長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「神と共に生きる」第十七話 聖なる都への招き

2023-06-01 20:54:33 | 神と共に生きる

第十七話 聖なる都への招き 黙示録二一・一‐七

 

 「神と共に生きる」というテーマに焦点を当てながら、聖書を学んできました。最後に、神様が世界の歴史のゴールとしてどのようなものを備えておられるのか、ヨハネの黙示録から学びます。それは、信仰者一人ひとりがめざすべきゴールでもあります。

 

一、聖なる都の出現

 

 使徒ヨハネは、信仰のゆえにパトモス島に島流しにされていました。彼はそこで、これから起こる事柄について、神様から数々の幻を与えられます。その最後に見せられたのが、聖なる都についての幻でした。

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録二一・一、二)

 

 「新しい天と新しい地を見た」と言います。「以前の天と以前の地は過ぎ去り」ともあります。天と地、万物を創造された神様は、世の終わり、この世界を新しくされる時が来ると言います。

 私たちの生きる世界は、人間の罪故に汚染され、様々な災いの起こる世界です。痛みや悲しみが尽きない世界と言ってもよいでしょう。しかし、そのような世界が過ぎ去る時が来る、新しい天と新しい地が備えられるのだと言います。

 世界の歴史は苦難に満ちています。世の終わりが近づくにつれ、その度合いはますます強まるようです。しかし、やがてキリストが再び来られ(再臨と言います)、世界は終わりを迎えます。キリストの再臨と新天新地の出現は、同時であるのか、時間的差異があるのか、諸説ありますが、世界の歴史がキリストの再臨、新天新地の出現を通して終わりを迎えていくことは確かなようです。

 新しくされた天と地において現れるのが「聖なる都」と呼ばれるものです。この都の情景は、黙示録の最後の二章にわたって詳しく記されています。世界のゴール、そして信仰者一人ひとりのゴールとして神様が備えておられるのが、この都です。

 

二、都の情景

 

 この都では、神様が人々と共におられるということが鮮やかに示されています。

 

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(略)」(黙示録二一・三)

 

 旧約聖書で神の前に出る場として備えられた「神の幕屋」は、祭司たち限られた者たちだけが足を踏み入れることのできる場所でした。しかし、イエス・キリストの死による贖いによって、私たちの罪が赦され、神の前に出ることができる道が備えられました。信仰によって私たちは、愛なる神様と共に生きる幸いを日々味わうことができます。同時に、信仰者の歩みの中では、神から引き離そうとする悪の力も経験します。地上での歩みは、そのようなものとの戦いなしにはありえません。しかし、この都では、「神は人々とともに住み、人々は神の民となる」。このお方から引き離そうとする力は取り去られ、神と共にある幸いだけがこの都を支配しています。

 続いて「大きな声」は次のように語ります。

 

神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示録二一・四)

 

 現在、信仰者の歩みは、神が共にいてくださることを覚えつつも、数々の困難があります。悲しみの涙を流すこともあります。死による別離を経験することもあります。しかし、この都ではそのようなものはありません。地上での歩みの中で沢山の涙を流したとしても、神様は「彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と言います。

 私が若い頃の話ですが、ある教会の教会学校(子どもたちのための集い)の中で、黙示録のこの箇所からお話したことがあります。この都には涙がありません、死もなく、悲しみや苦しみもありませんとお話しました。ふと見ると、すぐ目の前で聞いていた子が静かに涙を流していました。何か最近辛いことでもあったのでしょうか。分かりませんが、聖書の希望がその子にも何がしかの励ましを与えたとすれば感謝なことだと、今でも時折思い起こします。

 

三、都に入る者

 

 どういう人たちがこの都に入るのでしょうか。「御座に座っておられる方」(黙示録二一・五)、すなわち神様がこのようにヨハネに語られます。

 

わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録二一・六‐八)

 

 また、ヨハネは次のようにも書いています。

 

自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。(黙示録二二・一四‐一五)

 

 この都は神の栄光によって照らされた場所です。その光のゆえに太陽も月も必要とされないと言います(黙示録二一・二三)。光輝く神様が支配される都であれば、すべての闇のわざ、神様に喜ばれない罪悪、不正、汚れを抱えたままでは、この都に入れません。しかし、前回学んだように、神様の光に照らされるなら、罪なしと言える者はひとりもいません。そうであれば、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

 「自分の衣を洗う者たちは幸いである」とあります(黙示録二二・一四)。罪に汚れた生涯を、御子の血によって洗いきよめて頂くことができます。「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」(黙示録二一・六)贖いの代価は御子の血によって既に支払われています。罪を悔い改め、御子を信じる者に、神様は罪の赦しを与え、神様と共に生きる新しいいのち、永遠の都に迎えられる恵みを備えてくださいます。

 なお、世の終わりに至るまでに死んだ信仰者は中間的な場所に迎えられ、キリストと共にあるようです(ルカ二三・四三、ピリピ一・二三)。世の終わりを迎えると、すべての者が一度よみがえらされます。神に背く生き方をしてきた者は火の池に投げ込まれますが(黙示録二〇・一一‐一五、二一・八)、自分の衣を洗った者たちは永遠の都に迎えられます。

 聖書に示されたメッセージは、このようなものです。神様は聖書を通してすべての者を招いてくださいます。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」(黙示録二二・一七)ぜひあなたも、神様が備えられた豊かな恵みを、信仰をもって受け取ってください。そして、神を愛し、周囲の人々を愛しながら、神と共に生きる幸いを味わう生涯を送られますように。

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「神と共に生きる」 第十六話 光の中を歩む

2023-05-23 17:46:23 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十六話 光の中を歩む

第一ヨハネ一・五‐一〇

 

 使徒ヨハネもまた、手紙を書きました。彼の第一の手紙のテーマは、「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言ってもよいでしょう(第一ヨハネ一・三)。「神と共に生きる」というテーマに焦点を当てながら、聖書の基本的メッセージを学んできました。神様と共に生きていくために必要なこと、大切なことが何であるか、ヨハネの手紙から確認しましょう。

 

一、神は光である

 

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(第一ヨハネ一・五)

 

 神様と共に生きていくために、神様がどんな方であるかをみことばから教えられることは大切です。ここに、「神は光であり、神には闇が全くないということです」とあります。使徒パウロもまた神様について「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方」と書いています。

 光はすべての物をありのままに照らします。光のあるところ、闇は逃げていきます。そのように、神様はすべての物事を見抜かれる方、隠さなければならないような悪や汚れからは遠く離れ、そのようなものを一切持たないお方です。

 

二、光の中を歩む

 

 神様が光なるお方と分かれば、そのようなお方と共に生きるということが意味することが分かってきます。それは、光の中を歩むことなしに、神と共に生きることはできないということです。

 

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・六、七)

 

 ここに一つの仮定があります。もし誰かが、「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいる」としましょう。神は光なるお方です。神と交わりがあるなら、当然、光の中を歩むことになるはずです。そうであるのに、闇の中を歩んでいるとすれば、「神と交わりがある」という主張が偽りであるということになります。

 逆に「私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいる」としたらどうでしょうか。光の中を歩んでいるのですから、嘘偽りの入り込む余地はありません。自分のありのままの姿を神の光に照らして頂くとき、私たちは「互いに交わりを持ち」ながら生きていくことができます。

 「互いに交わりを持つ」とは、信仰者同士の交わりを含みます。しかし、それは「御父また御子イエス・キリストとの交わり」を土台としています。神様との隔てのない交わりを持ち、また互いにも自由な交わりを持ちながら生きていくことができます。それは、自分を神様の前に偽らず、光の中を歩んでいくとき可能となる生き方です。

 

三、罪が自覚されるとき

 

…御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・七)

 

 しかし、信仰を持ったとは言え、神の光に照らされたとき、自分の犯した罪や過ちが明らかになってくるとしたらどうでしょうか。これは信仰の歩みを始めるすべての者がいつしか直面する課題でしょう。しかし、ヨハネは言います。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」と。

 これは、「光の中を歩んでいるなら」ということを条件としています。たとえば、「自分には罪がないと言うなら」どうでしょうか。「私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」と言います(第一ヨハネ一・八)。そこには嘘偽りがありますので、光の中にいるのではなく、闇の中に逃げ込んでいることになります。そうであれば、私たちが罪からきよめられることはありません。

 しかし、神様の光によって罪が示されたとき、それを率直に認め、神様の前に言い表すならどうでしょうか。

 

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・九)

 

 ありのままに自分の罪を認め、神の前に言い表すとき、それは、光の中にとどまることを意味します。すると、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめてくださいます。」これは、神の約束ですので、真実で正しい神様は、私たちの「罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます。」

 このことは、私たちが最初に罪を悔い改めて、御子イエス・キリストを信じたときに起こることでもありますが、私たちが信仰者として歩みを進めていく中で、何度でも更新される恵みでもあります。

 クリスチャン家庭に生まれながら、大学生になってようやく真剣に聖書を読み始めた私は、神のみことばの光によって、自分では気づかなかった自分自身の姿に直面させられることになりました。愛のない自分本位な姿、偽善や高慢、汚れた思いや行い…。最初は、そのような自分の姿を見て見ぬ振りをしようとしたり、ごまかそうとしたりしました。しかし、次第に強まる神様からの光に、自分の罪汚れをごまかしきれなくなりました。そうした時、初めてのように、イエス・キリストの十字架の死が自分のためでもあったことが示されてきました。「御子イエスの血がすべての罪からきよめてくださいます。」「すべての罪」とある以上、私のあの罪、この罪、すべての罪が赦され、きよめられるのだと知った時、驚くばかりの神様の恵みに圧倒されるようでした。

 そして、この恵みは今に至るまで私を支え続けています。神様の光に照らされる時、罪を自覚する時があります。そのような時には、同じく罪を言い表し、御子イエス様の血を仰ぎます。赦され、きよくしていただきます。そのようにして、日々神と共に生きる幸いが更新、継続されることは、大きな恵みです。

 「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇三二・一、二)「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言二八・一三)

 光なる神様の前に、嘘偽りなく、ごまかしなく生きることができる…これは驚くべき恵みです。御子イエス様の血のゆえにこの恵みが与えられていることを覚え、この恵みを与えてくださった神様をほめたたえましょう。そして、愛をもって私たちの生涯を守り導いてくださる神様とともに、喜びをもって生きていきましょう。

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「神と共に生きる」 第十五話 キリストの教会

2023-05-17 17:02:57 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十五話 キリストの教会

エペソ一・二二‐二三、二・一九‐二二

 

 使徒パウロは、いろいろな教会に手紙を書き送りました。それぞれの教会の信仰者に、イエス・キリストへの正しい信仰をもって生きるよう励ますためでした。それらの手紙のかなりの部分が新約聖書の中に納められています。

中でもエペソ人への手紙は、信仰者が神から与えられている恵みがいかに大きなものであるかを教えます。イエス・キリストへの信仰を持つ者は、「背きの罪の赦し」を受けていること(エペソ一・七)、「御国を受け継ぐ者」となったこと(エペソ一・一一)、「約束の聖霊によって証印を押され」たと書き記し(エペソ一・一三)、このような恵みをしっかり受け止めながら生きることを励ましています。

また、実際的な信仰生活については、「愛のうちに」歩むこと(エペソ五・二)、「光の子どもとして」歩むこと(エペソ五・八)、「神のことば」(聖書)をしっかり握って生きること(エペソ六・一七)、どんなときにも聖霊の助けを頂きながら祈ること(エペソ六・一八)などを勧めています。

そうした中、パウロはこの手紙の中で、特にキリストの教会に焦点を当てています。信仰者は一匹オオカミのように一人で信仰の歩みを進めていくのではなく、他の信仰者と共に生きていく存在だからです。教会とは何でしょうか。教会の一員として生きていくとはどのようなことなのでしょうか。

 

一、キリストのからだ

 

また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ一・二二、二三)

 

 「教会はキリストのからだ」と言われます。ここには、キリストと教会の一体性が示されています。「かしら」はキリストです。このお方はすべてのものをその足の下に従わせておられるお方、すべてのものの上に立つお方です。この方が教会のかしらであり、教会はキリストのおからだだと言います。

 ですから、神様が現在、世界の中にご自分の働きを進めるうえで、その中心にあるのはキリストのからだなる教会です。信仰者はこの教会の一員として、神様の恵みを世に証ししながら生きていきます。

 既に教会とのつながりのある方は、そのつながりを大切になさってください。これまで特に教会と関わりのない方は、近隣によい教会がないか探してみてください。聖書を神のことばとして分かりやすく教えてくれる教会があれば、ぜひその教会に継続して集ってください。日曜日ごとに礼拝がささげられていると思いますので、週ごとに他の信仰者とともに神様を礼拝することができます。

 教会の正式な会員となるには、バプテスマ(洗礼)を受けます。「からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」とも言われます(エペソ四・四、五)。異端的な教会でない限り、どこの教会で洗礼を受けたとしてもキリストのからだなる教会の一員となり、名実ともに信仰の歩みをスタートさせることができます。

 

二、神の民

 

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり…(エペソ二・一九)

 

 エペソ教会のクリスチャンたちの多くはいわゆる「異邦人」でした。これは、ユダヤ人ではないということです。旧約聖書には、イスラエルの民が神の民として選ばれ、立てられたことが記されています。しかし、イスラエルの民は次第に神の御心に背き、大国の支配下に置かれることになりました。そのような中で遣わされたキリストを、少なからぬユダヤ人も信じましたが、宣教の進展によって異邦人たちもキリストを信じるようになりました。エペソ教会のクリスチャンたちもそうでした。

 パウロは、他の手紙の中で、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく」と言っています(ローマ二・二八)。イエス・キリストを通して心が変えられ、神の子とされた者たちが真のユダヤ人であり、真の神の民であるということです。「聖徒たちと同じ国の民」とは、ユダヤ人から見れば異邦人のようであっても、キリストを通して真に神の民とされているのですよ、という意味です。

 

三、神の家族

 

…聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ二・一九)

 

 キリストは神様が天におられる私たちの父であられることを教えられました。神の民として生きるということは、神様を天のお父様として生きることですが、それとともに、同じく神を信じ見上げる仲間たちを神の家族として生きることでもあります。

 教会に行かれると、同じ信仰の仲間たちを「兄弟」、「姉妹」と呼んでいるのを見かけることがあります。これは、教会が神の家族であり、天に父なる神様を信じる兄弟姉妹なのだというところから生まれた表現です。

 私自身はクリスチャン家庭に生まれ育ちました。ですから、子どもの頃から教会の集いの中に体を置き、「兄弟姉妹」との交わりの中で育てられました。人付き合いの良いほうではなかった私を忍耐強く見守り、陰にあって祈ってくださった多くの信仰の先輩方がいました。一人ポツンとしていると何気なく声をかけてくれたり、その時々に励ましや応援の言葉をかけたりしてくれた信仰の仲間たちがいました。私が今あるのは、こういう方々に支えられてのことだと痛感します。

 私たちがこの世に生を受け、生まれてくると、お父さん、お母さんが愛情をもって育ててくれます。また、お兄さん、お姉さんに取り囲まれて育ちます。そのように、信仰の先輩や仲間たちの愛と祈りの中で育つことができる…これもまた神様が備えてくださっている恵みです。

 

四、聖なる宮

 

使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ二・二〇‐二二)

 

 ここでは、教会が一つの建物にたとえられています。その土台はキリスト・イエスです。そして、この建物には一つの特別な役割があります。「聖なる宮」、「神の御住まい」としての役割です。

 旧約聖書では、神を礼拝する場として、神殿が建てられました。しかし、今は、キリストを信じる信仰者の集まりの中に、神様はご自分の臨在を現わされます。私たちは、週ごとに、また機会あるごとに集まり、神様を礼拝し、賛美し、その御顔を仰ぎながら生きていきます。神様もまた、喜んでそのような場にご自分を示してくださいます。

 キリストが言われたように、人数の大小はあったとしても、キリストを信じる者たちが共に集うその中に、父・子・聖霊の三位一体の神様が臨在されます。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ一八・二〇)

 私たちの信仰の歩みが、神の家族との交わりの中で励まされ、聖なる宮での神様への礼拝を中心にしながら進められますように。

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「神と共に生きる」 第十四話 悔い改めと信仰への招き

2023-05-09 20:35:12 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十四話 悔い改めと信仰への招き

使徒二〇・一七‐二一

 

聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、宣教の働きを開始しました。その働きは、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで」と広がっていきます(使徒一・八)。その中で、特に異邦人に対する宣教者として神に召された人物がパウロでした。

彼は、もともとクリスチャンを迫害していた人物でした。しかし、迫害に息を弾ませていた最中、復活の主キリストの幻を見、回心とともに、宣教の働きに召されます。彼は地中海世界を何度も旅して周り、ユダヤ人だけでなく異邦人にも宣教の働きを広げていきます。小アジア(アナトリア半島)に位置するエペソにも、何度か訪れ、ある時はかなり長期間にわたり滞在もし、宣教活動をしました。その後、別の場所での宣教を終え、エペソの近くを通ったとき、エペソの教会の長老たちを呼び寄せ、懇談の時を持ちます。

 彼は小アジアでの宣教活動を振り返って、彼らにこういうことを語ります。

 

あなたがたは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなたがたと過ごしてきたか、よくご存じです。私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました。ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。(使徒二〇・一八‐二一)

 

 以前はクリスチャンへの迫害を行なっていたパウロが、逆に迫害を受ける身となりました。しかし、数々の試練の中で宣教の働きを続けました。命がけでパウロが伝えた宣教の内容は何だったでしょうか。

 パウロが人々に語ってきた宣教の内容、その結論は、要約すると「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした。もちろん、彼が語ったことは、多くのことが含まれていました。『使徒の働き』には、様々な場所で彼が人々に語った内容が記録されています。万物の創造者である神様のこと(使徒一四・一五)、神様は私たちがご自分を求めるよう招いておられること(使徒一七・二七)、そのためにイスラエルの中に救い主イエスを送ってくださったこと(使徒一三・二三)、このお方が十字架に死に、よみがえったこと(使徒一三・二八‐三〇)、このお方によって罪の赦しが与えられること(使徒一三・三八)、また、神はこのお方によってやがてこの世界をさばこうとしておられることなどです(使徒一七・三一)。しかし、その結論として彼が語ったことは、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰」でした(使徒二〇・二一。使徒一三・三九、一七・三〇も参照)。彼はユダヤ人にもギリシア人にも、世界中の人々のこのことを訴えてきたのでした。これは現代の私たちも聞くべき神様からの招きそのものです。

 

一、神に対する悔い改め

 

…神に対する悔い改め…(使徒二〇・二一)

 

 「悔い改め」とは何でしょうか。それは心の態度の転換を意味する言葉です。特に「神に対する悔い改め」ですから、神様に対する心の態度を変えることです。これまで、神様に背を向け、神様を無視して生きてきたのだとしたら、一八〇度向きを変え、神様に顔を向け直し、神様に向かって歩き始めることです。

 イエス・キリストはある時、このことについて分かりやすいたとえを語られました。少しばかり脚色を交えてご紹介すれば、以下のようなお話です。

 ある人に二人の息子がいました。兄息子は真面目でしたが、弟息子は父親のもとで生きることが嫌になり、自分が相続するはずの財産を譲り受け、遠い国に旅立ちました。しかし、彼はたちまち放蕩三昧の生活に陥り、あっという間に財産を使い果たします。そろそろ仕事でもと考えていると、ちょうどその頃、その地方に飢饉が起こります。彼は食べることにも困り始めます。仕事もなかなか見つからず、ようやく見つけた仕事は人々の嫌がる豚飼いの仕事でした。豚の世話をしながら、彼はあまりにお腹が空き、豚の餌でも口にしたく思ったほどでした。

しかし、その時彼は我に返ります。父親のところには、パンのあり余っている雇い人が沢山いるはず…。それなのに、自分は飢えて死のうとしている。自分がいるべき場所はここではない、雇い人の一人としてでよいから、父親のもとに帰って迎えてもらおうと決心します。

彼は立ち上がって、父親のもとへと向かいます。家が近づくにつれ心配になったのは、どんな顔をして父親が迎えてくれるかということでした。ところが、まだ家までは遠かったのに、彼を見つけて家の方から走り寄る人物がいます。父親でした。おそらく、父親は来る日も来る日も息子がいなくなった方向ばかり見ていたのでしょう。息子を見つけ、走り寄り、抱きかかえ、口づけして迎えます。「私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」…そう言いかける息子を、父は押しとどめます。汚れて臭くなった着物を換えさせます。いなくなっていた息子の帰りに、喜びに満ちた宴会が始まりました(ルカ一五・一一‐二四)。

私たちは天の父なる神様のご愛のもと、神を愛し、周りの人々を愛しながら、幸せに生きるはずではなかったでしょうか。しかし、この弟息子のように、神様に対して背を向け、神様から遠く離れて生きていたのではないでしょうか。私たちは「我に返る」、すなわち、人間本来のあり方に立ち返る必要があります。それは、今いる所から立ち上がり、神様に向かって歩き出すことです。

神様が自分をどのように迎えてくれるか、心配する必要はありません。神様は私たちがご自分のところに帰ってくるのを今か今かと待っていてくださいます。私たちがどんなに罪深い歩みをしてきたとしても、また、神様に対して無関心であったとしても、あるいは神様に対して反抗的に歩んできたのだとしても、その事実に変わりはありません。私たちが神様に顔を向け、このお方のところに帰っていくなら、このお方は両手を広げ、大きな喜びをもって迎え入れてくださいます。

 

二、主イエスに対する信仰

 

…主イエスに対する信仰…(使徒二〇・二一)

 

 パウロは、神に対する悔い改めとともに、主イエスに対する信仰を人々に訴えました。悔い改めと信仰はコインの裏表です。悔い改めは信仰とともに働きます。逆に、信仰は悔い改めなしに成り立ちません。

 信仰とは、全人格的なものです。そこには聖書の伝えるメッセージを理解し、信じることも含まれています。すなわち、イエス・キリストが神の御子であり、その死と復活によって私たちの罪を赦し、新しくし、神の国に迎え入れ、永遠のいのちに生かしてくださると信じます。同時に、信仰は人格的な信頼です。イエス・キリストに対する全人格的信頼を持ち、自分の救い、生涯、永遠をこのお方の御手にお任せします。

 神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰を言い表すために、たとえば次のように祈ってもよいでしょう。

 「天におられる父なる神様。私は今まで、神様に背を向けて生きてきました。しかし、神様が私を愛し、心にかけ、ご自分のところに帰ってくるよう、招いておられることを知りました。私はこれまで知っていて、あるいは知らずに様々な罪を犯してきました。御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの故に私の罪をお赦しください。復活し、今も生きておられるキリストを、私の主、救い主として信じます。これから神様と共に生きていきます。神様を愛し、周囲の人々を愛して生きていきたいです。これからの生涯を助け、御心のままに導いてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。」

 「アーメン」とは、元来ヘブル語で、「本当に」、「まことにそうです」という意味です。右のような内容があなたの心に沿うようであれば、ぜひ心を込めて祈ってみてください。神様と共に生きる新しい生涯が始まります。

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「神と共に生きる」第十二話 復活の日の朝

2023-04-26 14:28:08 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十二話 復活の日の朝

マタイ二七・六二‐二八・一〇

 

 キリストが十字架に死なれたとき、弟子たちは悲しみと恐れに包まれました。主イエス様に従ってきた女性たちも、悲しみに沈みました。しかし、キリストの死から三日目、日曜日の朝、変化が起こりました。その朝、何が起こったのでしょうか。そして、その出来事は現代に生きる私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか。

 

一、破られた封印

 

そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。(マタイ二七・六六‐二八・二)

 

イエス様は十字架に死なれ、墓に葬られました。その墓は岩を掘って造った墓で、入り口には大きな石が転がされました。しかし、祭司長やパリサイ人たちは一つの心配をします。イエス様がかつてご自分の復活について語っておられたのを聞き知っていたのでしょう。弟子たちが遺体を盗み出して、「よみがえった」と言いふらすのではないかと考えました。そこで、彼らはピラトのもとに行き、墓に番を付けるようにと願い出ます。ピラトは、この要求に応え、番兵を手配するとともに、墓を封じる石に封印をさせました。

三日目の朝、女性たちがイエス様の墓に向かっていました。彼女たちの懸念は入り口の大石を誰に転がしてもらえばよいかということでした(マルコ一六・一‐三)。ところが、大地震が起こりました。主の使い(天使)が降りて来て、石をわきに転がしたからでした。もちろん、封印もすべて破られ、解かれてしまいました。そして、天使は彼女たちに主イエスの復活を告げ知らせるのです。

 

 キリストが死の中から復活されたことは、私たちにとって大きな意味を持ちます。アダムとエバが神のご命令に背いたとき、「必ず死ぬ」と言われていた通り、死はどんな人をも打ち負かしてきました。しかし、イエス・キリストは死に勝利され、永遠に生きるお方としてよみがえられました。全人類を縛り付けていた死の封印が解かれた瞬間でした。

 私たちは、イエス・キリストを信じるとき、罪を赦していただき、神との交わりを回復して頂くことができます。やがては私たちも死の時を迎えるでしょう。しかし、魂は主イエス様のもとに迎えられます。さらには世の終わり、イエス様と同じような復活栄光の体が与えられ、よみがえらされます(Ⅰコリント一五・二〇‐二三)。イエス・キリストの十字架の死と復活により、死の封印は砕かれ、解かれたのです。

 

二、空になった墓

 

 キリストの復活を告げる天使のことばは、以下のようなものでした。

 

あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。(マタイ二八・五、六)

 

 天使が天から下り、墓を塞いでいた石をころがしたのは、復活したイエス様を外に出すためではありませんでした。他の福音書を見ると分かることですが、復活のイエス様は、固く閉ざした家の中にもスッと入って来ることがおできになりました(ヨハネ二〇・一九)。イエス様は復活されてすぐ、閉ざされた墓の中からも出て行くことができました。ですから、女性たちに天使が告げたのも、「(イエスは)ここにはおられません」ということでした。

 「前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」と告げると同時に、天使は彼らに、言いました。「さあ、納められていた場所を見なさい。」そこには、空になった墓があるだけでした。

 エルサレムには、イエス・キリストが葬られた場所としていくつかの箇所が指摘されています。そのうちの一つで「園の墓」と呼ばれる場所は、よく手入れがされ、「こんなところでイエス様がよみがえられたのかな」と思わせる雰囲気が漂っています。その園には、キリストの墓とされる場所があり、入口のところに「彼はここにはおられない。よみがえられた」と記されています。もし仮に、そこに記されている言葉が「ここにキリストの遺骨が納められている」ということであったらどうでしょうか。使徒パウロも言うように、「私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しい」ということになるでしょう(Ⅰコリント一五・一四)。「空になった墓」こそは、主キリストへの信仰の土台です。

 

三、お会いできる

 

 続いて天使が女性たちに告げたのは、次のようなことでした。

 

そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。(マタイ二八・七)

 

 墓を訪れたときには悲しみに沈み込んでいた彼女たちでした。しかし、天使によって主イエスの復活が告げられました。確かに墓は空でした。そして、弟子たちに伝えるようにと告げられた言葉は、「そこ(ガリラヤ)でお会いできます」。「主は生きておられる!」彼女たちの心を覆っていた悲しみはいつの間にか喜びに置き換わっていました。

急いで墓を立ち去り、走り出した女性たちは、そこで復活の主イエス様ご自身に出会います。彼女たちはイエス様の御前にひれ伏し、礼拝します。この時、イエス様が彼らに語られたのも、「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」ということでした(マタイ二八・一〇)。

 実際、弟子たちはこの後、ガリラヤにおいてイエス様と相まみえます。(エルサレムでも何度かお会いしますが、マタイの福音書では省略されています。)この後、イエス様は天に上っていかれます。しかし、その前に弟子たちに宣教の命令を与えるとともに、一つの約束を残されました。

 

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ二八・二〇)

 

 この後、主キリストは天に上っていかれます。これ以降、弟子たちは肉眼では主を見ることができなくなりました。しかし、彼らの心には「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われた主のことばが響き渡っていました。その後の宣教活動には幾多の困難もありましたが、共にいます主イエス様を仰ぎつつ、命がけの宣教活動を進めることができました。

 罪深い私たちが、その罪を赦して頂いて神と共に生きることができることは大きな幸いです。復活の主、御子イエス・キリストが、信じ従う私たちと共にいてくださる…それは、「神が私たちとともにおられる」という約束の成就と言えるでしょう(マタイ一・二三)。このお方は永遠に生きておられるので、いつも、どんな所からでも見上げ、「お会いできる」方です。

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「神と共に生きる」第十一話 十字架上での死

2023-04-20 19:38:13 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十一話 十字架上での死

マタイ二七・三九‐五四

 

 真理の言葉を語り続け、多くの人々の病を癒やして来られたイエス・キリストは、人々から大きな注目を受けました。しかし、ユダヤ人指導者たちはその状況をねたみ、まずはユダヤ人の最高法院を招集し、神殿への冒瀆、また神への冒涜を罪状として、死に値すると結論づけます。

しかし、当時ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、自分たちで人を死刑にする権限を持っていませんでしたから、彼らはイエス様をローマ総督ピラトに訴えます。罪状はユダヤ人の王を自称しているというものでした。ピラトはイエス様が死刑に値するようなことをしていないと判断。しかし、ユダヤ人指導者は群衆の扇動にも成功し、死刑判決をくださない限りは暴動にもなりそうな状況を引き起こします。それを見たピラトは、遂に十字架刑を言い渡します。

十字架刑は、ローマ帝国下で行われていた死刑の手段の中でも、最も残酷と言われていたもの。その十字架にキリストがつけられ、長時間激しい痛みの中に置かれた末死んでいかれたことは、恐ろしい悲劇でした。

 しかし、キリストの生涯を描いた四つの福音書は、その様子を描きながら、その死が単に悲劇に終わるものではなく、それこそが罪人に対する神の救済のご計画のクライマックスであったことを告げています。マタイの福音書の描写から、キリストの死の意味を考えてみましょう。

 

一、人々のあざけりの中で

 

通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイ二七・三九‐四三)

 

 十字架につけられたキリストのもとを多くの人々が行き交っていました。その多くは、十字架につけられたイエス様に向かい、あざけりの言葉を投げかけます。「神殿を壊して三日で建てる人よ」、「もしおまえが神の子なら」、「イスラエルの王」、「神のお気に入り」、「『わたしは神の子だ』と言っている」…これらの言葉は、彼らがユダヤ人の裁判や総督ピラトのもとでの裁判の様子を見聞きしていたことを示します。イエス様はそのように主張しているとして訴えられ、死刑に値するとの判決を受けておられました。そのような裁判の様子を見聞きした者たちは、十字架につけられたままになっているイエス様に向かって、もし主張してきたとおりの者であれば、「自分を救ってみろ」、「十字架から降りて来い」、「(神に)救い出してもらえ」とあざけります。しかし、イエス様は彼らのあざけりに対して一言もお応えになりません。沈黙のうちに十字架につけられたままでおられました。

 イエス様はその時、ご自分を救う力を持っておられなかったのでしょうか。神の御子でなかったので、十字架から降りて来ることができなかったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

 前夜、大祭司がイエス様に向かって「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と問われたとき、「あなたが言ったとおりです。」と答えられたイエス様(マタイ二六・六三、六四)。そのお答えがご自分の死刑判決を決定づけるであろうことをご存じのうえで、あえてそう答えられたイエス様は、まさにその通りのお方でした。そうであれば、この時、十字架から降りて来てご自分を救うことは簡単なことのはず。イエス様は神様のご計画実現のためには、この死を引き受けなければならないと分かっておられました(マタイ二六・五三、五四参照)。

 

二、わが神、わが神、どうして

 

 イエス様が十字架につけられて後、正午ごろから闇が全地を覆いました。午後三時ごろ、イエス様は大声で叫ばれました。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ二七・四六)

 

 「エリ、エリ、サバクタニ」はアラム語で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。一見、絶望の叫びに見えます。しかし、この一言の中に、キリストの十字架上での死の意味が隠されています。

 神の御子が神から見捨てられる…あり得ないことです。しかし、そのあり得ないことが起こったのが十字架上でのキリストの死でした。

 このことについて、使徒パウロは次のように書いています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(第二コリント五・二一)本来、神に見捨てられなければならないのは、神の前に罪を持って生きてきた私たちではなかったでしょうか。しかし、私たちが罪ありとして神に見捨てられることがないために、罪のない神の御子が罪ありとされました。その結果、神に見捨てられるはずのない神の御子が神に見捨てられた…それが十字架上で起こった出来事でした。

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」この叫びは、十字架上で神の御子が罪人の立場に身を置かれ、神の峻厳な裁きを受けてくださったことの結果でした。

 

三、裂けた神殿の幕

 

しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ二七・五〇、五一)

 

 やがてイエス様は十字架上で息を引き取られました。この時、地震が起き、墓が開いて、多くの人々のからだが生き返ったと言います。このような出来事を見て、ローマの百人隊長やイエス様を見張っていた人々は「この方は本当に神の子であった」と言いました(マタイ二七・五四)。

 そのような出来事の一つとして、もう一つ、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という出来事が記されています。このこともまた、イエス・キリストが十字架に死なれたことの意味を暗示しています。

 神殿は、奥の至聖所と手前の聖所の二つに区切られており、その間には垂れ幕が下がっていました。この幕を通って至聖所に入ることができるのは、年に一度、大祭司がいけにえの血を携えて入ることができるだけでした。このことは、罪人がそのままでは神の御前に出て行くことができないことを示しています。

しかし、キリストが十字架に死なれたとき、神殿の幕が真っ二つに裂かれました。このことは、罪人が神の御前に進み出ることができるための道が開かれたことを示しています。「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル一〇・一九、二〇)

神の御子が十字架に死なれるという悲劇的な出来事は、単に悲劇で終ることではありませんでした。私たち罪人が、神のもとに立ち返るための道を開くため、どうしても必要なことでした。私たちの罪を担い、神の御子が十字架に死んでくださったことにより、私たちの罪が贖われ、神の前に進み出る道が開かれました。

 神様が私たちのために成し遂げてくださったことが理解できるでしょうか。途方もない方法を通して、神は私たちのための救いの道を開いてくださいました。一度限りで、人間のための完全な贖いを成し遂げる神のみわざ…それが十字架上での神の御子の死でした。

「イエスは…この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル一〇・二〇)開かれた道を通って、私たちも神の前に進み出ようではありませんか。

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「神と共に生きる」第十話 実を結ぶ生涯

2023-04-04 19:51:28 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十話 実を結ぶ生涯

ヨハネ一五・一‐一六

 

 自分が生涯かけてどのような実を結ぶだろうかと、考えたことがあるでしょうか。イエス・キリストはその生涯の大切な時に、豊かな実を結ぶ生涯の秘訣について、弟子たちに教えられました。

 その時、キリストは死の時を目前にしていました。キリストの働きが反響を呼び、人々の注目を集める中、ユダヤの宗教指導者たちはねたみのゆえに、その死を求めていました。そのような中、イエス様ご自身、最後の時が近づいていることをご存じで、弟子たちとの食事会をします。いわゆる「最後の晩餐」と言われるものです。この食事会で、イエス様はキリストを信じる者たちがその生涯においてどのように豊かな実を結ぶことができるのかを語られました。

 

一、農夫、ぶどうの木、そして枝

 

 ここで、イエス様は、ご自分と父なる神様、そしてご自分を信じる者たちについて、イスラエルの人々にとってなじみ深い果物を用いて表現しておられます。

 

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。(略)わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。(ヨハネ一五・一、五)

 

 ここで、イエス様はご自分が「まことのぶどうの木」であり、父なる神様は「農夫」だと言われました。そして、イエス様が「ぶどうの木」であるとすれば、弟子たちはぶどうの「枝」だと言われました。

 父なる神様が農夫だとすれば、ぶどうの木においしい実がなることを期待するはずです。実は、旧約聖書を読むと、神の民として選ばれたイスラエルがぶどうの木にたとえられている箇所がいくつかあります(イザヤ五・一、二等)。神様はイスラエルの民が神の恵み、神の偉大さを証言し、神の栄光を現すことを期待しておられました。彼らを通してそのような実が豊かに結ばれることを期待されました。しかし、そのご期待はかなえられませんでした。それは彼らの背きと罪の故でした。

 その後、イスラエルの中にイエス・キリストが現れなさいました。このお方は「まことのぶどうの木」でした。このお方を通して、世界中に神の恵み、神の偉大さが証しされること…これが神様のご計画でした。

 しかし、弟子たちも驚いたことでしょうが、そのようなご計画の中で、弟子たちには大切な役割がありました。イエス様がぶどうの木であるとすれば、弟子たちはその枝だと言うのです。ぶどうの実は、枝に実ります。イエス様は枝である弟子たち、すなわちキリストを信じ、従う者たちを通して、神様のための豊かな実を結ぼうとしておられると言うのです。

 

二、どのように実を結ぶのか

 

 それでは、枝である信仰者はどのようにして実を結ぶのでしょうか。もう一度確認したいことは、イエス様がぶどうの木であり、信仰者はその枝だということです。

 

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ一五・四、五)

 

 「わたしにとどまりなさい」…ここに鍵がありました。ぶどうの枝が実を結ぶためにしなければならない唯一のことは、ぶどうの木にとどまっているということです。結実のための栄養も水分も、ぶどうの幹から流れてくるからです。幹から離れた枝は、どれ程がんばっても実を結ぶことはできません。逆に、ぶどうの幹にとどまってさえいれば、いつしか実を結ぶことができます。

イエス・キリストが十字架に死に、よみがえってくださったのも、そのためだったと言えるでしょう。最後の晩餐の直前、イエス様はこんなことも語っておられます。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」(ヨハネ一二・二四)キリストの十字架の死と復活は、信じる者たちに豊かないのちを注ぎ、そこに豊かな実を結ばせるためのみわざでした。

人がイエス・キリストを心に信じるとき、その人はキリストと一体のものとされます。ぶどうの木につながる枝とされます。その時から、キリストの豊かないのちが信じる者たちに注がれていきます。信じる者たちがぶどうの木であるイエス様にしっかりととどまりさえするならば、そこに豊かな実が結ばれていきます。

 具体的にはどうすればよいのでしょうか。

 

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ一五・七)

 

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ一五・九)

 

 キリストにとどまるとは、キリストのことばにとどまることです。キリストのことばを受け入れ、心と生活にしっかりと根付かせ、とどまらせることです。キリストのことばは聖書に記されています。神のことばである聖書を日々読み、味わい、心に蓄え、そのことばによって生きていくとき、私たちはキリストにとどまることができます。

 加えて言えば、キリストにとどまるとは、キリストの愛にとどまることです。いつもイエス様が私たちを愛しておられることを覚え、日々そのご愛の中で生きていくことです。

 

三、豊かな結実

 

 信仰者がキリストにとどまるとき、そこには豊かな実が結ばれます。その形は様々です。

 たとえば、祈りの答えが現わされることもその一つでしょう。イエス様にとどまる者に対しては、イエス様の名によって祈るとき父なる神様がお聞きくださると約束されました(ヨハネ一五・七、一六)。祈りの答えが豊かに現わされていくとき、人々はそこに神の偉大さと恵み深さを見ることができるでしょう。

 あるいは、イエス様の愛にとどまるとき、人々は自ら愛に生き、喜びにあふれて生きることができます。そうすると、そこにも神の栄光が現わされていきます。

 

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ一五・一一、一二)

 

 私たちがキリストを信じ、キリストにとどまるとき、すなわち、キリストが自分たちを愛しておられることを覚え、日々神のみ言葉によって生きるとき、私たちの生涯は豊かな実を結ぶものとなっていきます。

 

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(ヨハネ一五・八)

 

 あなたもキリストにとどまることにより、豊かに実を結ぶ生涯を送りませんか。

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「神と共に生きる」 第九話 生ける神の子キリスト

2023-03-30 16:24:20 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第九話 生ける神の子キリスト

マタイ一六・一三‐二三

 

 イエス様の教えは人々の反響を呼んでいました。また、病で苦しんでいる人々を癒やしたり、悪い霊に憑かれて苦しんでいる人から霊を追い出したりもしておられましたから、イエス様の噂は急速に広まりつつありました。

ある時、イエス様の働きにおいて重大な転換点を迎えることになります。このとき、イエス様はご自分が何者であり、これからどのような道を進もうとしているのか、弟子たちに明らかにされます。

 

一、人々は人の子をだれだと言っていますか

 

ピリポ・カイサリアという地に行かれたときのことでした。イエス様は弟子たちに一つの質問をされました。

 

さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。(マタイ一六・一三)

 

 「人々は人の子をだれだと言っていますか」という質問でした。「人の子」とは、イエス様がご自分をさしてしばしば用いられた表現ですので、人々がイエス様に対してどういう見方をしているかを問うものでした。

これに対して、弟子たちは口々に答えました。「バプテスマのヨハネだという人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」(マタイ一六・一四)これらは、実際に弟子たちが耳にしたイエス様に対する当時の人々の声だったことでしょう。大方の見方は、神から遣わされた特別な預言者として見ていたようです。

 

二、あなたがたはわたしをだれだと言いますか

 

 次に、イエス様はもう一つの質問をなさいました。

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ一六・一五)

 

 これは、イエス様にとっても、弟子たちにとっても、先程の質問よりはるかに重要な質問でした。人々の見方が種々様々であることは当然のことでした。しかし、寝食を共にしながらイエス様の弟子として歩んできた者たちが、イエス様をどういうお方と見ているのか、改めて問われたとき、弟子たちの間に緊張が走ったかもしれません。しばらくの緊張した空気を破って答えたのはペテロでした。

 

シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ一六・一六)

 

 これは正しい答えでした。イエス様も、「バルヨナ・シモン(ペテロのもともとの名)、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」と言われました。父なる神様があなたにこのことを明らかにしてくださいました、ということです。見事な正解でした。

 しかし、ペテロ自身が自分の出した答えをどこまで正しく理解していたかは、議論の余地があります。「神の子」と言いましたが、以前に見たような、ひとり子なる神、父なる神と同じ神としての本質を持つお方として、きちんと理解できていたかは分かりません(第五話参照)。しかし、普通の人間にはできない奇跡のみわざを見ましたから、神様との特別な関係を持つお方として見始めていたのは確かです(マタイ三・一七、一四・三三)。

 また、「キリスト」と言いました。これは、イエス様を約束されたメシアとして信じる信仰を言い表しています。しかし、当時、メシアについてのユダヤ人の見方も種々様々でしたから、ペテロが「キリスト(メシア)」についてどういうイメージを持っていたかは不明の部分があります。少なくとも、彼のメシア観には大きな欠けもあったようで、そのことは次の瞬間明らかにされていきます。

 しかし、彼が答えた回答自体は確かに正しいものでした。イエス様はまさに「生ける神の子キリスト」でした。

 

三、受難のメシアとして

 

そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。(マタイ一六・二一)

 

 この時、イエス様の宣教活動は大きな転換点を迎えていました。「あなたこそ生ける神の子キリスト」と、弟子たちの中から信仰を告白する言葉が語られたとき、それまでになく明確に、イエス様は今後のことを明らかにされました。やがてご自分がエルサレムに行き、ユダヤ人指導者たちから多くの苦しみを受けること、殺されること、三日目によみがえることを示し始められました。

 これは、弟子たちにとって衝撃を与えることでした。少なくとも、ペテロにとっては受け入れられることではありませんでした。彼は即座に言います。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」(マタイ一六・二二)彼の理解では、メシアがユダヤ人指導者から苦しみを受け、殺されることはありえないことでした。むしろユダヤ人指導者に受け入れられ、ローマの属州の状態にあったユダヤの民を独立、解放へと向かわせてくれると考えたのかもしれません。軍事的な力によって王国を立て上げてくれると考えたかもしれません。ですから、ペテロはイエス様が言われたことを「とんでもないこと」と考え、イエス様を「わきにお連れして、いさめ始め」ました。

 しかし、それを聞かれたイエス様はペテロの方を向き直って言われました。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ一六・二三)つい先ほど、イエス様への正しい信仰告白をしておほめの言葉を頂いたばかりのペテロが、今度はおしかりの言葉を受けました。なぜでしょうか。

イエス様がメシアとして歩もうとしておられる道は、ペテロがメシアにふさわしいと考えていたような道とは全く違っていました。そもそもイスラエルの民が国の滅亡を経験し、大国の支配下に置かれるに至ったのは、神様に対する彼らの背きの罪のためでした。ですから、そこからの解放も軍事力の行使によっては果たされず、人々の罪をきちんと扱わなければなりませんでした。ですから、イエス様はご自分が人々の罪を負い、苦難を受け、死に至る、「受難のメシア」としての道を歩もうとしておられました。

その歩みは神が定められた道であり、主イエス様はその道へと進むことを決意しておられました。ペテロがイエス様をその道から逸らそうとしたとき、イエス様はその背後にサタン(悪魔)の働きを見ました。イエス様がその道から外れることを一番願っていたのがサタンだったからでしょう。

これらのことは、この時のペテロには理解できませんでしたが、後に理解するようになります。後に彼は諸教会への手紙の中にこう書きました。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(Ⅰペテロ二・二四)イエス様は、罪の中に滅びに向かおうとする私たちを救うために「受難のメシア」としての道を歩んでくださいました(イザヤ五三章参照)。

メシアとして来られたイエス様がどうしてそのような道に進まなければならなかったのか…誰しも抱く疑問です。しかし、このことは決して他人事として考えることはできません。なぜなら、イエス様の受難は、誰もが内に抱える課題に解決を与えるためのものだからです。神様に背を向け、神への愛、人への愛に背く生き方へと傾きやすい私たち、否実際そのような道を歩んできた私たちに、回復の道、救いの道を備えるためのものだったからです。

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「神と共に生きる」第八話 天におられる父なる神

2023-03-25 13:36:31 | 神と共に生きる

第八話 天におられる父なる神

マタイ七・七‐一一

 

 イエス・キリストは群衆に福音を宣べ伝えるとともに、ご自分のもとに集まった弟子たちに多くのことを教えられました。マタイの福音書六‐八章に記されている教えは、その中でも山の上でなさったもので、山上の説教と呼ばれます。

 この時の教えの大きな特徴の一つは、神様を「天におられるあなたがたの父」として示されたことです。天地創造の神様は、私たちを心にかけ、愛しておられるお父様のような方だと言います。そして、このお方と共に生きていくことを学ぶようにと教えられました。その教えのいくつかを学んでみましょう。

 

一、父なる神のように愛する

 

 キリストの教えの中でも、聞く者、読む者に衝撃を与えるものに、次のような教えがあります。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ五・四四)当時、ユダヤ人たちの間で言い交わされていたことは、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」ということでした(マタイ五・四三)。身近な人々を愛することがよいことだということは、世界中どんな人でも納得します。しかし、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とは、聞いていた弟子たちも驚いたことでしょう。びっくり顔の弟子たちにイエス様が示されたのは、天におられる父なる神様のお姿でした。

 

天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ五・四五)

 

 太陽の光は悪人であろうと善人であろうと、分け隔てなく注がれます。また、恵みの雨は正しい者にも正しくないものにも、やはり分け隔てなく注がれます。そのように天の父なる神様はどんな人間であっても分け隔てのない愛を注いでおられる。そうだとすれば、私たちも自分によくしてくれる人だけでなく、敵対してくる人をも愛し、その祝福を祈る生き方をしなさい。そうであってこそ、天の父の子どもとして生きていくことができる…そう教えられました。

 

二、父なる神の前で生きる

 

 続いて、キリストはこのように教えられました。

 

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。(マタイ六・一)

 

 具体的には、当時、ユダヤ人たちの間で良い行いと考えられ、重んじられていた三つの行為を取り上げておられます。施し、祈り、断食です。これらは、いずれも良い行いではありますが、人前でしないようにと言われました。

 たとえば、当時施しをするのに、会堂や通りでラッパを吹いてから施しをする人、会堂や大通りの角に立って祈る人、断食をするときわざと暗い顔をしたり、顔をやつれさせたりする人がいたようです。しかし、そのようなことをしないようにと戒められました。むしろ、これらのことを人が見ていないところでこっそりとするなら、「隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」と言われました(マタイ六・四、六、一八)。

 私たちは人の目を意識し、人がどのように評価してくれるかを気にしながら生きているのではないでしょうか。しかし、本当に大切なことは、すべてをご存じの天の父なる神様の前で正しく生きることだと言われました。

 

三、父なる神に信頼して生きる

 

 「空の鳥を見なさい」、「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。」といった教えも有名です(マタイ六・二六、二八)。これは、明日のことを心配して生きることを戒めるもので、たとえば、空の鳥は「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。」と指摘されました(マタイ六・二六)。だから心配するな、ということでした。

 また、野の花は「働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の花さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」と言われました(マタイ六・二八‐三〇)。だから、心配しなくてもよいと言うのです。

 

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。(マタイ六・三二)

 

食べるもの、着るもの、生きていくのに必要なこれらのもののことについて、天の父なる神様にお任せし、心配しないで生きていく…そんな生き方をキリストは教えられました。

 

四、父なる神に祈る

 

 最後に、もう一つ、有名な教えをご紹介しましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。」というものです。あまりにもシンプルで、「本当にそんなことでよいのか」と思うほどです。しかし、この教えを根拠づけるのも、天の父なる神様への信仰です。

 

あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。(マタイ七・九‐一一)

 

 パンを求めてくる子に、少し形が似ているからと言って、石を与える親はいません。魚を求めてくるのに、形が近いからと言って蛇を与える親もいません。自分の子に対して、時には愛情を示せなくなってしまうような人間の親であってもそうであるとすれば、天の父なる神様がご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないはずがない、というわけです。

 私が島根県に住んでいたときのことでした。関西で牧師のための研修会が開催され、参加した帰り、友人の牧師たちに新幹線新神戸駅まで車で送ってもらったことがありました。彼らを見送った後、ポケットに財布がないのに気づきました。財布には帰りの新幹線の切符も入っていたので焦りました。

 携帯電話のない時代、十円玉さえないので公衆電話も使えません。困惑が広がる中、「こんな時こそ祈りだ」と気づきました。「天の父なる神様、ご覧の通りです。私が座っていた座席の隣の友人が落ちた財布の方に顔を向け、見つけるようにしてください。」祈ると心に安心が来ました。財布を見つけても戻ってくるのに時間がかかりますので、その場で待ちました。「そろそろ帰ってくる頃」と思っていると、先ほど見送った車が戻ってきました。中から友人がニッコリして財布を差し出してくれました。

 天の父なる神様を信じて生きるということは、小さな子どもが親に抱かれて生きるときの安心した心持ちで生きるのに似ています。不必要な心配によって気を病む必要はありません。人の評価ばかり意識して、不自由になる必要もありません。「単純すぎる」と言われるかもしれませんが、キリストは「向きを変えて子どものようにならなければ、決して天の御国に入れません」とも言われました(マタイ一八・三)。単純なようでも、子どものように信頼しきった信仰で天におられる父なる神様を見上げながら生きるとき、そこに新しい生き方が開かれていきます。

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「神と共に生きる」第七話 神の国への招き

2023-03-15 10:41:45 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第七話 神の国への招き

マルコ一・一四、一五

 

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。(マルコ一・一四)

 

 イエス・キリストが公に宣教活動を開始されたのは、年およそ三〇歳の時と言われます(ルカ三・二三)。その働きの中心にあったのは、福音を宣べ伝えることでした。「福音」とは、良い知らせのことです。キリストが伝えた良い知らせとは、どのようなものだったのでしょうか。

 

一、時が満ちた

 

時が満ち、神の国が近づいた。(マルコ一・一五)

 

 イエス様が福音において語られた第一のことは、「時が満ちた」ということでした。「時」とは、「約束の時」のことです。これまで見てきたように、神様は様々な形でメシア到来の約束を与えておられました。

 これまで見てきたように、神の民として選ばれたはずのイスラエルの民は、神に背き、罪を重ねたことにより国の滅亡を経験します。そのような中で、預言者たちが伝えたことは、彼らの罪ゆえにこのような悲劇がもたらされたのであること、そして、にもかかわらず神様は彼らのために回復の道を備えられるということでした。そして、その鍵となるのがメシアの到来であることを預言者たちは様々な形で伝えましたした。

 イエス・キリストは、このような旧約聖書の約束に基づき、ご自分が神から遣わされた以上、約束の時は満ちたのだと宣言されました。

 

二、神の国が近づいた

 

 イエス様が福音において語られた第二のことは、「神の国は近づいた」ということでした。

 当時のユダヤ人たちは、メシアの出現を待ち望んでいました。同時に、神の国の訪れを待ち望んでいました。メシアの出現によって神の国が成就すると考えましたから、二つのことは一つでした。イエス様は世を救うメシアとしておいでくださいましたから、確かに「時が満ち、神の国は近づいた」のでした。

 しかし、ユダヤ人たちの間で、メシアに対する理解は様々であり、神の国がメシアによってどのように実現していくのかについても、色々な考え方があったようです。そのような中で、イエス様はどのような意味で「神の国は近づいた」と言われたのでしょうか。

多くのユダヤ人は国の復興をもたらす政治的、軍事的な力を持ったメシアをイメージしていたようです。実際、イエス様をそのように理解しようとした人々もいました。しかし、イエス様はそのような人々から身を退け、ある場合にはそのような考え方を明確に否定されました(ヨハネ六・一五、一八・三六)。むしろ、神の国は人々の目に触れない小さなところから始まると言われました。しかし、いつしかそれは大きな国となり、イスラエルの民ばかりでなく世界中の人々が集い来たることになると言われました(マルコ四・三一、三二、ルカ一三・二九、一七・二〇、二一)。

たとえば、イエス様は神の国をからし種にたとえられました(マルコ四・三〇‐三二)。からし種は、ごま粒よりも小さいものです。しかし、からし種が植えられ、芽が出て、段々大きくなると、大きな木のようになり、鳥も宿るほどになります。そのように、神の国は目に見えない領域、すなわち信じる者たちの心と生活の中に始まり、徐々に大きくなって、やがて地を覆うようになることを教えられました。

イエス様が神の国をもたらすメシアとして来られたとすれば、それはどのようにしてもたらされるのでしょうか。この点は、後に詳しく学ぶことになりますが、何よりも私たちの罪を根本的に扱うことを通してでした。すなわち、私たちの罪のために十字架につけられて死ぬこと、三日目によみがえることを通してでした(ルカ二二・一五‐二〇、ヨハネ一四・二、三)。

 神の国の最終的な実現のためには、なお時が定められています。世の終わり、キリストが栄光のうちにおいでになるとき(これをキリストの再臨と言います)、神の国は最終的な形で実現していきます(ルカ二一・二七、三一)。イエス様は神の国をしばしば宴会の情景として描いておられますから(ルカ一四・一五‐二四)、そのときには、喜びと楽しみだけが満ちることでしょう。悲しみや苦しみは過ぎ去り、神の愛のもと、喜びが満ち溢れることでしょう(黙示録二一・二‐四)。

 なお、世の終わりの神の国実現に至るまでに、死の時を迎えた信仰者はどうなるのでしょうか。おそらくは、中間的な安息と慰めの場に迎えられるようです(ルカ一六・一九‐二六、二三・四三)。

 最終的な神の国実現まで、あるいは、死によって安息の場に迎えられるまで、時の経過が必要です。それまで、信仰者は「御国が来ますように」と祈りつつ、神の御心の中で、神様と共に生きていきます(ルカ一一・二)。

信じる者の生涯にも、悲しみがあり、苦しみもあります。しかし、それでも、神様は悲しみの中に喜びを、苦しみの中に忍耐と平安を与えてくださって、神と共に生きる幸いの中に私たちを導いてくださいます(ルカ六・二〇、二一)。

 水野源三という方は、「瞬きの詩人」と呼ばれています。小学生四年生のとき、赤痢から来る高熱によって脳性小児麻痺を患い、手や足の他、口も自由に動かせなくなりました。幸い、その後数年して、キリストの福音を耳にし、キリストを信じる者となりました。瞬きだけが意思表示の手段でしたが、その瞬きによって信仰を背景とした沢山の詩を残されました。

 「悲しみよ」という詩があります。「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったなら 私は今どうなっていたか 悲しみよ悲しみよ お前が私を この世にはない大きな喜びが かわらない平安がある 主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」(水野源三著『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター発行、六七頁)

 大きな苦しみ、悲しみの中を通されましたが、水野さんはキリストの福音を通して確かに神の国の幸いをお知りになりました。

 

三、悔い改めて福音を信じなさい

 

悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ一・一五)

 

 「時が満ち、神の国が近づいた」と言われたイエス・キリストは、結論として言われました、「悔い改めて福音を信じなさい」と。約束のメシア、イエス様が現れ、神の国が近づいた今、神の国に入るためにどうすればよいのか、イエス様は二つのことを言われました。

 第一は、悔い改めです。これは、心の転換を意味する言葉です。これまで神様に背を向け、自分勝手に生きてきたとすれば、心と生活の向きを変え、神様のほうに顔を向け直し、神様に向かって歩み始めることです。

 第二は、信仰です。すなわち福音を信じることです。「神の国が近づいた」と言われる、神様からのよい知らせ、イエス・キリストを通してもたらされたこのよい知らせを、そのままそっくり「信じます」と受け取ることです。

どんなに良い知らせがあっても、信じなければ、その人にとってその知らせは役に立ちません。「悔い改めて、福音を信じなさい。」神様の招き、イエス・キリストの招きに、信仰をもってお応えになりませんか。

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