長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

福音の再発見ファンサイトで感想を頂きました

2014-12-17 18:38:16 | マクナイト『福音の再発見』

当ブログで『福音の再発見』について何度か書きましたところ、

なんと、「福音の再発見ファンサイト」で取り上げられ、

「タカ牧師」からのご丁寧なご感想を頂きました。

http://kingjesusgospeljapan.blogspot.jp/2014/05/1.html

もう半年以上前のアップですが、それ以降、このサイトへの投稿がないいままのようで、

何だか申し訳ないような・・・。

「福音の再発見」・・・まさにここ数年の私のテーマになっているだけに、

このテーマへの取り組みは今後もまだまだ続きそうです。

私の読みがどうしても(最終的には)組織神学的になってしまうのも、

私の関心ゆえなのでしょう。

でも、本当にこのテーマに取り組むに当たっては、

聖書神学的な掘り下げをもっと十分にしていく必要があることは確かなことです。

時間も力もない中で、自分なりに今後どうテーマに取り組んでいくか、考え中です。

 

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マクナイト『福音の再発見』(その15:全体を振り返って)

2013-08-28 21:50:55 | マクナイト『福音の再発見』

今回、各章ごとに検討を加えてみて、少しずつは自分なりに問題が整理できたような気がします。

どちらかと言えば、批判的に著者の主張を検討してきたようですが、「福音の矮小化」という問題は、広く福音派の神学者の間で共有されつつ問題であるようです。この問題に対して、自分としてどういう回答を持つのか、まだまだ整理はできませんが、いくつかの方向が見えてきたような気もします。

(1)キリスト論を軽く扱わないこと

確かに、「救い」に焦点を当てるあまり、キリスト論が軽く扱われる傾向は、諸教会の中にもありますし、自分の中にもあったような気がします。十字架による贖いの重要性を踏まえつつも、受肉から生涯、教え、みわざ、受難と死、復活、昇天、着座、そして聖霊の傾注に至る「イエスの物語」全体をよく見ること、救い主としてのイエスを語るだけでなく、主なるイエスとしての宣言が十分なされるべきこと等、多くの示唆が与えられました。

(2)イエスについての物語(宣言)と救いの計画との関係は、今後の課題

それでは、救済論とキリスト論と、どちらが主でどちらが従かという問題は、今後の課題です。

今回の検討を通して感じるのは、福音とは、イエスについての物語(宣言)と、救いの計画の両方を含むものと理解するのが、聖書的に言っても自然なことではないかということです。そうは言っても、錚々たる神学者の方々が、福音についての新しい見方を提唱し、その影響力がますます大きくなっているように見える中、簡単に結論づけられる問題でもないように思われます。

組織神学的に言えば、救済論中心に神学を構築するのか、キリスト論中心に神学を構築するのかという問題と考えることもできるのでしょうか。これらの点については、今後の課題としたいと思います。

(3)義認だけに集中せず、聖化、栄化、更に個人的救済を越えた部分に目を留めるべきこと

福音が伝える救いを義認だけに限定しないで、新生、聖化、栄化等にまで及ぶ豊かさに常に目を配るべきこと、また、個人的救済に限定しないで、神の民に対する神様の大きなご計画にも目を留めることなど、大きな視野の中で「救い」を見ることが必要ではないかと思いました。

(4)個人的救済と神の民に対する神の計画のどちらに比重を置くべきかは、今後の課題

それでは、福音の宣言の中で、比重が共同体としての神の民に対する計画に置かれるべきなのか、個人の救済に置かれるべきかについては、今後の課題です。

著者はどちらかと言えば、個人の救済以上の部分にむしろ比重を置きたいようです。私としては、そのような見方を、従来見落とされがちな側面を示唆するものとして尊重しつつも、実際的に福音が語られる際には、それを個人的に語ることが必要なのではないかという気がします。おそらく、個人的救済か、共同体への神の計画か、という問題の立て方がよくないのでしょう。

組織神学的に言えば、教会論を救済論の付録のように考えてもいけないし、救済論を教会論のサブテーマのように考えてもいけない、双方は相互補完的に考えるべきではないかという気がしますが、これも、今後の課題の一つとなりそうです。

(5)イエスラエルの位置も今後の課題

関連して、福音との関わりの中でイスラエルをどう位置付けるかも、今後の課題です。イエス様と使徒たちによる福音が、イスラエルと神様との長い歴史的経緯の中で生まれてきたことは間違いありません。ただ、それが、福音を語る時、杓子定規のようにイスラエルの物語に言及しなければならないのではないような気がします(使徒行伝に見られる異邦人への福音説教を見れば。)

私としては、ユダヤ人やユダヤ的背景を持つ異邦人に対して福音を語る際、旧約聖書やイスラエルの歴史について語られることは、文脈化の結果のように思われるのですが、マクナイトの見方からすれば逆であって、本来、福音はイスラエルの物語の文脈の中で語られるべきものであるけれども、異邦人に対して福音を語るときには文脈化が行われているということになるようです。

両者の見方が「結局同じこと」なのか、福音理解の本質に関わる決定的違いを生み出すのか・・・今後の課題です。


著者は、アメリカの代表的な新約学者のようです。最近読んだ『イエス入門』(リチャード・ボウカム著、新教出版社)の末尾に、近年の福音書研究に関わる著作案内がつけられていますが、N.T.ライトやJ.D.G.ダンの本と共に、マクナイトの著作がいくつか紹介されていました。

おそらく、面と向かって著者と相対したならば、畏れ多くて一言も発することができないだろうと思いますが、こうして本を通してまるで著者と対話させて頂いているかのようで(勝手な空想に過ぎないかもしれませんが)、楽しいひと時でした。感謝。

(完)

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マクナイト『福音の再発見』(その14:第10章後半)

2013-08-27 17:43:47 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその13 「聖書の物語の民」となる


第10章の後半は、福音の文化を造り出すためのいくつかの示唆が記されます。第一に、「物語の民となる」。「神の物語の民」となる、「聖書の物語の民」となる、ということが言われます。

福音を聖書の中でどのように位置づけるかという問題は、今後の課題として残すとしても、聖書全体を読みながら、その流れの中に自分自身を置き、考え、生きていくということは大切だと感じました。


ナルホドその14 教会暦も福音の宣言の一つ


著者は、私たちの生活を「福音化」させるのに有効なものの一つとして、教会暦を指摘します。一年を通じて、イエスの物語を意識し、自分の生活の中で常にイエスの物語との接点を持ち続けることができるという点で、確かに著者が言う所の「福音の文化」形成に役立つかも、と思いました。


ナルホドその15 教会の物語の民となる


福音の宣言における「イエスの物語」の中心性を指摘してきた著者ですが、この部分で「イエスの物語」の継承としての「教会の物語」にも注意を向けさせます。「これらの書(使徒行伝から黙示録)を適切に読むとは、イエスの物語は今なお継続しているものであり、それを新しい文脈の中に新たに適用させたものとして読むことを意味する。」(221頁)「もっと大勢の人達が、先達のキリスト者について知ろうとすべきだ。それが福音文化を立て上げる上で助けになる。」(221頁)示唆に富む指摘と思いました。


ナルホドその16 対抗する物語を生み出す


この世が提供する様々な物語に取り囲まれている私たちが、福音の物語を真実の物語として宣言することによって、それらの物語に対抗することができると、著者は指摘します。


ナルホドその17 洗礼と聖餐はそれ自体福音の宣言である


これも、ナルホドです。


ナルホドその18 神の物語を自分のものとする


最後に、著者は、福音の文化が自分自身を福音の物語の外に置いたままでは始まらないことを指摘します。関連していくつかの指摘がなされます。

・私たちが福音のビジョンに対して信仰と悔い改め、洗礼によって応答する側面と共に、もう1つの側面として私たちの応答が神の御霊の賜物によって促され、導かれているという側面がある。神の霊が人間に信仰を呼び覚まさせ、その目覚めが、新しく造り変えられた人生へと私たちを導く。福音の文化を生み出すためには、私たちがまず回心することが求められる。

・私たちは一人ではない。福音を自分のものとして受け止めるとは、聖書の物語を神の民についての物語として受け止めること。教会を、その醜い部分も含めてすべて、神の民として受け入れる。福音の文化は教会の文化である。

・福音の物語を自分のものとして受け入れるとは、神に聴き、神と語るという、神とのコミュニケーションの人生に召されることでもある。(祈り)

・福音を自分のものとして受け止めるとは、愛と思いやりの心をもって他者に仕えることによって、福音の文化を作り出すことでもある。

この辺のまとめ方には、私もスンナリ同意できそうです。

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マクナイト『福音の再発見』(その13:第10章前半)

2013-08-26 20:38:27 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその12 著者は、福音の概略の中に十字架による赦しと聖霊による回復を含み、位置づけている


最後の第10章で、著者は、福音の概略をまとめ(前半)、「福音の文化」を生み出す方法をいくつか示唆しています(後半)。

「これまでの章では福音を断片的に取り上げてきたが、いよいよここで、福音の全容を一つにまとめよてみよう。」と書き(210頁)、7頁に渡り、福音の概略を記します。

一見して、第9章の「比較その4:福音の宣言が解決する問題」で提示された物語の概要との共通性に気づかされます。「神殿」「エイコン(神のかたち)」「仕事(役割)」「治める(神の共同統治)」「簒奪(者)」「神の代理人」「祭司の王国」「王のご支配」「メシアであり主であるイエス」といったキーワードが繰り返されますが、それらは第9章の「比較その4」で語られた物語の概要と共通です。

但し、その中に、イエスの十字架の死が、「彼らが死ぬべき死を死なれた」ことであり、「イエスは彼らの罪とその罪ゆえの罰を、ご自身の双肩に負われた」と指摘します(214頁)。そして、9章の物語概要に付け加えられたキーワードがあるとしたら、「もう一度やり直す」という言葉でしょう。そのための鍵として、イエスの十字架と復活と共に、「聖霊」の働きが強調されます。

全体として、「神の国(支配、統治)」による福音理解が前面に出ていますが、その中に十字架の死による贖いや赦し、聖霊による聖化、回復が、著者なりの言葉で表現されています。

罪の赦しや聖霊による聖化を、福音の物語から排除しているわけではないと確認できて、「ナルホド」と、ホッとしました。


どうかな?その13 回復されるべきこととして、「仕事(役割)」に強調が置かれすぎているのではないか


著者が記す福音の概要において、「仕事(役割)」への強調が顕著です。「神のかたち(エイコン)」は、ほとんど即「神の代理人としての統治」に結びつけられています。回復すべきは、神の統治を受け入れると共に、神の代理人として世界を統治する役割を担うことと要約されそうです。これは、「神の国(支配、統治)」をキーワードとして福音を理解しようとしたためと理解できます。新約聖書のもう一つのキーワード、「(永遠の)いのち」から福音を理解していくと、もう少し違ったイメージが浮かび上がって来るような気がしますが・・・。

私としては、回復されるべき第一は、神と人との交わりであり、第二は人と人との交わりであり、「世界の管理」という「仕事」を考えるとしたら、第三に位置付けたいような気がします。これも、整理の仕方の問題なのかもしれませんが・・・。

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マクナイト『福音の再発見』(その12:第9章その3)

2013-08-25 18:07:34 | マクナイト『福音の再発見』


ナルホドその11 初期キリスト者における福音宣言において反帝国的テーマが意図的になされたかどうかについて、著者は慎重な態度を取る

「比較その5」では、福音宣言における反帝国的傾向の性質について、著者の検討がなされます。著者はここで、二つのことを述べています。

(1)福音の宣言は、「イエスは主であり、カエサルは主ではない」という含意を持つ。

これは、「イエスは主である」という福音の宣言が、含意としては、「カエサルは主ではない」というメッセージを持つものであったということで、この点については、「否定する人はいないだろう」と言います。

(2)初期キリスト者における福音の宣言において、ローマ帝国への対抗というテーマが意図的なものであったことについては、慎重な態度を取るべきだろう。

この点について肯定的に考える神学者も多い中、著者は、いくつかの考察から慎重な態度を見せます。特に、ローマ13章の、ローマ皇帝に従うべき事を教える手紙内容から、パウロに明らかな反帝国的意識があったとは思いにくいと指摘します。

「学者たちの中には、イエスや使徒たちのキリスト教の福音には、もっと意識的に現存の権威を倒そうとするものがあると見るもの立ちもいる。私自身は、個人的にはそれが正しいと考えたいほうに傾いているが、使徒たちがそこまで意識的に反帝国のテーマを持っていたとは確信できない。」(203、204頁)

「個人的には~と考えたいが、聖書の証拠からは確信できない」という態度は、神学者の態度として好ましいものと思いました。


どうかな?その12 イエスの物語と救いの計画を分離して考えるべきだろうか


「比較その6」では、使徒たちの伝道がイエスの物語を語るものであったのに対し、今日の福音の宣言の傾向として、イエスの物語がはしょられる傾向があることを指摘します。

この点についても、「イエスの物語がはしょられる傾向がある」ことについては、「ナルホド」と思い、それが福音の矮小化につながる危険性を持つことを、十分考慮する必要があると感じました。但し、ここまでの検討で見てきたように、「イエスの物語」と「救いの計画」を分離させ、互いに対抗するような性質のものとして提示する言い方については、どうだろうかと思います。

例えば、著者は、「イエスの物語と救いの計画には、大きな違いがあり、その違いは、ここだけではとうてい説明しきれない」と言います(204頁)。福音の必須要素として、「イエスの物語」も十分語られるべきであり、同時に、「救いの計画」も語られ、訴えられるべきであるとは考えられないのでしょうか。

また、ペテロによる最初の福音説教に対して、「人々はこれを聞いて心を刺され」と記されていることに対して、「これ」とは、「イエスの物語によって完成させられるイスラエルの物語に関する福音」であって、「ペテロは人々がイエスを十字架につけたことで確かに彼らを非難しているし、その恐るべき行いは彼らに責任があることを示しているが、その罪に焦点を合わせるのでなく、イエスに焦点を合わせている」と言います(205頁)。私には、「イエスの物語」の後に語られた「罪の指摘」を聞いて、人々は心を刺されているように見えます。

「もし私たちが、ほんの一瞬でも、四福音書は福音を語っているのだろうかと考えたくなるなら、それは私たちが使徒的福音から外れてしまったことを意味する。(中略)もし私たちが先のような疑問を持つなら、それは恐らく私たちが『救いの計画』という福音に屈服してしまったからだろう。救い派による縮小された『救いの計画』を唯一の福音だと思ってしまったのだ」(206頁)。

著者の主張としては、「四福音書はイエスについて語っているから、すなわち福音を語っていると考えるのが当然」ということでしょう。しかし、「四福音書はイエスについて語り、かつイエスによる救いを語っているから、すなわち福音を語っている」と考えてはいけないのでしょうか。「イエスの物語」なき「救いの計画」を警戒するあまり、いつしか「救いの計画」を除外した「イエスの物語」を考えてしまってはいないのか・・・。この点、「どうかな?」という思いが残ります。

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マクナイト『福音の再発見』(その11:第9章その2)

2013-08-22 20:18:59 | マクナイト『福音の再発見』

どうかな?その11 福音の宣言が解決する問題は個人的なものであるのか


「比較その4」では、福音の宣言が解決すると考えられる問題の性質についての比較がなされます。特に、それを個人的な問題として捉えるか、それ以上のものとして考えるかに焦点が当てられます。

著者がこの項で結論としてまとめている言葉は、以下のようなものです。「救い派がしたがるように、福音を個人の救いだけに縮小してしまうなら、聖書の物語の織物を破いてしまうようなものであり、聖書すら不要になる。私には、そうとしか言いようがない」(200、頁)。すなわち、福音の宣言が解決する問題は、決して個人の救いだけに限定されるものではないことが強調されています。

結論は明確であり、強烈なものですが、この結論に至る論理の展開は多少複雑です。4つのポイントにまとめながら、その論理を追ってみたいと思います。全体として、私自身は、福音が個人の問題を扱うだけではないということについては同意しますが、同時に私の中には、「福音は、まずは個人の問題を扱うものとして語られるべきではないのか」という意識があります。各ポイントについて、私の意見を付け加えながら書きますので、その分著者の議論の流れが分かりにくくなりますが、ご容赦ください。

(1)使徒行伝における福音説教からの考察

著者は第一に、使徒行伝における福音説教がどうであったかというところから検討を始めます。使徒行伝における福音説教が救いの約束を与えるものであることは著者が既に指摘したところです。その内容は、「赦しと、聖霊の賜物と、回復のとき」というものであったことを振り返りながら、「(福音の宣言が解決するという)その問題とは、罪と、神の力の不在と、新しい創造の必要だろうか」と問いかけます(192頁)。そして、これらの問題を決して過小評価してはならないと言いつつも、「しかし、これらのテーマを単なる個人主義に縮小してしまうなら、大きな思い違いをすることになろう」と続けます。

その一つの例として、使徒5:31に「イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために」と記されている点を指摘します。ここから、「神の民が真の神の民となる必要がある」という、個人主義的問題を超えた、神の民としての問題があると示唆します。

以下、福音の宣言が解決する問題を個人主義的にのみ理解してはならないとする著者の主張が展開されていきます。しかし、その論理を追う前に、私として注目しておきたい点は、使徒行伝における福音説教の内容から考えると、福音の宣言が解決する問題は、とりあえずはむしろ個人的なものとして理解されるような種類のものだったという点です。

「それぞれ罪を赦していただくために・・・(中略)そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒2:38)「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために」(使徒3:19)、「罪の赦しが受けられる」(使徒10:43)、「あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのは」(使徒13:38)、「信じる者はみな、この方によって解放されるのです(別訳:義と認められる)」(使徒13:39)

これらの表現すべてを、個人の問題を越えた「神の民」の問題として理解することは難しいでしょう。これらの福音説教の表現を見るならば、福音の宣言が解決すると約束されていた事柄が、まずは個人的な問題であったと理解した方が自然なのではないかと思います。

(2)福音におけるイスラエルの物語の重要性からの考察

著者がまず指摘するのは、福音におけるイスラエルの物語の重要性についてです。「イスラエルの物語がイエスの物語によって完成し、それが福音だと言うのなら、福音が解決すべき問題も、イスラエルの物語の骨組みと輪郭の中に見いだすべきであり、私の物語の中で私の必要を満たすだけでは不十分なのである」と言います(193頁)。

ここで前提とされている部分についても、私としては判断を保留したい面があります。福音にイエスの物語が必須であり、重要であるという点については、私としても「ナルホド」と思う所が多々ありますが、福音との関わりにおいてイスラエルの物語がどの程度必要なものなのかについては、「どうかな?」と思う部分の方が、今のところは大きいです。

もちろん、聖書の全体的な理解のためには、イスラエルの物語をきちんと踏まえることが必要だという事は確かなことですが・・・。

(3)イエスが差し出して下さった解決策からの考察

次に、著者は、イエス様が差し出して下さった解決策からの考察をします。すなわち、イエスは、共観福音書の表現でいえば、「神の国」を、ヨハネの言葉でいえば、「永遠のいのち」を差し出して下さったと指摘します。これらの表現は、この地上に神の御国がないという問題、あるいは、この地上に神の豊かな命が欠如しているという問題があることを示すと言います。

たとえば、「永遠のいのち」という表現については、「これも、私は死後に神と共に永遠に生きるという、個人的ないのち以上のものである」と指摘します(193頁)。

聖書において、「神の国」にしても、「永遠のいのち」にしても、単に、「死後行く所」、「死後永遠に生きること」以上のものであることは確かです。この点については、「既に」と「未だ」の両面から、その終末論的構造をきちんと把握することが必要であることは、聖書神学の領域において周知のことでしょう。また、それは個人の問題にとどまらず、共同体としての「神の民」に深く関わるテーマであることも確かです。

しかし、イエス様がサマリヤの女性に「永遠のいのち」を差し出された様子、ニコデモに「神の国」を差し出された様子を見るならば、それらがまず、「あなた」に関わるもの、サマリヤの女性やニコデモ自身に関わるものとして差し出されていたことは間違いないと思います。また、使徒行伝に見られる福音説教の様子を見ても、「神の民」という共同体の問題以前に、聞く一人ひとりに対する個人的な語りかけとして語られているように思えます。

おそらく、「神の国」にしても、「永遠のいのち」にしても、私たちがそれを自分のものとするためには、個人的なものとして差し出されることが必要なのかもしれない、と思います。「神の国」自体、「永遠のいのち」自体は個人の問題をはるかに超えた豊かな内容を意味してはいますが、私たちがその恵みにあずかるためには、どうしてもそれを他人ごとではなく、自分自身の問題、すなわち個人の問題として受け取る必要があるという気がします。

ですから、福音を語る側では、イエス様がもたらしてくださった「神の国」や「永遠のいのち」の豊かさを理解し、味わい、その中に生きつつも、福音を語るに際しては、それらをまず「個人」に対して示し、「あなたも神の国に」、「あなたも永遠のいのちを」と招くのが、福音宣教の基本になるのではないでしょうか。

「神の国」に入り、「永遠のいのち」にあずかるのは、神様の前での一人の罪人としてであり、しかし、「神の国」に入り、「永遠のいのち」にあずかってみれば、それは単なる個人の救いにとどまらない、広くて深い新しい世界に入れられたと知る・・・そういうことなのかな、と思います。

(4)福音における基本的解決からの考察

さて、ここまでの著者の議論は、序論のようなもので、実は、メインとなる考察がここから始まります。(1~3は、三つ合わせてもわずか1、2頁で記されているのに対して、4については、8頁にわたり記されます。)ここでの考察方法は、「根本的な解決という観点から『問題』を考え直すならば、どうなるだろうか?」というものです(193頁)。すなわち、「福音における基本的な解決とは、イエスがメシアであり主であることだ」ということを土台として、そこから逆に問題を捉え直してみよう、ということです。

「イエスがメシアであり主である」ということがどんな問題の解決になるのか、イエスの物語で完成されるイスラエルの物語に問いかけてみれば・・・ということで、それが194‐200頁に記されています。

できるだけ、背景となる聖書の個所を確認しつつ要約してみますと・・・

a.創世記1章の創造の説明は、世界を壮大な神殿(宮)として描写するものである。神は人間をご自身の宮に置かれる。しかしそうするとき、神は人間をご自身のエイコン、つまり神のかたちを担うものとされる。人間の責任は、神、自分自身、他者との間に関係を持つことであり、また神とともに支配する者として、神の宇宙的神殿における神の御臨在の仲介者として、世界と関わることである。(創世記1:26-30)

b.堕落は、単に神の命令に背いた罪の行為だとか道徳的過失だというものではない。それは、私たちに与えられた、王として、祭司としての基本的な役割に対する裏切りである。私たちは神の園における簒奪者だった。(創世記3章)

c.しかし、神は、壊れたエイコン(神のかたちの担い手)のまま永遠に生きる機会を私たちから取り上げることで、私たちを赦される。そして、神は私たちをエデンの東にある世界へと、同じ役割を持って送り出された。しかし、私たち人間は、繰り返し、適切に治めることに失敗し、適切に仲介することに失敗し、何度も簒奪者となった。

c-1.アダムとエバ、また続く人々は、与えられた役割を果たすことに失敗する。(創世記3‐11章)

c-2.神は、「王と祭司」の国を建てるためにアブラハムをお選びになる。神がアダムに任命した役割は、アブラハムとイスラエルに譲渡された。(創世記)

c-3.それから神は、モーセに重要な役割をお与えになる。出エジプトの中核にあったのも、民が「王」となり「祭司」となるという任務だった。(出エジプト記)

c-4.しかし、イスラエルもまた祭司の王国になることができなかった。そこで神は、違う道筋を描き、王の役割をサムエルとサウル、そしてダビデの家系に限定させた。ダビデはまあまあだったが、その後、ソロモン以後は堕落していった。度重なるイスラエルの失敗により、神はついに、イスラエル人の唯一真の代表として、イエスを送ることになさった。(サムエル記、列王記)

d.イエスはメシアである。また、唯一真実の神のエイコン(神のかたちを担う者)である。神が与えた任務は、アブラハム、イスラエル、モーセへと譲渡され、それからダビデへと渡り、イエスにおいて完全に遂行された。
新約聖書は、エイコンとして、メシアとして、全ての主としてのイエス・キリストについての良い知らせを宣言している。(ピリピ2:6-11、コロサイ1:15-20、第二コリント3:18-4:6)

e.イエスが任命された、メシアとして、王としての働きは、イエスだけが完全に成し遂げたものだったが、驚くべきことに、今度は神の民である私たちを、もう一度その働きに任命しておられる。(黙示録5:9-10、20:6)

著者は、聖書全体の中からこのような枠組みを描き出し、だからこそ、「イエスこそメシアであり主」という福音の宣言が必要とされていると指摘します。最後に著者は、福音を伝えることについて、3つの要約を記します。

・福音を伝えることは、イエスこそ主としてふさわしいお方であると宣言する。
・福音を伝えることは、偶像礼拝から立ち返り、救い主なる主のもとで生きることを人々に求める。
・福音を伝えることは、主イエスのもとでイエスと共に調停し、治めるという役割に私たちを置くことである。

このような考察の結論として、著者は、「福音を個人の救いだけに縮小してしまうなら、聖書の物語の織物を破いてしまうようなものであり、聖書すら不要になる」と締めくくります。

ここには、聖書の中から取り出されたいくつかのキーワードがあります。「エイコン」「役割(任務)」「簒奪者」「王と祭司の国」です。その一つひとつについては、「ナルホド」と思わせる所が多々あります。また、これらの視点が、聖書に対する首尾一貫した見方を提供する点も、「ナルホド」と思わせる所の一つです。

ただ、そう思いつつも、同時に感じるのは、やはり要約されすぎた言葉は、魅力に欠ける面が否めないということです。「首尾一貫した理解」を与えてくれる一方で、そのストーリーから洩れこぼれたものが沢山あるような気がします。おそらくは、凝縮されすぎた福音の「4つのポイント」が、そのポイントがいずれも聖書的でありながら、ある面、福音の豊かさを表し切れないのと同様かもしれません。

おそらく聖書の福音は、本来、上記のような著者のストーリーと、いわゆる「救い派」がしてきた福音のポイントの両方をすっぽりと包みこんでなお余るような、豊かな内容を持ったものと考えるのがよいのではないだろうか、という気がします。

福音の宣言が解決するのは、「個人的問題」か、「個人を越える問題か」という問い方も、福音が解決する問題はその両方を含んでいるというのが、本当のところではないでしょうか。

「個人の問題だけではない」という点では「ナットク」ですが、全体的に「個人の問題(救い)の軽視」につながりかねない論調に対しては、「どうかな?」と、一歩距離を置きたくなる・・・当面の私の心情的立ち位置と言えるかもしれません。

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マクナイト『福音の再発見』(その10:第9章その1)

2013-08-21 21:28:51 | マクナイト『福音の再発見』

どうかな?その9 福音の宣言は何を成し遂げようとするのか


第9章のタイトルは、「今日における福音の宣言」となっており、内容からいっても、これまでの議論がまとめられていく部分です。ただ、議論としては、8章からの流れを受けていて、使徒行伝に記されている福音説教の内容を踏まえつつ、使徒たちの福音の宣言と現代の教会による福音の宣言との比較がなされています。

「比較その1」では、福音の宣言が成し遂げようとするものについての比較がなされます。

「使徒行伝に見られる福音の宣言は、メシアであり主であるイエスによる救いの意義を宣言するものなので、聞き手にイエスがメシアであり主であることを告白することを求める。一方救い派の福音の宣言は、罪人に自分の罪を認めさせ、イエスを救い主として受け入れることを説得しようとする」(188頁)。

「これは二者択一の問題ではない」と続けています。ですが、このように対比されると、まるで二者択一の問題であるように見えます。私が見る所では、使徒行伝に見られる福音の宣言は、「罪人に自分の罪を認めさせ」るものであり(使徒2:36、37、3:13-15、4:10、10:38-39、14:15、17:30)、「イエスを救い主として受け入れることを説得しようとする」ものでもあったと思います(使徒2:38、3:19、4:12、13:38-39)。もちろん、それは、「イエスがメシアであり主であること」を宣言した上でのことでした。ですから、これらのことはすべて使徒たちが福音説教において行ったことであり、その二つの部分を分離、対立させて考えるのはよくないのではないか、という気がします。

イエスはメシアであり主であり救い主です。福音の宣言が聞き手に対して、そのうちのいずれか(メシアであり主である)だけを告白することを目標とし、そのうちにいずれか(救い主である)を告白することは目標としない、ということはないのではないでしょうか。


どうかな?その10 福音の宣言の枠組みはどのようなものか


「比較その2」では、福音の宣言の枠組みについて比較されます。

「恐らく、使徒行伝を読んでいて最も衝撃的なのは、福音の原動力は救いの物語や贖いの物語ではないことだろう。福音の宣言は、イスラエルの物語によって突き動かされており、実際、イスラエルの物語の中でこそ意味をなすものである。」(189頁)

使徒行伝の中の福音説教における「イスラエルの物語」の位置は、聞き手がユダヤ人あるいはユダヤ的背景を持つ者であるか、それ以外の異邦人であるかによって、大きく変わって来ているということは、すでに指摘しました。そうだとすると、「福音の宣言は、イスラエルの物語によって突き動かされており、実際、イスラエルの物語の中でこそ意味をなすものである」という主張は言いすぎのような気がします。

使徒行伝の中の福音説教が、どのような切り口でなされたかは、聞き手が置かれている状況によるという気がします。エルサレムの人々や、旧約聖書に親しんでいる異邦人(コルネリオのような)に対しては、旧約聖書がその切り口になりました。それ以外の異邦人に対しては、彼らの神観、宗教観が切り口になりました。そのような切り口は、ある意味で、それぞれの福音説教の形式的な枠組みを作ったと言えます。でも、だからと言って、使徒たちの内的原動力になったとは言えないだろうと思います。

おそらく、彼らの内的原動力とは、「この方以外には、だれによっても救いはありません」という確信であり(使徒4:12)、「何とかして、幾人かでも救うため」ではなかったでしょうか(第一コリント9:22)。この原動力が、パウロをして「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり」、「律法を持たない人々に対しては(中略)律法を持たない者のように」ならせたとは言えないでしょうか。


ナルホドその10 福音の宣言に神の裁きへの言及は避けられない


「比較その3」では、福音の宣言の中で神の御怒りや裁きをどのように位置づけるかが検討されます。

この点について著者は慎重な態度を見せつつも、裁きへの言及を必要なものとして認めています。まず、「ペテロもパウロも、使徒行伝によれば、伝道するときに神の御怒りに焦点を置いていない。イエスの救いの物語を、地獄に行かずに済む、という形で語ってもいない」と指摘しています(190頁)。同時に、「そうは言っても、(中略)最後の審判は初期のキリスト者の福音伝道の働きから、決してかけ離れたものではなかった。福音の宣言に裁きは避けられない」と指摘します(190‐191頁)。

使徒17:29-31を引用しながら、「人間は最終的には神の前に立たねばならない―これは、使徒行伝の中の説教でたびたび見られるテーマである」と指摘します(191頁)。地獄について説教したことで有名なジョナサン・エドワーズに触れながら、「恐らく、今日、エドワーズのような人は要らないのでなく、もっと必要なのだろう」とまとめています(192頁)。

それだけに偏ることに対しては慎重でありたいですが、私も、神の裁きへの言及は、福音の宣言に避けられない一要素であると感じます。

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マクナイト『福音の再発見』(その9:第8章後半)

2013-08-20 18:02:10 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその8 福音は、人々を応答へと招く


使徒行伝に記された使徒たちによる福音説教を調べながら、著者は、そこにイエスの物語が語られ、イエスについての宣言がなされていることを指摘してきました。その後、著者は、「使徒たちは人々が応答することを求めた」と指摘します。すなわち、「人々をイエスの物語に導くにあたり彼らが求めたのは、信じて、悔い改め、洗礼を受けることだった」と言います(178頁)。「信じる」という言葉については、「『自分のすべてと救いとを(イエス・キリストに)信頼する』ことを意味する」と説明します(178‐179頁)。

「信じるとは、頭の中で何らかの真理に同意する以上のものである」との指摘は、同感です。信仰を真理への知的同意にとどまらせず、キリストへの人格的信頼として捉えていることについて、私も同意したいです。


どうかな?その7 信仰と悔い改めと洗礼との関係


福音の説教が人々に求める応答について、著者は、「信じて、悔い改め、洗礼を受けることだった」と言います(178頁)。ここで、三つの要素、「信じる」「悔い改める」「洗礼を受ける」ということが挙げられていますが、それらの相互関係について、著者は、慎重な言い方をしつつも、「信仰とは、その現れとしての悔い改めと洗礼を包含するものである」という見方を提案します(181頁)。

洗礼を悔い改めと信仰の表現として位置付けることには同感できますが、悔い改めを信仰の現れと位置付けること、信仰の現れとしての悔い改めと洗礼を包含するものとして信仰を位置付けることについては、「どうかな?」というところです。

悔い改めと信仰の両要素が見られる個所として、マルコ1:15がありますが、「悔い改めて福音を信じなさい」という順序です。「福音を信じ、(その現れとして)悔い改めよ」という順序ではありません。もう一個所、使徒行伝の中で、パウロがエペソでの自分自身の宣教活動を振り返りながら、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張した」と言っている個所があります。ここでも、悔い改めが先で信仰が後になっています。

確かに悔い改めと信仰を切り離すことはできません。福音への応答として、信仰だけが言及されている個所もあれば、悔い改めだけが言及されている個所もあります。この事実は、悔い改めの中に信仰の要素があり、信仰の中に悔い改めの要素があることを示唆していると考えられます。しかし、両者について同時に言及されている個所では、「悔い改め」-「信仰」と言う順序になっていることからすれば、「悔い改め」に「信仰」への準備、備えとしての要素があるからではないかと考えられます。

著者同様、この点について私も慎重でありたいとは思います。私の考えは、「そうじゃないかな」と思う程度であって、他の整理の仕方があってもよいと思います。この点についての私の考え方には、おそらく、ウェスレー神学の影響があるのだろうと思います。


ナルホドその9 福音に正しく応答する者は救われる


私としては意外に思うほどですが、著者は、使徒行伝の検討の最後に、こう付け加えます。「福音を聞き、信仰と悔い改めと洗礼をもって応答する者は救われる」と(182-183頁)。ですから、福音がこれに正しく応答する者に救いをもたらすこと自体を著者が否定するのでないことは明らかです。

救いの内容としては、使徒行伝の検討の中から、「罪の赦し」、「聖霊に満たされ」ること、「継続的な回復」、「義認(解放)」、「平安」を指摘します(183頁)。特に、平安の意味として、神との間の平和というより、「異邦人とユダヤ人がひとつになることによる平和を指す」と指摘します(183頁)。

救いの内容の豊かさを捉えている点は、私としてもとても賛同できます。


どうかな?その8 福音の中で、「イエスについての宣言」「応答への招き」「救いの約束」をどう位置付けるのか


さて、ここまで著者の主張を追いかけながら、一つの課題が浮かび上がって来るように思えました。すなわち、福音説教の中で、「イエスについての宣言」、「応答への招き」、「(福音への応答の結果としての)救いの約束」をどう位置付けるかという課題です。

これに対する著者の回答は、このようなものと思われます。「福音の中核となるのは、メシヤであり王であるイエスについての宣言である。福音はこの宣言に対して応答するよう招き、この招きに応えた者に救いを与えるが、それはあくまでも結果であって、それは福音が正しく語られたことの結果に過ぎない」。

たとえば、第8章の終りで、著者は「福音を宣言するとは、イエスについての物語を語ることなのである。救いはその物語から流れ出る。しかし、その物語そのものは、『救いの計画』よりも大きく、そこに主眼があるのでもない」と言います(184頁)。

また、続けて、「福音の文化は、救いをないがしろにはしない。そうではなく、始まり(創造とイスラエルとの契約)、中間(ダビデ)、そして完結(イエスと最終的な贖い)を持つ、『福音の物語』という文脈の中に救いを捉え直すのである」と言います(184‐185頁)。

おそらく、著者の主張を分かりやすく言えば、福音の中に、「応答への招き」、「救いの約束」という要素を認めつつも、その重心を明確に「イエスについての宣言」へと移すべきだ、ということになるのでしょうか。

ただ、使徒行伝に見られる福音説教を調べる限り、「応答への招き」、「救いの約束」が明確に語られていることは確かであり、それは少し見方を変えれば、人々を救おうとする神様のご計画が語られているのであり、この救いに招く神様の招きに応えるよう訴えられているのであり、ある意味でそれは「説得」でもあると言えるのではないでしょうか。

重心がどこに置かれているのか、「イエスについての宣言」であるのか、「応答への招き」や「救いの約束」であるのかといった二者択一は正しくないのかもしれません。福音とはその全体であると捉えるのが自然でしょう。その中で、「救いの計画」や「説得の方法」も、要素として含まれていると考えることもまた、むしろ自然なことではないでしょうか。

「イエスのついての宣言」という要素の重要性を忘れてはならない、という主張としては、「ナットク」もできそうです。ただ、逆に「救い」が軽く扱われがちであることに対しては、私としては、「どうかな?」という思いがするのが率直なところです。あまりに「救い」にだけ重点が置かれて来た事に対する反動としては理解できますが・・・。これらの諸要素は、分裂させ、対立させるべきものではなく、その一つひとつを正しいバランスの中に置いた上で、全体として一つの福音であると受け止めるべきではないか・・・そんな風に思います。

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マクナイト『福音の再発見』(その8:第8章前半)

2013-08-18 15:34:22 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその7 著者は自説を支える4本目の脚として、使徒行伝に記録された使徒たちの福音説教に注目する。

新約聖書の検討を通して、著者は次のように指摘してきました。
(1)イエスは福音を宣べ伝えた。
(2)福音書は福音を語る。
(3)パウロは伝承された使徒的福音を伝えた。
これら3本の脚によって、福音についての著者の考え方が支えられていると言います。そして、第8章では、4本目の脚に注目するよう呼びかけます。それは、使徒行伝に記録された使徒たちの福音説教です。

まず著者は、使徒行伝に7つか8つの福音説教あるいはその概要が記されていることを指摘します。そして、それらの説教が、「福音を宣言する説教である」と指摘します。福音とは何かという問題を考える上で、これらの説教の内容を吟味することは基本的な作業になるという著者の指摘は、理にかなったものと思います。「福音の椅子の4本目の脚は、どういうわけかずっと無視されてきた」(157頁)、「部屋の中に象が1~2頭いるのに、皆がむきになってそれを無視しようとしているかのうように」(158頁)という著者の指摘が本当だとしたら、私も「どういうわけだろう」と思わずにはいられません。


どうかな?その6 彼らの説教の中にイスラエルの物語が含まれるのは、文脈化の結果とは言えないのか。


著者は、まず、使徒行伝に記されている福音説教にイスラエルの物語が含まれていると主張します。確かに、使徒行伝に記された福音説教を調べてみると、その多くは、旧約聖書の言葉に触れており(使徒2:13-21、3:22ー23、25)、旧約聖書の約束がイエスによって成就したことを示すものもあり(使徒10:43)、中にはイスラエルの歴史の要約を述べてから、それをイエスに結び付けるものもあります(使徒13:17-23)。しかし、これらの福音説教は、ユダヤ人か、ユダヤ的背景を持つ聴衆たちに語られたものであることを見過ごすことはできないように思われます。使徒2、3章のエルサレムでなされた説教はもちろんそうですし、使徒10章の説教対象であったコルネリオたちも、旧約聖書に親しんでいた人々と考えられます(使徒10:2)。また、パウロが説教の中でイスラエルの歴史を語ったのは、ピシデヤのアンテオケのユダヤ人会堂においてでした。

このことを考えると、使徒行伝に記された説教の中にイスラエルの物語が含まれているとしても、それは、ユダヤ人あるいはユダヤ的背景を持つ聴衆に向かって語られたからであって、いわゆる文脈化の結果であるとは言えないのか、という疑問が生まれます。

この疑問に対して答えを得るための良い方法は、異邦人に向かって語られた説教を調べることです。著者が指摘する7つか8つの説教の中で、明確に異邦人に対して語られている説教が2つあります。1つは使徒14:15-17のルステラでの説教、もう1つは使徒17:22-31のアテネでの説教です。これらの説教において、旧約聖書の引用は見られません。イスラエルの歴史や旧約聖書への言及もありません。

ルステラでの説教では、ただ「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神」と、創造主なる神について語ります(使徒14:15)。また、「とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」と、いわゆる一般啓示によってご自身を証しされる神様に目を向けさせています(使徒14:17)。

また、アテネでの説教でも、まず「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」について語ります(使徒17:24)。続いて、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました」と、これもまた一般啓示によってご自身を啓示しておられる神様に目を向けさせます(使徒17:26)。

著者はもちろん、これらの説教についても取り上げ、説明しています。「異邦人に対しても、ユダヤ人に対するのと同じ方法で、福音を宣言しただろうか。福音の説明の仕方に、何らかのバリエーションがあっても不思議はないはずだ。実際、違いはあった。たくさんあった」と、異邦人に対する福音説教が、ユダヤ人に対するものとは随分違ったものであったことを認めます。しかし、著者はこれに続けて、「パウロの福音宣教は、確かに聞き手に配慮して調整したものだった」と説明します(173頁)。これは、本来福音にはイスラエルの物語が含まれるものの、異邦人相手の説教でパウロがイスラエルの物語を省略して語ったことを意味するようにも思われます。

しかし、著者は、ルステラでのパウロの説教について、「聴衆が異邦人だからと言って、パウロは聖書に記されたイスラエルの物語がイエスの物語によって完成させるという歴史の流れに言及せずにはおれなかった」と説明します(174頁)。また、アテネでのパウロの説教について、「イスラエルの歴史の概略を説明することで(選びと契約については省略したが)、イエスの物語を語るための状況を整えた」と説明します(175頁)。著者の見方からすればそうなるのかもしれませんが、私には、パウロの説教をありのままに見るよりは、著者自らの枠組みによって多少無理に捉え直しているように思われるのですが、どうでしょうか。


ナルホドその7 使徒行伝に記された福音説教には、イエスの物語が含まれている。


ユダヤ的背景を持たない異邦人にもイスラエルの物語が語られたとする著者の主張には今ひとつ納得できないものを感じますが、他方、使徒行伝に記された福音説教には、イエスの物語が含まれているという指摘には「ナルホド」と思いました。

「ペテロの福音はイエス・キリストの物語全体を語るものであり、そこにはイエスの人生、死、復活、昇天、聖霊の賜物、再臨、神がすべてのすべてになるための歴史の総括が含まれる」(166頁)。著者は、イエスの物語が十字架に限定されていないことに、特に注目する。また、イエスに対する称号としては、「メシヤ」と「主」が最も頻繁に用いられており、その他の称号はこれを補佐するものだと主張します(172頁)。

他方、「異邦人への使徒」であったパウロの説教については、特にアテネでの説教に注目します。ここでパウロは、キリストの十字架に言及しておらず、むしろイエスの復活とイエスによる裁きを説教のクライマックスに置いていることを、著者は指摘します(176‐177頁)。

福音を語る時に、キリストの十字架のみを語って終わってしまうことは、確かに福音の矮小化につながる危険性を持つのかもしれない、と思います。

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マクナイト『福音の再発見』(その7:第7章)

2013-08-17 12:03:56 | マクナイト『福音の再発見』

ナルホドその6 イエスはイスラエルの物語を完成させる救いの物語としての自分を宣べ伝えた


「イエスは福音を宣べ伝えたのか」という問い(126頁)に対して、著者はこの問いを「イエスは、イスラエルの物語を完成させた、救いの物語としての自分を宣べ伝えたのか?」という問いとして受け止めることにより(127頁)、「宣べ伝えていた」という答えを導き出しています(155頁)。

従って、第7章での福音書の検討は、「イエスは、イスラエルの物語を完成させる者として自分を説いたか」ということに焦点が当てられています。

著者は、第一に、福音書での最重要テーマとも思われる「御国(神の国)」についての検討から始めます。

まず、イエス様より以前の証言として、マリヤ(マグニフィカト)、ゼカリヤ(ベネディクトゥス)、バプテスマのヨハネを取り上げ、それらがいずれもイスラエルの物語のメシア待望と王国への期待がイエス様によって成就されようとしていることを告げるものだと指摘します。

次に、イエス様ご自身の王国に関するメッセージには5つのテーマが見られると言います。

(1)(旧約聖書で期待されていた)神の国は歴史の中に現れる(マルコ1:15、マタイ12:28)。
(2)長く待たれた王国の社会は根本的変化を伴う新しい社会である(ルカ4:18、19)。
(3)神の国の市民権は従来の考え方を逆転させたものである(ルカ6:20-26)。
(4)神の国は、「神の」国であって、イスラエルの神、創造主であり契約の造り主である神に従うよう呼びかけるものである(マタイ6:9-10)。
(5)(福音の宣言の核心として)神の国の中心に自分がいる(ルカ4:16-30、ルカ7:22-23)。

御国についてのこのような考察を通して、著者は主張します。「イエスは、自分自身を説き、自分がイスラエルの物語を完成させる者とみなしていたので、福音を宣べ伝えていたことになる」と(145頁)。

これに加えて、著者は更に4つの点を指摘します。
(1)イエスの道徳的ビジョンは、旧約聖書の道徳的ビジョンを完成させるものである(マタイ5:17-20)。
(2)イエスが12弟子を選んだということの中にも、イスラエルの物語の成就がある。
(3)イエスは自分の死を説明するのに、旧約聖書のみ言葉に照らしており(マルコ9:31)、自分の死をイスラエルの物語、特に過ぎ越しの物語を完成させるものとして示した(マルコ14:12-26)。
(4)復活後、イエスはイスラエルの物語がご自分を通して完結したことを弟子たちに示した(ルカ24:16-36)。

これらの検討の結論として、著者は言います。「イエスは福音を宣べ伝えていたのか?宣べ伝えていた。なぜなら、福音とはイスラエルの物語を完成させるイエスの救いの物語であり、イエスは明らかに、イスラエルを救う神のご計画の中心に自分を据えていたからである」と(155頁)。

福音の定義の問題は横に置くとしても、福音書の中心的使信として、イエス様が常に旧約聖書での約束の成就としてご自分を示しておられたこと、神の国について語るにしても、神の国をもたらす者として常にご自分を示しておられたという事実は、心に深く留めるに値すると思いました。(「いくら心に深く心に留めたとしても、それを福音の中心に据えるのでなければ・・・」といった著者の声が聞こえてきそうですが。)

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