長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

誕生プレゼント

2014-03-27 19:32:50 | 恵便り
今日は恵の誕生日。
誕生プレゼントには、発売開始間もないバイブル・プレイヤーズ。
早速お兄ちゃんとカードバトル。
もらう前はいやがっていましたが、開けてみれば、喜んでいる様子。
ちなみに手前に立ててあるのは、恵に同時にプレゼントした旧新約聖書(まだ未開封)と、
先日誕生日を迎えた私のために自分で用意した誕生プレゼント(ロイド・ジョーンズ)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何の花?

2014-03-27 19:27:04 | 事務所便り
事務所の屋上に咲くこの花、何の花かお分かりでしょうか。
菜の花?
実は、白菜の花です。貞美が植えた白菜が、どうもうまく収穫に至らず、
そのまま放置しているとこうなりました。
でも、白菜はアブラナ科であり、菜の花は、アブラナ科の花の総称だそうで、
「菜の花」と答えても、正解ということのようです。

http://allabout.co.jp/gm/gc/220592/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9章 その2

2014-03-17 19:54:27 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

使徒行伝における回心―入信式における残された二つのポイントは、いずれも水のバプテスマについてのものです。すなわち、(c)では信仰とバプテスマとの関係、(d)ではバプテスマと聖霊との関係を扱っています。

(c)信仰(悔い改め)とバプテスマとの関係

著者は続いて、「もし信仰の行為と聖霊の賜物とを分けることができないなら、回心―入信式の出来事の中でバプテスマの役割は何だろうか」と、バプテスマについての位置づけを検討します。まず(c)では、信仰―悔い改めとバプテスマとの関係を調べます。

著者は、使徒行伝において信仰とバプテスマが密接に関連していることを指摘します。エペソ人たちの場合、パウロの質問の続き方は、「信じる」と「バプテスマを受ける」とが信仰の行為についての互いに交換可能な表現方法であることを示していると言います。バプテスマは、委任の必要な表現であり、それなしでは真に「信じた」とは言えないものである。このことは儀式の中でキリストの名が使われていることによっても示されている。(「イエス・キリストの名によって(ενまたはεπι )バプテスマを受ける」という表現から)水のバプテスマは入信者が主のあわれみを呼び求める機会、また、入信者に名が冠せられるお方(キリスト)に自分自身を委任する手段と考えられる。適切に行われる水のバプテスマは、信仰のクライマックスの行為であり、悔い改めの表現であり、委任の媒体である。

しかし、これらのことを認めつつも、著者は、バプテスマが罪の赦しをもたらすという考えを次のように否定します。水のバプテスマを言うことなしに信仰を言うことはできないと認めるものの、両者のうち重要な要素は信仰であることを認めなければならない。バプテスマは信仰の表現であるが、信仰なしにはバプテスマは意味がなく、空虚なシンボルだ。水のバプテスマが罪の赦しを運び、与え、もたらすと言うことは偽りである。ルカは、水のバプテスマそのものが罪の赦しを受ける条件であるとか手段であるとかいうことを決して言っていない。ルカはそれを他の態度(悔い改め―ルカ3:3、使徒2:38)あるいは行為(み名を呼び求めること―使徒22:16)との関係でしか語っていない。水のバプテスマは赦しを受けるために前もって必要な唯一もののとして語られてはいない。ルカは沢山の箇所で悔い改めや信仰を前もって必要な唯一のものとして語っている(ルカ5:20、24:47、使徒3:19、5:31、10:43、13:38、26:18、参照4:4、9:35、42、11:21、13:48、14:1、16:31、17:12、34)。他の言葉でいえば、水のバプテスマは赦しを受けるために必要な唯一のものでもなければ、そのものが本質的に必要なものでもない。

このように書いたのち、著者は、使徒2:38と22:16を検討します。(一見、これらの節が、水のバプテスマが聖霊の賜物をもたらすかのように見えるからでしょう。)議論の詳細は省略しますが、使徒2:38では、ペテロの基本的かつ主要な要求は悔い改めであって、バプテスマが悔い改めの行為であり表現である場合に限りバプテスマを受けるものに罪の赦しが約束されうると言います。また、22:16では、罪が洗い流されることは。水によってでなく、主のみ名を呼び求めることによって人間にもたらされると言います。最後に、使徒行伝ではクリスチャンが「主を信じた者たち」とか「主のみ名を読んだ者たち」と呼ばれるが、決して「バプテスマを受けた者」と呼ばれないことを著者は指摘します。

(d)バプテスマと聖霊との関係

最後に、著者はバプテスマと聖霊の関係を検討します。著者は最初に結論を明らかにします。バプテスマは信仰を表現し、聖霊は信仰に対して与えられると言います。従って、礼典と点滴賜物とは決して同一視されてはならない。水のバプテスマが赦しをもたらさないように、それが聖霊をもたらすのではない。聖霊が水のバプテスマによって、あるいは水のバプテスマを通して与えられると言うことにはまったく根拠がない―特にルカにおいては。

このような著者の結論を立証するために、かなりの議論が展開されますが、要約すれば以下のようなポイントを挙げることができるでしょう。
・イエス様の受洗からの議論―イエス様の場合も、聖霊による油注ぎはバプテスマ後、イエスが祈っている間に起こった。
・ヨハネのバプテスマの本質的に予備的な性質はクリスチャンのバプテスマにも継承されており、その成就は聖霊のバプテスマである(使徒1:5、11:16)。
・水のバプテスマは基本的に悔い改めのバプテスマであり、聖霊を受ける条件とされている(使徒2:38)。
・バプテスマは信仰の必要な表現であるかもしれないが、神は聖霊を信仰に対して直接的に与える。それは120人やコルネリオの歴史的事例が明示している。(クリスチャンの水のバプテスマなしに聖霊が与えられているから。)
・水のバプテスマが聖霊を与える手段ではない。それは、使徒8章が明確に示している。(水のバプテスマがなされたにも関わらず、聖霊が与えられていないから。)

これまで純粋に個人的なレベルを扱ってきた著者は、この所で、回心―入信式の出来事における(神と入信者に次ぐ)第三者としてクリスチャン共同体に目を向けます。教会は、その代表者を通して、バプテスマに対して、また聖霊の賜物に対して、一定の役割を持つと言います。一方では、バプテスマはクリスチャン共同体への入会式ともみなされ、また、共同体が入信者を交わりに受け入れる手段であるともみなされる(2:41、10:48)。他方、共同体は聖霊の賜物、聖霊を受けることにおいて重要な役割を果たす。ルカは、聖霊が直接的に神から来ることを強調しているが(使徒2:4、33、10:44、11:17)、ある場合には、聖霊が既に聖霊にバプタイズされている人々の行為(それは彼らの信仰と受容を表現する)「を通して」来ることがある(8:17、19:6、ルカ8:45-48も参照)。ルカが聖霊なしのクリスチャンを認めることができないように(使徒8章、18:24-19:7のポイント)、ルカは地域に集まっているクリスチャン共同体の交流、交わりの中にない地域のクリスチャンを認めることができない。聖霊の賜物によって神は個人を教会に受け入れ、(パウロの用語で言えば)キリストの体に彼をバプタイズされたのである。水のバプテスマ(そして時には按手)によって、クリスチャン共同体は、個人を教会に受け入れる。水のバプテスマにおいて、また水のバプテスマによって、個人は自分自身をキリストとその民両方に委ねる。クリスチャンの水のバプテスマは、それゆえ、ルカが表現するように、クリスチャン共同体に入る手段であり、キリストに委ねる手段であり、その結果聖霊を受けるようになる。その瞬間においては、神、教会、個人のすべてが含まれている。結果として、次のように言うことができる。御霊は神から直接来るばかりではなく、教会を通しても来る。それは、教会の代表者の愛、歓迎、祈りによって(表現のされ方によらず)個人がより十分に自分自身を復活のキリストとその功績に委ねることができるようにし、より速やかに御霊を受けることができるようにするという意味においてである。

このように書きながら、著者は最後に、水のバプテスマと聖霊の賜物との関係について、まとめ直します。ルカによれば、水のバプテスマは回心―入信式において本質的な役割を果たすこと、また水のバプテスマが表現している信仰を通して霊のバプテスマと(通常は密接に)関連していることを認めつつも、霊のバプテスマと水のバプテスマが別個の実体であり、クリスチャンの回心―入信式の焦点、神経中枢は御霊の賜物であることを認めなければならないと。

使徒行伝における回心―入信式についての著者の見解について、要約的に言うならば、焦点を聖霊の賜物に置くと同時に、それを直接的には信仰(悔い改め)に結び付け、水のバプテスマとは間接的に結び付けるものと言えるかと思います。このような著者の理解に対して、次回以降、検討します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞美、姪を訪問

2014-03-15 09:36:42 | 貞美便り
先週金曜日~今週月曜日、貞美は東京の姪のところに行ってきました。
姪は、一人で生活しながら、服のデザインを仕事にして、がんばっているようです。
写真は、東京スカイツリー。
途中までで2000円、更に上に行けば合わせて3000円かかるそうで、
二人は2000円のところまで上ったそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9章 その1

2014-03-09 14:40:00 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第9章のタイトルを訳せば、「使徒行伝における回心―入信式」となります。使徒行伝を扱ってきた第二部のまとめに当たる章です。著者は冒頭、この問題が新約聖書神学における難問であることを認めつつ、ここまでの研究がこの問題に対する解答を示唆してきたこと、使徒行伝の取り扱いを完成させるために、より拡大した取り扱いをしなければならないと言います。

ここでの議論を、著者は使徒2:38から始めます。この箇所は、ペンテコステ派が許す議論よりもより広い取り扱いが必要な問題を提起するので、著者はあえてこれまでこの箇所を残してきたのだと言います。更に、ルカはクリスチャンの回心―入信式におけるパターンと基準を確立させるものとして使徒2:38を意図しているだろうと言います。すなわち、最初のクリスチャンの説教の終わりで、その指導的使徒(ペテロ)は求道者の指導のための手順を定めていると。

更には、この箇所は、回心―入信式において最も重要な三つの要素、悔い改め、水のバプテスマ、聖霊の賜物(悔い改めと信仰は同じコインの裏表であるので)を互いに直接的に関連付けている使徒行伝で唯一の箇所である。この三つの要素の内、そこに含まれている三者―入信者、教会、神―のうちの一つによってなされるのはそれぞれただ一つの要素である。基準となるクリスチャンの回心―入信式において、三者のそれぞれが決定的役割を果たし、もしそれぞれがその部分を果たさなければ、回心―入信式は不完全である。「悔い改めなさい」(能動命令)は求道者自らなさなければならないことである。「バプテスマを受けなさい」(受動命令)は、求道者に対して共同体によってなされなければならないことである。「受けるであろう」(未来能動直説法)は、求道者が神から受けるものについての制限なき約束(ただ二つの条件だけが挙げられた)である。悔い改め、バプテスマを受けた者は聖霊の賜物を受ける。ここでは遅延の可能性は何も予見されていないことは注目すべきだ。16:31の命令と約束のように、命令に対する従順の行為は約束された結果を受け取る。

著者はこのように記した後、四つのポイントで議論を展開します。(今回は、その前半、2つを紹介します。)

(a)三つの要素の中で最も重要なのは聖霊の賜物である。

2:38において、聖霊の賜物は回心―入信式の出来事全体のクライマックスである。提供されている二つのもの―罪の赦しと聖霊―のうち、ペテロが強調しているのは積極的賜物であり、それが群衆を最初に惹きつけたのであり、新しい時代と契約のエッセンスである(2:39)。御霊は救いの担い手である。というのは、2:38の約束は2:21の約束を含んでいるに違いないから。このことは2:39cが明らかにヨエル2:32の末尾(使徒2:17-21の引用が残した節)をほのめかしているという事実によって確かめられる。「その日、その時」の解放(ヨエル3:1)について、ペテロは2:21で終末論的救いとして解釈し、2:38、39で聖霊の賜物として解釈している。

このように指摘した後、著者は、これまでの議論を振り返り、同様の点をを確認しています。ヨルダン川でのイエスの経験からの議論でも、使徒行伝に記されている4つの事例を調べた結果においても、回心―入信式で最も重要な要素は聖霊の賜物であったことを再度振り返ります。詳細はこれまでの章と重複しますので、省略します。

(b)キリストへの信仰と聖霊の賜物との関係

ここで取り上げられている点は、私が最も関心を覚える部分で、問題全体の核心部分に当たるとも言えます。しかし、この部分の著者の論旨は、残念ながら私には必ずしも分かりやすくはありません。私の英語能力にもよるのでしょうが、それだけ問題が微妙でもあるのでしょう。問題の検討は、後の回に回すとして、ここではとりあえず著者の議論をできるだけそのまま追ってみたいと思います。

著者はまず、これまでの議論がペンテコステ派を納得させなかったかもしれないと言います。なぜなら、彼らのほとんどは、オルド・サルティス(救いの順序)についての古典的な改革派の見解を保持しているように思われるから、と言います。その見解によれば、御霊は回心に先立ち、彼の内に、あるいは彼と共に働き、彼が悔い改め、信じることができるようにし、その時点で彼はイエスを彼の心と生涯に受け入れる。これら二つの別個な恵みのみわざ(というのが何を意味するのか私にはよく分かりません。第一が回心に先立つ御霊の働き、第二がイエスを彼の心と生涯に受け入れる?)にペンテコステ派は聖霊のバプテスマの神学によって第三の恵みを加える。こうして、2:38や19:5、5の事例において、ペンテコステ派は自分の立場が健全であると信じている。なぜなら、バプテスマは既に起こった回心の告白であり、回心は御霊が既に彼の生涯に働いていることを示し、バプテスマにおいて受ける御霊、あるいはその後に受ける御霊は、回心とは区別され、回心に続く恵みのみわざである。

多くの保守的神学者たちは、古典的改革派の立場が次のようなものだとみなします。つまり、オルド・サルティスにおいて、新生は回心に先立ち、人が回心することができるようにする。こうして、たとえばスミートンはウェスレーを肯定的に引用する。「救いに至る信仰を持つために、すべての人は聖霊を受けなければならない。」(ウェスレーWorksⅧ)。(A.Kuyper、E.H.Palmer、J.H.Gerstnerも参照。)この最初に聖霊を受けることは賜物を与えるために後に聖霊が来ることとは区別されなければならない(Lambert、Warfield、Stonehouse、Lenski、Gerstner、J.K.Parratt,The Seal of the Spirit in the New Testament Teaching)。また、使徒10章についての礼典主義者の解釈は「恍惚的御霊」と「バプテスマ的御霊」を区別する(Haenchen、Schlier、Kuss)。Parrattは、三番目に受ける聖霊を区別するように見える(すなわち、信仰の行為の前、中、後)。Lenskyは使徒10章の解釈において同じ不一致に陥っている。バルトの最後の作品は、水のバプテスマが聖霊のバプテスマの神的主導権に対する人間の応答であるのか、聖霊のバプテスマが人間の申し立てとしての水のバプテスマに対する神的応答であるのかについて、いくらか同じような混乱を示している。

キリスト教神学者が回心の前、回心に導く、罪を自覚させる御霊の働きについて全く適切に語っているかもしれないことを、私は否定しない(たとえ、ヨハネ16:8-11、そしておそらくⅠコリント14:24、25が、支持するために引用できる唯一の箇所であるとしても)。しかし、このことについて語る新約聖書の著者たちにとって、個人が回心において、すなわち信じるときに受ける救いの恵みの賜物は聖霊であるということを、最も強調して主張する。人をクリスチャンにし、それなしにはクリスチャンではないという御霊の決定的賜物は、回心の前でも後でもなく、回心の中で来る。新約聖書は、前もっての受領を知らない。パウロに関する限り、ローマ8:9は、御霊を持つノンクリスチャンも、御霊を持たないクリスチャンも、その両方の可能性を排除する。御霊の受領と、その結果としての御霊の所有だけが人をクリスチャンとする。ヨハネにとっては、霊的誕生は既に存在している御霊によって生まれることではなく、上から来る御霊によって生まれることである(3:3-8)。なぜなら、πνυμαは命をもたらし、命である神の息(20:22)であるから(4:10、6:63、7:38、39)。信仰者が回心において受けるすべてのもの―すなわち、救い、赦し、義認、子とされることなど―を彼が受けるのは、彼が御霊を受けるからである。

回心の時にイエスを受けることと、後に御霊を受けることとを分けることによって新約聖書の強調点をのがれようとするペンテコステ派の企ては、事実上新約聖書の教えから離れている。というのは、新約聖書ではどこにも回心を「キリストを受け入れること」として語ってはいない(現代の伝道活動においてこのフレーズはたびたび用いられているけれども)。ヨハネ1:12が主に語っているのは、「ご自分の民」の多くが彼を拒絶したのに対して、「ご自分の民」のうちのわずかなものが彼に与えた歴史的歓迎についてである(1:11、12。5:43、6:21、13:20参照)。コロサイ2:6において用いられている言葉は、παραλαμβανωであって、正確には遺産や伝統を受け取ることを意味する。すなわち、パウロはコロサイの人々に、彼らがイエスは主であるという宣言をどのように受けたかを思い起こさせている(Arnd and Gingrich)―「イエスはあなたがたにキリスト主として伝えられたので」(NEB)―。黙示録3:20は、福音的例証として大変愛されているが、もちろん、クリスチャンたちに対して書かれたものである。パウロとヨハネは、人の内に住まわれるキリストについて、また、「キリストを持つ」クリスチャンについて語るが、より正確に言えば、キリストは御霊において、また御霊によって信仰者に住み、クリスチャンはキリストの御霊を持つ。というのは、上からの御霊は特にイエスの御霊であるから(使徒16:7、ローマ8:9、ガラテヤ4:6、ピリピ1:19)。回心において受けるのは御霊であり、高く挙げられたキリストの命である。

ヨハネが御霊について14:18-24でαλλοσ παρακλητοσと語っていることも参照。ローマ8:9、10でパウロは「神の御霊」、「キリストの御霊」、そして「キリスト」という表現を相互に入れ替え可能なものとして用いている。M.Bouttier"En Christ(1962)"が示しているのは、私/私たちの内のキリストや御霊の内の私/私たちよりもむしろ、キリストの内の私/私たちや私/私たちの内の御霊をパウロが好んでいるということである(モウルPhenomenon24-26)。彼は「信仰者の内のキリスト」と「信仰者の内の御霊」について相互入れ替え可能なものとして語ることができる。なぜならこれら二つの表現は正確に同じことを意味しているから。彼はただキリストと御霊を同一視しているのではない。経験的に同一視しているだけである。言い換えれば、総合的表現として次のようになる。「信仰者のうちのキリストの命は御霊によって有効となる。」

要するにクリスチャンになるとはキリストの御霊、すなわち聖霊を受けることである。ペンテコステ派が二つの神のみわざに分けようとしているものは実際には単一の神のみわざである。ルカにとって信仰と御霊の関係は、ただこのように表現される。回心において、人は信じ、自分自身をキリストに委ね、キリストから御霊を受ける。回心における人のわざは悔い改め、立ち返り、信じることである。神のみわざは、信じる者に御霊を与えることである(使徒2:38、11:17、15:9、19:2。参照ヨハネ7:39、ガラテヤ3:2)。両者共に回心における本質的要素であるが、最後の分析においては、ただ重要なのは神の賜物であった。神が御霊を与えられないのであれば、信仰は義としない。信仰は受けるために伸ばされた空の手に過ぎない。究極的に重要なのは受けるものである。したがって、「御霊についてのペンテコステ派の教理が真実さは、使徒行伝における霊についてのもつれた章節の解釈によって立ちもし、倒れもする」というブルンナーの言葉が正しいなら、我々の結論はこうでしかありえない。その教理は倒れるということだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2度目のピンチヒッター

2014-03-02 18:18:31 | 栄一便り
今年2回目のピンチヒッター。
一昨日、牧師ご夫妻がインフルエンザとのことで、礼拝メッセージの依頼を頂きました。
数年前、インフルエンザになり、土曜日にビデオ撮影して、
説教をビデオ再生で勘弁していただいた時のことを思い返しつつ、
奉仕させて頂きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

六甲山で雪遊び

2014-03-02 18:11:00 | 長田家便り
1週間前の土曜日、家族+一名で六甲山上に行ってきました。

氷の祭典というのを見に行きましたが、少し前振った雪がまだ解けないであちこちに残っていました。
子ども達にとっては、氷の像もさることながら、会場外での雪遊びが楽しかったようです。
行き帰り、道路わきに積もる雪の間をゆっくり運転で行って帰ってきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする