【検討編】
長らく本書を紹介、検討してきましたが、ようやく終わりが近づいてきました。まずは、本書の検討をする中で示してきた私自身の見解を、特に聖霊論に焦点を当てながら、要約してみます。
第一に、福音書の検討においては、以下のような点を考えました。
・バプテスマのヨハネの聖霊のバプテスマについての言及を考える際には、旧約聖書とのつながりを考えることが自然であり、特にマラキの預言とのつながりを踏まえる必要がある。そして、その中では、裁きと同時にきよめる聖霊の働きに注目する必要がある。
・イエスの受洗は、神の救済の歴史において重要な転換を示すものであるとする著者の見解は、十分考慮する必要のあるものと思えるが、オルド・サルティスの細部まで決定づけるものとは言い難い。
(なお、イエスの受洗部分での水のバプテスマについての議論で、著者の見解に対して私が抱いた疑問点は、いずれも著者の見解を十分に理解していないために生じたものだったと言えそうです。「その10」及び「その35」参照。)
第二に、使徒行伝の検討においては、以下のような点を考えました。
・使徒行伝においては悔い改め=信仰と「聖霊を受けること」とは、密接に結び付けられているものの、同時に、両者が乖離する可能性を否定していないように思われる。ペンテコステの出来事は、神の救済の歴史において新しい時代をもたらされたのであって、信仰と「聖霊を受けること」とが乖離していた特別な例だったしても、サマリヤ人の場合もまた両者のかい離の事例であるし、エペソの弟子たちにかけたパウロの言葉も、その可能性を示唆するように思われる。但し、パウロの場合と、コルネリオたちの場合は、主イエスに対する信仰が聖霊に直結している。(水のバプテスマのタイミングが、それぞれの事例で異なっていることにも注目。)
・使徒行伝において「聖霊を受ける」=「聖霊によってバプテスマを授けられる」であり、(宣教のための)力、救いの確証、心のきよめとしての役割が与えられている。
第三に、パウロの検討においては、以下のような点を考えました。
・パウロは、「聖霊を受ける」ということについて、救いの確証、霊的・道徳的変革、クリスチャン倫理の土台としての役割を与えている。
・パウロの手紙において、「聖霊を受ける」ということは、すべてのクリスチャンにおいて前提とされており、回心のあらゆる要素(義認、新生、子とされ、教会に加えられるなど)としっかりと結びついている。特に、ローマ8:9、第一コリント12:13は、この点における例外の存在を全く否定しているように思われる。
・但し、パウロは「聖霊を受けること」を明瞭な経験として描いていることも見逃すことはできない。これは、現代の教会において、「聖霊を受けた」ということが経験として明瞭でないケースをどう扱うかという牧会上の問題をもたらす可能性がある。
第四に、ヨハネの検討においては、以下のような点を考えました。
・ヨハネの福音書と手紙において、御霊は永遠のいのちをもたらすと共に、それをあかしし、支え、その事実を内外に表わすものとされており、永遠のいのちを受けることと御霊を受けることとの間に密接な関係があるとされる。
・ヨハネの福音書と手紙において、キリストが栄光を受けられた後、キリストを信じる者が即永遠のいのちを得ると同時に御霊を受けるということは十分示唆されている。但し、時代や状況を越えてそのことが成立すると言いうるほど、ヨハネは明示的にそのことを語ってはいない。
第五に、ヘブルやペテロの検討において、要約的には以下のような結論だったかと思います。
・これらの手紙には、「聖霊を受ける」ということに関していくらかの示唆を与える箇所が見出されるが、他の検討結果を大きく変えるものではない。
これらを総合的に考えてみると、以下のような点を指摘することができそうです。
・旧約聖書との関わりから考えると、「聖霊を受ける」ことは、特に裁きときよめの約束の文脈の中に置かれるものである。
・「聖霊を受ける」ことは、新約聖書において回心(救い、罪の赦し、義認、新生、子とされること、教会に加えられること、永遠のいのちを持つこと)と密接に結び付けられている。
・「聖霊を受ける」ことは、新約聖書において、救いの確証を与え、クリスチャン倫理の土台となると共に、実際に心のきよめ(道徳的・霊的変革)を与えるものでもあり、新しいいのちを持つこととの深い結びつきを持つものとされており、宣教の力を与えるものとされている。この内、使徒行伝では特に、宣教の力としての役割に焦点が当てられ、パウロの手紙では、その他の役割が総合的に示され、ヨハネは永遠のいのちとの関わりでそれらが表現されているという違いはあるが、総合的に考えれば、「聖霊を受ける」ということは、クリスチャン生涯の始まりにおいて確信と変革、命と力を与えるものとされており、明確な経験としての性質も見逃すことができない。
・新約聖書において、聖霊を受けることは信仰による回心に深く結び付けられている。パウロは、この結びつきが固く離れないものであることを強調しているが、使徒行伝は信仰と聖霊の賜物との乖離の可能性を示唆しているように思われる。
ここで、課題として残るのは最後の点であって、パウロとルカの強調点、主張点の違いです。この点については、回を改めて検討してみます。(いよいよ最終回です。)