長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  7.王であり、しもべであるメシア

2019-08-31 15:38:51 | 信仰への招き
旧約聖書に描かれるイスラエルの姿は、正しい人間のあり方から外れ、罪の中に生きている私たちの姿でもあります。イスラエルの民の姿にうめき、痛まれる神様の姿は、私たちを見ての神様の姿でもあるでしょう。そうだとすれば、罪に滅びようとするイスラエルの民を見て神様が与えられた約束は、私たちに対する約束でもあります。それは、来るべきお方、メシアの到来の約束です。
 
「メシア」という言葉はヘブル語で、本来、「油注がれた者」という意味の言葉です。もともと、イスラエルでは、祭司や王など、神の民の指導者として選ばれた人々は、「油を注がれる」儀式を受けました。これは、彼らが神の霊(聖霊)の働きの中で職務に当たることを象徴するものでした。
 
祭司が立てられ、王や預言者が立てられてもなお、イスラエルの民は神様への背きをやめません。そればかりか、指導者自らが神様に背く様相を深める中、預言者が語るメッセージは、徐々に裁きの宣告が中心となっていきます。しかし、峻厳な裁きの宣告と同時に、その向こう側に回復が備えられていることも少しずつ明らかにされていきます。そのような中で、様々な表現を通して示されたのが、「来るべきお方=メシア」到来の約束でした。
 
メシア到来のメッセージは、多くの預言者たちの言葉や、詩篇などの中に、様々なモチーフを用いて表現されています。主要なモチーフとしては、「ダビデの子孫としての王」、「主のしもべ」、「天的な人の子」等を挙げることができます。
 
たとえば、イザヤ書を見ると、特に初期の預言では、ダビデ王の子孫としての王なるメシアについての示唆が語られています。(イザヤ9:6、7、11:1-5)。同様な言葉は、預言書や詩篇のあちこちに多数散見されます。これらを背景として、バビロン捕囚の後、ユダヤ人たちの間では、大国の支配下に置かれている自分たちの現状を憂えながら、「ダビデの子孫である王なるメシア」到来への期待が高まっていきます。
ところが、イザヤ書をよく見ると、これ以外にもメシア到来の約束を示唆するモチーフがあります。「主のしもべ」という表現がそれです。これは、イザヤ書の後半に何度も繰り返し現れる表現ですが、それらの箇所を見ると、一体、「主のしもべ」とは誰であるのか、何であるのか、文脈によって様々に理解されることが可能です。
 
確実にイスラエルの民を指していると思われる箇所(イザヤ41:8、42:18-20)、イスラエルの民のようでありながら、一人の人間を示唆するようにも見える箇所(イザヤ42:1、2)、一見、預言者イザヤ自身のことをさしているようにも見える箇所(イザヤ49:1-6)。そして、52章の終わりから53章全体にわたり描かれる主のしもべは、「苦難のしもべ」と呼ばれ、イスラエルをさすのか、預言者イザヤをさすのか、あるいは別の人物のさすのか、謎に満ちています。
 
おそらく、「主のしもべ」とは、本来主のしもべとして召された神の民イスラエルが神様に背くの中、あらゆる苦難を引き受けつつ、真実な神の民を生み出すべく主に遣わされるメシア(油注がれた者)であって、特にメシアと神の民との一体性を示唆するイザヤ独特の表現なのでしょう。
 
「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道を示す。
(中略)
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ42:1、2)
 
「見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。多くの人が彼に驚いたように―彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである―彼は多くの国民を驚かす。(中略)まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ52:13-53:5)
 
多くのユダヤ人は、敵国からの解放者として、「ダビデの子孫としての王」メシアの到来を待ち望みましたが、「主のしもべ」、「苦難のしもべ」としてのメシアは予想しなかったようです。しかし、イスラエルに代表されるように、罪にとらわれた人間を罪と滅びの縄目から解放するメシアは、「ダビデの子孫としての王」であると同時に、「主のしもべ」、「苦難のしもべ」でなければなりませんでした。そこには、背く民の姿に痛み苦しむ神様ご自身の姿が示されているように思われます。
 
ちなみに、ダニエル7:13、14には、「天的な人の子」としてのメシア像が示されます。彼は全世界的統治者であると同時に、天的存在として描かれます。
 
旧約聖書を見る限り、ユダヤ人はメシアが自分たちのために来られるように思えたかもしれません。しかし、よくよく見れば、必ずしもそのように限定されるわけでないことに気づいたことでしょう。来るべきメシアは、ユダヤ人という枠を越え、全世界の民のメシアともなることが預言されています(イザヤ11:10、42:4、6、49:6、ダニエル7:14)。
 
旧約聖書のメッセージは、メシアが来られるという点に大きな焦点があると言っても間違いではないでしょう。天的なお方、ユダヤ人のみならず全世界の王となるお方、主のしもべ、苦難のしもべなるお方が来られるとの預言です。そして、新約聖書のメッセージは、メシアが来られたという点に焦点が置かれます。
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香登修養会

2019-08-27 17:07:39 | 長田家便り

夏休みで、一泊だけですが、家族で香登修養会に行ってきました。

昨夜は石田先生のメッセージ。簡潔ながらローマ書から

義認の恵みに立つことが語られました。

午前の集会は、インマヌエル綜合伝道団の藤本満先生のメッセージ。

ピリピ3:1-11より。成果主義など、いつの間にか忍び込もうとする

肉に頼ろうとするあり方を警戒し、キリストを通して表された神の愛に

ねざし、キリストを誇り、神の愛を何度も確認しながら生きることが

語られました。

次男が明日から学校なので、一泊で帰ってきましたが、

道中の田舎の景色も楽しみながら、ゆったりした二日間でした。

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講壇交換

2019-08-25 18:58:34 | 教会便り

今日は教区の講壇交換で、私は青垣教会での説教ご奉仕。

高速出口がすぐ近くまでできており、スムーズに行くことができました。

お寺の前を右折して、ごく狭い道を進むときは、少々心細くなりますが、

奥には広い駐車スペース。

学校校舎の2階部分の材料を利用して建てたという教会堂に、

神様への賛美の声が響きました。

夏風邪上がりでしたが、何とか咳き込まずに

説教ご奉仕を終えることができました。

 

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青年宣教大会

2019-08-17 10:06:36 | 事務所便り

今週、13日(火)、14日(水)、湖西教会・湖西祈りの家を会場に、

青年宣教大会WESTがありました。ネット配信、会計、受付等のご奉仕のため、

12日(月)より参加しました。

本来はEAST(福島県)と同様、15日(木)までの期日でしたが、台風10号が近づく中、

プログラムを縮小、集会会場も変更しての開催。

当初は、大会の開催自体、どうなのか、という声もありましたが、台風の移動が

ゆっくりであったため、何とか開催できたことは幸いでした。

予定していたプログラムのいくつかはなしになりましたが、

メイン講師の矢島志朗KGK副総主事の2回のメッセージや、

「現代の証し人に聴く」というプログラムで立てられた三人の方の証しは、

プログラムを組み替えて実施。

各教区分担による賛美チームも、それぞれのプログラムでご奉仕して頂きました。

ネット配信は、ZOOMという安定したシステムを用いるということで、あまり

心配していませんでしたが、やってみると、原因不明、予想外のトラブル等が連続。

今回もハラハラドキドキでしたが、終わってみれば、東会場への配信自体は最後まで

無事終了し、ホッとしています。

思い返せば、細かい所では、抜けやら失敗やらもありましたが、大きなところでは

神様の恵みに満ちた大会だったと思います。

日本全国に帰っていかれた青年達が、神様のご愛と導きの中で、大きく成長していかれることを

続いてお祈りしたいと思います。

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信仰への招き  6.背く民、痛む神

2019-08-03 10:53:54 | 信仰への招き
旧約聖書には、神に選ばれた民イスラエルの歴史が描かれます。しかし、それは愛し、選んでくださった神への背信の歴史であり、それゆえ滅びに向かう歴史でもありました。同時にそこには、痛みつつ裁き、裁きつつ嘆く神様の姿も描かれていきます。
 
「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。
わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、
わたしは彼をあわれまずにはいられない。」
(エレミヤ31:20、新改訳2017)
 
「わたしのはらわたは彼のためにわななき」とは、ここでの神様の心情をよく表しています。文語訳聖書では、「我(わが)腸(はらわた)かれの為に痛む」となっており、民の背きに対する裁きをくだしつつ、腸がねじれるような痛みを抱えておられる神様の御姿が浮かび上がります。
 
神の民として選ばれ、律法によって神様の御心を深く知らされたイスラエルの民がどうして、と思います。しかし、それが人間の姿だと、聖書は告げます。旧約聖書に記されたイスラエルの民の姿は、まさに私たちの姿です。神様を愛し、人を愛する生き方が正しい生き方だと分かっていても、そのように生きることができないで、的外れな方向に進んでしまう私たち。「これはよくない」と分かっていても、いつの間にかそのように行い、語り、考えてしまう私たち。そのような私たちの姿は、今も神様に対して「腸がねじれるような痛み」を与えているのかもしれません。
 
このような人間の現実に対して、希望はどこにあるのでしょうか。実は、痛まれる神の御姿の中に、私たちの希望がある、と言えるでしょう。罪を裁きつつも痛まれる神様は、イスラエルの民をそのままで放置することができません。罪に落ち込む人間を見て、ただ裁いて終わりにはできない神様がおられるのです。
先ほどのエレミヤ31章の続きのところには、「新しい契約」についての預言があります。
 
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに
新しい契約を立てる日が来る。
この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとって
エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。
わたしは彼らの夫であったのだが、
彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
しかし、それらの日の後にわたしが
イスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
(中略)
わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」
(エレミヤ31:31-34)
 
イスラエルの民に神様は律法を与えられたことは既にご紹介しました。この律法を守れば幸いを得、破るなら滅びを得るというのがそこでの約束でした(レビ26:3-39)。シナイ山の上でモーセを通して示されたということで、シナイ契約と呼ばれることもあります。
 
イスラエルの民は、律法を破り、シナイ山での契約を破り続けました。これにより、国は神様が語られた通りに弱体化し、最終的には大国に滅ぼされてしまいます。国の主だった人々は捕囚とされて異国(バビロン)に住むことを余儀なくされます。エレミヤ書は、そのような背景の中で書かれたものです。
 
将来に希望を見出せそうにない現実の中で、神様は預言者を通して、「新しい契約」について語られます。「エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない」と言うのですから、シナイ契約とは別の性格を持った契約です。
 
「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」と言われます。外側からいくら語りかけ、教えても、その通り生きることのできない民に、内側から教え、語りかけるようにする、と言われます。「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」と言われますから、その契約は罪の赦しを与えるものでもあります。
 
そのような「新しい契約」がどのように成立するのか、ここでは定かではありません。しかし、民の背きの罪に腸(はらわた)痛む神様が、その痛みの中から打ち立てられるものであると予想することはできます。
私たちの憐れむべき現実の向こうに光が見えてくるのは、そのような私たちの姿を見られて痛まれる神様、そのうめきと嘆きの中からだと言えるでしょう。
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区の大会

2019-08-03 10:27:49 | 恵便り

昨日、恵は、卓球の区の大会。

個人戦で4位となり、市の大会に出ることに。

好きこそ物の上手なれで、それなりに力をつけて

きたようです。

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