【紹介編】
[第5章「サマリヤの謎」additional notesの続きです。]
2.使徒行伝において御霊が来ることを表現するためにルカによって用いられるフレーズ
(a)βαπτιζεσθαι εν πνευματι αγιω(聖霊によってバプテスマを受ける、1:5、11:16)
(b)(επ)ερχοεσθαι το πνευμα αγιον(聖霊が臨む、来る、1:8、19:6)
(c)πλησθηναι πνευματοσ αγιου(聖霊に満たされる、2:4、4:8、31、9:17、13:9、52(επληρουντο))
(d)εκχεεν απο του πνευματοσ(霊を注ぐ、2:17、18、33、10:45(εκκεχυται))
(e)λαμβανειν πνευμα αγιον(聖霊を受ける、2:38、8:15、17、19、10:47、19:2)
(f)διδοναι πνεθμα αγιον(聖霊を与える、5:32、8:18(διδοσθαι)、11:17、15:8)
(g)επιπιπτειν το πνευμα το αγιον(聖霊がくだる、8:16、10:44、11:15)
私は10:38-χριειν πνευματι αγιω-を含めない。なぜならそれはイエスへの御霊の注ぎであって、ペンテコステ後の御霊の受領ではないからである。
使徒行伝では、7つの異なる動詞フレーズが27回使われている。おそらくほとんどのペンテコステ派の人々は御霊のバプテスマについての言及が23回であると言うであろう。なぜなら、三番目のフレーズは一度より多く同じ人に対して使われるからである(例:Riggs63頁、Prince68、69頁)。Ervinは、主要な例外である。彼は御霊のバプテスマの鍵となる表現としてπιμπλημι(満たす)に注意を集中し、御霊に満たされることは一度限りの経験であると議論する。4:31を彼はペンテコステの日に回心した3000人についてのみ関連付ける。彼らはその時まで御霊を受けなかったのだと言うのである!4:8、13:9を彼はペテロとパウロの以前の御霊のバプテスマについて戻って関連付ける(πλησθεισ―満たされていた)。13:52を彼は弟子たちが喜びと聖霊で次々に満たされたことを表わすものとして受け取る(59-67頁、71-73頁)。彼の13:52についての解釈は全く可能ではあるが(参照:8:18)、4:31についての彼の取り扱いはむしろいくらか不自然でひねくれた解釈を含んでいて、受け入れられない。4:31の「皆」は明らかにクリスチャン共同体全体を含み、特にペテロとヨハネを含んでいる。彼らは皆、実際4:24-30の祈りに参加していたのである。πλησθεισ πνευματοσ αγιου ειπενという表現について言えば、アオリスト分詞がειπενと共に用いられる場合、それはいつも話す行為の直前に起こったか、話す行為に先立つ行為または出来事を表現する(例:使徒1:15、3:4、5:19、6:2、9:17、40、10:34、16:18、18:6、21:11)。従って、4:8でその表現は、イエスが特別な場合のために約束しておられ、必要時を越えて継続する必要のない突然の御霊の霊感と力づけを表現している(ルカ12:11、12、εν αυτη τη ωρα)。ルカが過去の「満たし」によってもたらされる継続的な「充満」の状態を示したい場合、彼が用いる言葉はπληρησである(ルカ4:1、使徒6:3、5、8、7:55、11:24)
もっと通常のペンテコステ派の見解に戻ると、いくつかのコメントが求められる。第一に、これらの違ったフレーズのいくらかは同じ出来事を示すためにしばしば用いられる。7つのすべての表現がペンテコステの出来事のために用いられる(1:5、1:8、2:4、2:17、10:47、11:17、11:15)。サマリヤの出来事のために3つ、カイザリヤの出来事のために5つ、エペソの出来事のために2つである。このことはそれらのフレーズがすべて同じ御霊の到来を表現する等価な方法であることを意味する。その到来は、とても劇的で圧倒的な経験であるので、その豊かさと十全さを適切に表現する言語を見つけるためにルカのボカブラリーをほとんど使い尽くす。
第二に、これらの7つのフレーズは、御霊の到来を表現するためにルカが用いる唯一のものである。ルカはこれらのフレーズで表現される以外の御霊の到来を知らない。すべての鍵となる出来事において、ルカはより早い御霊の到来について何も言っていない。彼にとっては様々な方法で表現するただ一つの御霊の到来があるだけである。言い換えれば、ペンテコステ派が御霊の第二の区別される働きとして主張する23の表現のすべてにおいて、ルカにとっては御霊の最初の到来であるものをルカは表現していることになる。
第三に、六つの鍵となるフレーズのすべて又はほとんどを含んでいる二つの出来事(ペンテコステとカイザリヤ)は、その中で御霊の到来が回心とクリスチャン生涯の入口に最も明瞭に結び付けられているものである。たとえば、11:17のπιστευσασιν επιと
並行箇所15:8、9のδουσ το πνευμα το αγιον=τη πιστει καθαριασ τασ καρδιασ αυτωνについて考える(これらの出来事の十分な取り扱いを見よ。)用いられているフレーズの多様さとペンテコステとの並行の強調は、使徒10章の御霊の到来を単にカリスマ的現われととして解釈する便法を排除する。ペンテコステの御霊の到来がもとの弟子達のためのものであるのと全く同様、カイザリヤの御霊の到来はコルネリオと彼の友人たちのためのものである。(カトリックの見解に対する論議省略)
第四に、望みを一つか二つの鍵となるフレーズに置こうとして、6つの表現すべてを御霊のバプテスマの表現とする主張をあきらめることは、ペンテコステ派を助けないであろう。βαπτιζεσθαιは同じ二つの出来事(ペンテコステとカイザリヤ)で使われるのみであるが、比喩においても出来事においても明らかに入信的である(第一コリント12:13参照)。λαμβανεινは2:38で使われるが、そこでは御霊の賜物は16:31における救いの約束と同等である(ローマ8:15、ガラテヤ3:2、3、14参照)。επι動詞―(επ)ερχεσθαι、εκχεειν επι、επιπιπτειν―は、御霊の到来の劇的に力を与える影響力を最も示唆する(特に1:8に関して)ものである。しかしそれらは決して御霊の第二の区別された働きを意味するのではなく、単に最初の到来の劇的な性質を意味するものである(テトス3:3-5参照。御霊に関するパウロの(?)επι動詞の唯一の使用)
私は次のように結論する。すなわち、問題となっている23の用例において、これらの7つの異なったフレーズは御霊の異なった働きや経験を表わすのではなく(Unger,Bib.Sac101頁[1944年]233-6頁、484、485頁に反して)、同じ働きや経験―御霊の最初の入信的な、すなわちバプタイズする働き―の異なる側面を表わす。
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