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長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

『黙示録の希望―終末を生きる』

2025-04-28 09:46:53 | 

いのちのことば社から発行されたのは知っていましたが、特に購入する気持ちにはなっていませんでした。そんな中、友人牧師たちから問いかけをもらいました。「岡山氏はライトを誤読しているのでは?」とのこと。ライトの著作は私も大きな関心を持って読んできましたので、事の真偽を見極めたく思い、購入、読んでみました。

以下の文章はかなり長文となりますが、友人牧師方へのお返事とともに、ライトの終末論については自分の中で整理され切っていないことを感じていましたので、この機会にライトの終末論を整理する意味でまとめてみました。

まず、本書を最初のページから読み進めるうちに、大きな関心とともに感嘆の思いすらしながら読むことになりました。予想に反して、ライトへの批判は最後の方に少しだけ出て来るだけで、全体としては黙示録に対する研究・概観の書といった趣でした。

感嘆ポイントその1 旧約聖書と黙示録との関わりの指摘

黙示録を読むとき、参考に挙げられる旧約聖書箇所としては、ダニエル書あたりを挙げられることが多いと思いますが、出エジプト記の災いと黙示録の災いとの間に深い対応関係があること(3章)、神の裁きの描写におけるエレミヤ記と黙示録の対応があること、エゼキエル書と黙示録では重要な幻が共通しており、しかもほぼ同じ順序で現れること(4章)等を指摘しています。これらの指摘は、聖書学での常識になっているのかもしれませんが、私にとっては若干の衝撃を覚えるような新鮮な指摘でした。

感嘆ポイントその2 社会的関心の広さ

近年、福音派の聖書理解が個人主義的になりがちだとの指摘が多くなされるようになりましたが、私自身、その傾向は否めません。その意味で、岡山氏の社会的関心の広さには驚かされます。「小羊の非暴力」について述べる箇所では、近年の戦争ばかりでなく、十字軍から19世紀帝国主義列強による植民地支配に至るキリスト教国による戦争の流れについても言及(第6章第2節)。「真理の証言」とのタイトルの節では、現代が「脱真実の時代」になっていること、共同体が弱体化し個人が断片化されていること、強固な監視システムによって異論が封殺される傾向にあること等、世界的な傾向を指摘するとともに、日本においても国家神道の復権、改憲への動きが強まっていることを指摘しています(第7章第3節)。大バビロンへの言及では、貧富の格差、あらゆるものの商品化、気候変動や軍需産業の問題を指摘します(第8章第2節)。通り一遍な関心ではなく、世界の諸問題にキリスト者としての視点で真摯に向き合っておられることを伺わせられます。

感嘆ポイントその3 内村鑑三への関心

内村鑑三の著作に対する造詣の深さも私には感嘆ポイントでした。内村が再臨信仰を強調したことはよく知られていますが、内村の死生観や終末論について、通り一遍のことでなくて、その信仰内容の変遷まで指摘しながら紹介されています(第2章第3節、第9章第4節)。特に内村の再臨信仰形成の背景に彼の聖霊体験があったとの指摘は意外でもあり、関心をそそられる指摘でした(200-203頁)。

感嘆ポイントその4 終末論の類型説明と歴史概観の分かりやすさ

一般に千年王国や患難期に関する神学的類型の説明は、実際の所どの立場がどういう理解に基づきどういう主張をしているのか、分かったようでよく分からない所が残る場合が多いのですが、岡山氏の簡潔ながら的確な説明によりよく理解することができました。無千年期説と後千年紀説はどこが同じでどこが違うのか(235頁)。
初代教会が前千年期説であったのに対して、4世紀、ローマ帝国のキリスト教国教化に伴い無千年王国説に移行したこと(228、229頁)。このあたりは、裏を取りたい人のために参考文献を挙げておいて頂けたらと思いましたが、とりあえずの理解として頭を整理するためには大いに役立ちました。


以上、感嘆ポイントを4点挙げました。読み進むうちに岡山氏が日本の福音派を代表する学者であることを改めて感じさせられました。

さて、問題のライト批判ですが、私の予想に反してこの点に直接触れられるのは11章のみでした。このあたりの経緯については「あとがき」に詳しいのですが、要は「当初は批判を中心としていたが、推敲していくうちに、批判は希望に吸収されていった」ということのようです(315頁)。これは、本書の価値を高める結果になった面も確かにあると思います。「第1~9章、12章は、黙示録また新約聖書の『希望』について、最も重要な点をできるだけ分かりやすく書いた。この部分が本論であり、伝道のために用いていただければと願っている。」(315頁)とあるますが、単なる批判本を越え、キリスト者のみならず一般の方々にも読んで頂ける内容となっていると思います。

ただ、本書のもともとのねらいであったはずのライト批判においては、私としては物足らなさを感じました。分量的に少ないということもありますが、加えて以下の2点を感じました。


物足らない点その1 ライトの終末論を正確に表現していないのではないか

学問的に何かを批判しようとする際には、その前提として、まず批判の対象について正確に把握することが必要となるはずです。ライトの終末論について、岡山氏が表現する所はかなり簡潔な表現となっており、内容的には単純化し過ぎているように思われる部分がいくつか見受けられます。

特に目をひくのは、あとがきに記された次の一文です。「(福音派の終末論が大きく揺らいでいるとの指摘に続いて)強い影響を与えているのはN・T・ライトの終末論である。再臨はない、新天新地もない、死後に天国へは行かないと強調している。」(311頁)この一文をそのまま読めば、大方の福音派クリスチャンは「これはひどい」と感じるだろうと思います。しかし、この一文は、ライトの主張をかなり歪めて理解する危険性があると思います。ライトファンの読者がこの一文を読めば、「ライトはそんなことを言っていない」と言いたくなるだろうと思います。

ただ、よくよく本書を読み返してみると、あとがきのこの一文は、本書におけるライト批判の要約として読むことも可能です。それらの批判は、本書中、文章量は決して多いものではありませんが、ライトの著作からの引用を行い、それらに対する批判を簡潔に記しています。これらの批判点を整理すれば、キリストの再臨について、新天新地について、また、「死後天国に行く」という救い理解についてのライトの主張を批判する内容となっています。そういう意味では、あとがきの一文が本書のライト批判の要約だという見方が成立するかもしれない、と思います。

しかし、これらの批判は、それ自体、かなり簡潔な文章にまとめられていますので、ライトの複雑な議論をどこまで汲み取れているか疑問に思われる部分がありますし、一部、曲解と言ってもよい議論がなされている部分もあるように思います。加えて、あとがきの一文は、本書中に記されたライト批判の要約としても極度に単純化されており、事実誤認を与えかねない一文であると思います。

以下、あとがきの一文が示す三つの点について、一つずつ、少し詳しく見て行きます。

(1)再臨はない?

キリストの再臨についてのライトの主張を直接的に批判している文章は、本書253-254頁に見られます。ここでの岡山氏の批判点は、さらに細かく見れば、以下の三点になります。

a.「人の子が雲に乗って来る」(マタイ24:30)は再臨についてではなく、キリストの初臨を意味するとライトは主張する
b.ライトは文字通りのキリストの再臨を否定する
c.ライトは文字通りの携挙も否定する

以下、一つずつ順番に見ていくことにします。

a.「人の子が雲に乗って来る」(マタイ24:30)は再臨についてではなく、キリストの初臨を意味するとライトは主張する

たとえば、本書中にライトの次の文章が引用されます。

「それゆえ『人の子が雲に乗って来る』(マタイ24・30)とイエスが語ったとき、彼は再臨の話をしたのではなかった。」(『驚くべき希望』218頁、本書253頁で引用)

この部分だけを読めば、ライトがキリストの再臨を否定しているように思えますが、ライトの著作全体を読めば、ライトが再臨の教理全体を否定しているわけではないことがすぐに分かります。すなわち、上記引用箇所でライトが論じているのは、福音書に記されたイエスのことば「人の子が雲に乗って来る」(マタイ24:30他)の解釈の問題です。ほとんどの福音派の学者はこの部分がキリストの再臨を預言した箇所だと解釈しますが、ライトは続く箇所で以下のように説明します。「この『来る』とは、上に行くことであり、下に来ることではない。この文脈で、ここでの中心的テキストの意味は、イエスは死ぬが、その後に起こる出来事によってその正当性が立証される、ということなのだ。」(『驚くべき希望』218頁)

ちなみに、上記引用部分に続き、岡山氏が『驚くべき希望』から一体のものとして引用している後半部分は、以下の通りです。

「これらのたとえ話は、イエスの再臨についてではなく、最初の初臨のことだったのである。」(『驚くべき希望』219頁、本書253頁で引用)

これは、また異なるたとえ話についてのライトの説明文章から取られています。その前の部分から引用しますと、「王や主人が商売に出かけている最中に、召使いにお金を預けるというイエスのたとえ話は、かなり初期のころから、再臨までのイエスの不在期間に教会に仕事を託すこととして読まれてきたが、本来はそういう意味ではなかった。これらの話は一世紀のユダヤ世界に属するものである。その世界でこの話を聴く人は、誰もがただちに神ご自身についての話だと理解した。神はバビロン捕囚のときイスラエルと神殿を去ったが、捕囚後に預言者たちが預言したように、やがて再びイスラエルに、シオンに、神殿に戻って来られるのである。」(『驚くべき希望』218、219頁)そして、本書で引用されている部分へと続きます。「これらのたとえ話は、イエスの再臨についてではなく、最初の初臨のことだったのである。」(『驚くべき希望』219頁)

かなり離れた箇所にある引用をひとつなぎのものとして引用しているので、ライトがここで福音書の二つの箇所について説明していることは、本書の引用を読むだけでは分かりません。それでも、この二箇所だけを読めば、「ライトは再臨を否定しているのか」と思えることも確かです。しかし、さらにライトの著作の前後を読めばそうではないことも明らかになっていきます。

たとえば、それらの箇所の前に、ライトは次のように書いています。「したがって、今日の状況を大枠で見るとき、二つの正反対のものに直面することになる。一方で、再臨をあまりに中心的なものにしてしまい、他のものがほとんど目に入らない人たち、もう一方で、再臨をあまりに隅に追いやって弱めてしまい、ほとんど何の意味も持たなくしてしまった人たちである。どちらの立場にも問題がある。」(『驚くべき希望』210頁)ここでは、ライトが再臨だけを中心的なものと考える立場を問題視するだけでなく、再臨を隅に追いやってしまう立場をも問題視していると言っています。

「そうは言っても、上記二箇所の引用を見れば、やはりライトは再臨を否定しているように見えるではないか。」と思えるかもしれません。しかし、そうした疑問についても、ライト自身がすぐ答えています。「『人の子』という言い方と、『戻って来る主人、または王』のたとえに関するこれら二つの歴史的考証により、特にアメリカの読者から私は攻撃を受けるようになった。私が再臨の教えや信仰を捨てたと言うのだ。それは本章で明らかになるように、まったくばかげたことである。」(『驚くべき希望』219頁)続いて、そのような誤解に対するライトの反論(弁明)がかなり詳しく書き綴られていきます。

要は、新約聖書でキリストの再臨について教えているのは、福音書ではなく他の部分によるということです。「では、福音書で説明しているイエスの教えが再臨を指していないのなら、『再臨』の教えはどこから来たのか?簡単に言うと、新約聖書の残りの箇所からである。」こう言って、使徒1:11から始まり、パウロ、ヨハネの各種表現を取り上げていきます(『驚くべき希望』221~234頁)。その中でも、ライトは「来臨」と訳されているパルーシアが「文字通りの意味は『臨在・現存』、つまり、『不在』の反対の『存在』である」と言って、一筋縄ではいかない問題があることを示唆するのですが(『驚くべき希望』222頁)、同時に第一コリント16:22、コロサイ3:4を引用し、キリストの再臨について「来てください」、「現れる」といった用語で表現されていることを指摘します(『驚くべき希望』230、231頁)。

岡山氏は、ライトのこのような議論(弁明)について何も言及していません。ライトの主張を厳密に見るなら、再臨自体の否定ではなく、「福音書で説明しているイエスの教えが再臨を指していない」という点に焦点があることが分かります。

もちろん、福音書自体には再臨を示唆するイエスの教えはないという主張は、従来の保守的な聖書解釈に対して大きく修正を求めるものです。おそらくは、多くの神学者からは受け入れられないものと言われることでしょう。たとえば、使徒1:11を記録したルカが、福音書で似たようなイエスの表現を再臨を意味しないものとして記録したとするのはいかにも不自然に思われます(ルカ21:27)。しかし、そうではあっても、ライトの主張を「再臨はない」という主張として表現するのは行き過ぎだと思います。

b.ライトは文字通りのキリストの再臨を否定する

この点については、以下の通りです。

「そして文字通りのキリストの『再臨』を否定する。
『イエスが「やって来る」とは宇宙人のように空から下りて来ることだ、という考えを払しょくする』(同書、二三一頁)」(253、254頁)

引用されている箇所は、先ほど紹介したコロサイ3:4の「現れる(ファネーロオー)」という表現についての解説部分です(『驚くべき希望』231頁)。ライトはコロサイ3:4の「現れる」が、「やって来る」と訳されてきた「パルーシア」の代わりに用いたと言います。そして、「現れる」=「やって来る」について、「宇宙人のように空から下りて来ることだ、という考え」を払拭すべきことを主張しています。

「宇宙人のように」という表現は、聞き慣れない表現です。おそらくは、保守的な再臨理解をライトがいくらか揶揄する意味で用いた表現なのでしょう。しかし、確かに保守的な理解では、コロサイ3:4の「キリストが現れる」とは、目に見えるかたちで天からキリストがくだってこられることをイメージしてきたと思います。ライトは、コロサイ3:4の「現れる」の本当の理解は次のようなものだと言います。

「イエスは現在、天に臨在しておられるのだ。
しかし、先に見たように、天は神の領域である。それは私たちの領域内の宇宙のどこかにあるのではなく、むしろ、私たちと密接に関わっているけれども異なる領域なのである。約束されているのは、イエスが現在の世界の秩序の中に単にもう一度現れるということではない。神の約束された新しい形で天と地が一つに結び合わされるとき、イエスは私たちのところに現れるということである。」(『驚くべき希望』231、232頁)

後で見るように、ライトの終末論においては、新天新地の理解が重要になります。そこでは、「新しい形で天と地が一つに結び合わされる」という表現が鍵となります。キリストが「現れる」とは、いわば「新しい形で天と地が一つに結び合わされる」という出来事が起こる中で、その一環として起こることだという理解があるように思われます。

天におられるキリストが「現れる」とは、天と地が離れたままの状態にあり、離れた天から地にキリストが降りて来られる…そういった従来の理解に修正を与えるものとなっています。この修正を「若干の修正」と見るか、「大幅な修正」と見るかは人によって違うかもしれません。ただ、少なくともライト本人としてはキリストの再臨自体を否定しているつもりはないと主張していることになります。

「本人がそう主張していても、これは聖書が示す再臨とは違うので、キリストの文字通りの再臨を実質的に否定するものだ」という主張はあり得るかもしれません。しかし、このようなライトの主張を単純に「文字通りの再臨を否定している」と評価するのは不十分であるように思われますし、ましてや「再臨を否定している」と要約するのは少々強引なように私には思えます。

c.ライトは文字通りの携挙を否定する

この点は、以下のように指摘されます。

「さらに再臨に伴う文字通りの『携挙』も否定する。
『「空中で出会う」とは文字通りの記述ではなく、高度に比喩的な表現である』
『これは何重にも込められた高度な隠喩的修辞の典型例である』(同書、二二九頁)」(「同書」とは『驚くべき希望』をさす)(254頁)

引用されているライトの文章は、前後かなり長文の文章で第一テサロニケ4章の「携挙」を取り扱った文章からの引用です(222-230頁、特に226-230頁)。ライトは「空中で出会う」という表現について、「高度に比喩的な表現」、「高度な隠喩的修辞」と説明するわけですが、それでは「空中で出会う」という表現が実際に意味するところは何であると言うのでしょうか。前後の文章は、かなり難解で入り組んでいますが、私が見る所、次の一文に要約されているように思われます。それは引用された一文「これは何重にも込められた高度な隠喩的修辞の典型例である。」に続く次の一文です。「それが指し示す現実は、『イエス自身が直々に存在するようになり、死者はよみがえり、生存中のキリスト者は変容される』ということなのだ。」(229、230頁)

これは確かにかなり比喩的な解釈だと言えるでしょう。「それが指し示す現実」として挙げられている内容自体に問題を感じる人はほとんどいないかもしません。しかし、そのような内容が「空中で出会う」と表現されているとするのは、一見、ウルトラC的な解釈と見られそうです。

ライトのここでの解釈の背景には、三つのストーリーとの関わりがあるとされます。第一は、「モーセが十戒を受けた後に山を下りるストーリー」、第二は、「ダニエル書七章のストーリー」、そして、第三はローマ皇帝が属州を訪れるとき、その国の市民が皇帝を迎えるために市街からかなり離れたところまで出かけて行き、皇帝にまみえたのちは、皇帝をうやうやしく街の中までお連れするというストーリーです(『驚くべき希望』228頁)。こうしてライトは、第一テサロニケ4章の「空中で出会う」をこう説明します。「ここでパウロが言わんとしていたのは、戻って来られた主を出迎えたら、主ご自身の領地、すなわち主を出迎えるために彼らが後にした場所に、主をうやうやしく迎え入れることなのである。」(同書229頁)特に、第三のストーリーについては、直前に現れる「来臨」(パルーシア)という表現が、キリスト者でない人たちには、王または皇帝が属州を訪れるときの訪問を意味したことを指摘しており、同じストーリーが「空中で出会う」という表現の背後にも読み取れると言います(同書223頁)。

実は、ライトのこのような理解は、「空中で出会う」についての岡山氏自身の理解と方向性が重なっています。岡山氏は、「会う」と訳される表現アパンテーシスの用例に注目します。「名詞としての用例は他に二回のみであり、共に迎えに行って戻って来ることである。」(216頁)具体的にはマタイ25:6と使徒28:15に見られ、いずれも迎えに行って戻って来ることを意味していると指摘します(216-217頁)。従って、「イエスは天から下り、そのまま地へ向かう。キリスト者は、地上から天へ上げられ、空中でイエスを『出会え』、方向転換して地へ戻る」という構図になります。こうして、「この語の用例は、後患難期説を支持する」と結論付けられることになります(217頁)。

ライトも岡山氏も、「空中で出会う」について、迎えに出て戻るということをイメージするものとしている点では共通しています。ただ、岡山氏が一旦は文字通り空中に挙げられることをイメージするのに対して、ライトは「高度に比喩的な表現」、「高度な隠喩的修辞」として、文字通りのイメージとしては捉えていないように思われます。おそらく、ライトの再臨理解が「天と地が一つに結び合わされる」という出来事の一環として理解されているため、イエスを「出迎える」のに文字通り空中に挙げられる必要がないということなのかと思います。

なお、いずれにしても、これは「携挙」(空中で出会う)についての議論ですので、キリストの再臨自体の理解とはまた違う議論になっていることも注意すべきでしょう。

(2)新天新地もない?

あとがきの中の「新天新地もない」という表現にも、驚かされます。と言うのも、ライトは著作の中で度々新天新地を強調しているからです。たとえば、以下の通りです。

「(何が良い知らせなのかという議論の中で)未来についての良い知らせは、地上を去って天国に行くことなどではあり得ないことが分かります。それは天と地が一つになることに関わるはずです。それは被造物世界そのものが更新され、回復することに関わっているのです。」(『シンプリー・グッドニュース』155頁)「天国に行く」ことに焦点を合わせた福音理解を排しており、保守的なクリスチャンには疑問符がつく表現かもしれませんが、ライトはこうした強調点を持っています。そして、「天国に行く」ということに焦点を置くよりも、「天と地が一つになること」、「被造物世界そのものが更新され、回復すること」に焦点を置くべきだと主張します。

続く箇所では次のようにも記します。「もし私たちに約束されているのが新しい天と新しい地、すなわち神の空間と私たちの空間が永遠に一つにされるような、まったく新しい宇宙なのだとしたら―これこそ新約聖書の記者たちが繰り返し語っていることですが―良い知らせとは、魔法の合言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなく、被造物世界の全体についての知らせであり、被造物世界全体のための良い知らせなのです。」(『シンプリー・グッドニュース』167頁)ここでは、「私たちに約束されているのが新しい天と新しい地」だと言い、それこそが新約聖書の記者たちが繰り返し語っていることだと言います。この一文を見る限り、ライトは「新天新地はない」とは言っておらず、むしろその使信に焦点を当てるべきだと言っているように見えます。

但し、先にも指摘しましたように、新しい天と新しい地に対する見方は、ライトならではのものがあると言えるでしょう。「天と地が一つになる」、「神の空間と私たちの空間が永遠に一つにされる」といった表現は、あるクリスチャンにとってはあまり聞きなれない表現になるかもしれません。また、古い天と古い地と新天新地の非連続性を強調する立場からすれば、新天新地を「被造物世界そのものが更新され、回復すること」と表現することは不足があると見られるかもしれません。

岡山氏は、新天新地について次のように説明します。「新天新地は、エデンの園の『創造の回復』ではなく『万物の刷新』でもない。それは現在の世界とは全く異なる、新しい次元の、根源的に変革された、真に驚くべき新しい世界である。」(290頁)こうした見方からすれば、ライトの言う新天新地の見方は、聖書の言う新天新地とは違うということになる可能性があります。

岡山氏は聖書の示す終末論に「根源的変革」が伴うことを強調しています(251-252頁)。これに対してライトはこの点を否定していると指摘します。

「②の『根源的変革』も文字通りには起こらない。それゆえこの世界は終わらない。宇宙的な根源的な変革による新天新地はないとライトは言う。
『「神の国」の到来は世界が終焉を迎えることとは何の関係もない』(『新約聖書と神の民』(上)新教出版社、二〇一五年、五〇五頁)
『世界の終焉ではなく、現在の世界の秩序の終焉』である(同書、五二七頁)
『エルサレム陥落と神殿の破壊を示すために、世界の終わりを表わすような言語が用いられている』(『シンプリー・ジーザス』あめんどう、二〇二七年、三〇八頁)」(254頁)

このように見れば、ライトは確かに「根源的変革」を否定しているように見えます。ただ、挙げられている引用箇所については二つほど注意点があることを指摘しておきたいと思います。

第一に、一つ目と二つ目の引用は初代教会の終末論を扱った箇所ではなく、「イスラエルの希望」を取り扱った文章から取られていることです。ライトは、「福音書記者たちはイスラエルのストーリーが大いなるクライマックスを迎え、それが世界の長い歴史の方向をついに変える出来事だったと信じていた」と言いますから(『新約聖書と神の民』(上)725頁)、イスラエルの希望についての言及は、福音書記者たちの終末理解につながることが予想されます。実際、同じ書の下巻には次ように主張されます。「したがって、福音書記者たちは時空間世界の差し迫った終焉を期待していなかったのである。そんな考えは、単に彼らの用いた黙示的言語の読み違えから生じるものだが、そうした言語が真に指し示していたのはその時の世界秩序の終焉である。」(『新約聖書と神の民』(下)733頁)ライトの終末論理解を検討するべく引用するとすれば、こちらの方が直接性があったのではないでしょうか。

第二に、三つ目の引用も、また、先ほど紹介した代替引用箇所も、福音書を扱ったもので、直接的に新天新地に関する言及があるわけではないことです。「世界の終焉」か「世界の秩序の終焉」かという問いは、岡山氏からすれば、新天新地に関する問いとして見られるということかと思いますが、少なくともこれらの箇所の前後で、ライトは直接新天新地についての言及しているわけではありません。

これらのライトの主張点を見るとき、新天新地に対するライトの理解は、「世界の終焉」と呼ばれるものではなく、「世界の秩序の終焉」となるであろうことは予想されますが、新天新地が「世界の終焉」を意味するものではないというライトの言述があれば、そちらを引用するほうがよかったと思います。

まとめますと、「宇宙的な根源的な変革による新天新地はないとライトは言う。」という岡山氏の指摘は、少なくとも引用されている箇所からは「そのように予想される」としか言えないのではないかと思います。ましてやライトの終末論を「新天新地もない」と表現するのは、正確さに欠けるように思われます。

(3)死後に天国へは行かない?

上の議論の途中で触れましたが、「死んだら天国に行く」ということに焦点を当て過ぎた福音理解に対して、ライトは常に批判的です。たとえば、次のようにも書いています。「『救い』と聞けば、ほぼすべての西洋のキリスト者は、『死んだら天国に行くこと』を意味すると思うだろう。しかし、これまで私たちが語ってきたことの光に照らして少し考えれば、それはどう考えても違うと分かる。」(『驚くべき希望』317頁)こう書いてライトはむしろ復活に焦点を置いた救い理解を提唱します。

続く箇所では次のようにも書いています。「『死んだら天国に行くこと』が『救い』だと思っている限り、教会の主要な働きは、将来に備えて魂を救うという観点から見る以外になくなってしまう。しかし、『救い』を新約聖書が見ているように見るならばどうか。すなわち、『神が約束した新天新地と、輝かしい体を持つ新しい現実を共有するために、私たちに約束されている復活(『死後のいのちの後のいのち』と私が呼んだもの)という観点から見るのだ。そうすれば、教会がいまここで取り組むべき重要な働きについて、必然的に考え直さなければなくなる。」(『驚くべき希望』321-322頁)

これらの箇所だけを読めば確かにライトが信仰者が死んだら天国に行くことを否定しているように見えます。この点について岡山氏は、第2章の注で触れています。霊魂睡眠説が「英国国教会の公式見解である」と指摘しながら(私は存じませんでした!)、ライトがこの立場に立っていると言い、次のように書いています。「ライトはこの説(霊魂睡眠説)に基づいて、キリスト者であっても死後に天国へは行かないと断言する。『新約聖書や使徒行伝のどこを見ても『イエスは天に昇られたので、私たちもイエスのあとを追って確実に天に行けるようにしよう』とは(それに近いことすら)誰も行っていない」(『驚くべき希望』あめんどう、二〇一八年、二〇五頁)。『死者はどこにいて、それがどんな状態であるかを描写するのは難しい。新約聖書のほとんどの記者もそれを試みていない』(『クリスチャンであるとは』あめんどう、二〇一五年、三〇六頁)。『キリスト教は「死んだのち天国に行く」新しい道筋をイエスが提供し、実例で示し、完成したというのでもない』)(同書一三二頁)」

しかし、ライトが霊魂睡眠説に立っているとは私には思えません。なぜなら、次のようにも書いているからです。「(キリスト者が死後行く場所について、煉獄などの諸説に触れた後)そういうわけで、すべての亡くなったキリスト者は、基本的に皆同じ状態、すなわち休息に満ちた幸福な状態にある、という第四の考えに至る。『寝ている』状態として表現されることもあるが、それを無意識の状態だと考えるべきではない。死の直後のいのちを無意識の状態だと思ったのなら、パウロは『キリストとともにいるほうがいい』とは言わなかっただろう。むしろここでの『寝ている』とは、『死』によって体は『寝ている』状態にあるが、本当のその人は(それをどう表現するにせよ)続いていることを意味する。」(『驚くべき希望』284頁)無意識の状態にあるのではないと言いますので、霊魂睡眠説とは違っているように思われます。

しかし、続く箇所でライトはその状態について次のようにも書きます。「これはもちろん、死後のキリスト者の最終的な定めではない(すでに見たように、死後のキリスト者の最終的な定めは体を伴う復活である)。死の状態は、復活の日を待つまでのあいだ、死者が神の愛とイエス・キリストの臨在を自覚し、その中にしっかりと抱かれている状態のことである。これを『天国(heaven)』と呼べないわけでもないが、新約聖書はそう呼んでいない。新約聖書が『天(heaven)』と言う時は、興味深いことにつねに別のものを指していることを指摘しておかねばならない。」(『驚くべき希望』284頁)

これらの叙述を丁寧に見て行くならば、ライトが「死後天国に行く」と言うことに対して異議を唱えているのは、以下の点であることが見えてきます。「究極の目的地は(繰り返すが)『死後に天国にいくこと』ではない。そうではなく、イエス・キリストの栄光に満ちた姿に似た、変容された体でよみがえらされることだ(幸せな未来が私たちを待っていることも重要だが、ここでもっと重要なのは、私たちがキリストの姿を完全に反映する者となり、神の栄光が現わされることである)。このように、『死後天国に行く』ことについて語りたいのであれば、それは二段階のプロセスのうちのあまり重要でない最初の段階を指していることを、はっきりとさせるべきである。」(『驚くべき希望』279頁)

従って、キリスト者が死んだ直後に行く場所についてのライトの主張は、厳密に言うならば、「天国に行く」という表現を新約聖書が採用していないという主張、そして、その表現を採用したとしても、死後の「二段階のプロセスのうちの重要でない最初の段階を指している」という主張から成っていると考えることができます。ライトとしてはむしろ、「死後のいのちの後のいのち」すなわち体の復活に焦点を置くべきだと言っていることになります。

従って、キリスト者が死後に天国に行くこと自体を(新約聖書がどう表現しているかの問題を別にすれば)ライトは否定していないということになります。

あとがきの一文に基づき検討を進めてきました。私自身は、ライトの終末論についての幅広い言及は、聖書の新鮮な読み方を促すものではあるものの、語られたところをそのままそっくり受け入れてよいとは考えていません。福音書でイエスはご自身の再臨について言及していないとするライトの理解は、従来の解釈に大きな変更を迫るものです。挙げられている一つひとつの箇所について、正しい解釈がどうであるのか、慎重な吟味が求められると思いますし、私としては、「慎重に吟味すればライトの理解は受け入れられないという結果になるのではないか」と予想しています。また、ライトの新天新地の理解は厳密に正しいものなのか、吟味する作業も必要でしょう。ライトが言うように、キリスト者の希望としてもっと復活に焦点を置くことは大切だとしても、「死んだのち天国に行く」ことに対してそこまで否定的にならなくてもよいのではないかといった議論もあり得ると思います。

しかし、これまで見てきたようなライトの終末論理解について、「再臨はない、新天新地もない、死後に天国へは行かないと強調している。」との一文にまとめてしまうのは、雑であるし、乱暴でさえあるように思えます。


物足らない点その2 岡山氏のライト批判は前千年期説、後患難期説に立ってなされている

これは「物足らない点」というよりも、「どうなのか」と考えさせられる点と言ったほうがよいかもしれません。すなわち、ライトの終末論を批判するに当たって、福音派の共通理解を基盤として批判することが果たして可能なのか、という問題です。

ライトの著作がしばしば福音派神学者の間で問題とされるのは、福音派の共通理解とされてきた様々な見解に対して修正を迫る点にあると思います。いわば、ライトの主張は福音派内の異説の一つというよりは、福音派全体に対して挑戦状を突き付けているようにさえ見えるわけです。このような場合、福音派の立場からライトを批判しようとするならば、できる限り福音派が持つ共通の基盤に基づいて議論を進めることが求められるでしょう。

しかし、岡山氏はご自分の立場が前千年期説、後患難期説に立っていることを明確にしておられます。他方、福音派の中には前患難期説に立つ者もいれば、無千年期説に立つ者もいます。そうした状況の中で、前千年期説、後患難期説に立ってライト批判が行われた場合、福音派の多くの者が「そうだ、その通り」となりにくい状況が生まれます。

この点については、岡山氏も本書の中で一定の考慮をなさったことを記しておられます。たとえば、前患難期説と後患難期説の違いについては、「大きな一致、小さな違い」があると指摘しておられます(224頁)。そして、「私たちは根本的な点で一致しているなら、小さな違いを越えて力を合わせていくことができる。一致すべき重要な点とは何だろうか。」と言い(225頁)、四つの点を挙げておられます。すなわち、(1)キリストの再臨、(2)再臨直前の大きな苦難の時代、(3)死後の天国、(4)新天新地の実現の四点です。しかし、その後の千年期についての記述では、前千年期説への強調が続き、無千年期説、開始された終末論への批判がなされます(241頁)。指導教官ビール師とのやり取りは大変興味深いものですが、この時点で先ほど見た四つの共通点から「小さな違い」に入り込んでいるようにも思えます。この後、「多くの『開始された終末論』では、マタイ24章のイエスの終末預言はすべて金言七〇年のエルサレム陥落において成就したとする。」(250頁)、「しかし、イエスの終末預言は七〇年ですべて成就したわけではない。」(251頁)と指摘した上で、ライトの終末論批判へと続きます(253、254頁)。従って、議論の流れとしては、四つの共通点を基盤にした議論になっているのかどうか、少し見えにくくなっているように感じます。

たとえば、「開始された終末論」との関連で言えば、同じく後患難期説に立つと思われるG・E・ラッドは、終末論における「すでに」と「未だ」の両方をバランスよく捉えようとしているように思われます。私が見る所では、「すでに」と「未だ」のいずれかに偏るよりも、両方を見ていこうとする立場の方が、福音派の共通理解を得やすいようにも思うのですが、どうでしょうか。

あとがきを読む限り、ライトの終末論に対する批判は類書もなく、岡山氏としてもどう取り組むか随分悩まれたようです。あちこちでの講演を積み重ね、試行錯誤を経ながら、本書の形にまとまってきたということのようです。その中で、「ライトが無千年期の極端なかたちをはっきり提示してくれたので、その対比として歴史的前千年期説を語ることができた」と書いておられます(315頁)。私としては、ライト批判の書として読むよりも、むしろ、黙示録から歴史的前千年期説を分かりやすく展開する書として読んだ方が素直に読めるように思います。

私自身は、患難期や千年期に関する諸説を見比べながら、「これ」と確信できているわけではありません。むしろ、聖書が決定的に明瞭な形で書いていないのであれば、「これ」と決めつけないほうがよいのではないかという思いがこれまでありました。無千年期説も「もしかしたらあり得るかも」という思いも持っていました。しかし、本書を読む中で、前千年期説や後患難期説に対して、改めて説得力を感じることができました。今後、黙示録の終末論を議論する上では、一つの有力な足掛かりとなる書であることは間違いないと思います。

あとがきには次のようにもあります。「彼の救済論はすでに批判されているが、その終末論の全体を批判した本はまだない。彼の『驚くべき希望』の出版から十三年、邦訳から五年が経つが、まだ一冊も本格的な反論の書が出版されていない。イギリスのボウカム師にも確認したが、ライトの終末預言七〇年完全成就説への批判の書は出版されているが、その終末論の全体を論じた本は出ていないとのことだった。」(311-312頁)この点は、私も、「反論の書出ないのかな」と思っていましたが、一向に出て来る気配がないので、どうしてだろうかと思っていました。日本だけのことだけでなく、世界的にもそうだとすれば、不思議の感はなお強まります。

しかし、今回、岡山氏のライト批判を検討する中で、ライトを批判することの困難さを改めて感じました。一見、簡単に批判できるだろうと思っても、ライトの主張点を丁寧に吟味していくと、どんどん議論が複雑になっていきます。ライトの主張の背後には、膨大な聖書神学的取り組みがあり、さらには聖書の読み方全体に関わる独自の神学的方法論もあるので、そのあたりまで踏み込んでいく必要があります。ライトの主張をトータルに、かつ正確に把握したうえで、的確に批判していく…これはどんな神学者にとっても相当困難なことなのだと思いました。

しかし、一冊もなかったところに、まずは一冊出て来たということですから、その点においては大きな一歩だったと思います。今後、日本や世界の福音派神学者の間で、なお踏み込んだ議論が進んでいくことを期待したいと思います。

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ゲーテはすべてを言った

2025-01-28 20:07:02 | 

芥川賞を受賞した本の著者が牧師家庭の息子と知り、内容的にも興味深そうだったので、早速購入しようと(アマゾン購入より早いと考え)久し振りに町の本屋へ。ところが、売り切れて最早なく、再度入って来るのは1月下旬かと言われ、結局はアマゾンで購入。それでもすぐには届かず、結局一昨日の到着となりました。

著者の鈴木結生は西南学院大学の大学院生。23歳の若さもあり、結構注目されているようですが、私としてはやはり牧師の息子がどんな小説を書いたかが気になりました。

主人公の博把統一(ひろばとういち)はゲーテ学者。大学の先生の日々の生活を背景に、文学、哲学、宗教等に関わる思索や議論が展開され、その方面に関心のない人にとっては読みづらいかもしれません。ただ、主人公の家族・親族、大学の研究者たちとのやり取りは、ユーモアを交えながらテンポよく書き進められ、芥川賞受賞作としてはかなり読みやすい部類になるのでは、と思いました。

「愛はすべてを混淆せず、混然となす」このことばが本当にゲーテの語ったものなのかということを軸としながら物語は進みますが、穏やかそうな学者の生活の中にも大小様々なさざ波が起こって行きます。意外に伏線回収のストーリー展開も織り込まれていて、読者を最後まで飽きさせません。「この家族、一見穏やかな日々を過ごしているようで、どことなくばらばら?」と思わせつつ、最後には…という展開が、「愛はすべてを混淆せず、混然となす」という言葉を改めて浮かび上がらせて物語は閉じられます。

聖書のことばが度々取り上げられ、クリスマスには家族で教会に行ったり、牧師が語る説教が紹介されたりと、「著者もこんな雰囲気の中で育ったのだろう」と思わせます。主人公自身は信仰を持っているわけではなく、かと言って拒絶感を持っているわけでもなく、関心を持ちつつ距離を取っているという感じ。著者ご自身はどうなのだろうと思わせられます。

今後のことについては、「古くて新しい愛の物語を書きたい」と仰ってますので、今後の著作活動にも期待したいと思います。

参考

 

福島の教会で育った幼少期 聖書からの引用も 芥川賞の鈴木結生さん | 毎日新聞

 15日に第172回芥川賞に選ばれた「ゲーテはすべてを言った」の著者、西南学院大大学院生の鈴木結生(ゆうい)さん(23)は福岡市在住だが、福島県郡山市の教会で育った。「...

毎日新聞

 
 

「とにかく並外れた読書量だった」芥川賞・受賞の鈴木結生さん(23) 高校時代の恩師も喜びの声 | 福岡のニュース|RKB NEWS|RKB毎日放送 (4ページ)

福岡市の西南学院大学の大学院に在籍する鈴木結生(すずき・ゆうい)さんの著書「ゲーテはすべてを言った」が芥川賞を受賞しました。高校2年と3年時の担任は、「とにかく並...

RKB毎日放送ニュース

 

 

 

 

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『斜陽』を読んで

2021-08-27 17:56:44 | 

休暇中読んだ何冊かの本の内、最も重く心に残ったのが、太宰治の『斜陽』でした。「読んだことがない」と思いながら、家庭内のある出来事がきっかけで読み始めました。そして、読み進めていくと、途中で「読んだことがある」と気づきました。おそらく、学生時代に読んで、そのあまりの陰鬱さに「忘れよう、忘れたい」と思った結果、いつのまにか「読んだことがない」という意識にまで至ったのだと思います。

二回目読んで、その陰鬱な印象には変わりありませんでしたが、この小説が投げかけるものの重要性については認識できるようになりました。聖書から教えられ、自分自身の経験からも教えられて、人間理解が多少なりとも深まったゆえでしょうか。

「この小説が投げかけるもの」と書きました。私がこの書の中に見出すものは、人間の絶望です。

『斜陽』というタイトルからも、小説の内容からも、この書が表現するのは、華族の家庭に生まれ育った者たちが、経済的に落ちぶれていく中で精神的に歪められ、追い詰められていく様であるように、一見思われます。しかし、私が受け止めたところでは、太宰治が表現したかったことは、社会的に特定な境遇にある人々のことではなく、多かれ少なかれ、すべての人々が抱える闇の領域であったように思われます。

実際、太宰治自身は、大地主の家に生まれたとは言え、華族出身ではないため、作中の言葉遣いが実際の華族の言葉とは違っているとの指摘が当時なされたようです。おそらく、「落ちぶれた華族の家庭」という舞台設定は、この小説がベストセラーとなった一つの要因ともなったと想像されますし、読者の関心を引き付けるため太宰治が意図的に選んだものだったのではないかと思います。しかし、「それが書きたかった」というよりも、一つの舞台設定として選ばれたものに過ぎないのではないかと思います。

参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB

特に私が注目したいのは、作中に登場する聖書聖句の引用です。彼は、この書の中で何度か、聖書聖句を引用します。その意味合いは、ほとんどの場合聖書本来の意味とは無関係と言ってもよいほどの使われ方をします。たとえば、何度か引用される「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という言葉は、イエス・キリストが弟子たちを遣わすに当たって語られたものですが、主人公の女性が妻ある男性に手紙を書く際に勇気づけられた言葉などとして引用されます。聖句は本来の意味から離れて表面上だけのつながりで用いられており、敬虔なクリスチャンから見れば手紙の内容からして冒涜的とも感じられるほどです。こうした面から考えると、この作品での聖書引用は単に小説の飾りとして用いられているに過ぎないようにも見えます。

しかし、私にはそうではなく、太宰治自身は聖書本来の意味合いを実は心中深くで深刻に受け止めており、そのことを作品を通して(正面からではなく暗に)示唆しているように思われます。そのことは、作品の後半に現れるかなり長い聖句引用に表れているように思えます。

この引用は、先に紹介した引用部分を含むさらに長い範囲の聖句引用で、マタイによる福音書10章9-23節、28節、34-39節です。先にもご紹介したように、イエス・キリストが弟子たちを宣教の働きに派遣する際に語られたものです。太宰治はこの箇所を先に紹介したケース同様、妻ある男性への行動をさらに加速させるためのものとして引用します。しかし、単にそれだけのことであれば、これほど長い範囲の引用をする必要はなかったはずですし、ひと言、要約的に言及すれば済んだようにも思われます。

この長い聖句引用の中で、私が作品全体の理解に関わるのではないかと思われる箇所があります。先に示したように、今回の引用はかなり長いキリストの言葉の抜粋ですが、その真ん中、一節だけ抜粋して引用されるのがマタイ10章28節です。作中引用される文語訳聖書のまま引用しますと、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅ぼし得る者をおそれよ。」となります。道ならぬ恋を加速させるために勇気づける文章としては、この部分の引用は不要ではないか。むしろ、道ならぬ恋をとどめるはずの言葉であるように思われます。

太宰治は、聖書が人間の善と悪を裁かれる神の存在を告げていることをもちろん見逃してはいないし、それどころか、この神を恐れるべきだというキリストの言葉をどこかで深刻に受け止めていたのではないかと思います。そのことを彼は暗に表現しつつ、しかもそれを隠そうとして、あえて冒涜的な引用をしているのではないか…そんな風に思えます。

「深刻に受け止めていたのであれば、彼の私生活はもっとましなものになっただろう」という見方は、当然ありえます。しかし、彼自身においては、深刻に受け止めつつも、神から断罪されるであろう生き方を変えることはできなかった。この作品の中からは、心中、そういった生き方を「変えたい」という心がどこかにあったはずだと私には思われるのですが、しかし、「変えたい」と正面切って言うことは愚か、そういう願いを自分の中で認めることさえ、彼にはできなかったのではないか…そんな気がします。

聖書の言葉が示すきよい生き方に密かな憧れを持ちつつ、そのような憧れの存在を自ら認めず、聖書の神がいるなら真っ先に断罪されるであろう生き方の中に突き進むことしかできない自分自身をどこかで感じてたいのではないか。そして、そのような自分自身の姿を作中の主人公の女性主人公やその弟の生きざまに映し出していたのではないか。そんな風に感じられます。

太宰治は、この作品の発表の翌年、愛人の山崎富栄と入水自殺をします。斜陽に描かれた主人公たちの姿に、どこまで彼自身の姿が反映されていたかは分かりません。しかし、彼が自分自身の生に対して抱いていた苦悶や絶望がかなりの程度反映されていたであろうと推測することはできます。

この作品は、戦後間もない日本社会でベストセラーになったということです。当時の人々がこの作品のどういうところに惹かれたのか、分かりません。色々な要素がそこにはあったと思われます。しかし、その中に、太宰治が描いた絶望が太宰治だけのものでないことをどこかで感じたのではないか。そこに、人間の真実の一面が描かれていることを、多くの人々が感じ取ったのではないか。そんな風に思われます。

このような読み方がどれほど妥当なものなのか、私には分かりません。太宰治の研究者たちの目から見れば、失笑ものというようなことなのかもしれません。ただ、私としては、青年時代、ただ陰鬱で、早く忘れたいと思われた内容が、重く受け止めるべき内容として新たに理解されたことを、書き留めておきたく思った次第です。

そして、最後に、上記のような私の見方をもう少しだけ延長させて、もう一つの想像を加えてみたいと思います。太宰治はこの作品に描いた人間の絶望に対して、救いの道が提示されている場所にも、実は気づいていたのではないかという想像です。それはすなわち聖書です。太宰治がこの作品の中で描いたような人間の抱える絶望について、聖書自体が指摘し、描き出していること、さらにはそのような絶望の中にある人間を救うお方として、イエス・キリストが提示されていることに、おそらくは気づいていたのではないでしょうか。しかし、彼は聖書を通しての神の招きに応えることはしませんでした。しなかったというより、「できない」と思ったのかもしれません。しかし、自分にはできなくても、ひと言、「助けて」と神に祈りさえしていれば…。

今回、この作品を読んだ後、その内容の重さを受け止めつつ、そんなことを思い巡らせました。

付記:

ネットで調べてみますと、私のような見方もあながち的外れではないのかも、と思いました。参考になりそうな資料、記事のURLを貼っておきます。

http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~houki/dazai/dazaikagi.htm

https://bible02.com/bible_message/message28/

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出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』

2020-12-26 21:21:44 | 

サンタさんが長男に、伊坂幸太郎と共にプレゼントしてくれた本(岩波新書)を、

私が先に読ませてもらいました。

アウグスティヌスが「心の哲学者」と表現されていることに、

少々違和感を持って読み始めましたが、読み進めば、納得。

私なら「心の神学者」と書いたかもしれませんが、アウグスティヌスは

求道中にもキケロを通して色々な哲学に触れたり、

信仰を持つ直前にはプラトンを読んでおり、

信仰を持ってからも、プラトンとキリスト教信仰の親和性を指摘しているなど、

「哲学者」としての側面を一概に否定できないと思いました。

他方、アウグスティヌスにおいて「心」抜きの信仰はありえず、

アウグスティヌス修道会の紋章が心臓を射抜く愛の矢を描いていることなど、

新たに知りました。

マニ教への対論のため、自由意志を強調したこと、

ドナトュス派への対論のため、冷静な判断の中で毅然とした対応を取ったこと、

ペラギウス主義への対論のためには、かなり細かでしつこい議論を重ねつつ、

神の恩恵なしに人が善意志を獲得できないことを明確に主張したことなど、

神学的な論争点も随分整理できました。

晩年、ヒッポの町が敵に攻め寄せられようとする中、

各地の修道士たちから寄せられる質問上に丁寧に応えており、

「絶対的恩恵の立場に立つと、自由意志が完全に否定されてしあうのではないか

というハドルメトゥムの修道士たちからの批判に対しては、

最初の働きかけは神の活動的恩恵なしには何事もなされえないが、

一旦私たちが意志しはじめると、神の恩恵は協働的に働くと答えている」そうで、

これも新鮮な情報(154頁)。

『三位一体』や『神の国』といった、名前だけは知っている著作も

その背景や主張点のポイントなど、簡潔に紹介されています。

近年のアウグスティヌス研究の諸資料なども紹介されており、

アウグスティヌスの入門書としてはこれ以上のものはないかと思いました。

サンタさんがなぜ長男にこの本をプレゼントをしたのか・・・

いつか明かされる時が来るかも?

 

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高校生の息子に薦めて良かったと思う本

2020-12-13 21:44:30 | 

長男が高校生になったとき、学校関係の連絡も入るからとスマホを購入。予想にたがわず、ゲームその他、スマホを手にする時間が多くなり、親としては次第に心配に。「一日一時間」ルールの設定、その崩壊、最後には情報チェックなどの必要最低限以外は禁止へ。その分、空いた時間を勉強に向けるわけでもない長男は、自然な成り行きとして時間を持て余し気味に。ゲームができずいら立ち気味の長男のため、興味が向きそうな本を買ってあげたり、図書館で借りてきたり。そのような経緯で、この一、二年、かなりの数の本を薦めてきました。その中で、「薦めてよかったな」と思ったものをご紹介します。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

食いつくかどうか半信半疑でしたが、最後まで読み切ってくれました。文学界の最高峰といった雰囲気もある本書ですが、ミステリー風のストーリー、複雑な人間関係、キリスト教信仰との関わりなど、彼にとっての接点がいくつかあったのかな、と思います。

サイモン・シン『フェルマーの最終定理』

数学界最大ともいえる難問、フェルマーの最終定理。シンプルに分かりやすく表現されながら、多くの数学者が証明できず、挫折し続け、本当に証明できるのかさえ疑問視されるに至ったこの定理を、ワイルズが遂に完全証明に至るまでのノンフィクション。最後までハラハラドキドキ。数学が好きという訳ではない長男も、面白く読んでくれました。

伊坂幸太郎『グラスホッパー』『マリアビートル』『AX』

『チルドレン』から始まり、いくつか紹介しましたが、長男にとっての最近のヒットは殺し屋三部作。共通の登場人物による接点もありますが、一作ずつ独立しており、サスペンス風エンターテイメント小説として、ハラハラドキドキのストーリー展開。個性豊かな登場人物が複雑に絡み合い、心凍る場面もあれば、心温まる場面もあり、文学的香りも感じさせます。

重松清『きみの友だち』『きよしこ』『ステップ』『せんせい。』

重松清は、登場人物が少年少女、若者が多く、柔らかい文章で、人の心の琴線に触れるストーリを紡いでくれます。

伊沢拓司『勉強大全』

伊沢さんのYouTubeチャンネル『QuizKnock』のファンである長男ですので、食いついてくれるかと思い、図書館で借りてきました。「大全」と名づけただけあって、想像以上に受験勉強を深堀りしています。「たかが受験、されど受験。」受験に苦しむ高校生に向かって真摯に語りかける伊沢さんは、いい人だなと思いました。この本にもう少し早く出会っていれば、長男の受験生活も違ったものになっていたかも?

・・・

いずれも長男に薦めながら、自分でも何気なく手に取り、惹き込まれて読みました。読後感を語り合うひと時は、私にとっても楽しい時間。今のところ、信仰書の類はほとんど手にしない長男ですが、将来は信仰書や神学書について語り合う時がくればいいな、と思います。

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『悪霊』(ドストエフスキー)

2020-09-15 21:07:21 | 

ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟』に続いて『悪霊』を読みました(新潮文庫)。こちらも青年時代、教会の先輩が読んでたと思い、安心して読み進めましたが、「こんな恐ろしい本だったのか」とびっくりしました。

色々謎に満ちた小説で、読んだ後、ぐるぐると色々な思いや考えが渦巻きましたが、それらは三つの謎に集約されました。

1.『悪霊』は本来、どんな小説だったのか

これは、新潮文庫版で最後に付いている「スタヴローギンの告白-チホンのもとにて」という章にまつわる謎です。

以下は、この章に付けられた解説です。

「この章は、最初第二部第八章の『イワン皇子』のすぐあとにつづく章として書かれ、『悪霊』が連載されていた『ロシア報知』のために組みあげられたが、編集長カトコフが雑誌掲載を断ったため、当時、陽の目を見なかった。(略)結局、彼の生存中には、『悪霊』の単行本上梓に際しても、この章が復活されることはなく、その原稿の所在も知られぬままに終っていた。ようやく一九二一年になって、(略)この原稿が(略)発見され(略)」

カトコフが雑誌掲載を断ったのは、「家庭向きの雑誌だから」ということだったそうですが、内容を読めば至極ごもっともと思われます。それ程に、陰惨、残酷、醜悪、不気味な出来事がつづられます。発行された『悪霊』の内容も相当陰湿で、不気味ではありますが、この一章は、それらの陰湿さをはるかに越えています。

ここで生じる疑問は、「ドストエフスキーは、本来、この章を第二部八章につづく章として書き、連載掲載を願っていたのだとすれば、雑誌掲載が断られなかったらどんな内容となるよう構想していたのか」というもの。「スタヴローギンの告白」の掲載が断られた結果、連載は10ヶ月中断。その間にドストエフスキーは作品全体の校正を大幅に変えなければならなかっと言いますから、逆に言えば、掲載が断られなかったら、今の『悪霊』とはかなり違うものになっていたと思われます。

ドストエフスキー研究は世界的に相当進められているようですので、この点の謎はある程度解明されているのかもしれません。機会があったら、このあたり、調べてみたいと思いました。

2.「悪霊」とは何か

巻頭及び、第三部第七章「ステパン氏の最後の放浪」、さらに「スタヴローギンの告白」にも、ルカ8章、悪霊つきが主イエスに癒され、霊が豚の大群に入り込み、豚が海に駆け下り溺れ死ぬ記事が引用されます。タイトルにも『悪霊』と掲げられるのですから、福音書のこの記事が本作品にとって重要なテーマとなっていることは確実です。

しかし、この作品の中で、悪霊に当たるのは何でしょうか。翻訳者の江川卓氏は、巻末の解説で、一つの事件がこの作品の構想に影響したことを指摘しています。ネチャーエフ事件と呼ばれるこの事件は、革命思想グループの中で組織の結束を図るために転向者を殺害した事件で、ドストエフスキーはこの事件を題材として作品の構想を練ったと言い、江川氏は次のように記しています。「つまり、西欧から移入された無神論革命思想を、聖書に言われている『悪霊』に見立て、それに憑かれたネチャーエフその他は湖に溺れ死に、悪霊がはなれて病癒えた男、すなわちロシアは、イエスの足もとに座しているというのである。これはドストエフスキーが親友アポロン・マイコフにあてた手紙で明言しているところであり(略)」。このような指摘をもとに、文庫版上巻の裏表紙には、こう記されます。「本書は、無神論的革命思想を悪霊に見立て、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。」江川氏自身は先のような指摘をしつつも、悪霊を巡る理解の幅についてある程度触れていますが、裏表紙のような言葉だけを読めば「それ以外の理解はない」という印象を持たざるを得ません。

しかし、私の内には、ドストエフスキーが最終的にこの作品において、「悪霊=無神論革命思想」という図式を主張しているのだろうか、という疑問が湧きます。そのような見方故、ソ連時代には、「革命運動への誹謗書」という評価がなされたようです。しかし、たとえば、次々に死んでいく人々の中には、革命思想とは無関係な人々も含まれます。また、「スタヴローギンの告白」では、スタヴローギンがチホンに対して「時おり自分のそばに何か悪意に充ちた、嘲笑的な、しかも『理性をもった』存在を見たり、感じたりすることがある」と告白しています。これは、聖書が「悪霊」について教える通り、悪霊を霊的実在とする見方に沿っています。

ただ、この作品に登場する人々が、単に悪霊の影響で悪しき行動を取るのだという単純な図式が浮かび上がってくるわけでもありません。むしろ、人間の中には悪霊を引き込むような邪悪さというものが潜んでいるということのように思えます。

確かに、ドストエフスキー自身、革命思想家ペトラシェフスキーのサークルに接近し、逮捕され、死刑の直前までいったのですから、ドストエフスキーにとってネチャーエフ事件は作品構想の素材として採用されたということ以上のものだったことでしょう。しかし、それでも「悪霊=無神論革命思想」という見方は皮相に過ぎると感じます。

3.この作品に救いはあるのか

『カラマーゾフの兄弟』も悲惨な出来事続出ですが、アリョーシャやゾシマ長老の存在が、作品全体に明るみをもたらしています。むしろ、周りが暗ければ暗い程、その明るさが浮かび上がってくるというところもあります。しかし、『悪霊』はひたすら暗い事件が続くのに対して、明るさが見えてこないイメージがあります。

あえて言えば、ステパン氏が放浪の中で示した回心らしきものがありますが、あくまでも「らしきもの」であって、本当に回心と言えるのか、かなりあやふやなものです。死を前にしてステパン氏は、愛や神の存在について口にします。しかし、作品全体の暗さを打ち破るほどのエネルギーは感じられません。この作品に限って言えば、ドストエフスキーは「救いの光」を描く意図はなく、むしろ、人間の内側に潜む暗さをひたすら描き切りたいということだったのかと思います。

『悪霊』自体の暗さ、さらには、「スタヴローギンの告白」で描かれた闇の深刻さに直面させられると、人間の闇の深さを思わずにはいられません。特にスタヴローギンの闇の深さは、世界の文学界の中でも際立っているのではないかと思います。異常であり、病的とさえ思われます。しかし、それがどこか遠い所にある「異常な世界」で終わらず、目をそむけたくなるような邪悪さでありながら、自分自身の中にどこかで接点があるのではないか、ないとは言い切れない、そんな思いが起こってきます。おそらくは、ドストエフスキー自身、自分の中に隠れ潜んでいるのかもしれない邪悪さを覗き込むようにしてスタヴローギンを描いたのかもしれない、そんな考えも生まれる位です。そこで描かれている邪悪さが、人間が普遍的に抱えているのかもしれない問題としてクローズアップされてくる…そこにこの作品の価値があるのかもしれません。

ただ、それでも、信仰者としてはこの作品に救いが示されていてほしかった、という思いは残ります。これだけ見事に人間の残酷さ、邪悪さ、醜悪さ、底知れなさを描き切ったのであれば、暗示的ではあってもそこからの救いをもっとはっきり示してほしかったと思います。

聖書の中には、この作品の暗さに匹敵するような邪悪な出来事というものがいくつかあります。旧約聖書であれば、王なき時代に起こった死体ばらばら事件や、ダビデ王によるバテシバとその夫ウリヤにまつわる事件。しかし、新約聖書のイエス・キリストの十字架の死程、人間の残酷さ、邪悪さを描いている事件はないでしょう。キリストを巡る多くの人々が、その死に関わっておりながら、誰もが「私のせいではない」と言いかねない状況がそこには描かれています。それは、空恐ろしい罪を犯していながら、スタヴローギンが社会は自分を罪に問えないだろうと考えた状況に似ています。しかし、それ程に邪悪な人々の罪の中で死んでいかれたイエス・キリストが、その死によって人々に救いの道を確立し、世界に差し出された…この点を少しの暗示でもよいから触れてくれていたならば…。読後、色々と思いめぐらす中で最後に思い至ったのは、そのことでした。

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『カラマーゾフの兄弟』

2019-04-24 12:41:39 | 
(東京出張の際、新幹線の中でまとめてみました。)
 
学生時代、教会の先輩に勧められ読んで以来30年以上になりますが、久しぶりに読みました。(新潮文庫)
 
当初は、長男に勧める意味で購入しましたが、懐かしさもあり手に取ると、若き日に読んですっかり忘れていた内容が徐々に思い出され、繰り出される人間模様や、背景となる諸思想の錯綜など、スケールの大きさに圧倒されながら、最後まで読み進めました。と言っても、空き時間を利用しながら少しずつ読んだので、読了に半年近くを要しました。(長男の2倍くらい?)
 
学生時代には、有り余る時間を使って、いくらでも本が読める積りで、ドストエフスキーやトルストイの長編を次々に読んでいたので、「とにかく読んだ」ということで終わっていたと思います。生きている間に読める本が限られていることに気づく年代に差し掛っていることを自覚しつつ、とりあえず読了したこの時点で、感想をまとめておきたいと思いました。
 
読み始めてすぐ印象付けられるのは、一文の長さ。4、5行はざらで、もっと長文もしばしば。しかも、会話の中でさえも同様であったりするので、最初は、「こんな長文を連ねた会話って、ありえない!」と思いました。当初は少々しんどい感じがしましたが、不思議なもので、このドストエフスキー調の文章に慣れてくると、結構すいすいと読めるようになります。
 
次に、読みながら圧倒されるのは、人間関係の複雑さと、その一人ひとりの描かれ方に現れる人間理解の深さ。カラマーゾフの三兄弟に限っても、それぞれの個性が明確に表されており、しかも一人ひとりが一面的でなく、矛盾とも見える多様な面を合わせ持っていることが見事に描写されています。「ひどい人間」と切って捨てたくなるような彼らの父親さえも、彼なりの理屈を持って生きているのであって、決して一面的な描かれ方をしていないのには驚嘆させられます。
 
もう一つ、印象付けられるのは、彼らを取り巻く諸思想の複雑さです。ロシア正教を中心にした当時のロシア人たちのキリスト教信仰の素朴さと共に、そこから飛び出ようとする様々な無神論的思想の様相が描かれます。かと言って、ロシア民衆の信仰が全面的に肯定されているわけでもなく、その迷信的な諸側面も描かれます。社会主義的な思想を持つ利発な少年も登場する一方、そういう諸思想とは全く縁なく生きているような多くの人々の姿も描かれます。
 
そんなことを感じながら読み進めているうちに、自然に湧いてくる疑問は、「どうしたらこんな作品を書くことができるのだろう」というもの。しかし、巻末の解説を読むと、ある程度納得。ドストエフスキーの生涯自体が一筋縄のものでなく、かつ諸思想との格闘を通ったものであったようです。
 
彼の父親は、怒りっぽく、気難しく、アル中もあってか、暴君地主として振舞います。そして、何とドストエフスキー18歳の時に、百姓たちに惨殺されるという悲劇が起こります。他方、母親はおとなしく、信仰心の篤い女性であったようで、彼を育てる際に読み書きのために用いた聖書物語が幼いドストエフスキーの心に深い印象を与えたようです。しかし、15歳の時に死去。
 
これだけ知っても、「成程」と納得させられますが、彼の結婚や恋愛経験もまたかなり複雑なものであったようで、イワン、ドミートリーと、グルーシェニカやカテリーナとの複雑な恋愛感情描写を生み出す土壌になったものと思われます。
 
最後に、牧師としてはやはり描かれているロシアのキリスト教信仰の諸相が気になるところ。たとえば、創世記1章で描かれる六日間の創造を巡る解釈で議論がなされていたり、教会と国家を巡る議論が長々と展開されたりと、現在も続く議論は、決して最近のものでないことを実感させられます。
 
しかし、そのような議論は、この作品の言わば周辺の飾りのようなもので、読み進めていくうちに、信仰を巡るもっと重要な諸問題が浮かび上がります。真正なキリスト教信仰のあり方はどのようなものなのか、果たしてキリスト教信仰が前提とするような神はいますのかどうか、神がいますのであれば、地上にある悲惨で不条理な出来事をどう理解したらよいのか、しかし、逆に神がいまさないのであれば、人が生きる正しい基準というものは相対化され、「何をしても許される」はずではないのか…。
 
信仰の核心を巡る議論が、作品の中で大切な意味を持つ一方、信仰の素朴な在り方が、特にゾシマ長老やアリョーシャの姿の中に表されています。それは、あらゆる人間の弱さを包み込むような愛の姿であり、その背後にはあらゆる人々の罪を背負って死なれたキリストの姿が浮かび上がってくるようです。
 
矛盾に満ち、愚かしく、悲しい程に罪深い人間の実像に迫りつつ、しかし、この作品が単なる希望のない人生観、世界観を描いて終わらないのは、やはりドストエフスキーの中に複雑な形ではあっても形作られていたキリスト教信仰の故であったことを、改めて痛感させられました。
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青銅の弓

2018-07-23 19:35:19 | 

長男が小学生の頃、教会員が下さった本の中に、岩波書店発行の『青銅の弓』というのがありました。

E.G.スピアという女性が書いた児童文学ですが、いかにも地味なタイトルに、いかにも地味な表紙。

文章を見ても、地味な感じで、とても読む気になれませんでしたが、

どういう訳か長男は時折(テスト勉強中など)読んでいました。

この間も読み終わって、「お勧めするよ」と言ってきました。

家内にも「お勧め」と言っていたので、少し興味が出て読んでみました。

舞台は、1世紀のパレスチナ、ガリラヤ。

主人公のダニエルは、両親をローマ兵に殺されて以来、彼らへの復讐を胸に生きる少年。

ローマの支配からのユダヤ人の独立を目指すロシュ率いるグループに所属しながら、時を待っています。

ライトが『シンプリー・ジーザス』でパーフェクト・ストームに譬えた複雑な歴史状況がよく描かれていて、

最近そのあたりのことを気にしながら新約聖書を読むようになっていたため、

状況がすっと理解できました。

その中に現われるイエス様は、ダニエルはじめ、周囲の人々にも、興味と共に戸惑いを引き起こします。

物語は、ラビの家庭の兄妹、熱心党のシモン、ダニエルの妹のレア、そして金髪のローマ兵などを巡って、

急展開で進み、最後は急転直下、予想外の結末に向かいます。

児童書ながら、本を閉じた後の余韻が半端なく、久しぶりに心揺さぶられる小説を読んだ感がしました。

ちなみに、現在は入手困難な本らしく、アマゾンで15,000円で売られていたのにはびっくり。

価格だけでなく、内容的にも貴重な一冊。

くださった方に感謝。

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N.T.ライト『新約聖書と神の民』

2018-05-15 19:29:26 | 

曲りなりにこの書を読み終えた今、本の内容を詳細に論じたり、ましてやこの本の主張に対する自分自身の見解を明らかにするような能力も気力も私にはありません。ただ、私としては、一通り読み通すのにも相当根気よく取り組まざるを得なかった本ですので、読み放しにするよりも、いくつかの感想を書き留めておくのがよいと考える次第です。

1.構想力

まずは、その壮大な構想力に圧倒されます。新約聖書学者としての緻密な釈義作業をベースにしつつも、ひたすら細分化されがちな現代の学問的傾向に抗して、新約聖書学における総合的、統合的成果を目指しています。

上下二巻、日本語で900頁を越える本書が、ライトの構想の中で、『キリスト教の起源と神の問題』全6巻のうちの第1巻をなすに過ぎないわけですから、目も眩むような壮大な取り組みですが、本書を読み終えた今、その試みに対するライトとしてのベースが明瞭に提示されていることを認めざるを得ません。

ただ一点、この壮大な構想の原点となっている部分を探るとすれば、"The Clomax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theology"(1991)は外せないと感じました。特に下巻では、この書が何度も引用されていましたし、内容的に言ってもこの書が、ライトの壮大な構想の原型となっているような気がします。まだ部分的にしか読んでいない本ですので、英書ではありますが、いつかチャレンジできたらと思いました。

2.歴史と神学

下巻の最後、結論部で、ライトは課題の焦点として、イエスの問題、新約聖書の問題、神の問題を挙げ、歴史家はイエスの問題を、神学者は神の問題を、文学評論家は新約聖書に直面すると指摘します(849頁)。保守的な神学の傾向が神学的方面から新約聖書を見ようとするとすれば、ライトの取り組み方には、歴史家として、あるいは文学評論家としての側面が強く現われているように思えます。

特に、全6巻のうちの第1巻である本書だけを見ると、ライトは神学者としてよりも歴史学者として新約聖書に近づいているようにさえ見えます。ライトのそのような姿勢は、これまでの私の内には希薄でしたから、今後も自覚的に留意していきたいと思いました。

3.ストーリー

新約聖書の問題を扱うのは、文芸評論家であるとするライトは、特に新約聖書がユダヤ的ストーリーを語りつつ、それらのストーリーを世界のために語ると言います。

『新約聖書と神の民』は、5部構成になっていますが、そのうち、最もページを割くのは、第3部の1世紀ユダヤ教を扱う部分で、約330頁に及びます。第4部の1世紀キリスト教を扱う部分は、220頁ほどですので、1世紀ユダヤ教への掘り下げの比重が相当大きくなっています。もちろん、1世紀キリスト教については続巻において更に詳しく取り上げられることとは思いますが、その序論として見た場合でも、1世紀ユダヤ教への比重の置き方は注目すべきところです。この点もまた、新約聖書をイスラエルのストーリーの語り直しとして見るライトならではの視点から来るものと思われます。

この「ストーリー」に注目しながら、新約聖書を取り巻く歴史的状況を分析したり、新約聖書の分析においても各書の提示するストーリーに注目したりといったライトの手法は、私としては相当のオリジナリティを感じさせられますが、ライト以前の学者たちの中に何らかの手がかりや示唆を与えるものがあったのかどうか、気になるところです。

4.「黙示的」とは何か

本書において新たに気づかされたライトの主張点として、「黙示的」ということへのライトの見方があります。その主張を正確に捉えるためには、もう少し詳しく読み返す必要があると思いますが、原始キリスト教徒たちの理解は、1世紀ユダヤ人たちによる「黙示的」理解をベースにしており、1世紀ユダヤ人たちによる「黙示的」理解によれば、「人の子が雲に乗って来る」という表現が真のイスラエルの正しさの立証予告であるのであって、マルコ13章の「黙示的」テキストによって表明されているのはイエスの再臨への期待ではないと言います(838頁)。これは、新約聖書の中にイエスの再臨への言及がないと言っているのではなく(使徒1章などに再臨への言及があるとされます)、通常「黙示的」と呼ばれるマルコ13章テキストについては、再臨への言及ではないということのようです。

新約学の歴史の中では、近年に至るまで、「黙示的」ということが相当重要視され、議論されてきているようですので、ライトの主張点として今後注目していきたいと思います。

5.敬虔主義的読み方について

本書をはじめとして、ライトの著作に触れると、私自身の聖書の読み方が随分個人主義的であったり、歴史的要素をいつの間にか忘れ去っていたりという傾向性に気づかされます。ライトが時々「敬虔主義的」と表現する読み方が、私自身の内には相当強くあることが自覚させられます。そのことは、ライトの著作に触れる際、最初は違和感ばかりか、反感さえ覚えさせる原因ともなっていたように思いますが、現時点では、私の聖書の読み方の偏りを矯正する役割を果たすものとして、一方では歓迎する思いが生れています。

ただ、他方ではライトの見方全体に、一貫して敬虔主義的読み方に対する反発のようなものを感じるとき、ライトの見方だけで聖書を読むようになったら、自分の信仰は随分変わってしてしまうのでは、という危惧を持つことがあります。このあたりのところは、今後ライトの著作と向き合う中で、自分自身の中で問い続けていくことになりそうですし、当然のことながら、ライトだけでなく、色々な書物を通してバランスを取っていくことも考える必要があると思いました。

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「ばかな平和主義者」と独りよがりな正義の味方(鈴木光)

2016-02-20 18:41:32 | 

題を見て、過激な内容を想像し、「いのちのことば社がどうして?」と思ってしまいましたが、読んでみると、穏当かつ基本的な内容でした。

著者は1980年生まれとのことですので、まだ若い牧師ですが、アメリカ留学の中で、日本とアメリカのキリスト教会での「平和」理解がかなり違うことに気づき、驚いた経験を踏まえて書いておられます。

信仰は保守的で、平和学や「平和」についての神学的取り組みも基本的なところは押さえているようです。クリスチャンでない方、特に若者を読者に想定しながら書いておられますので、とても分かりやすく読めます。(平和に関わるマンガも一部転載。)平和について説明しながら、要所要所、クリスチャンの信仰について基本的なところを解き明かしていますので、「キリスト教平和論入門の体裁をとった信仰入門書」という見方もできそうです。

使用例
(1)クリスチャンでない人から「アメリカはキリスト教国でしょ、どうして戦争やってるの?」と尋ねられたとき「読んでみて」と勧める。
(2)教会の中で、「平和について一回学んでみたい。議論が白熱するのもいやだが、通り一遍のところで終わらせるのもいや。」という時のテキストに。
(3)クリスチャン同士が平和について議論していて、話が平行線になってきたとき、議論を噛み合わせるための手がかりとして。

コメント (3)
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