長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

恵誕生日

2016-03-30 17:50:36 | 恵便り

先日、27日(日)は恵、10歳の誕生日でした。

友人たちと一緒に誕生日のケーキを食べました。

10年間の神様の守りと養いに感謝。

名前のように、主の恵みを証しする生涯でありますように。

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教団総会

2016-03-23 21:17:47 | 事務所便り

一昨日は、垂水教会を会場に教団総会。

事務局としては、半年ばかりかけながら準備してきたことの総決算の日でもあります。

無事終り、あとは年度末のあれこれの処理を行い、新しい年度に向かいます。

新しい職員も加わり、期待をもって新年度を迎えます。

教団諸教会も主の励ましと支えを頂きながらの歩みとなりますように。

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Happy Sheep

2016-03-23 21:14:34 | 教会便り

日曜日、地域の子どもたちの集い、Happy Sheepが行なわれました。

貞美が金持とラザロの話からメッセージ。

その後のゲームも、CS教師オリジナルのゲームで、天国行きのゲームだったそうです。

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誕生日

2016-03-23 21:11:34 | 栄一便り

もう5日前の話になりましたが、51歳の誕生日を迎えました。

手作りケーキでお祝いしてくれました。

じっくり、ゆっくり進んでいきたいと思います

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いかなご

2016-03-15 20:17:56 | 貞美便り

貞美がいかなごを作りました。

いかなごの匂いが部屋いっぱいになりました。

初めてにしてはおいしくできたのでは?

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第3章 王の使者

2016-03-05 20:26:39 | N.T.Wright "What St. Paul Really Said"

第3章 王の使者

 

【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)


パウロは「福音を委ねられ」ていた。しかし、「福音」という言葉によって彼は正確に何を意味したのだろうか。


1.現代教会における「福音」への誤解

「福音」という言葉は、特に教会のあるグループにおいては、古い神学において「オルド・サルティス」(救いの順序)と呼ばれるものを意味するようになった。「福音」は人々がどのように救われるかについての表現であると考えられている。

人々が普通の意味で「福音」と言っているのを聞いても私は全く気にしないが、ただ、それはパウロが意味していることとは違うと私は考えている。どうしてか。

○パウロの用法の背景

ギリシヤ語「ユーアンゲリオン」(福音)や「ユーアンゲゼスサイ」(福音を伝えること)のパウロの用法に対して通常想定される二つの背景は、一方ではヘブル語聖書であり、他方では異邦の(ギリシヤ-ローマの)用法である。

関連する語源のユダヤ的用法は、イザヤのよく知られた二つの節を含む。(イザヤ40:9、52:7)

これらの節は、ヤーウェのシオンへの帰還と即位、そしてバビロン捕囚からのイスラエル自身の帰還という、イザヤ40-66章全体の偉大な二重のテーマのクライマックス的宣言である。それらは一般的な「よい知らせ」ではなく、捕囚下にあるイスラエルの苦境に対する特別な「よき知らせ」である。このようなイザヤ的宣言のテーマは一世紀にも生きていた。と言うのは、第二神殿期(BC538-AD70)の多くのユダヤ人著作家にとって「捕囚からの帰還」は、まだ起こっていなかった。このことは特にクムラン文書において明らかである。「よき知らせ」は長く待望された捕囚からの解放が間近であると言うメッセージであった。

しかしながら、他の人々は、非ユダヤ教的背景が重要だと主張する。ギリシヤ世界では、学者たちには良く知られているように、「ユーアンゲリオン」は皇帝の大きな勝利、誕生、あるいは即位の宣言について語る通例の技術的用語である。新しい支配者の到来は平和の約束、世界の新しい始まりを意味した。

パウロにとって、「福音」はイザヤ的な慰めの言葉か、帝国的宣言か。私は、両者の対照は偽りであって、何年もの間新約聖書研究を誤って導いてきた偽の二者択一に基づいていると示唆したい。

語句研究において重要なのは、その概念がどこから来たかと同様、どこに行こうとするかである。イザヤのメッセージは常にヤーウェの即位についてであり、異邦の神々の廃位についてである。イスラエルの勝利についてであり、バビロンの滅亡についてである。王なる僕の到来についてであり、結果として来たる平和と正義についてである。「聖なる」用法(イザヤ)と、「世俗の」用法(アウグスト)を区別するのはよくない。

我々がパウロの「福音」をユダヤ的にすればするほど、それは帝国的カルト、あるいは他のすべての異邦主義の主張に直接的に対面する。ヤーウェが王であると宣言することはカイザルはそうでないと宣言することであった。イザヤの布告者が宣言するよう召された「よき知らせ」とはこれである。

それでは、パウロ自身は「福音」によって何を意味したのだろうか。


2.イエスに関する四重の福音

ローマ1:1-5はパウロがローマ書にとっても、神、福音、イエス、またパウロ自身の召しに対する彼の理解にとっても、種子のようなものとなるようパウロが意図したと考えるべきである。

御子に関する神の福音。神についてのメッセージであり、イエスについてのメッセージから成るもの。一つのストーリー、生ける神がそれによって世界の王となるところの、人間の生、死、復活についての真のストーリー。パウロを捉え、パウロの働きを通して全世界に現われ出ることになるであろうメッセージ。それが「福音」についての手短なパウロの要約である。

従って、それは人々がどのようにして救われるかについてのシステムではない。福音の宣言は結果として救われる人々を生みだす。パウロは数節後にはそのことについて語っている。しかし、「福音」それ自体は、厳密に言えば、王なるイエスについてのナラティブ的宣言である。

後には「信仰」について触れるであろうが。しばらくは、使者パウロによって世界になされた布告を形成するストーリーの実際の内容に集中しなければならない。

○十字架につけられたイエス

十字架がパウロの神学全体の中心にあるということは自明の理である。アブラハムへの約束の成就、偶像にささげた異教の肉の問題、バプテスマ、悪の力に対する神の勝利、神の愛の優れた啓示、ユダヤ人と異邦人の和解、もはやクリスチャンが「律法のもとに」いない理由、神が罪と死の強力な支配に対してなさったこと、そのすべての鍵は十字架である。

十字架は本来残酷な死刑の手段であった。神は世の価値観を逆にし、不可能をなされた。十字架は一人の真の神、世界の創造者がご自身の権威を奪ってきたすべての支配力に対して解放の勝利をとられたことの象徴であり、手段でもある。それこそは十字架が「福音」の中心であることの理由である。イザヤは「福音」のメッセージを携えた使者について語った。彼の預言が発展し、イスラエルの神がバビロンのすべての偶像に勝利することを強調したとき、その中心には苦難を受け、そして勝利するヤーウェの僕についての不思議な絵がその中心にあった。パウロは預言者たちに堅く足をつけながら、異邦世界に対して新しい王、新しい帝王、新しい主について語った。

この理由で、私はイエスの十字架を「諸原理と諸力」への決定的勝利として描くパウロの表現に優先性を置くことを提案する。もし我々がこれを中心に置いたとしても、十字架の意味の他の多くの表現の内何も失われるものはない。(・・・第一コリント1:18-2:8、コロサイ2:14、15、ガラテヤ4:1-11、ローマ5:12-21からの例証・・・)「福音」は実際、王的勝利の宣言である。

どのようにイエスの残酷な死が罪と死を含む諸力への決定的勝利となったのかを問うならば、パウロはすぐ答える。なぜならそれがアブラハムとその子孫を通して世の悪をもとに戻すという神の約束の成就であったからだと。そして、その成就は常に契約的成就の行為であるイエスの死に焦点がある。その瞬間は、神が罪それ自体に対する法的刑罰を執行された時であり、神の驚くべき愛が栄光の内に啓示された時である。

これは成就であって、廃棄ではない。パウロはここでユダヤ的なすべてのものを捨て去り、新しい概念を得たというのではない。

言い換えれば、イスラエルの運命―異邦人の手による苦難という運命―は拭い去られたのではなく、イスラエルの代表としてのメシヤ、イエスの死において正確にクライマックスに達したのである。パウロが「メシヤは聖書に従って我々の罪のために死なれた」(第一コリント15:3-8の「福音」の要約の始まり)と語ったとき、聖書から「証拠聖句」を見つけることができると言うのではなく、全聖書的ストーリー、イスラエルに対する神の取り扱いの偉大なドラマが一緒になったということを言っている。

○復活のイエス

第一コリント15:14、17。復活なしには十字架は福音も王的宣言の勝利も運ばず、従って救いの結果をも運ばない。パウロはイエスの死刑執行を創造主の愛が反逆的被造物に対して勝利を得る瞬間として理解している。しかし、その勝利が直ちにイエスご自身の復活に至らなければ、その勝利は全く起こらなかったのである。

パウロに関する限り、最も重要な終末論的出来事はイエスが死人の中からよみがえられた時に起こった。

パウロのような背景と訓練を持ったパリサイ人にとって復活は肉体的復活であることを把握することは重要である。第一コリント15章は二つの可能な復活理解を排除する。単なる死体の蘇生という考えと、物質的肉体の放棄という考えの二つである。

イエスの復活は、「聖書に従って」起こった(第一コリント15:4)。このこともやはり、歴史の中で孤立した出来事として誰かが復活することを予告する聖書的証拠聖句をパウロが掘り出しうるということを意味しない。彼は聖書全体のナラティブがこの方向に動くのを見たということを意味する。捕囚はイエスの死において最高潮に達した。今やイエスは死を通し、究極的捕囚を通って、ギリシヤやローマ、ヘロデ、ピラト、カヤパからだけでなく、罪と死、究極的敵からも解放された。このことは、来たるべき時代、ユダヤ教的待望の「終末」が既に起こったことを意味する。

それは、来たるべき時代が二つの段階で到来したことをも意味する。イエスの復活において、終りは既に起こったのであり、イエスのすべての民が命によみがえらされるとき、終りはなお起こるであろう。

○王なるイエス

パウロにとって「キリスト」は「メシヤ」を意味する。そして、「メシヤ」はもちろん、「油注がれた者」を意味する。このことが無視される所ではかなり多くのパウロのメッセージが手におえない程不明瞭なままであるとしても不思議ではない。

「メシヤ」はたとえば祭司のような他の人々を示すこともあり得た。しかし1世紀ユダヤ教においてその主要な指示物は来たるべき王であった。パウロはイエスが真の王であると信じていた。復活がそのことを証明した。このことを思い出させるために、「イエスース・クリストス」を「イエス・キリスト」ではなく、「メシヤなるイエス」でさえなく、時々「王なるイエス」と訳すことは害のないことであろう。

パウロの「福音」は、それゆえ「キリストの福音」であり、王を主題とするメッセージである。パウロにとってよき知らせがあるという理由は、王なるイエスの十字架の内に、またそれを通して、一人の真の神が決定的に悪に対処されたからである。シオンは、バビロンが本当に打ち負かされた時にのみ、真によき知らせを受けることができる。パウロの福音の中心に、王なるイエスの死が根底的に悪を打ち負かされたという主張がある。

パウロがイエスを王、メシヤとみなし、そう告知したと言う主張は、現在、新約学者の間で議論となっている。私がこの主張をする理由を説明しながら、その論理が実際にどのように働くのかを示したい。

ローマ1:3-4に戻る。長年、学者たちはパウロがイエスをともかくも王、メシヤ、真のダビデの子として考えていたというアイディアを否定しようとし、この節がローマ書の最初にこぼれ落ちるのを認めつつも、彼らが真の導入的定式と考える16-17節(神の義の告知)に素早く進んで行った。彼らは、3、4節を、聴衆が安心するように引用しただけの「伝統的定式」として片づけ、彼自身はそれを自分の思想の正確な要約だとは考えていなかったとする。しかし、通常、冒頭の定式を手紙の主要な主題の導入として用いるパウロが、このように大切な箇所で手抜かりをすると考えるのは愚かである。ローマ書の詳細な釈義が必要なところであるが、少なくともパウロの全思想の根底に王的神学を見い出す方法を示してみたい。

パウロが彼の「福音」として明らかに示している定式は、ダビデの子について語っている。我々は、かなり多くのユダヤ教資料、とりわけクムラン資料から、ダビデの子の思想が特にメシヤ性の概念において中心的であるということを知っている。更に、その点を支持するために通常提供される1、2の聖書テキストを知っている。(第二サムエル7章、詩編2、89篇)

それゆえ、自分の語る福音が聖書にあらかじめ約束されたものであり、その中心的人物はダビデの子孫からの者であり、神の子と定められたものであるとパウロが語るとき、この聖書テーマを正確に引き合いに出しているのだと否定することはできない。彼は、救いのメシヤ的約束がイエスにおいて実現したことを告知している。イエスはイスラエルばかりか全世界の王である。パウロがローマ書全体でこのテーマを繰り返し扱っているのを見るとき、ローマ1:3-4が確かに手紙の最も深い議論のテーマ的発射台を提供しているのだと言うことが分かる。ローマ書におけるパウロの神学は、根底において王的である。

(・・・ガラテヤ3:1-4:11からの議論・・・)

○イエスは主である

パウロの福音のナラティブの最後のステップは、詩編の記者が真のダビデ的王について主張していることをイエスについて主張するものである。

パウロはイエスに対して「主」という称号をあまりにしばしば使っているので、その用例は小活字のコンコーダンスで何段も必要とする。クリストス同様、キュリオス(主)という言葉はしばしば当然視され、ほとんど単なるもう一つの名前のように格下げさえされており、イエスについて何か語っているようにはみなされていない。パウロの福音のすべての次元を理解したいなら、大変重い意味を伝えるこの言葉の十分な重要性を再生することが大切である。

「福音」そのものと同様、パウロのユダヤ教的背景に目を向けるか、ギリシヤーローマの聴取に目を向けるかで、「主」は外見上全く異なる意味を伝える。この節では後者に集中する。(前者については次章で扱う。)

ギリシヤーローマ世界ではキュリオスという言葉は、あらゆる種類の人々を表わし得た。英語の'Sir'のように、しばしば単なる尊称でありえた。しかし、パウロの世界でキュリオスは社会的に地位のある人々への尊称であっただけでなく、あらゆるものにまさって地位ある人物、すなわち皇帝に対して通常使われた。究極的にはローマ人の視点からは世界でただ一人の主がいた。パウロによれば、彼は今やライバルを得たのである。

(「イエスという別の王がいる」使徒17:7)

(ピリピ2:5-11)

パウロの福音は事実王的宣言だった。「別の王」―人々はそのような種類のことを言うものを投獄しがちである。パウロが彼の手紙の半分を書いたときいたのは牢獄だったことを発見しても驚くべきではない。


3.神の福音

究極的にパウロの福音はイエスについてのメッセージであっただけではない。彼がイエスについて語ったすべてのことは、彼にとっては、神について語ることであった。

パウロが伝道していた世界(ギリシヤ―ローマ世界)では、「神」という言葉はクエスチョンマークであった。パウロがもといた世界(ユダヤ人世界)では唯一の一人の神がおられた。

すべての忠実なユダヤ人は、ある日、より広い世界が自分達同様にイスラエルの神を真剣に受け取らなければならなくなるだろうと信じていた。神は全世界に対してご自身の王国を打ち立てられるであろう、イスラエルがずっとご自身の特別な民であったことを示されるであろう、偶像と不道徳故に世界を責められるであろうと。

パウロの「福音」もまた、神、イスラエルの神、世界の創造者についてのメッセージであった。それはまた、異邦の偶像を拒み、真の神に立ち返るように招くものであった。パウロはこのメッセージを第一テサロニケの最初の章で要約している。


結論

私の提案では、パウロにとって「福音」は個人的に、また非歴史的に「人がどのように救われるか」についてのメッセージではない。それはイエスについての四重の告知である。

(1)ナザレのイエス、特にその十字架において、罪と死そのものを含むすべての悪の力に対して、決定的勝利が勝ち取られた。
(2)イエスの復活において、新時代が始まった。預言が成就され、イスラエルの捕囚が終り、全世界が一人の真の神によって取り扱われる、長く待望された時が開始された。
(3)十字架につけられ、よみがえられたイエスは、最初からイスラエルのメシヤであり、その代表者たる王である。
(4)イエスはそれゆえ、主、世界の真の王、全ての膝が身をかがめるべきお方でもある。

それは更に、神についての二重の、また劇的な告知である。

(1)イスラエルの神は一人の真の神であり、異邦の神々は偶像に過ぎない。
(2)イスラエルの神は今やイエスご自身において、またこのお方を通して知られる。

パウロが「福音」によって一体何を意味したかを理解しようとするなら、この宣言の各面が重要だと私は信じる。

それゆえ、「福音」はパウロがローマ1:16で言うように、「救いのための神の力(デュナミス)」である。「神の恵みの福音」(使徒20:24)である。パウロの福音は神をその恵み全体、その愛全体において示している。

しかし、福音はこのすべてを示すだけで、人々はそれを遠くから評価していることができるというのではない。福音がそういったことを示すのは
それを行為に移すことによる。王的宣言はイエスが王であることについての正しい情報を伝えるのみではない。それはイエスが王であることの結果をもたらすものであり、決定的で権威ある忠誠への召しである。パウロが彼の宣教実践おいて発見したのは、彼がイエス・キリストの主であること、また王なるイエスの主権を宣言する時、まさにこの宣言によって生ける神がご自身の愛によってとどき、人々の心と生涯を造り変え、愛の共同体へと形作り、異邦主義から彼らを解放し、真の人間性に初めて至ることができるようにするということである。パウロは語ったことであろう。福音は単に人々を救う神の力について語ったものではない、それは人々を救うために働く神の力それ自体であると。


【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。(引用部分除く))


この章は、私が個人的にテーマとしてきている「福音とは何か」に直接かかわる章です。それだけに、興味深く、また注意深く読み進めました。ライトの見解に対する最終的な結論を出すには時季尚早ですが、いくつかの論点を整理しながら、暫定的な見解もいくつか示してみたいと思います。


1.パウロの「福音」理解における「イエスについての告知」と「人がどのように救われるかについてのメッセージ」の位置づけ

「それ(福音)は人々がどのようにして救われるかについてのシステムではない。福音の宣言は結果として救われる人々を生みだす。(中略)しかし、『福音』それ自体は、厳密に言えば、王なるイエスについてのナラティブ的宣言である。」(45頁)

「私の提案では、パウロにとって『福音』は個人的に、また非歴史的に『人がどのように救われるか』についてのメッセージではない。それはイエスについての四重の告知である。」(60頁)

現代の福音派教会の福音宣教が、実際的には、「福音」=「人がどのように救われるかについてのメッセージ」となっていることは、マックナイトの『福音の再発見』においても指摘され、批判されている大切なポイントです。ライトもまた同様に、その点を指摘し、パウロにとっての福音は、それではないと言います。

このような指摘は、おそらく多くの福音派クリスチャンにとっては戸惑わせるものではないかと思います。ごく当然のことのように考えていることを否定されるのですから、無理もないことと思います。ライトの主張が議論を呼ぶ一因もそこにあります。

ここでのライトの主張点には、多くの要素が複雑に関わっているように思われますが、私として特に印象深く受け止めたのは、ローマ1:3-4についての議論です。これまでのローマ書理解においては、この箇所は「聴衆が安心するように引用しただけの『伝統的定式』」であって、「彼自身はそれを自分の思想の正確な要約だとは考えていなかった」とされてきたことが指摘されます(53頁)。しかし、ライトは、旧約聖書に見られる「ダビデの子」思想や「メシヤ」思想がいかにローマ書全体に繰り返し言及されているかを指摘しながら、「ローマ1:3-4が確かに手紙の最も深い議論のテーマ的発射台を提供している」と結論づけます(54頁)。

私自身のローマ書理解においても、ローマ1:3-4の位置づけは、ライトが従来の理解として指摘しているまさにそのような者だったと思います。この箇所を福音の要諦として見、「人が救われる」ということを福音の宣言の結果であって、厳密に言えば福音そのものではないとするライトの見解は、大げさに言えば福音理解におけるコペルニクス的転換とも言えます。

このようなライトの見解に対して、今の時点で最終的な結論を出すことはもちろんできませんが、本書を読んだ範囲内では、以下のような仮説を立ててみることも可能かと思いました。すなわち、「ライトはここで不必要な二者択一を行っている」という仮説です。

おそらく、ライトが「パウロにとって『福音』は単に個人的、また非歴史的に『人がどのように救われるか』についてのメッセージのみをさすのではなく、王なるイエスについての宣言を含んでいる」と書いていれば、ほとんどの福音主義クリスチャンにとって違和感なく読まれたのではないかと思います。そして、あまりに「人がどのように救われるか」という部分にのみ関心が集中し、福音宣教の実際的なあり方が偏ったものになっていたかもしれないと、反省をもたらす機会になったのではないかと思います。しかし、「『福音』それ自体は、厳密に言えば、王なるイエスについてのナラティブ的宣言である」と言い、「パウロにとって『福音』は個人的に、また非歴史的に『人がどのように救われるか』についてのメッセージではない」とまで言ってしまうと、行き過ぎが生じているのではないかと思います。

確かに、ローマ1:3-4についてのライトの指摘は、「目から鱗」のような衝撃を与える力を持っていると思います。しかし、ローマ書全体を見るとき、「人がどのように救われるか」という要素をパウロの福音理解の外に締め出すことは行き過ぎのように感じられます。そこでは、不必要な二者択一がなされているのであって、福音に対するより包括的な理解が適切なのではないか、というのが、現時点での私の暫定的見解です。


2.パウロの王的神学

「ローマ書におけるパウロの神学は、根底において王的である。」(54頁)

「イエスに関する四重の告知」の内の一つは、「イエスは、イスラエルのメシヤであり、その代表者たる王である」というものです(60頁)。ライトはこの神学を「王的神学」(Royal Theology、53頁)と呼び、パウロの福音理解の要として位置付けているように思われます。この点の論証についても、単独で検討すべきものというよりは、この章全体の議論の流れを踏まえる必要がありそうです。

特に、章の最初に置かれた「パウロの用法の背景」についての指摘は、王的神学への道備えとして強力です。ユダヤ的背景はどちらかと言えば、従来の福音理解とも親和性があり、「王の即位の知らせ」と共に「救い主到来の知らせ」に結びつきやすく思われますが、ギリシア-ローマ世界における背景は、王的神学に直結します。ライトは、両者の二者択一を避けた上で、両者共に王的神学につなげる理解を提案しています。ただ、その中でライトが指摘するように、「語句研究において重要なのは、その概念がどこから来たかと同様(中略)、どこに行こうとするかである」(44頁)ということからすれば、それらの語源を持ちながら、パウロの用法が従来の福音理解でなされてきたような内容に進展してきたという可能性も否定できないのでは、と思いました。

王的神学について中心的に説明されるのは、「イエスに関する四重の告知」の中の「王なるイエス」の節です。中でも特に印象に残る点を挙げるとすれば、「『イエスース・クリストス』を『イエス・キリスト』ではなく、『メシヤなるイエス』でさえなく、時々『王なるイエス』と訳すことは害のないことであろう。」という指摘です(52頁)。

この点について示される論拠は、「キリスト」は本来、「メシヤ」(油注がれた者)であり、更に言えば「メシヤ」は「1世紀ユダヤ教においてその主要な指示物は来たるべき王であった」というものです(52頁)。

「キリスト」はイエスご自身の名前ではなく、いわば称号であって、「メシヤ(油注がれた者)」という意味のギリシヤ語であるという指摘はよくなされます。しかし、続いて加えられる説明としては、旧約聖書の預言に基づき、ユダヤ人の中にメシヤへの待望があったこと、しかしながら、ユダヤ人たちは政治的な王としてのメシヤを待望していたが、イエスご自身は、そのようなメシヤではなく、十字架の死による罪からの「救い主」としてご自身を表わされたこと、従って、後に「キリスト」という称号は、イエスこそは全世界の救い主であると言う信仰を言いあらわすものとなったといった説明がなされることが多いような気がします。(新共同訳聖書巻末用語解説「メシア」の項等参照)

しかし、ライトは、あくまでも「1世紀ユダヤ教において」の用語理解にこだわります。ですから、キリスト=「救い主」という受け取り方よりも、キリスト=「王」という受け取り方を重んじます。これもまた、言われてみれば「そういう可能性もあったのか」と驚きをもって受け止められることで、そういう視点で新約聖書全体を読み返してみると、新鮮な意味合いをもって読めるという、ライト独特の世界が展開します。

当然「キリスト」は、パウロの手紙ばかりでなく、新約聖書全般に頻繁に用いられる用語ですので、その意味合いをどのように理解するかは、相当慎重に見定めていく必要があります。まず、ライトが指摘するように、1世紀ユダヤ教においての「メシヤ」理解を無視することはできないと思います。少なくとも、ユダヤ人であった最初期の弟子たちが、イエスに出合った時に使った「メシヤ」という言葉は、ユダヤ人仲間が通常使った意味合いでの「メシヤ」だったはずです(ヨハネ1:41)。弟子たちがイエスと共に生活を共にしていた間、「イエスがキリスト(メシア)である」と告白していたとき、それは民族的・政治的解放者、王としてのイエスであったことは、しばしば指摘されるところです(マタイ16:16、20:21)。このような理解は、その後の展開の中でどの部分が変化し、どの部分が保持されたのかを見極める必要があります。

この機会に、福音書、使徒行伝、書簡において、用語「キリスト」がどのように用いられているか、調べ直してみました。要約的に言えば、以下のようになるかと思いました。

・福音書や使徒行伝においては、「キリスト」という言葉が語られるのはほとんどの場合、ユダヤ人相手である。従って、それらの箇所においては1世紀ユダヤ教でのメシア思想を背景として語られ、受け止められたであろう。従って、ユダヤ人が長く待望したメシアとしてのイエスを指し示していると理解してよい。但し、繰り返しメシアの苦しみと復活の予告(福音書)あるいは証言(使徒行伝)がなされ、更にはそれによってもたらされる救いの約束が指摘されていることに留意する必要がある(ルカ24:46、47、使徒13:16-41、17:3、18:23)。それらの過程の中で、「イエス・キリスト」という呼称が定着していく様子も伺える。

・パウロその他による新約聖書書簡では、読者としてユダヤ人だけでなく非ユダヤ人も多く想定される。その中で繰り返し「キリスト」「イエス・キリスト」との呼称が用いられている。従って、それらの用語は1世紀ユダヤ教でのメシア思想に根差しつつも、イスラエル民族を超えたお方としての呼称であると考えるのが自然ではないか。その際、1世紀ユダヤ教のメシア理解を背景として考えれば、「全世界の王」としての意味合いを考えることができるが、上記福音書や使徒行伝での用語使用を考えると、「全世界の救い主」としての意味合いも想定され、両者の意味を併せ持つ呼称として、半ば定形的に用いられたのではないか。

現時点で最終的な結論を出すことはできませんが、このあたりのところを私の暫定的な見解としておきたいと思います。

もちろん、ライトが指摘するパウロの王的神学は、用語としての「キリスト」「メシア」理解に基づくだけではなく、「福音」の語源的研究やパウロの手紙全般への釈義にも関わっています。これらの方面についての検討は、今後の課題としたいと思います。


3.パウロは主としてイエスの十字架の死を諸力への決定的勝利として示しているか

「このような理由で、私はイエスの十字架を『諸原理と諸力』への決定的勝利として描くパウロの表現に優先性―おそらく、同等のものの中の一つの優先性であるが、しかしなお優先性―を置くことを提案する。」(47頁)

ライトは、イエスの十字架の死に対するパウロの取り扱いが多様な側面を持つことを認めつつ、罪と死を含む諸力への決定的勝利としての見方に優先性を置こうとします。イエスの十字架に対するこのようなライトの見方は、グスタフ・アウレン以降強まってきている「勝利者キリスト」の見方に沿ったものと言えそうです。イエスの十字架の死を主に罪と死を含む諸力への決定的勝利と見ることにより、十字架につけられたイエスの告知が、王なるイエスの即位宣言としての福音理解に直結することになります。

近年の保守的プロテスタント教会による福音宣教が、実際のところ、「身代わり」の十字架としての理解・説明に偏っているとの指摘がしばしばなされます。これに対して、新約学の分野から、「代表」としての十字架理解や、諸力への勝利として見る理解が提唱、主張されてきたと言えます。おそらく、福音主義に立つ諸教会は、今後、十字架理解の偏りを正し、これらの見方に対する理解を深めていく必要がありそうです。ただ、ライトのように、諸力に対する勝利としての見方を他の見方に対して優先させて聖書全体を見ることは、これまでの偏りを正し、これまで見逃されてきた見方を回復させる力を持つ一方、十字架理解をこれまでとはまた違った方向に偏らせかねない一面があるように思います。実際のところ、イエスの十字架の死はあえて多様なメタファを用いて表現されており、パウロの手紙をはじめ新約聖書全体においても、これらすべての見方が相互補完的に表現されていると見るのが妥当かと思います。この点に関しては、以下の論文が大変すぐれていると思いますのでご参考ください。

藤本満『十字架のスペクトル―贖罪論概観―』

http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_members/jets_members_fujimoto_mitsuru.htm


4.全聖書的ストーリーのクライマックスとしての十字架と復活

「パウロが『メシヤは聖書に従って我々の罪のために死なれた』(中略)と語ったとき、聖書から半ダースほどの『証拠聖句』を見つけることができると言うことを意味したのではなく、若きナザレのユダヤ人がローマ人によって釘づけられ死に至らせられたことにより、全聖書的ストーリー、イスラエルに対する神の取り扱いの偉大なドラマが一緒になったということを言っているのである。」(49頁)

「イエスの復活もまた、『聖書に従って』起こった(第一コリント15:4)。(中略)それは、パウロが聖書全体のナラティブのこの方向に動くのを見たということを意味する。」(50頁)

イエスの死と復活は、イエスに関する四重の告知に含まれ、福音の中核をなすものと位置付けられますが、ライトはこれらのことが「聖書に従って」(according to the scripture)起こった(第一コリント15:3、4)ということの意味を深めています。単に、聖書の中にこれらの出来事を予告するいくつかの「証拠聖句」を見い出すことができると言うのではなく、全聖書的ストーリーがイエスの十字架の死と復活に向かって進んできているのを認めることができる、という意味だと指摘します。

「イスラエルの運命―異邦人の手による苦難という運命―が拭い去られたのではない。(中略)イスラエルの代表としてのメシヤ、イエスの死においてそれは正確にクライマックスに達したのである。」(48、49頁)「『復活』はエゼキエル37章では、イスラエルの捕囚からの帰還の比喩であった。パウロがイエスの復活の事実に直面したとき、彼は捕囚からの帰還が事実起こったと結論づけた。」(51頁)

ライトは、パウロがイエスの十字架の死と復活を、いわばイスラエルの「死」と「復活」としてとらえ、イスラエルについてのドラマのクライマックスとして位置付けて考えています。聖書全体に対するこのようなマクロ的視点はライトの特徴と言えるもので、おそらく聖書全体に対する見方として今後も各方面に影響を与えていくのではないかと思いました。

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