長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  あとがき―二兎を追う者?

2020-04-11 14:14:08 | 信仰への招き

ブログ・シリーズ「信仰への招き」を終えて心に浮かぶのは、「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉です。

このシリーズを始めるに当たり、私としては二つのねらいがありました。聖書が語る「福音」とは何なのか。近年の神学的な論議も踏まえながら、もう一度自分自身の中でまとめなおしたいということ。もう一つは、その上で、現代の日本人にも届く形でこの福音をお届けしたいということ。

しかし、前者においても多くの不十分さが残りました。全体的に色々な要素が錯綜しており、整理しきれていない面もあります。また、神学的な議論としてはもう少し精密にしなければならない点が多々あります。あるいは神学的吟味に焦点を絞って再度やり直すかもしれません。

後者については更に不十分なものとなりました。「現代の日本人にも届く形で福音を」という願いが今回の文章によって果たされたとはとても思えません。この面については、かなり違ったアプローチから新たに取り組みなおす必要がありそうです。

このように、多くの点で不十分さを感じつつ、このシリーズをやってみてよかったという思いもあります。福音理解についての神学的取り組みのゴールがどの辺にありそうか、自分なりには見えてきた思いもします。また、このように拙い文章であっても、聖書の語る福音に多少なりとも関心を持つ方が一人でもいてくだされば大変うれしいことです。

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信仰への招き  20.約束に立ち、希望に生きる

2020-04-11 14:10:59 | 信仰への招き

信仰者のあり方として、旧新約聖書が一貫して示しているのは、神の約束に立つ生き方です。旧約聖書は、アブラハムに告げられた神の約束がいかに成就していったかを記すと共に、民の背きの罪にもかかわらず、なおも約束の実現に向かって進んでいくべきことを告げています。新約聖書は、旧約聖書で告げられた約束がイエス・キリストを通して果たされたことを告げると共に、終りの時、なお実現していない領域が主イエスの再臨と共に果たされることを告げています。

これらのことを踏まえつつ、福音に生かされた者の生き方は「希望に生きる」ということであることに触れて、このブログ・シリーズを終えていきたいと思います。

「神の国」について取り上げたとき、それは「すでに」と「いまだ」の両面を持っていることをご説明しました。このことは、「永遠のいのち」、「救い」といった表現についても同様です。使徒ヨハネは、御子を信じる者は既に永遠のいのちを持つと書き(ヨハネ3:36)、同時に、将来、善を行った者が生命を受けるためによみがえる時があるとの主イエスの言葉を記録します(ヨハネ5:29)。使徒パウロも、キリスト者は既に「新しいいのちに生きる」者とされていると言いますが(ローマ6:4)、同時に「永遠のいのち」はきよき信仰者の歩みの終極のものとしています(ローマ6:22)。使徒パウロは更に、信仰者は既に「救われた」と言いますが(エペソ2:5、8)、同時に、「救われるであろう」(ローマ5:10)とも言います。すなわち、罪を悔い改め、キリストを信じた者は、「すでに」永遠の命を持ち、神の国に生かされており、救われていますが、同時に、「いまだ」という側面も持っており、永遠の命を受け、神の国に入り、救われることが将来のこととして残されている、ということです。

このようなことを踏まえると、福音は私たちに「希望に生きる」よう招くものでもあることが分かります。「希望」という言葉の意味合いは、受け取り方によって様々であるかもしれません。場合によっては、淡い夢のようなイメージを抱くこともあるかと思います。しかし、福音が示す希望は、「すでに」ということを土台とした希望です。既に神の国に入れられているので、将来神の国に入れられることについて確信を持つことができます。既に永遠の命を持ち、救われているので、将来、永遠の命が与えられ、救われることについて疑う必要がありません。そして、「すでに」ということは、聖霊を受けていることを通して確証されます(エペソ1:14)。

また、キリスト者の希望は揺らぐことのない神の約束に立った希望です。「もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」(ローマ5:10)この神の約束に立ち、私たちは希望に生きることができます。その希望は、信仰者が地上にあって経験する様々な苦難を耐え忍ぶ時の土台となります(ローマ5:2-5、8:17-25)。

信仰者の希望の実現は、私たちの主イエスが再びおいでになる時にもたらされます。「そして、(あなたがたがどんなにして)死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」(第一テサロニケ1:10)

将来与えられる救いの中心にあるのは、永遠に神と共にいます幸いでしょう(黙示録22:3-5)。しかし、その時起こることは、いわゆる霊的な領域にとどまるのではないことに注意する必要があります。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:20、21)ここにはキリストの復活のみわざに基づき、信じる私たちにも栄光の体が備えられることが示唆されています。

更に、将来の救いは、キリストにある者だけにとどまらず、被造物全体にも及ぶことさえ示唆されます(ローマ8:19-21)。天と地さえも新しくされることが告げられています(黙示録21:1)。

神様が天地万物を創造されたとき、「それは、はなはだ良かった」と言われました(創世記1:31)。しかし、人が罪を犯したとき、「地はあなたのためにのろわれ」ることが告げられました(創世記3:17)。楽園は食べるに良い多くの木があったはずですが、「いばらとあざみとを生じ」るものとなりました(創世記3:18)。しかし、世の終わり、新天新地において現れる聖なる都の情景は次のようです。「御使いはまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。」(黙示録22:1-3)

もちろん、世の終わり、どのようなことが起こるのか、具体的に、詳細にわたって告げられているわけではありません。むしろ、今はまだ分からないことのほうが多いに違いありません。しかし、古くからの約束(旧約聖書の約束)に従って、御子を送ってくださり、私たちに救いを与えてくださった神様が、やがて世の終わりに、再び御子を通して、最終的な救いに導き入れてくださることを確信することができます。

その希望は、私たちの生き方を揺るがないものとします。神の御心にかなうきよい道へと私たちを励まします。あらゆる苦難に耐えさせます。終りの時を目指しつつ、今を誠実に生きさせます。

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(第一ヨハネ3:2、3)

「わたしは思う。今この時の苦しみは、やがてわたしたちに現わされようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。(略)それだけでなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちはこの望みによって救われているのである。」(ローマ8:18-24)

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信仰への招き  19.人と共に生きる

2020-04-04 10:42:17 | 信仰への招き

前回、福音が回復を与える人の生き方の中心にあるのは、人が神と共にあるということだということを見ました。しかし、福音が回復を与えるもう一つの側面があります。愛の内に人が人と共にあるということです。

人が罪を犯したとき、神のかたちに造られた人間が損なってしまったものの一つは、人との間に築かれるはずの愛の関わりでした。アダムはエバが与えられたときの喜びも吹き飛び、いつのまにか罪の責任をエバに転嫁していました。罪がもたらした人と人との関係破壊は、世代が下ると共に広がり、深まります。アダムの次の世代には、人殺しも起きました。ノアの時代になると、「暴虐が地に満ち」ました(創世記6:11)。

このような中、神様はアブラハムとの間に契約を結ばれます。それは、「あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」という約束でした(創世記12:2)。これは、神様の祝福をアブラハムの子孫にだけ限定するという約束ではなく、「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」というように(創世記12:3)、アブラハムの子孫を通して神様の祝福が地のすべての者たちに広がる計画を含んでいました。

やがて、アブラハムの子孫の中からイスラエル民族が生まれます。この民を神様は「わたしの民」と呼ばれます(出エジプト3:7)。シナイ山で神様は彼らに律法を与え、民との間にいわゆるシナイ契約が結ばれます。十戒が示すように、律法は神を敬い大切にすると共に、人を大切にすることを教えるものでした。彼らは神に選ばれた宝の民でしたが(申命記7:6)、神の民としてのあらゆる祝福は、律法を守ることが条件とされました(申命記28章)。

しかし、その後のイスラエル民族の歴史は、律法を守らず、祝福でなくのろいを受ける歴史を繰り返すものでした。その中で、既に繰り返し見てきたように、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を立てる日が来ることが告げられます。その内容は、「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」というものでした(エレミヤ31:33)。

やがて、イスラエルの民の中に現れた主イエスは、弟子たちの前に律法の成就者としてご自分を示されます(マタイ5:17)。その教えは、人との関わりにおいて心の内面のあり方を示唆するものでした(マタイ5:21-28)。また、隣人愛の戒めが歪められ、「隣り人を愛し、敵を憎め」と言い慣わされていたことに対し、「敵を愛する」という衝撃的な教えを語られました(マタイ5:43-48)。

ルカによる福音書には、主イエスがなさった一人の律法学者との対話が記されています。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」、「律法にはなんと書いてあるか。」「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる。」対話がここまで進んだとき、律法学者はどういう訳か「自分の立場を弁護しようと思って」主イエスに質問しました。「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

ここには、当時のユダヤ人たちの「隣り人」に対する考え方が伺えます。すなわち、彼らの中では「隣り人」と「敵」を区別し、「隣り人」だけを愛すればよいという考え方です。おそらくは、そこには「隣り人」=ユダヤ人、「敵」=異邦人という考え方も色濃くあったでしょう。しかし、そこでイエスがなさったたとえ話は、彼(ら)のそのような概念を打ち破るものでした。あるユダや人が旅の途中、強盗に襲われ、半殺しの目に遭います。そこに一人の祭司、次には一人のレビ人が通りかかります。しかし、彼らはこの人を見かけつつも、道の向こう側を通って過ぎていきます。最後にサマリヤ人が通ります。当時、サマリヤ人とユダヤ人は仲の悪い状況がありましたが、どういうわけかこのサマリヤ人はこの人に近寄り、手当てをし、宿屋まで連れて行って介抱します。宿賃さえ払ってその場を立ち去ります。このような話をされて、最後に主イエスは律法学者に問います。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。」律法学者は話の上でのことであったとしても「サマリヤ人が」とは言いたくなかったのでしょうか。「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えます。すると、主イエスは言われます。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:25-37)。ここには、「隣り人」と「敵」を分けようとする考え方でなく、あらゆる枠を越えて「隣り人となる」生き方が示されています。

更に、マタイによる福音書を見ると、主イエスは終末について弟子たちを教えた最後に、次のように言われます。「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼たちが羊とやぎを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。」(マタイ25:31-33)この時、羊とは「最も小さい者のひとり」に対して「空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ね」た者たちであり、キリストはそのような者たちの働きをご自分にしてくれたとみなされ、彼らは御国を受けつぐと言われます。逆にやぎとは「最も小さい者のひとり」に対してそのようにしなかった者たちであり、彼らはキリストに対してそうしなかったとみなされ、永遠の刑罰を受けると言われます。ここには、社会の困窮者たちに対する愛のわざの有無が終末における審判の基準となることが教えられています。

なお、福音書、使徒行伝、およびパウロの手紙を綜合的に見ると、神がアブラハムと結ばれた契約が、血縁的な子孫(すなわちイスラエル民族)を中心としたものから霊的な子孫(すなわちキリストを信じる者たち=教会)を中心にしたものへと重心を移したと考えることができます。特に、パウロの手紙では、血縁的なアブラハムの子孫に与えられた律法が、霊的なアブラハムの子孫において初めて真の成就がもたらされるという神の計画が明らかにされます。「律法からの解放と律法の成就」の回で書いたように、「彼はユダヤ人律法が一時的役割を終えたことを示唆し、そこからの解放を明確に打ち出すと同時に、その本質的役割は愛の律法において継続され、信仰と聖霊によって成就されていくことを明示」しています。こうして、キリストへの信仰によって結び合わされた信仰共同体(教会)は、「愛をもって互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)、「神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」(エペソ4:32)と、愛とゆるしの共同体であるべきことが教えられます。

他方、ヨハネによる福音書は、主イエスが弟子たちに「新しい命令」を与えられたことを記録します。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ13:34-35)。主イエスの愛を信じる信仰者共同体が特色とすべきなのは「互に愛し合う」ということであるべきだと言われます。「新しい戒め」については、ヨハネの手紙でも言及され(第一ヨハネ2:8)、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。」と、主イエスの言葉とも重なる示唆を与えます(第一ヨハネ4:11)。

また、ヤコブの手紙では特に社会的に弱い立場にある人々への無関心を打ち破るべきことが示唆されます。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)これは、主イエスが弟子たちに語られた終末の審判についての教えと重なります。

以上のことを総合的に考えると、楽園において破壊された人と人との関係が回復されるための神の計画の焦点は、主イエスを通して神の愛のもとに集められた信仰共同体に置かれていることが分かります。そこには聖霊の働きがあり、内的な変革が与えられ、互いに愛し合いゆるし合う生き方が励まされていきます。それは、単に共同体内部で互いに愛し合うことで終わるものではなく、そのことによって、互いに愛し合う生き方を世に示します(ヨハネ13:35)。世界に向けての宣教は、神と共に生きる生き方への招きであると同時に、互いに愛し合う生き方への招きでもあります。更に、彼らの信仰はより具体的に社会において困窮した人々への愛のわざとなって結実すべきことが教えられています。

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信仰への招き  18.神と共に生きる

2020-03-31 21:13:48 | 信仰への招き

キリスト者のあり方について確認してきましたが、その中核にあるものを表現するとすれば、「神と共に生きる」と表現できるでしょう。福音が回復を与えたのは、人が神と共にあるということでした。

人が神のかたちに造られたということは、神との人格的な関わりを持つことのできる存在として造られたことを意味しました。しかし、彼らが罪を犯したとき、肉体の死よりも先に訪れたのは、神との交わりの破壊でした。「人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:9)神の御顔を仰ぎながら生きるように造られたはずなのに、そのとき彼らは、神の呼びかけに身を隠すことしかできませんでした。その後、人類救済の神のご計画において、神が人と共にあり、人が神と共にあること、人が神の御顔を仰ぎつつ生きることの回復は大きなテーマとなりました。

信仰の父と呼ばれたアブラハムは、子孫を増すこと、カナンの地を受けつぐことを神から約束されましたが、その契約は「わたしの(顔の)前に歩み、全き者であれ」との召しとセットになっていました(創世記17:1)。また、イスラエルと呼ばれるようになったアブラハムの孫ヤコブは、カナンと地を一時離れようとする際に、神が共におられることを知り、その地をベテル(神の家)と名づけます(創世記28:19)。やがて多くの年月を経て約束の地に戻ろうとするとき、神の顔を見るような経験をし、その地をペニエル(神の顔)と名づけます。

イスラエルの子孫はその後エジプトで広がり、出エジプトの出来事を通して神の民としての歩みを始めようとします。その旅路は、神の臨在を表す「雲の柱」「火の柱」が伴うものでした(出エジプト13:23)。彼らが神の民として守るべき律法を与えられた直後、その戒めを破ったとき、神は「あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらない」と言われます(出エジプト33:4)。民はそれを「悪い知らせ」として聞き、憂えます。モーセの必死のとりなしの内に、「わたし自身(私の顔)が一緒に行く」との神の言葉を受け(出エジプト33:14)、神は再び律法に基づく契約を再更新し、雲の柱、火の柱に導かれての旅が再び始まります。

同時に神は、イスラエルの民に幕屋を作らせます。幕屋の奥には律法を書き記したあかしの板が納められた契約の箱が置かれ、その所で神はモーセと会い、語ると言われます(出エジプト25:22)。幕屋完成後は、雲の柱火の柱は幕屋と共にあり、幕屋と移動することになります(出エジプト40:34-38)。

やがてイスラエルの民が約束の地に定住し、王が立てられるようになると、幕屋に替わって神殿が建てられます。ソロモン王が神殿を完成させたとき、神の栄光が神殿に満ち、ソロモンは神に祈ります。「わたしはあなたのために高き家、とこしえのみすまいを建てた」と(列王上8:13)。

しかし、神の臨在の祝福は、彼らが律法を守ることを条件として与えられました。彼らが罪に罪を重ね、悔い改めることもしなくなるにつれ、神の臨在の祝福は遠ざかり、やがては神の臨在の場として定められた神殿さえ、敵国に滅ぼされ、異国の地での生活を余儀なくされます(歴代志下36:17-20)。

約束の期間が過ぎ、民がパレスチナの地に戻ってきたとき、まず取り組んだのは神殿の再建でした(エズラ1:3)。しかし、帰還した民の中にも繰り返し律法違反が起こりました。神の臨在の祝福が安定して与えられるためには、民の内的変革が必要でした。

預言者達はやがての時、神がそのような恵みを与えてくださるとの約束を告げました。預言者エレミヤはそれを「新しい契約」と呼びました。「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。」(エレミヤ31:33、34)

時至り、イエス・キリストが誕生します。マタイはそのの誕生の次第を書き記すに当たり、イザヤ7:14を引用し、約束のメシヤが「神われらと共にいます」ということをもたらす方であると示唆します(マタイ1:23)。他方、使徒ヨハネはキリストの誕生をいわゆる受肉降誕の出来事として表現します。その際の表現は次の通りです。「そして言(受肉前のキリストを彼はこのように表現します)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」(ヨハネ1:14)「宿った」と訳される言葉は、直訳的には「幕屋を張った」と訳されます。このお方の内に神の栄光が表され、神をあらわすお方となることが告げられます。

これまでに見てきたように、主イエスは神を父と呼び、弟子達にも父としての神を教えられました。そこでは、遠くにおられる神でなく、私たちを顧み、愛し、近寄ってくださる神のイメージが伝えられます。有名な山上の説教においても、「天にいますわれらの父よ」との呼びかけで始める祈りを教え、私たちが食べるもの、着るものを備えてくださる神を信頼すること、求めるならば与えてくださる神であることを教えられました(マタイ6:9、25-34、7-10)。

主イエスは私たちに近づいてくださる父なる神を教えると共に、イエスご自身が信じる者たちと共にあることを教えられました。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)復活後、弟子たちに語られたのも同様でした。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあながたと共にいるのである。」(マタイ28:20)

更に主イエスは、やがてご自分が肉体においては弟子たちを離れる時が来ることを示しながら、彼らと伴う方を送るとの約束を与えました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。」(ヨハネ14:16、17)

使徒行伝は、主イエスの復活後、祈り待ち望む弟子たちに聖霊がくだり、彼らは聖霊に満たされて主イエスの証人としての働きを展開する様子を描きます。彼らの宣教は、聖霊に助けられ、導かれての働きでした(使徒4:31、6:10、8:39、10:19、20、13:2、15:28、20:22)。それと共に、彼らが語った福音は、「聖霊を受ける」ということを含むものであり(使徒2:38)、実際信じる者たちが聖霊を受ける様子が描かれています(使徒8:17、10:44、11:15、19:6)。

使徒パウロは、信仰者をキリストに結びついたもの(ローマ6:5)、キリストを着た者(ガラテヤ3:27)として描いています。「キリスト(主)にあって」といったパウロに特徴的な表現は、このような信仰者とキリストとの結びつきを表現したものと言えます。(パウロ書簡に130回。)その点では「キリストと共に」という表現も重要です(ローマ6:4、6、8等)。

更にパウロは、信仰者が御霊を受けた者として描きます(ローマ8:15、第一コリント2:12、ガラテヤ3:2)。特に注目すべき表現として、パウロは信仰者を「聖霊の宮」と言います(第一コリント6:19)。さらにパウロはエペソ教会に信仰者たちに対して、彼らが「聖なる宮に成長し」、「霊なる神のすまいとなる」と言います。(エペソ2:21-22)御霊は神の子としての生き方を生み出し、助けます(ローマ8:15、16、26、ガラテヤ4:6)。また、罪の力から解放されて、きよい生活をするためにも聖霊の働きが大きな役割を果たします(ローマ8:4、ガラテヤ5:16-22)。従って、力強い信仰者としての歩みのために、御霊に満たされていることが勧められます(エペソ5:18、19)聖霊は信仰者の神と共にある生き方を生み出し、支え、現実化する働きをすると言えそうです。

信仰者の歩みは、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊と共にある生活であると言えます。信仰者にはこのことを自覚すること、またこのことが常に保たれているよう注意を払うことが求められます。

ヨハネは黙示録の最後に、世の終り、古い天と地が消え去り、新しい天と地があらわれるときの状況を様々に描きますが、その中心にあるのは、次のことであると言えるでしょう。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして…」(黙示録21:3)

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信仰への招き  17.律法からの解放と律法の成就

2020-02-04 20:19:32 | 信仰への招き

福音が示す救いの道は、イエス・キリストへの信仰を条件とするものであることを見ましたが、その際、「わたしたちの行った義のわざによってではなく」(テトス3:5)というパウロの手紙の一文を紹介しました。以下のようなパウロの言葉も、救いが私たちの行いによらないことを明確にしています。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それはだれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8、9)

このような言葉は、救いが人間の行いに基づいたものではなく、あくまでも神の恵みとして与えられることを強調しています。しかし、このことはパウロが行いを軽視していることを示しているわけではありません。上記の言葉は以下のように続けられます。

「わたしたちは、神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:10)

この言葉は、神の救いは人間の行いに基づかず、恵みによって与えられるものであるけれども、救われた者に良い行いをするよう変革を与えるものでもあることを告げています。

このことと関連して、福音と律法の関わりを考えることも大切です。要約的に言うならば、福音は律法からの解放を告げると同時に、律法の成就をもたらすものでもあると言えます。このことは、上記のような救いと行いの関係と重なる点も多いのですが、厳密な理解のためには、もう少し補足する必要があるでしょう。と言うのも、「律法」は聖書の中では基本的にユダヤ人律法を意味するからです。これまで見てきた内容も振り返りながらご説明したいと思います。

モーセの時代、神はイスラエルの民に律法を与えられました。その中心は十戒と呼ばれ、神を愛し、隣人を愛する生き方を示すものであることは、先にご紹介しました。しかし、モーセ律法には祭司制度に基づく様々な規定も含まれますし、現代ではユダヤ人しか守ろうとしない食物規程も含まれました。この律法は、有名なシナイ山で与えられたものですが、神がアブラハムと結ばれた約束(アブラハム契約)に基づき、イスラエル民族を祝福しようとして結ばれた契約を伴っていました(シナイ契約)。それは、神との関係が維持され、神の祝福を頂くために律法を守ることを条件とするものでした(レビ26章)。もしこの契約を破るならば、様々な神の祝福は失われ、のろいがもたらされること、最終的には国の滅亡と民の離散さえもたらされることが告げられていました。

その後のイスラエルの歴史は、既に見たように、この契約に背き続けた歴史でした。憐みの故に神は彼らを悔い改めに導き、ご自分に立ち返らせようとされましたが、一時的な回復は何度かあったものの、最終的には国の滅亡と民の離散という裁きが余儀なくされるに至りました。このような中、預言者たちがメシアの到来を予告すると共に、預言者の一人エレミヤは、シナイ契約とは別に立てられる新しい契約についても語りました。更に、イエスこそは、約束されたメシアであるとの新約聖書の証言も、既に見てきたところです。

イエス・キリストは苦難の僕として十字架に死に、復活して、私たちに救いの道を備えてくださいました。その救いは豊かな内容を持つものでもあり、キリストは預言者が語った「新しい契約」をもたらす方でもあることを見ました。すなわち、罪の赦しと共に、聖霊による内的変革を与えるものでもあると確認しました。

ここで、エレミヤが語った「新しい契約」の内容を確認してみますと、罪の赦しと共に示唆されていた聖霊による内的変革は、次のように表現されていたことが分かります。

「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。」(エレミヤ31:33)

ここに、律法の成就のテーマが現れていることを見ることができます。すなわち、イエス・キリストの十字架の死と復活によって立てられる新しい契約は、罪の赦しと共に、律法の内在化とでも言うべきものをもたらすものでもあるということです。

このような歴史的文脈を踏まえつつ、主イエスや使徒たちが律法についてはどのように語っているかを確認しましょう。

まず、主イエスご自身は、ユダヤ人からは様々な誤解を受けられましたが、律法の永続性を主張されました。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく、天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」(マタイ5:17、18)

おそらく、当時の律法学者やパリサイ人と違っていたのは、律法の外的遵守よりも、その本質、特に神と人への愛を重要視されたこと(マタイ22:34-40、23:23)、特に祭儀的律法については、その本質に焦点を当てつつ、再解釈さえ示唆された点でしょう(マルコ2:27、28、7:19)。そのようにしながら、律法の専門家を自認する人々に対して、彼ら自身が神の戒めを無視し、背いていることを指摘されました(マルコ7:13、ルカ16:14-18)。但し、主イエスにおいて、律法の永続性と共に、律法の時代が一つの終わりを迎えることも示唆されていることは注目してよいところでしょう(ルカ16:16)。

他方、パウロは律法に対して否定的に語った人物と受け止められがちです。確かに彼は、手紙の中で何度も「律法からの解放」、「律法からの自由」ということを明確に語りました。しかし、見逃してはならないのは、彼は「律法の成就」というテーマについても、繰り返し語っていることです。

異邦人クリスチャンも割礼を受けるべきとの主張に直面していたガラテヤ諸教会への手紙を中心に、パウロが教えたことを確認しましょう。

彼はその手紙の中で問題の所在を確認した後、「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」ということを、福音の揺るがすことのできない真理として提示しました(ガラテヤ2:16)。律法は正しい行いを示しますが、イスラエルの歴史が証明するように、人はそれを守ることができません。結果的に、律法は彼らにのろいをもたらすものとなりました。このことのゆえに、「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」とパウロは言います(ガラテヤ3:13)。ここに、「律法からの解放」というテーマが現れます。

パウロはこのことをイスラエルの歴史を踏まえて説明します。すなわち、アブラハム契約が恒久的なものである一方、シナイ契約は一時的な性格を持つことを指摘し、結果的に律法が人々をキリストに導く養育係の役割を果たしたと言います(ガラテヤ3:17、19、23-25)。「しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育係のもとにはいない。」(ガラテヤ3:25)「それ(神が御子をお遣わしになったこと)は、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」(ガラテヤ4:5)

彼の結論はこうでした。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)

「律法からの解放」、「律法からの自由」というテーマをこの上なく明瞭に示した直後、彼は続いて「律法の成就」というテーマを打ち出します。「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」(ガラテヤ5:13、14)続いて彼は、このような律法の成就が聖霊の働きによることを教えます(ガラテヤ5:26-23)。

彼は、少し違う事情の中ではありますが、ローマ人への手紙でも同じように、「律法からの解放」というテーマを確認すると同時に(ローマ6:14、7:1-6)、「律法の成就」というテーマを打ち出します(ローマ3:31、8:4、13:8-10)。要約的に言えば、彼はユダヤ人律法が一時的役割を終えたことを示唆し、そこからの解放を明確に打ち出すと同時に、その本質的役割は愛の律法において継続され、信仰と聖霊によって成就されていくことを明示していると言えます。

生れたばかりの諸教会の中で律法の問題の取り扱い方針が共有され、落ち着いた後は、パウロも律法に対する言及が減っていったと考えられます。彼の晩年の手紙では、より一般的な形で、救いは行いによらないことを確認すると同時に、神が聖霊によって備えてくださるよきわざに熱心に取り組むべきことを教えます。

「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」(テトス3:4、5)

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトス2:14)

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信仰への招き  16.福音に生かされ、福音に生きる

2020-01-25 17:07:58 | 信仰への招き

これまで、福音とは何か、福音が提示する救いとはどういうものかを見てきました。それでは、キリストへの信仰に導かれ、神からの救いを頂いた者は、どう生きていけばよいでしょうか。ひと言で言えば、「福音に生かされ、福音に生きる」ということではないでしょうか。

使徒パウロの手紙は、多くの場合、福音の内容を提示する部分と、福音によって信仰に導かれた者の生き方を教える部分とに分かれています。そして、後者は常に前者を前提とし、前者を踏まえて書かれています。

福音の内容を真正面から取り上げるローマ人への手紙でも、福音の内容について1-11章まで取り上げた後、12章の冒頭は次のように書かれます。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。」(ローマ12:1)

そこから記されるのは、神への献身であり、賜物に応じた奉仕であり、社会での生き方であり、教会内で互いに受け入れることです。そして、そのすべては、1-11章までの福音の内容に根差しています。

神の救いを個人的な観点と共に、共同体的観点からも描いているエペソ人への手紙でも、1-3章で神の救済のみわざが大きなスケールで描かれた後、4-6章で信仰者の生き方が教えられます。その冒頭は以下のように記されます。

「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き」(エペソ4:1)

同様の表現は、それ以降も繰り返されます。「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」(エエソ5:1)、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」(エペソ5:8)(ガラテヤ5:25、コロサイ2:6、7、3:1、2、5-10、12、13等も参照)

このようなパウロの語り方を踏まえると、福音の内容を示す文脈の中で、信仰者の生き方を同時に示しており、信仰者の生き方が教えられるところでは同時に福音の内容が確認されていることも見えてきます。たとえば、「罪から解放され、義の僕となった」ことを踏まえて、「自分の肢体を義のしもべとしてささげて、きよくならなければならない」と教えます(ローマ6:18、19)。全体としては教会が直面する実際的な諸問題を扱っているコリント人への手紙においても、個々の問題に対する指針を示しながら、福音の再確認を行なっています(第一コリント1章、15章、第二コリント3章、5章後半等)。

このような見方をもう一歩進めれば、信仰者の生き方は福音の中に提示されているとも言えるでしょう。福音によって罪を赦されたならば、罪を赦された者として生きていく。聖霊を与えられたならば、聖霊の導きに従って生きていく。神の子とされたならば、常に父なる神の愛のもとで、子として生きていく。神の家族である教会の一員とされたのなら、神の家族の一員として、その交わりを大切にしながら生きていく。神の国に入れられたのであれば、神のご支配の中に、御国の民として生きていく。

福音に生かされ、福音に生きるということは、福音が示すところに根差し、福音が示すように生きていくことです。そのように生きていくこと自体が福音を証しすることになります(コロサイ1:6、第一テサロニケ1:8-10)。もちろんそれと共に、教会はまた福音を言葉で証しすることも委ねられています(マタイ28:19、20)。

主イエスは、ペテロがイエスへの信仰告白を言い表した際、ご自分が苦難の僕として死に向かっていることを告げられました。同時に、弟子たちもまた「自分の十字架」を負うて、ご自分に従ってくるよう求められました(マルコ8:34)。その際、「自分の命を失う」覚悟さえ求めながら、このように語られました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ8:34)。キリストの弟子としての生き方は、キリストご自身を目的としていることは言うまでもありませんが、それは同時に福音を目的としているということは注目すべきことです。

福音に生かされ、福音に生きる。人格と生涯の全体をもってそのように生きることを通して福音を証しする。そのように生きながら、必要に応じて言葉でも福音を証しする。そのような生き方に、神は私たちを招いておられます。

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信仰への招き  15.神の国

2020-01-18 10:05:14 | 信仰への招き
「福音とは何か」という課題を持って新約聖書に取り組むと、一つのキーワードがあることに気づかされます。「神の国」という言葉です。
 
ガリラヤ地方でのイエスの宣教開始の様子をマルコは以下のように伝えます。
 
「イエスはガリラヤに生き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ』。」(マルコ1:14、15)
 
その後の宣教活動についての記録の中にも、同じフレーズが繰り返し現れます(マルコ4:11、26、30、9:47、10:14、24、ルカ10:9)。マタイによる福音書では、「御国の福音」(マタイ4:23、24:14)、「天国」(マタイ3:2、4:17、5:3、10、10:7、13:11等)という表現ですが、同じ出来事を記した他の福音書の並行箇所に「神の国」の替わりに現れていますから、同じ意味だと分かります。
 
日本語で「国」と言えば、領土のイメージが強いかもしれませんが、原語(バシレイア)は「バシリューオー」(支配する)の名詞形ですから、「統治」の意味合いです。従って、主イエスが伝えた福音は、神の統治が開始されようとしているという知らせだったと言えるでしょう。
 
エデンの園において、造られたばかりの人間は、神の愛のご支配の中で生きていました。それは、神を愛し、互いに愛し合う、平和な世界でした。しかし、人が神に背き、罪が人の世界に入ったとき、人は神の愛のご支配から離れ、自分勝手な生き方へと進んでいきました。このような世界に救いを与える神のご計画は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫を通して与えられるとの約束が与えられました。王なるメシヤの預言が繰り返し与えられました。
 
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。」(イザヤ9:6、7)
 
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。(略)正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし(略)」(イザヤ11:1、4)
 
このような旧約聖書の預言を通して、ユダヤ人の間にはダビデの子孫としてのメシヤの出現が期待されました。しかし、多くの場合、そこで回復される神の統治は、かなり民族的、政治的、軍事的な色合いを持ったものでした。大国からの解放を与え、民族的独立を与えてくれる政治的メシヤへの期待でした。もちろん、旧約聖書の預言の言葉に、そのような意味合いを見て取ることは容易です。しかし、そこで描かれるメシヤは、同時に、民族を超え、全地に救いと回復をもたらし、世界の有様さえも変えながら、正義と平和に満ちた神の統治をもたらす方であることに、多くの人々は気づきませんでした(イザヤ11:1-10)。
 
主イエスが神の国の福音を告げられたとき、それは暗に、ご自分がダビデの子孫としてのメシアであるとの宣言でもありました。しかし、メシアなるお方として、神の統治をどう回復させようとしているのか、それが大切な点でした。
 
特に、イエスが人々に対して語られた神の国についての教えを見ると、ご自分が来られたことによって既に始められようとしているということと、将来、世の終わりに完成されようとするということと、その両方の面が語られているように思われます。
 
たとえば、イエスは悪霊につかれた人々を癒されましたが、そうしながらこう語られました。「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ12:28。ルカ16:16、17:20、21も参照)。すなわち、イエスの到来は、「すでに」神の国の到来をもたらしたのであると語られました。
 
しかし、ある時には、世の終わり、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき」(マタイ25:31)について語りながら、王(キリスト)がある人々に次のような言葉をかけられるであろうと言われました。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」(マタイ25:34。マルコ9:47も参照。)そこでは、イエスの栄光ある現れ(再臨)は将来のことであり、その意味で、神の国の完成は「いまだ」来ていないことになります。
 
このように、神の国はイエス・キリストの登場によって「すでに」始まっていると共に、「いまだ」来たらず、という両面を持つことが分かります。ガリラヤの地に立ち、イエスの語られた「神の国は近づいた」との宣言は、その両方の意味が込められていたと言えるでしょう。
 
イエスが語られた「神の国の福音」は、弟子たちにも継承されました。主イエスの復活・昇天に続く教会の宣教活動の中で、神の国はその内容を示すものでした。「ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた」(使徒8:12)、「パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした」(使徒19:8)(使徒20:25、28:23、31)。
 
これまで、福音はイエス・キリストによる救いを提供するものであることを見てきました。救いとは、罪を赦され、義とされ、聖霊を与えられ、永遠の命を与えられることであり、神の子として生きることを可能にするものでもありました。同時に、神の民として生きるよう招くものであることも見てきました。「神の国の福音」とは、これまで見てきた福音と別のものではありません。
 
ある時、資産家の青年がイエスのもとに来て尋ねました。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」(マルコ10:17)。財産を売り払って貧しい人々に施し、ご自分に従うようにとのイエスの答えに、彼は顔を曇らせ、立ち去ります。その時、イエスは弟子たちに言われます。「財産のある者が神の国にはいるのは、なんと難しいことであろう」(マルコ10:23)。すると、弟子たちは驚いて答えます。「それでは、だれが救われることができるのだろう」(マルコ10:26)。主イエスは、「人にはできないが、神にはできる」と言いながら、再び、「永遠の生命を受ける」ことについて語られます(マルコ10:30)。これらの箇所で、「永遠の生命を受ける」、「神の国にはいる」、「救われる」とは、相互に入れ替え可能な表現として用いられていることが分かります。(ヨハネ3:3、5、15も参照。)
 
一人の人が自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて救われるということは、何を意味するのでしょうか。罪が赦されること、神の子とされること、永遠のいのちを受けることであり、神の民の一員とされることでもあります。しかし、それは同時に、神のご支配、すなわち神の国の中に入れられることでもあります。それは、個人的に経験される神の恵みであると同時に、歴史を貫いて進められる神のみわざに加えられることであり、最終的には世界を覆うようになる神の栄光あるみわざにあずかることでもあります。
 
パウロは、コロサイのクリスチャンたちに対して次のように書きました。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。」(コロサイ1:13、14)
 
ヨハネもまた、その黙示録を次のような頌栄(キリストをほめたたえること)の言葉で始めます。「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」(黙示録1:6)。そして、黙示録の終盤では、「神の言」と呼ばれるお方(イエス・キリスト)が栄光の姿で現れ、諸国民を治める様子を描きつつ、このお方こそ「王の王、主の主」であることを示唆しています(黙示録19:13-16)。
 
神の国に入れられる条件は何でしょうか。神の御前に的外れな生き方、すなわち罪を悔い改め、イエス・キリスト(福音)を信じることです。
 
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)
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信仰への招き  14.神の民

2020-01-11 11:46:47 | 信仰への招き
自分の的外れな生き方を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主として信じるとき、救いが与えられることを見てきました。前回は、それが神の子とされることでもあるということを見ました。これらのことは、一見、個人的な問題であるように見えますが、聖書全体を見るとき、決してそれだけのことではないことが分かります。
 
福音書を見ると、主イエスが宣教の働きを進める上で、個人的な関わりを大切にされたと同時に、この地上に新たな共同体を形づくることに意を用いていたことが分かります。その宣教活動の最も初期から、ご自分と行動を共にする弟子達を集めたこともその一つの表れでしょう(マタイ4:18-22等)。彼らの中から十二使徒と呼ばれる人々を選ばれたことは、続くステップと言えます(マタイ10:1-4等)。その後は、彼らを中心に宣教訓練を与えたり(マタイ10:5-42)、群衆への教えとはまた別にみ言葉を教えたりなさいました(マタイ13:10-52等)。ペテロがイエスに対して「あなたこそ、生ける神の子キリスト」と告白したときには、信仰共同体としての教会の設立を宣言されます(マタイ16:18)。
 
使徒行伝を見ると、主イエスの十字架の死と復活の後、五旬節の日に聖霊がくだったところから、教会の宣教の働きが始まった経緯が記されます。ペテロが聖霊に満たされ人々に語ったことは、「この曲った時代から救われよ」という言葉で締めくくられましたが、その結果について、次のように記録されます。「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」。福音を聞いた一人ひとりが信仰により救われたということは、同時に「仲間に加わった」こととして記されます(使徒2:40、41)。個人の救いと共同体の形成が同時進行で進められることは、使徒行伝の中で繰り返し記録されるところです(使徒2:47、6:7、9:31)。
 
このような過程の中で、この共同体にいわゆる異邦人(ユダヤ人から見て)が加わるようになったことについて、福音書と使徒行伝は注意深い記録を残しています。そして、この過程の中で、旧約の神の民イスラエルは、新約の神の民教会とどのような関係にあるのか、神が旧約の神の民イスラエルに与えられた律法を、新約の神の民である教会がどのように扱ったらよいのか、何度も問われることになります。この問題は始まったばかりの教会の歩みの中で、決して小さな問題ではなく、繰り返し問われ、検討され、解答が示されていきます(使徒15:1-29、ガラテヤ書、ローマ書の全体、エペソ2:11-19、へブル書の全体等)。
 
いずれにしても、ここで確認したいことは、福音を信じて人が救われるということは、個人的な出来事であると同時に、信仰共同体である神の民に加えられることです。
 
使徒パウロは、エペソ2章の前半で、救いの個人的側面を扱います。「さて、あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、(略)しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ2:1-5)これらの言葉は、信じた者に与えられる救いの恵みがどれほど大きなものであるかを、主として個人的な側面から語ったものです。
 
しかし、直後、パウロは、このことを共同体的側面から語り直します。「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは、以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄されたのである。(中略)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異邦人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:11-19)
 
ここでは、「肉によれば異邦人」であった者が、いわば「霊においてイスラエル」とされたことが示唆されています。同時に、そこでは肉によるイスラエルと異邦人との間を隔てていた中垣が取り除かれ、霊において一つのものとして父なる神の前に出る者とされていることも明確にされます。このようにしながら、キリストによる救いが個人的なものであると同時に、共同体的な側面を持つことが示唆されます。
 
使徒ペテロの次のような言葉の中にも、同様のことが示唆されています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招きいれて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。」(第一ペテロ2:9、10)
 
福音を信じ救われた者は、同時に、神の家族に迎えられたことを知る必要があります。「神の子」として新しく生まれた者が、一人で信仰を守り、その歩みを進めていかなければならないとしたら、それはどんなに厳しく大変なことかと思います。神は信仰者のために、神の家族を備えてくださいました。信仰者は神の民の一員として歩み、その中で信仰が養われ、神の民として成長していきます。そうしながら、信仰の仲間たちと共に、受けた恵みを世に証しする使命を担っていきます。
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信仰への招き  13.神の子とされる

2019-12-17 17:31:15 | 信仰への招き
イエス・キリストによる救いが豊かな内容を持つものであることは、これまでもご紹介してきました。しかし、この救いの豊かさと深遠さの故に、なお三回、諸方面からこの救いを見ていくことにします。
 
今回は、その中でも救いによって与えられる神との新しい関係に焦点を当て、特に「神の子(とされる)」という表現に注目します。これは神の前での立場を表す表現でありつつ、同時に、キリストを通して与えられる内的変革にも深い関わりがあります。現在、信仰によって与えられているものであると同時に、信仰者が将来与えられるものとも深い関わりがあります。
 
旧約聖書においては、神は万物の創造者、イスラエルの主、アブラハム・イサク・ヤコブの神、神の民に対する羊飼い等、多くの表現でご自分を啓示されました。しかし、神とイスラエルとの関係は、父と子の関係として示されることもないわけではありませんでしたが(ホセア1:10、マラキ1:6、2:10)、かなりまれなことでした。
 
イエスが現れたとき、彼は多くの場合神を「(わたしの)父」と呼びました(マタイ11:25-27、26:39、ルカ23:34、ヨハネ5:17-23等)。同時に、弟子たちに対して神を「あなたがたの父」として紹介し(マタイ6:26、32、6:11)、弟子たちにもまた神様に対して「父よ」と呼びかけるべきことを教えられました(マタイ6:9)。
 
イエスはある時、人々に次のようなたとえ話をされました。
 
「ある人に、ふたりの息子があった。(略)それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで身を持ちくずして財産を使い果たした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。(略)そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇い人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきて、この子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(ルカ15:11-24)
 
このたとえ話は、一般に「放蕩息子のたとえ話」として知られています。神のかたちに造られ、神を愛し、人を愛して生きるようにと願われていたのに、自分中心に生きてきた私たちは、確かに神様に対して放蕩息子のような存在だと言えるでしょう。しかし、神様は私たちがご自分に立ち返ることを待ち続けています。そして、ご自分に帰って来るならば喜び迎えようとするお方です。私たちは神様に対して、確かに「息子と呼ばれる資格はありません」と言う他ない存在です。しかし、私たちが悔い改めて神に立ち返るなら、神様は私たちを「雇人のひとり同様」でなく、正真正銘の神の子として迎え入れようとしておられるのだと、このたとえ話は教えています。
 
もちろん、イエスが「神の子」であることと、私たちが「神の子」とされるということには、本質的な違いがあります。イエスがご自分を「神の子」としてお示しになったとき、それはユダヤ人にとって神を冒涜することとして受け止められました(マタイ26:63-66、ヨハネ5:18)。そこでの「神の子」は、本質的に神的な存在として認識されていたことが分かります。しかし、イエスが弟子たちに神を「われらの父」と呼びかけるよう教えられたとき、同様な心配は不要であったようです(マタイ6:9)。むしろ、イエス・キリストと父なる神との独自の関係をベースにしながら、信じるすべての者をも神との関係を「父と子」の関係でとらえるよう教えておられるように思われます(ヨハネ20:17)。
 
後には、使徒パウロが福音の内容を提示したとき、「神の子」としての信仰者の立場を強調しました。信仰によって義とされた者が与えられる新しい命は、聖霊によって与えられ(ローマ8:9、テトス3:4、5)、聖霊が内に宿ることによって与えられるものであり(ローマ8:11)、その歩みは聖霊によって進められるべきものであると言います(ガラテヤ5:25)。そして、「神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」とも書きます(ローマ8:14)。聖霊は、「子たる身分を授ける霊」です(ローマ8:15)。その霊によって、私たちは、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかけることができます(ローマ8:16、ガラテヤ4:6)。そのことは、将来においてキリストと共同の相続人となり、神による相続を受け継ぐことの根拠とされます(ローマ8:17、ガラテヤ4:7)。
 
使徒ヨハネにとっても、信仰者が「神の子とされる」ということは、大切なことでした。既に見たように、ヨハネはキリストの救いを主として「(永遠の)命」として提示しました。しかし、その命は神の子としての命であることをしばしば彼は表明します。彼は福音書の冒頭、次のように主張します。「しかし、彼(キリスト)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ1:12、13)。
 
また、手紙の中でも、ヨハネは次のように言います。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」(第一ヨハネ3:1)それは、私たちの将来にもかかわる事であることは、続く聖句によって知られます。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」(第一ヨハネ3:2)また、「神の子」の特質は、罪から離れたきよい生き方にあることをも強調します(第一ヨハネ3:9)。
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信仰への招き  12.救いの条件

2019-11-30 12:17:01 | 信仰への招き
前回、イエス・キリストを通して与えられる救いが豊かな内容を持つことをご紹介しました。この救いについて、その豊かさを多面的に教えたパウロは、同時に、救いが私たちに与えられるのは神の恵みとあわれみによることを強調しました。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:23、24)
 
「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」(テトス3:4、5)
 
神様の前に的外れな生き方を重ねてきた罪人なる私たちが救われるとしたら、それは、神の恵みによるのであり、あわれみによるのであると、パウロは明確に語ります。しかし、このことは、救いが無条件に与えられるということを意味するわけではありません。救いが神の恵みであることを強調したパウロは、同時に救いのための条件が何であるかを明確に示した人物でもあります。
 
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。」(エペソ2:8)
 
救いは、神様の側からすれば恵みによって与えられるものであり、人間の側からすれば信仰によって与えられると言います。その信仰が与えられることさえ、神の恵みであるという言い方もできます。しかし、それでも人間の側に信仰がないのに、救いが無条件で与えられるというわけではありません。
 
救いを頂くための条件について、もう少し詳しく、聖書全体から見ていくならば、それは、「悔い改め」と「信仰」と表現されるでしょう。両者は表裏一体ですので、ある時には「悔い改め」だけが示され、ある時は「信仰」だけが示されますが、「悔い改め」は「信仰」なくしてあり得ませんし、「信仰」は「悔い改め」を前提とします。
 
「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。」(マルコ1:14、15)「神の国」とは、福音書等に見られる表現で、改めて後ほど取り上げたいと思いますが、「救い」をより包括的に表現したものと言えます。神の国に入るための条件は、悔い改めて福音を信じることでした。
 
バプテスマのヨハネが宣べ伝えたのは、「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」でした(ルカ3:3)また、復活のイエスは、弟子たちに福音宣教の開始を予告しながら、それを次のように表現されました。「その(キリストの)名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47)
 
使徒行伝では、ペテロの次のような言葉が記録されます。「預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています。」(使徒10:43)
 
ペテロは自らの手紙においても、次のように書きます。「それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」(第一ペテロ1:10)
 
使徒行伝はまた、パウロの次のような言葉も記録します。「すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」(使徒13:39)
 
また、使徒行伝にはパウロがエペソでの宣教活動を振り返りながら、次のように語っている言葉もあります。「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主に対する信仰とを、強く勧めてきたのである。」(使徒20:21)
 
また、パウロは自分の手紙でも、信仰によって義とされ、救われることを主張します。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28)先に紹介した言葉もその一つです。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。」(エペソ2:8)
 
救いを「(永遠の)命」として表現した使徒ヨハネも、次のように書きます。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネ3:36)「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:31)「これらのことをあなたがたに書き送ったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。」(第一ヨハネ5:12)
 
悔い改め(メタノイア)とは、方向転換を意味する言葉です。神様に顔を向けず、自分勝手に生きてきたとすれば、顔を神様に向け直し、神を愛し、人を愛する、人間本来の生き方に立ち返ることです。
 
信仰とは、人格的信頼を意味します。神様が私たちを愛し、イエス・キリストを通して、特にキリストの死と復活を通して救いを備えられたことを覚え、この神様を信じ、イエス・キリストを救い主、主として信頼することです。 
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