いのちのことば社から発行されたのは知っていましたが、特に購入する気持ちにはなっていませんでした。そんな中、友人牧師たちから問いかけをもらいました。「岡山氏はライトを誤読しているのでは?」とのこと。ライトの著作は私も大きな関心を持って読んできましたので、事の真偽を見極めたく思い、購入、読んでみました。
以下の文章はかなり長文となりますが、友人牧師方へのお返事とともに、ライトの終末論については自分の中で整理され切っていないことを感じていましたので、この機会にライトの終末論を整理する意味でまとめてみました。
まず、本書を最初のページから読み進めるうちに、大きな関心とともに感嘆の思いすらしながら読むことになりました。予想に反して、ライトへの批判は最後の方に少しだけ出て来るだけで、全体としては黙示録に対する研究・概観の書といった趣でした。
感嘆ポイントその1 旧約聖書と黙示録との関わりの指摘
黙示録を読むとき、参考に挙げられる旧約聖書箇所としては、ダニエル書あたりを挙げられることが多いと思いますが、出エジプト記の災いと黙示録の災いとの間に深い対応関係があること(3章)、神の裁きの描写におけるエレミヤ記と黙示録の対応があること、エゼキエル書と黙示録では重要な幻が共通しており、しかもほぼ同じ順序で現れること(4章)等を指摘しています。これらの指摘は、聖書学での常識になっているのかもしれませんが、私にとっては若干の衝撃を覚えるような新鮮な指摘でした。
感嘆ポイントその2 社会的関心の広さ
近年、福音派の聖書理解が個人主義的になりがちだとの指摘が多くなされるようになりましたが、私自身、その傾向は否めません。その意味で、岡山氏の社会的関心の広さには驚かされます。「小羊の非暴力」について述べる箇所では、近年の戦争ばかりでなく、十字軍から19世紀帝国主義列強による植民地支配に至るキリスト教国による戦争の流れについても言及(第6章第2節)。「真理の証言」とのタイトルの節では、現代が「脱真実の時代」になっていること、共同体が弱体化し個人が断片化されていること、強固な監視システムによって異論が封殺される傾向にあること等、世界的な傾向を指摘するとともに、日本においても国家神道の復権、改憲への動きが強まっていることを指摘しています(第7章第3節)。大バビロンへの言及では、貧富の格差、あらゆるものの商品化、気候変動や軍需産業の問題を指摘します(第8章第2節)。通り一遍な関心ではなく、世界の諸問題にキリスト者としての視点で真摯に向き合っておられることを伺わせられます。
感嘆ポイントその3 内村鑑三への関心
内村鑑三の著作に対する造詣の深さも私には感嘆ポイントでした。内村が再臨信仰を強調したことはよく知られていますが、内村の死生観や終末論について、通り一遍のことでなくて、その信仰内容の変遷まで指摘しながら紹介されています(第2章第3節、第9章第4節)。特に内村の再臨信仰形成の背景に彼の聖霊体験があったとの指摘は意外でもあり、関心をそそられる指摘でした(200-203頁)。
感嘆ポイントその4 終末論の類型説明と歴史概観の分かりやすさ
一般に千年王国や患難期に関する神学的類型の説明は、実際の所どの立場がどういう理解に基づきどういう主張をしているのか、分かったようでよく分からない所が残る場合が多いのですが、岡山氏の簡潔ながら的確な説明によりよく理解することができました。無千年期説と後千年紀説はどこが同じでどこが違うのか(235頁)。
初代教会が前千年期説であったのに対して、4世紀、ローマ帝国のキリスト教国教化に伴い無千年王国説に移行したこと(228、229頁)。このあたりは、裏を取りたい人のために参考文献を挙げておいて頂けたらと思いましたが、とりあえずの理解として頭を整理するためには大いに役立ちました。
以上、感嘆ポイントを4点挙げました。読み進むうちに岡山氏が日本の福音派を代表する学者であることを改めて感じさせられました。
さて、問題のライト批判ですが、私の予想に反してこの点に直接触れられるのは11章のみでした。このあたりの経緯については「あとがき」に詳しいのですが、要は「当初は批判を中心としていたが、推敲していくうちに、批判は希望に吸収されていった」ということのようです(315頁)。これは、本書の価値を高める結果になった面も確かにあると思います。「第1~9章、12章は、黙示録また新約聖書の『希望』について、最も重要な点をできるだけ分かりやすく書いた。この部分が本論であり、伝道のために用いていただければと願っている。」(315頁)とあるますが、単なる批判本を越え、キリスト者のみならず一般の方々にも読んで頂ける内容となっていると思います。
ただ、本書のもともとのねらいであったはずのライト批判においては、私としては物足らなさを感じました。分量的に少ないということもありますが、加えて以下の2点を感じました。
物足らない点その1 ライトの終末論を正確に表現していないのではないか
学問的に何かを批判しようとする際には、その前提として、まず批判の対象について正確に把握することが必要となるはずです。ライトの終末論について、岡山氏が表現する所はかなり簡潔な表現となっており、内容的には単純化し過ぎているように思われる部分がいくつか見受けられます。
特に目をひくのは、あとがきに記された次の一文です。「(福音派の終末論が大きく揺らいでいるとの指摘に続いて)強い影響を与えているのはN・T・ライトの終末論である。再臨はない、新天新地もない、死後に天国へは行かないと強調している。」(311頁)この一文をそのまま読めば、大方の福音派クリスチャンは「これはひどい」と感じるだろうと思います。しかし、この一文は、ライトの主張をかなり歪めて理解する危険性があると思います。ライトファンの読者がこの一文を読めば、「ライトはそんなことを言っていない」と言いたくなるだろうと思います。
ただ、よくよく本書を読み返してみると、あとがきのこの一文は、本書におけるライト批判の要約として読むことも可能です。それらの批判は、本書中、文章量は決して多いものではありませんが、ライトの著作からの引用を行い、それらに対する批判を簡潔に記しています。これらの批判点を整理すれば、キリストの再臨について、新天新地について、また、「死後天国に行く」という救い理解についてのライトの主張を批判する内容となっています。そういう意味では、あとがきの一文が本書のライト批判の要約だという見方が成立するかもしれない、と思います。
しかし、これらの批判は、それ自体、かなり簡潔な文章にまとめられていますので、ライトの複雑な議論をどこまで汲み取れているか疑問に思われる部分がありますし、一部、曲解と言ってもよい議論がなされている部分もあるように思います。加えて、あとがきの一文は、本書中に記されたライト批判の要約としても極度に単純化されており、事実誤認を与えかねない一文であると思います。
以下、あとがきの一文が示す三つの点について、一つずつ、少し詳しく見て行きます。
(1)再臨はない?
キリストの再臨についてのライトの主張を直接的に批判している文章は、本書253-254頁に見られます。ここでの岡山氏の批判点は、さらに細かく見れば、以下の三点になります。
a.「人の子が雲に乗って来る」(マタイ24:30)は再臨についてではなく、キリストの初臨を意味するとライトは主張する
b.ライトは文字通りのキリストの再臨を否定する
c.ライトは文字通りの携挙も否定する
以下、一つずつ順番に見ていくことにします。
a.「人の子が雲に乗って来る」(マタイ24:30)は再臨についてではなく、キリストの初臨を意味するとライトは主張する
たとえば、本書中にライトの次の文章が引用されます。
「それゆえ『人の子が雲に乗って来る』(マタイ24・30)とイエスが語ったとき、彼は再臨の話をしたのではなかった。」(『驚くべき希望』218頁、本書253頁で引用)
この部分だけを読めば、ライトがキリストの再臨を否定しているように思えますが、ライトの著作全体を読めば、ライトが再臨の教理全体を否定しているわけではないことがすぐに分かります。すなわち、上記引用箇所でライトが論じているのは、福音書に記されたイエスのことば「人の子が雲に乗って来る」(マタイ24:30他)の解釈の問題です。ほとんどの福音派の学者はこの部分がキリストの再臨を預言した箇所だと解釈しますが、ライトは続く箇所で以下のように説明します。「この『来る』とは、上に行くことであり、下に来ることではない。この文脈で、ここでの中心的テキストの意味は、イエスは死ぬが、その後に起こる出来事によってその正当性が立証される、ということなのだ。」(『驚くべき希望』218頁)
ちなみに、上記引用部分に続き、岡山氏が『驚くべき希望』から一体のものとして引用している後半部分は、以下の通りです。
「これらのたとえ話は、イエスの再臨についてではなく、最初の初臨のことだったのである。」(『驚くべき希望』219頁、本書253頁で引用)
これは、また異なるたとえ話についてのライトの説明文章から取られています。その前の部分から引用しますと、「王や主人が商売に出かけている最中に、召使いにお金を預けるというイエスのたとえ話は、かなり初期のころから、再臨までのイエスの不在期間に教会に仕事を託すこととして読まれてきたが、本来はそういう意味ではなかった。これらの話は一世紀のユダヤ世界に属するものである。その世界でこの話を聴く人は、誰もがただちに神ご自身についての話だと理解した。神はバビロン捕囚のときイスラエルと神殿を去ったが、捕囚後に預言者たちが預言したように、やがて再びイスラエルに、シオンに、神殿に戻って来られるのである。」(『驚くべき希望』218、219頁)そして、本書で引用されている部分へと続きます。「これらのたとえ話は、イエスの再臨についてではなく、最初の初臨のことだったのである。」(『驚くべき希望』219頁)
かなり離れた箇所にある引用をひとつなぎのものとして引用しているので、ライトがここで福音書の二つの箇所について説明していることは、本書の引用を読むだけでは分かりません。それでも、この二箇所だけを読めば、「ライトは再臨を否定しているのか」と思えることも確かです。しかし、さらにライトの著作の前後を読めばそうではないことも明らかになっていきます。
たとえば、それらの箇所の前に、ライトは次のように書いています。「したがって、今日の状況を大枠で見るとき、二つの正反対のものに直面することになる。一方で、再臨をあまりに中心的なものにしてしまい、他のものがほとんど目に入らない人たち、もう一方で、再臨をあまりに隅に追いやって弱めてしまい、ほとんど何の意味も持たなくしてしまった人たちである。どちらの立場にも問題がある。」(『驚くべき希望』210頁)ここでは、ライトが再臨だけを中心的なものと考える立場を問題視するだけでなく、再臨を隅に追いやってしまう立場をも問題視していると言っています。
「そうは言っても、上記二箇所の引用を見れば、やはりライトは再臨を否定しているように見えるではないか。」と思えるかもしれません。しかし、そうした疑問についても、ライト自身がすぐ答えています。「『人の子』という言い方と、『戻って来る主人、または王』のたとえに関するこれら二つの歴史的考証により、特にアメリカの読者から私は攻撃を受けるようになった。私が再臨の教えや信仰を捨てたと言うのだ。それは本章で明らかになるように、まったくばかげたことである。」(『驚くべき希望』219頁)続いて、そのような誤解に対するライトの反論(弁明)がかなり詳しく書き綴られていきます。
要は、新約聖書でキリストの再臨について教えているのは、福音書ではなく他の部分によるということです。「では、福音書で説明しているイエスの教えが再臨を指していないのなら、『再臨』の教えはどこから来たのか?簡単に言うと、新約聖書の残りの箇所からである。」こう言って、使徒1:11から始まり、パウロ、ヨハネの各種表現を取り上げていきます(『驚くべき希望』221~234頁)。その中でも、ライトは「来臨」と訳されているパルーシアが「文字通りの意味は『臨在・現存』、つまり、『不在』の反対の『存在』である」と言って、一筋縄ではいかない問題があることを示唆するのですが(『驚くべき希望』222頁)、同時に第一コリント16:22、コロサイ3:4を引用し、キリストの再臨について「来てください」、「現れる」といった用語で表現されていることを指摘します(『驚くべき希望』230、231頁)。
岡山氏は、ライトのこのような議論(弁明)について何も言及していません。ライトの主張を厳密に見るなら、再臨自体の否定ではなく、「福音書で説明しているイエスの教えが再臨を指していない」という点に焦点があることが分かります。
もちろん、福音書自体には再臨を示唆するイエスの教えはないという主張は、従来の保守的な聖書解釈に対して大きく修正を求めるものです。おそらくは、多くの神学者からは受け入れられないものと言われることでしょう。たとえば、使徒1:11を記録したルカが、福音書で似たようなイエスの表現を再臨を意味しないものとして記録したとするのはいかにも不自然に思われます(ルカ21:27)。しかし、そうではあっても、ライトの主張を「再臨はない」という主張として表現するのは行き過ぎだと思います。
b.ライトは文字通りのキリストの再臨を否定する
この点については、以下の通りです。
「そして文字通りのキリストの『再臨』を否定する。
『イエスが「やって来る」とは宇宙人のように空から下りて来ることだ、という考えを払しょくする』(同書、二三一頁)」(253、254頁)
引用されている箇所は、先ほど紹介したコロサイ3:4の「現れる(ファネーロオー)」という表現についての解説部分です(『驚くべき希望』231頁)。ライトはコロサイ3:4の「現れる」が、「やって来る」と訳されてきた「パルーシア」の代わりに用いたと言います。そして、「現れる」=「やって来る」について、「宇宙人のように空から下りて来ることだ、という考え」を払拭すべきことを主張しています。
「宇宙人のように」という表現は、聞き慣れない表現です。おそらくは、保守的な再臨理解をライトがいくらか揶揄する意味で用いた表現なのでしょう。しかし、確かに保守的な理解では、コロサイ3:4の「キリストが現れる」とは、目に見えるかたちで天からキリストがくだってこられることをイメージしてきたと思います。ライトは、コロサイ3:4の「現れる」の本当の理解は次のようなものだと言います。
「イエスは現在、天に臨在しておられるのだ。
しかし、先に見たように、天は神の領域である。それは私たちの領域内の宇宙のどこかにあるのではなく、むしろ、私たちと密接に関わっているけれども異なる領域なのである。約束されているのは、イエスが現在の世界の秩序の中に単にもう一度現れるということではない。神の約束された新しい形で天と地が一つに結び合わされるとき、イエスは私たちのところに現れるということである。」(『驚くべき希望』231、232頁)
後で見るように、ライトの終末論においては、新天新地の理解が重要になります。そこでは、「新しい形で天と地が一つに結び合わされる」という表現が鍵となります。キリストが「現れる」とは、いわば「新しい形で天と地が一つに結び合わされる」という出来事が起こる中で、その一環として起こることだという理解があるように思われます。
天におられるキリストが「現れる」とは、天と地が離れたままの状態にあり、離れた天から地にキリストが降りて来られる…そういった従来の理解に修正を与えるものとなっています。この修正を「若干の修正」と見るか、「大幅な修正」と見るかは人によって違うかもしれません。ただ、少なくともライト本人としてはキリストの再臨自体を否定しているつもりはないと主張していることになります。
「本人がそう主張していても、これは聖書が示す再臨とは違うので、キリストの文字通りの再臨を実質的に否定するものだ」という主張はあり得るかもしれません。しかし、このようなライトの主張を単純に「文字通りの再臨を否定している」と評価するのは不十分であるように思われますし、ましてや「再臨を否定している」と要約するのは少々強引なように私には思えます。
c.ライトは文字通りの携挙を否定する
この点は、以下のように指摘されます。
「さらに再臨に伴う文字通りの『携挙』も否定する。
『「空中で出会う」とは文字通りの記述ではなく、高度に比喩的な表現である』
『これは何重にも込められた高度な隠喩的修辞の典型例である』(同書、二二九頁)」(「同書」とは『驚くべき希望』をさす)(254頁)
引用されているライトの文章は、前後かなり長文の文章で第一テサロニケ4章の「携挙」を取り扱った文章からの引用です(222-230頁、特に226-230頁)。ライトは「空中で出会う」という表現について、「高度に比喩的な表現」、「高度な隠喩的修辞」と説明するわけですが、それでは「空中で出会う」という表現が実際に意味するところは何であると言うのでしょうか。前後の文章は、かなり難解で入り組んでいますが、私が見る所、次の一文に要約されているように思われます。それは引用された一文「これは何重にも込められた高度な隠喩的修辞の典型例である。」に続く次の一文です。「それが指し示す現実は、『イエス自身が直々に存在するようになり、死者はよみがえり、生存中のキリスト者は変容される』ということなのだ。」(229、230頁)
これは確かにかなり比喩的な解釈だと言えるでしょう。「それが指し示す現実」として挙げられている内容自体に問題を感じる人はほとんどいないかもしません。しかし、そのような内容が「空中で出会う」と表現されているとするのは、一見、ウルトラC的な解釈と見られそうです。
ライトのここでの解釈の背景には、三つのストーリーとの関わりがあるとされます。第一は、「モーセが十戒を受けた後に山を下りるストーリー」、第二は、「ダニエル書七章のストーリー」、そして、第三はローマ皇帝が属州を訪れるとき、その国の市民が皇帝を迎えるために市街からかなり離れたところまで出かけて行き、皇帝にまみえたのちは、皇帝をうやうやしく街の中までお連れするというストーリーです(『驚くべき希望』228頁)。こうしてライトは、第一テサロニケ4章の「空中で出会う」をこう説明します。「ここでパウロが言わんとしていたのは、戻って来られた主を出迎えたら、主ご自身の領地、すなわち主を出迎えるために彼らが後にした場所に、主をうやうやしく迎え入れることなのである。」(同書229頁)特に、第三のストーリーについては、直前に現れる「来臨」(パルーシア)という表現が、キリスト者でない人たちには、王または皇帝が属州を訪れるときの訪問を意味したことを指摘しており、同じストーリーが「空中で出会う」という表現の背後にも読み取れると言います(同書223頁)。
実は、ライトのこのような理解は、「空中で出会う」についての岡山氏自身の理解と方向性が重なっています。岡山氏は、「会う」と訳される表現アパンテーシスの用例に注目します。「名詞としての用例は他に二回のみであり、共に迎えに行って戻って来ることである。」(216頁)具体的にはマタイ25:6と使徒28:15に見られ、いずれも迎えに行って戻って来ることを意味していると指摘します(216-217頁)。従って、「イエスは天から下り、そのまま地へ向かう。キリスト者は、地上から天へ上げられ、空中でイエスを『出会え』、方向転換して地へ戻る」という構図になります。こうして、「この語の用例は、後患難期説を支持する」と結論付けられることになります(217頁)。
ライトも岡山氏も、「空中で出会う」について、迎えに出て戻るということをイメージするものとしている点では共通しています。ただ、岡山氏が一旦は文字通り空中に挙げられることをイメージするのに対して、ライトは「高度に比喩的な表現」、「高度な隠喩的修辞」として、文字通りのイメージとしては捉えていないように思われます。おそらく、ライトの再臨理解が「天と地が一つに結び合わされる」という出来事の一環として理解されているため、イエスを「出迎える」のに文字通り空中に挙げられる必要がないということなのかと思います。
なお、いずれにしても、これは「携挙」(空中で出会う)についての議論ですので、キリストの再臨自体の理解とはまた違う議論になっていることも注意すべきでしょう。
(2)新天新地もない?
あとがきの中の「新天新地もない」という表現にも、驚かされます。と言うのも、ライトは著作の中で度々新天新地を強調しているからです。たとえば、以下の通りです。
「(何が良い知らせなのかという議論の中で)未来についての良い知らせは、地上を去って天国に行くことなどではあり得ないことが分かります。それは天と地が一つになることに関わるはずです。それは被造物世界そのものが更新され、回復することに関わっているのです。」(『シンプリー・グッドニュース』155頁)「天国に行く」ことに焦点を合わせた福音理解を排しており、保守的なクリスチャンには疑問符がつく表現かもしれませんが、ライトはこうした強調点を持っています。そして、「天国に行く」ということに焦点を置くよりも、「天と地が一つになること」、「被造物世界そのものが更新され、回復すること」に焦点を置くべきだと主張します。
続く箇所では次のようにも記します。「もし私たちに約束されているのが新しい天と新しい地、すなわち神の空間と私たちの空間が永遠に一つにされるような、まったく新しい宇宙なのだとしたら―これこそ新約聖書の記者たちが繰り返し語っていることですが―良い知らせとは、魔法の合言葉で窮地を脱して天国に入る少数の人間のためのものではなく、被造物世界の全体についての知らせであり、被造物世界全体のための良い知らせなのです。」(『シンプリー・グッドニュース』167頁)ここでは、「私たちに約束されているのが新しい天と新しい地」だと言い、それこそが新約聖書の記者たちが繰り返し語っていることだと言います。この一文を見る限り、ライトは「新天新地はない」とは言っておらず、むしろその使信に焦点を当てるべきだと言っているように見えます。
但し、先にも指摘しましたように、新しい天と新しい地に対する見方は、ライトならではのものがあると言えるでしょう。「天と地が一つになる」、「神の空間と私たちの空間が永遠に一つにされる」といった表現は、あるクリスチャンにとってはあまり聞きなれない表現になるかもしれません。また、古い天と古い地と新天新地の非連続性を強調する立場からすれば、新天新地を「被造物世界そのものが更新され、回復すること」と表現することは不足があると見られるかもしれません。
岡山氏は、新天新地について次のように説明します。「新天新地は、エデンの園の『創造の回復』ではなく『万物の刷新』でもない。それは現在の世界とは全く異なる、新しい次元の、根源的に変革された、真に驚くべき新しい世界である。」(290頁)こうした見方からすれば、ライトの言う新天新地の見方は、聖書の言う新天新地とは違うということになる可能性があります。
岡山氏は聖書の示す終末論に「根源的変革」が伴うことを強調しています(251-252頁)。これに対してライトはこの点を否定していると指摘します。
「②の『根源的変革』も文字通りには起こらない。それゆえこの世界は終わらない。宇宙的な根源的な変革による新天新地はないとライトは言う。
『「神の国」の到来は世界が終焉を迎えることとは何の関係もない』(『新約聖書と神の民』(上)新教出版社、二〇一五年、五〇五頁)
『世界の終焉ではなく、現在の世界の秩序の終焉』である(同書、五二七頁)
『エルサレム陥落と神殿の破壊を示すために、世界の終わりを表わすような言語が用いられている』(『シンプリー・ジーザス』あめんどう、二〇二七年、三〇八頁)」(254頁)
このように見れば、ライトは確かに「根源的変革」を否定しているように見えます。ただ、挙げられている引用箇所については二つほど注意点があることを指摘しておきたいと思います。
第一に、一つ目と二つ目の引用は初代教会の終末論を扱った箇所ではなく、「イスラエルの希望」を取り扱った文章から取られていることです。ライトは、「福音書記者たちはイスラエルのストーリーが大いなるクライマックスを迎え、それが世界の長い歴史の方向をついに変える出来事だったと信じていた」と言いますから(『新約聖書と神の民』(上)725頁)、イスラエルの希望についての言及は、福音書記者たちの終末理解につながることが予想されます。実際、同じ書の下巻には次ように主張されます。「したがって、福音書記者たちは時空間世界の差し迫った終焉を期待していなかったのである。そんな考えは、単に彼らの用いた黙示的言語の読み違えから生じるものだが、そうした言語が真に指し示していたのはその時の世界秩序の終焉である。」(『新約聖書と神の民』(下)733頁)ライトの終末論理解を検討するべく引用するとすれば、こちらの方が直接性があったのではないでしょうか。
第二に、三つ目の引用も、また、先ほど紹介した代替引用箇所も、福音書を扱ったもので、直接的に新天新地に関する言及があるわけではないことです。「世界の終焉」か「世界の秩序の終焉」かという問いは、岡山氏からすれば、新天新地に関する問いとして見られるということかと思いますが、少なくともこれらの箇所の前後で、ライトは直接新天新地についての言及しているわけではありません。
これらのライトの主張点を見るとき、新天新地に対するライトの理解は、「世界の終焉」と呼ばれるものではなく、「世界の秩序の終焉」となるであろうことは予想されますが、新天新地が「世界の終焉」を意味するものではないというライトの言述があれば、そちらを引用するほうがよかったと思います。
まとめますと、「宇宙的な根源的な変革による新天新地はないとライトは言う。」という岡山氏の指摘は、少なくとも引用されている箇所からは「そのように予想される」としか言えないのではないかと思います。ましてやライトの終末論を「新天新地もない」と表現するのは、正確さに欠けるように思われます。
(3)死後に天国へは行かない?
上の議論の途中で触れましたが、「死んだら天国に行く」ということに焦点を当て過ぎた福音理解に対して、ライトは常に批判的です。たとえば、次のようにも書いています。「『救い』と聞けば、ほぼすべての西洋のキリスト者は、『死んだら天国に行くこと』を意味すると思うだろう。しかし、これまで私たちが語ってきたことの光に照らして少し考えれば、それはどう考えても違うと分かる。」(『驚くべき希望』317頁)こう書いてライトはむしろ復活に焦点を置いた救い理解を提唱します。
続く箇所では次のようにも書いています。「『死んだら天国に行くこと』が『救い』だと思っている限り、教会の主要な働きは、将来に備えて魂を救うという観点から見る以外になくなってしまう。しかし、『救い』を新約聖書が見ているように見るならばどうか。すなわち、『神が約束した新天新地と、輝かしい体を持つ新しい現実を共有するために、私たちに約束されている復活(『死後のいのちの後のいのち』と私が呼んだもの)という観点から見るのだ。そうすれば、教会がいまここで取り組むべき重要な働きについて、必然的に考え直さなければなくなる。」(『驚くべき希望』321-322頁)
これらの箇所だけを読めば確かにライトが信仰者が死んだら天国に行くことを否定しているように見えます。この点について岡山氏は、第2章の注で触れています。霊魂睡眠説が「英国国教会の公式見解である」と指摘しながら(私は存じませんでした!)、ライトがこの立場に立っていると言い、次のように書いています。「ライトはこの説(霊魂睡眠説)に基づいて、キリスト者であっても死後に天国へは行かないと断言する。『新約聖書や使徒行伝のどこを見ても『イエスは天に昇られたので、私たちもイエスのあとを追って確実に天に行けるようにしよう』とは(それに近いことすら)誰も行っていない」(『驚くべき希望』あめんどう、二〇一八年、二〇五頁)。『死者はどこにいて、それがどんな状態であるかを描写するのは難しい。新約聖書のほとんどの記者もそれを試みていない』(『クリスチャンであるとは』あめんどう、二〇一五年、三〇六頁)。『キリスト教は「死んだのち天国に行く」新しい道筋をイエスが提供し、実例で示し、完成したというのでもない』)(同書一三二頁)」
しかし、ライトが霊魂睡眠説に立っているとは私には思えません。なぜなら、次のようにも書いているからです。「(キリスト者が死後行く場所について、煉獄などの諸説に触れた後)そういうわけで、すべての亡くなったキリスト者は、基本的に皆同じ状態、すなわち休息に満ちた幸福な状態にある、という第四の考えに至る。『寝ている』状態として表現されることもあるが、それを無意識の状態だと考えるべきではない。死の直後のいのちを無意識の状態だと思ったのなら、パウロは『キリストとともにいるほうがいい』とは言わなかっただろう。むしろここでの『寝ている』とは、『死』によって体は『寝ている』状態にあるが、本当のその人は(それをどう表現するにせよ)続いていることを意味する。」(『驚くべき希望』284頁)無意識の状態にあるのではないと言いますので、霊魂睡眠説とは違っているように思われます。
しかし、続く箇所でライトはその状態について次のようにも書きます。「これはもちろん、死後のキリスト者の最終的な定めではない(すでに見たように、死後のキリスト者の最終的な定めは体を伴う復活である)。死の状態は、復活の日を待つまでのあいだ、死者が神の愛とイエス・キリストの臨在を自覚し、その中にしっかりと抱かれている状態のことである。これを『天国(heaven)』と呼べないわけでもないが、新約聖書はそう呼んでいない。新約聖書が『天(heaven)』と言う時は、興味深いことにつねに別のものを指していることを指摘しておかねばならない。」(『驚くべき希望』284頁)
これらの叙述を丁寧に見て行くならば、ライトが「死後天国に行く」と言うことに対して異議を唱えているのは、以下の点であることが見えてきます。「究極の目的地は(繰り返すが)『死後に天国にいくこと』ではない。そうではなく、イエス・キリストの栄光に満ちた姿に似た、変容された体でよみがえらされることだ(幸せな未来が私たちを待っていることも重要だが、ここでもっと重要なのは、私たちがキリストの姿を完全に反映する者となり、神の栄光が現わされることである)。このように、『死後天国に行く』ことについて語りたいのであれば、それは二段階のプロセスのうちのあまり重要でない最初の段階を指していることを、はっきりとさせるべきである。」(『驚くべき希望』279頁)
従って、キリスト者が死んだ直後に行く場所についてのライトの主張は、厳密に言うならば、「天国に行く」という表現を新約聖書が採用していないという主張、そして、その表現を採用したとしても、死後の「二段階のプロセスのうちの重要でない最初の段階を指している」という主張から成っていると考えることができます。ライトとしてはむしろ、「死後のいのちの後のいのち」すなわち体の復活に焦点を置くべきだと言っていることになります。
従って、キリスト者が死後に天国に行くこと自体を(新約聖書がどう表現しているかの問題を別にすれば)ライトは否定していないということになります。
あとがきの一文に基づき検討を進めてきました。私自身は、ライトの終末論についての幅広い言及は、聖書の新鮮な読み方を促すものではあるものの、語られたところをそのままそっくり受け入れてよいとは考えていません。福音書でイエスはご自身の再臨について言及していないとするライトの理解は、従来の解釈に大きな変更を迫るものです。挙げられている一つひとつの箇所について、正しい解釈がどうであるのか、慎重な吟味が求められると思いますし、私としては、「慎重に吟味すればライトの理解は受け入れられないという結果になるのではないか」と予想しています。また、ライトの新天新地の理解は厳密に正しいものなのか、吟味する作業も必要でしょう。ライトが言うように、キリスト者の希望としてもっと復活に焦点を置くことは大切だとしても、「死んだのち天国に行く」ことに対してそこまで否定的にならなくてもよいのではないかといった議論もあり得ると思います。
しかし、これまで見てきたようなライトの終末論理解について、「再臨はない、新天新地もない、死後に天国へは行かないと強調している。」との一文にまとめてしまうのは、雑であるし、乱暴でさえあるように思えます。
物足らない点その2 岡山氏のライト批判は前千年期説、後患難期説に立ってなされている
これは「物足らない点」というよりも、「どうなのか」と考えさせられる点と言ったほうがよいかもしれません。すなわち、ライトの終末論を批判するに当たって、福音派の共通理解を基盤として批判することが果たして可能なのか、という問題です。
ライトの著作がしばしば福音派神学者の間で問題とされるのは、福音派の共通理解とされてきた様々な見解に対して修正を迫る点にあると思います。いわば、ライトの主張は福音派内の異説の一つというよりは、福音派全体に対して挑戦状を突き付けているようにさえ見えるわけです。このような場合、福音派の立場からライトを批判しようとするならば、できる限り福音派が持つ共通の基盤に基づいて議論を進めることが求められるでしょう。
しかし、岡山氏はご自分の立場が前千年期説、後患難期説に立っていることを明確にしておられます。他方、福音派の中には前患難期説に立つ者もいれば、無千年期説に立つ者もいます。そうした状況の中で、前千年期説、後患難期説に立ってライト批判が行われた場合、福音派の多くの者が「そうだ、その通り」となりにくい状況が生まれます。
この点については、岡山氏も本書の中で一定の考慮をなさったことを記しておられます。たとえば、前患難期説と後患難期説の違いについては、「大きな一致、小さな違い」があると指摘しておられます(224頁)。そして、「私たちは根本的な点で一致しているなら、小さな違いを越えて力を合わせていくことができる。一致すべき重要な点とは何だろうか。」と言い(225頁)、四つの点を挙げておられます。すなわち、(1)キリストの再臨、(2)再臨直前の大きな苦難の時代、(3)死後の天国、(4)新天新地の実現の四点です。しかし、その後の千年期についての記述では、前千年期説への強調が続き、無千年期説、開始された終末論への批判がなされます(241頁)。指導教官ビール師とのやり取りは大変興味深いものですが、この時点で先ほど見た四つの共通点から「小さな違い」に入り込んでいるようにも思えます。この後、「多くの『開始された終末論』では、マタイ24章のイエスの終末預言はすべて金言七〇年のエルサレム陥落において成就したとする。」(250頁)、「しかし、イエスの終末預言は七〇年ですべて成就したわけではない。」(251頁)と指摘した上で、ライトの終末論批判へと続きます(253、254頁)。従って、議論の流れとしては、四つの共通点を基盤にした議論になっているのかどうか、少し見えにくくなっているように感じます。
たとえば、「開始された終末論」との関連で言えば、同じく後患難期説に立つと思われるG・E・ラッドは、終末論における「すでに」と「未だ」の両方をバランスよく捉えようとしているように思われます。私が見る所では、「すでに」と「未だ」のいずれかに偏るよりも、両方を見ていこうとする立場の方が、福音派の共通理解を得やすいようにも思うのですが、どうでしょうか。
あとがきを読む限り、ライトの終末論に対する批判は類書もなく、岡山氏としてもどう取り組むか随分悩まれたようです。あちこちでの講演を積み重ね、試行錯誤を経ながら、本書の形にまとまってきたということのようです。その中で、「ライトが無千年期の極端なかたちをはっきり提示してくれたので、その対比として歴史的前千年期説を語ることができた」と書いておられます(315頁)。私としては、ライト批判の書として読むよりも、むしろ、黙示録から歴史的前千年期説を分かりやすく展開する書として読んだ方が素直に読めるように思います。
私自身は、患難期や千年期に関する諸説を見比べながら、「これ」と確信できているわけではありません。むしろ、聖書が決定的に明瞭な形で書いていないのであれば、「これ」と決めつけないほうがよいのではないかという思いがこれまでありました。無千年期説も「もしかしたらあり得るかも」という思いも持っていました。しかし、本書を読む中で、前千年期説や後患難期説に対して、改めて説得力を感じることができました。今後、黙示録の終末論を議論する上では、一つの有力な足掛かりとなる書であることは間違いないと思います。
あとがきには次のようにもあります。「彼の救済論はすでに批判されているが、その終末論の全体を批判した本はまだない。彼の『驚くべき希望』の出版から十三年、邦訳から五年が経つが、まだ一冊も本格的な反論の書が出版されていない。イギリスのボウカム師にも確認したが、ライトの終末預言七〇年完全成就説への批判の書は出版されているが、その終末論の全体を論じた本は出ていないとのことだった。」(311-312頁)この点は、私も、「反論の書出ないのかな」と思っていましたが、一向に出て来る気配がないので、どうしてだろうかと思っていました。日本だけのことだけでなく、世界的にもそうだとすれば、不思議の感はなお強まります。
しかし、今回、岡山氏のライト批判を検討する中で、ライトを批判することの困難さを改めて感じました。一見、簡単に批判できるだろうと思っても、ライトの主張点を丁寧に吟味していくと、どんどん議論が複雑になっていきます。ライトの主張の背後には、膨大な聖書神学的取り組みがあり、さらには聖書の読み方全体に関わる独自の神学的方法論もあるので、そのあたりまで踏み込んでいく必要があります。ライトの主張をトータルに、かつ正確に把握したうえで、的確に批判していく…これはどんな神学者にとっても相当困難なことなのだと思いました。
しかし、一冊もなかったところに、まずは一冊出て来たということですから、その点においては大きな一歩だったと思います。今後、日本や世界の福音派神学者の間で、なお踏み込んだ議論が進んでいくことを期待したいと思います。