長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

16章 その1

2015-01-31 20:42:18 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


この章では、ヨハネの手紙についての検討がなされます。

第4福音書の著者は、使徒たちの霊のバプテスマが彼らの新生とは区別され、新生に続くものであったこと、また上からの誕生に水のバプテスマがカギの役割を果たすと信じていたかもしれない。ペンテコステ派や礼典主義者は、彼の他の文書の中に自分たちの見解を支持する何かを見つけることができるであろうか(ヨハネの手紙は彼の筆によると仮定して)。注意を求められる箇所は、第一ヨハネ2:20、27、3:9と5:6-12である。

第一ヨハネ2:20、27、3:9

我々は、これらの箇所を一緒に扱う。というのは、χρισμα(油注ぎ)とσπερμα(種)は明らかに密接に関連しているからである。ほとんどの者は、それらが同じものに言及していることに同意する―御言葉か、御霊か、御言葉を伴う御霊かである。

χρισμαに対して提案されている意味はより広い。それらは二つの題目のもとに要約されうる。

(a)言及されているのは御霊よりほかの何かについてである。
(1)バプテスマか塗油かの礼典的儀式
(2)御言葉、すなわち福音。

(b)言及されているのは御霊についてである。
(1)御霊だけ。回心―入信式とは区別される。
(2)バプテスマやあるいはいくらかより複雑な儀式において与えられる御霊。

σπερμαに対して提案される意味の範囲はより限定的である。御言葉、御霊だけ、特にバプテスマにおいてあるいはバプテスマを通して与えられる御霊。

第一の選択肢は、我々は直ちに退けることができる。χρισμαは確かに比喩的に用いられており、文字通りの儀式でもなければ魔術的な儀式でもない。油を注ぐ儀式は召命不可能であり、新約聖書時代には「全くありそうもない」ばかりか、決定的なことは、χρισμαが彼らの「内に」とどまること、また、彼らを教えるという人格的働きをするという事実である(2:27)。

第二の選択肢―χρισμα=教え、神の言葉―はずっと重要である。ヨハネはしばしば証し(μαρτυρια―ヨハネ3:11、32、33、5:34、第一ヨハネ5:9)、戒め(εντολη―ヨハネ10:18、第二ヨハネ4)、御言葉(ρηματα―ヨハネ12:48、17:8)を受け入れる(λαμβανειν)ことについて語っている。さらになお重要なことは、ヨハネがこの神の教えが彼らの内にとどまり(μενειν)、あるいは存在する(ειναι)とどうして語ることができるかということである。他方で、ヨハネは同様に御霊を受けること(ヨハネ7:39、14:17、20:22)、また、弟子たちの内の御霊と神的臨在について(14:17、20、15:4、第一ヨハネ3:9、24、4:12、13、15、16)語っている。

(主の頭に注がれた油についてのイグナティウス及びアレクサンドリアのクレメンスの見解、省略)

答えは、ヨハネがχρισμαについて語る時、一方か他方かを明確に考えているのではなく、両方を考えているのかもしれない。しかし、両者を全く区別することはおそらく間違っているであろうが、我々は御霊を第一の場所に置かなければならない。御霊は御言葉と共に、また御言葉を通してさえ働くのだとしても、χρισμαは御霊である。

(以下、三つの点の指摘については、要約のみ)

第一に、χρισμαはすべてのことについてあなたを教える。ヨハネにとって教師の役割は常に人格的なものである。
第二に、σπερμαによってヨハネは御霊を意味しているという結論を避けることは大変難しい。特にそれを神的誕生について語っている時にはそうである。
第三に、御霊と教えとの関係については、以下の点に留意するべきである。
(1)正しい告白の背後にあり、それを促進するのは神の御霊である。(4:2)
(2)御霊は真理である(5:6)―この故に、χρισμαは真理であるという記述がある。(2:27)
(3)御霊はイエスについて証しする存在として約束されていた(ヨハネ15:26)。
(4)4:4と5:4を比較せよ。そこでは勝利が「あなたがたのうちにおられる方」と「私たちの信仰」の両方に帰せられている。
(5)ヨハネ6:63でのρηματαと御霊の密接な関係などを忘れてはならない。

それゆえに我々は、χρισμαとσπερμαは御霊について語っていること、しかし、御霊は福音の宣言と教えを用いること、従って一方に応答することは他方を受け入れることであることを、いくらかの確信を持って言うことができる。

しかし、御霊のこの働きをより詳しく定義づけ、何らかの特定の儀式に結び付けるべきであろうか。あるいはむしろ、ヨハネは我々がそうすべきであると考え、そのような文脈を前提としているであろうか。あるいは他方で、我々はペンテコステ派が願うように、御霊についての言及を回心―入信式と完全に引き離すべきであろうか。

これらすべての質問に対する答えは同じである―No!バプテスマについての記述がないという点で顕著な手紙において、ヨハネがバプテスマにおける御霊の働きについて考えていると言うことは全く根拠がない。(以下略)

他方で、これらの節についてのペンテコステ派の見解―すなわち、油が注がれることは回心の後に続く御霊のバプテスマである―に従うことは不可能である。

第一に、σπερμα=聖霊であり、神的なσπερμαは新生のエージェントであるなら、新生はσπερμα(御霊)が入信者にとどまるために来られることであるという結論を避けることはほとんどできない。

第二に、χρισμαとσπερμαは共にグノーシス的な用語であるということは全くありえることであり、2:20、27はグノーシス主義の教師たちに向けられていることはほとんど確実である。ドッドが指摘しているように、「これらの初期の異端者たちは、彼らの後継者である二世紀のグノーシス主義者のように、普通のクリスチャンが持ちえないと考えられたよりすぐれたグノーシス、すなわち神の事柄についての知識を主張したことは妥当な仮定である。」この主張に対して、我々は御霊のバプテスマについてのペンテコステ派の教えと比較することができる。(以下中略)ヨハネが論じたのは、全くそのような秘密の党派的な教えに対抗してのことである。すべてのクリスチャンは知識を持っている。なぜなら、すべてのものが聖霊によって油注がれたのであるから。この油注ぎをなお待っている幾人かのクリスチャンがいるのではない。ヨハネにとって油注がれていないクリスチャンがいあるという可能性さえ論外であった。なぜなら、それは異端者たちに対する決定的な点を譲歩することになるからである。キリストのχρισμαによる油注ぎは神のσπερμαによる新生と切り離されてはならない。御霊によって誕生したすべての者はそのこと自体で御霊に油注がれている。

第三に、御霊は教えにいかに密接に関連しているかを見てきた。しかし彼らの内にとどまっている教えは、彼らが「初めから」聞いていたことである(2:24。参照2:7、3:11、第二ヨハネ6)。彼らの内にとどまる御霊を受けること(2:27)は、この教えを受けることと切り離すことはほとんどできない。言い換えれば、御霊を受けることは教えを受けることと同様、クリスチャン生涯の始まりにおいてであり、始まりとしてである。

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