長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

RI治療室無事出ました

2014-05-29 21:22:51 | 貞美便り

今日午後、貞美はRI治療室から無事一般の病室に戻ることができました。

実は、昨日病院から連絡があり、極度のふらつきによりトイレに行くことも難しいが、

看護士は法律により入ることができないので、付添をしてほしいとのことでした。

一泊のつきそいになりそうでしたが、子どもたちは、「大丈夫!」と言ってくれたので、

夕食の準備(電子レンジでチンとすればOK)をして、病院に。

どうも、吐き気を我慢していて、一挙に吐いてしまい、脱水症状になったようです。

放射性物質の影響と言うよりは、甲状腺ホルモン剤をなしにしていることと、精神的な影響によるもののようです。

一時は、3人のお医者さんに囲まれるような状況だったようですが、私がかけつけたときには少し落ち着いており、

その後も徐々に落ち着いてきました。

今日になって、シャワーもすることができ、普通はシャワーを二度するところを、

一度のシャワーで放射能検査OK。

1メートル離れたところで、60μSv/hがOKの線だそうですが、30μSv/hないということで、クリアとなりました。

半減期の短い放射性ヨードだから、これくらいの線で許されるのでしょうね。

とにもかくにも、午後は一般病室に移り、夕食は久しぶりに子ども達と一緒に。

食事の一口、二口は入れることができ、歩く足取りもだいぶしっかりしてきたので、

大丈夫かな、と思います。

来週初めの退院めざして、元気になっていけるよう、続いてお祈りください。

 

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RI治療室2日目

2014-05-27 17:36:24 | 貞美便り

貞美は昨日RI治療室に入り、放射性ヨードを飲みました。

夕方くらいまでは快適に過ごしていたようですが、

夜子どもたちと一緒にお見舞いにいくと、吐き気、頭痛で大変な様子。

カメラを通してのお見舞いも早々に切り上げざるを得ませんでした。

今日になって、少しはましなようですが、ほぼ何も食べないで寝ている状態だったようです。

放射性物質を飲むというのは、治療のためとはいえ、大変な事なのだと実感しました。

気晴らしにはなると思うので、今日も、夜、息子たちと一緒にお見舞いに行って来ます。

時間とともにましにはなっていくと思いますが、続いてお祈りください。

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放射性ヨード治療のため入院

2014-05-24 15:10:27 | 貞美便り

昨日、貞美は放射性ヨード治療のため入院しました。

放射性ヨードを飲むのは月曜日ですが、放射性ヨードを飲んで数日間過ごす特別の部屋を見せて頂きました。

神戸市民病院には二部屋あるようですが、少し狭いかなと思う程度で、一見、普通の病室とそれ程変わりません。

ただ、トイレが何やらごちゃごちゃしているのと、ベッドを鉛の板が部分的に覆っているくらいでしょうか。(写真奥に写っています。)

治療中は看護士さんも入ってこれませんので、監視のカメラがあり、

面会時には専用のビデオ電話でやりとりします。

数日この部屋で過ごすのは、精神的に楽でないとは思いますが、

支えられますよう、お祈り頂けましたら幸いです。

コメント (3)
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10章 その2

2014-05-18 16:42:08 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

パウロの初期の手紙についての著者の検討を受け、特に信仰者と聖霊とのかかわりに焦点を置いて私なりに検討してみたいと思います。パウロの他の手紙においても同様ですが、初期の手紙においても、手紙の読者と聖霊とのかかわりについてのパウロの教えは、大きく二つに分けることができます。一つは、過去の聖霊による恵みを確認するものであり、もう一つは、それに基づいて正しい聖霊との関わりの中で歩むよう励ますものです。

過去の聖霊による恵みを確認するものとしては、以下のようなものがあります。

テサロニケ第一1:6「あなたがたも(中略)聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」
テサロニケ第二2:13「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになった」
ガラテヤ3:2、3「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(中略)御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
ガラテヤ3:5「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれたかたは、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」
ガラテヤ4:6「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

文法上明らかではありませんが、文脈上から、以下のような箇所もこれに含まめてよいと思われます。

テサロニケ第一4:8「ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」
ガレテヤ3:14「このことは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」

逆に、過去の聖霊による恵みに基づいて、正しい聖霊との関わりの中で歩むよう励ますものとしては、以下のようなものがあります。

ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。」
ガラテヤ5:25「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

これらの手紙の読者にとって、キリストを信じたことも、義と認められたことも、子とされたことも、御霊を受けたことも、過去のことです。そして、これら相互の間に時間的な順序があったかどうかを知ることは難しいと言わなければならないでしょう。唯一、ガラテヤ4:6は、「子とされたこと」と、「御子の御霊が遣わされたこと」との間に、時間的、または論理的順序があることを表現しているように思えます。しかし、それが論理的順序に過ぎないのか、時間的順序を想定しえるのか、判別は難しいと言えます。

しかし、逆に、これらの諸要素の中に、時間的乖離がありえないと決めつけることもできないのではないか、という指摘はできると思います。たとえば、著者によって、「聖霊を受けることについてのペンテコステ派の考えに対する圧倒的な返答」とみなされている箇所であるガラテヤ3:1-5、14であっても、「キリストを信じること」あるいは「義と認められること」と、「御霊を受けること」との間に、時間的乖離が不可能とまでは言えないのではないでしょうか。以下、この点に焦点を当てて、検討してみます。

パウロは、ガラテヤのクリスチャンに対して、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」と問いかけています(2節)。ここでは、ガラテヤのクリスチャンたちが皆「聖霊を受けた」ということが前提とされています。それはまた、神が「あなたがたに御霊を与え」た出来事でもあります(5節)。そして、3:1-5で強調されているのは、その出来事(御霊を受けたこと、神が御霊を与えたこと)は、「信仰をもって聞いたから」だということです(2、5節)。

この部分の文脈を確認してみます。2章後半では、「私たちが義とされた(義と認められた)のは律法の行いによったのか、キリストを信じる信仰によったのか」ということが議論されました(2:16)。しかし、3章前半では、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからか、信仰をもって聞いたからか」ということが議論されています(3:2)。これは、単に同じことの繰り返しではなく、議論が別のステップに進んでいるように見えます。すなわち、義と認められるということと、聖霊を受けるということとは、時間的に乖離が可能であるかどうかは別として、内容的には別の恵みを表わしていると考えられます。

ここで、使徒行伝の検討において提示させて頂いた仮説について考えてみます。その仮説によれば、使徒行伝において、信仰(悔い改め)に対して、聖霊の賜物が与えられることは、本来的には同時のこととして提示されているが、何らかの理由によって、同時でないこともありえることが示されている、ということでした。(以下、仮に「分離可能仮説」と呼ぶことにしましょう。)両者は、本来的に同時であるばかりか、おそらく、使徒行伝で描かれている時期の教会では、実際に同時であることが一般的なことであったと思われます。諸事情によって両者が同時でなく、時間的に乖離する可能性も知られており、また実際にそのような事例があることも知られていたとしても、例外的事例と受け止められていたでしょう。従って、この手紙の読者は皆、「聖霊を受ける」という経験を経ている人々であり、その結果、パウロは、読者が皆信仰によって「聖霊を受ける」という経験をしていることを前提に、議論を進めることができたことになります。2章後半では、信仰によって義と認められるということについて、議論がなされています。これに続くガラテヤ3章前半の議論は、信仰によって聖霊を受けるということについて議論がなされていることになります。このことによって、手紙の読者が既に得ている神の恵み(義と認められることと聖霊を受けること)はいずれも、信仰によることが立証されていることになります。

この節についての著者の検討(2)においては、御霊の賜物と義認は同じコインの両面であるということが強調されます。その根拠として、3:6以降に記されている「アブラハムの祝福」は、8、9節においては後者と等しく、14節においては前者に等しいこと、両方共に信仰によって与えられることが挙げられています。この議論はそれ程強力とは言えないでしょう。同じ信仰によって与えられる異なる二つのもの(異なる時期に与えられる二つのもの)を考えることは容易です。また、アブラハムの祝福が、異なる多様な要素を含んでいるとすれば、その中に、必ずしも同一視できない二つのものが含まれていたとしても不思議ではありません。

3:6-14の文脈を考えてみます。ここでは、信仰者をアブラハムの子孫として位置づける議論が展開されます。6節では、「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました」という指摘がなされます。ですから、7節で、「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」と語られます。9節では「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受ける」と書かれています。これは、かなり広い意味をもった表現です。アブラハムとともに受ける祝福とは何をさすのか。10-13節では、「義と認められる」という恵みについて記されます。しかし、14節では再び、「約束の御霊を受ける」という恵みについて記されます。両者は共に、アブラハムの子孫として信仰者が受ける恵みです。それらは、有機的につながっていながら、別個のものであることは可能ではないでしょうか。

さて、このような文脈の中で、特に著者が強調している「御霊で始まったあなたがた」(3:3)という表現を考える必要があります。ガラテヤの信仰者のほとんどは、キリストへの信仰を持つと同時に御霊を受ける経験をしました。それは信仰者生涯の本来的なあり方であり、時間的に乖離する事例があったとしても、信仰によって罪を赦され、義とされることとの間に有機的な結びつきがあることには変わりません。また、多少の時間的ずれがあった者も、ほとんどの信仰者は、程なく聖霊を受ける経験をしていたことでしょう。そのような状況の中で、ガラテヤの信仰者に対して、「御霊で始まったあなたがた」と表現することは、自然なことと言えないでしょうか。パウロがこの表現を用いたからと言って、信仰によって義とされるということと、信仰によって聖霊を受けることとを、時間的に必ず同時のこととして主張されている、とまでは言えないのではないかと思います。

このように、「聖霊を受けることについてのペンテコステ派の考えに対する圧倒的な返答」とみなされている箇所であるガラテヤ3:1-5、14でさえも、「分離可能仮説」を排除するわけではないように思えます。

かと言って、分離可能仮説に困難がないわけではありません。パウロの初期の手紙だけを見ても、答えることが難しい以下のような問いに直面させられます。

a.信仰に至るための聖霊の働きを示唆するように見える御言葉をどう理解するか

以下のような箇所では、テサロニケの信仰者たちが信仰を持つにいたる際、聖霊の大きな働きかけがあったことが伺えます。
テサロニケ第一1:6「あなたがたも(中略)聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」
テサロニケ第二2:13「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになった」

これらの箇所で示唆されている聖霊の働きは、「聖霊を受ける」ということと別個のものでしょうか。それとも同一でしょうか。信仰を持つに至るまでの聖霊の働きでしょうか。それとも、一見そう見えるだけで、信仰により「聖霊を受ける」出来事について語っているのでしょうか。更には、テサロニケ第二2:13では、聖霊の働きが「救い」の前にあるようにも見えますが、実際そうなのでしょうか。そうではないのでしょうか。テサロニケ第二2:13は、翻訳の仕方も多様であるので、なおさら問題は複雑です。

「分離可能仮説」からの回答の一例として、これらの聖霊の働きは、信仰に至る前の聖霊の働きであって、「聖霊を受けること」とは区別されるという説明も可能ですが、それですべてを十分説明しきれているかどうかは、よく吟味する必要がありそうです。

b.パウロが信仰と聖霊を受けることとの間に時間的乖離が起こり得ることを知っていたとすれば、これらの手紙においてその問題に全く触れていないのはなぜか。

ガラテヤ4:6は、その可能性を示唆するものではあるかもしれませんが、「その問題に触れている」とまでは言えないだろうと思います。そのような可能性があったとしても、実際の事例があまりに少ないので、その問題に触れる必要を感じなかったのでしょうか。そのような問題にあえて触れないことによって、本来的には信仰と聖霊を受けることとが同時的であることを強調したかったのでしょうか。どう答えるとしても、多少なりとも歯切れの悪さが残ることは否めません。

しかしながら、「分離可能仮説は全く成立不可能とまでは言えない」ということを当面の結論とさせて頂き、続くパウロの手紙の検討に進みたいと思います。

 

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CS遠足

2014-05-17 19:53:23 | 教会便り

今日は神戸中央教会CSの遠足。総合運動公園にて。

瞳は石井幼稚園時代、来たことがあるようですが、私たちは初めてでした。

瞳は、あちこちで逆上がり(写真)、恵は仲間たちとドッジボール。

他の子どもたちも、元気に楽しく、一日過ごせたようです。

CSの先生方、お世話になりました。

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ヨード制限食開始

2014-05-16 18:07:48 | 貞美便り

貞美は今日からヨード制限食開始です。

来週からのヨード治療のための入院に備えてのもの。

前回は、かなり神経質に色々な食べ物を避けていました。

魚、卵。肉も沢山はだめとか。

主に、韓国のネット上の情報によるものでしたが、日本では海産物に含まれるヨードさえ避けていればよいという方針のようです。

病院からの文書をよく読み、食物の原材料などをよく確認しながら、

食べてよいものは食べる、という方針で進んでいます。

できるだけ、楽しくこの時期を乗り越えることができればいいな、と思います。

今回、薬の調整中も、結構元気に過ごすことができました。

皆様のお祈りに感謝いたします。

続いてお祈りください。

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事務所で賛美集会

2014-05-15 20:23:35 | 事務所便り

13日(火)夜、教団事務所一階の「作業室」で賛美集会が行われました。

主催は、青少年室。色々なルートで伝え聞いた方々が集まり、

三回、ミニ賛美集会が行われ、ハングアウトで放映、YouTubeにアップされました。

写真は、三回の集会を終え、皆で祈るところを、通りから撮ったものです。

熱い祈りがささげられました。

集会Ⅰ https://www.youtube.com/watch?v=EBj48PUhXa4

集会Ⅱ https://www.youtube.com/watch?v=tUaMaSx2CPQ

集会Ⅲ https://www.youtube.com/watch?v=-_2_AjQgkBw

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10章 その1

2014-05-02 21:30:59 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

本書第三部は、パウロの手紙を扱います。まず著者が指摘するのは、ペンテコステ主義が使徒行伝を根拠としており、パウロの手紙には彼らを支持するものがほとんど見当たらないことです。二つの例外として、Ⅰコリント12:13とエペソ1:13が挙げられますが、それらにしても、かなり表面的な解釈によって、使徒行伝から引き出された教理を確証するために持ってこられるだけであると言います。したがって、回心―入信式における聖霊の役割と聖霊の賜物を調べることが主要な仕事であるけれども、ここでの実際の議論のほとんどはペンテコステ派に対するものではなく、礼典主義者に対するものである。礼典主義者は一般的に言って、ルカによって描き出される絵よりも、パウロにおいて、より一貫した、また満足すべき絵を見出すと。

ここで、著者は、方法論的問題を取り上げます。この主題についてのパウロの見解をどのように発見していけばよいのかという問題です。その答えとして、最も適切なアプローチは、どのような角度からであれ回心―入信式を扱っている節を時間的順序で調べてみることだと言います。それ以外の方法では、恣意的な結論を導き出すことが十分可能になるというわけです。(著者はこの点を具体的例を挙げて説明しています。)パウロの手紙の時間的順序としては、キュンメルの"Introduction to the New Testament"に従い、テサロニケ、ガラテヤ、第一・第二コリント、ローマ、コロサイ、エペソ、牧会書簡を想定しています。このような順で、これらの手紙の中の回心―入信式に関する各節を検討していこうというわけです。この章は「初期パウロ書簡」ということで、テサロニケ、ガラテヤからの8箇所が検討されています。

私としては、特に聖霊との関わりで、救いの順序の細部について、パウロがどう語っているかに関心があるわけですが、著者が言うように、最初から細部にのみ関心を持ちすぎると、木を見て森を見ずの状態になる可能性があります。パウロが回心―入信式についてどのように語っているか、かかわりのあるすべての箇所を全体的に見ることも大切だと思います。少し冗長になるかもしれませんが、できるだけ著者の取り上げているすべての箇所を追ってみたいと思います。

テサロニケ第一1:5ー9、2:13

ここでパウロが語っている回心―入信式の要素は、伝えられた福音、信仰の応答、そして聖霊である。聖霊は宣教者と信じた者たちの両方において働いていることに注目するのが大切である。福音を効果あるものとしたのは聖霊の力における宣言(とパウロの確信)であり、テサロニケ人たちの福音の受容は聖霊における喜びによって特徴づけられている。聖霊を受けることは御言葉の受容と密接に結び付けられているように見えるが、パウロは彼らがどのように、いつ聖霊を受けたかについては語っていない。しかし、それは確かに大変生き生きとした、恐らくは感情的でさえある「経験」(原文イタリック体)であった。(6節)

テサロニケ第一4:7、8

ここで神は聖霊をお与えになる方として描かれている。εισ υμασはパウロが聖霊をある意味でテサロニケの各クリスチャンを所有し、クリスチャンに所有されているものとしてみなしていることを意味する。聖霊が来ることは人をεν αγιασμω(聖に)定めるので、汚れた生き方をする人は聖霊を無視することによって神を無視するのである。(以下、エゼキエル37章特に37:14との関わり、神の召しが聖霊と密接に関わっていること等が指摘されています。)

テサロニケ第二2:13、14

ここには神が永遠の選びを有効にするために取られた方法についてのたまたまの言及がある。それは二つの方法で表現されている。福音を通しての神の有効的召しとして。そして、御霊のきよめと真理に対する彼らの信仰として。後者において、救われることについての二つの主要な手段と要素に光が当てられているのを見る。聖別する御霊の働きと、福音において宣言されている真理を信じる個人の働きである。ここには、救いの順序でなく、重要性の順序がある。

水のバプテスマはテサロニケ人への手紙には全く見られない。パウロの初期の手紙においては、召しと御言葉、聖霊と信仰が、回心―入信式における重要な要素である。

ガラテヤ2:16-21

著者は、この節が回心―入信式に関わる節であることを指摘すると共に、それが水のバプテスマについての解説でないことを指摘します。パウロは、むしろ回心、すなわち霊的変革について考えている。パウロはクリスチャンになることが彼自身の場合、何を印したのかを振り返っている。それは、(律法に対する)霊的な死であり、結果としての新しい命(内住のキリストを中心とし、それによって決定づけられた命)であった。

著者は、水のバプテスマについての言及がないと共に、御霊についての言及もないことを認めます。しかし、御霊の働きはバプテスマの儀式よりもより強く示唆されていると言います。一方では、2:19、20はわざによらず信仰による義認のテーマの発展であり、それはパウロが直ちに御霊との関連で取り上げるテーマである(3:2、5)。他方では、「私の内なるキリスト」としての命は、私の内なる御霊の命と同様である。更に、十字架に付けるという比喩は、5:24で「御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことはない」という勧めに対する結論として5:24で再び取り上げられる(5:16-24)。

ペンテコステ派との関連で言えば、キリストが「私のうちに生き」始めた瞬間は、「私の内なるキリスト」の命である御霊を受けた時と区別されえないということが強調されなければならない。

義認が基調テーマとなっているところから期待されるように、個人が義認を受け、「私の内なるキリスト」の命に生きる手段としては信仰が第一のものとなっている。

ガラテヤ3:1-5、14

これらの節は、聖霊を受けることについてのペンテコステ派の考えに対する圧倒的な返答であると著者は言います。

(1)聖霊を受けることはクリスチャン生涯の始まりである(2-5節)。「始まった」ということは、クリスチャンになる瞬間に言及する以外でありえない。信仰により御霊を受けることは、同じ御霊によって完成に至る神の良きわざの始めである(ピリピ1:6)。
(2)御霊の賜物と義認は同じコインの両面である。アブラハムの祝福は、8、9節においては後者と等しく、14節においては前者に等しい。両方共に、信仰によって与えられる。
(3)約束の御霊は命を与えるものである。律法は命を与える力を持たない(21節)。命と義認は約束と信仰によって来る。そして、御霊は信仰によって受けるとき、人によって経験される約束の内容である(14-22節)。
(4)従って、御霊の賜物は、我々をアブラハムの子孫とし、神の子とし、キリストにあるものとするものである。というのは、アブラハムに対する約束は二重の成就を持っている。すなわち、それは約束の子孫であるキリストにおいて成就され(16節)、個々人が御霊を受けることにおいて成就される(14節)。この二つは相補的である。約束が個人において成就するのは、彼がキリストにある者となる時であり、信仰によって御霊を受ける時である。約束の契約にあずからせ、個人を約束の子ども(4:28、29)、約束の子すなわち相続人(3:18、29.4:7)とするのは、御霊による誕生である。

ここで水のバプテスマについて最も重要なことは、そのことが語られていないことである。ここで説教、信仰、御霊の周りを回っている回心の過程において、人間側の重要な要素は信仰だけである。

ガラテヤ3:26、27

ここで初めて重要な単語「βαπτιζειν」が登場します。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのである」(27節)この節について著者は、パウロがガラテヤ人たちのことをイエス・キリストにある者として語ることができる理由を説明していると言います。その理由は、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはキリストを着た」からだと言います。

問題は、ここでの「バプテスマ」が何を意味するかです。著者はこの点について、次のような見解をまず明らかにします。βαπτζεσθαο εισ Χριστονは、信仰者がクリスチャン経験に入ることを表現するために、あるいは、より正確に言えば、回心―入信式に起こるクリスチャンとキリストとの霊的関係に信仰者を入ることを表現するためにバプテスマの儀式から引き出された比喩に過ぎない。

この見解について説明するための著者の議論は、大筋、以下のようなものです。

(1)「キリストを着た」は明らかに比喩である。
・着物を変えることを比喩的に用いる旧約の例。
・新約の並行的用法[ローマ13:14、コロサイ3:10、エペソ4:24]。

(2)ここでパウロが考えている霊的現実は、おそらく聖霊の賜物であり、パウロはキリストを着ることとキリストの御霊を受けることとを同一視したのであろう。
・御霊の到来を服を着るという言葉で表現することは旧約及び新約等に見られる。
・聖霊を受けることはそれ以前の文脈で主要なものであり、3:26、27がその一部であるパラグラフの結論(4:6,7)において子となることと嗣業に結びついている。
・3:29の「あなたがたがキリストのもの」は、ローマ8:9によく似ている。
・パウロにとってキリストは霊によって、あるいは霊として経験される。)

(3)キリストを着ることが比喩であれば、キリストにつくバプテスマを受けることも同様に比喩でである。
・27節aと27節bとの関係はとても密接であるので、これらの節を相互交換可能な表現として受け取らなければならない。
・文脈は、外的、身体的儀式によって入れられる古い契約と、信仰の行為によって入る新しい契約との対照であり、事実上、肉による子と御霊による子との対照である。
・パウロは、割礼と信仰との間を対照としており、割礼とバプテスマとの間を対照としてはいない。
・第一コリント12:13や第二コリント1:21との比較が示すように、εβαπτισθητεの主語は神である。
・βαπτιζειν εισの他の用例(ローマ6:3、第一コリント12:13)から、βαπτιζειν εισ Χριστονは、人を「キリストにある」者とする神の行為を表わす比喩的方法である。

ガラテヤ4:6、7

ガラテヤ4:6は、パウロにおいてペンテコステ派神学をサポートする唯一の節だそうです。但し、最近になってネオ・ペンテコステ派によって用いられるようになったもののようです。また、堅信礼を高く評価する人々もこの節を用いてきたそうです。

「あなたがたは子であるゆえに、神は…御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」とは何を意味するのか。4:6は神が回心においてでなく回心の後で保証の意味に言及しているという示唆や、入信式に第二段階、すなわち堅信礼について語っているという示唆は、ガラテヤ3章でパウロが語っていることやローマ8:14-16の並行記事に照らして、拒絶されなければならないと著者は言います。

ガラテヤ3章は、既に検討されました。そこでは、聖霊の賜物は信仰による義認と同じであり、個人を約束の契約に入れるものであり、クリスチャン生涯を始めるものである(3:3、14)。このように聖霊を受けることは意識的「経験」(本文イタリック)であることが明らかである(3:2、4)。そして、パウロは4:6で3章で言及されているのとは違う聖霊の到来について彼が考えているのだという示唆を与えていない。

また、ローマ8:15、16は回心後聖霊が来ることとしては決して理解され得ない。もしそう理解すれば、8:14が理解不能になるからである。

(子である)「ゆえに」と訳されるοτιは、thatとかto prove thatのように説明的意味に訳すことも可能であるが、たとえοτι=「ゆえに」と訳したとしても、よりもっともらしい解釈は次のようなものである。すなわち、4:6は回心―入信式における聖霊の賜物について語っているのであって、それによって、御子が来られた(εξαπεστειλεν)ことによってもたらされた子であるという客観的事実が彼の主観的経験において個人の人格的所有となるのである。

このような著者の見解をサポートする釈義的議論として、大筋次のような議論を展開しています。

(1)4:6において、思想の連続性は時間的順序によるものではなく、論理的なものである。

4:7で「子ならば…相続人です」というのは論理的順序である。相続人であることが子であることの論理的結論であるように、御霊を持つことは子であることの論理的結論である。

(2)時間的順序として解釈するとパウロの比喩の混合をとらえそこなう。

4:1-7において、パウロは実際には調和しない二つの比喩を組み合わせている。未成年の相続人と、奴隷の比喩である。回心以前の状態は、奴隷と変わらない未成年の相続人であり、この世の初歩的な霊の奴隷であった。クリスチャンになることは、未成年の相続人が成年相続人になることであり、奴隷が養子縁組された子となることである。十分な(相続人としての)権利と子としての経験は御子の御霊が送られることによって有効なものとなる。

(3)二つの比喩を結びつけるのは救済の歴史の適用である。

相続の比喩及び個人の回心において映し出されているものは、律法とわざの契約と約束と信仰の契約との単一の断絶である。しかし、二つの契約の間の実際の断絶は二つの段階を持つ―受肉における御子の派遣(4節)とペンテコステにおける御子の御霊の派遣(6節)である。そして、このことは個人の回心においては、子とされることと、その時受ける御霊との二つの側面に映し出される。

ガラテヤ5:24、25

この節は、2:20とは二つの点で違っていることを著者は指摘します。肉を十字架につけることは自己が課すること、そして命が御霊に属するものとされていることである(「もし御霊が私たちの命の源であるなら」―NEB)。クリスチャンになることは、御霊によって決定づけられた命に入ることであり、その最初の瞬間からそう決定づけられている。


このような諸節の検討の結果を受け、著者は次のようにまとめます。

パウロの初期の手紙において確信をもって言うことができるのは、御霊と信仰との相互関係が、回心―入信式についての彼の考えの主要テーマであることである。二次的聖霊の到来については何も語られておらず、βαπτιζεινはキリストとの結合、言い変えれば回心と呼ばれるものの比喩として一度だけ用いられている。

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