長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

19章 その4

2015-07-26 20:44:09 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

長らく本書を紹介、検討してきましたが、ようやく終わりが近づいてきました。まずは、本書の検討をする中で示してきた私自身の見解を、特に聖霊論に焦点を当てながら、要約してみます。

第一に、福音書の検討においては、以下のような点を考えました。
・バプテスマのヨハネの聖霊のバプテスマについての言及を考える際には、旧約聖書とのつながりを考えることが自然であり、特にマラキの預言とのつながりを踏まえる必要がある。そして、その中では、裁きと同時にきよめる聖霊の働きに注目する必要がある。
・イエスの受洗は、神の救済の歴史において重要な転換を示すものであるとする著者の見解は、十分考慮する必要のあるものと思えるが、オルド・サルティスの細部まで決定づけるものとは言い難い。
(なお、イエスの受洗部分での水のバプテスマについての議論で、著者の見解に対して私が抱いた疑問点は、いずれも著者の見解を十分に理解していないために生じたものだったと言えそうです。「その10」及び「その35」参照。)

第二に、使徒行伝の検討においては、以下のような点を考えました。
・使徒行伝においては悔い改め=信仰と「聖霊を受けること」とは、密接に結び付けられているものの、同時に、両者が乖離する可能性を否定していないように思われる。ペンテコステの出来事は、神の救済の歴史において新しい時代をもたらされたのであって、信仰と「聖霊を受けること」とが乖離していた特別な例だったしても、サマリヤ人の場合もまた両者のかい離の事例であるし、エペソの弟子たちにかけたパウロの言葉も、その可能性を示唆するように思われる。但し、パウロの場合と、コルネリオたちの場合は、主イエスに対する信仰が聖霊に直結している。(水のバプテスマのタイミングが、それぞれの事例で異なっていることにも注目。)
・使徒行伝において「聖霊を受ける」=「聖霊によってバプテスマを授けられる」であり、(宣教のための)力、救いの確証、心のきよめとしての役割が与えられている。

第三に、パウロの検討においては、以下のような点を考えました。
・パウロは、「聖霊を受ける」ということについて、救いの確証、霊的・道徳的変革、クリスチャン倫理の土台としての役割を与えている。
・パウロの手紙において、「聖霊を受ける」ということは、すべてのクリスチャンにおいて前提とされており、回心のあらゆる要素(義認、新生、子とされ、教会に加えられるなど)としっかりと結びついている。特に、ローマ8:9、第一コリント12:13は、この点における例外の存在を全く否定しているように思われる。
・但し、パウロは「聖霊を受けること」を明瞭な経験として描いていることも見逃すことはできない。これは、現代の教会において、「聖霊を受けた」ということが経験として明瞭でないケースをどう扱うかという牧会上の問題をもたらす可能性がある。

第四に、ヨハネの検討においては、以下のような点を考えました。
・ヨハネの福音書と手紙において、御霊は永遠のいのちをもたらすと共に、それをあかしし、支え、その事実を内外に表わすものとされており、永遠のいのちを受けることと御霊を受けることとの間に密接な関係があるとされる。
・ヨハネの福音書と手紙において、キリストが栄光を受けられた後、キリストを信じる者が即永遠のいのちを得ると同時に御霊を受けるということは十分示唆されている。但し、時代や状況を越えてそのことが成立すると言いうるほど、ヨハネは明示的にそのことを語ってはいない。

第五に、ヘブルやペテロの検討において、要約的には以下のような結論だったかと思います。
・これらの手紙には、「聖霊を受ける」ということに関していくらかの示唆を与える箇所が見出されるが、他の検討結果を大きく変えるものではない。

これらを総合的に考えてみると、以下のような点を指摘することができそうです。

・旧約聖書との関わりから考えると、「聖霊を受ける」ことは、特に裁きときよめの約束の文脈の中に置かれるものである。
・「聖霊を受ける」ことは、新約聖書において回心(救い、罪の赦し、義認、新生、子とされること、教会に加えられること、永遠のいのちを持つこと)と密接に結び付けられている。
・「聖霊を受ける」ことは、新約聖書において、救いの確証を与え、クリスチャン倫理の土台となると共に、実際に心のきよめ(道徳的・霊的変革)を与えるものでもあり、新しいいのちを持つこととの深い結びつきを持つものとされており、宣教の力を与えるものとされている。この内、使徒行伝では特に、宣教の力としての役割に焦点が当てられ、パウロの手紙では、その他の役割が総合的に示され、ヨハネは永遠のいのちとの関わりでそれらが表現されているという違いはあるが、総合的に考えれば、「聖霊を受ける」ということは、クリスチャン生涯の始まりにおいて確信と変革、命と力を与えるものとされており、明確な経験としての性質も見逃すことができない。
・新約聖書において、聖霊を受けることは信仰による回心に深く結び付けられている。パウロは、この結びつきが固く離れないものであることを強調しているが、使徒行伝は信仰と聖霊の賜物との乖離の可能性を示唆しているように思われる。

ここで、課題として残るのは最後の点であって、パウロとルカの強調点、主張点の違いです。この点については、回を改めて検討してみます。(いよいよ最終回です。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息子たちのパソコン

2015-07-23 18:23:27 | 長田家便り

我が家には息子達専用のパソコンがあります。

VISTAパソコンなのですが、あまりに処理速度が遅くなり、使用に耐えなくなったため、

Windows7に乗り換えた後、息子たちのゲーム利用のために提供したもの。

これがまさに、彼らにぴったりのパソコンとなりました。

彼らは、週に2度、10分ずつ×3回、ゲームを利用してよいことにしています。

どうして一回10分なのかと言えば、それ以上使用すると、パソコンが熱くなって、

止まってしまうからです。

(パソコンの右に見えている赤いものは、タイマーです。)

10分と決めていても、ついついそれを越えてやってしまうのですが、

程なく強制的にシャットダウンしてしまうという、スグレモノです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015-07-23 18:22:42 | 神戸便り

今日もダイナミックな空です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

19章 その3

2015-07-23 17:52:17 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

まずは、最終章である第19章について、特に、そこで言及されている「続編」について書きます。(内容的には、「検討編」というより、「紹介編」に近いです。)

この19章では、著者の見解がキリスト教の三つの主要な流れとの比較の中で、大胆かつ明瞭に表現されています。御霊のバプテスマの「経験」としての側面についても明快に記されていますし、水のバプテスマを信仰による救いの後に置くのではなく、信仰が救いに至るための必須的表現として捉えられている点も、明快に説明されています。

同時に、本書の研究を通して、課題として残された部分について、簡潔にではありますが言及されているのが注目すべきところです。特に最後の段落で示されている問いは重要です。「御霊の賜物が人をクリスチャンにするのであれば、彼が御霊を受けたのかどうか、またいつ受けたのかを、本人や他の人々はどのようにして知るのか?」(229頁)この点については、かなり曖昧な表現ではありますが、異言を含む霊的賜物も、一定の役割を果たすであろうことも示唆されているように思われます。ただ、この問いについての十分な取り扱いは、もう一冊本を必要とするのであり、著者は、「御心であれば、ふさわしい課題でこの課題に取り組みたい」と、続編の誕生を暗示する形で本書を結んでいます。

実際に続編として書かれたのは、"Jesus and the Spirit : a study of the religious and charismatic experience of Jesus and the first Christiaan as reflected in the New Testament"です。1975年にSCMにより発行されました。(私の手元にあるのは、Eerdmansによって1997年に発行された版。)"Baptism in the Holy Spirit"が1970年発行ですので、5年後の発行になります。

"Baptism in the Holy Spirit"より簡単な本を予想していましたが、購入してみると、反対に倍以上のボリュームを持つ本でした。上記の問いに対してどんな回答を著者が用意したのか、気になるところですが、序文のところに、上記の問いを自ら引用して、著者は次のように記しています。「続く章の研究は、これらの問いを新約聖書レベルで答えようと言う企図として始まった。しかし、それは宗教経験自体の探求へとすぐに広がった。なぜなら、『御霊の経験』という用語のみで考えることは続く事柄と方法に人工的制限を負わせることになるだろうから。」(6頁)従って、この本は、上記の問いに対する直接的回答というよりは、より広い課題としてイエスと初代教会の宗教経験を調べるものになっています。ですから、上記の問いに対する直接的答えを見い出すことは、この本全体を読んだ上でなければ難しいのですが、私にはその力も余裕もありません。

それでも、目次を頼りに、上記問いに対して直接に関わると思われる個所に当たりをつけながら、いくつかの箇所に目を通してみました。以下のような箇所が目に留まりました。


第7章「ルカの解雇における熱狂的始まり」第34節「目に見える証拠?」より(189-193頁)

今世紀、この問いはペンテコステ派の中で最も鋭い形で広まった。彼らの答えは簡単で適切なものだった。「御霊が力をもって命の中に入ったことの特別な徴は、異言である」。(例証としての引用省略)

ペンテコステ派の提題のため、すぐに言われなければならないのは、彼らの答えはしばしば認められているよりも新約聖書において健全に根ざしているということである。ルカがペンテコステの異言を御霊の注ぎの外的徴として言及していることは確かに本当である。(以下、使徒行伝におけるいくつかの例省略)もしそうだとすると(サマリヤの例で、「聖霊が与えられるのを見た」という表現が異言を示唆するのだとすると)、ルカが御霊の賜物について描いているすべての場合に、異言が伴い、それによって「証拠づけられている」ということが事実だということになる。容易にそこから導かれる結論は、ルカが異言を御霊の注ぎの「最初の真諦的証拠」として描こうと「意図している」ということである。(省略)

しかしながら、二つの点が明確にされなければならない。一つ目は、ルカの御霊の概念、あるいは、よりよくは、御霊経験、一般的宗教経験の概念は、かなり粗雑に描かれているだけだという点である。(省略)

二つ目は、ペンテコステ派の命題は、次の問いに答えるものである。「御霊、あるいは御霊の注ぎの特有の現われは何か」。ルカはこの問いに答えていないし、答えようともしていない。(以下、「特有の」という点に対してルカがほとんど意識していないことを指摘する議論、省略)

これら二つの点から、初期共同体における宗教経験のルカの取り扱いは、必然的に偏ったものであるということになる。(省略)

結果として、異言についてのペンテコステ派の命題に対して新約聖書解釈の観点からいくつかのコメントが求められる。第一に、ルカは異言を10:45の紙への賛美や19:6の預言と共に、御霊が来たことの「一つの」現われとしている。(省略)

第二に、ルカの表現は偏っているため、ペンテコステ派によって提出された問いに答えるには十分なデータを持っていない。(省略)

しかし、第三に、もし御霊の注ぎのルカの記述を今日の御霊経験、御霊のバプテスマその他の経験の規範として受け取ろうとし続けるのであれば、ルカと共に道を進まなければならない。使徒行伝において御霊の到来を表わす異言は、恍惚的語りであり、紛れもなく発声のほとばしりである。(省略)

(省略)要するに、異言が教会の最初期において御霊の現われとして認められていたことはほとんど疑いない。しかし、初期の信仰者たちが現代のペンテコステ派が異言に与えるような重要性を異言に与えていたということは、ルカの記事から正統に引き出されうる結論ではない。神が異言がにそのような重要性を持つよう意図されていたと結論づけることはなおさらできない。


第11章「第二世代のキリスト教概観と結論的所見」第59節「結論的所見」より(359-361頁)

我々が第一及び第二世代のキリスト教における「宗教経験の共同体的次元」に目を向けるとき、事実上少なくとも四つの異なるモデルに直面する。それらはおそらく当時の(そして今の)信仰者に可能なキリストの出来事に対する異なった対応の枠組みとして役立つであろう。

第一は、ルカであり、第一世代のカリスマ的、恍惚的経験の活力におけるルカの無批判的栄誉の態度である。(省略)

第二は、パウロのカリスマ的共同体のビジョンである。すなわち、共同体、キリストの体として、共有された御霊経験と、その時々、あるいは常日頃の礼拝の言葉や行為における御霊の様々な現われとを通して、形づくられていく教会のビジョンである。その教会の権威は特に使徒とカリスマにあり、両者は福音伝統、愛、教会のよきわざの基準ですべての者によって評価される。(省略)

第三は、パウロ後の状況に対する牧会書簡の応答がある。そこには、ルカの活力やパウロのビジョンのための余地はほとんどない。(省略)すべてはケリュグマ的伝統の保存に従属させられているように見え、既に御霊が捕えられ、公職と制度の内に伝統が拘束衣となる大きな危険性が存在している。

第四は、ヨハネである。牧会書簡やクレメントが既に来たるべき事柄の形を指示し始めている時代に書かれ、ヨハネ文書はおそらくこの傾向に対する反応として見るのが最もよいであろう。彼は故意に当時の増大する制度化と礼典主義に背を向け、御霊を伝統に従わせることなしに過去とのパウロ的つながりを維持し、終末論的緊張の緩和の問題を制度化よりも個人的礼拝によって解決しようとした。(省略)

私自身、最も魅力的なのはパウロの説明の活力と成熟であることを告白しなければならない。(この後のかなり長い部分、省略)

要するに、宗教経験は最初期のキリスト教共同体にとって基本的であり、共同体を産み出すものでもあるので、宗教経験は最初期のキリスト教神学にとって基本的であり、また神学を産み出すものともなった。常に新鮮な宗教経験がキリストの出来事への最初の証言とダイナミックに相互作用することが新約聖書神学の生きたマトリックスであった。後者がなければ信仰はあまりに簡単に熱狂主義になり、それ自体燃え尽きてしまうであろう。しかし、前者がなければ、すなわち、宗教経験における生きたリアリティとしての神なしには、信仰は命に至ることなく、神学は不毛で死んだままであろう。


最初の問いに対する著者の見解は、これらの文章を通して、その方向性についてはおぼろげながら予想することができそうです。ただ、最後に示された4つのモデルの内、パウロ、牧会書簡、ヨハネの三つのモデルにおいて、上記問いに対する直接的な答えがどのようなものになるのか、もう少し詳しく読まないと分からないようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

収穫

2015-07-14 17:49:15 | 長田家便り

屋上で育てたトマトを収穫。貞美がミニトマトのつもりで植えましたが、

普通のトマトになりました。見た目はゴツゴツした感じですが、

スーパーのよりずっとおいしいです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「迷える羊への招き」(ペテロ第一2:21-25、2015年7月12日、北大阪教会にて)

2015-07-12 17:43:34 | メッセージ

聖書中、人間と神様との関係はしばしば羊と羊飼いの関係に譬えられています。以下の箇所もまさにそのような箇所の一つです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)「魂の牧者であり、監督者である方」とは、天地を造られた神様です。神様を離れ、さまよっていた迷える羊であったあなたがたが、羊飼いである神様のところに帰ってきたのだと言います。今も神様の目には、言わば多くの迷える羊の姿が映っているのではないでしょうか。「帰って来なさい」という、迷える羊に対する神様の切々として訴えに耳を傾けましょう。

1.迷える羊

学生時代、夏目漱石の「三四郎」を読みました。主人公が出合った不思議な雰囲気を持つ女性が残した「迷える羊」という言葉が、小説全体のテーマとなります。確たるものを持ち得ず、いつも迷い、戸惑う人間の現実が描かれていました。聖書は言います。人は皆迷える羊だと。羊の幸せはどこにあるでしょうか。羊飼いのもとにあります。人間がおるべき所は、私たちの造り主なる神様のもとにあります。そこで、全能者にして愛なる神様に守られ、養われ、導かれる・・・そこに、私たちが安心して、幸せに生きる道があります。神様から離れ、さ迷ってしまっている・・・そこに人間のあらゆる問題の根源があるのだと、聖書は言います。

2.戻るための道

迷える羊に対して、神様は常に呼びかけます。「戻って来なさい」と。しかし、迷える羊は、「戻ってきなさい」と言われても戻ることができない存在でもあります。戻る道が分からなくなっている、分かったとしても、神様に背き離れて生きてきた生き方を今更変えることができないということもあるでしょう。同時に、神様に背いて生きてきた現実は、ただでは神様のもとに帰ることができないということをも意味します。そのような迷える羊のために、神様は、ご自身に戻るための道を自ら備えてくださいました。それが、御子イエス・キリストの遣わされた理由です。

実は、ペトロはここで、手紙の読者に、不当な苦しみを受けても耐え忍ぶことを勧めています。その模範としてイエス様を指し示しています(21節-23節)。神の御子が人となり、人として歩まれたお方、罪なくきよいお方、そのお方が受けるはずの理由のない、不当な苦しみを受けられます。そして、その最後には、極悪非道の犯罪者だけに与えられるはずの十字架刑に処せられます。なぜでしょうか。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです(24節)。実に、私たちのために、御子はその苦しみを担ってくださいました。その苦しみは、私や皆さん一人一人のためであったと言います。

神様を離れ、神様に背き、自分勝手に、自己中心に生きることを、聖書では「罪」と言います。そのような罪の中を生きてきた私たちの、その罪を背負い担って、死なれた・・・それがイエス様の十字架です。十字架に死なれたイエス様は、神の御子としてよみがえり、今も生きておられる救い主、主です。このお方を信じ仰ぐとき、過去の一切の罪が赦され、新しく神様のもとで生きていくことができる・・・神様はそのような道を神様の側で開いてくださいました。道を開いて下さった上で、「帰って来なさい」と招いてくださいます。

3.神様の招き

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(25節)羊飼いから離れた羊ほどみじめな者ない、羊飼いのもとで、安心して、喜んで、生きていかないかと、神様は日々招いてくださいます。この主のもとに立ち返る者が起こされますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おすそわけ

2015-07-12 17:41:52 | 長田家便り

教会のお花のおすそ分けで、一週間、事務所が飾られ、

内、半分以上枯れて残ったひまわりで、長田家が飾られます。

感謝。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

19章 その2

2015-07-04 08:45:59 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


[著者は最終章最後の部分で、本書の要約的結論を述べると共に、残された課題も提示します。]

要するに、始まりにおいて、バプテスマを受けていないクリスチャンはなかったが、バプテスマを受けているものすべてがそのこと自体でクリスチャンだというのではなかった。御霊を持たないクリスチャンはない。というのは、御霊を持つ(受けた)者たちだけがそのこと自体でクリスチャンであるからだ。この点における新約聖書の教えはエピグラム的に以下のように表現されうる。

信仰はその表現としてバプテスマを要求する。
バプテスマはその妥当性のために信仰を要求する。
御霊の賜物はその条件として信仰を前提とする。
信仰は御霊の賜物によってのみ純粋であると示される。

全体としてのキリスト教にとってこの結論の重要性は根源的な問いがなされる時代にあって低く評価されてるべきではない。この時代、多くのクリスチャンは聖書や伝統、また自分達自身の内を探求し、すべての付着物や本質的でないものをはぎ取ったクリスチャン信仰の根、あるいは生きた心臓を把握しようとする。この時代、増大する頻度で、またとくにクリスチャンたち自身によって、問いがなされている。クリスチャンとは何か。クリスチャンを区別する証明は何か。我々の研究はこの問いに対する新約聖書の答えをいくらかの正確さで我々に与える。自分自身をよみがえられた主なるイエスにコミットすることによって聖霊お賜物を受けた人、そしてイエスに従って生きる人がクリスチャンであると。

もしこれが新約聖書のキリスト教の正確な評価であるとすれば、また、使徒の伝統と教えが今日の我々にとって何らかの規範的重要性を持っているとすれば、それは今度は教派レベルでも超教派レベルでも今日のキリスト教にとって大きく重要ないくつかの他の問いを不可避的にもたらす。たとえば、回心―入信式についての現代神学は適切か。教会は御霊、信仰、バプテスマそれぞれの役割を本当に理解しているのか。あるいは色々なリタージーや入信行為においてそれらのものに教会は適切な表現を与えているのか。幼児洗礼は今日行き渡っている先行的恵みの議論によってなおも正当化されるのか。現代の伝道は御霊の約束を十分明瞭に提示してきたのか。それらに答えることは今回の研究の視野を越えているので、そのような問いは尋ねられ得るだけである。

しかし、我々の結論がもたらす更に基本的な問いがある。その問いは、これらの他の問いが十分扱われる以前に答えられなければならないものである。御霊の賜物が人をクリスチャンにするのであれば、彼が御霊を受けたのかどうか、またいつ受けたのかを、本人や他の人々はどのようにして知るのか?御霊はどのようにしてその到来と臨在を表わすのか。ある会衆やある状況において御霊が働いているということの示唆は何かあるのか?クリスチャンの生涯と活動のすべてのポイントにおいて、これらは明らかに第一の重要性を持つ問いである。私がペンテコステ派に行ったことがないだけであると考えられることのないように、これらの問いに関して付け加えさせてもらいたいのは、異言を含む霊的賜物についてのペンテコステ派の教えはやはりバランスを欠いているのではあるが、一般に認められているよりもずっと健全に新約聖書に基づいている。しかし、今ここでは、これらの問題の適切さを指摘することができるのみである。なぜなら、御霊の現われを議論することはそれ自体重要課題であるからである。御心であれば、ふさわしい課題でこの課題に取り組みたいと思う。それは、今回の研究の必要な続編であるから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕焼け

2015-07-04 08:41:23 | 神戸便り

昨日、自宅から撮った夕焼けです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハッピーシープ

2015-07-02 18:17:38 | 教会便り

教会で地域の子どものたちのための集いが持たれました。

今回は、1階から3階までを使ったゲーム大会(?)があり、奉仕者含め、70名を越えたとのことでした。

小さな子から大きな子までニコニコして参加してくれたのが感謝。

続いて神様がお一人おひとりを導いてくださいますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする