長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

イスラエル旅行

2015-02-21 17:26:17 | 貞美便り

貞美が無事イスラエル旅行から帰ってきました。

1200枚以上の写真を撮ってきましたが、1枚だけ選ぶとすればやはりこの風景?

3年前私が行った時にも見て来たところも多いですが、それ以外のところにも回ってこれたようです。

1番うらやましいのは、ヨルダン川に行って洗礼の様子も見てこれたこと。

ガリラヤ湖の美しさは相変わらず。

イスラム国の事件の影響か、観光客は少な目で、ゆっくり見てこれたそうです。

皆様のお祈りに感謝いたします。

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16章 その3

2015-02-21 09:09:03 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

まず、ダン自身が取り上げている第一ヨハネ2:20、27、3:9、5:6-12に対するのダンの見解について検討します。ダンはこれらの箇所について、かなり詳細な議論を展開していますが、私としては簡単に以下のようにまとめてみたいと思います。

第一に、2:20、27におけるχρισμα(油)は、ダンが主張するように御霊をさしていると思います。(2:27において「彼の油が・・・教える」といった人格的表現が用いられていることから。)

第二に、3:9におけるσπερμα(種)は、ダンがかなり難解な議論を展開しながら、「我々は、χρισμαとσπερμαは御霊について語っていること、しかし、御霊は福音の宣言と教えを用いること、従って一方に応答することは他方を受け入れることであることを、いくらかの確信を持って言うことができる」と結論づけています(198頁)。特に、σπερμαについては、御言葉、福音との密接な関わりを指摘しつつも、σπερμα=御霊という見解を示しています。しかし、「神の種がその人のうちにとどまっているからです」(3:9)という表現と、「神のみことばが、あながたのうちにとどまり」(2:14)、「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。」(2:24)といった表現とを比較すると共に、他の聖書個所での例を踏まえて考えれば(マルコ4:14、第一ペテロ1:23)、とりあえずは、σπερμα=御言葉と考えるのが自然なことでしょう。但し、「初めから聞いたことがとどまっている」(第一ヨハネ2:24)ということは、「あなたがたも御子および御父のうちにとどまる」ということに結び付けられており(2:24)、更にしばらく後には、先ほど御霊をさしていると考えた油について、「キリストの注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています」と記されます(2:27)。確かに御言葉がとどまることは御霊がとどまることと密接に関連していると考えるのが妥当でしょう。

第三に、5:6-12について、ダンが詳述しているところは概ね私も同意したいと思います。正確に解釈していくには困難を感じさせる箇所ではありますが、6節と8節における「水と血」がいずれもキリストの生涯における水の洗礼と十字架の死をさすということ、「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です」とあるのは、「水と血」による「歴史的証し」に「御霊の証し」が加えられたものとするダンの解釈は妥当なものと思います。

以上のことを踏まえた上で、特に御霊の働きがヨハネの手紙の中でどのように位置づけられているかを検討してみます。ヨハネの手紙全体のテーマは、「いのち」です。それは、何かの物質のように所有することのできる「物」ではなく、むしろ、御父及び御子との人格的な関係を表わす表現であることが明確にされています(1:1-3、2:24、25、5:11-13、20)。従って、この手紙のキーワードとして、更に、「交わり」(1:3、6、7)、「とどまる」(2:6、14、24、27、28、3:6、10)、「内にいる」(2:5、3:24、4:4、4:13、16、5:20)などを挙げることができます。

このような文脈の中で、御霊は主として教え、あかしすることを通して、御父また御子と信仰者との関係を支える役割を果たすお方であることが示されています。真理をあかしし(2:20、27)、御子との関わりを教え励まし(2:27)、御父と信仰者との関係をあかしし(3:24、4:13)、御子を告白し(4:2、3)、御子をあかしします(5:6-9)。ヨハネの手紙のテーマである「いのち」が御父及び御子との人格的な関係であるとすれば、その関係を「あかし」することを通して支えるお方が御霊であるということが言えます。

なお、ここで注目してよいことは、これらの言及の中で、信仰者は御霊を受けたということが前提とされていることです(2:27、3:24、4:13)。それは、信仰者における前提として、「神から生まれた」(3:9)、「神によって生まれた」(5:1、4、18)、「神が私たちに永遠のいのちを与えられた」(5:11)と言われているのと同様に見えます。少なくともヨハネの手紙が書かれた状況下においては、信仰者が「神によって生まれた」時と「神が御霊をわたしたちに賜わった」時との間にずれがあったとは考えにくいと言えるでしょう。信仰者であるならば皆御霊を受けた者であり、その前提に立って、上記のような御霊の働きが明らかにされています。

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ケヴィン・J・ヴァンフーザー『聖書の物語とリクール哲学』(新教出版社)

2015-02-14 11:28:28 | 

「物語の神学」について調べる中で、日本語に訳されている関連書籍としてこの書に目が留まりました。

著者は、現在、トリニティー神学校の組織神学の教授のようです(http://divinity.tiu.edu/academics/faculty/kevin-vanhoozer/)。
ですから、福音主義に立つ神学者であると予想されますが、実際に読み進めてみると、しばらくは「本当に福音主義?」と疑わしく思えるほど「哲学者としてのリクール」に迫っています。大学院レベルのリクール哲学の入門書としても用いられるほどの内容を持っており、実際、この本の翻訳は、立教大学大学院でテキストとして学ばれる中から作業が始められたとのことです。

第一部は、哲学者としてのリクールについて検討しており、その前半では、ハイデッガーやカントとの比較対照の中で、リクール哲学の内容を吟味しています。後半、リクール哲学におけるメタファー、詩、物語の位置づけが取り上げられます。

第二部は、リクール哲学を現代神学の文脈の中で検討しようとします。まずは、ブルトマンとの比較対象の中で、リクール哲学の神学的位置を明確にしようとします。次に、エール学派からのリクール批判を取り上げます。この部分を読むと、ようやく著者が福音主義的な立場に立っていることが把握されてきます。更に、福音書における時間の問題、福音書とケリュグマとの関わりを検証します。特にケリュグマとの関わりでは、ルカ―使徒言行録において中心的な役割を果たす聖霊論がリクールの哲学の中に適切に取り込まれていないことを指摘しているのが興味深く思われました。

リクールの哲学自体がかなり難解なもののようで、その哲学に対する解釈も左派から右派まであるようです。実際には左派的解釈が優勢なようで、著者は右派的解釈をとりたいという願いを持ちつつも、その解釈を正しいと立証することはできないだろうと認めています(377頁)。従って、本来、福音主義神学からはかなり遠い所にあるはずのリクール哲学ですが、哲学においてだけでなく、キリスト教神学においてもかなりの意義を持つものとして、その内容を紹介することがこの本のねらいであるようです。

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16章 その2

2015-02-08 15:16:46 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


第一ヨハネ5:6-12

ヨハネはここでクリスチャンの礼典について考えているのだろうか。注解者の多くは、8節に関する限り、強い肯定を持って答えることであろう。6節は、一般的に賛同されることであるが、イエスの生涯における一回限りの歴史的出来事について語っている―ελθων(来られた)がこのことを要求する―すなわち、彼のバプテスマと彼の死であり、前者は彼の働きの開始であり、後者はそのクライマックスである。ほとんどの者が同意するように、6節bより、ヨハネはイエス・キリストのバプテスマに同意し、彼の受難を拒絶する人々を攻撃していると考えることはおそらく正しい。このゆえに、ヨハネは神の子イエス・キリストが水だけによってではなく、水と血とによって来たのだと強く主張したのだ。これは確かにこれらの言葉に対して、6節bにクリスチャンの礼典(バプテスマと聖餐式)を見る解釈よりも良い理解を与える。

(上記解釈例の紹介と、それへの批判部分省略)

しかし、7節で焦点は過去の歴史から現在の経験、すなわちクリスチャンの礼典に移行したのだと多くの者は信じている。主要な議論によれば、6節では、水と血は歴史的要素であり、御霊はその現実性について証ししているのであるが、7節ではそうではない。水と血は御霊と共に教会の現在の経験において共同の証しをなす。御霊の証しの対象として過去の出来事であることから、それらはそれら自体が御霊と共に現在の証しをなす。確証はイグナチウスの並行記事に見出される。特にスミルナ人への手紙7:1「彼らは聖餐式が我らの罪を担われた救い主イエス・キリストの肉体であることを認めることを拒むので、彼らは聖餐式から遠く離れている・・・」主の晩餐はキリストの死の現実についての明白なメッセージであるので、後者を拒む者は自らを前者にあずからせることができない(少なくとも正当的な仲間と一緒には)。こうしてイグナチウスにとってもヨハネにとっても「聖餐式はイエスの受肉についての態度の試金石とみなされる」。再び私自身は納得していないことを覚える。

(以下、上記「主要な議論」に対する反論が記されます。要約のみ。)

(1)新約聖書では、αιμα自体が主の晩餐を示すものとして用いられることはない。イグナチウスについても同様である。更に、第一ヨハネでの唯一のαιμαの使用(1:7、5:6)は、疑いもなくキリストの死に言及しており、5:6においては過去の出来事とみなされているが、1:7においてはそのきよめる力がクリスチャン共同体の現在も続く経験の一部となっている。

(2)より重要なのは水と血の言及が実際に変わったのかどうかという問題である。第一に、6節において水と血とは御霊の証しの対象であると言うことは全く正しくない。御霊は、単にキリストの地上での生涯の二つの出来事について証ししているのではなく、神の御子イエス・キリスト、すなわち、水と血によって来られた方を証ししている。(ドケティズムとの関連で以下論証)第二に、時制の変更(6節ελθων、7節εστιν οι μαρτυρουντεσ)は歴史的出来事への言及を排除するとは言えない。礼典主義者は、6-8節の先行する文脈を考慮しないと共に、続く節も考慮することに失敗している。

(9節以降の文脈、特に、神の証しにおける過去の要素と現在の要素の両立についての指摘、省略)

(上記議論の展開として、χρισμαとσπερμαとの結びつき、ヨハネにおいて客観的にキリスト教メッセージが与えられることとキリストの御霊の内住の主観的経験との間にバランスがあることの結びつきの指摘、省略)

(以下、逐語訳)

要するに、水と血が5:8において礼典に言及していないのは5:6においてそうであるのと同様である。むしろ、それらはイエスの受肉した働きにおける鍵となる出来事を明示している。それ自体ではそれらは受肉した働きの現実性について証しすることにおいて御霊と共同しているのであるが、その証しは、全体的に受け取るとしても(メッセージと協働して働く御霊)、各部分において受け取るとしても(御霊とメッセージ)、一回限りの証しではなく継続する証しであり、イエスは神の子キリストであると信じるすべてのもののうちにとどまる証しである。

簡単に要約する。ペンテコステ派が使徒たちの御霊のバプテスマは新生後の経験であるといおうことをヨハネによって議論することは正しいとしても、第一ヨハネは御霊の油注ぎが何人かのクリスチャンが持たないかもしれない経験であるといういかなる示唆も断然拒絶している。そして、たとえヨハネ3:5は新生において水のバプテスマが重要な役割を果たしていることを示唆していると理解するのが正しいとしても、(よりありえるのは、水のバプテスマは御霊が命を与えるためにくだり、命に入ることの機会また文脈であるが、)第一ヨハネは礼典主義者にそれ以上の見込みを決して与えない。なぜならそれはクリスチャンの儀式について言及さえしていないからである。むしろヨハネ文書の研究から一般的に確かめられるのは、ヨハネにとってはルカやパウロにとってと同様、御霊と御言葉は神の救済の目的の協働の要素であり決定的手段であるということである。

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登校姿

2015-02-08 15:06:26 | 瞳便り

先日、瞳の入学予定の中学校の説明会があり、家内がいってきました。

制服などの注文などを済ませ、その時が近づいていることを実感。

写真のような小学校登校姿も後しばらく。

かつては大きく見えたランドセルも随分小さくなりましたが、

間もなく大きな手提げかばんに変わろうとしています。

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