長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

5章 その4

2015-05-30 11:58:46 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】

[ここでいきなり第5章に戻ります。第5章「サマリヤの謎」については、その14~16で取り上げましたが、章の終りについているadditional notesについては、内容的にあまりに基本的なものに思えたので、紹介、検討を省略しました。しかし、本書全体の結論を述べる最終章について取り上げる前に、この部分で取り上げられている内容をもう一度検討しておくことも必要かと思いましたので、ここで取り上げます。]

1.πνευμα αγιον, το πνευμα, το πνευμα το αγιον, το αγιον πνευμα

既に示したように(56頁)、ルカは冠詞付きのπνευμα αγιονを冠詞なしのものと区別しているという意見がしばしば出されてきた。そのような議論の最近で十分な表現はN.TurnerのGrammatical Insight into the New Testament(1965年)17-22頁に見出される。その中で彼は長いフレーズを「三位一体の第三位格」を表わすものとし、短いフレーズを「聖なる霊、すなわち人々を捉える神的影響力」を表わすものと理解している(19頁)。

私の意見では、そのような区別は正当化されない。次のような並行関係を考慮するべきである。

(a)イエスの昇天前に弟子たちに対するイエスの約束は、二通りで行われている。
使徒1:5 間もなくあなた方はεν πνευματι αγιω
使徒1:8 επελθοντοσ του αγιου πνευματοσ、あなたがたは力を受けるであろう。
その出来事において、彼らの経験はこのように描かれている。
使徒2:4 彼らはみなπνευματοσ αγιουに満たされ、ヨエル2:28~がそれによって成就した:神は言われる。εκχεω απο του πνευματοσ μου。

(b)使徒2:4と共に、πνευμα αγιονがπιμπλημιと一緒になっている他の例がある(4:8、9:17、13:9、52)(参照)使徒4:31:επλησθησαν απαντεσ του αγιου πνευματοσ(4:25への照応箇所ではほとんどありえない。)

(c)サマリヤ人たちの経験はπνευμα αγιονの用語だけでは表現されていない。
参照)使徒8:17 彼らは彼らに手を置き、ελαμβανον πνευμα αγιον
使徒8:19 私が誰かに手を置くとλαμβανη πνευμα αγιον、私にもこの力をください。
使徒8:20 あなたは金によってτην δωρεαν του θεουを得ることができると考えた。
他のη δωρεα του θεουの用例において、言及されているのは明らかに聖霊である(2:38、10:45、11:17)。

(d)コルネリオの経験は色々な仕方で表現されている。
使徒10:44、11:15 το πνευμα το αγιον最初に私たちにくだったときのように彼らの上にくだった。
使徒10:45 η δωρεα του πνευματοσ αγιουが注がれた。
使徒10:47 彼らは私たちと同じようにτο πνευμα το αγιονを受けた。
使徒15:8 私たちに与えたように彼らにもτο πνευματι το αγιονを与えた。
しかし、使徒11:16において、ペテロはその出来事を使徒1:5に結び付けている:あなたがたはεν πνευματι αγιωバプテスマを受けるであろう。

(e)イエス自身の経験についてのルカの表現もおもしろい。
ルカ3:22 το πνευμα το αγιονが彼の上にくだった。
使徒10:38 神は彼にπνευματι αγιω και δυναμειを注がれた。

(f)ルカはその後のあり様についても語り続けている。
ルカ4:1 イエスはπνευματοσ αγιουに満たされていた。
ルカ4:14 彼はτου πνευματοσ力に満ちて戻ってきた。
これはルカ4:18におけるπνευμαと同様である。:πνευμα κυριουが私の上にある。

(g)ルカはλαμβανεινを5回の内4回、πνευμα αγιονと一緒に用いているが(8:15、17、19、19:2)、10:47では、異邦人をτο πνευμα το αγιονを受けた人々として描いている。

(h)次の比較もおもしろい。
ルカ1:35 πνευμα αγιον επελευσεται επι σε
使徒1:18 επελθοντοσ του αγιον πνευματοσ εφ υμασ

(i)最後に、次の比較をしてもよい。
使徒1:16 προειπεν το πνευμα το αγιον δια στοματοσ Δαυειδ 
使徒4:25 ο...δια πνευματοσ αγιου στοματοσ Δαυειδ ειπων

これらの証拠は、ルカにとってπνευμα αγιονとτο πνευμα το αγιονとの間には少なくとも重要な違いはないということを示している―同じ経験、また同じような経験が冠詞付きのπνευμα αγιονと冠詞なしのπνευμα αγιονとによって様々に表現されうる。ほとんどの違いは、人格的な力における聖霊を意味するか、非人格的な方法―力や賜物、霊感された言葉―においてご自身を現わされる聖霊を意味するかである。πνευμα αγιονは、聖霊と区別されたり切り離されたりした力や影響や霊を意味しえない。たとえば、ルカがペンテコステの日の120人の経験は4:31における他の人々の経験よりも違ったり、重要でないと示唆したというのは馬鹿げている(bを見よ)。そして、実際、ルカにとって「聖なる」霊が聖霊とは異なる何かだということは馬鹿げている(参照:C.F.D.Moule,An Idiom Book of the New Testamen[1959]112-113頁)。

実際の表現の多様性は、スタイル上の理由であって、真に神学的な重要性を欠いているように思われる。それゆえ私はAdlerの結論を受け入れる。「新約聖書においてπνευμα αγιονに出会うとき、それは聖霊から離れたカリスマ的力を意味せず、御霊ご自身を意味する。」(Taufe86頁)

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