長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

山と海

2023-04-27 18:15:19 | 長田家便り

月曜日、貞美と一緒に久し振りに鵯越森林公園へ。

山歩きを楽しみました。

最後はひよどりキャニオンへ。

この後、海辺に出て、ワカメやひじきを収穫。

大量のワカメが収穫できました。

しばらく雨模様が続きましたが、今日はよく晴れたので、

庭で干すと、ほぼ一日で乾燥終了。

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「神と共に生きる」第十二話 復活の日の朝

2023-04-26 14:28:08 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十二話 復活の日の朝

マタイ二七・六二‐二八・一〇

 

 キリストが十字架に死なれたとき、弟子たちは悲しみと恐れに包まれました。主イエス様に従ってきた女性たちも、悲しみに沈みました。しかし、キリストの死から三日目、日曜日の朝、変化が起こりました。その朝、何が起こったのでしょうか。そして、その出来事は現代に生きる私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか。

 

一、破られた封印

 

そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。(マタイ二七・六六‐二八・二)

 

イエス様は十字架に死なれ、墓に葬られました。その墓は岩を掘って造った墓で、入り口には大きな石が転がされました。しかし、祭司長やパリサイ人たちは一つの心配をします。イエス様がかつてご自分の復活について語っておられたのを聞き知っていたのでしょう。弟子たちが遺体を盗み出して、「よみがえった」と言いふらすのではないかと考えました。そこで、彼らはピラトのもとに行き、墓に番を付けるようにと願い出ます。ピラトは、この要求に応え、番兵を手配するとともに、墓を封じる石に封印をさせました。

三日目の朝、女性たちがイエス様の墓に向かっていました。彼女たちの懸念は入り口の大石を誰に転がしてもらえばよいかということでした(マルコ一六・一‐三)。ところが、大地震が起こりました。主の使い(天使)が降りて来て、石をわきに転がしたからでした。もちろん、封印もすべて破られ、解かれてしまいました。そして、天使は彼女たちに主イエスの復活を告げ知らせるのです。

 

 キリストが死の中から復活されたことは、私たちにとって大きな意味を持ちます。アダムとエバが神のご命令に背いたとき、「必ず死ぬ」と言われていた通り、死はどんな人をも打ち負かしてきました。しかし、イエス・キリストは死に勝利され、永遠に生きるお方としてよみがえられました。全人類を縛り付けていた死の封印が解かれた瞬間でした。

 私たちは、イエス・キリストを信じるとき、罪を赦していただき、神との交わりを回復して頂くことができます。やがては私たちも死の時を迎えるでしょう。しかし、魂は主イエス様のもとに迎えられます。さらには世の終わり、イエス様と同じような復活栄光の体が与えられ、よみがえらされます(Ⅰコリント一五・二〇‐二三)。イエス・キリストの十字架の死と復活により、死の封印は砕かれ、解かれたのです。

 

二、空になった墓

 

 キリストの復活を告げる天使のことばは、以下のようなものでした。

 

あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。(マタイ二八・五、六)

 

 天使が天から下り、墓を塞いでいた石をころがしたのは、復活したイエス様を外に出すためではありませんでした。他の福音書を見ると分かることですが、復活のイエス様は、固く閉ざした家の中にもスッと入って来ることがおできになりました(ヨハネ二〇・一九)。イエス様は復活されてすぐ、閉ざされた墓の中からも出て行くことができました。ですから、女性たちに天使が告げたのも、「(イエスは)ここにはおられません」ということでした。

 「前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」と告げると同時に、天使は彼らに、言いました。「さあ、納められていた場所を見なさい。」そこには、空になった墓があるだけでした。

 エルサレムには、イエス・キリストが葬られた場所としていくつかの箇所が指摘されています。そのうちの一つで「園の墓」と呼ばれる場所は、よく手入れがされ、「こんなところでイエス様がよみがえられたのかな」と思わせる雰囲気が漂っています。その園には、キリストの墓とされる場所があり、入口のところに「彼はここにはおられない。よみがえられた」と記されています。もし仮に、そこに記されている言葉が「ここにキリストの遺骨が納められている」ということであったらどうでしょうか。使徒パウロも言うように、「私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しい」ということになるでしょう(Ⅰコリント一五・一四)。「空になった墓」こそは、主キリストへの信仰の土台です。

 

三、お会いできる

 

 続いて天使が女性たちに告げたのは、次のようなことでした。

 

そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。(マタイ二八・七)

 

 墓を訪れたときには悲しみに沈み込んでいた彼女たちでした。しかし、天使によって主イエスの復活が告げられました。確かに墓は空でした。そして、弟子たちに伝えるようにと告げられた言葉は、「そこ(ガリラヤ)でお会いできます」。「主は生きておられる!」彼女たちの心を覆っていた悲しみはいつの間にか喜びに置き換わっていました。

急いで墓を立ち去り、走り出した女性たちは、そこで復活の主イエス様ご自身に出会います。彼女たちはイエス様の御前にひれ伏し、礼拝します。この時、イエス様が彼らに語られたのも、「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」ということでした(マタイ二八・一〇)。

 実際、弟子たちはこの後、ガリラヤにおいてイエス様と相まみえます。(エルサレムでも何度かお会いしますが、マタイの福音書では省略されています。)この後、イエス様は天に上っていかれます。しかし、その前に弟子たちに宣教の命令を与えるとともに、一つの約束を残されました。

 

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ二八・二〇)

 

 この後、主キリストは天に上っていかれます。これ以降、弟子たちは肉眼では主を見ることができなくなりました。しかし、彼らの心には「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われた主のことばが響き渡っていました。その後の宣教活動には幾多の困難もありましたが、共にいます主イエス様を仰ぎつつ、命がけの宣教活動を進めることができました。

 罪深い私たちが、その罪を赦して頂いて神と共に生きることができることは大きな幸いです。復活の主、御子イエス・キリストが、信じ従う私たちと共にいてくださる…それは、「神が私たちとともにおられる」という約束の成就と言えるでしょう(マタイ一・二三)。このお方は永遠に生きておられるので、いつも、どんな所からでも見上げ、「お会いできる」方です。

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貞美の姫路奉仕、そして任職式

2023-04-23 15:47:26 | 教会便り

今日は月に一度の貞美の姫路城北教会奉仕。

礼拝説教は初めてでしたので、緊張して準備していましたが、

何とか無事終わったようです。

車の運転も守られました。

礼拝後は、任職式。

姫路城北教会は平日の集会を行っていないため、

教会員が参加しやすいよう、異例のことではありましたが、

ZOOMを用いての式。

司式の中島啓一先生と私がオンラインでの参加となりました。

兼任の働きに主の助けと守りがありますよう、

皆様お祈りください。

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子ども大会

2023-04-23 15:34:49 | 教会便り

昨日、子ども大会開催。

沢山の子どもさんと、親御さんも数名ご一緒に参加くださいました。

第一部は賛美とメッセージ。

春は出会いと別れの季節ですが、

「さよなら」を言わない神様についてお話ししました。

第二部、

イースターエッグの形をしたマラカス(シェーカー)を使って、

皆で音楽を楽しみました。

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「神と共に生きる」第十一話 十字架上での死

2023-04-20 19:38:13 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十一話 十字架上での死

マタイ二七・三九‐五四

 

 真理の言葉を語り続け、多くの人々の病を癒やして来られたイエス・キリストは、人々から大きな注目を受けました。しかし、ユダヤ人指導者たちはその状況をねたみ、まずはユダヤ人の最高法院を招集し、神殿への冒瀆、また神への冒涜を罪状として、死に値すると結論づけます。

しかし、当時ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、自分たちで人を死刑にする権限を持っていませんでしたから、彼らはイエス様をローマ総督ピラトに訴えます。罪状はユダヤ人の王を自称しているというものでした。ピラトはイエス様が死刑に値するようなことをしていないと判断。しかし、ユダヤ人指導者は群衆の扇動にも成功し、死刑判決をくださない限りは暴動にもなりそうな状況を引き起こします。それを見たピラトは、遂に十字架刑を言い渡します。

十字架刑は、ローマ帝国下で行われていた死刑の手段の中でも、最も残酷と言われていたもの。その十字架にキリストがつけられ、長時間激しい痛みの中に置かれた末死んでいかれたことは、恐ろしい悲劇でした。

 しかし、キリストの生涯を描いた四つの福音書は、その様子を描きながら、その死が単に悲劇に終わるものではなく、それこそが罪人に対する神の救済のご計画のクライマックスであったことを告げています。マタイの福音書の描写から、キリストの死の意味を考えてみましょう。

 

一、人々のあざけりの中で

 

通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイ二七・三九‐四三)

 

 十字架につけられたキリストのもとを多くの人々が行き交っていました。その多くは、十字架につけられたイエス様に向かい、あざけりの言葉を投げかけます。「神殿を壊して三日で建てる人よ」、「もしおまえが神の子なら」、「イスラエルの王」、「神のお気に入り」、「『わたしは神の子だ』と言っている」…これらの言葉は、彼らがユダヤ人の裁判や総督ピラトのもとでの裁判の様子を見聞きしていたことを示します。イエス様はそのように主張しているとして訴えられ、死刑に値するとの判決を受けておられました。そのような裁判の様子を見聞きした者たちは、十字架につけられたままになっているイエス様に向かって、もし主張してきたとおりの者であれば、「自分を救ってみろ」、「十字架から降りて来い」、「(神に)救い出してもらえ」とあざけります。しかし、イエス様は彼らのあざけりに対して一言もお応えになりません。沈黙のうちに十字架につけられたままでおられました。

 イエス様はその時、ご自分を救う力を持っておられなかったのでしょうか。神の御子でなかったので、十字架から降りて来ることができなかったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

 前夜、大祭司がイエス様に向かって「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と問われたとき、「あなたが言ったとおりです。」と答えられたイエス様(マタイ二六・六三、六四)。そのお答えがご自分の死刑判決を決定づけるであろうことをご存じのうえで、あえてそう答えられたイエス様は、まさにその通りのお方でした。そうであれば、この時、十字架から降りて来てご自分を救うことは簡単なことのはず。イエス様は神様のご計画実現のためには、この死を引き受けなければならないと分かっておられました(マタイ二六・五三、五四参照)。

 

二、わが神、わが神、どうして

 

 イエス様が十字架につけられて後、正午ごろから闇が全地を覆いました。午後三時ごろ、イエス様は大声で叫ばれました。

 

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ二七・四六)

 

 「エリ、エリ、サバクタニ」はアラム語で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。一見、絶望の叫びに見えます。しかし、この一言の中に、キリストの十字架上での死の意味が隠されています。

 神の御子が神から見捨てられる…あり得ないことです。しかし、そのあり得ないことが起こったのが十字架上でのキリストの死でした。

 このことについて、使徒パウロは次のように書いています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(第二コリント五・二一)本来、神に見捨てられなければならないのは、神の前に罪を持って生きてきた私たちではなかったでしょうか。しかし、私たちが罪ありとして神に見捨てられることがないために、罪のない神の御子が罪ありとされました。その結果、神に見捨てられるはずのない神の御子が神に見捨てられた…それが十字架上で起こった出来事でした。

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」この叫びは、十字架上で神の御子が罪人の立場に身を置かれ、神の峻厳な裁きを受けてくださったことの結果でした。

 

三、裂けた神殿の幕

 

しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ二七・五〇、五一)

 

 やがてイエス様は十字架上で息を引き取られました。この時、地震が起き、墓が開いて、多くの人々のからだが生き返ったと言います。このような出来事を見て、ローマの百人隊長やイエス様を見張っていた人々は「この方は本当に神の子であった」と言いました(マタイ二七・五四)。

 そのような出来事の一つとして、もう一つ、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という出来事が記されています。このこともまた、イエス・キリストが十字架に死なれたことの意味を暗示しています。

 神殿は、奥の至聖所と手前の聖所の二つに区切られており、その間には垂れ幕が下がっていました。この幕を通って至聖所に入ることができるのは、年に一度、大祭司がいけにえの血を携えて入ることができるだけでした。このことは、罪人がそのままでは神の御前に出て行くことができないことを示しています。

しかし、キリストが十字架に死なれたとき、神殿の幕が真っ二つに裂かれました。このことは、罪人が神の御前に進み出ることができるための道が開かれたことを示しています。「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル一〇・一九、二〇)

神の御子が十字架に死なれるという悲劇的な出来事は、単に悲劇で終ることではありませんでした。私たち罪人が、神のもとに立ち返るための道を開くため、どうしても必要なことでした。私たちの罪を担い、神の御子が十字架に死んでくださったことにより、私たちの罪が贖われ、神の前に進み出る道が開かれました。

 神様が私たちのために成し遂げてくださったことが理解できるでしょうか。途方もない方法を通して、神は私たちのための救いの道を開いてくださいました。一度限りで、人間のための完全な贖いを成し遂げる神のみわざ…それが十字架上での神の御子の死でした。

「イエスは…この新しい生ける道を開いてくださいました。」(ヘブル一〇・二〇)開かれた道を通って、私たちも神の前に進み出ようではありませんか。

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天国会員合同記念礼拝

2023-04-16 20:20:50 | 教会便り

今日は天国会員合同記念礼拝。

2Lで揃えた写真が並びました。

昨日の雨天から一転、天候にも恵まれ、

礼拝後は無事墓前での記念の時も。

お一人の故人の納骨式も行いました。

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貞美誕生日

2023-04-16 19:59:37 | 貞美便り

一昨日は、貞美の誕生日。

お祝いの食事を昨日、一日遅れで。

誕生カードを送ってお祝いしましたが、

忙しすぎて、恒例の一年間の思い出をまとめたDVD作製は

すっかり忘れていました。

一、二か月遅れのお渡しになりそうです。

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任職式の司式

2023-04-12 21:17:35 | 教会便り

丹波柏原教会に、任職式の司式奉仕のため伺いました。

この教会に今春赴任されたのは、私も大変お世話になった先生ご夫妻で、

私自身、おそらく二度ほど、任職式の司式をしていただいた先生。

また、この地は、私の出生の地でもあり、

不思議な巡り合せを感じました。

(赤ん坊の時、引っ越しましたので、全く記憶はありませんが。)

祈祷会で説教のご奉仕後、任職式をさせて頂きました。

静かな地方都市に聖霊による宣教のわざが継続、拡大することを

お祈りいたします。

JR柏原駅

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花見

2023-04-09 17:18:00 | 長田家便り

石ケ谷公園で花見。

父や恵、お一人暮らしの教会員も一人お誘いして、行ってきました。

先週は満開だったようですが、行く時間がなく、一週間遅れの花見となりました。

八割がた散ってはいましたが、それなりに花が残っている木の下が空いていたので、

そこにシートを敷いてひと時時間を過ごしました。

ゆったりとした花見で、感謝でした。

 

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復活日礼拝

2023-04-09 13:58:21 | 教会便り

復活日礼拝。

復活の主を見上げ、礼拝しました。

大久保めぐみ教会と姫路城北教会との合同礼拝、

今日は音声も大方安定していました。

姫路城北教会からのYouTube配信も無事できました。

https://www.youtube.com/watch?v=riyhyA92wXk

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