長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

19章 その1

2015-06-20 14:52:24 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


[最後の章は「結論」と題され、これまでの研究結果の総括が述べられます。]

この研究で我々はクリスチャンの回心―入信式に含まれる三つか四つの要素と三つの関係者があることに気付いた。これらの要素と関係者のそれぞれは、キリスト教の三つの主要な流れに特徴的な強調点であると言われうる。カトリックは教会と水のバプテスマ(と按手)の役割を強調する。プロテスタントは個人と宣教及び信仰の役割を強調する。ペンテコステ派は御霊のバプテスマを与えるお方としてのイエス・キリストと御霊のバプテスマの役割を強調する。

カトリックの教義は何世紀にもわたる自然な発展であった。御霊がより経験の問題ではなくなり、信仰の対象となっていったとき、モンタニストの行き過ぎ(と正典の完結)の結果として直接的な霊感が疑わしくなったとき、回心―入信式の最も実体的で公的な要素がなお一層注意の焦点となることも当然であった。信仰と御霊は統制され得ないが、水のバプテスマは統制されうる。そこでは、コントロールがなされうるし、秩序が維持されうる。御霊はますます「教会」に限定されるようになり、事実上「教会」が御霊より上に立つまでになった。どの点から見ても事実上御霊は教会の所有物となり、御霊の賜物は儀式行為に結び付けられ、それによって決定づけられ、御霊を授ける権威は監督に制限されるようになった。何世紀にもわたり、この礼典的教義はますます魔術的になり、回心―入信式は水のバプテスマに焦点づけられるどころか、全くそれと同一視され、西方教会ではずっと遅れた「残り半分」である堅信礼と同一視されるようになった。

この極端な礼典主義と司祭制主義に対抗してプロテスタントは反応し、その反応の中で強調点は水のバプテスマから宣教と個人的信仰に移動し、権威の中心は教会よりもむしろ聖書に置かれるようになった。多くの者にとってこのことは重点を信仰、すなわち水のバプテスマとは区別され、それ以前のものとしての信仰に置くことを意味するようになった。信仰は宣教の役割と共に高調され、水のバプテスマの役割は引き下げられた。しかし御霊は目立つ場所に戻らなかった。それは主にプロテスタントのアナバプテスト主義に対する疑いと嫌悪による。御霊は信仰とすべてのよきわざを生む者であり、使徒時代における御霊の現われの現実性は受け入れられたが、御霊の賜物についてはそれほど語られず、賜物(カリスマタ)は使徒と共に止んだと考えられた。スコラ的プロテスタント主義において、御霊は事実上聖書に従属するものとなり、聖書は恵みと霊感の主要な手段として礼典に取って替わった。カトリックは礼典の客観性にしがみついたが、プロテスタントは聖書の客観性にしがみついた。御霊は救いのみわざにおいて主要な参与者とみなされたが、聖書から離れて経験されることはほとんどないものとされた。「聖書のみがプロテスタントの宗教である」、そして、回心は本質的に信仰による義認だけであるとされた。

初期の「熱狂主義者」のように、ペンテコステ派はこれら両極端に対して反応した。極端なカトリック主義の機械的礼典主義や極端なプロテスタント主義の死せる聖書主義的正統主義に対して、彼らは注意の焦点を御霊の「経験」に移した。我々の新約聖書証拠の調査は彼らがこの点において全く正しいことを示した。御霊、特に御霊の賜物が、最初期のクリスチャンの生涯においては「経験的事実」であるということは、あまりに明らかであって、詳述を必要としない(例:使徒2:4、4:31、9:31、10:44-46、13:52、19:6、ローマ5:5、8:1-16、第一コリント12:7、第二コリント3:6、5:5、ガラテヤ4:6、5:16-18、25、第一テサロニケ1:5、6、テトス3:6、ヨハネ3:8、4:14、7:38、39、16:7―御霊の臨在はイエスの臨在よりもよいであろう。)新約聖書記者が御霊の賜物やその経験に直接的に言及している言語に出くわすとき、自動的にそれを礼典に結び付けたり、そうすることによってしかその言語に意味を与えることができなかったり(第一コリント6:11、12:13、第二コリント1:21、22、エペソ1:13、14、テトス3:5-7、ヨハネ3:5、6:51-58、63、第一ヨハネ2:20、27、5:6-8、ヘブル6:4)、本質的に聖書の命題の肯定である信仰を好んで、描かれている経験をあまりに主観的、神秘的なものとして割引して聞いたり、御霊を実体のないものとして心理学的に説明したりするのは、我々自身の直接的御霊経験の貧困の悲しむべき注解書となっている。

新約聖書におけるこの点での強調を回復しようとするペンテコステ派の企ては大変称賛されるべきであるが、二つの不幸な側面を持っている。第一に、ペンテコステ派は御霊のバプテスマを(水のバプテスマによって表現される)回心―入信式の出来事から切り離し、御霊の賜物を回心後に続く経験とする点でカトリックに従ってきた。これは、新約聖書の教えに全く反している。ルカとパウロによれば、御霊のバプテスマはクリスチャンになることに続く何かでもなければ、クリスチャンになることと区別されるものでもない。加えて、使徒(あるいは監督)だけがもたらすことを望みえる何かでもなければ、使徒の時代に一度か二度だけ起こる何かでもない。御霊の賜物は回心の前提として回心の前に置かれようと、単に力を与えたり、確証を与えたりする賜物やカリスマ的賜物として回心後に置かれようと、回心から切り離されてはならない。御霊の賜物(御霊のバプテスマ)は、回心―入信式における顕著な要素であり、実際、新約聖書においては回心―入信式の最も重要な要素であり、焦点にあるポイントである。それは救いの恵みの賜物であって、それによって人はクリスチャンの経験と命に入り、新しい契約、教会に加わる。それは最後の分析では人をクリスチャンにするものである(例:マルコ1:8、使徒11:16、17、ローマ8:9、10、第一コリント12:13、第二コリント3:6、ガラテヤ3:3、テトス3:6、7、ヨハネ3:3-8、20:22、第一ヨハネ3:9、ヘブル6:4)。そのように御霊が教会の最初期に命を入れたとき、御霊はその到来を賜物(カリスマタ)によって表わし、その臨在を(証しする)力によって表現するのが通常ではあるが、これらは御霊の主要な目的の系に過ぎない。その主要な目的とは、信仰の段階を踏んだ(πιστευσασ)人の「油注ぎ(christing)」である。

ペンテコステ派の第二の間違いは、信仰を水のバプテスマと区別した点でプロテスタントに従ったことである。彼にとって回心は、御霊が産み出す信仰であり、その信仰は「イエスを受け、あるいは受け入れる」に至る。その結果、人は水のバプテスマ以前にクリスチャンとなるのであり、水のバプテスマはほとんど過去のコミットメントの告白以上のものではない。これは、現在のバプテストの実践と調和しているが、新約聖書のパターンとは調和しない。新約聖書記者は、信仰の決定的動き(πιστευσαι)がバプテスマから切り離されることを拒む。信仰の行為をバプテスマの前に置き、バプテスマを単なる象徴に減ずることによってであろうと、信仰の行為をバプテスマの後ろに置き、バプテスマを人の知識や承認なしに人に働く神の力の手段に高めることによってであろうと。新約聖書のいて適切になされたバプテスマは、本質的に信仰と悔い改めの行為であり、それなしには通常主なるイエスへのコミットメントが必要な表現に至らないという、救いに至る信仰を達成するものである。御霊が救いをもたらす恵みの手段であるように、バプテスマは救いをもたらす信仰の手段である。

このように、回心―入信式における御霊の賜物の卓越性と中心性を主張することによって、我々は水のバプテスマに適切な新約聖書的役割をそれ以上でもそれ以下でもない形で与えることができる。すなわち、神が御霊を与えるところの信仰の表現としてである。まず「バプテスマ」を回心―入信式の手軽な表現として用いることの拒絶は十分正当化されている。新約聖書におけるβαπτισμαやβαπτισμοσは単純に水の儀式を意味し、そのきよめる効力は体以上には届かない(マタイ3:7、マルコ7:4、ルカ3:3、ヨハネ3:25、エペソ4:5、ヘブル6:2、9:10、10:22、第一ペテロ3:21。ローマ6:4、コロサイ2:12も参照。それはただ一度比喩的に用いられている―マルコ10:38、39、ルカ12:50)。βαπτιζεινやβαπτιζεσθαιは文字通り(水で)バプテスマを施すことか、比喩的にバプテスマを施す(御霊によってキリストの中に、苦難の内に師の中に)ことを意味するのであって、決して同時のその両方の意味を持つことはない(マタイ3:11、マルコ1:8、10:38、39、ルカ3:16、12:50、ヨハネ1:33、使徒1:5、10:47、11:16、ローマ6:3、第一コリント10:2、12:13、ガラテヤ3:27)。新約聖書記者は、たとえば「(バプテスマの)しるしがその意味するところのものに等しい、あるいはその意味するところのものを働かせる」とは決して言わない。御霊のバプテスマと水のバプテスマは区別されたままであり、対置的でさえある。後者は前者の準備であり、信仰者が実際に前者を受ける信仰に至るための手段である。再び、バプテスマについての「神あるいはキリストのみわざ」とするOepkeの言葉は、彼が御霊のバプテスマを意味しているのであれば正しい。彼が水のバプテスマを意味しているのであれば、それは間違いである。新約聖書には第三の選択肢はない。

(「礼典的原則」や「礼典の教えへの受肉の土台」についての記述省略)

もし新約聖書が我々のルールであるとするなら、水のバプテスマの儀式は回心―入信式において中心的役割を与えられ得ない。それは御霊がもたらす霊的きよめを象徴し、古い命との断絶の結果を象徴する。それは信仰への鼓舞であり、コミットメントを必要な表現に至ることができるようにするものである。それは地域のクリスチャンや世界代の教会の代表としての会衆による受容の儀式である。しかし、そうでなければそれは恵みの管ではない。また、御霊の賜物も御霊がもたらす霊的恵みのどんなものもそれによって推論されえず、それに帰せられ得ない。新約聖書におけるクリスチャン生涯の始まりに呼び戻すことは、ほとんど常にバプテスマを呼び戻すことではなく、御霊の賜物を呼び戻すことであり、あるいは、その到来がもたらす霊的変容を呼び戻すことである。

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