長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

信仰への招き  12.救いの条件

2019-11-30 12:17:01 | 信仰への招き
前回、イエス・キリストを通して与えられる救いが豊かな内容を持つことをご紹介しました。この救いについて、その豊かさを多面的に教えたパウロは、同時に、救いが私たちに与えられるのは神の恵みとあわれみによることを強調しました。
「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(ローマ3:23、24)
 
「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」(テトス3:4、5)
 
神様の前に的外れな生き方を重ねてきた罪人なる私たちが救われるとしたら、それは、神の恵みによるのであり、あわれみによるのであると、パウロは明確に語ります。しかし、このことは、救いが無条件に与えられるということを意味するわけではありません。救いが神の恵みであることを強調したパウロは、同時に救いのための条件が何であるかを明確に示した人物でもあります。
 
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。」(エペソ2:8)
 
救いは、神様の側からすれば恵みによって与えられるものであり、人間の側からすれば信仰によって与えられると言います。その信仰が与えられることさえ、神の恵みであるという言い方もできます。しかし、それでも人間の側に信仰がないのに、救いが無条件で与えられるというわけではありません。
 
救いを頂くための条件について、もう少し詳しく、聖書全体から見ていくならば、それは、「悔い改め」と「信仰」と表現されるでしょう。両者は表裏一体ですので、ある時には「悔い改め」だけが示され、ある時は「信仰」だけが示されますが、「悔い改め」は「信仰」なくしてあり得ませんし、「信仰」は「悔い改め」を前提とします。
 
「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』。」(マルコ1:14、15)「神の国」とは、福音書等に見られる表現で、改めて後ほど取り上げたいと思いますが、「救い」をより包括的に表現したものと言えます。神の国に入るための条件は、悔い改めて福音を信じることでした。
 
バプテスマのヨハネが宣べ伝えたのは、「罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマ」でした(ルカ3:3)また、復活のイエスは、弟子たちに福音宣教の開始を予告しながら、それを次のように表現されました。「その(キリストの)名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47)
 
使徒行伝では、ペテロの次のような言葉が記録されます。「預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています。」(使徒10:43)
 
ペテロは自らの手紙においても、次のように書きます。「それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」(第一ペテロ1:10)
 
使徒行伝はまた、パウロの次のような言葉も記録します。「すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」(使徒13:39)
 
また、使徒行伝にはパウロがエペソでの宣教活動を振り返りながら、次のように語っている言葉もあります。「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主に対する信仰とを、強く勧めてきたのである。」(使徒20:21)
 
また、パウロは自分の手紙でも、信仰によって義とされ、救われることを主張します。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28)先に紹介した言葉もその一つです。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。」(エペソ2:8)
 
救いを「(永遠の)命」として表現した使徒ヨハネも、次のように書きます。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネ3:36)「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:31)「これらのことをあなたがたに書き送ったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。」(第一ヨハネ5:12)
 
悔い改め(メタノイア)とは、方向転換を意味する言葉です。神様に顔を向けず、自分勝手に生きてきたとすれば、顔を神様に向け直し、神を愛し、人を愛する、人間本来の生き方に立ち返ることです。
 
信仰とは、人格的信頼を意味します。神様が私たちを愛し、イエス・キリストを通して、特にキリストの死と復活を通して救いを備えられたことを覚え、この神様を信じ、イエス・キリストを救い主、主として信頼することです。 
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