Galatians、20-23頁)。パウロがこの問題への明確な方向性を示そうとしていることは明らかで、手紙の全体がこの問題に答えるために順序立てられていると見ても間違いではないと思います。注意すべきは、このことについてはルターを含む宗教改革者たちも同様に理解していたという点で、この手紙の扱う問題がそういうことであったとしても、そのことが「義認」用語の理解にどうかかわるのかについては、異なる理解があり得るということのようです。

たとえば、パウロが割礼主義のような実際的問題に対する回答をどのようにして取り扱おうとしているか、手紙全体の文脈を正確に理解しようとすると、色々複雑な要素が絡んでいるため、簡単に割り切れる問題ではないように思われます。少なくとも、福音、律法、信仰、義認、神の子、もろもろの霊力(新改訳では「幼稚な教え」)、自由、肉の働きと御霊による歩みといった要素について考え、それらへの理解がこの問題への取り組みにどう関わるのかを考える必要があります。こういった問題に明快な回答を与えることは、なかなか難しいことのように思われます。

その中で、特に私が注目したい点としては、「義認」用語との関わりの深い点として、後に検討する「律法」理解の問題と共に、「福音」理解の問題があるという点です。というのは、確かにガラテヤ人への手紙で取り扱われている実際的課題は、割礼問題その他、異邦人クリスチャンがユダヤ人を異教徒と区別してきた律法規定を守る必要があるのかという問題でしたが、この手紙の冒頭、1:6-9で明らかにされているのは、そのような実際的問題が、パウロにあっては福音の真正性に関わる問題として認識され、提示されているという点です。パウロは、ガラテヤ教会の人々が直面している問題が、具体的には割礼問題であったとしても、そのことを最初から直接は明らかにせず、むしろ、「違った福音」(1:6)、「キリストの福音を曲げようとしている」(1:7)、「わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝える」(1:8)、「ある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えている」(1:9)といった問題として提示しています。割礼問題がどうして福音の真正性の問題として理解されなければならないのか、これがこの手紙の冒頭で私達が直面する問題です。たとえば、ライトのように、福音をキリストの主権性の告知として理解し、義認を福音とは切り離せないものとしつつも、福音の中に含めないで理解した場合、割礼問題がどのように福音の真正性をゆがめることになるのか、了解が難しくなるように思います。たとえライトのように「義認」用語を教会論的に理解するとしても、少なくとも義認の問題を福音の中に含めて理解するのでなければ、このことは了解しがたいことになってしまいます。

更に言えば、ガラテヤ人への手紙で、福音の真正性の問題を取り上げる前に、パウロは、キリストによる救い、そのための贖いの死についてひと言書き記していることは、福音と救い、また贖いとの深い関わりを自然に想定させます。こうした流れを考えると、2章前半で割礼主義者の問題が取り上げられた後、後半で義認の問題が取り上げられますが、真正な福音の中に「キリストの贖いによる救い」ということがある故に、割礼主義者の問題は、「律法の行いによる義」か「キリストを信じる信仰による義」かの問題に結びつけられている、と理解することは可能ではないでしょうか。「律法の行い」をどう理解するかの問題は、後で再度詳しく検討しますが、こうした流れの中で、「割礼主義」の問題が「福音の真正性」の問題に結びついていると想定することは、手紙の文脈にかなっているように思われます。なおガラテヤ書の中での「福音」理解についてはライト自身の言及がないので、これ以上の検討は差し控えます。「福音」理解の問題はローマ人への手紙の検討の中で、再度取り上げたいと思います。

*ライトの主張*
【2-4章で問題となっていることは、誰が一緒に食べることを許されるか、誰が神の民のメンバーなのか、誰がアブラハムの子孫に属するかという問題が扱われる(3:29)。】

ライトの主張点は、個人的救済論を取り扱うと言われてきた2-4章において、むしろここで取り上げられている問題は、教会論に属するということでしょう。この点について、私としては、個人的救済論と教会論は、常に切り離せない問題であると考えます。個人的救済論に偏って聖書を理解してきたあり方をただす意味では、教会論的理解の強調は必要なことと思いますが、個人的救済論の要素を排除した形での教会論的理解もまた偏っているのではないでしょうか。

もちろん、先の検討点において確認しましたように、この手紙が扱っている実際的課題は、どちらかと言えば教会論的課題と見ることができますが、この課題を取り扱うに際して、パウロは決して個人的救済論を排除する形では取り扱っていないのではないかと思います。この点については、次の検討点でより具体的に考えてみます。

*ライトの主張*
【ガラテヤ人への手紙においてトーラーに対する議論は、もし我々がそれを「律法主義」のわなに対する議論に「翻訳」するなら、うまくいかない。律法についての節は、我々がそれらをユダヤ民族の民族的証書として見るときのみ、うまく働く。】

この点は、いわゆる「パウロについての新しい視点(NPP)」が指摘した問題でもあり、重要課題です。特に「義認」用語の理解において重要になる点が、2:16に3回現われる「律法の行い」の理解です。ここでは、「律法の行いによる義」と「キリストを信じる信仰による義」とが対照されています。従来、ここでの「律法の行い」という表現は、人間の功績、すなわち、人間の行いによって救い(義とされること)が獲得されるという理解に関わるものと受け止められてきました。しかし、当時のユダヤ教についての理解が進み、こうした理解が必ずしもユダヤ教的なものとは言えないとの指摘がなされるようになりました。こうした中から、ここでの「律法の行い」を、「ユダヤ民族の民族的証書」としての律法機能に関わる言及として受け止める理解が広がってきました。ライト自身の場合はそれ程明確ではありませんが、特に、ここでの「律法の行い」をユダヤ人を他民族から区別する諸規定(割礼・安息日・食物規定等)を守ろうとするあり方として受け止める向きも見られるようになりました。おそらく、この点の議論は新約聖書学の分野を越えながら、今後も続いていくものと思われます。

律法の民族的証書としての機能は、ガラテヤ人への手紙が取り上げられている実際的課題との関わりとも密接に関わる部分ですので、この手紙の文脈ともよく合致しているように受け取れます。しかし、これまでの聖書注解者は、ガラテヤ人への手紙がそのような実際的課題に取り組んだものであることをよく踏まえた上で、なおここでの「律法の行い」をいわゆる行為義認との接点を持つものとして捉え得たという点も見逃すことはできないように思います。

私としては、ガラテヤ人への手紙の中の律法についての議論は、確かに現代の教会で一般的に言われている「律法主義」と直接に結びつけることはできないと思います。現代の教会で言う「律法主義」は、特に当時のユダヤ人に限定された話ではないのに対して、この手紙の中に出て来る律法は、文脈上、確かにユダヤ人たちが誇りとしてきた律法であることが明らかだからです。

しかし、私としては、ユダヤ人が神から与えられた律法を誇りとしてきたことの理由として、律法が神の御旨をこの上なく明瞭に表現するものであったことを重視したいと思います(ローマ2:17-20)。本来、神がイスラエルの民に律法を与えられた際、その中心にあったのは、人として神の前に正しい生き方をするということはどういうことなのかを明確にするという機能だったはずです。割礼や安息日規定、食事規定も、そのような本質を表現する意味で設けられた規定であって、その中心は神を愛し、神の御旨に従う聖別された生き方にあったはずです。イスラエルの民の歴史の中で形だけの律法遵守が本来の律法理解をゆがめ、イスラエルの民を神の御心から外れた方向に追いやることが繰り返されてきたのも事実です。しかし、その度に神は預言者を遣わし、本来の律法の精神に立ち返らせようとされました。ですから、神がイスラエルの民に律法を与えることにより、他の民族と区別されたとすれば、単に割礼や食物規定など、外的な民族的区別をもたらす規定に中心があったわけではなく、また、ユダヤ人を他民族と区別するという律法機能自体に中心があったわけでもなく、むしろ、人としての正しいあり方を明確に表現するという、律法の本来的付与によってであったと考えることができます。

しかし、パウロは、そのような本来の律法機能に焦点を絞って考えたときでさえ、それは人を義とすることができず、罪を指摘するのみであること、それ故、キリストの贖いのみわざが必要とされたのであり、それゆえ、「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」と言っている、というように私には読めます(ガラテヤ2:16)。それ故、信仰者はユダヤ人に与えられた律法に固執する必要がなく、自由とされた者であること、ただその自由を肉の働く機会として用いず、御霊による新しくされた者として生きていくべきことを教えた・・・私としてはそのように理解したいと思います。これは、従来の義認用語理解に近いもので、かなり伝統的な見解に立つことになりますが、現時点で私がそのように考える理由をいくつか挙げてみます。

第一に、2:19「律法によって律法に死んだ」の理解です。律法を「ユダヤ民族の民族的証書」と考えた場合、パウロはどのようにして「律法によって律法に死んだ」と言えたのか、という点です。この表現は、従来の理解に立つ聖書注解者の中でも、解釈に幅が見られる箇所であることも確かです。しかし、私としては、ここのパウロは、上に指摘したような、人としての正しいあり方を明確にするものとしての律法機能に言及しているように思われます。神がイスラエルの民と結ばれた契約の中にも、律法に従うなら命と幸いを得、従わないなら死と災いを受けるという内容が含まれていました(申命記30:15-20)。これは、律法の民族的証書としての機能に関わるものというよりは、(いくらかはユダヤ民族に限定的に与えられた規定を含むとは言え)神の御心を明確にするという機能に関わってのことと考えられます。そういう機能について考えたときにだけ、「律法によって律法に死ぬ」ということが成立しえるように、私には思われるのですが、どうでしょうか。(いかなる意味でパウロが「律法に死んだ」と言っているのか、という議論はまた別の論点となりますが、ここでの検討点とは異なります。)

第二に、3:19-24です。ここで律法は、まず「違反を促すため、あとから加えられた」と言われます(19節)。「あとから」というのは、アブラハムとの間で交わされた約束の「あとから」という意味で、その後、(モーセの時に与えられた)「律法」と(アブラハムの時に与えられた)「約束」が対照され、律法が約束の後で与えられたものに過ぎない点が指摘されます。しかし、21節では、「では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。」と書かれ、22節「しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」と続きます。そして、23、24節で、律法の役割がキリストに導く「養育係」としての役割であることが指摘されます。

これらの箇所について、従来の理解では、ここでの律法は、神の御心を明らかにするという機能について言及されており、「違反を促すため、あとから加えられた」とは、神の御心に従い得ない人間の反逆性を明らかにするために与えられたことを言い、「人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう」とは、律法が神の御心を明らかにするだけでなく、神の御心に従わせ、それによって人を生かす力を持つのだとすれば、義が確かに律法によって実現されたであろうことを言い、しかし、実際には律法にはその力がなく、ただ人の違反と罪を指摘し、自分の行いによっては義とされ得ない者であることを明らかにすることによって、救い主の必要性を悟らせ、キリストに導く養育係りとしての役割を果たしたのだ、というように理解されてきました。

従来の理解であれば、文脈理解が以上のように成り立ちうるのに対して、律法を「ユダヤ民族の民族的証書」としての機能に限定して理解しようとすると、これらの箇所の理解が困難になるように思われます。「違反を促すため」(19節、口語訳)「違反を示すために」(新改訳)「違反を明らかにするために」(新共同訳)と訳される表現は、直訳すれば「違反のために」となり、「違反に対処するために」とも訳すことが可能です。しかし、民族的証書としての律法機能を考えた場合、それがどう「違反に対処する」ことになるのか、また、ここでの言及が続く議論とどのように文脈がつながり得るのか、という問題が残ります。また、「人を生かす力のある律法」(21節)という部分を、律法の「民族的証書」としての機能に限定して考えたとき(すなわち、神の御心を明らかにするという機能を排除した形で理解したとき)、どう理解することができるのか。そして、22節の「聖書は」という言葉は、従来の理解では(神の御心を明らかにするという機能を持つものとしての)「律法」と入れ替え可能な表現として用いられていると理解されると思いますが、それまでの「律法」を「民族的証書」としての律法機能に限定した表現と理解する場合、それは果たして「聖書」と同義として用いられうるのか。あるいは同義でないとすれば、文脈はどう続いていると理解したらよいのか。このような疑問が自然に出てきます。

もしこのような疑問がどうしても晴らされないのであれば、これらの箇所での「律法」とは、神の御心を明らかにする律法機能との関連で語られていると理解せざるを得ないのではないでしょうか。

最後に、私にとって決定的と思われるもう一つの点は、ローマ人への手紙における「律法」の取り扱いです。ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙は、手紙が書かれた実際的目的・状況においては異なりますが、真正な福音を明らかにするという意図が手紙全体に行き渡っている点で重なる点が多く、福音、律法、信仰、義認といったテーマが共通して扱われています。ローマ人への手紙で律法がどう扱われているかは、ガラテヤ人への手紙での律法の取り扱い方を考える上で大変参考になります。ローマ人への手紙では、議論の中で取り上げられる「律法」の機能は、ユダヤ人の民族的証書としての機能について決して無視はしていませんが、議論の中心に来ているのは、神の御心を明らかにするという律法本来の機能であるように思います。詳細は、以下のローマ人への手紙の検討のところで扱いますが、ローマ2:17-22だけは、ここでの議論と深い関わりを持つ箇所として取り上げておきたいと思います。ここには、ユダヤ人の誇りが記されています。従って、一般的な意味での道徳主義者としての誇りとは違った、ユダヤ人民族としての誇りが取り上げられていることは事実です。すなわち、ここでの議論がユダヤ人の民族的証書としての律法機能に関連していることは確かです。しかし、なぜユダヤ人にとって、律法を持っていることが誇りとなるかについて、以下のように記されます。「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら」(ローマ2:17-20)。ここで、ユダヤ人が律法を持っていることに民族的誇りを持っていることの理由として挙げられているのは、「御旨」への知識の故であり、「律法に教えられて、なすべきことをわきまえて」いるからであり、「知識と真理とが律法の中に形をとっている」からであるとパウロは指摘します。すなわち、彼らの律法に対する民族的誇りの理由は、律法が神の御旨をこれ以上なく明確な形で表現し、伝え、教えているからであることが分かります。ローマ人への手紙の議論の中で、このことは、ユダヤ人もまた神の前に罪びとであるとの指摘につながります。すなわち、ユダヤ人も異邦人も共に罪のもとにあるのであって(ローマ3:9)、キリスト・イエスの贖いに基づき、イエスに対する信仰によって義とされる他ないとの指摘につながっていきます(ローマ3:24-26)。このように、ローマ人への手紙では、神の御旨を明らかにする律法の本来的機能が議論の中で明確にされています。(この点は、後のローマ人への手紙の検討のところで詳細に検討します。)ガラテヤ人への手紙における議論では、ユダヤ人の民族的証書としての律法機能に関心が向けられている分、神の御旨を明らかにする本来的な律法機能について、どこまで議論で触れられているのか、必ずしも定かではありませんが、ローマ人への手紙での取り扱いを参照する限りでは、特に義認用語と関わる文脈の中では、やはり神の御旨を明らかにする律法機能が前提とされているように思えます。

以上の点を踏まえると、ガラテヤ人への手紙が本来扱っていた「割礼問題」その他、異邦人クリスチャンが民族的証書としての役割を果たしてきた律法諸規定を守るべきかどうか、という問題を扱うに際して、パウロは律法の民族的証書としての機能に限定せず、神の御心を明らかにする律法本来の機能についても議論を広げたと理解することができるかと思います。その上で律法の限界を指摘し、キリストへの信仰のみが人を義とすることを訴え、律法の役割が人の罪性を明らかにし、キリストに導く養育係としての役割を果たしたのだと、パウロはこの手紙の中で律法を位置づけなおしたと理解することができます。

*ライトの主張*
【この文脈において、パウロが義認によって意味しているのは、「あなたがどのようにしてクリスチャンになるか」ということよりもむしろ、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」ということである。二種の人々がクリスチャン信仰を共有しているとすれば、彼らは先祖に関わりなく食卓の交わりを共有することができる。そして、このことすべては、十字架の神学に基礎づけられる。】

上記検討点において見たように、この手紙の中で律法が、ユダヤ民族の民族的証書としての機能に限定して語られているわけではなく、神の御心を明確な形で表現したものとしての本来の機能に言及した上で、その限界性を指摘し、そのような律法が人の罪を指摘し、そのことによってキリストへの信仰への養育係としての役割を果たしたのだとパウロが語ったとすれば、その文脈においての「義認」用語は、当然のことながら個人的救済論に深くかかわる用語として理解することが妥当となります。

かと言って、ここでの義認用語が、個人的救済論的意味合いに限定して理解すべき、とすることも行き過ぎのように思います。手紙全体の文脈は確かに教会論的問題を扱っており、「律法」も「義認」も、その文脈の中から取り上げ、論じられているわけですから、教会論的意味合いと個人的救済論の意味合いの両方を持つ用語として用いられていると考えるのがよいのではないでしょうか。

そして、そのように理解した場合の「信仰」による「義認」は、教会論的意味合いから言っても、個人的救済論の意味合いから言っても、十字架の神学に基礎づけられるというのは間違いのないところと思います(ガラテヤ1:4、2:20、4:5、5:14)。

なお、義認用語のマクロ的検討のところで見ましたように、ライトは改革派神学の線に従い、「信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが『なす』ことではない」と主張し(125頁)、「人が既にメンバーであると宣言するバッジである」と言います(132頁)。このため、義認用語を「あなたがどのようにして契約の子孫のメンバーとなることができるか」ということではなく、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」を表現したものと言います。微妙な表現の相違のようにも見えますが、ウェスレー主義の伝統の中で育った者としては、あまりに信仰に含まれる意志的要素を軽視した理解のように思われます。ただ、この点は、あまり細かい話であるので、深入りしないでおくのがよいかと思います。

○コリント人への手紙第一

*ライトの主張*
【キリストは私たちにとって神からの知恵、義、聖、贖いとなられた。」(1:30)この短い要約を「キリストの転嫁された義」という概念の根拠とすることはできない。パウロが言いたいポイントは、我々が持つ価値のあるすべてのものは、神からのものであり、キリストの内に見い出されるということである。】

指摘されている箇所は、確かに「転嫁された義」の教理の根拠となるようには思えません。おそらく、それは「根拠」というより、他のより詳細に「義認」が扱われた箇所から同様の教理が成立すると考えられた場合に、その教理をキャッチフレーズ的に表現しえる箇所として注目されてきた箇所、というのが妥当な理解ではないでしょうか。

○ピリピ人への手紙

*ライトの主張*
【3章2-11節でパウロはピリピの人々に、契約のメンバーシップについて語っている。】

この箇所で取り上げられている問題は、丁度ガラテヤ人への手紙で取り上げられている問題と重なっているように思われます。すなわち、パウロが呼びかけている「悪い働き人」「肉に割礼の傷をつけている人たち」は、ガラテヤ教会に影響を与えようとしていた、割礼主義的教え、すなわち異邦人クリスチャンもまた割礼を受けるべきとの教えをもたらす人々のように思われます。従って、パウロがここでこの問題をどのように取り扱っているかという問題は、ガラテヤ人への手紙をも参照にしながら検討すべきことであると考えられます。実際、この後取り上げられる3:9の内容は、ガラテヤ2:16の内容と重なる点を多く含んでいます。先に検討したように、もしガラテヤ人への手紙において、特に、2:16を含む箇所において、割礼主義的教えを個人的救済論の問題を含む形で取り扱おうとしたのだとすれば、ピリピのこの箇所においても同様の取り扱い方をしていると考えることは自然でしょう。従って、ここでパウロは、「契約のメンバーシップ」の問題として限定的に扱おうとしているか、個人的救済論を含む形で取り扱おうとしているかは、3:9についての以下の検討とも照らし合わせつつ、判断していく必要があります。

*ライトの主張*
【上記節で「義認」用語が現れる唯一の節は3:9である。それは「メンバーシップ」用語である。】

確かに3:2-11において「義認」用語が現われるのは、3:9のみですが、先に指摘しましたように、ガラテヤ人への手紙に見られる文脈との一致を考えると、ピリピ3:9は余りにもガラテヤ2:16と重なる部分が多く、パウロの「義認」用語理解において、決して軽んじることのできるものではないと思います。むしろ、ガラテヤ2:15-21の「義認」用語の用法と照らし合わせながら見るべき、大切な箇所と言うことが言えます。

その上で、ガラテヤ人への手紙で行った検討結果に照らして考えると、ピリピ3:9に現われる「義認」用語を、「メンバーシップ」用語としてのみ理解することは必ずしも妥当とは言えないでしょう。もちろん、ピリピのこの箇所の文脈からは、「メンバーシップ」用語として見ることはごく自然なことと言えます。しかしながら、ガラテヤ人への手紙の検討の際に見たような仕方で、ここでの「義認」用語を教会論的意味合いと同時に個人的救済論の意味合いを含めて理解することを妨げるものは特に見当たらないように思われます。

*ライトの主張*
【3:9で、パウロが自分はトーラーによる「自分自身の」義を持たないというとき、彼が拒絶しているのは道徳的あるいは自助的義ではなく、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態である。】

ここでも、ガラテヤ人への手紙で検討したことを踏まえると、パウロが律法を、ユダヤ人の民族的証書としての機能に限定して考えているわけではなく、神の御心を明確に表現したものとして理解することができます。そのような理解に立てば、「律法による自分の義」とは、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態を示すと同時に、神の御心を十分に果たすことを通して得られる「義」についても語っていると解することが可能です。

*ライトの主張*
【3:9で、パウロが得ているとされる義は、「ディカイスネー・エク・セウー」(神からの義)であって、神からの賜物である。パウロはここで、契約的「メンバーシップ」の立場が神からしか与えられないことについて語っている。】

ライトが指摘するように、ここでの「神からの義」は、「ディカイオスネー・セウー」(神の義)ではなく、「ディカイオスネー・エク・セウー」ですので、「神からの義」と訳すことができるし、それ以外には受け取られ得ない表現となっています。ライトは、パウロがここで、契約的「メンバーシップ」の立場が神からしか与えられないことについて語っていることを指摘しますが、「義認」用語についての上の検討を踏まえると、パウロは同時に、個人が神の前に「義」とされ、救いを得ることが、人間の行いによらず、神から賜物として与えられる以外にはありえないことについても語っていると理解することができます。

*ライトの主張*
【3:9における「信仰」は、契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない。】

この点もまた、ガラテヤ人への手紙の検討の際にも取り上げました。「信仰」に対するライトのこのような受け止め方は、改革主義神学的なものと言えます。「信仰」の中に人間の側の意志の要素がないかのような理解・表現には違和感を覚えますが、議論を深めることは差し控えたいと思います。

○ローマ人への手紙

ここでの検討点は、前章での「神の義」フレーズの検討の際に、かなり触れました。そこで書いた内容を踏まえつつ、各検討点について、なお具体的に検討していきたいと思います。

*ライトの主張*
【1:3-4は、パウロの福音の内容の要約を与える。パウロが「福音」と言うとき、イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを意味する。】

この点のライトの指摘は、示唆に富んでいます。「福音」と言ったとき、「人がどのように救われるか」に重点が置かれすぎて、キリスト自身が誰であり、何をなさったのかが、軽く扱われるとしたら、福音の中心点を踏み外していると言われても仕方ないでしょう。「この福音は(中略)御子に関するものである。」(1:2、3)との言明は、福音の中心に置かれるべきは御子ご自身であることを明確にしています。このことは、1:10で、「御子の福音」と表現されていることからも支持されます。

また、続く「御子」についての記述は、イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを含んでいるということもまた、現代の福音宣教の状況から見て示唆に富んでいます。これは、「キリスト」についての第3章での検討も踏まえると、ここでのメッセージは、イエス・キリストが全世界の王であり救い主であることの宣言としてのメッセージととらえることができると思います。

私としては、福音の中心は御子であることを確認する必要があると思いますし、イエス・キリストの主としての王的宣言を含むことを見失ってはならないと思いますが、同時に、このお方は全世界の救い主であり、福音はその内容として御子がもたらす救いについても語っていると受け止めたく思います。
この点は、次の検討点での検討を必要とします。

*ライトの主張*
【1:16-17は福音の「内容」ではなく、「結果」の要約を与える。】

この点については、前章での「神の義」フレーズ検討の際、いくらか言及しました。もちろん、そこでの第一の関心は、1:17の「神の義」フレーズの理解でしたが、その検討のためには、1:16、17で繰り返される「福音」への理解も欠かせませんでした。何しろ、「神の義は、その福音の中に啓示され」ると言われているからです。そこで、まず、そこでの検討の結果として提示させて頂いた「神の義」フレーズ理解を再述します。「『福音』の中に啓示されている『神の義』とは、人間の不義を指摘し、その罪悪に対して怒り、正当な報酬を与えようとする『神の報復的義』として、けれども同時に、そのような窮状にある人間に救いをもたらそうとする『神の契約的誠実』として、その結果として不義なる人間に与えられようとする『神からの義』として、重層的に理解することが可能です。」このような理解で「神の義」フレーズを理解する場合、それらのすべてが「福音」の中に啓示されているとすれば、福音の内容の壮大さを考えざるを得ません。こう考えるとき、「信じる者が救いを得る」ということもまた、福音の「結果」というよりは、福音の啓示の中にすっぽりと収まってしまうと考えるべきではないでしょうか。

1:2、3からは、福音が御子に関するメッセージを中心としていることが分かります。上記のような「神の義」に関わるメッセージの中心に御子が置かれるべきことは、その後のローマ書全体の内容を見ても、頷けます。

*ライトの主張*
【1:16-17は、「福音は救いの真の枠組みとしの信仰義認を啓示し、ユダヤ人の自助的道徳主義に反対する」ということを意味しない。福音は神の義(=神の契約的誠実)を啓示し、それは、世の罪をこの主イエス・キリストにおける契約の成就を通して取り扱うことである。】

この点については、既に書きましたように、1:17の「神の義」を総合的、重層的に理解するのがよいのではないかと思います。福音は確かに神の契約的誠実としての「神の義」を啓示しています。しかし、そのことは、人間の罪悪の現実に対して怒り、正当な報酬を与えようとする「神の報復的義」もまた啓示された上でのことであり、更にまた、そのような契約的誠実の結果として、神が御子を通して不義なる人間に与えようとする「神からの義」をも啓示していると理解する方向性を提案しました。このような理解の中では、「(福音を)信じる者が救いを得る」ということも福音啓示の中に含まれることになります。但し、「信仰による義人は生きる」との旧約聖書の引用が、同時にローマ書の内容全体を示唆する形でなされているとすれば、「信仰による義」は、それにとどまらず、神に対して新しく「生きる」ということも含み示唆されていると理解することができます。

*ライトの主張*
【ローマ人への手紙において義認の最初の言及は「行い」による義認の言及であり、見た所、それがパウロの是認を受けているように見える(2:13)。これを理解する正しい方法は、パウロが「最後の」義認について語っていると見ることである。】

この箇所の理解のためには、1:18-3:20の文脈を考える必要があります。この箇所についても、前章「神の義」フレーズの検討の中でかなり扱いました。1:17の『神の義』は、『救い』との深い関わりを持つこと、神の契約的誠実としての『神の義』が『救い』をもたらし、その結果として『神からの義』がもたらされるとの理解が可能ではないかと示唆しました。しかし、そこで語られている『救い』の内容は、この序論的段階では極めてあいまいであることも事実です。人間の『救い』のために、どうして『神からの義』が必要であるのか、『救い』や『神からの義』が具体的には何を意味するのかが当然問題となります。本論の一番初めの部分にあたる1:18以降は、この問題に答えるものと見ることができます。すなわち、人間の不義なる現実、すべての人間が神の怒りに直面していること、このことのために、人間から出発した『義』が解決にならず、『神からの義』がどうしても必要であること等を明らかにするのが、1:18-3:20の役割であると言えます。従って、この箇所は、異邦人だけでなく、ユダヤ人も同様に、不義なる現実を抱え、神の御怒りに直面していることが論証されます。

この内、まず1:18-32は、どちらかと言えば、異邦人の罪の現実を指摘しているように思われます。他方、続く2:1-5は、「人をさばく者よ」と呼びかけられているところから(2:1)、ユダヤ人の罪を指摘しているように思われます。続く2:6-11は、ユダヤ人も異邦人も同様に公正に神の裁きを受けることが記されます。その基準は、「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」ということです(2:6)。既に、1:17の「神の義」フレーズの検討でも触れましたように、そこには、「神の報償的義」が含み示唆されていることを指摘しました。従って、福音の啓示の出発点として、「神の怒り」の「啓示」も当然でした(1:18)。「神の報償的義」は、罪の現実に対して「怒り」を啓示するにとどまらず、不義に対しては相応の報いを与えようとします。このことにおいては、ユダヤ人も異邦人も区別がありません。このことを明確に表現したのが2:6-11であると理解できます。ちなみに、「わざに従って報いられる」という点について、ユダヤ人もギリシヤ人も同様であることの明確化は、福音が「ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも(略)救いを得させる」ことの前提として重要です。

続く、2:12-16の中に、問題の部分が現われます。しかし、ここまでの文脈を踏まえれば、理解はむしろ容易です。ユダヤ人もギリシヤ人も「わざに従って報いられる」と言ったとき、当然、ユダヤ人に律法が与えられている点がそのことにどう関わるのかが問題となります。しかし、その問いに対しては、その冒頭に明確な回答が与えらえます。「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。」(2:12)既にガラテヤ人への手紙で指摘しましたように、律法には、ユダヤ人の民族的証書としての機能を持つと同時に、神の御心を明確な形で提示するという機能を持っていました。ですから、「律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれ」ます。「律法なしに罪を犯した者」については、どのようにして神の御心を知ることができるだろうか。良心の判断がその回答として挙げられます(2:14-15)。これが「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び」ることの根拠となります。詳細については、私たちには知り得ない部分があり、「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日には、明らかにされるであろう」とパウロは言います(2:16)。

このような文脈の中で、2:13は極めて自然に受け取ることができます。「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。」この節は、ユダヤ人が律法を持っているが故に義とされることはありえないことを指摘し、神の御心を表現したものとしての律法に対して、これを行う者を義とするという、神の報償的義のあり方を表現したものと言えます。

ライトには、この部分が「行い」による義認について言及しているように見えるが故に、「不思議である」と指摘します。しかし、私が思うには、「信仰義認」の前提には、「わざに従って報いられる」ということがあるはずですので、何ら不思議ではないと感じます。

逆に、ライトの見方は、私には了解が難しく思われます。「これを理解する正しい方法は、パウロが最後の義認について語っていると見ることであると私は信じる。(中略)最後の日に擁護されるのは、その心と生涯において、神が律法、トーラーを書き込まれた人々である。パウロがこの手紙で後に明らかにするように、このプロセスはトーラーだけによっては果たされ得ない。トーラーがなしたいと願ったができなかったことを、神は今やキリストにおいて、御霊によってなされた。そこで問題が迫ってくる。これらの人々は誰であるか。」こうして、2:17-24において、それが民族としてのユダヤ人ではあり得ないことが指摘されるとします。ここでライトはローマ8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」に言及しているように思われます。確かにその言明は、2:15「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互に訴え、あるいは弁明し合うのである」という表現に近いように見えます。しかし、私が読む限り、2:15は、文脈上、律法を持たない異邦人がどのような基準に従って「わざにしたがって報いられる」ことができるのかを説明したものであり、「律法の要求がその心にしるされている」とは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと持っているはずの良心の機能について言及したものであり、決してローマ8:4において記されるような、信仰者が霊によって歩くことによって律法の要求を満たすようになることについての言及とは異なるものと思います。

*ライトの主張*
【2:17-24において、将来義とされるべき真の神の民は、民族によって定義づけられたユダヤ人ではありえない。】

「将来義とされるべき真の神の民」という表現は、上に記したような2:13についてのライトの見解を反映しています。すなわち、2:17-24の前の部分で、パウロは、神がキリストにおいて御霊によって律法の要求をその心にしるした人々について述べており、彼らこそが「義とされる」ことを書いているとした上で、2:17-24は、そのような「将来義とされるべき真の神の民」が誰であるかを取り扱っているとします。

しかし、上に書きましたように、私としては、2:12-16は、律法を持つユダヤ人も律法を持たない異邦人も同じように「わざにしたがって報いられる」ということが、どのようにして成立するのかを説明した箇所と考えます。そうすると、2:17以降は、ユダヤ人に焦点を置いた上で、「わざにしたがって報いられる」としたらどういう結論が導かれるのかを示すために、ユダヤ人のわざがどんなものかを指摘する箇所と理解できます。すなわち、彼らは自分たちは律法を持っているが故に、「御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえて」おり(2:18)、それゆえに、「自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じて」いながら(2:19、20)、盗み、姦淫し、宮の物をかすめるなどして、律法に違反していることをパウロは指摘します(2:21-23)。

続く2:25-29は、本書では特にライトの言及はありませんが、ガラテヤ人への手紙との関連で大切な箇所でもあるので、簡単に触れます。ここで取り上げられる問題は、ユダヤ人が割礼を受けていることが2:17-24に記されたようなユダヤ人の不義の問題とどうかかわるのかという点です。その答えは、「律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう」というものです(2:25)。ガラテヤ人への手紙の検討の際に触れたように、律法には、神の御心を明らかにするという面と共に、ユダヤ人の民族的証書としての役割がありました。ライトは、ガラテヤ人への手紙の検討において、律法のユダヤ民族としての証書としての役割が議論の焦点となっていることを示唆していますが、ローマ2:17-29では、律法に両方の機能があることを踏まえた上で、「わざにしたがって報いられる」神の前に重要なのは、神の御心を明らかにするという律法機能であり、「割礼」その他のユダヤ民族の証書として機能する外的諸規定は、律法によって明らかにされた神の御心に従う民となっていることを示すはずのものであって、ユダヤ人が律法を犯している場合には何の役にも立たないことを指摘しています。

*ライトの主張*
【3:1-9の問題は、もし神の契約の民が神に不正を行ったとすれば、神はいかにして契約に対して真実であり得るのか、である。】

2:17-24を受けて、3:1-8は、確かに、ライトが指摘する通りの問題を取り扱っていると思います。3:1-2で、ユダヤ人が神の言葉を委ねられた特別の民であることを確認した上で、そのような民が不義を行ったとすれば、神は真実であると言えるのかと言う問題が取り上げられます。もちろん、ユダヤ人の不真実によって神の真実が否定されるべきではありません。そのような状況の中でも神の真実が貫かれることをパウロは主張しています。

ここで、神の契約的真実としての「神の義」フレーズが登場します(3:5)。1:18以降、「神の報償的義」がクローズアップされてきました。しかし、人間の側の不義によって、神の真実が損なわれるわけではありません。むしろ、神はここで「神の契約的真実」としての「神の義」が指摘され、そのことが3:21以降のキリストによる「神からの義」の恵みのクローズアップにつなげられようとします。

*ライトの主張*
【3:19、20、罪の故に、異邦人ばかりかユダヤ人も創造者の前に擁護なく裁判にかけられている。これはローマ3:21-31への道を備えている。】

3:9-18は、ユダヤ人も異邦人も罪の下にあることの指摘です。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という指摘は(3:9)、ユダヤ人もギリシヤ人も、わざにしたがって報いられるという指摘と共に(3:6)、ユダヤ人もギリシヤ人も救いを必要とするということの前提を提供するものです(1:16)。これを受け、続く3:19、20は、そのような現実を踏まえて律法がどんな役割を果たすのか、再確認されている箇所です。「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである」(3:19)とは、律法が神の御心を示し、律法のもとにあるユダヤ人たちもまた神のさばきのもとにあることを明らかにしていることを示唆しているものと思われます。続いて、「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」と続きます(3:20)。律法が神の御心を明らかにする一方で、人は神の御心に従い得ない故に、律法によっては罪の自覚が生じるという結果がもたらされる以外にないことになります。従って、ここで「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」の意味は、単にユダヤ民族の証書としての律法機能だけでなく、神の御心を明らかにする律法機能に基づく言及として理解できます。

*ライトの主張*
【3:21以降で、問題に対する神の解決が明らかにされている。神は今や、真のユダヤ人、メシア、イエスを通して、ご自身の義(=契約的真実)を明らかにした。】

3:21以降では、3:20までの文脈で指摘された問題が、真のユダヤ人、メシア、イエスを通して与えられることが示されているということについては、その通りと思います。また、このイエスを通して、「神の義」が現わされたということが、この部分でのテーマとなっていることも確かです。ただ、ここでの「神の義」が「神の契約的真実」としてのみ理解できるかと言えば、前章の検討で示しましたように、必ずしもそうは言えないと考えます。4回登場する「神の義」フレーズは、旧約聖書からの大きな文脈からはいずれも「神の契約的真実」として理解されることが可能なように見えますが、直近の文脈を子細に調べると、「神からの義」(21節、22節)や「神の報復的義」(25節、26節)としての意味合いを含み持つように思われます。これらの意味合いを無視して、4回の「神の義」フレーズを一律に「神の契約的真実」としてのみ理解することは、逆にここでのパウロの言葉の重層性、深さと広がりを無視することになるのではないでしょうか。

*ライトの主張*
【パウロが3:27において排斥している「誇り」は、成功的道徳主義者の誇りではなく、ユダヤ人の民族的誇りである。3:29参照。彼はここでも、ユダヤ人の民族的特権に基づいて契約的メンバーシップに入る道はないということを主張している。】

3:29に注目したライトの説明は、それなりに説得力を持ちます。3:27における「誇り」を成功的道徳主義者の誇りか、ユダヤ人の民族的誇りかと、二者択一の問題として捉えれば、3:29において、「それとも、神はユダヤ人だけの神で在ろうか。また、異邦人の神であるのではないか。」という指摘がある以上、3:27の「誇り」はユダヤ人の民族的誇りを言っているもの理解する他ないように見えます。

しかし、これまで見てきたように、パウロの律法に対する言及は、神の御心を明らかにするという機能とユダヤ人の民族的証明としての機能の両方を考慮に入れたものとなっています。2:17、18において、「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」とあるのを見れば、ユダヤ人の民族的誇りは、「律法を通して他の民族が達しえないほどに明確に神の御心を知らされている」という点にあったと考えられます。すなわち、律法を通して他の民族よりもはるかにまさって神の御旨を知らされている自分たちが、その律法を行うことを通して、神の前に義とされるはずだという誇りが彼らにはあったと考えられます。そうしたユダヤ人の考え方に対して、パウロはこれまで、律法によって神の御旨を知らされているはずのユダヤ人もまた、異邦人同様に神の御旨に背き、罪のもとに歩んでいることを指摘してきました(2:21-23)。このことが、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という指摘につながっています(3:9)。3:19、20は、再度、「律法のもとにある者たち」に焦点を当て、律法を持っていることを誇りとしてきた彼らであっても、「神のさばきに服する」ことを避けられず、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と指摘します。そのような中で、「神の義が、律法とは別に・・・現され」ます。ここでの「神の義」は、「神の契約的真実」を背景としつつも、「神からの義」として理解できます。それは、「すべての人は罪を犯した」という現実下で与えられる「恵みにより、キリスト・イエスによるあがない」による義であり、「イエスを信じる者」が義とされるというものです(3:23、24、26)。

こうした流れを受けて、「すると、どこにわたしたちの誇があるのか」と問われます(3:27)。これまで、パウロは、「わたしたち」を主にユダヤ人読者を意識して語っているように思われます(3:5、9)。2:17において、ユダヤ人たちによる律法の誇りを指摘していることも踏まえると、ここでは、一般的な意味での「成功的道徳主義者の誇り」というより、ユダヤ人としての誇りが扱われていると見ることが自然です。しかし、ここではひとまず、「行いの法則」と「信仰の法則」とが対照されていますので、ユダヤ人だけに限定した話でなく、異邦人にも当てはまる形での言及となっています。そういう意味では、ここでの「誇り」の内容は、単に「民族的誇り」と限定的に見ることのできるものというよりは、異邦人の道徳主義者の誇りとも繋がり得る性質のものと見ることができるのではないでしょうか。

3:28においても、「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」とあるのも、主にユダヤ読者を意識してのものと言えるでしょう。ユダヤ人が誇りとしてきた「律法の行い」を通して義とされる道は閉ざされ、キリスト・イエスの贖いに基づく、信仰による義の道が開かれたことの宣言です。これは、「律法の行い」によって、自分達だけが神の前に義とされようとするユダヤ人たちのアジェンダを打ち砕くものでした。

従って、続く3:29は、「それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。」とあるのは、神がユダヤ人の神であるだけでなく、全世界の神でもあるという当然の事実を指摘しながら、ユダヤ人だけが義とされようとする「律法の行いによる義の道」でなく、「信仰による義の道」が開かれたことを補足するものとして受け取ることができます。

但し、繰り返しになりますが、ここでの「律法」は、ユダヤ人の民族的証明機能だけに注目して語られているのではなく、神の御心を明らかにするという本来の機能に注目した上での議論であることを踏まえる必要があると思います。すなわち、ここでの議論は、確かにユダヤ人についての議論ではあるのですが、異邦人にも拡大適用させることが可能な形で議論が進められていると見ることができます。

*ライトの主張*
【この文脈において、「義認」は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。彼らは比喩的な法廷において「義」であるという立場を与えられる。これが契約的用語で置き換えられると、彼らは将来見られるはずのもの、すなわち真の神の民であると、現在宣言されるということを意味する。現在の義認は将来の義認が全生涯に基づいて公けに主張するであろうものを(2:14-16と8:9-11による)、信仰に基づいて宣言する。そして、この宣言をする際(3:26)、神ご自身は契約に対して真実であられたことにおいて正しい。福音はこうして義、すなわち、神の契約的真実を啓示する。】

ここでの論点は、ライトの「義認」理解の要約とも言えます。「義認」用語のユダヤ的背景に基づき、「契約」的、「法廷」的、「終末論」的用語としての理解が示されています。以下、これら個々の視点に即して、積極的及び消極的評価を与えてみたいと思います。

まず、契約的理解の中から、共同体論的、教会論的理解が出てきます。確かに、パウロの議論では、常にユダヤ人の位置づけに関心が向けられ続けていますので、余りに個人的救済論の枠組みだけでとらえられてきた「義認」用語に対して、教会論的視点で見るようにとの示唆は、意義あるものと思います。ただ、ライトの表現には、逆に個人的救済論的な視点を排除しようとする傾向を感じ取ることができます。これまで見て来たように、「義認」がユダヤ民族の枠を越え、異邦人をも含めたものとされるために、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という指摘がなされます。そして、神のご計画における「神の民」全体への関心の中に、「すべての人は罪を犯した」という、普遍的な人間理解が提示されています。これに対し、「神からの義」としての「義認」が提示されますが、これは民族の枠を超えて全世界が直面する窮状に対する神の解決の提示となっています。従って、ここでの議論は、教会論的にと同時に、個人的救済論的にも大切なものとなっています。

また、ライトは「義認」の「法廷的」要素を認めます。ライトはこれをも常に契約的文脈の中に位置づけるため、若干、見逃されやすい面かもしれませんが、法廷用語としての「義認」用語理解をライトは維持していることは見逃すべきではないと思います。ただ、義認用語の法廷的側面を指摘する際、ライトはほとんどの場合、「比喩的」とか「メタファ」という用語を使いますが、この点、私としては、いくらかの危惧を持ちます。確かに、終わりの時の神の裁きが具体的にどんなものとなるのか、子細には示されない以上、「法廷」的ということはいくらか比喩としての要素を持つことは避けられないことでしょう。そういった意味で、ここでの法廷的要素は、メタファとしての要素を全く持たないとは言えません。しかし、パウロのここまでの議論において、「神の報復的義」の故に、「神の怒り」が啓示されていること(2:18)、「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」こと(2:6)、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」故に(3:9)、「すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服する」ことが避けられないことを指摘しています。このようにしてパウロが鋭く示す人間の窮状に対して、「比喩的」「メタファ」といった言葉が繰り返されることによって、多少なりともあいまいな理解に流れる要因になるとしたら、それはパウロが語っていることをゆがめることになるのではないか、という危惧があります。これは、読む側の問題になるのかもしれませんが、ライトは「義認」用語の法廷的要素と関連して「メタファ」という言葉を用いる際、どういう意味で「メタファ」なのかほとんど説明していないことがそういった危惧を生む要因となっているとも言えそうです。

次に、「終末論」的要素ですが、従来、聖書の示す救済論を終末論的に位置づけなおそうとする試みは、聖書神学の分野で長く取り組まれてきたと思います。しかし、プロテスタント神学の基礎とも言える「義認」用語を終末論的に捉えなおすこ取り組みは、それほど大規模にはなされて来なかったように思います。それだけに、ライトの「将来の義認」といった表現は、議論を呼びやすかったかもしれません。しかし、ガラテヤ5・5を見れば、パウロが「将来の義認」に一切言及していないということは言えません。ただ、「義認」に関するパウロの複雑な議論をどのように理解するかによって、「義認」用語と終末論との関わらせ方は少しずつ違ってくるように思います。私としては、ローマ2:16は確かに将来の義認について言及したものとは思いますが、ここでの文脈は、ユダヤ人も異邦人も同様に神の裁きの対象となることを示すものです。続く結論としては、ユダヤ人も異邦人も同様に罪の下にあるということが示され、従ってここからどうしても「神からの義」が必要となることが示唆されます。その後、「神からの義」がいかにして新しい生き方に結びつくかが示され(6章)、その終局として肉体の復活にまで至ることが指摘されます(8:9-11)。2章において議論される「将来の裁き」は、信仰によらず神の前に立とうとするあり方との関わりで言及されており、8章33節等において議論される将来の「義認」は、信仰によって神の前に立った者との関わりで言及されています。同じく「将来の義認」についての言及であることに間違いはないでしょうが、不信仰者にとっての「将来の義認」と、信仰者にとっての「将来の義認」とを不用意に同一視することは混乱を産むように思われます。

最後に、再び、ライトは、「義認」用語の「契約的」側面を指摘します。3:26より、「イエスを信じる者を義とされる」ことと、「神みずからが義となる」こととが結び付けられており、イエスへの信仰による者を義とすることが神の契約的真実を立証すること、こうして「神の義」、すなわち、神の契約的真実が示されると指摘します。この点については、これまでも何度か触れましたが、3:21-26に現われる4回の「神の義」フレーズの背後に、「神の契約的真実」としての意味合いがあるとの指摘は、旧約聖書からの大きな文脈を踏まえれば、見逃すことのできない大切な視点であると思います。ただ、パウロのここでの議論をより詳細に見ていくと、ここでの「神の義」フレーズが、「神の契約的真実」としての意味合いを背景としつつも、「神からの義」(21、22、26節)や「報復的義」(25、26節)としての意味合いをも浮かび上がらせていると私は理解します。この内、ライトがここで指摘する3:26に現われる「神の義」フレーズは、「神の契約的真実」としての意味合いを背景としつつも、「神の報復的義」と「神からの義」の両方の意味合いを合わせ表現していると考えられ、パウロの「神の義」フレーズが持つ重層的意味合いのすべてを込めて用いられた表現と言うことができると思います。

*ライトの主張*
【ローマ4章は、今や福音において開示された聖書的契約的神学の解説である。パウロがアブラハムの信仰は「義と認められた」(4:5)と語る時、信仰が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。このことはこの種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。この章の強調点は、それゆえ、契約的メンバーシップが割礼によってではなく(4:9-12)、民族によってでもなく、信仰によって定義づけられることを意味する。アブラハムはこの神、死者をよみがえらせる神を信じる故に、信仰において強くなった(4:19-21)。この信仰は、彼が「した」ことではなく、彼がその民のメンバーであることを示すバッジである。】

ローマ4章について、ライトは、「福音において開示された聖書的契約的神学の解説」と要約します(129頁)。章全体に渡りアブラハムについての議論がなされているところから、創世記15章におけるアブラハムとの契約をバックボーンとした「契約的神学の解説」と理解しようとするものです。ここでも、旧約聖書からの大きな文脈から見ればその通りであるのですが、ローマ書の直近の文脈から見れば、3:21からの議論を踏まえ、ユダヤ人の祖アブラハムが「義とされた」ということの理解を求める流れになっています。

4:1-5でパウロは、アブラハムの場合、「行いによって義とされた」のでなく、「信仰が義と認められた」ことを指摘します。ここでの「行い」は、モーセに律法が与えられる以前のことですので、民族的区別を与える行いとは理解できません。また、4:6、7で、アブラハムの議論の間に挟まれた形でダビデの場合を取り上げます。ここでは、詩篇の引用の形で「罪の赦し」が明確に表現された上で、「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている」と指摘していますので、「行いがなくても神に義と認められる」ということが「罪の赦し」とほとんど同じであることが示唆されています。4:9-12は、割礼との関わりでアブラハムの場合を調べます。アブラハムが義と認められたのは、割礼を受ける前であったので、本来、割礼とは「信仰によって受けた義の証印」としての役割を持つことを示唆します。4:13-16前半では、アブラハムとの関わりで律法の問題を考えます。アブラハムとの契約が律法に基づいて与えられたのでなく、信仰の義によって与えられたことを指摘し、この契約にあずかるべき子孫とは、「律法に立つ者」だけでなく、「アブラハムの信仰に従う者」にも保証されると言います(4:16)。4:16後半-25は、アブラハムが「わたしたちすべての者の父祖」であって、アブラハムの復活信仰(4:17)と私たちの復活信仰(4:24)の連続性を指摘します。

「ローマ4章は、しばしば示唆されるように抽象的教義に対する切り離された『聖書からの証拠』ではない。」(129頁)というのは、ここでの議論が、「抽象的議論」とは言えないので、必ずしも間違いではないと思いますが、パウロが3:21以降示してきた議論を支えるために、父祖アブラハムの場合を示しているのは事実で、「聖書からの証拠」という要素が全くないとは言えないと思います。但し、パウロがこれまで進めてきている議論は、常にユダヤ人を視野に置いて進められてきていることは見逃すべきではないと思います。

ライトはここで、「信仰が罪赦された家族のバッジである」という言い方をしますが、それ以前に、信仰が「契約的メンバーシップの真のバッジである」と主張します(129頁)。従来、「罪の赦し」という視点が優先的であったとすれば、その優先順位を逆転させたと言えるでしょう。「契約」的視点は、忘れてはいけない視点だと思いますが、そのことによって、パウロの議論の筋道を見失ってはいけない、とも思います。

*ライトの主張*
【パウロはローマ5-8章において、この福音を信じるすべてのものが真の、罪赦された神の民であり、こうして将来の救いが保証されていること、その救いは神の世界すべての更新の一側面として、彼らの復活を含むということを議論する。】

ここでのライトの指摘は、5-8章について、ごく概略的に述べている部分です。救いの終末論的側面、宇宙論的側面、そして復活の希望の指摘を含み、ライトらしいまとめ方です。聖化に関わる箇所でもありますが、その関わりでの検討は、次章でなされています。

*ライトの主張*
【5:12-21においてパウロは、事実上以下のように言う。契約内の神の目的はアダムの罪を扱うことだ。今やキリスト・イエスにあって、それが正確に神のなさったことだ。】

5:12-21のこの箇所について、ライトは、神のご目的の中で、神がキリスト・イエスにあってアダムの罪を取り扱われたとの要約の仕方をします。「契約内の神の目的」との表現(130頁)がライトらしい部分ですが、この部分と「契約」との関わり方は、詳細は不明です。「アダム契約」「アブラハム契約」などと分ける考え方からすれば、「アダム契約」との関わりを考えることができるのかもしれませんが、その辺のところは本書には触れられていません。

*ライトの主張*
【トーラーは奴隷状態を提供することができるだけだ。しかし今や(8:1-4)、神はトーラーが実際にはしたかったことを果たされた。神は世に命を与えられた。】

この点は、ローマ2章の検討部分でも触れられていた点で、ライトの注目点の一つと思われます。いわゆる聖化の問題について、律法と聖霊との関わりから扱います。

*ライトの主張*
【その命は最終的には人間だけでなく全宇宙を罪と死の結果から解放する効果を持つ。8:31-39でほめたたえられているのは、福音と義認とのこの結果である。そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており、それはすべてのキリスト者の復活、今の苦難の後の彼らの擁護から成っている。】

ライトの宇宙論的視点、あるいは終末論的視点がよく表わされています。8:31-39について、「そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており」(130頁)とある点は、私としては、「終末論的な最終的義認に至っており」としたく思います。

*ライトの主張*
【ローマ9:30-10:21は、神がイスラエルの歴史においてなされたことの結果を描き出す。神はイスラエルの召命をメシアにまで狭めた。その結果、彼の死によって、ユダヤ人も異邦人も同様に、すべての者が救いを見いだすようになるのである。こうして、異邦人は信仰によって特徴づけられた契約的メンバーシップを発見する一方で、イスラエルは契約的メンバーシップを定義づけたトーラーに固執した結果、トーラーに達しなかった。その結果、イスラエルは神の契約的目的、神の義に従わなかった(10:3、4)。というのは、キリストは律法の終り、あるいはゴールだからであり、その結果、信じるすべての者が契約的メンバーシップを受けるのである。】

ライトはローマ9:30-10:21を取り出しますが、9-11章が全体としてイスラエルの問題に焦点を当てていることは比較的明瞭だと思います。それ以前は、「ユダヤ人」という表現を用いていたのが、これらの章では、「イスラエル」という表現が多用されていることも、歴史を導かれる神の目的の中にイスラエルを位置づけようとする表れとも見られるかもしれません。この中で、9:30-10:21は、イスラエルが律法によって義に達しなかったという点を詳述します。よくなされるように、9-11章を、この手紙の中で特殊な主題を扱う章として見るのでなく、むしろ、手紙全体で取り組まれてきた課題のクライマックスとしてライトは描いています。「契約的」という表現が繰り返されるあたりに、ライトの視点が表わされます。

10:3の「神の義」フレーズを「神の契約的目的」と言い換えているところについては、前章で検討しました。私としては、「神の契約的真実」として読む理解も有力ではありますが、そのような意味合いを背景としつつ、ここでも「神からの義」としての意味合いを汲み取るのが、直近の文脈には適っているかと思います。

*ライトの主張*
【キリストは契約的目的を達成し、それらを神によって定められたクライマックスに導かれた。今やその目的は達せられ、残るものはミッションである(10:9~)。】

契約的目的の達成から、ミッションへの移行という視点は、参考になります。ただ、10:9ー21の部分は、9:30-10:8からの議論を引き継いでおり、イスラエルが律法によって義に達しなかったということを、福音宣教との関わりで確認した箇所と思います。11章まではやはりイスラエルの問題に焦点が当てられ続けており、キリストにある新しい生き方が詳論されるのは、12章からと考える方が私としては分かりやすいです。

(6)所感

長々と検討してきました。暫定的とは言え、パウロの「義認」用語に対するライトの見解に対して、自分自身の立ち位置が少し見えてきたように思います。マクロ的な視点としても、ミクロ的視点にしても、随分教えられることも多く、特に旧約聖書からの大きな文脈を大切にする視点、ユダヤ人の位置を考える視点等、今後自分なりによく消化していきたく思いました。ただ、いわゆる「義認論」に直接かかわるような釈義的諸論点については、ライトの視点や見解を自分なりに考慮しつつも、結果的にはかなり保守的な理解にとどまったように思います。ただ、ここで示した私の見解は、現時点での暫定的なものに過ぎません。ガラテヤ人への手紙とローマ人への手紙の比較や、そこでの律法、義認、福音の位置づけの問題等、今後、ライトの注解書や、関係書籍を少しずつ読みながら、なお検討を深めたいと思います。

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第7章 義認と教会(その2)

2016-09-21 21:02:47 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

おそらく、本書が論争の的となる要因のほとんどは、この章の内容にあると見てよいかと思います。この章におけるライトの主張が、伝統的な義認論に対して、修正を迫っているように見えるからです。更には、義認論に関連する形で、福音理解についても重要な主張を展開しています。様々な要因が複雑に絡み合っていますので、できるだけ整理しながら、コメントしてみたいと思います。

1.「ライトの義認論」とは何か

今年の第6回日本伝道会議でも、「ライトの義認論」についてのディベートが分科会の一つとして行われます。国内ばかりか、世界的にも注目され、議論されているテーマでもあるので、注意深い取り扱いが必要かと思います。ただ、「ライトの義認論とは何か」というテーマについて、私が書き得るのは、本書に記されている範囲内にほぼ限られています。あくまでも「本書を読んで私なりに理解したところ」とご理解の上お読みいただければと思います。

ここで、「伝統的義認論」とは、保守的なキリスト教理解における一般的義認論を意味します。本章を読めば、ライトが伝統的義認論に対して何らかの修正を迫っているように見える、という点では、ほとんどの読者が一致するだろうと思います。ただ、それでは、伝統的義認論に対して、ライトはどの点で修正を迫っているのか、という点では、相当のばらつきが出るかもしれません。私自身、本書、特に前章、本章を読み返しながら、「伝統的義認論とどこが違っているのか」、「伝統的義認論のどの点に修正を迫っているのか」、何度も考えさせられました。もちろん、「伝統的義認論とどう違っているか」という問題の前に、「ライトの義認論とは何か」という課題があります。そして、実は、「ライトの義認論とは何か」という課題に答えること自体がかなりやっかいな課題であるとも痛感させられています。ここでは、本書を読んだ限りでの私の見方をまとめてみたいと思います。

(1)「ライトの義認論」理解のための基本的ポイント

まず、「ライトの義認論とは何か」を考える上で、見逃してはならないと思われるいくつかの基本点を挙げてみます。

a.ライトは(少なくとも)本書において、「パウロの」義認論を扱っている。

本書のタイトルは、「聖パウロが実際に言っていること」です。従って、本書が「義認論」を扱う際、実際に扱っているのは、「パウロの義認論」であって、新約聖書全体の義認論を扱っているわけではない、ということです。伝統的義認論の構築において、パウロの手紙が大きな役割を果たしてきたのは事実ですが、福音書やヘブル人への手紙も一定の役割を果たしてきました。その意味で、本書が取り扱っているのは、基本的にパウロの義認論に限られていることに注意する必要があります。

b.ライトは、基本的にはパウロが用いる「義認」用語の正確な理解を問題にしている。

更に重要な点は、ライトが本書で扱っている「パウロの義認論」とは、基本的には用語理解の問題だという点です。ライトの主張は基本的にはあくまでも新約学者としてのものです。すなわち、ライトの本章での取り組みは、伝統的義認論が重要視してきたパウロの用語(「ディカイオー」「ディカイオスネー」)を用いる場合、それは正確にはどのような意味合いを持つものとして用いていているのかを追求したものだということです。ですから、ライトが「パウロの義認論は~である」と言った場合、これを従来の組織神学で用いられてきた「義認論」と受け取ると意味が通じなくなります。そういったライトの表現は、それ自体では伝統的義認論に対抗して語っているわけではなく、パウロが使っている「ディカイオー」「ディカイオスネー」といった用語をどのような意味合いで使っているか、あくまでも、新約学者としての判断を基礎としながら、それらの用語理解への提言を行なっていると受け取ることができます。しかし、そのことがかなり分かりにくくなっているのは、ライトが用語理解の問題と絡めつつ、その用語を理解するための新たな枠組みの提言も同時に行なっているからではないかと思います。(このことについては、(c.)で取り上げます。)ですから、単なる「用語理解の問題」では収まらない主張に至っているのは事実ですが、そうではあっても、基本的には用語理解の問題が根底にあるという基本線を忘れてはいけないと思います。

たとえば、ライトは次のように言います。「パウロは実際、教会が『義認』と呼んできた主題について語っているが、彼はそのために『義認』という用語を用いない。」(117頁)。すなわち、伝統的義認論が内容とするところをパウロが語っていることを、ここでライトは否定しておらず、むしろ、肯定していることは注目すべきことです。しかしながら、伝統的義認論が内容とするところを言いあらわすためにパウロは「義認」という言葉を用いていない、という主張です。

c.ライトは、パウロの「義認」用語を正確な理解するための新たな枠組みを提言している。

他方で、ライトはこのような用語問題をより大きな枠組みとの関わりで理解しようとしているため、単なる釈義上の問題を越え、神学的に新たな枠組みを生み出すものとなっています。その結果、一見、伝統的義認論(組織神学的な枠組み内の)と対抗する別な組織神学的枠組みが作られたように見えますが、むしろ、従来の組織神学とはかなり違ったアプローチからの神学的枠組みから、これらの用語を理解し直そうとする試みのように見えます。

その枠組みがどんなものであるかをひと言で言うことは難しく思われますが、私なりに要約してみれば、「神が世界と人とを扱う大きなご計画(アジェンダ)」と言えるでしょうか。特に「義認」用語の理解に関して言えば、本書におけるキーワードとして繰り返し現れる、「契約」、「法廷」、「終末論」といった側面を含み持ちつつ語られるものになると思います。それは、これまでの組織神学的枠組みとはかなり違ったものであり、それはライト自身自覚しつつ、より聖書の文脈にかなった枠組みとして提唱しているように見えます。

(2)「ライトの義認論」の内容

このように考えますと、単純化して言うならば、ライトの義認論は、パウロの「義認」用語理解としての側面(ミクロ的側面)と、それを正しく理解するための枠組み(マクロ的側面)から成っていると見ることができます。このような視点で、ライトの義認論の内容をより具体的にまとめてみたいと思います。まずは、ライトの記述の順序に従って、マクロ的側面を先にまとめ、次いでミクロ的側面をまとめてみます。

a.(マクロ的側面)パウロの「義認」用語を正しく理解するための枠組み

ライトが主張するこの枠組みがどのような性質を持ったものなのか、特定することはなかなか難しいことですが、いくつかの重要な要素を指摘することができます。まずは、本章に入る以前に、既に本書の最初の方の章で明らかにされている要素を取り上げます。
・歴史性:ライトはしばしば、「非時間的な救いのシステム」について否定的な言及をしています。そこには、歴史性を踏まえない救済論を避けようとする強い意志が表現されているように思われます。ライトが提示する枠組みは、常に神のご計画の歴史的展開を意識しています。
・イスラエルの位置づけ:ライトが神のご計画の歴史的展開について言及する際、そこには必ずイスラエルを中心的な要素として据えます。これは、本書全体でも言えますし(2章等)、本章において、義認を扱う際にも、「パウロのユダヤ教的文脈における義認」という節を設けて、タルソのサウロの持つ世界観、アジェンダの中で義認がどのように扱われていたかを指摘しています。
・十字架と復活の中心性:同時に、この枠組みにおいてクライマックスとなるのは、イスラエルの代表としてのイエスの十字架の死と復活です。(3章等)
・主であり王であるイエス:十字架は罪と死、悪の力に対する決定的勝利として捉えられ、それ故復活されたイエスは、イスラエルと全世界の主であり、王であることが強調されます。(3章)
・福音とは、このようなイエスの主権性・王性の宣言である。(3章)

ここまでは、本書の初めの諸章で提示されている部分です。実はこれらの諸章の中で、既に「義認」用語の理解に関わる言及がなされています。すなわち、2章「タルソのサウロのアジェンダ」の中で、「義認」用語が取り上げられ、1世紀ユダヤ教が「義認」をどのように理解し、受け止めていたかを指摘しています。そこで既に、「義認」用語を理解する鍵として、「契約」「法廷」「終末論」といった要素が強調されています。

パウロの義認理解の前提としてのタルソのサウロの義認理解は、本章の中でも取り上げられ、「パウロのユダヤ教的文脈における義認」という節にまとめられます。ここでは、イスラエルの望みとしての契約の成就が法廷的用語としての「義認」で表現されること、それは同時に終末論的なものともなるという指摘がなされます。加えて、この望みが成就することは、ある状況下で「期待される」ことを指摘した上で、次のように書いています。「関係するのは、最終的な終末論的決着に先立つ真のイスラエルの定義である。この状況下での義認は、従って、『いかに人は真の神の民の共同体に入るか』ではなく、『誰がその共同体に所属しているかをどのようにして語るか』である。」(119頁)このようにして、タルソのパウロはじめ、1世紀ユダヤ教の文脈での「義認」が、イスラエルとの契約の成就としての「義認」が終末論的なものであることを前提としたうえで、そのような終末論的「義認」を望みうる「真の神の民が誰であるか」を告げるものでもあることが指摘されます。

パウロの義認理解は、このようなタルソのサウロの義認理解の「形」を継承していることをライトは指摘します。「パウロは、通常、ユダヤ教の教義の『形』を保持し、それを新しい『内容』で満たす。」(132頁)との一文が、そのような理解を端的に表現しています。継承された「形」とは、義認が「契約」の成就の法廷的側面を表す用語であって、終末論的でありつつ、今この時、そのような終末論的な契約の民とされていることの宣言でもある、といった側面をさすと考えられます。他方、このような「形」に満たされた新しい「内容」とは、誰がそのような終末論的な契約の民とされているか、契約的メンバーシップのバッジが、ユダヤ教で考えられていたように、安息日、食物規定、割礼といった「律法の行い」ではなく、「信仰」だということになるでしょう。ここでの信仰とは、「イエスは主であるという告白、神はキリストを死人のなかからよみがえらせたという信仰」、「福音のメッセージ、イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストを通して定義づけられた真の神の告知に対する信仰」ということになります(132頁)。

以上のような枠組みの中で、注目すべき一つのことは、「義認」と「福音」との関わらせ方です。伝統的理解では、「信仰義認」は「福音」の全体ではないとしても、少なくとも中核的な一部分と見られてきたと思います。しかし、ライトの主張においては、「それ(義認)は福音によって『暗示されている』」と言われます(132頁)。すなわち、「福音が宣言される時、人々は信仰に至り、神によって神の民のメンバーとみなされる」と言います(132、133頁)。ここでは、義認が福音宣言の結果として起こってくるものであるという位置づけがなされています。福音は、「人々がいかにして救われるかの説明ではない。それは以前の章で見たように、イエス・キリストの主性の宣言である」ということですので、信仰義認が福音の中に含まれるとは考えないわけです(133頁)。かと言って、義認と福音との深い関わりを否定することもまたライトの意図ではありません。それは、本章のはじめに、次のように語っているところからも明らかです。「パウロが『義認』によって意味することを正確に理解するなら、それが『福音』によって意味するところのものと有機的に、また総体的に関連していることを知るようになるだろう。義認を福音から引き離すならパウロの中心部分を抜くことになる。」(114、115頁)「福音」と「義認」との関わりについて、本章最後に要約的に以下のように語られています。「『福音』はイエスの主権性の告知であり、それは力を持って人々に働き、人々をアブラハムの家族、今やイエス・キリストを巡って再定義され、彼に対する信仰のみによって特徴づけられるアブラハムの家族に加わらせる。『義認』はこの信仰を持つ人々すべてがこの基礎だけに基づいて、この家族の十全なメンバーとして所属するということを主張する。」(133頁)

おそらく以下のような図式的な捉え方をライトは嫌うのではないかという気がしますが、あえて分かりやすく図式化するなら、従来の捉え方では、
「福音」=「信仰義認」
あるいは、
「福音」⊃「信仰義認」
であったとすれば、ライトの理解では、
「福音」→「信仰義認」
ということになろうかと思います。

もう一つ、注目すべきことは、「開始された終末論」との関わりです。ひと言、ふた言ではありますが、本章の最後の方で、その点が言及されています。

「ユダヤ人たちのある者たちが現在、終末論的評決の前に、それによって自分自身を区別しようとしてきたメンバーシップのバッジは、律法の行いに焦点が置かれていた。それは、自分たちを契約を守る者、真のイスラエルとして区別する行いであった。『律法の行い』、安息日、食物規定、割礼は、こうして彼らが学者たちが言うところの『開始された終末論』と呼ぶものの基準を獲得できるようにした。それにより、将来来るべきものを現在期待できるのである。将来の評決(世界の他の者たちに対する真のイスラエルの神の擁護)は、今やイエス・キリストにあって期待される。」(132頁)

ここでも、パウロの義認論がユダヤ教の義認論の「形」を継承していることが指摘されているわけですが、その「形」の一つとして、学者たちが「開始された終末論」と呼ぶものについて触れています。すなわち、ライトは、義認が法廷的用語でありつつ、終末論的なものとして、「将来の評決」に関わることを指摘しますが、それが同時に「今既に」期待されるものとなっていることを指摘します。(ユダヤ教においては、それが期待されるための基準が律法にあったわけですが、パウロにおいてはそれがイエス・キリストに対する信仰によると言います。)従って、ライトの義認論は、「開始された終末論」としての枠組みも含み持っていると言うことも可能かと思います。

b.(ミクロ的側面)パウロが用いる「義認」用語に対する理解

以上のような枠組み(マクロ的視点)の中で見られる時、パウロがその手紙の中で、神が人を義とするという意味で、「ディカイオー」「ディカイオスネー」を用いる場合、それらが正確にはどのような意味合いを持つのかをライトは提示します。上記枠組みが非常にスケールの大きいものであり、複雑な要素を合わせ持つものであるため、その中に置かれた時の「義認」用語の理解も、一筋縄ではないように思われますが、私なりにあえて要約的にまとめてみますと、以下のようなことになるのではないかと思います。すなわち、ライトは「義認」が法廷的用語であることを積極的に肯定しますが、その意味合いは、非時間的なものではなく、神のご計画の歴史的進展性の中に置かれるべきものであり、旧約聖書やイスラエルの民との関わりが断絶したものではなく、極めて契約的なものであり、終末論との関わりが希薄なのではなく、極めて終末論的なものであり、個人的なものではなく、神の民としてのメンバーシップの宣言として捉えられています。

以上のようなマクロ的側面から見た「ライトの義認論」は、同時にミクロ的視点によって裏付けられます。すなわち、上記のような「義認」用語理解は、単に概念的な仮説として語られるのではありません。パウロの手紙の中に現れる「義認」用語が上記のような理解で読まれた場合、確かに手紙の個々の文脈に合致していることを確認する作業が行なわれます。それが本章の後半で行なわれていることで、時系列の順序とライトが信じるものによって、順次手紙が取り上げられます。ここでのライトの主張点(ミクロ的視点、釈義に関わる部分)を箇条書き的に挙げてみます。

○ガラテヤ人への手紙

・パウロがこの手紙で扱っているのは、「元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か」という問題である。
・2-4章で問題となっていることは、誰が一緒に食べることを許されるか、誰が神の民のメンバーなのか、誰がアブラハムの子孫に属するかという問題である(3:29)。
・ガラテヤ人への手紙においてトーラーに対する議論は、もし我々がそれを「律法主義」のわなに対する議論に「翻訳」するなら、うまくいかない。律法についての節は、我々がそれらをユダヤ民族の民族的証書として見るときのみ、うまく働く。
・この文脈において、パウロが義認によって意味しているのは、「あなたがどのようにしてクリスチャンになるか」ということよりもむしろ、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」ということである。二種の人々がクリスチャン信仰を共有しているとすれば、彼らは先祖に関わりなく食卓の交わりを共有することができる。そして、このことすべては、十字架の神学に基礎づけられる。

○コリント人への手紙第一

・「キリストは私たちにとって神からの知恵、義、聖、贖いとなられた。」(1:30)この短い要約を「キリストの転嫁された義」という概念の根拠とすることはできない。パウロが言いたいポイントは、我々が持つ価値のあるすべてのものは、神からのものであり、キリストの内に見い出されるということである。

○ピリピ人への手紙

・3章2-11節でパウロはピリピの人々に、契約のメンバーシップについて語っている。
・上記節で「義認」用語が現れる唯一の節は3:9である。それは「メンバーシップ」用語である。
・3:9で、パウロが自分はトーラーによる「自分自身の」義を持たないというとき、彼が拒絶しているのは道徳的あるいは自助的義ではなく、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態である。
・3:9で、パウロが得ているとされる義は、「ディカイオスネー・エク・セウー」(神からの義)であって、神からの賜物である。パウロはここで、契約的「メンバーシップ」の立場が神からしか与えられないことについて語っている。
・3:9における「信仰」は、契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない。

○ローマ人への手紙

・1:3-4は、パウロの福音の内容の要約を与える。パウロが「福音」と言うとき、イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを意味する。
・1:16-17は福音の「内容」ではなく、「結果」の要約を与える。
・1:16-17は、「福音は救いの真の枠組みとしの信仰義認を啓示し、ユダヤ人の自助的道徳主義に反対する」ということを意味しない。福音は神の義(=神の契約的誠実)を啓示し、それは、世の罪をこの主イエス・キリストにおける契約の成就を通して取り扱うことである。
・ローマ人への手紙において義認の最初の言及は「行い」による義認の言及であり、見た所、それがパウロの是認を受けているように見える(2:13)。これを理解する正しい方法は、パウロが「最後の」義認について語っていると見ることである。
・2:17-24において、将来義とされるべき真の神の民は、民族によって定義づけられたユダヤ人ではありえない。
・3:1-9の問題は、もし神の契約の民が神に不正を行ったとすれば、神はいかにして契約に対して真実であり得るのか、である。
・3:19、20、罪の故に、異邦人ばかりかユダヤ人も創造者の前に擁護なく裁判にかけられている。これはローマ3:21-31への道を備えている。
・3:21以降で、問題に対する神の解決が明らかにされている。神は今や、真のユダヤ人、メシア、イエスを通して、ご自身の義(=契約的真実)を明らかにした。
・パウロが3:27において排斥している「誇り」は、成功的道徳主義者の誇りではなく、ユダヤ人の民族的誇りである。3:29参照。彼はここでも、ユダヤ人の民族的特権に基づいて契約的メンバーシップに入る道はないということを主張している。
・この文脈において、「義認」は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。彼らは比喩的な法廷において「義」であるという立場を与えられる。これが契約的用語で置き換えられると、彼らは将来見られるはずのもの、すなわち真の神の民であると、現在宣言されるということを意味する。現在の義認は将来の義認が全生涯に基づいて公けに主張するであろうものを(2:14-16と8:9-11による)、信仰に基づいて宣言する。そして、この宣言をする際(3:26)、神ご自身は契約に対して真実であられたことにおいて正しい。福音はこうして義、すなわち、神の契約的真実を啓示する。
・ローマ4章は、今や福音において開示された聖書的契約的神学の解説である。パウロがアブラハムの信仰は「義と認められた」(4:5)と語る時、信仰が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。このことはこの種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。この章の強調点は、それゆえ、契約的メンバーシップが割礼によってではなく(4:9-12)、民族によってでもなく、信仰によって定義づけられることを意味する。アブラハムはこの神、死者をよみがえらせる神を信じる故に、信仰において強くなった(4:19-21)。この信仰は、彼が「した」ことではなく、彼がその民のメンバーであることを示すバッジである。
・パウロはローマ5-8章において、この福音を信じるすべてのものが真の、罪赦された神の民であり、こうして将来の救いが保証されていること、その救いは神の世界すべての更新の一側面として、彼らの復活を含むということを議論する。
・5:12-21においてパウロは、事実上以下のように言う。契約内の神の目的はアダムの罪を扱うことだ。今やキリスト・イエスにあって、それが正確に神のなさったことだ。
・トーラーは奴隷状態を提供することができるだけだ。しかし今や(8:1-4)、神はトーラーが実際にはしたかったことを果たされた。神は世に命を与えられた。
・その命は最終的には人間だけでなく全宇宙を罪と死の結果から解放する効果を持つ。8:31-39でほめたたえられているのは、福音と義認とのこの結果である。そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており、それはすべてのキリスト者の復活、今の苦難の後の彼らの擁護から成っている。
・ローマ9:30-10:21は、神がイスラエルの歴史においてなされたことの結果を描き出す。神はイスラエルの召命をメシアにまで狭めた。その結果、彼の死によって、ユダヤ人も異邦人も同様に、すべての者が救いを見いだすようになるのである。こうして、異邦人は信仰によって特徴づけられた契約的メンバーシップを発見する一方で、イスラエルは契約的メンバーシップを定義づけたトーラーに固執した結果、トーラーに達しなかった。その結果、イスラエルは神の契約的目的、神の義に従わなかった(10:3、4)。というのは、キリストは律法の終り、あるいはゴールだからであり、その結果、信じるすべての者が契約的メンバーシップを受けるのである。
・キリストは契約的目的を達成し、それらを神によって定められたクライマックスに導かれた。今やその目的は達せられ、残るものはミッションである(10:9~)。

・・・

以上、できるだけ聖書本文の釈義に直接的に関わる部分に絞って要約してみましたが、ライトの主張が、ミクロ的側面に関わるものであっても、常に大きな文脈、マクロ的視点と関わらせながら展開されていることが分かります。

(3)伝統的な義認論とどこが違っているのか

私なりに、「ライトの義認論」が何であるか、分析してきました。しかしながら、これだけ分析してみても、伝統的な義認論とどこが違っているのか、必ずしも明らかになったとは言えないような気がします。それだけ、ライトが提示する枠組みが、従来の組織神学的アプローチとは違っているということかと思います。それでも、「ライトの義認論」の評価のためには、伝統的な義認論とどこが違っているかをある程度明らかにしていくことが必要だと感じます。現段階での、私の理解ということになりますが、以下に、まとめてみます。

a.伝統的な義認論とどこが違っていないか

ライトの義認論と伝統的な義認論との違いを考える際に、「どこが違っていないか」を考えることもよいのではないかと思います。というのは、ライトの義認論を子細に調べてみると、最初にイメージされるほどは、伝統的な義認論と違っていない、と感じることがしばしばあるからです。たとえば、以下のような点を挙げることができます。

【ライトはパウロの義認用語が法廷的用語であることを認める。】

これは本章を読めばすぐ分かることですが、パウロの義認用語が法廷的用語であることをライトは否定せず、むしろ強調しています。

【ライトはローマ3:21-31がイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いについての記述であることを否定しない】

これは、本章におけるローマ3:21-31についての記述の中で、以下のように、比較的明瞭に記されています。

「この節に対する私がしてきたようなアプローチは、しかしながら、これらの偽りの区別を避けるための文脈を形成する。この節は、今や契約、すなわちユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれたメンバーシップについてのものである。『それゆえ』それはイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いでもある。」(128頁)

【ライトは、パウロが用いる義認用語の中に、「罪の赦し」の意味合いが含まれていることを否定しない。】

たとえば、ローマ3:24-26についての記述として、以下のような一文があります。

「この文脈において、『義認』は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。それが契約の目的であるからである。」(129頁)

あるいは、続く、ローマ4章についての言及の中にも、以下のような一文があります。

「パウロがアブラハムの信仰は『義と認められた』(4:5)と語る時、イエス・キリストへの信仰―あるいは、アブラハムの場合では、神が自分の高齢にもかかわらず、彼に世界大の家族を与えるだろうという信仰―が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。普遍的罪深さを考慮すれば、このことは(もう一度)この種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。」(129頁)

【ライトは、人々がいかにして救いに導かれるかについて、パウロが示唆していることを認める。】

ライトは、本書の中でいわゆる「オルド・サルティス」について否定的な評価をしているようにも見えますが、それは「福音」との関わりにおいてであることに注意する必要があります。「福音」は「オルド・サルティス」についてのものではないことについて、繰り返し語っていますが、同時に、ピリピ人への手紙についての検討の中で、以下のように記しています。

「以前語ったように、人々がいかにして救いに導かれるかについてのパウロの概念は、福音の宣教で始まり、その福音における、また福音を通しての御霊の働き、そして、聞く者の心に対する御霊の働きの結果へと続き、信仰の誕生に至ること、そしてバプテスマを通して家族に加わることで結論づけられる。『人は誰も聖霊によらなければ「イエスは主である」と言うことができない』(一コリント12:3)。しかし、その告白がなされたとき、(恐らく自分自身でも驚くことに)福音を信じるこの人が真の契約的家族の内にいることが明らかにされたということを神は宣言される。」(125頁)

すなわち、「福音の宣教」→「御霊の働き」→「信仰」→「義認」といったオルド・サルティスを提示しています。


b.伝統的な義認論とどこが違っているか(違っていない部分に関連して)

以上のように、ライトの義認論が伝統的な義認論と「どこが違っていないか」を見てきました。そうすることによって、「どこが違っているか」も明瞭になるような気がします。すなわち、違っていない部分が確かにある一方で、違っていないその部分に関わる形で、違っている部分が確かにあるということが分かるからです。以下、違っていない点のいくつかを再度取り上げながら、それと関わって違っている部分を確認してみたいと思います。

【ライトはパウロの義認用語が法廷的用語であることを認めるが、常に契約との関わりの中でとらえようとする。】

ライトは、確かにパウロの義認用語が法廷的用語であることを認めますが、それ以前に契約的用語であることを強調し、法廷的用語としての意味合いも、契約的状況との関わりの中に位置づけようとします。最初にパウロの義認用語が「契約的用語」であることを指摘した後、ライトは以下のように記しています。

「第二に、『法廷的』用語であって、強い説明的メタファとして契約的状況内で機能する。二つの事がこれについて言われなければならない。第一に、このメタファは契約が一体なんであるのかを理解するために必要である。契約は世界を正しくし、悪を取扱い、世界に対する神の正義と秩序を回復するために存在する。第二に、それは契約的状況と独立させてはならない。もしそれが絶対的で孤立的概念にされてしまったならば、それ自体と、契約の基本的意味とに暴力を働かずには置かない。」(117頁)

【ライトはローマ3:21-31がイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いについての記述であることを否定しないが、同時に契約に関わる記述であることを指摘する。】

a.で引用した箇所にあるように、ライトはローマ3:21-31が「イエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱い」についてのものを認めますが、同時に、またそれ以前に、「契約、すなわちユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれたメンバーシップについてのもの」であることを指摘しています(128頁)。

【ライトは、パウロが用いる義認用語の中に、「罪の赦し」の意味合いが含まれていることを否定しないが、それ以前に契約的用語であることを指摘する。】

この点についても、先に引用した箇所を読み返してみれば明らかです。3:24-26において、「義認」が「彼らの罪が赦されることを意味する」ことを認めつつ、それ以前に、「イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する」と指摘します(129頁)。ローマ4章についても、ライトはまずパウロがアブラハムの信仰が『義と認められた』(4:5)と語る時、信仰が「契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する」と指摘した上で、「普遍的罪深さを考慮すれば、このことは(もう一度)この種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。」と言います(129頁)。

以上を踏まえるとき、ライトは義認用語が法廷的用語であることを認め、イエスの十字架と復活において神が決定的に罪を取り扱われたこと、それゆえに、義認が罪のゆるしの宣言でもあることを認めますが、それ以前に契約的用語であって、法廷的用語としての意味合いは、契約的状況の中に位置づけられるのでなければならない、ということを繰り返し主張していることが分かります。

【ライトが示すオルド・サルティスは、改革派神学のものと類似しているが、用語の正確な意味合いは異なっている。】

ライトが示す、「福音の宣教」→「御霊の働き」→「信仰」→「義認」といったオルド・サルティスは、形式的には改革派神学のものと類似しています。ピリピ人への手紙の検討部分で、ライトは、「後期改革派神学」について触れています(125頁)。オルド・サルティスにおける信仰の位置について、後期改革派神学が、「人がどのようにしてクリスチャンになるか」と関わらせないことにより、信仰が結局のところ代理的「行為」になることを避けたことを指摘しつつ、ライトは、「信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが『なす』ことではない」と主張し(125頁)、「人が既にメンバーであると宣言するバッジである」と結論づけます(132頁)。

このようなオルド・サルティスの流れは、回心(信仰と悔い改め)を再生の後に位置づけようとしたカルヴァン主義の伝統に沿うものと言えます。但し、そこで用いられている用語の正確な意味合いは、伝統的な理解との間にずれがあることを踏まえる必要があります。「福音」は、従来「人がいかにして救われるか」ということに焦点を置いて理解されがちでしたが、ライトは、福音を「メシアなるイエスの主権の宣言」として理解します(126頁)。また、義認は従来、個人の救いに関わる用語とされ、個人の罪が赦され、神により義なる者として受け入れられみなされることを意味すると理解されてきましたが、ライトは、これまで見て来たように、パウロの「義認」用語を契約的用語として理解します。もちろん、法廷的用語としても理解しますが、その意味合いは契約的状況の中で位置づけられます。罪のゆるしの宣言でもあることを認めますが、契約的な理解をベースとして考えようとします。

このように、用語理解の上での違いはありますが、全体としての違いは、見かけほど大きいわけではなく、その違いの多くは、義認を個人の救いに関わらせるか、契約的状況の中で理解しようとするかから生まれていると言えそうです。言わば、「義認」理解のためのミクロ的側面(釈義的側面、用語の意味内容)についてはかなりの違いがありますし、マクロ的側面としても、個人的救済論の枠組みの中でなく、契約的用語として理解しようとする違いはありますが、従来の義認論を内容的に全否定するものというよりも、聖書神学的により適切にとらえ直そうとする試みとして理解するのがよいのではないでしょうか。但し、全否定でないとは言え、従来の義認論に様々な方面から修正を迫っているのも事実で、それらを正しく理解し、受け止め、それらの点をどう評価し、自らの理解をどこに置こうとするのかが問題となります。

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第7章 義認と教会(その4)

2016-09-21 20:59:40 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第7章 義認と教会


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


1.「義認」とは何か

多くの人々は、パウロの教えの中心は「信仰義認」だと言う。そういう人々がこのフレーズの意味として理解するのは次のようなものだ。人々は自分自身の努力によって自分たち自身を救おうとし、自分自身を神のために十分良いものにしようとする。これはうまく行かない。人は全く功績によらず神の恵みによってのみ救われ、良い行いによってではなく信仰によって救われる。義認についてのこの説明は、かなりの部分、五世紀初めのペラギウスとアウグスティヌスの論争、及び16世紀初めのエラスムスとルターの論争に負うている。

この章では、「信仰義認」についてのこのポピュラーな見解が全く間違っているわけではないけれども、パウロの教義の豊かさと正確さを正当に扱わないということを示唆したい。そしてパウロの「福音」(3章で論じた)とパウロが意味するところの「義認」との間を結びつける、より適切な方法を示唆したい。これらの問題を扱うために、近年のパウロ研究の一局面をもう一度思い起こす必要がある。

パウロ神学の伝統的議論は「サンダース革命」と呼ばれるようになったものによって全く新しい形に変えられた。サンダースの基本的な議論はこうである。一般の(特にプロテスタントの)クリスチャンのパウロの読みは、1世紀ユダヤ教に中世カトリックの神学的見解を帰したために、ひどく台無しになっている。ユダヤ教を正確に表現したら、我々はパウロのユダヤ教批判を考え直すように迫られるだろうし、次にはパウロの積極的神学の全体を考え直すように迫られるだろうと。新約聖書学に取り組む我々のほとんどは、聖書本文を注意深く調べ、これらのことがそうなのか、そうだとしたらどれほどそうなのかを見ようとしてきた。この章は、そのような課題のためのものである。

サンダースのパウロについての発表で奇妙なことの一つは、パウロが「義認」そのものについて意味していると伝統が語ってきたことを、彼が受け入れ続けていることである。義認はパウロの思想の中心ではなく、シュバイツァーが「キリスト神秘主義」と呼び、サンダースが「参与」と呼ぶものに対して二次的な位置を占めると彼は考えた。しかし、パウロが義認について語る時、伝統によってパウロが語っていると考えられてきたものについて語っていると、サンダースは想定し続けている。

このことは、実際には事実ではないことを私は示唆したい。パウロ思想における義認の位置について言えば、それが中心には置かれ得ないことを既に指摘した。と言うのは、その位置は既にイエス自身と、イエスが絶対的に王であることの福音の宣言によって占められているからである。しかし、このことは、義認が二次的なものとなることを意味しないし、本質的でないものとなることはなお意味しない。私がブレーデやシュバイツァーに同意すると考えないでほしい。むしろ、パウロが「義認」によって意味することを正確に理解するなら、それが「福音」によって意味するところのものと有機的に、また総体的に関連していることを知るようになるだろう。義認を福音から引き離すならパウロの中心部分を抜くことになる。しかし、この主張は、それ自体では義認が実際に何であるのかを示すものではない。

義認の議論は教会史の多くにおいて、特にアウグスティヌス以来、まずいものとなり、今に至るまでそうであり続けてきた。アリスター・マクグラスは義認についての記念碑的歴史書において、冒頭から、この可能性を見越している。彼はこう書いている。「義認論は聖書的起源から全く独立した意味を発展させ、神に対する人の関係が確立される手段に関わってきた。(略)」パウロが一つの言葉で何を意味しようとも、教会がその言葉をほとんど二千年間もの間何かほかのことを意味するために用いて来たとすれば、それは問題外のことだ。しかしそれでも問題は残る。「義認」と呼ばれるようになったものについての教会のすべての議論では、パウロ自身がもちろんのこと引き合いに出される。もしパウロが「義認」によって続く議論が示唆してきたのとは全く違う何かを意味したのだとすれば、彼へのアピールはだいなしになり、全く無効とさえなるかもしれない。もし我々がパウロ自身を理解しようとするなら、そのようなテキストが実際に誤用されたかどうかを問うことは重要である。そして、その質問に対する答えとして私が示唆するのは、大文字の「イエス」である。

マクグラスは言う。教会の「義認論は、キリストにある人間に対する神の救いの行為がいかに個人に適用されるかについての問題である。」すなわち、それは「人がキリストを通して神との関係に入るためになりをしなければならないかの問題」である。古典的に、この教理はアウグスティヌス以来、ペラギウス主義の色々なバージョンを撃退することに関心を抱いてきた。もちろん、あなたがペラギウスのプログラムを達成することができると純粋に考える誰かに出会ったら、あなたはやさしく、しかし断固として彼らを正すべきだと私は主張しなければらない。人間が自分自身で神の臨在や神の救いに間に合うようにできるということは全くありえないことである。

しかし、いかにして人間が生ける救い主なる神と生きた救いの関係に入るかについての問題を心に抱いてパウロに近づくなら、彼の唇やペンに起こってくるのは義認ではない。人々がキリストにある神のみわざに直面して、そのみわざを自分たち自身に適用させようとするかをパウロが表現する時には、彼は明確な一連の思想を持っている。イエスとその十字架と復活についてのメッセージ、すなわち「福音」が彼らに告げられる。この手段を通して、神は彼らの心に御霊によって働く。結果として、彼らはメッセージを信じるようになる。彼らはバプテスマを通してクリスチャン共同体に連なり、その共有の命と共有の生き方を分かち合い始める。それが人々が生ける神との関係を持つようになる方法である。

もしあなたがこれは信仰義認によって自分が意味するものだと言うなら、パウロがたとえば第一テサロニケ1章でしているように、この思想の連関を示そうとするとき、義認について語っていないという事実に我々は注意を払わなければならないと答える。それは彼が語っていることではない。もしあなたがローマ人への手紙全体が人がどのようにクリスチャンになるかについての記述であり、義認はそこでの中心だと答えるなら、ローマ人への手紙のこのような読み方は、何百年もの間テキストに対して組織的に暴力を行ってきたのであり、テキスト自身がもう一度聞かれるべき時であると答えるだろう。パウロは実際、教会が「義認」と呼んできた主題について語っているが、彼はそのために「義認」という用語を用いない。

それではパウロは「義認」という用語を用いるとき何を意味しているのだろうか。そして、これは福音とどのように関連付けられているのだろうか。私は今や、前章で「神の義」を理解するために提供した三重の格子と密接に対応するものとして、パウロの義認用語についての三重の局面について論じよう。

第一に、それは「契約的」用語である。16、17世紀の議論を通して有名になった「契約」の意味ではなく、1世紀ユダヤ教の意味であるが。パウロが義認について語るとき、彼は第二神殿期のユダヤ教の思想世界の中で語っており、第二神殿期ユダヤ教は増大する困難の中にある政治的状況に直面して契約的約束に固執していた。

第二に、「法廷的」用語であって、強い説明的メタファとして契約的状況内で機能する。二つの事がこれについて言われなければならない。第一に、このメタファは契約が一体なんであるのかを理解するために必要である。契約は世界を正しくし、悪を取扱い、世界に対する神の正義と秩序を回復するために存在する。第二に、それは契約的状況と独立させてはならない。もしそれが絶対的で孤立的概念にされてしまったならば、それ自体と、契約の基本的意味とに暴力を働かずには置かない。

第三に、パウロにとって義認は「終末論」から離れて理解できない。すなわち、それは、ランダムに適用されうる抽象的あるいは非時間的システム、救いの手段とされることができない。それはパウロの世界観の一部であり、そこにおいて世界の創造者がユニークに、劇的かつ決定的にイエス・キリストにおいて、全世界の救出のために働き、今や、キリストの御霊によってすべてのものをこのイエスに従わせておられるのである。

このことは詳細にはどうなるのか。これに答えるため、我々はもう一つのステップに戻らなければならない。すなわち、今度はパウロ自身のユダヤ人の世界へである。


2.パウロのユダヤ教的文脈における義認

私は既にタルソのサウロの世界観とアジェンダを概観した。彼は彼自身の告白によれば熱心なパリサイ人であり、見解においては徹底的革命主義に近かった。サウロは、行為義認であろうと他の何であろうと、非時間的な救いのシステムに関心はなかった。彼は神がイスラエルを贖われるのを望んでいた。サウロのような人々は自分たちの死後の魂の状態には特に関心を持たなかった。彼らは一人の真の神がご自身の民イスラエルに約束した救いにしきりに関心を持った。

この望みの一つの特徴は、この点で強調される必要がある。「契約の目的は単に創造者が、世界の残りの運命に関係なく、イスラエルを特別な民として持つということでは決してなかった。」契約は世界の罪を扱い、世界の救いをもたらすために存在した。従って、この偉大な出来事は悪が通常扱われる状況から引き出された用語において、すなわち法的用語で表現されるはずだということは全く適切である。前章でみたように、神ご自身は裁判官として見られる。悪人はついには裁かれ、罰せられるであろう。神の忠実な人々は、擁護されるであろう。彼らの贖いは、政治的開放、神殿の回復、究極的には復活自体の、物質的かつ完全な形態をとり、偉大な法廷の決着、偉大な裁判官の前での偉大な勝利として見られるであろう。

この「義認」はこうして「終末論的」でもある。それはイスラエルが長く育ててきた望みの最終的成就となるであろう。しかし、重要なことは、この出来事はある状況下で「期待され」うることである。特定のユダヤ人たちは、他のすべての人々が彼らを真のイスラエル人と見る日に先立って、自分たち自身を真のイスラエル人として見るだろう。トーラーに対する適切な仕方に固執する人々は、自分たちが将来擁護される者たちであるということを、今確信させられる。このスキームは思うに、クムラン写本、特に最近出版された4QMMTという名で呼ばれる巻物において最も明確である。そこでは、「行為義認」は一種の原ペラギウス主義者を企図するユダヤ人個人とは何の関係もない。関係するのは、最終的な終末論的決着に先立つ真のイスラエルの定義である。この状況下での義認は、従って、「いかに人は真の神の民の共同体に入るか」ではなく、「誰がその共同体に所属しているかをどのようにして語るか」である。

一旦、一世紀ユダヤ教の契約神学が実際どのように働くかを理解するなら、法廷用語、「参与」用語や他の多くの用語が落ち着き、混乱なしにぴったりとはめ込まれ、混同なしに区別される。しかし、これを更に推し進めるためには、最後にパウロに戻らなければならない。正確にはパウロは「義認」によって何を意味し、「福音」によって意味するものとどう関連付けられるのだろうか。


3.パウロのキリスト教神学における義認

時系列の順序と私が信じるものによって、これらの手紙を議論し、それからいくつかの筋道を引き出したい。

○ガラテヤ人への手紙

逆の長い伝統にもかかわらず、パウロがガラテヤ人への手紙で扱う問題は、誰かがクリスチャンになるため、あるいは神との関係に入るための正確な方法の問題ではない。彼が扱う問題はこうである。彼の元異教徒の回心者は割礼を受けるべきか否か。この問題は、アウグスティヌスとペラギウス、あるいはルターとエラスムスが直面していた問題とは明らかに全く関係がない。1世紀の文脈においては特に、それはあなたが「神の民をどう定義するか」の問題と明らかに関係がある。神の民はユダヤ民族のバッジによって定義づけられるのか、あるいは他の何かの方法で定義づけられるのか。割礼は、「道徳」の問題ではない。それは道徳的努力や良い行いで救いを得ることとは関係がない。従ってすべての宗教的儀式を原ペラギウス主義者の良い行いとして意味させることもできないし、ペラギウスを結局のところ主要な敵としてガラテヤに持ち込むこともできない。一世紀の思想は、ユダヤ教思想にしろクリスチャン思想にしろ、そのようには働かないのである。

それでは、ガラテヤの手紙の議論は、ことに決定的な章である2-4章では、どう進むのか。アンテオケの教会で問題となっていることは、パウロが2章で言及していることであるが、人々がどのようにして神との関係に入るかという問題ではなく、誰が一緒に食べることを許されるかという問題である。誰が神の民のメンバーなのか。元異教徒の回心者はメンバーであるのかどうか。この問題をパウロは明らかにガラテヤ人たちが直面する問題のパラダイムとしてみなしているのであるが、その問題の中で特にいくつかのことが際立っている。

第一に、文脈は決定的に契約的である。ガラテヤ3章はアブラハムの子孫についての長い講解であって、最初に契約的章、創世記15章について焦点を当て、他のさまざまな契約的諸節、特に申命記27章からの諸節に進む。彼は実際的主題に戻っているのであって、それはアブラハムやガラテヤ人らが信仰に来る方法ではなく、誰がアブラハムの子孫に属するかという問題である。これは3:29において明らかであって、そこでの議論の結論は、「あなたがアブラハムの子孫であるなら、あなたはキリストの内にある」というのではなく、全く逆である。神はアブラハムの子孫を確立された。パウロはそれを再度確証した。問題は誰がそれに所属しているかということである。パウロは、キリストにある全ての者がその民族的背景に関わらずそれに所属している、と言う。

更に、パウロの議論は伝統的な20世紀の学問上の戦闘ラインを切り分け進む。もしあなたがローマ人への手紙に集中し、そうしながら片目をつぶるなら、1-4章を(サンダースの用語で)「法廷的」なものとして、5-8章を「参与的」なものとして扱うことがうまくいくであろう。しかし、ガラテヤ人への手紙では、二つのカテゴリーは、幸いにもごちゃまぜにされており、3章の最後の節ではとりわけそうである。(3:24-29)

ことに、ガラテヤ人への手紙においてトーラーに対する議論は、もし我々がそれを直截的な自己救済的道徳主義やより微妙な「律法主義」のわなに対する議論に「翻訳」するなら、うまくいかないであろう。律法についての節は、我々がそれらをユダヤ民族の民族的証書としてのユダヤ人律法、トーラーに対する言及として見るときのみ、うまく働く。

パウロはトーラーを悪いものとはみなしていない。彼はそれを神の秘められた計画の一つの重要なステージの部分としてみなしている。そのステージは、今や働きだし、完成された。時は新しいステージのために到来した。キリストにあって、御霊によって、一人の神が救いを人種に関わりなくすべての者に拡大されたのである。それはアンテオケやガラテヤで聴く必要のあるメッセージであった。

この文脈において、パウロが義認によって意味しているのは、それゆえ明らかである。それは、「あなたがどのようにしてクリスチャンになるか」ということよりもむしろ、「あなたがどのようにして誰が契約の子孫のメンバーであると言うことができるか」ということである。二種の人々がクリスチャン信仰を共有しているとすれば、彼らは先祖に関わりなく食卓の交わりを共有することができると、パウロは言う。そして、このことすべては、もちろん十字架の神学に基礎づけられる。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはや私ではない、キリストがわたしの内に生きている。」と彼は言う。十字架はタルソのサウロが自分自身で享受していると考えていた特権的区分を除去した。彼が使徒パウロとして持っている新しい命は、古い実存によってでなく、十字架につけられ復活されたメシアによってのみ定義づけられる命である。

事実、十字架は、歴史における贖いのターニングポイントである。イスラエルの契約的ストーリーのゴールである。神が世界を癒す方法である。十字架を通して、「世は私に釘づけられ、私は世に対して釘づけられた」。従って、「割礼があるかないかは問題ではない。重要なのは新しい創造である」(6:14-16)。これは契約的用語である。ガラテヤ人への手紙において、義認はキリストへの信仰を共有するすべてのものが、その人種的違いに関わらず、同じテーブルに属し、共に最終的新創造を待ち望むということを主張する教えである。

○コリントの類似表現

コリント第一1:30を一瞥する。そこではパウロは、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは神のみわざによる。キリストは私たちにとって神からの知恵、義、聖、贖いとなられた。」と言う。この短い要約から、義認についての何らかの正確な教義を絞り出すことは難しい。それは「キリストの転嫁された義」と言われるもの―これは新約聖書においてよりも後期改革派神学と敬虔主義においてより多く見られる表現である―が聖書本文の中に何らかの基盤を見い出すものとして私が知る唯一の箇所である。しかし、もし我々がそれをそのようなものとして主張するなら、我々はキリストの転嫁された知恵、キリストの転嫁された聖、キリストの転嫁された贖いについても語る用意をしなければならない。パウロが言いたいポイントは大きなものであって、人間が誇りとするすべてのものは、キリストの十字架の福音の前には無であるということである。我々が持つ価値のあるすべてのものは、神からのものであり、キリストの内に見い出される。

○ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙に進もう。ここでは、3章2-11節がある目的のために重要である。義認それ自体は1節で述べられるだけであるが。

私のこの節の仮の読みはこのようなものである。パウロはピリピの人々に次のような可能性を示している。すなわち、彼がキリストを得るために自分のすべての特権を捨てる備えをしたように、彼らも自分たちの特権に対して同じことをしなければならないかもしれない。彼はこの議論を基礎づけ、彼らが、2章5-11節のイエス・キリストについての詩によって、自分にならうようにと言う。この設定において、パウロはピリピ3章で救いの切り離されたシステムや他の名前のもとでのアウグスティヌスーペラギウス論争についてではなく、契約のメンバーシップについて率直に語る。彼は事実こう言う。私は、肉によれば契約のメンバーシップを持っているが、その契約のメンバーシップを利用すべき何かとは考えない。私はメシアの死を共有し、自分自身をむなしくする。そのゆえに、神は私に実際に有効なメンバーシップを与えられ、そこにおいて私もまたキリストの栄光を共有するであろう。

これはどう働くだろうか。パウロはまず自分の民族的契約的特権のリストを挙げ、次に自分の新しい立場の特徴のアウトラインを語る。後半の説明の中心ポイントは、疑いもなく、義認ではなく、キリストである。キリストについては半ダース以上触れているが、義認については一度だけである。

我々の目的の決定的な節は3:9である。それは「義認」用語が実際にどう働くかの明らかな言明を提供する。

まず、それは「メンバーシップ」用語である。パウロは彼がトーラーによる「自分自身の」義を持たないというとき、先行する諸節の文脈から意味されるのは、彼が契約的立場としての義について語っているということである。それは生まれながらのユダヤ人として自分のものであり、割礼という契約的バッジによって特徴づけられ、熱心なパリサイ人であることによってその人々の仲間の一部であると主張するものである。彼が9節の前半で拒絶しているのは道徳的あるいは自助的義ではなく、伝統的なユダヤ人の契約的メンバーシップの状態である。

二番目に、パウロが今楽しんでいる契約の状態は、神の賜物である。それは、「ディカイオスネー・エク・セウー」(神からの義)である。(既にみたように、これは神「の」義、ディカイオスネー・セウー自体と混同してはならない。)パウロはここでは契約的「メンバーシップ」の立場について語っている。それは神の賜物であって、内なる人間性によってはどのようにしても獲得されるものではない。この賜物は、信仰に対して与えられる。この描写における信仰の位置は、長い間後期改革派の教義学において、議論の対象であった。信仰は神の好意をえるために私が「する」ことなのか。そうでなければ、信仰の果たす役割は何か。一旦パウロの義認言語を「人がどのようにしてクリスチャンになるか」を表現しなければならないという重荷から解放したら、このことはもはや問題ではなくなる。クリスチャンの信仰を結局のところ代理的「行為」やとりわけ道徳的義の代替的形態と考える危険性はない。信仰は契約的メンバーシップのバッジであり、人が入信儀式の一種として誰かが「なす」ことではない。

このことが実際にはどう働くかを考えよう。以前語ったように、人々がいかにして救いに導かれるかについてのパウロの概念は、福音の宣教で始まり、その福音における、また福音を通しての御霊の働き、そして、聞く者の心に対する御霊の働きの結果へと続き、信仰の誕生に至ること、そしてバプテスマを通して家族に加わることで結論づけられる。「人は誰も聖霊によらなければ『イエスは主である』と言うことができない」(一コリント12:3)。しかし、その告白がなされたとき、(恐らく自分自身でも驚くことに)福音を信じるこの人が真の契約的家族の内にいることが明らかにされたということを神は宣言される。義認は人がどのようにしてクリスチャンに「なる」かということではない。それは彼らがクリスチャンに「なった」ということの宣言である。そして、ピリピ3章におけるこの教義の全体的文脈は待望の文脈である。それは個人が今の世から引き出されるという最後の救いについての待望ではなく、主が世のものを変革するために天の領域から来られるときの最終的新天新地の待望である(3:20-21)。義認は、法廷、参与、その他すべての含みすべてを伴って、全体的契約的枠組みに属する。それはピリピの人々に彼らの責務が次のようなものであることを思い起こさせる。すなわち、同世代の人々がカエサルについて考えるように、すなわち、救い主(ソーテール)となられる主(キュリオス)として考えるように、キリストを考えるべきこと、その結果、神の民における自分たちの契約的メンバーシップを神の賜物として受けるべきことである。

○ローマ人への手紙

それでは、ローマ人への手紙に進もう。

初めに、本書3章より、最も重要なポイントの一つを繰り返す。パウロが「福音」と言うとき、彼は「信仰による義」を意味しない。イエス・キリストの主としての王的宣言というメッセージを意味する。既に見たように、ローマ1:3-4が彼の福音の内容の要約を与える。ローマ1:16-17は福音の「内容」ではなく、「結果」の要約を与える。

それゆえ、ローマ1:16-17は、「福音は救いの真の枠組みとしの信仰義認を啓示し、ユダヤ人の自助的道徳主義に反対する」ということを意味しない。手紙の続く諸節の光において、それを十分解きほぐすとき、それは以下のような意味となる。

福音―メシアなるイエスの主権の宣言―は神の義、神の契約的誠実を啓示し、それは、世の罪をこの主イエス・キリストにおける契約の成就を通して取り扱うことである。神はこのすべてを正しく、すなわち公平に行われた。神は罪を取扱い、助けなき者を救われた。神はそれによりご自身の約束を成就された。

パウロが神を法廷における正しい裁判官として描くけれども、これは多くのメタファの一つではないということを心に留めてもよい。それは契約の中心、また目的を表明するものであり、罪を取り扱い、そうして世を救うものである。この目的は今や主なるイエス・キリストによって達成された。

しかし、どのようにして?手紙が進むにつれて、我々は問題に入り込む。多くの伝統においては、ローマ人への手紙は、「人がどのようにしてクリスチャンになるか」についての書物としてみなされてきた。しかし、2章がこの枠組みにどのようにして適合するか、全く明らかではない。多くの注解者と学者は自分たちが困惑していると宣言する。

とりわけ、ローマ人への手紙において義認の最初の言及が「行い」による義認の言及であり、見た所、それがパウロの是認を受けているように見えることは不思議である(2:13)。これを理解する正しい方法は、パウロが「最後の」義認について語っていると見ることであると私は信じる。例のとおり、終末論、イスラエルの希望が水平線を支配している。ポイントはこうである。最後の日に擁護され、復活させられ、契約の民であると示されるのは誰だろうか。パウロの答えは多くのノンクリスチャンのユダヤ人が賛同するものである。すなわち、最後の日に擁護されるのは、その心と生涯において、神が律法、トーラーを書き込まれた人々である。パウロがこの手紙で後に明らかにするように、このプロセスはトーラーだけによっては果たされ得ない。トーラーがなしたいと願ったができなかったことを、神は今やキリストにおいて、御霊によってなされた。そこで問題が迫ってくる。これらの人々は誰であるか。

2:17-24において、パウロはそれが民族によって定義づけられたユダヤ人ではありえないことを主張する。彼らの民族的誇り―イスラエル民族が不可避的に神の民であるという誇り―はイスラエルの捕囚状態の継続によって完全に破壊されている。イスラエル内部の罪の存在はイスラエルがそのままでは支持され得ないことを意味する。パウロは2:25-29において言う、しかし、もし真のユダヤ人がいて、その者の内に新しい契約が始められたのだとすれば?ある者たちの内にエレミヤやエゼキエルの新しい契約の約束が実現したのだとすれば?彼らが民族的にユダヤ人であろうと、そうでなかろうと、彼らが割礼をうけていようといまいと、彼らは神の真の契約の民として神にみなされることだろう。これが義認の教義である。あるいは、むしろその最初の鍵となる移行である。すなわち、ある時、ある偉大な日が来て、神がご自身の真の民を擁護されるだろう。しかし、我々は彼らが誰であるかをより正確にどのようにして知ることができるだろうか。

特に、もし神の契約の民が神に不正を行ったとすれば、神はいかにして契約に対して真実であり得るのか。これは3:1-9の問題である。ここでの鍵は、2節の「ゆだねた」という動詞である。「まずユダヤ人は神の言葉を委ねられた。」神はイスラエルに世界のためのメッセージを委ねられた。しかしもしメッセンジャーが不真実だと分かったら、それは送り手が不真実であることを意味するだろうか。もちろん、違う。必要なのは真実なメッセンジャー、真のイスラエルであり、彼は契約的任務を完成させ、達成するであろう。すなわち、その任務は世の罪を最終的に取り扱うものであり、その罪の故に、異邦人ばかりかユダヤ人も創造者の前に擁護なく裁判にかけられている(3:19、20)。ユダヤ人たちが一方におり、異邦人たちが他方にいるという偉大な法廷シーン、偉大な審判に対する彼らの切望は、ひどく間違っていたように見える。しかし、これはローマ3:21-31への道を備えている。

クリスチャンとしてのパウロの神学は、このような理解で始まっている。すなわち、すべての物事の終りに神がイスラエルのために行われると期待していたことを、神はすべての物事のさなかでイエスのために行われた。イエスにおいて、またイエスを通して、イスラエルの望みは実現された。彼は異教徒らの手による苦しみと死の後、死からよみがえらされた。この事実は、決定的パラグラフである3:21-31の中心である。

この節に対する私がしてきたようなアプローチは、しかしながら、これらの偽りの区別を避けるための文脈を形成する。この節は、今や契約、すなわちユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれたメンバーシップについてのものである。「それゆえ」それはイエスの十字架と復活における神の罪に対する取り扱いでもある。法廷は比喩的手段として適切な場所を得る。それによって神の契約的計画は実現される。ひとたび我々がパウロの契約的神学の性質を十分把握すれば、ある人々が表明してきた恐れ、すなわち、パウロの「契約的」読みは、罪と十字架についての適切な神学と調和しないだろうという恐れは、根拠のないものだと明らかにされる。契約の目的は、世の罪を取り扱うことであり、主なるイエス・キリストにおいて達成されたのである。

パウロは3:27において、「それでは誇りはどこにあるか」と尋ねる。「断じて!」この排斥されている「誇り」は、成功的道徳主義者の誇りではない。それは、2:17-24にあるように、ユダヤ人の民族的誇りである。もしこれがそうでないなら、3:29(「あるいは、神はユダヤ人だけの神なのか。異邦人の神でもあるのではないか。」)は不合理な結論となる。パウロはこの節において原ペラギウス主義を避けようという考えを持っていない。彼はガラテヤ書やピリピ書同様、ここでも、ユダヤ人の民族的特権に基づいて契約的メンバーシップに入る道はないということを主張している。

この文脈において、「義認」は、3:24-26において見られるように、イエス・キリストを信じる者が真の契約的家族のメンバーと宣言されるということを意味する。それはもちろん、彼らの罪が赦されることを意味する。それが契約の目的であるからである。彼らは比喩的な法廷において「義」であるという立場を与えられる。これが基底にある契約的テーマの用語で置き換えられると、彼らは将来見られるはずのもの、すなわち真の神の民であると、現在宣言されるということを意味する。現在の義認は将来の義認が全生涯に基づいて公けに主張するであろうものを(2:14-16と8:9-11による)、信仰に基づいて宣言する。そして、この宣言をする際(3:26)、神ご自身は次の点で正しい。すなわち、契約に対して真実であられたこと、罪を取り扱い、助けなきものを弁護し、十字架につけられたキリストにおいて公平にそうされたことにおいて。福音―「信仰による義認」でなく、イエスについてのメッセージ―はこうして義、すなわち、神の契約的真実を啓示する。

それでは、ローマ4章はどうだろうか。そこでパウロは、アブラハムの信仰について議論するのだが、ローマ4章は、しばしば示唆されるように抽象的教義に対する切り離された「聖書からの証拠」ではない。それは今や福音において開示された聖書的契約的神学の解説である。創世記15章は、この章全体のバックボーンである。すなわち、創世記15章は、アブラハムとの契約が最初に確立された章として見られている。パウロがアブラハムの信仰は「義と認められた」(4:5)と語る時、イエス・キリストへの信仰―あるいは、アブラハムの場合では、神が自分の高齢にもかかわらず、彼に世界大の家族を
与えるだろうという信仰―が契約的メンバーシップの真のバッジであることを意味する。普遍的罪深さを考慮すれば、このことは(もう一度)この種の信仰が罪赦された家族のバッジであることを意味する。この章の強調点は、それゆえ、契約的メンバーシップが割礼によってではなく(4:9-12)、民族によってでもなく、信仰によって定義づけられることを意味する。それがアブラハムの家族が複合民族の家族であり得る理由であり、キリストにあって既にそうであるという理由である。更には、信じられているものの故に、信仰の性質自体が変えられている。もしあなたが遠くの力なき神を信じるなら、あなたは渇き、不毛となるだろう。もしあなたが死者をよみがえらせる神を信じるなら、あなたの信仰は、生き生きとし、命を与ええるものとなるだろう。アブラハムはこの神、死者をよみがえらせる神を信じる故に、信仰において強くなった(4:19-21)。この信仰は、神の民の内に入る権利を獲得するために、彼が「した」ことではない。それは、彼がその民のメンバー―事実、創立メンバー―であることを示すバッジである。

この基礎により、パウロはローマ5-8章において、この福音を信じるすべてのものが真の、罪赦された神の民であり、こうして将来の救いが保証されていること、その救いは神の世界すべての更新の一側面として、彼らの復活を含むということを議論する。5:12-21においては、パウロは、描いた描写から離れ、実際、事実上以下のように言う。ほら、契約内の神の目的はアダムの罪を扱うことだ。今やキリスト・イエスにあって、それが正確に神のなさったことだ。トーラーは奴隷状態を提供することができるだけだ。なぜなら、それはユダヤ人たちの問題、すなわち、彼らが「アダムにある」ことを強調するから。選ばれた民は、他のすべての者と同様、人間的であり、堕落している。しかし今や(8:1-4)、神はトーラーが実際にはしたかったことを果たされた。神は世に命を与えられた。その命は最終的には人間だけでなく全宇宙を罪と死の結果から解放する効果を持つ。8:31-39でほめたたえられているのは、福音と義認とのこの結果である。そこでは、パウロは終末論的な最終的義認に戻っており、それはすべてのキリスト者の復活、今の苦難の後の彼らの擁護から成っている。

最後に、ローマ9:30-10:21は、神がイスラエルの歴史においてなされたことの結果を描き出す。神はイスラエルを世の救いの手段となるべく召された。神の意図は常にこの召命をメシアにまで狭めることであった。その結果、彼の死によって、ユダヤ人も異邦人も同様に、すべての者が救いを見いだすようになるのである。しかし、イスラエルが自分だけで自分の立場を維持することを主張するなら、自分自身の死刑執行令状にしがみついていることを発見することになるだろう。

こうして(9:30以降の思想の流れに従うなら)、異邦人は信仰によって特徴づけられた契約的メンバーシップを発見する一方で、イスラエルは契約的メンバーシップを定義づけたトーラーに固執した結果、トーラーに達しなかった。イスラエルはその契約的メンバーシップをトーラーの行いによってはっきり区別されるよう定められていた。すなわちユダヤ人だけに制限されたメンバーシップを保つ事柄によってである。その結果、イスラエルは神の契約的目的、神の義に従わなかった(10:3、4)。というのは、キリストは律法の終り、あるいはゴールだからであり、その結果、信じるすべての者が契約的メンバーシップを受けるのである。キリストは契約的目的を達成し、それらを神によって定められたクライマックスに導かれた。それは、常に罪を取り扱うものであり、全宇宙の更新を推進するものである。今やその目的は達せられ、残るものはミッションである(10:9~)。従って、ローマ人への手紙は、わが道を行く。人々がいかに救われるか、彼らが個人として神といかに関係を持つかについての切り離されたステートメントではなく、創造主なる神の契約的目的の説明としてである。この手紙は、とりわけ教会のミッションとユニティを強調する。それらはもしローマ人たちがパウロの宣教の更に西方への拡大の根拠地であろうとするなら、彼らが最も把握する必要のあるものであった。

○結論

パウロの義認論を要約しよう。

1.契約:義認は契約的宣言であって、終わりの日に布告される。その日には真の神の民は擁護され、偽りの神々を礼拝することを主張する者たちは間違っていることが示されるであろう。

2.法廷:義認は法廷における評決のように機能する。誰かを無罪とすることによって、義認はその人に「義である」という立場を授与する。これは将来の「契約的」申し開きの法廷的次元である。

3.終末論:この宣言、この評決は、究極的に歴史の終りにおいてなされる。けれども、イエスを通して、神は歴史の中でその終りになされると期待されてきたことをなされた。その結果、その宣言、その評決は、既に今、先立って布告されることができる。終りの日の出来事は、イエスが十字架上でイスラエルの代表たるメシアとして死に、よみがえられたとき、「予期されていた」。(これはパウロ自身の神学的スタート・ポイントであった。)それゆえ誰かがイエスについての福音メッセージを信じるとき、終りの日の評決は今や予期されている。

4.それゆえ、―このことは特にガラテヤ書の議論の重要な要点であるが、ピリピ書やローマ書でも重要な役割を果たす―イエス・キリストの福音を信じる者すべては、罪赦された真のアブラハムの家族のメンバーとして既にはっきりと区別されている。

彼らは信仰によって、特にイエス・キリストの主権についての「福音」メッセージを信じることによって、区別されている。これは、「律法の行いから離れた義認」という決定的用語の意味である。ユダヤ人たちのある者たちが現在、終末論的評決の前に、それによって自分自身を区別しようとしてきたメンバーシップのバッジは、律法の行いに焦点が置かれていた。それは、自分たちを契約を守る者、真のイスラエルとして区別する行いであった。「律法の行い」、安息日、食物規定、割礼は、こうして彼らが学者たちが言うところの「開始された終末論」と呼ぶものの基準を獲得できるようにした。それにより、将来来るべきものを現在期待できるのである。将来の評決(世界の他の者たちに対する真のイスラエルの神の擁護)は、今やイエス・キリストにあって期待される。

パウロは、通常、ユダヤ教の教義の「形」を保持し、それを新しい「内容」で満たす。彼にとって、契約的メンバーシップは、福音そのもの、すなわち、イエス・キリストによって定義づけられている。誰が「終末論的」契約の民の内にいるかを「今」語りうるためのもの、メンバーシップのバッジは、もちろん信仰であり、イエスは主であるという告白、神はキリストを死人のなかからよみがえらせたという信仰である(ローマ10:9)。パウロにとって、「信仰」は人が既にメンバーであると宣言するバッジである。それはまた、福音のメッセージ、イエス・キリストにおいて、またイエス・キリストを通して定義づけられた真の神の告知に対する信仰である。

関連して、この議論の二つの結論が指摘される。

第一に、サンダースは改革を十分遠くまで実行しなかったことは明らかである。しかし、もしそれがなされるべきほどに実行されたなら、パウロの完全に伝統的な読みの土台を削り取るのでなく、むしろそれをより十分新鮮なものとすることになろう。

第二に、私は再び信仰による義認の教理はパウロが「福音」によって意味するものではないということを強調しなければならない。それは福音によって「暗示されている」。明確にしよう。「福音」はイエスの主権性の告知であり、それは力を持って人々に働き、人々をアブラハムの家族、今やイエス・キリストを巡って再定義され、彼に対する信仰のみによって特徴づけられるアブラハムの家族に加わらせる。「義認」はこの信仰を持つ人々すべてがこの基礎だけに基づいて、この家族の十全なメンバーとして所属するということを主張する。

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第6章 イスラエルのためのよき知らせ(その2)

2016-09-12 18:02:52 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第6章 イスラエルのためのよき知らせ

【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)

本章と次章は、義認論とも関わってくる部分で、それだけに自然、注意深く読み進むことになりました。本章についての検討は、他の章に比べて何倍も長くなってしまいました。いくつかのポイントに整理してコメントしてみます。


1.本章の文脈

本章と次章が義認論との関わりを深く持つとは言え、この本の中でこれらの章だけを抜き出して論じることは当然できないわけで、この本全体の論旨文脈との関わりにも目を配りながら読む必要があります。

まず、本章(6章)は前章(5章)と対になっている章です。「異教徒たちのためのよき知らせ」「イスラエルのためのよき知らせ」というタイトルから、それは明らかです。ただ、前章では、パウロの福音提示がどのように異教徒に対するメッセージとなっているのかというテーマについて、かなり幅広く網羅的に扱っているように見えるのに対して、本章では、「神の義」というフレーズに絞り込んだ内容になっていて、その点はアンバランスを覚えます。但し、これまでの諸章(2‐4章)で、ユダヤ教的文脈の中にパウロの福音理解を位置づけるということは繰り返し書かれてきていますので、パウロの福音理解がどのように「イスラエルのためのよき知らせ」なのか、本章全体を読めば十分把握できるようになっているとは思います。

続く次章(7章)は、「義認と教会」というタイトルで、いよいよパウロの義認論を本格的に扱う章となります。この前に置かれた本章(6章)は、次章に対する序章のような役割を果たしているように思います。すなわち、「義とする」「義」といった言葉から、パウロの「義認」用語理解の問題全般を扱う前に、「神の義」(dikaiosune theou)というフレーズを取り上げ、その意味内容を検討し、従来の受け取り方とは異なる観方を提示します。そして、それは、単に義認論のごく一部の用語上の問題と言うよりは、義認論を検討するための神学的文脈を形作るものとして、このフレーズを取り上げていると見ることができそうです。


2.契約・法廷・終末論

「神の義」というフレーズの意味解釈に深いかかわりを持つ三つの概念として、ライトは、契約、法廷、終末論という三つの概念を提示します。

この内、「契約」は、このフレーズが持つユダヤ教的文脈を最も表わす概念と言えそうですが、文章量からすればかなり簡単な扱いとなっています。ライトにとっては最も基本的な視点を提供する部分なだけに、もう少し詳しい釈義的な解説を望みたいところです。たとえば、イザヤ書40-55章の中では、42:6、21、45:13、そして特に51:5-8あたりが、「契約」との関わりを深く持つとみなされうる箇所ですが、それらの箇所についての具体的言及はありません。また、続いて挙げられているダニエル9章も、神の「義」についての言及は9:7一か所だけのように思えます。(民を「義」とする神のご計画については記されていますが。9:24。)これに対して、神との関わりで「義」が言及される旧約聖書の箇所は、イザヤ書以外にも沢山あるわけですが、それらは、後に出て来る一覧表の中で言えば、A1bだけでなく、A1aの意味で受け取れる箇所も多いように思います。その中で、特に「契約」との関わりが深い用法が、パウロの「神の義」のフレーズの背景にあることを示すには、もう少し説明があってもよいように思いました。

他方、ライトは、「神の義」フレーズの理解のためにもう一つ大切な要素として、「義」が法廷用語であることを示します。文章量としてはこの部分がかなり長くなっています。ライトは、この用法が比喩的な用法であることを示すと共に、ユダヤ人の一般的な裁判のあり方を背景に考えると、裁判官が義であるということと、原告及び被告が義であるということとの間に、質的相違があることを指摘します。この部分で、いわゆる転嫁(Inputaiton)説に対する否定的な言及がなされていることについては、議論の進め方として疑問の余地があると思いました(98頁)。法廷シーンを考えるとき、裁判官が義であるということと、原告や被告が義であるということとの間には、質的な相違があるということは言うまでもないことですが、この議論は、その後で出て来る選択肢でA1を選んだ場合に当てはまる議論だということに留意する必要があると思います。転嫁説の場合、「神の」の属格を起源の属格として捉えるわけですから(B1)、そもそも神ご自身の義について考えているわけではないことになりますので、ここでの義は、最初から原告または被告の「義」についての言及であるはずです。ただ、他の理由でA1を選択した場合には、基本的に転嫁説には行き着かないはずだ、という指摘としては受け入れることができるかと思います。

最後に挙げられる終末論的要素は、上記二つの要素の結合を考えた場合の、論理上自然な帰結として付加されるべきものとして示されています。


3.8つの選択肢

「神の義」フレーズの意味を考える上で、大きく言って4つ、細かく言えば8つの選択肢があるとの指摘は、議論を整理する上で大変貴重なものだと思います。

保守的な理解で主流なのは、B1aですが、神学の歴史の中ではB1bの理解もしばしば現われ、両者間での議論は色々な場面で繰り返されてきたと思います。しかしながら、その議論は、「神の義」に関わる議論のほんの一部にしか過ぎないことが分かります。この選択肢の表は、「これしかない」と考えている人に対して、選択肢の幅に気づかせる役割を果たしていると見ることもできます。ただ、それにとどまらず、多種多様な議論の存在に触れ、選択肢の多さに戸惑っている人に対しては、議論を整理し、理解するためにも大変役立ちます。

たとえば、この表を見れば、そのような多くの選択肢が、いずれも文法的には成立可能なものであるということにも気づかされます。どの選択肢を選ぶかという問題は、各箇所の文脈をどのように考えるかという問題になる、ということが分かります。ライト自身は、「一覧の下半分(B)は長い間ポピュラーであったにもかかわらず、パウロが引用したり、ほのめかしたりする多くの聖書個所を含むユダヤ的証拠の圧倒的比重によって、我々は一覧の上半分(A)に決定的に押し込められる。」(103頁)と言い、文脈からは決定的に(A)が選択されると言います。

以下、ライトが挙げる「神の義」フレーズ、あるいはその関連個所について、文法面と共に、特に文脈の確認を中心にしながら、検討してみます。


4.ピリピ3:9

「重要なことは、ここで鍵となるフレーズは、'dikaiosune theou'(神の義)ではなく、'dikaiosune ek theou'(神からの義)である。」(104頁)という指摘は、議論を混乱させないために、まず踏まえるべき大切な点だと思います。ライトは、この点を踏まえながら、ここでの「神からの義」は確かに「神からの義なる立場」であるが、他の箇所に見られる「神の義」の意味解釈とは独立して考えるべきだと示唆します。

この箇所の前後関係を含めた釈義的検討は、次章の検討の中で扱います。


5.第二コリント5:21

パウロの手紙に8回現われる「神の義」の内、ローマ書以外に記された唯一のものがこの箇所です。この箇所についての議論を理解するために、まず基本的に押さえておくべきことは、ある日本語訳で「神の義を得る」(新共同訳)と訳されているこの箇所は、直訳的には「神の義となる」(口語訳、新改訳)と訳される、という点でしょう。おそらく、新共同訳は、この箇所をB1のように理解した上で、「神の義となる」では分かりにくいという理由で、「神の義を得る」と訳したのではないかと思います。

さて、ライトは、この箇所での「神の義」を理解するために、3章以降の大きな文脈に注目します。すなわち、パウロはこれら一連の箇所で自らの使徒としての働きについて語っていますが、それは、3章で「新しい契約に仕える」務めであると言っています(3:6)。そのような彼の使徒としての務めは、苦しみや艱難に満ちたものですが(4:8、17、5:2)、ライトはそのような使徒としてのパウロの受苦を、「神の契約上の誠実さの受肉」(104-105頁)と表現します。パウロが使徒としての働きの中で数々の苦しみを引き受けることは、神が民と結ばれた契約を誠実に守ろうとして、自らに苦しみを引き受ける姿を、パウロ自身に受肉させた姿だ、ということでしょう。「いつもイエスの死をこの身に負うている」といった表現は、そのような理解も可能であることを思わせます(4:10)。そうした文脈を踏まえつつ、「神の義となる」という表現は、「神の契約上の誠実さを体言する者となる」といった意味合いで了解可能となる、という主張のようです。

このような理解は、言われてみるまでは考えもしない解釈でありながら、言われてみれば、成程と思わせる説得力のある理解で、とりわけライトらしさが現われている部分と言えるかもしれません。ただ、ここでのライトの文脈分析は、大きな文脈の把握という面では確かにその通りだと思うのですが、問題の箇所の直近の文脈を考えてみても、本当にそのように理解するのがよいのか、私としては疑問が残りました。つまり、21節の前半とのつながりをどう考えるのか、という問題です。

21節
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(口語訳)

「神の義となる」という表現は、単独では何を意味するのか測りかねる表現です。ライトは、上記のような文脈理解を踏まえて、「神の契約上の誠実さを体現する者となる」と理解しました。しかし、その文脈の中で、それでは21節前半をどう理解するのか、その文脈の中にどう位置づけるのかについては言及されていません。

そこで、直近の文脈を確認してみますと、その前の18-19節は、明らかにパウロの使徒としての務めについて語っており、特に「和解の務め」、すなわち、「和解の福音」を語る務めについて書かれています。これを受け、20節では、その「和解の福音」の中身である、神との和解への招きが書かれます。ここでの内容は、パウロの使徒としての務めから、その務めの中心である福音の中身に移っています。これを受けての21節ですから、この節は、福音の中身に関わる事柄として理解することができます。そういった直近の文脈を考えれば、この節が「神の和解」の根拠について記していると考えることは自然と言えます。

そう考えた場合、もう一つ注目すべきは、21節の前半と後半が対になっていることです。「わたしたちが・・・神の義となる」という表現も不思議な表現ですが、「罪を知らないかたを罪とされた」という表現も同様に不思議な表現です。もちろん、これは「神の和解」の根拠となるキリストの贖いのみわざへの言及と見ることができます。そのみわざは、「私たちの罪のために」なされたものであり、その贖いのみわざが意味するところが「罪を知らないかたを罪とする」という衝撃的な表現で言い表されています。この前半の衝撃的表現に呼応する形で、21節後半が記されています。すなわち、キリストの贖いのみわざの目的、結果が、21節前半に記された出来事と対になる形で、「私たちが(彼にあって)神の義となる」という表現で言い表されます。

このように文脈を理解するならば、ここでの「神の義」は、B1aで理解する他ないだろうと思います。すなわち、21節前半では、罪を知らない方、キリストが「罪とされ」ました。これは、十字架の死の出来事の中で、神が「罪なき方」キリストを「罪ある者」とみなしたことを意味するでしょう。その結果、(罪ある)「私たちが」「罪なき者」としての立場を得ることを意味するでしょう。そしてそのことは、神がキリストを「罪とされた」ことに対応するが故に、「私たちが神の義となる」という表現が採られていると考えることができます。

ライトは、「しかし、もしあなたが第二コリント5:21を一覧の下半分―多分、B1a(転嫁された義)―の意味で受け取ろうと主張するなら、あたかもパウロがおまけとしてここに投げ入れただけの小さな漂う物言いであるかのように、その節を章の残りの部分と文脈から切り離すのを見い出すであろう。」(105頁)と言うのですが、私としては、「パウロは自分に与えられた和解の福音を告げる務めについて語りながら、どうしてもその福音の中核にあるキリストの贖いの驚異的内容と、その結果について語らずにはおれなかった」というように読めます。逆に、ライトが言うように「神の義」をA1bまたはA2aで理解した場合、21節の前半と後半とのつながりはどうなるのだろうと思います。この点については、ライトのその他の文献などに当たるしかないことですが、どなたかご存知の方があれば教えて頂ければと思います。


6.ローマ人への手紙

いよいよローマ人への手紙です。この手紙の中には、dikaiosune theou(または明らかに同一と見られるフレーズ)が7回現れます(1:17、3:5、21、22、25、26、10:3(2回))。ライトは、1:17は、導入的であるがゆえにあいまいさがあって、続く内容によって明らかにされる必要があるとして、3章、10章の当該箇所の検討を先にし、最後に1:17を扱います。論旨としては、それぞれの文脈が明らかに契約を神が守られるかどうかを扱うものであり、従って、これらの「神の義」は、いずれも「神の契約的誠実」を意味することを主張します。確かに、ローマ3章あるいは10章での前後関係を見ると、神の契約に関わる文脈を見て取ることは可能であり、その意味では、ライトの主張は相当な説得力を持つものと受け止められます。

なお、これらの箇所についてのライトの議論は、主として大きな文脈を確認する点に主眼が置かれており、細かい釈義的説明はほとんどなされていません。従って、そういった面での細かい議論をしようとすれば、本書以外のライトの著作(ローマ書註解書等)に当たっていく必要があると思います。従って、ここでは、ライト自身の釈義についての検討を仔細に進めていくことはできません。

ただ、ここで扱われている議論は、義認論にも深く関わる部分であり、私自身としても長らく全く違った読み方をしてきた箇所でもあります。ライトのここでの議論を踏まえた上で、これらの「神の義」フレーズを釈義的にどう理解することができるのか、改めて検討を試みたいと思います。

(1)概論

まず、ローマ人への手紙に現れる7か所の「神の義」フレーズ全体について、概論的にいくつかの点を指摘してみたいと思います。

○B1の可能性を示唆する文脈の存在について

特に、3章、10章の該当箇所については、確かにA1b、すなわち「契約」についての文脈の存在を見てとることは可能かと思います。しかし、同時に、B1(特にB1a)についての文脈の存在を見てとることも十分可能なのではないか、と思います。詳細は、各箇所の検討のところで扱いたいと思いますが、1:17、3:21、22、26、10:3において可能だと思います。逆に、文脈から「神の契約的誠実誠実」との意味を議論の余地なく見いだせるのは、3:5くらいではないかと思います。あとの箇所は多かれ少なかれ、B1の意味に受け取る方が妥当だと思わせる前後の文脈を見てとることが可能であり、同時に見てとれる「契約」に関わる文脈の存在を考慮するとしたとしても、少なくとも議論の余地はあるということが言えそうです。

○「神の義」「義」というフレーズ、用語が選ばれた理由について

ライトの主張によれば、ローマ人への手紙に現われる7か所の「神の義」フレーズのすべてが、「神の契約的誠実」という意味に受け取れるということです。しかし、そうだとすれば、どうしてパウロは、aletheiaといった、誤解の余地のない用語を選ばなかったのかという疑問が生じます。上記文脈の問題とも関わることですが、3章にしても10章にしても、「義とする」(dikaio)という動詞が使われており、これは明らかに神が人を義とするということ、すなわち、神が人に与えられる義について語るものです。そういった前後関係の中で、「神の義」というフレーズを使えば、起源の属格としての「神の」と理解されかねない(実際これまで多くの注解者がそう理解してきました)ことを承知の上で、なぜこの言葉を使い続けたのか、という疑問が残ります。

○7か所の「神の義」がそれぞれ少しずつ異なる意味合いで使われながら、有機的な連関を持つフレーズとして使われた可能性について

しかしながら、7か所の「神の義」フレーズの中には、ライトが主張するように、「神の誠実」といった意味で理解する以外にはないように思われる個所もあります(3:5)。従って、「神の義」フレーズの全箇所がB1の意味で受け取れるわけではないことは明らかです。逆に、ライトが主張するように、全箇所が「神の契約的誠実」として受け取ることは、上記b.のような疑問を生じさせます。7か所の「神の義」フレーズすべてを同一の意味合いで受け取る可能性が示唆されたことは、ローマ書理解(第二コリントを含めれば、パウロ解釈)の歴史の中で大きなインパクトを持つことは確かなことですが、私としては、それぞれの箇所において異なった意味合いを持ったり、重層的な意味合いを持ったりという可能性を追求してみたいと思います。但し、そうでありながらそれらの箇所で同じ「神の義」というフレーズが使われたことには、それなりの理由があったはずです。パウロは、ローマ人への手紙以外では、第二コリントで一度使っただけなのですから、彼がこの手紙を書く上で、「神の義」というフレーズに何らかの統一的メッセージを託した可能性は大きいとも思います。

(2)1:17

ライトは、この箇所の導入的性質を考慮し、3章以降の用例の検討を先にし、この箇所の検討を最後に持ってきています。しかし、普通の手紙の読み方としては、最初から順番に読むことが普通である以上、その後の使われ方を考慮しつつも、まずは順番に読んできた場合に自然に受け取れる意味合いを考えていくことは釈義上必要なことではないかと思います。

そうすると、ここで最初に登場する「神の義」フレーズについて、読者は、文法的な面から考えれば、ライトが指摘する8つの理解の可能性のいずれもが可能なフレーズとして読むことになります。従って、直近の文脈が問題になります。「福音」がテーマになっていることは明らかです(1:1、2、15、16、17)。ライトは、この福音を「王なるイエスの、世界の主としての王的宣言」と理解します(109頁)。そして、「パウロにとって『福音』は個人的に、また非歴史的に『人がどのように救われるか』についてのメッセージではない。」(60頁)ということも繰り返し主張しています。しかし、私自身はパウロの福音理解から「人がどのように救われるか」という要素を締め出してしまうことには無理があると感じています。ローマ人への手紙を繰り返し読んでみても、やはりそのことは福音の主要テーマであると思います。ただ、「個人的な側面」「非歴史的側面」に限定することはできないと思いますが、「人がどのように救われるか」についてのメッセージを部分として含んでいるのではないか、というのが、今の私自身の暫定的な見解です(その3参照)。

ローマ1:16では、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」(口語訳)とあります。ライトは次章でも「ローマ1:16、17は福音の内容ではなく、結果についての要約を与えるものである」と書いています(126頁)。これは、「福音は(中略)救を得させる神の力である」という言葉からの可能な理解ではあっても、不可避な理解というわけではないと思います。むしろ、福音は「信じる者すべてに、救いをもたらす」というメッセージを含んでいると理解することのほうが自然なのではないでしょうか。

続く17節に入ると、いよいよ「神の義」フレーズの登場です。このフレーズのためには、これまでにも注解者が多くの説明を残しています。その中で、C・K・バレットは、ユダヤ人としてのパウロの見方を考慮しているのが注目されます。「ユダヤ人として、旧約聖書に示唆されて、パウロは救いが義を前提とすることを知っている。神の側では、救いは神の義の働きである。神の義は単に神の属性とか、正しいという性質であるだけでなく、正しく行うことにおける、そして(いわば)正義が行なわれるのを見るということにおける神の行為でもある。従って、神の義は神の擁護をもたらす。擁護するのにふさわしい人々への擁護である。この神の義についての見解は、イザヤ書と詩篇における沢山の節で特別な明瞭さで導き出される(例:イザヤ45:21、51:5、詩篇24:5、31:1、98:2、143:11)。そこでは、義はほとんど救いの同義語であるように見える。神はご自身の義をご自身の民を解放することによって表わされる。」(C・K・バレット"The Epistle to the Romans- Revised Edition"1991、Hendrickson Publishers、30頁) バレットが引用するイザヤ書及び詩篇の各箇所では、多くの場合、どちらかと言えば神の義が救いの背景としてあるように思えますが、救いの結果、人に義が与えられるという約束も見い出されます(詩篇24:5)。16節で「救い」について言及されていることを考慮すると、バレットのここでの指摘は大切な点を突いているように思われます。

更にパウロは、「神の義」が「福音の中に」啓示されると言います。「福音」をユダヤ的背景から考えれば、確かに「神の義」は神の契約的誠実を意味すると考えることも可能です。1:2で、福音と旧約聖書の約束との関わりが指摘されていることからしても、そのような理解は十分成り立つものと思います。しかし、1:16で、福音と救いとの強い関連性が示唆されていることを踏まえ、更に、バレットが指摘しているような旧約聖書個所を考慮するなら、ここでの「神の義」と「救い」との関わりを考慮することもまた自然なことです。そして、旧約聖書での用法からは、「神の義」が救いの背景とされると同時に、救いの結果として人に「義」をもたらすとの理解も可能です。そう考えると、ここでの「神の義」を「神からの義」として理解する可能性も退けることはできないと思います。(但し、この段階では「救い」と「義」の内容については、極めてあいまいであるのも事実です。)

「神の義」について、更なる検討を加えるため、文脈確認の意味も込め、続く節の検討を先に進めます。

「神の義は福音の中に啓示される」という一文に続く、「エク・ピステオース・エイス・ピスティン」もまた、注解者によって様々に解釈されます。大きくは、ピスティスを「信仰」と理解するか、「真実(誠実)」と訳すかによって理解が分かれます。また、直訳的に訳せば、「神の義は福音の中に信仰(真実)から信仰(真実)へと啓示される」となり、「信仰」と理解しても、「真実」と理解しても、何らかの説明が必要な表現になっています。「信仰」と理解すれば、口語訳や新改訳のように、「神の義」が「信仰に始まり、信仰に至らせる」(口語訳)と比較的直訳に近い形で訳すか、新共同訳か新改訳別訳のように、「初めから終わりまで信仰を通して」(新共同訳)と意訳的に訳すか、ということになります。これに対して、ライトは次にように言い、「真実」との理解を採用しています。「福音は神ご自身の義、神の契約的誠実を啓示し、表わすとパウロは言う。それはイエス・キリストの真実(faithfulness)を通して働き、そして今度は真実な(faithful)すべての人々のために働く(faithからfaithへ)。」(109頁)

続く、17節後半のハバクク2:4の引用についても、注解者たちによる議論があります。例えば、「エク・ピステオース」が「義人(正しい人)」にかかるのか、「生きる」にかかるのかという点が議論となります。口語訳は前者、新改訳、新共同訳は後者で訳しています。ハバクク書自体での意味としては、「生きる」にかかると理解するのが自然のようですが、そうだとしても、パウロはその言葉を転用して、「義人」にかかるものとして提示しているという見方も不可能ではないと思います。たとえば、クランフィールドは、「義人にかかる」と結論づける一人ですが、そのように理解する根拠をいくつか挙げながら、その一つを次のように指摘しています。「それ(「義人」にかかるという選択肢)はこの手紙の構造に極めて適合している。1:28-4:25は「信仰による義人」の解説と言ってよいし、5:1-8:39は、信仰による義人が「生きる」という約束の解説だと言ってよい。」(Cranfield, "Romans-A Shorter Commentary" Eerdmans,1985,p24)1:1-17の序論的性格を考えると、ハバクク書の引用が本文全体の構成を凝縮した形で用いられているという見方はとても魅力的です。

ここまでの文脈確認からは、「神の義」フレーズの理解において、ライトのような理解も一つの理解として成立可能とは思いますが、従来のような「神からの義」としての受け止め方も妥当と思わせるいくつもの要素のあることが分かります。私としては、パウロが多様な意味合いを含み持つこのフレーズを選んだことには、それなりの理由があるのであるのであって、いずれかの意味に限定して受け取ることは、パウロの意図に背くのではないかと考えます。

ここで、更に見ておきたいのは、1:18との関連です。1:17で手紙の序論的部分が終わりますが、「神の義」フレーズの意味合いを検討するには、本論部分冒頭に当たる1:18にも目を向ける必要があります。と言うのは、この節には、「神の義」フレーズが現われる1:17の内容と極めて関連の深い表現が出て来るからです。1:18では、「人間の不義」に対して「神の怒り」が啓示されていることが指摘されます。1:17の「神の義は、・・・啓示され」と、1:18の「神の怒りは・・・啓示される」とを比較すれば、同じ動詞(アポカリュプトー)が使われていることから、「神の義」と「神の怒り」との関連が自然に想定されます。ルターが「神の義」の福音的理解に至るまで、「神の義」を報復的義として理解し、「神の怒り」との深い関わりで理解していたというのも、理由のないことではないと思います。しかし、既に1:16において、「救い」が備えられていることが示唆され、1:17においてそれは「神からの義」として与えられることも示唆されているとすれば、「神の報復的義」の意味合いで終わらないことが既に示唆された上でのことであると理解できます。

このように、1:17の直近の文脈を確認してみると、かなり漠然とした形ではありますが、「神の義」フレーズが多様な意味合いを持って用いられようとしているとの理解が可能です。大きく言えば、ここでの「神の義」は、「神ご自身の義」について語っており(A)、同時に、「神からの義」についても示唆しているように思えます(B)。更に言えば、「神ご自身の義」の中でも、ライトが言うような「神の契約的誠実」としての意味合いを考えることも可能ですが(A1b)、1:18との比較で言えば、罪を正しく裁く「報復的義」、あるいは、ライトの一覧表で言えば、「配分的義」の要素を考慮する必要もありそうです(A1a)。

最後に、ここまでの検討結果を振り返りながら、1:17の「神の義」フレーズの理解の一つの可能性として、以下にまとめてみます。1:17「神の義は福音の中に啓示されている」という宣言により、まず、「神の義」が「福音」の中で啓示されているものであることが分かります。次に、1:16と1:17との比較の中から、「福音」を介して、「救い」と「神の義」とは深い関わりのあることが分かります。この前提において、まず「神の義」は、「救い」をもたらす背景として理解することが可能です。その場合、「神の義」はライトが主張するように、「神の契約的誠実」として理解することになります。しかし、旧約聖書の中にも、「神の義」が「救い」の背景とされるばかりでなく、「神の救い」の結果「義」が与えられるという記述が見出されることから、ここでの「神の義」フレーズを救いの結果としての「神からの義」として理解することもまた不可能ではないことが分かります。続く1:18以降始まる本論部分の最初の部分のテーマが人間の不義なる現実であり、救いを必要としている人間の現実が、神の前での人間の「不義」として表現されていることに注目すると、「救い」の結果が「神からの義」であるという理解はより説得力を持ちます。更に、1:17の「神の義は・・・啓示されている」という表現と1:18の「神の怒りは・・・啓示される」という表現の類似性からは、「神の義」が「神の怒り」との深い関わりを持つものであることが分かります。従って、「福音」の中に啓示されている「神の義」とは、人間の不義を指摘し、その罪悪に対して怒り、正当な報酬を与えようとする「神の報復的義」として、けれども同時に、そのような窮状にある人間に救いをもたらそうとする「神の契約的誠実」として、その結果として不義なる人間に与えられようとする「神からの義」として、重層的に理解することが可能です。

この手紙の序論部分に現われた1:17の「神の義」フレーズが、既に多様な意味合いで理解可能な形で現われていることを踏まえながら、以降現われる「神の義」フレーズの意味合いについて、慎重に検討していきたいと思います。

(3)3:5(1:18-3:20)

次の「神の義」フレーズは、3:5で現われます。文脈としては1:18-3:20の流れを踏まえる必要があります。ここで取り扱われる問題は人間の「不義」、「罪」の問題です。

1:16、17の検討の中で、「神の義」と「救い」との深い関わりを考えることができ、両者が「福音」の内容の本質的部分をなす可能性を指摘しました。神の契約的誠実としての「神の義」が「救い」をもたらし、その結果として「神からの義」がもたらされる、そのようなメッセージが福音の中に啓示されている、との理解が可能ではないかということでした。しかし、そこで語られている内容は、この序論的段階では極めてあいまいであることも事実です。人間の「救い」のために、どうして「神からの義」が必要であるのか、「救い」や「神からの義」が具体的には何を意味するのかが当然問題となります。本論の一番初めの部分にあたる1:18以降は、この問題に答えるものと見ることができます。すなわち、人間の不義なる現実、すべての人間が神の怒りに直面しているという問題のあること、このことのために、人間から出発した「義」が解決にならず、「神からの義」がどうしても必要であること、それこそが神の私たちに備えられた「救い」の出発点であること等を明らかにするのが、1:18-3:20の役割であると言えます。

まず、既に見たように、1:18の表現と1:17の表現の並行性を考慮すると、1:17の「神の義」フレーズは、「神の怒り」との深い関わりを持ち、「神の報復的義」の意味合いを含んでいると理解することができます。しかし、既に1:16において、「救い」が備えられていることが示唆され、1:17においてそれは「神からの義」として与えられることも示唆されていますので、「神の報復的義」の意味合いで終わらないことが既に示唆された上でのことであると理解できる、ということでした。同時に、これ以降の論述を通して、「神からの義」がどうしても必要な理由を示し、1:16の「救い」が「神の怒り」に直面する人間の窮状に対する神からの解決の備えであるとの示唆をも与える形になっています。

こうして始まる1:18-2:29は、異邦人だけでなく、ユダヤ人も、同様にこの問題に直面していることが論証されます。

続く、3:1-8においては、5つほどの仮想的質問が取り上げられます。この中で、3:5に「神の義」フレーズが現われますが、ここに現われる「神の義」は、文脈から明らかにA1、特にA1bで理解されます。仮想的質問の最初には、「ユダヤ人のすぐれている点は何か」とあり、これらの質問が特にユダヤ人との関わりで取り上げられていることが予想されます。3節では、ユダヤ人の側の不真実と神の真実(ピスティン)が対照されます。ピスティンが「真実」と訳されるべきなのは、4節で「ホ・セオス・アレーセース」と、神の「真実(アレーセース)」について記されていることからも明らかです。そして、続く5節では、3節で取り上げられた仮想的質問と同様の形で、人間の不義と神の義が対照されます。人間の不義と対照されている以上、ここでの「神の義」は、「神ご自身の義」であることが分かります。更に、7節でも「ヘー・アレーセイア・トゥー・セウー」と、やはり神の「真実(アレーセイア)」が言及されています。3:5を取り巻く文脈は、人間、特にユダヤ人の不真実と、それにもかかわらず、ご自身の義、契約的誠実に従って行動しようとされる神の真実との対照が基本テーマとなっています。

ローマ書に現われる7か所の「神の義」の中で、この箇所は唯一、ほぼ議論の余地なく、神のご性質としての義(恐らくは神の契約的誠実さとしての義)を意味すると理解できる箇所です。「神の義」フレーズを一貫してそのような意味で理解しようとするライトが、1:17の「神の義」の検討を後回しにして、3:5の「神の義」から検討を始めたのも無理はないという気がします。

しかし、3:1-8の文脈を更に詳細に確認してみると、この箇所では確かに神の契約的誠実が繰り返し語られ、確認されてはいるのですが、この部分全体の論旨は、続く3:9-20へと続いていることにも留意する必要があります。3:9で「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか」という、もう一つの仮想的質問が取り上げられます。これは、3:1の問い、「では、ユダヤ人のすぐれている点は何か」とほぼ同内容に見えます。これは、3:1-8の論議を振り返りつつ、一つの要約的結論へと導き出そうとしているように見えます。すなわち、パウロは、ユダヤ人が、「神の言がゆだねられている」(2節)という、特別な使命を託された民でありつつも、その歴史は彼らの「不真実」「不義」「偽り」を明らかにしました(3:3、5、7)。もちろん、そのことは、彼らを選び立てた神の「不真実」「不義」を意味するわけではないことをも論じてきました(3:4、5、7)。しかし、この箇所での議論の中から十分示唆されていることは、特別な使命を託されたはずのユダヤ人もまた、神の前に「不真実」であり、「不義」であったということです。但し、3:1-8では、かなり回りくどくそのあたりのことが取り上げられ、論じられつつも、どちらかといえば間接的な言い方で終わっているようにも見えます。しかし、3:9-20の部分で、3:1-8の最初の仮想的質問に立ち返りながら、一つの結論へと接近します(3:1、9)。すなわち、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という結論です(3:9)。続いて、「義人はいない、ひとりもいない」以下、詩篇の言葉が引用され、すべての者が罪を犯し、義人と言える者がないことを論証します。従って、3:1-8において、人間の不真実と神の真実、人間の不義と神の義とが対照されていることは事実ですが、続く3:9以降の文脈を見れば、そこでの論述の焦点は両者の内、人間の不真実、不義の方に当てられていっているのが分かります。この文脈を確認することは、3:21以降の「神の義」フレーズの理解のために大切と思います。

また、3:9「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」という結論から、直接3:21に続くわけでないことにも留意する必要があります。「ユダヤ人もギリシヤ人も」という罪の事実の全人類性が指摘された後で、もう一度「律法のもとにある者たち」、すなわちユダヤ人に焦点が当てられます(3:19)。その結論として記されるのは、以下のことです。「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とされないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」これは、続く3:21以降の意味を考える上で大切な内容です。

1:18-3:20全体を振り返ってみると、人間の不義なる状態、罪ある現実が主たるテーマであると言えます。「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にある」(3:9)という指摘は、「それ(福音)は、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力」(1:16)との指摘に呼応しているように見えます。福音がもたらそうとする救いとは、人間の罪の現実に関わっていること、そもそも「救い」が必要であるのは、人間のこの窮状の故であることが示唆されていると理解できます。このような流れの中で、3:5の「神の義」フレーズは、確かに「神の契約的真実」を意味するものではありますが、その文脈は、そのような神のご真実に反して、人間がいかに不真実であり、不義なる存在であるかを強調しているように思われます。1:17の「神の義」が、「神の契約的真実」「神の報復的義」「神からの義」といった多様な意味合いを含み持つという理解が可能であるとすれば、3:5の「神の義」は、それ自体としては確かに「神の契約的真実」を意味しつつも、その文脈においては、人間の不義なる現状が強調されている故に、「救い」が必要であり、「神からの義」なしには、神の前に義とされ得ない存在であることをも明らかにしているということが言えそうです。

(4)3:21-26(3:21-4:25)

3:21-26には、4回、「神の義」「彼の義(明らかに「神の義」の意)」といった表現が現われます。

21節に最初の「神の義」フレーズが現われます。「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とにあかしされて、現された。」ここでの「神の義」フレーズは、ライトの視点から見れば、3:5の「神の義」と同様、「神の契約的誠実」と理解するのが正しいということになります。これまでの文脈を踏まえると、そう受け取ることは不当なこととは言えないと思います。しかし、直近の文脈を確認する限り、別の意味合いを考えることもまた、妥当なことであるように思われます。留意すべき点の第一として、冒頭、「しかし、今や(ヌニ)」という表現があります。これは、それまでの時代にはなかった、何か新しいものが言及されることが示唆されているように思われます。第二に、「律法とは別に」という表現があります。これによって、前節(20節)との強いつながりが示唆されます。20節は、直訳的に訳せば、「なぜなら、律法の行ないを通しては、すべての人(肉)は神の前に義とされない。律法を通しては、罪の自覚がある。」となります。ここで、20節の「律法の行いを通して」と21節の「律法とは別に」との間に対照があることが分かります。20節は、「律法の行いを通しては、すべての人は神の前に義とされない」と言います。21節は、「神の義が、律法とは・・・別に現された」と言います。従って、ここでの「神の義」とは、「人が神の前で義とされること」、すなわち、「神からの義」を言及するものだと理解できます。

続いて、22節を読み進めると、この箇所で第2の「神の義」フレーズが現われます。この節を直訳的に訳せば「すなわち、神の義は、イエス・キリストの信仰(真実)によるものであり、すべて信じる人に。」となります。22節冒頭「デ(すなわち)」とあり、「神の義は・・・による」とありますので、(21節を上述のように理解するとすれば)21節で「律法とは別に」、「神からの義」が現わされたと言うのに対して、ここではそのような「神からの義」がどのようにして現われるのか、「イエス・キリストの信仰(真実)による」のだということが明らかにされていると考えることができます。口語訳で「イエス・キリストを信じる信仰による」と訳されている部分は、直訳的には、「イエス・キリストの信仰(真実)による」となり、ライトは、「イエス・キリストの真実」と理解します。文法的には両方の理解が可能ですが、直後に「すべて信じる人に与えられる」と続くのですから、「イエス・キリストへの信仰」と訳すことは必ずしも不自然とは言えません。そうすると、「神からの義」が「イエス・キリストへの信仰による」ということになります。

更に続く23、24節では、「なぜなら」(ガル)と、22節の内容に対する理由が示されます。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがない(アポルトローシス)によって義とされるのである。」というのがその理由です。ここで指摘されているのは、「人が自分の正しい行ないの故に義とされる」ということの不可能性ではないでしょうか。そうだとすれば、22節を「イエス・キリストへの信仰による神からの義」の提示として理解することが更に自然となります。同時に、23節では、「イエス・キリストへの信仰による神からの義」が可能となるための根拠として、「キリスト・イエスによるあがない」が提示され、これに基づき、「価なしに、神の恵みにより・・・義とされる」道が開かれたと理解できます。

25節前半は、24節の「キリスト・イエス」を説明する形で、「神はこのお方を立てて、その血による、信仰を通しての、ヒラステーリオン(贖いの供え物)とされた」と続きます。24節のアポルトローシス(あがない)は、「義とされる」ことに結び付けられていましたが、25節のヒラステーリオンは、「信仰」と結び付けられています。「義とされる」ことの根拠が「あがない」であったとしても、それが有効となるのは「信仰」を通してであることが明らかにされています。

ここまでの文脈を通して分かるのは、3:21の「神の義」は、「神ご自身の義」、特に「神の契約的誠実」としての「神の義」としての受け止め方も可能なように思えますが、直近の文脈からはむしろ、イエス・キリストへの信仰による「神からの義」として受け取ることが自然だということでした。ところが、25節後半及び26節では、再び、「神ご自身の義」として受け取ることのほうが自然かとも思われる「神の義」フレーズが登場します。しかも、それは、25節前半を補足する文章の中に現われています。

25節後半~26節には、「その(神の)義を示すため」という表現が2回現われます。25節後半の冒頭、「エイス・エンデイクシン・テース・ディカイオスネース・アウトゥース」と、26節、「プロス・エンデイクシン・テース・ディカイオスネース・アウトゥース」で、直訳的に訳せば、いずれも「その義の提示[証明]のために」、すなわち、「神の義を示すため」ということになります。従って、ここで言われているのは、「神がこの方(キリスト・イエス)を立てて・・・贖いの供え物とされた」ことの目的は、「神の義を示すためであった」ということです。これまで辿ってきた文脈からは、ここでの「神の義」も「神からの義」を示すように予想されますが、それらの句に付記されている内容からは、逆に「神ご自身の義」との意味合いが示唆されます。まず、25節後半の「その(神の)義を示すため」に加えられているのは、前置詞「ディア」+「神の忍耐をもって、今まで犯された罪を見逃すこと」という表現です。他方、26節の(今の時に)「その(神の)義を示すため」に加えられているのは、「エイス」+二つの不定詞句です。不定詞句を直訳的に訳せば、「彼(神)が義となること」「イエスへの信仰による者を義とすること」となります。2回の「神の義を示すため」に付加されている内容を比較すると、「今まで犯された」という語と、「今の時に」という句が時代の対照を示唆していることに気づきます。これは、3:21の「しかし、今や」という表現を思い起こさせます。また、アテネの人々に対するパウロの言葉をも思い起こさせます。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。」(使徒17:30)「ディア」と「エイス」の訳し方によって、色々訳せそうですが、たとえば、以前のこととして、「神が忍耐をもって今まで犯された罪を見逃してきたこと」、そのために「神の義が示された」のであり、今の時代のこととして「神が義が示され」、その結果、「神が義となること」、「イエスを信じる者を義とすること」が可能となった、これらのすべてのことのために、キリストが贖いの供え物として立てられた、という文脈になります。25節の「その(神の)義」は、「神からの義」とも理解できそうですが、多くの注解者は、「神ご自身の義」ととらえ、「神が今まで犯された罪を見逃してきたことは、決して神ご自身の義に背くことではないことを示すため」と理解しているようです(ブルース、クランフィールド、バレット)。26節の「その(神の)義」は、その示された結果として、「神が義となること」と、「イエスを信じる者を義とすること」の両方が可能となると理解されますから、ここでの「神の義」フレーズは、神ご自身の義と神からの義との両方の意味合いを合わせ持つと理解できます。なお、ここで言われる「神ご自身の義」とは、どちらかというと、罪を正しく裁くという意味での「報復的義」「配分的義」が考えられているように思われます。

3:27-31は、再び、ユダヤ人を意識した論述になります。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(3:28)と、3:21-22で語られた「神からの義」が、「律法の行い」によるのでなく、「信仰」によることが再確認され、それによって、ユダヤ人が「律法」を持っていることの故に民族的誇りを持つことの不可能を示します。

4:1-25は、アブラハムの場合を取り上げながら、「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」ことを論証します(4:5)。

このような流れの中で、3:21-26の4回の「神の義」フレーズをどのように理解することができるでしょうか。私としては、3:21、22の2回の「神の義」フレーズにおいては、「神からの義」としての意味合いが強く、3:25の「その(神の義)義」フレーズにおいては、「神ご自身の義」としての意味合いが強く、最後に3:26の「その(神の)義」フレーズにおいては、「神ご自身の義」と「神からの義」の意味合いを合わせ持つと理解できると考えます。しかし、これらがばらばらな、相互につながりのない表現として用いられているのではなく、それらの意味合いが相互に深く関わっていることを前提として、同じ「神の義」フレーズが用いられているのではないかと思います。また、「神ご自身の義」としての意味合いの中では、これまでどちらかと言えば、「報復的義」「配分的義」の意味合いが考えられてきたように思われますが、3:5においては、「神の契約的誠実」としての「神ご自身の義」が言及されていますし、7回の「神の義」フレーズの多くにおいて、程度の差はあれ、契約的文脈を確認することは可能だと思います。

1:18~4:25全体の流れを振り返りながら、「神の義」フレーズの総合的理解を試みるとすれば、以下のようなことになるのではないでしょうか。人の不義なる現実は、神の前に義とされ得ない人間の窮状をもたらします。そのような人間に対しては、「神の怒り」が啓示されています。それ故、本来的には報復的義としての「神の義」が示されるはずですが、神はイスラエルの民を中心として、人間との間に契約を結んできたお方です。人間の不義、不真実に対して、なお真実をもって臨もうとされます。そのような中で、神はキリスト・イエスをお立てになりました。それによって、「報復的義」としての「神の義」を示しつつ、同時に、自ら神の前に義とされ得ない人間のために、キリストの贖いのみわざに基づき、信仰による「神からの義」を神は備えられました。それによって、「神の契約的誠実」としての「神の義」もまた新しく示された・・・そのように理解することができるのではないでしょうか。

(5)10:3(9:1-11:36)

第6、第7の「神の義」フレーズは、神の救済のご計画の中でのユダヤ人の位置を問う、9-11章の文脈の中で現われます。ライトが指摘するように、
ここでは、そして特に9:6-39の中では、「神が事実義であって、契約の約束を守られたかどうか」について議論されています(108頁)。しかし、10:3における「神の義」の正確な理解のためには、直近の文脈も確認する必要があります。10:1でパウロは、「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることである」と書いています。ここでは、ユダヤ人の多くが救われていないことが前提とされており、かつ救われるべきことが明らかにされています。そのような問いかけに続いて、「彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった」と記します。「救い」と「義」との深い関わりが前提とされていることに気づけば、1:17前後の文脈を思い起こすことができます。そこでは、人間の不義なる現実、それにもかかわらず、人間を救おうとする「神の契約的誠実」としての「神の義」理解が可能でした。しかし、同時に、その結果として与えられる「救い」は、「神からの義」をもたらすとの理解も可能である、ということでした。10:1で提示されたユダヤ人の救いという主題に対しては、両方の理解が成立可能のようです。しかし、「自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかった」という表現からは、「神からの義」としての理解に分があるように思えます。

(6)所感

ローマ人への手紙に現われる7回の「神の義」フレーズを検討してきました。ライトの斬新な見解に触れなければ、このフレーズをこれほど子細に調べることもなかっただろうと思います。そして、改めて自分なりに調べた結果、私自身としては従来の「神からの義」としての理解を捨て去ることはできないと感じました。但し、7回のフレーズすべてが「神からの義」として統一的に理解すべきわけでないことは確認できました。3:5の「神の義」フレーズは、「神の契約的誠実」として理解する以外には理解困難であることは、多くの注解者も認める所だということも、今回確認したことの一つです。また、その他の「神の義」フレーズも、すべて「神からの義」として理解されてきたわけでなく、たとえば、ブルースは、1:17の「神の義」フレーズについて、「神ご自身の義」、「神からの義」の二重の意味で受け取れることを示唆しているように思われます(F.F.ブルース"Tyndale New TestamentCommentaries,Romans"IVP、1985年、74頁)。また、3:25、26に現われる「その(神の)義」フレーズについては、「神ご自身の義」として理解する注解者が多いようです(ブルース、クランフィールド)。結局、7回の「神の義」フレーズのいくつかを「神からの義」として理解するとしても、他のフレーズについては、異なった意味合いで考えざるを得ませんので、その点をさしてライトは、「もしあなたがdikaiosune theouという節のどこかの箇所で、(多くの翻訳がしているように)A1bやA2aの組み合わせ以外の意味を与えるなら、全体が混乱するであろう。もしあなたがそれを明らかに一貫してこれらの意味(神の契約的誠実としての意味)を示すものとして認めるなら、すべてがクリアになる。」と言っているのでしょう(107頁)。しかし、私としては、「神の契約的誠実」としてのみ、このフレーズを受け取ることは、逆にこのフレーズが持つ意味合いの豊かさを損なうことになるのではないかと思います。

たまたま手元に持っていた注解書の中で、このような点で参考になったのは、C.K.バレットのものでした。彼は、1:17の注解部分で、「神の義」フレーズについての諸議論に対するクランフィールドの分析を支持しながら、3種類の理解のあることを指摘します(バレット前掲書31頁)。それらは、多少の表現の違いはありますが、ライトの一覧表に当てはめれば(1)A2b、(2)B1a、(3)A1bにほぼ重なるように思われます。クランフィールド自身は、これらの議論を踏まえながらも、(2)、すなわち、「神からの義」としての理解を中心に置きます(クランフィールド前掲書23ページ)。しかし、バレットは、こう書いています。「区分や細区分は我々のものであって、パウロのものではない。彼にとっては多くの思想がディカイオスネーという用語のもとに理解されている。読者はどの節を考慮する際にも、それらの意味の内いずれを退ける前にも、注意深くしなければならない。」(バレット前掲書31頁)。そのような方向性のもと、バレットは、終始、「神の義」フレーズを重層的に理解しようとしているように見えます。

バレットの注解書が書かれた際には、第2版のための序文に記すように、既に、E.P.サンダースの著作も出され、パウロの思想を理解するために役立ったと言います。更に、第2版への改訂に反映させることには間に合わなかったと言いますが、J.ダンのローマ書注解も出版されていたようです。そのような中で、「神の義」フレーズを重層的意味合いを持つものとして理解しようとするバレットの注解が書かれたことは、注目すべきことと思いました。

 

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第6章 イスラエルのためのよき知らせ(その1)

2016-09-12 17:58:44 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第6章 イスラエルのためのよき知らせ


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


我々はパウロの基本的な召しが異邦人、異教徒への使徒であることを見て来た。しかしこの召しの全ポイントは異教徒が聴くことを必要とするものはイスラエルの神、全世界の創造者のよき知らせであるということであった。異邦人は、イエスラエルの神がイスラエルへの約束、イスラエルのための目的を果たされる時、その時にのみ祝福されるであろう。

こういったことは、パウロの最も偉大な手紙の中心部分に我々を導く。また、彼の最も決定的で議論されてきた専門用語の一つ、すなわち、「ディカイオスネー・セウー」(その最も適切な翻訳はおそらく、'The righteous of God'である)に我々を導く。

言語についての覚え書き。英語の話し手は、本章及び次章で同じギリシア語語幹を翻訳する場合の二つの全く異なる英語語幹があるということを留意しなければならない。「ディカイオス」は'righteous'を意味するが、'just'をも意味する。「ディカイオスネー」は'righteousness'を意味するが、'justice'をも意味する。'righteous'や'righteousness'は現代英語の意味では誤解の余地があるが、'just'や'justice'は更にそうである。問題はもちろん、パウロはギリシア語で書いているけれども自分の言いたいことの背後にあるヘブル語聖書を知っているということであり、微妙で入り組んだ思想の連関の味わいや強調をつかむための用語や節を見つけようと、英語での表現を試みているということである。


1.契約、法廷、終末論

'The righteousness of God'(以下、「神の義」と訳します)は多くの主要かつ専門的な研究の課題である。この用語、あるいは明らかに同一と見なされうる用語はパウロ書簡において8回現われ、その内の7回はローマ書において現われる。その意味は様々な翻訳、とりわけ決定的な節、ローマ3:21-26においてはなはだ覆い隠されている。例えば、NIVはこれらの6節の中で少なくとも二つの全く違う意味に訳している。

○契約(この小見出しは長田がつけたもの。以後「法廷」及び「終末論」も同様。)

セプチュアギンタの読者にとって、「神の義」は一つの明らかな意味、すなわち「神の約束、契約に対する神ご自身の忠実さ」という意味を持つ。特にイザヤ40-55章で神の「義」は、イスラエルの強情と堕落にもかかわらずイスラエルを救う神の御性格という要素を持つ。神は約束をされた。イスラエルはそれらの約束を信頼することができる。こうして、神の義は一方では神の信頼性と同義語であり、他方でイスラエルの救いと同義語である。もちろん、イザヤのそのような描写の中心には受難の僕という不思議な人物がおり、そのお方を通して神の義なる目的が最終的に完成されることになる。(他にダニエル9章等。)

○法廷

この用語の特別な味わいの一部は、それが含む比喩から来る。「義」は法廷からとられた法廷用語である。このことは少し解読される必要がある。

1)ユダヤ人の法廷では三種の人々がいる。裁判官、原告、被告である。検察官はいない。
2)この文脈での「義」は、裁判官に適用されたときと、原告又は被告に適用されたときでは全く異なる意味を持つ。裁判官に適用された時は裁判官が事件を法に従って事件を調べなければならないことを意味する。公平でなければらなず、助けなき人々、自分以外に訴えを持ちこむ者のない人々を助け、支えなければらない。
3)原告や被告にとって、聖書的意味において「義」であることは法廷的設定においては、彼らが法廷の決定の結果としてその立場を持つことである。(
この語は、裁判が始まるまでに道徳的に正しい故に、評決で良い結果を得るに値するというような意味合いはない。)

もちろん、世俗ギリシア語での用語「ディカイオス」(義)は道徳的意味合いを持つ。このことを認めれば、この語が裁判の評決後の状態だけでなく、原告や被告の性格や過去の行為についても言及するようになるだろうということを認めることは難しくない。しかし、鍵となるポイントは、法廷の専門用語においては、「義」がこれら二人の人物にとって、法廷が彼らのために見い出すとき彼らが持つ立場を意味するということである。それ以上でもそれ以下でもない。

これらすべての結果は明らかであるが、パウロ理解にとっては大変重要である。もし法廷の言葉を用いるなら、裁判官が自分の義を原告や被告に転嫁したり、分与したり、遺贈したり、運んだり、あるいは移したりといったことはナンセンスである。義は法廷を横切って渡されうる物体や物質、あるいはガスではない。裁判官にとって義は法廷が彼のために有利に認めることを意味するのではない。原告や被告が義であることは、彼または彼女が事件を適切、公平に扱うということを意味しない。被告が裁判官の義をいくらか受け取ると想像することは単にカテゴリー上の間違いである。

それでは、神の義の契約的意味と法廷シーンから得られる比喩的レベルとを一緒にすればどうなるだろうか。神はもちろん裁判官である。イスラエルは神の前に来て自分を圧迫する邪悪な異教徒について訴える。イスラエルは自分の訴えが法廷に持ち込まれ、神がそれを聞いてくださり、神ご自身の義においてイスラエルを敵から解放してくださるのを望む。すなわち、イスラエルは義とされ、解放され、弁護されるのを望む。そして、裁判官である神は契約の神でもあるので、イスラエルは神に訴える。あなたの契約に忠実であってください!私をあなたの義によって擁護してください!(詩篇143、ローマ3:20)

もし神がご自分の民を擁護すべく行動されるなら、ご自分の民は比喩的意味で「義」という立場を持つ。しかし、彼らが持つ義は神ご自身の義ではない。神ご自身の義は契約的忠実さであって、それゆえに神はイスラエルを弁護し、イスラエルに「義」という立場をお与えになる。しかし神の義はいわば神ご自身のご性質であり続ける。

○終末論

これらすべての議論において、更なる一つの次元を加えなければらないのは明らかである。「義」言語の現われる文脈が神とイスラエルとの間の契約だとすれば、そして、その「契約」言語に特定の色合いを与える比喩的文脈が法廷であるとすれば、両方の文脈は将来の成就の存在することを命じる。終末論―イスラエルの神がついに、きっぱりと行動されるというイスラエルの望みがすべてのポイントにおいて持ち出されなければならない。

神は将来イスラエルのために擁護される。しかし、擁護されるこのイスラエルは誰なのか。すべてのユダヤ人か、ただ幾人かのユダヤ人なのか。神が遂に行動されるとき、擁護されるのは誰なのか、現在言うことができるのか。パウロの時代、多くのユダヤ人は「イエス」と答える。現在の我々の「律法の行い」が我々の神の民と見られることを示すと。こうしてパウロが粉砕しようとして苦しんでいた「行いによる義認」の神学が起こる。


2.鍵となる用語のための選択肢

「神の義」という節が学問上の議論で考えられきた少なくとも四つの全く異なる意味が存在する。

ここでの基本的な区別は、「神の義」を神ご自身の義についての言及とみなす人々(B)と、人間が神の前に持つ義の状態についての言及と見なす人々(A)との間にある。更なる細区分もまた重要である。

「神の義」―解釈の選択肢
A.神ご自身の「義」
  A1.道徳的性質としての義(所有の属格としての「神の」)
     A1a.「配分的義」(ルターが信じて育った考え方。悪を罰し、善に報いる神の道徳的行為)
     A1b.「契約的誠実」(私が推奨したい選択肢)
  A2.神の救い・創造の力としての義(主格的属格としての「神の」)
     A2a.契約的誠実の諸行動(A1b.に非常に近い)
     A2b.非契約的世界破滅の諸行動(エルンスト・ケーゼマン、神の救い創造する行為は単にイスラエルだけでなく全世界を支配する))
B.人間に与えられた「義」
  B1.「神からの」義なる立場としての義(起源の属格としての「神の」))
     B1a.「転嫁された義(立場)」(ルター)
     B1b.「分与された義(性質)」(B1a.とB1b.との間で何百年もの間際限なく議論されてきた。)
  B2.「神の前に来る」性質、あるいは「神に役立つ」性質としての義(目的の属格としての「神の」)
     B2a.神によって認められる自然な性質(アブラハムの場合のような?)
     B2b.神からの、そして神に認められる特別な賜物

我々は、これら多くの競合する選択肢の間でどのように決めるべきだろうか。一覧の下半分(B)は長い間ポピュラーであったにもかかわらず、パウロが引用したり、ほのめかしたりする多くの聖書個所を含むユダヤ的証拠の圧倒的比重によって、我々は一覧の上半分(A)に決定的に押し込められる。実際、ユダヤ的文脈はこの選択肢を好む非常に強い前提を造り出すので、もしパウロがそれに対して全く明瞭に否定するのでなければ覆され得ないが、パウロは全くそうしてはいない。

(A)の中の異なる選択肢の間で我々はどのように選んだらよいのか。「配分的義」(iustitia distributiva)という古い考えはラテンの見当違いとして退けてよい。ケーゼマンの新しい提案も、無邪気な不可能として退けてよい。(彼がこの特殊で専門的な意味のために引用するテキストは、実際には彼が言うような意味を持っていない。)それゆえ、我々には密接に関連した二つの意味(A1b、A2a)が残されている。それらは神の契約的誠実と関わっている。所有の属格と主格的属格との間の文法的区別はパウロがここで得ているものをあまり正当に取り扱ってはいないので、恐らくはこれら二つの意味を隔てる線を消すべきであろう。

もちろん、これらすべてを試験するのは、書簡のテキストであり、特にローマ書である。


3.パウロの手紙における「神の義」


○ピリピ及び第二コリント


ピリピ3:9「信仰による神からの義」

鍵となる節は、'dikaiosune theou'(神の義)ではなく、'dikaiosune ek theou'(神からの義)である。余りにもしばしば学者たちはこの節が'dikaiosune theou'の用法の判断基準となりうると言ってきたが、これは不可能である。ヘブルの法廷に戻って考えれば、ここにあるのは擁護された側が法廷の決断の結果持つ「義」、すなわち立場のことである。これは、「神からの義なる立場」であって、「神ご自身の義」ではない。


第二コリント5:21「その結果、彼にあって私たちはdikaios theouとなることができた。」

今度は確かに「神の義」である。何世代もの読者たちはそれを一覧の下半分、特にB1aの意味の明らかな証拠と見なしてきた。しかし、パウロは義認について語っているのではなく、自分自身の使徒的な働きについて語っており、彼はこれを新しい契約の務めとして既に3章で描いてきた。ここでのポイントは使徒たちがキリストの使者であり、それゆえ使徒としての働きは苦しみ、恐れ、外見上の失敗を含んでおり、それ自体神の契約上の誠実さの受肉であるということである。彼らは実際、神の誠実さを体現している。メシアの死は彼らの外見上の失敗を取り上げ、今や彼にあって、彼らは「神の義」である。すなわち、彼らが宣べ伝えているメッセージの生きた体言である。

第二コリント5:21のこのような読みは、その節を周囲の文脈全体に大変密接に結び付けるので、そのことはその読みの正しさを示している。しかし、もしあなたが第二コリント5:21を一覧の下半分―多分、B1a(転嫁された義)―の意味で受け取ろうと主張するなら、あたかもパウロがおまけとしてここに投げ入れただけの小さな漂う物言いであるかのように、その節を章の残りの部分と文脈から切り離すのを見い出すであろう。


○ローマ3章

3章の初めで、パウロは2章の終りで提出された問題と格闘している。神は今や契約を更新し、しかもユダヤ人と異邦人が共に属し、割礼のバッジが不適切となった共同体と共に更新された。これは神がユダヤ人への契約的約束を忘れたことを意味するのか。この文脈の中で5節は明らかに神ご自身の義について言及する。

「我々の不義が神の義を確立するのを助けるなら、神が罰することは正しくないでのでしょうか。」

「義」の意味は直前の節にある神の誠実あるいは不誠実の概念に密接に関連している。問題となっている節は、イスラエルの召し、神のイスラエルに対する約束、イスラエルが自分の目的を達成するのに失敗したことに関わっている。これは我々が「契約の神学」と呼んでもよいものである。この文脈で、「神の義」は最も自然に「神の契約的誠実」を意味する。

パウロはこの章の後半でもこのテーマを捨てない。そこでは、わずかの短い節で彼は自分のメッセージの中心を描き出す。(ローマ3:21-26)'justify'、'justifier'、'justification'は、ギリシア語では'righteous''righteousness'と同じ語根を持つことを思い出そう。

3章20節に至るまでにパウロは異邦人世界が創造主なる神に触れず、その結果裁きのもとにあるが、ユダヤ人もまた、契約を与えられたにもかかわらず、自分たちの仕事に失敗したことを示してきた。全人類はこうして神の比喩的法廷の被告席にある。法廷の図式ではそれはもはや原告として神の前に来るイスラエルの訴訟ではない。異邦人もユダヤ人も同様に罪ある被告である。法廷シーンが重要なメタファとなる契約のシナリオで言えば、神は契約に対して誠実であろうとされ、神の意図はイスラエルを擁護し、イスラエルの誠実を通して、全世界を救うことであった。しかし、イスラエルは全体として不誠実であった。神は何をされるか。

パウロの答えは、メシア、王なるイエスが真の誠実なイスラエルであるというものだ。引用された節の濃縮された神学の下にパウロの中心的福音のシーンが存在している。イエスの死と復活であり、そのポイントにおいて、またその手段によって、イスラエルに対する神の契約的ご目的、すなわち、世界の罪を一度限り決定的に扱おうとするご意図が最終的に達成されたのである。神はイエスの十字架において罪を扱われた。神は今やイエスを死からよみがえらせることにより、イエスを擁護された。「イエスの誠実さ」(3:22)はこうして神の義が示される手段となる。神はご自身、約束をなし、それらを守られた契約の神として義である。法廷のメタファにおいて、神はご自分の言葉に対して真実であり、公平であり、罪を扱われた。神はそれゆえ助けなき者を擁護された。彼は「信じる者を義とする者」である。このような、契約的誠実さとして理解され、法廷のメタファで見られる神ご自身の義のテーマはこの重要な節の鍵である。

パウロは繰り返し基調をなすポイントを強調する。イエスの福音は神の義を表わす。そこにおいて、神ご自身が義であり、その一部として神は信じる者を義と宣言するお方である。もう一度我々は「義なる」立場、すなわち人間がキリストにある神の恵み深い表決の結果として持つ立場があることを主張しなければならない。パウロはそのことについて完全に満足する。我々は次章でそれを考察するであろう。しかしパウロは「神の義」という節をそのことを示すためには用いない。神の義は神ご自身の義である。ローマ3章のこの決定的な節において、彼は神が既に概述したすべての意味でいかに義なるお方であるかを示している。もしあなたがdikaiosune theouという節のどこかの箇所で、A1bやA2aの組み合わせ以外の意味を与えるなら、全体が混乱するであろう。もしあなたがそれを明らかに一貫してこれらの意味を示すものとして認めるなら、すべてがクリアになる。

ローマ3:21-4:25は全体として神ご自身の義を展開し、ほめたたえている。


○ローマ9-10章

このことは、dikaiosune theouの意味にとって別の決定的な箇所、ローマ9-10章の明瞭な読みのために我々を備える。再び、「義」という言葉は、神の民が今や持っている立場を意味する。しかし、これは神ご自身の義ではない。決定的な節は10:2-4である。

この節は事実9:6-39の議論全体を要約している。そこでは、「神の義」という節は現われないが、議論全体は、神が事実義であって、契約の約束を守られたかどうか、もしそうだとしたらどのようにしてなのか、についてのものである。用語としては現われていないが、文脈全体はまさしく神の義についてのものである。イスラエルは神がその歴史の中で正しく真実に行なって来られたことについて無知であった。しかもユダヤ人だけのための義なる立場、契約的メンバーシップの立場を確立しようとして、イスラエルは神の義に従わなかった。契約は常に世界中の家族を思い描いていた。イスラエルは、契約を担う者として自分自身の特別な立場に固執し、契約が造られた目的を裏切った。

パウロがイスラエルは「神の義に従わなかった」と言う時、彼は明らかにローマ3:21-26に戻って言及している。そこでは、パウロは、神の義がイエス・キリストの福音において示されたと主張した。その福音は、神がユダヤ人も異邦人も、すべての者のために救いのための一つの道を持っておられると宣言するものであると。ユダヤ人がイエスを拒絶したとき、彼らがパウロの伝えたイエスについてのメッセージを拒絶し続けたとき、底にある理由を彼は見る。彼らは彼らだけのものであるはずの契約的メンバーシップの概念の廃棄が、そのメッセージによって意味されることを悟っていたのである。ローマ9-11章の偉大な議論は進んで、そのクライマックスにおいて最も重要な記述に達する(ローマ11:27)。パウロはメシアなるイエスにおいて起こる契約の更新は、異邦人だけでなく、ユダヤ人のメシア・イエスへの信仰に来るユダヤ人のためにも有効となるという希望を固く抱いている。


○ローマ1:17

最後に、ローマ1:16-17に戻ろう。このしっかり包装された記述はパウロによって、その手紙の残り全体を通して解きほぐされていく。我々はそれを続く我々の読みの光の中で理解しなければならない。

パウロは福音、すなわち王なるイエスの、世界の主(世界中及び特にローマ自体でも)としての王的宣言を、なぜ彼が切に宣べ伝えようとしているかを説明している。福音は神ご自身の義、神の契約的誠実を啓示し、表わす。それはイエス・キリストの真実(faithfulness)を通して働き、そして今度は真実な(faithfel)すべての人々のために働く(faithからfaithへ)。言い換えれば、パウロがイエスは主、世界の主であると宣言するとき、彼はその行為と宣言において、世界の前に次のことを明らかにしている。すなわち、全世界のひとりの神がご自身の言葉に対して真実であられ、創造物を侵略してきた悪を決定的に取り扱い、正義、平和と真実を回復しようとしておられるということである。

これはパウロがローマ教会に、そして全世界に理解してほしい根本的な事柄である。


結論:イスラエルと世界の神

パウロは使徒行伝における説教の一つで、「神の恵みの福音」について語っている(使徒行伝20:24)。これは、手紙の中でも最も偉大な手紙の偉大なテーマである。ローマ書はしばしば、法的、あるいは法廷的神学の解説としてみなされている。しかし、それは間違いである。法廷は議論の鍵となる段階で重要なメタファを形成している。しかし、ローマ書の中心にあるのは愛の神学である。

もし我々が「義」という表現を法廷的メタファとしてのみとらえるなら、法的取引、一つの冷たいビジネス、神によってなされたほとんど思想のトリックであるような印象を与える。そのような神は論理的で正しいかもしれないが、人が礼拝したくなるようなお方ではほとんどない。しかし、我々が「神の義」を神の契約的誠実として理解するなら、思想のすべてのつながりを総括する言葉がある。「神の愛」である(ローマ5:6-11、8:31-39)。もし私が提案してきたようにdikaiosune theouを理解するなら、義と愛を互いに対抗させることはできない。神の義は行為における神の愛であり、苦しむ世界の間違いを、それらをご自身に引き受けることによって正そうとするものである。

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第5章 異教徒たちのためのよき知らせ

2016-06-26 17:28:22 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第5章 異教徒たちのためのよき知らせ


【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


(パウロ研究においてパウロのユダヤ的文脈に注目すること主流になっていることを踏まえつつ)私は振り子を逆に揺らしたいわけでは決してない。しかし、私はパウロ研究の学門領域が近年、全体としてそうすべきほどにはパウロの非ユダヤ教的文脈を真剣に受け取ってこなかったのではないかと思う。

パウロは結局は自分自身を異邦人への使徒として描いている。彼はユダヤ人のためのメッセージを持っているが、これは単に異邦人へのメッセージの反射に過ぎず、彼の主要な目的ではない。

私はパウロとユダヤ教というトピックと結びつけるために、同様に興味をそそるパウロと異教主義というトピックに光を当てたい。

ここで「異教徒」とは、基本的にユダヤ人でもクリスチャンでもない人々を示し、彼らが発展させた世界観の暗示的内容を伝える。


1.起源と対峙

人々が異教的文脈の中でパウロを研究するとき、通常パウロの鍵概念の起源を探そうとしてきた。しかし、学界ではこれは大きく流行遅れとなっている。パウロ研究においてはその思想がどこから来たかを調査するよりも、どこへ向かっているかを確立することが重要である。「方向性」は「起源」よりも重要である。「対峙」は、「概念」と同様に重要である。これが私の方法論上の提案である。

内容上の提案は次のとおりである。パウロのメッセージの方向性は異教主義への対峙である。彼は彼らのためのよき知らせを持っていた。しかし、それは彼らの世界観を傷つけ、それを本質的にイエスを巡って改訂されたユダヤ教の世界観に置き換えるよき知らせであった。

もちろん、パウロの手紙はノンクリスチャンの異邦人に宛てて書かれたものではない。非ユダヤ教徒に対するパウロのメッセージ内容を見つけるためには、それらの手紙の背後に想定される仮説上の実在物に至るために、手紙から資料に基づいて推定しなければならない。

私は仮定的な抽象的神学的枠組みを求める代わりに、宣教と教えを含む異邦人の間のパウロの働きを求める方がはるかによいと思う。

もし単に起源よりも方向性が第一のゴールであるなら、我々が見つけるのを期待しなければならないものは単に多様性ではなく対峙である。これは宗教史的方法が通常期待に背く分野である。宗教史的方法が見つけることが困難なのは、一方で議論上の引き込みであり、他方で内側からの批判である。


2.議論上の引き込み

「議論上の引き込み」によって意味するのは、パウロが自ら言っているように、すべての人々に対してすべての物になるということである(第一コリント9:22)。彼は口を大きくあけた文化的ギャップを越えて自分のメッセージを叫ぶことはしない。使徒17章は、パウロ自身がで述べる「すべての考えをとりこにしてキリストに従わせる」という原則(第二コリント10:5)を例証している。すべてのものはキリストを通して、キリストのために造られた(コロサイ1:17)。それゆえ彼は、対抗する思想システムから鍵となる概念を引き出し用いることを恐れる必要がないのである。

これは妥協したとか、混交主義への危険な坂道を滑り落ちたとか言うことを意味しない。異教主義に対するパウロの対峙はもちろん鋭い。しかし、パウロは二元論者ではなかった。異教主義への議論上の引き込みの根底には、創造された世界のよさについてのラディカルで深く根ざした肯定があった。

パウロの異教主義に対する議論上の引き込みの根本的理由は、いかにして一人の神の目的がついには全世界を含むようになるかについてのユダヤ教的待望の中に見い出される。この点を一旦評価すると、異邦人へのパウロの宣教は正しい光の内に見られうる。異邦人への宣教はイエスの死と復活、御霊の到来の出来事においてイスラエルの回復の約束が事実成就したというパウロの信仰の自然な結果である。メシアの死と復活は神の計画のかしら石であり、ただイスラエルばかりか全世界の真のエクソダスのためであった。

パウロの中心的信仰はこうして自然に議論上の引き込みが本質的となるような宣教を生みだした。異邦人が必要としたのは正確にユダヤ教のメッセージ、あるいはむしろメシアなるイエスにおいて成就されたユダヤ教のメッセージであった。


3.内側からの批判

パウロは自分の召命が預言者のそれであると示唆する。預言者はイスラエルを非ユダヤ教の立場から批判はしない。預言者の仕事は伝統の心根から語ることであり、伝統を代表していると主張しながら実際にはそれを放棄している人々を批判し、警告を与えることである。

ガラテヤ3-4章、ピリピ3章、ローマ書のいくつかの箇所のような節でパウロが自分自身に引き受けているのはこの仕事である。

パウロは異邦人の立場に立つところからは大変遠く、その代わりに偉大な原預言者、モーセの立場を採り、誤った民のために契約の神に嘆願している(ローマ9:1-5、10:1-2)。

イスラエルがイエスの招きを拒み、イエスについての使徒らのメッセージを拒んだのは、すべてを焼き尽くすような彼女の関心となったもの、すなわち国家的、民族的、境界的アイデンティティに挑戦するからである。彼女は「他のすべての国々のような」国になる危険があるパウロはみなしている。血と土は異教の国々の特徴である。イスラエルはトーラーと割礼をまさにそのようなものを強調するために用いている。彼女の割礼は単なる異教スタイルの切断になった(ピリピ3:2)。トーラーへの彼女の固執は諸霊と諸力に対する単なる異教スタイルの忠誠になった(ガラテヤ4:8-11)。


4.挑戦:リアリティとパロディ

1世紀の異教徒世界は、いわゆる「キリスト教への備えができた」状態では決してなかった。犠牲、聖なる日、託宣、吉兆占い、神秘カルト、その他沢山のものがパウロの聴衆の日常世界の一部となっていた。

パウロの異教徒世界への挑戦は、リアリティの真理を告げることであり、異教主義はそのパロディに過ぎない。このことが当てはまる六つの領域を示したい。

(1)神と創造物

まず、パウロは真の神と神の手のわざとしての被造物のリアリティを提供した。このことをパウロはリアリティとして見た。それは、創造主の存在を意識しつつも常に創造主を被造物内の物や力と同一視する異教主義に対抗してのことだった。これは通常のユダヤ教の見解と関連してのことだった。パウロがイエス・キリストの御顔に示されたと見る神に対する熱心は、異教の偶像主義に対する通常のユダヤ教的批判のよく練られ、新鮮に組織化されたバージョンを彼に与えた。(コロサイ1:15-20)

(2)カルトと宗教

2番目に、パウロはカルトについての明確な挑戦を提供した。異教世界にはあらゆる種類の神がはびこっていた。犠牲は至るところにあり、その結果として第一コリント8-10章の問題をもたらした。この問題への彼の答えの一部がクリスチャンの聖餐論を制定する。聖餐はパウロにとって教会が真のエクソダス共同体であることを示す祭りである。同時に、聖餐は悪霊の食卓に挑戦する祭りでもある。

(3)権力と帝国

3番目に、パウロは異教主義に対して権力、特に帝国についての明確な挑戦を提供した。ピリピ2、3章で、パウロはローマ帝国の主題にあって、カエサルを表現するために通常使われる言語を用いてイエスについて語っている。ローマ帝国では「カエサルは主である」ということが公式であった。パウロはこれに対しノーを言い、「イエス・キリストは主である」と言った。

(4)真の人間性

4番目に、パウロは異教主義において売りに出された人間性のあり方の力を破壊する、真の人間性のあり方を述べた。いわゆる彼の倫理的教えや共同体の発展において、彼の神学や、キリストと共に死に生きる新しい生き方の実践において、人間の純粋な生き方と見る所を彼は回心者たちに繰り返し教えた。

(5)世界についての真のストーリー

5番目に、パウロは異教徒の神話体系に反対して、世界についての真のストーリーを語った。パウロは聞く者たちにリアリティを受け入れるよう招いた。それは、ただあの世の面に見えないリアリティを意味する「霊的」リアリティでもなければ、個人的な「霊的」経験でもなく、地上のリアリティ、ナザレのイエスとその死と復活の血肉をもったリアリティであった。更にパウロは、全世界がどこかに行こうとしていることを含むストーリーを語った。(ローマ8章、第一コリント15:3-8)

(6)哲学と形而上学

6番目に、パウロはローマ世界の主要な異教哲学に対する暗黙の挑戦を提供した。キケロがBC1世紀のギリシア・ローマ世界の主要な哲学的オプションとして挙げたストア派、エピキュロス派、アカデミア学派に対して、パウロはキリストと御霊を巡って描かれ直した本質的にユダヤ教的な神学によって対峙したことであろう。(使徒17:22-31参照)


結論

我々は今やタルソのサウロのアジェンダ(2章)と使徒パウロのアジェンダとを比較対照するポジションにいる。

第一に、タルソのサウロのように、パウロはイスラエルの神が異教主義と闘われると信じていた。しかし、武器、すなわち暴力や民族的偏見と言ったものによって打ち負かそうとするのでなく、使徒パウロは真の神がご自身を十字架につけられよみがえられた御子を示し、全世界を悔い改めと忠誠に召しておられることを異邦人世界に告げることが自分の仕事だと信じていた。

第二に、タルソのサウロのように、使徒パウロはイスラエルの神が不忠実なイスラエルの民とも闘われると信じていた。サウロはそのようなユダヤ人仲間を暴力や更なる厳しいトーラーの強制によって排除しようとした。パウロは異邦人世界をアブラハムの家族の中に勝ち取り、生まれつきの枝がねたみを起こし、踏みつけにしていた特権に立ち返るようにすることが自分の仕事だと信じていた。

それ故、タルソのサウロのように、使徒パウロはイスラエルの神が全世界の一人の神であることを示すような偉大なみわざにおいて、聖書の預言が実現するよう計画されていると信じていた。しかし、サウロと違い、パウロはその偉大なみわざが既に起こったと信じていた。ローマへの軍事的勝利の代わりに、イスラエルの代表としてのイエスは神の民と全世界の民の真の敵である罪と死とに勝利された。

サウロのように、パウロは現代、人は誰が真の神の民のメンバーであるかを語ることができると信じていた。サウロにとってそのバッジはトーラーであった。しかし、パウロにとってそれは信仰であった。これは、続く2章で見るように、「信仰義認」の教義が異教世界へのパウロのミッションに決定的に関わりを持つようになるポイントである。それはたとえばコリントの戸惑う異教徒に対して通りで彼が告げようとするメッセージではなかった。それは、回心者が実際自ら神の民の一部であることを確信するために知る必要のある事柄だった。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)


パウロの主張のユダヤ教的文脈を強調してきたライトですが、パウロが異邦人への使徒として召されていたことを無視するわけではありません。特に、この章では、「私はパウロ研究の学門領域が(逆説的なことにミークスやベッツ、その他の人々を含め)、近年、全体としてそうすべきほどにはパウロの非ユダヤ教的文脈を真剣に受け取ってこなかったのではないかと思う。」(77頁)とさえ言いながら、パウロがギリシアーローマ世界の異教徒たちに対してどんなメッセージを持っていたのかを示します。

ただ、もちろん、ユダヤ教的文脈を無視するわけではなく、むしろパウロの持っていたユダヤ教的文脈を踏まえつつ、そこからどんな異教徒への福音として提示していったのかを示そうとします。そのために、「起源と対峙(Derivation and Confrontation)」という、これまでも何度か言及してきたキーワードを用います。ここでは、起源=ユダヤ教的文脈、対峙=異教徒世界へのメッセージ、といった整理の仕方ができるようです。

「対峙」という表現から予想されるように、ここでの「福音」は、「そのままでよい」といったメッセージではもちろんなく、むしろ、異教徒世界が持つ世界観に変革を迫るものであり、挑戦として描かれています。ただ、闇雲に否定しかかるやり方でなく、「議論上の引き込み(Polemical Engagement)」と名づけられたやり方を用いたことを指摘します。これは、混交主義的な考え方では決してなく、すべてのものは一人の神によって創造された、根源的にはよきものであるとの基本理解に立ち、メシアの死と復活がただイスラエルばかりか全世界の真のエクソダスのためであったことに根差したものであると言います。

より具体的には、「挑戦:リアリティとパロディ」の節で6つの挑戦的領域を持っていたと指摘します。「神と創造物」、「カルトと宗教」、「権力と帝国」、「真の人間性」、「世界についての真のストーリー」、「哲学と形而上学」の六領域ですが、いずれも異教徒的宗教観、世界観、価値観、倫理観への挑戦として、パウロのメッセージを分析しています。

本章最後に置かれた「結論」は、本章単独の結論というより、2-5章全体の結論と受け取るのがよさそうです。これらの章は、タルソのサウロが持っていたユダヤ的希望を明らかにするところから始まり、キリストの十字架の死と復活を中心に置きつつも、そのメッセージのユダヤ教的文脈を明らかにし、特にパウロの三位一体論がユダヤ教的唯一神論をベースにするものであることを指摘すると共に、パウロのメッセージがユダヤ教的文脈を踏まえつつも異教徒への使徒として挑戦的メッセージを持っていたことを示すところで終わっています。本書全体の基底部分を提示する第一部として理解することができそうです。こういった流れを受けて、タルソのサウロと回心したパウロとの共通点及び相違点をまとめたものとして、この部分を理解することができます。

最後に、本章で扱われているのは、「異教徒へのよき知らせ」ということですので、「異教徒」が大多数である日本での宣教の場面で聴き慣れているメッセージがどんなものかを思い浮かべ、比較してみました。そうすると、本章で「異教徒へのよき知らせ」として示されている内容は、普段聴き慣れたメッセージとはかなり違った趣を持っていることに気づかされます。「世界観変革への挑戦」といった方面から福音提示がなされることは滅多にありませんし、そのようなメッセージがなされると、それは即インテリ向けのものとして受け止められるのではないかと思います。更に言えば、それが聴く者に「よき知らせ」として理解されるだろうかと考えると、ちょっと難しいのではないか、と思いました。第3章で、「ユーアンゲリオン」の非ユダヤ教的背景としては「皇帝の大きな勝利、誕生、あるいは即位の宣言」を意味したという線からは理解できなくはないとも思いますが、本章タイトル"Good News for the Pagans"からすると、どこがどう「よき知らせ」なのか、更なる説明が必要とされるように感じました。

ただ、パウロのメッセージの中には、こういった要素が常にしっかりと入り込んでいるのではないか、という問題提起としてはとても大切な点を衝いているように感じます。このような側面を全く排除した福音提示もまた、パウロのメッセージを狭めているということは言えそうです。実際的な福音提示に、時にはこのような方面からの切り口を含めつつ語ることは有効ではないか、と感じました。

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