長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

韓国の宣教チームをお迎えして

2019-07-31 21:18:26 | 教会便り

29日(月)、韓国水営路教会の皆様10名をお迎えしました。

その日のうちに早速、神戸大石教会の皆さんも加わり、チラシ配布。

1時間ほどで、2000部用意した教会ニュース、8、9割配れました。

30日(火)、午前から準備し、午後と夜、「音楽と聖書の集い」。

午後は藤浦佐知子さんのソプラノソロ、夜は大石教会、水営路教会の皆さんの賛美、

また教会員によるオカリナ演奏。

聖書のメッセージは、チームを引き連れておいでくださった朴ジンス牧師。

諸方面から集って下さった方々が音楽とお話に耳を傾けてくださいました。

集会後には、韓国料理や希望者にはネイルデザインも。

皆さん、出し切ったご奉仕を終え、多くの笑顔を残して、今朝大阪・京都に向け、

出発されました。

色々な所で神様の守り、支え、備えを覚え、感謝。

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準備万端?

2019-07-21 14:54:28 | 教会便り

来週、29日(月)~31日(水)、水営路教会の宣教チームが

神戸大石教会の伝道応援に来られます。

29日には近隣へのチラシ配布。

30日には午後と夜、2回の集会。

案内の看板を造ったり、

ウェルカムボードを造ったり。

集会チラシと教会ニュースも2千セット印刷。

準備万端。あとは祈りの準備を。

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神戸外国人墓地

2019-07-20 18:54:34 | 長田家便り

家族で再度山、外国人墓地に行ってきました。

以前、貞美が宣教師と一緒に行った場所。

スマホカーナビの機能悪く、ふもとでうろうろしましたが、

登り道を見つけたらあとは一本道。

静かな場所で、ゆったりした休日を過ごしました。

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信仰への招き  5.アブラハム、イサク、ヤコブの神

2019-07-15 15:35:31 | 信仰への招き
「罪」という大きな問題を抱えた人類に対して、神様は救済のご計画を立てておられました。そのご計画の中で重要な役割を持つようになった人物が、アブラハムです。旧約聖書の最初の書、創世記には、アブラハムとその息子イサク、更にその息子のヤコブの生涯が記されています。
 
神様は彼らとの個人的な関わりを大切にされました。同時に、彼らに対して契約を結ばれ、彼らの子孫を大いなる国民とすること、彼らに約束の地を与えることを約束されました。この約束に従って、ヤコブの子孫はイスラエル民族として知られるようになります。そして、後にイスラエルの民に対して、神様をご自分のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と自己紹介されます。(出エジプト3:6)
 
どうしてアブラハムだったのか・・・それは神様の選びだったという他ないのかもしれません。しかし、アブラハムの生涯を見ると、神様に対する信仰と従順の生涯であったことが分かります。神様は信仰の人アブラハムの生涯を祝福し、彼の子孫を通して全世界に祝福を広げる契約を結ばれました(創世記12:2、3)。彼の生涯の中で、何度も彼の信仰と従順を確認され、その度に、その契約を更新していかれました(創世記15:6、17:1-8、22:15-18)。
 
神様は、信仰の人を通して全世界を祝福に導こうとしておられました。また、そのご計画の中で、最も大切なポイントは、「信仰の民」を生み出すことでした。イスラエルの民は、そのような期待と使命をもって生み出され、導かれた民であったということができます。
 
「信仰」、それは神様の救済のご計画の中で大切な役割を果たします。そもそも、アダムとエバが罪を犯したとき、禁じられた木の実を食べる前に、彼らの中に起こっていたのは、神様のみ言葉への不信仰でした。そこから、人間の罪が始まっていきました。ですから、人類救済の道筋も、信仰の回復を抜きに進むことはできません。
 
「信仰」は神様の愛と真実を真正面から受け止め、神への信頼に基づいて生きることです。神様に愛されている存在であることをしっかりと受け止めること…それは、神を愛し、人を愛するという人間本来の生き方を回復していくための土台となります。神様のもとで人間が幸せに生きていくための鍵が「信仰」にあります。
 
そんなことを考えるとき、神様がご自身の人類救済のご計画の中で鍵となる人物としてアブラハムを選ばれたのも、アブラハムの信仰に根拠があったと考えたとしても、あながち的外れとは言えないでしょう。以下の創世記の言葉は、後に使徒パウロが何度か引用したものです。
 
「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:6。ローマ4:3、9、ガラテヤ3:6参照)
 
但し、神様の大きなご期待の中で生まれたイスラエルの民ですが、実際には、彼らの歴史は、そのご期待を裏切るものとなっていきました。実はそういった中からメシアへの待望も生れていきます。しかし、それらのすべてのことさえも、アブラハムとの契約の枠組みの中で進められていくのを見ると、神様が一人の人に対して結ばれた契約にいかに真実であられるかを思うことができます。
 
聖書を読むとき、不真実な人間のあり方の中に、神様の真実が貫かれていく様を見ることができます。目には見えませんが、変わらない愛をもって私たちを導いてくださる神様。あなたも、このお方への信仰をもって、歩んでいかれませんか。
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信仰への招き  4.的外れ

2019-07-08 21:41:26 | 信仰への招き
聖書は、罪について多くのことを語っています。罪とは何でしょうか。
 
新約聖書で「罪」と訳される代表的な言葉(ハマルティア)は、もともと「的外れ」を意味する言葉です。人間本来の生き方から外れて生きることが罪です。既に書きましたように、人間本来の生き方が「神様の愛のもと、神を愛し、人を愛する生き方」であるとすれば、そのような生き方を外れて生きることが罪です。神様に背を向け、無視し、周りの人々を大切にせず、自己中心に生きること、そのような生き方が罪です。
 
創世記3章には、人類最初の罪がどのようにして起こったかが記されています。最初の人、アダムとエバは、エデンの園で神様の愛のもと、神を愛し、お互いに愛し合って生きていました。まさに楽園の生活でした。しかし、神様が食べることを禁じられていた「善悪を知る木」の実を食べたとき、的外れなあり方が彼らを支配しました。神様との親密な愛の関係は失われ、お互いの間にも責任の押し付けが始まりました。そこには、「罪」という言葉は出てきませんが、まさに罪の始まりでした。聖書を読むと、その後、人類の歴史は、人間が神に背き、お互いを傷つけ合う有様の連続であることが分かります。
 
罪と関連して大切なのは、律法というものです。次回にご紹介するように、神様は人類救済のご計画の中で、イスラエルの民をお選びになり、指導者モーセを通して彼らに律法を与えられました。これは、彼らに対して義と不義が何であるか、罪が何であるかを示すものでした。中でも十戒は有名です。
 
(1)あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
(2)あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
(3)あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
(4)安息日を覚えて、これを聖とせよ。
(5)あなたの父と母とを敬え。
(6)あなたは殺してはならない。
(7)あなたは姦淫してはならない。
(8)あなたは盗んではならない。
(9)あなたは隣人について、偽証してはならない。
(10)あなたは隣人の家をむさぼってはならない。  (出エジプト20:3-18、抜粋)
 
よく見ると、第1戒~第4戒は、神様との関係について、第5戒~第10戒は、人との関係について教えるものであることが分かります。すなわち、神様の愛のもとで、神を愛し、人を愛するという、人間本来の生き方について、もう少し具体的に教えたものが十戒であると見ることができます。
 
神様を愛して生きるとは、唯一の創造主なる神様だけを神とすることであり、神様は目に見えない霊なるお方であるので、刻んだ像を造って拝むことをせず、「神様」について敬虔な心で語り、週に一度は神様を仕事も休んで神様を礼拝する・・・第1戒~第4戒は、そんな生き方を示しています。
 
人を愛して生きるとは、人生最初の人間関係である父母との関係を大切にすること、人の命を尊重すること、また、夫婦関係も大事にしながら、性的な関わりも夫婦関係の中でだけにとどめること、人の所有物も尊重すること、偽りによって人に損害をもたらさないで、真実に生きること、人をねたんだり、人のものをむさぼったりすることもしないこと・・・第5戒~第10戒は、そんな生き方を示しています。
 
旧約聖書にはイスラエルの民の歴史が詳しく描かれていますが、彼らは律法を守ることができたでしょうか。彼らの歴史は、律法を守ることに失敗した歴史であり、そのために滅びを刈り取ることになった歴史であったと言えるでしょう。
 
選民イスラエルが律法を守ることに失敗した…これは人類がいかに罪深く、罪に支配された存在であるかを示していると言えるでしょう。このような人間に希望はあるのか。神様はこのような人間を救うことができないのか。このことについては、次回以降も触れていきたいと思います。
 
いずれにしても、人類が直面する大きな問題が「罪」を巡るものであることを聖書は明瞭にしています。そして、その本質は、的外れな生き方にある、ということです。
 
誰しも、この問題から離れていることのできる人はいません。あなたは、いかがでしょうか。
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