新約聖書神学の分野において、「神の国」というフレーズは大変重要な位置を占めています。特に、19世紀以降、イエスの福音宣教の中心的使信である「神の国」をどう理解するか、様々な角度から研究が進められてきました。このような近代以降の「神の国」に対する研究史について、近年、大変すぐれた本が国内で出版されました。山口希生著『「神の王国」を求めて―近代以降の研究史』です。(以下、『「神の王国」を求めて』と表記。)(注1)
キリスト教月刊誌『舟の右側』に連載が始まった当時、その内容の深さ、幅広さに衝撃を受けたことを思い出します。密かに書籍化を願っていましたが、大幅な加筆・修正を加えて単行本化され、大変うれしく思いました。
その内容を通して読み直してみますと、このテーマがいかに大きなテーマであるか、改めて痛感させられます。それぞれの研究者がそれぞれのアプローチでこのテーマに近づき、その度に新しい光が投ぜられてきました。この書は、それらの研究内容を簡潔的確にまとめて紹介しており、これまでこの分野での日本語での書籍が皆無に近かったことを思えば、今後の「神の国」研究において貴重な基礎資料となることは間違いないと思われます。
ただ、研究史としての性格上、多種多様なアプローチがそのままに並置、紹介される形となります。冒頭、極めて簡潔ながら、著者自身の見解も記されてはおりますが、その見解に至る釈義上、あるいは神学上の判断については、概略を示すのみです。しかし、それだけに一層、「それではあなたはどう理解するのか」という問いが残ることになります。
これだけの研究者がこれだけの取り組みを重ねてきたテーマですから、安易に「自分はこれ」と言って済ませてよいわけではないということは、この本が示唆していることの一つでもあります。しかし、同時に、一牧師として、一伝道者として、福音を宣教し、福音に基づく教会形成を志す者として、「あまりに大きなテーマであるから、自分の手に負えない」と投げ出すことは許されない、ということを覚えます。
実は、今回の投稿内容は、本書が発行されて間もなくまとめていたものですが、これを序論部分として自分自身の「神の国」理解をまとめていこうと取り組みを始めていました。しかし、その作業は一筋縄では進みませんでした。ある所まで進むと、掘り下げの必要な論点が見つかり、その論点に取り組むと、また別の論点が浮かび上がり・・・といったことを繰り返すことになりました。現状、「神の国」全体の論考がまとまるのがいつのことになるか、見通しがつきません。そこで、今回は『神の王国を求めて』で論じられている争点の概略をまとめた上で、紹介されている各研究者のアプローチ内容を要約、今後の自分なりの取り組みの方向性を示して、一旦の投稿としたいと思います。
1.争点
『「神の王国」を求めて』を読むと、神の国を巡る理解は、百花繚乱とも言える状況を呈しています(注2)。そこで、まずは何が争点になっているのか、ある程度論点を整理しておくことにします。
このために参考になるのが、『「神の王国」を求めて』の第1部、著者自身の見解の概要を記す部分です。「はじめに」において、神の国に関わる用語についての説明をした後、「『神の王国』とは、どこにあるのか」「『神の王国』は、いつ来るのか」「『神の王国』は、どのようにして来るのか」といった見出しのもと、著者の見解が簡略に記されています。
「どこにあるのか」という部分では、「神の王国」の中心的な意味が「王なる神の支配」であることを踏まえ、「人々がそのような『神の支配』を体験するのはあの世ではなく、この世界においてです」と言います。「神の王国は近づいた」というイエスのメッセージを「神から離反してしまったこの世界に、神の支配が突入してくる、そのとき人々は神の力を経験する」と理解します(注3)。
「いつ来るのか」という部分では、イエスの宣教において「既に来ている」ということと、「これから来る」ということとの両面が示唆されていることを踏まえつつも、「神の王国の到来は『何時何分何秒』というような特定の瞬間を指すものではなく、むしろプロセスとして捉えるべき」との見解を強調しているように思われます。(注4)
「どのようにして来るのか」という部分では、ユダヤ黙示的世界観を踏まえつつ「霊的な戦いという側面」(注5)、「社会の片隅に追いやられていた人々」への招き(注6)、「徹底した献身」(注7)、そして「贖罪のための十字架上での死」(注8)を通してと指摘されます。
「どこにあるのか」「いつ来るのか」「どのように来るのか」という三つの論点の内、「どこにあるのか」という問いは、「天国」についての一般的な理解からは「あの世」という答えになりそうですが、「神の国」というフレーズの中心が「神の支配」にあるとすれば、そう単純に答えられるものではありません。本書の著者自身も上述のように、強調点はこの世界での神の力の経験にあります。そこで、新約聖書における「神の国」理解を探るためには、「王なる神の支配」が「いつ、どのようにして来るのか」という形で問題を設定し直すのがふさわしいように思われます。
実際、『「神の王国」を求めて』の本論部分で紹介される研究者たちの多種多様な主張、見解も、王なる神の支配が「いつ、どのようにして来るのか」を巡っての苦闘の結果であると見ることができます。
本書第2部では、この分野での古典的研究において、この問いに対してどのような回答が示されてきたのかが紹介されます。以下、その内容を簡略にまとめてみました。
2.神の国はいつどのように来るのか―各研究者の回答
(1)自由主義者
「どのようにして」という問いに対する自由主義神学からの回答は、現在、イエスを信じる人々が「『最高善』を達成すること」を通してというものでした(注9)。
(2)ヨハネス・ヴァイス
これに対して、ヨハネス・ヴァイスは、ユダヤ黙示文学を踏まえつつ、将来、「ひたすら神の側からの劇的な介入」により、「サタンの王国が壊滅する」ことによってであると答えました。(注10)
(3)グスタフ・ダルマン
グスタフ・ダルマンは、「神の国」=「神の支配」という見方を提唱した上で、神の支配が到来することは、人々がその支配を認識することと分かちがたく結びついており、「人々が神の教えに従うことで、隠されていたものが明らかにされる」という意味で神の国が到来すると指摘しました。(注11)
(4)アルベルト・シュヴァイツァー
これに対して、アルベルト・シュヴァイツァーは、「いつ、どのようにして来るのか」という問いに、衝撃的な解答を示します。彼は、イエスが間もなく「人の子」の到来により神の国が出現すると信じたと言います。それは宇宙的な大激変が伴うもので、当初、十二使徒を派遣する際には、彼らが町々を廻り終える前に起こると期待していたものの、そうはならず、イエスは遂に「メシアの災い」を引き受けることを通して神の国の到来を早めることが出来ると考えた…しかし、その死にもかかわらず、神の国は到来しなかった…そのように彼は考えました。(注12)
(5)ルドルフ・ブルトマン
ヴァイスから博士論文の指導を受けたルドルフ・ブルトマンは、福音書研究の前提として「歴史的人物としてのイエスのことはほとんど知りえない」という立場を取り、「むしろイエスを信じた原始教会の信仰を研究の対象としました。」(注13)その上で、原始教会は「『世界の終焉が近い』という信念を抱いており、キリストがほどなく再臨して歴史を終わらせると固く信じて」いたと言います(注14)。しかし、ブルトマンは原始教会のそのような考え方を古代ユダヤ人から受け継いだものと考え、現代人は「イエスの神話的宣教のもっと深い意味」を探り知るべきだと言います(注15)。
(6)オスカー・クルマン
フランスのオスカー・クルマンは、神の王国を空間的な問題ではなく、時間的な問題として捉えるべきことを主張した上で(注16)、時の中心を未来に置くユダヤ教と違い、キリスト教は時の中心をキリストの死者の中からの復活に置くと言います(注17)。そこでは、「死を滅ぼす」という神の最終目的が達成されており(注18)最終的に勝利が現わされるⅤデイは「未だ」来ていないけれども、実質的な勝利を確定させるDデイは「既に」来たのだという、よく知られる類比を用いての説明を提示しました(注19)。
(7)チャールズ・ハロルド・ドッド
英国のチャールズ・ハロルド・ドッドは、ルカ11:20に注目し、神の国が「既に到来している」と理解し、「実現された終末論」を提唱します(注20)。また、彼は「イエスの譬えについて、それがイエスの再臨を指すと通常理解されてきたものが、実際はイエスの同時代の人々に臨む危機への警告だった」と指摘します(注21)。同時に彼は、神の国の到来が特定の瞬間をさすのではなく、「彼(イエス)自身の宣教、その死、それに続いて起こる事柄を含む、互いに関連した出来事の複合体」であるとし、プロセスとして見るべきことを主張しました(注22)。
(8)ジョージ・ケアード
ジョージ・ケアードは、いわゆる「キリストの再臨遅延」問題に取り組み、キリストの再臨についての教えと理解されてきたマルコ13章は、イスラエル神殿体制への裁きについて予告したものと指摘します。但し、キリストの再臨自体を否定したのではなく、キリスト再臨は使徒1:11、第一テサロニケ4章などで示されていると理解しました。(注23)
(9)マーカス・ボーグ
ケアードの門下生の一人、マーカス・ボーグは、ユダヤ教各派との対決に焦点を置きながら、イエスのイスラエル刷新運動の焦点がどこにあったかを明らかにしようとしました。分離主義的なイスラエル聖化運動を進めていたパリサイ派に対して、イエスの宣教は神の憐れみに焦点を置いたこと、エルサレム神殿を管理する立場にいた大祭司以下の貴族階級に対して、イエスの教えと行動がその経済的搾取体制を非難するものだったと指摘しました。(注24)神の国との関わりで言えば、そのような形でユダヤ人社会のエリートを非難し、社会的弱者を包み込むことをとおしてイエスが神の国をもたらそうとしていたとの見方として理解できるかもしれません。
(10)リチャード・ホースレー
他方、アメリカ合衆国のリチャード・ホースレーは、イエスの教えや行動、たとえばゲザラの地での悪霊払いやパリサイ派などとの税金論争の中に、ローマ帝国の暴力的支配に対する暗黙の非難を見ます。(注25)イエスの神の国運動の中に、反ローマ帝国の要素を見ようとする見方と言えるでしょう。
(11)リチャード・トーマス・フランス
英国のリチャード・トーマス・フランスは、神の国の到来のプロセスに注目しました。彼は、マルコ9:1に注目しながら、イエスの死、復活、神の右への着座、聖霊の降臨、教会の力強い成長、エルサレム神殿の破壊といった出来事のすべてが、神の国到来の目に見える証拠であって、弟子たちはそのすべてにおいて神の国が力に溢れて現れるのを見たのだと論じました。(注26)
(12)ニコラス・トマス・ライト
同じく英国のニコラス・トマス・ライトは、「神の国」がイスラエルのストーリーに完結をもたらすものであったという視点を強調します。特に、ダニエル9章とイザヤ書40-55章に注目し、バビロン捕囚からの物理的な意味での帰還は、捕囚の終了をもたらさず、預言者たちは捕囚が真に終わり、エルサレムの栄光が回復する日を待望したと言います。そして、その日には「王である神のシオンへの帰還」が伴う…このようなイスラエルのストーリーを完結したのがイエスであるという見方を提示します。(注27)
また、ライトは、イエスの十字架の死、復活についてのパウロの見方をもイスラエルのストーリーの中でとらえるべきことを主張します。イエスの十字架上での死は、イエスが苦難のしもべとして民族の咎を引き受けたものであり、それによってイスラエルの上にあった呪いは解かれ、アブラハムの約束は本来の目的地である諸国民の祝福へと進み出したと言います。(注28)
(13)荒井献
他方、日本の荒井献は、マタイ福音書がユダヤ教徒との差別化を図る形で教会の姿を明確にした点に注目しました。たとえば、神の国のたとえにおいて、マタイだけに現れるものがあり、そのいくつかは神の国というより教会についてのたとえであると指摘します。すなわち、教会=神の国ではなく、教会は「善人」と「悪人」から成る混合隊であって、審判の際に分離が起こり、神の国に入る者とそうでない者とが区別されることを指摘します。(注29)
(14)大貫隆
同じく日本の大貫隆は、黙示文学とイエスの「神の国」に共通するイメージがあることに注目します。サタンの墜落、天上の祝宴、復活の際天使のような存在となること、霊魂の昇天とからだの復活、神の国における位階、審判者としての人の子と義人の群れとの関わり、天上の神殿といったイメージが指摘されます。「神の国の到来はいつ」という点からいえば、サタンの権能が失墜し、「既に」天上の祝宴が始まっているということと、「将来」、からだの復活が起こるということの両方が、黙示文学との関わりで指摘されていると言えるでしょう。(注30)
(15)ジョン・ドミニク・クロッサン
アメリカ合衆国のジョン・ドミニク・クロッサンは、黙示的な神の国が未来の神の王国であるのに対し、知恵による神の国が未来よりもむしろ現在に注目したと指摘します。それは、「既にあり常にある神の支配の中で、今ここでどのように生きられるのかを心に描く」と言いますが、同時に「知恵的な王国は黙示的な王国に負けず劣らずこの世の有様に否定的」とも指摘します。(注31)
(16)ゲルト・タイセン
他方、ドイツのゲルト・タイセンは、社会学的な観点からイエスの神の国について考察しました。たとえば、イエスの運動を他のユダヤ教各派の運動と決定的に区分したのは、その徹底した平和主義・非暴力主義だと指摘します。また、他の千年王国運動との比較においては、異文化・異文明への開かれた態度において一線を画していたと言います。(注32)
(17)デイビッド・モーフィット
英国のデイビッド・モーフィットは、霊肉二元論の世界観に基づいていると考えられてきたヘブル人への手紙について、「『からだの復活』の希望が表明されており、復活したからだで受け継ぐべき刷新された地上世界への希望が根底にある」と論じました。(注33)
(18)リチャート・ボウカム
同じく英国のリチャード・ボウカムは、ヨハネの黙示録を「神の支配がどのように諸国民に受け入れられるのか、そのプロセス」を示すものと考え(注34)、「神の王国は教会を救出し、諸国民に裁きが下るだけで来るのではなく、何よりも教会の証しの結果、諸国民が悔い改めることによって来る」と論じます。(注35)
3.神の国はいつどのように来るのか―取り組みの方向性
多種多様な見解の中には、私の聖書理解からは同意できない部分も結構ありますが、いずれにしても、世界中の研究者たちがこのテーマに果敢に挑み続けて、なおこのテーマが決して研究しつくされてはいない様子が浮かび上がってきています。百花繚乱、五里霧中と言ったらよいでしょうか。神の国がいつ、どのように来るのかという問いに対する答えは、なお濃い霧の向こうに隠されているように思えます。
しかし、このような状況の中でも私は主イエスが教会に神の国の福音を宣べ伝えるよう命じられたと受け止めています。私自身、伝道者としてこの福音を世に宣べ伝えるとともに、牧会者として教会をこの働きのために専心取り組むよう促していかなければならないと感じています。そうであれば、この福音を「濃い霧の向こうに隠されている」と言って済ませるわけにいきません。
私としては、現時点で、以下のような方向性を持ってこの問いと向き合いたいと考えています。
(1)メシア観との関連
主イエスの神の国理解を考えるとき、そのメシア観との関連を考えることが大切だと感じています。
主イエスの時代、メシアが現れて神の国をもたらすと言う期待がありました。しかし、「いつ、どのようにして」ということについては、ユダヤ人の中にも多様性があったように思われます。そのような中で、神の国についての主イエスのメッセージは、ご自分がどのような種類のメシアであるのかについての示唆と深く関わっていたように思われます。
ダビデの子メシア到来の期待は、多くの場合、政治的、軍事的なメシアのイメージと結びつき、もたらされる神の国は民族的、政治的な色合いが濃かったようです。
これに対して、ユダヤ人たちの間には「人の子」メシアに対するイメージも広がっていたように思われます。それは、政治的、地上的な神の国と結びつく場合もあったでしょうが、ある場合にはそのようなものを越えて、世の終わり、天変地異も伴うような形での神の国到来のイメージにつながるケースもあったように見受けられます。
さらには、そこに、主イエスが示された受難のしもべとしてのメシア観があります。罪の贖い、罪からの解放者としてのメシアを抜きに、新約聖書の神の国理解を考えることはできないだろうと思います。
いずれにしても、主イエスの神の国理解を考えるとき、そのメシア観を扱うことなしに、済ませることはできないと感じています。
(2)「すでに」と「いまだ」
「いつ来るのか」という問いに対して、大方の研究者の間では、「すでに」と「いまだ」の両面を踏まえて自分の回答を提示しています。いずれかの側面に強調点が置かれることがあっても、別の側面をまったく無視することはできないということは、共通理解になっているようです。私自身は、この両面をバランスよく受け止めることが大切だと感じます。
主イエスご自身は、「神の国」についてのまとまった教えの中で、まずは「今ここで始まる」という論点を示しているように思われます。これは、政治的メシア王国の到来を期待するユダヤ人に対し、主と弟子たちの間に見えない形で神の国が始まっていることを示唆するものです。しかし、その後、世の終わりに関する教えの中で、神の国の最終的な到来は「人の子」イエスが到来するとき、いわゆるキリストの再臨によってやってくることを示しておられるように思われます。
もちろん、マルコ9:1のような言葉は、キリストの再臨以前、十字架の死、復活、昇天、聖霊の降臨といった諸段階によって神の国到来のプロセスが進んで行くことを踏まえなければ了解できないものです。しかし、神の側では聖霊の降臨でそのプロセスは一旦完了しており、キリストの再臨に至るまでは「すでに」と「いまだ」の間にあるという理解でよいのではないかと思います。宣教による神の国拡大はもちろん大切なものですが、「すでに」と「いまだ」の基本的枠組みの中で起こる拡大プロセスとして理解するのがよいのではないでしょうか。
(3)永遠のいのちとの関わり
福音書を見ると、「神の国」、「永遠のいのち」、「救い」が相互に入れ替え可能な表現として用いられているケースがあります(マルコ10:17、23、26)。用いられている状況からすれば、それは主イエスがそのように扱われたというより、ユダヤ人一般の理解の中に既にそのような理解があったように思われます。先に見たように、神の国理解についてユダヤ人の間に多様性がありましたが、同様に、復活や永遠のいのちについても多様性がありました。しかし、これらのテーマを比喩的にでなく、肉体の復活として見る見方は確かにユダヤ人たちの間にありましたし、それが神の国に結び付けて理解されることも異例のことではなかったようです。主イエスはこのような見方を前提として話を進めておられるので、主イエスの神の国理解を考える上で見逃せない点になると思います。
(4)罪の問題との関わり
旧新約聖書に一貫して流れる一つの使信は、人間が直面する最深の課題として罪の問題を指摘するものと思います。神の国理解のために、この問題を抜きに考えることはできず、むしろこの問題への解決を神の国理解の中心に据えなければならないと思います。
たとえば、ルカ文書では福音を「神の国の福音」として提示します。同時に、「罪の赦し」と「聖霊を与えること」の福音としても提示します。神の国は、罪を赦され、聖霊が注がれ、内側が変革されることを通して実現するというメッセージがそこにはあるように思われます。
このことは、メシア観において受難のメシアを明確にとらえることの大切さとつながっているように思われます。
(5)神の臨在との関わり
もう一つ、神の臨在との関わりを考えることができます。ヨハネの黙示録最後に現れる聖なる都は、神の国の究極的な姿を示していると思われますが、これについて、「この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。」と言われます(黙示録21:22)。旧新約聖書に一貫して流れる大きなテーマとして、幕屋―神殿―受肉(幕屋をはる)―「聖霊の宮としての教会」という流れを見ることができますが、これは神の民が神の臨在の前に生きることへの招きと見ることができます。罪は神の臨在を遠ざけ、不可能にしますから、罪の問題の解決がどうしても必要なのは、このためでもあると理解できます。従って、「すでに」と「いまだ」の間で、神の臨在に生きること、同時に、最終的な形で世界を神の臨在が覆うようになる「時」が備えられていること、このような視点が「神の国」理解のために必要ではないかと思います。
(6)新しい契約との関わり
旧新約聖書を貫くテーマとして、聖書神学の分野で重視されるものに、「契約」があります。アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約があり、それらが「新しい契約」へとつながっています。
旧約聖書において、「新しい契約」について言葉の上からも明示しているのはエレミヤ31:31です。そこでは、罪の赦し、律法の内的授与、そして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」の現実化です。これは、「神の国」の成就と見ることができますし、神の臨在の実現と見ることもできます。
(7)イスラエルの役割
旧約聖書ではイスラエルが神の民として選ばれ、導かれた歴史を示します。そこでは、一見、「イスラエル」=「神の国」という図式が成り立つようにも見えます(歴代第一13:8、28:5)。しかし、その図式はイスラエルが神に背き、国の滅亡、民の捕囚という憂き目に合う中で、その成立が危ぶまれます。
預言者たちは、これらの憂き目が民の罪への裁きであることを宣告すると同時に、神によって回復が備えられていることをも告げます。それは、一見、民族としての国の復興を示唆しているように見えます。しかし、その復興は、一民族の国の復興を越えた側面を持つことが徐々に明らかにされます。
他方、共観福音書はイスラエルの復興というテーマを受け止めつつも、約束のメシアをイスラエルが拒んだことにより、神の国に入る者たちの順序に逆転現象が起こったことを示唆します。イスラエルから万民へという旧約聖書の構図は、万民が先という新約聖書の構図へと切り替わっていきます。民族としてのイスラエルへの神のご計画がなお残されているとしても、それはイエス・キリストに対する信仰によって、万民と同じ道を通って神の国に入るということになります(ローマ11章)。
しかし、アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストを通してこの道が開かれたのですから、イスラエルを通して神の国が成就するという神のご計画は成就したと言えるでしょう。
4.おわりに
『「神の王国」を求めて』は、「神の国」についての研究者たちの長きにわたる苦闘を明快に紹介しています。同時に、読む者に、「あなたはどう考えるのか」という問いを突き付けてもいます。私も牧師である以上、この課題に対する回答に向け、これまでも取り組んできましたし、今後も取り組みを深めていきたいです。
今回は、今後の取り組みの方向性をごく簡略に示すにとどめました。これからの道のりはまだ長いと感じます。しかし、こうして改めてまとめてみると、この本を読んでからのこの2年間に、随分自分なりの形が見えてきたようにも思われます。
こうした取り組みを促してくれた本書の発行に心から感謝したいです。
(注1)山口希生著『「神の王国」を求めて―近代以降の研究史』(ヨベル社、2020年)
(注2)前掲書において「百花繚乱」という表現は、第二部で取り上げられる19世紀後半から20世紀前半の研究状況に対するものとして用いられているが(24頁)、それ以降の研究状況に対しても十分用いられ得る。
(注3)山口希生著『「神の王国」を求めて』16頁
(注4)前掲書17頁
(注5)前掲書18頁
(注6)前掲書19頁
(注7)前掲書19頁
(注8)前掲書20頁
(注9)前掲書27頁
(注10)前掲書29頁
(注11)前掲書36頁
(注12)前掲書44、45頁
(注13)前掲書49頁
(注14)前掲書51頁
(注15)前掲書55頁
(注16)前掲書57頁
(注17)前掲書65頁
(注18)前掲書66頁
(注19)前掲書66、67頁
(注20)前掲書74、75頁
(注21)前掲書77頁
(注22)前掲書79頁
(注23)前掲書87-92頁
(注24)前掲書93-104頁
(注25)前掲書105-114頁
(注26)前掲書115-121頁
(注27)前掲書123-142頁
(注28)前掲書197-207頁
(注29)前掲書151-158頁
(注30)前掲書159-174頁
(注31)前掲書175-177頁
(注32)前掲書185-194頁
(注33)前掲書210頁
(注34)前掲書236頁
(注35)前掲書243頁に引用されたRichard Bouckham"The Chrimax of Profecy"(London:T&T Clark,1993)p258