長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

結婚式

2018-02-24 20:29:05 | 教会便り

今日は、神戸中央教会で結婚式がありました。

別のところで知っているお二人が、結婚に導かれていることを知ったときは、

不思議な感じがしましたが、式での色々なお話を伺うと、確かに主の導きと

守りの中でこの時があるのだと思いました。

久しぶりにお会いする方々との再会も幸いな時となりました。

あまりの人だかりで、後から挨拶をと思っていたら、

ご本人方との挨拶の機会を逸したことが唯一の残念。

主にあって、お幸せに!

 

 

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冬季野外実習

2018-02-12 20:49:23 | 恵便り

今日から恵は冬季野外実習。

インフルエンザなど心配されましたが、元気ででかけました。

(マスクは、全員するように言われてしているだけです。)

スキーは未経験。転んで、転んで、少しすべれるようになって、

帰って来てほしいです。

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NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第2回)

2018-02-03 10:55:58 | 神学

NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第1回)
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/e62a88b8c0c42c103efe364a73a17e18


8.N.T.ライト

ダンがNPを本格的に新約学会に提示した人物だとすれば、N.T.ライトは、NPを学会以外の領域、キリスト教会全体に対して広く提示した人物と言えるかもしれません。ライトは特に、アブラハムとの契約との関わりで聖書全体を理解しようとする視点を強調します。ダンの釈義がどちらかといえばミクロ的な方向に向きがちなのに対して、ライトの視点はマクロ的な方向に向かいがちであるように思われます。そういったことから、ダンとライトの取り組みには、いくらかの方向性の違いがありますが、NP、特に「ノモス」の取り扱いについては、ダンの取り組みを踏まえた上にライトの取り組みがあると考えられ、共通部分が大きいのも確かです。

N.T.ライトのパウロ研究の原点と言える著作があるとすれば、おそらく、 "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"(1992)が挙げられるかと思います(注56)。それまでに、様々な形で発表されていたパウロに関する釈義的な研究成果を、一つの視点でまとめ上げたものと言えます。その視点は、「契約の神学」と呼ばれうるもので、「イスラエルの神の契約的目的がイエスの死と復活の出来事においてそのクライマックス的瞬間に達した」という視点から、パウロの手紙の内容を見ていこうとするものです(注57)。

従って、ライトの律法理解も、大枠としてはこのような基本的枠組みの中で捉えられていると言えます。この後のパウロ研究に関する著作としては、 "What St. Paul Really Said"(原著1997年)(注58)、'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9"(2000年)(注59)、"Paul: in Fresh Perspective"(2005)(注60)等があります。特に、ローマ書におけるノモスの用法について、ライトの理解に迫ろうとすれば、ローマ書の注解書に当たるのが最善でしょう。

なお、ガラテヤ書の注解書がまだ出されていませんので、ライトによるノモス理解を全般的に詳述することはできませんが、ガラテヤ書のノモスについても、上記その他の著作によって、部分的には把握することが可能です。

ガラテヤ書における律法理解とローマ書における律法理解について、詳細を別途、ブログ記事にまとめていますので、適宜ご参照ください。

「N.T.ライトによるガラテヤ書における律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/1868634631decae493ba081e54f435b2

「N.T.ライトによるローマ書における律法理解」
(第1回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/884ef80f475113d50f55d358ca1bc140
(第2回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/aa027c3893941d8590f5f60a7537141f
(第3回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/fb44fc3532f47f13c57a97adcada76ad

ここでは、それらの記事でご紹介した内容を踏まえながら、4.で挙げました二つの釈義的課題に即して、要約的にまとめます。

(1)ノモスの語意の広がりについて

この点は、ライトもダンと同様に、基本的にはパウロ書簡に現れるノモスをモーセ律法、トーラーと理解します。たとえば、ローマ書で最初に登場するノモス(2:12)について、ライトは以下のように説明しています。「『律法』はここにおいて、また多かれ少なかれローマ書全体において、『ユダヤ人律法』、すなわち、シナイ山においてモーセに与えられたトーラー、イスラエルを定義づけ、教え、彼らが(おそらく)神の民であることを可能にする律法を意味する。」(注61)このようなライトの理解は、私が触れた範囲ではガラテヤ書におけるノモスについても、同様のようです。

あえて、例外的な箇所を挙げるとすれば、ローマ3:19に現れる二回のノモスの内、最初のものは、トーラーと理解しつつも、広い意味として理解されます。また、ローマ3:21に二回現れるトーラーの内、後のものについても、トーラーとして理解しつつも、ヘブル語聖書の区分をさしていることが指摘されます。

これは、従来、モーセ律法とは理解されてこなかった多くの箇所についても同様で、これもダンの理解と一致しています。詳細は上記ブログ記事を参照頂きたく思いますが、ローマ書であれば、3:27、7:21、23、8:2の内、口語訳聖書で「法則」と訳されているノモスについても、トーラーとしての理解を一貫させています。詳細は、上記ブログ記事の該当箇所を参照ください。

(2)ノモスに関する肯定的及び否定的言及について

(2-1)ガラテヤ書において

先にご紹介したように、ライトはガラテヤ書の注解書を出していないため、取り扱いは部分的になります。箇所としては、2:11-21、3:10-14、15‐20の3箇所を取り上げます。2:11-21は"Paul: in Fresh Perspective"で、3:10-14、15‐20は、"The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology"で取り上げられています。議論の詳細は、上記ブログを参照ください。

ここでは、それらの議論を総合したとき、ガラテヤ書における律法(トーラー)理解において、特に律法への肯定的及び否定的言及について、どのような論点で論じようとしているかを考えます。もちろん、ガラテヤ書全体の取り扱いではないことに留意する必要がありますが、ライトの見方を部分的にでも、できるだけ総合的に考えてみたいと思います。

ガラテヤ書の各箇所に現われる律法(トーラー)についてのライトの議論は、相当複雑で、それらを要約的に語ると、多少なりとも過度の単純化が避けられないかもしれませんが、私なりにライトの論点を調べると、以下の三つの論点が絡み合っているように見えます。その内、二つは強い論点で、一つは弱い論点です。

(1)トーラーは、ユダヤ人のみに与えられたものとして、ユダヤ人と異邦人との間に障壁を作るという点において、今や退けられなければならない。新しい契約の家族を区分するしるしは、トーラーの所持でなく、信仰である。

この論点は、第一の強い論点で、ガラテヤ書についてのライトの記述の中に繰り返し現れます。

(2:16)「トーラーの行いが造りだすのは、よくても民族的ユダヤ主義の延長としての家族に過ぎず、神が求められるのは全民族の家族だからである。」(注62)

(3:11、12)「すなわち、契約的メンバーシップはトーラーによって区別されるのでない。なぜなら、それは『律法を行うこと』を契約的境界のしるしとして位置づけ、それゆえそれは究極的に契約が民族によって決定づけられることを意味する。」(注63)

(3:16-17)「彼は(略)一つの種族がトーラーの所持によって特徴づけられ得ないことを議論している。」(注64)

(3:20)「律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。」(注65)

これらは、トーラーがユダヤ民族と異邦人との間に障壁をもたらす点について、パウロが特に否定的に言及していることを指摘するものです。

このような論点の中では、律法と信仰との対比も見られます(3:11、12)。ライトは、ローマ書のほうでは、同様に律法と信仰を対比していると見られやすいローマ10:5-6では、対比的にでなく、包括的に理解していますが、ガラテヤ3:11-12では、律法と信仰の対比を認め、上記のように語っています。

このようなライトの論点は、特に「トーラーの行い」を中心にダンが指摘した論点との連続性を持っていると言えそうです。

(2)トーラーは単に一時的な役割を果たすべきものである。

これは、ライトにおいてはかなり弱い論点となっていますが、いくつかの箇所でこの論点を認めることができます。

(3:10-11についての上記引用に続いて)「それゆえ、レビ記は、歴史的にモーセのディスペンセーションの一部とみなされるが、ハバククによって相対化される。」(注66)

(3:19)「パウロはそれが『加えられた』(アブラハムへの約束に始まり、『一つの家族』に到達すべき神の計画に従って)、『違反のゆえに』と言う。」(注67)

(3:20)「パウロはそれゆえ20節でさらに説明する。律法が神の最後の言葉でありえないのはどうしてか。神はご自身お一人であって、単一の家族を求められるが、モーセの律法は一つの民族にのみ与えられ、それゆえ、この計画を働かせることができない。」(注68)

以上、挙げてみるとすぐ分かりますように、この論点(2)は、ライトにおいては、(1)に付属していると言ってもよい位、目立たないものとなっています。

(3)律法は、アブラハムへの約束の成就を妨げ、のろいをもたらすように見えるが、この問題をメシアの死が解決した。

論点(1)は、ダンとの共通性を感じさせる、いわば、NPPに立つ人々が共通して注目してきた論点と言ってもよいものですが、ライトの特色として、論点(3)の強調を挙げることができます。これは、ライトにあってはかなり強い論点と言えます。

(3:10)「それゆえ本質的議論は次のように分析されると示唆したい。a.トーラーを奉ずるすべての者は、イスラエルの民族的生活様式を奉ずるようになる。b.民族としてのイスラエルは、歴史的にのろいを被ってきた。それはイスラエルがもしトーラーを守らなければトーラーがイスラエルに提供するものである。c.それゆえトーラーを奉じる者は今やこののろいのもとにある。」(注69)

(3:13)「それでは、アブラハムの祝福は(トーラーによって囲まれ、脅かされている)ユダヤ人、あるいは、(約束された祝福がそれゆえ自分のところにまで届かない)異邦人にどのようにして到来するのか。解答はまさにメシアの死に見出される。」(注70)

たとえば、ライトは、3:10-14全体について、「契約」のテーマとの関わり、及び「のろい」用語の使用に注目します。

まず、3:10については、ここでのトーラーについての言及は、それ自体では全く否定的なもののように見えますが、3:10で引用される申命記27:26から、申命記27-30章の文脈に視点を移すことにより、トーラーの役割はそれに終るのでないという論点が浮かび上がってきます。

また、3:13についても、「キリストは…律法ののろいからあがない出して下さった」という表現から見ると、この箇所では一見、律法が極めて否定的に取り上げられているように見えます。しかし、ライトは、同じく申命記27-30章を背景にしながら、律法によるのろいを通り抜けて回復、命へという線を見ようとしています。神の契約がキリストの死においてクライマックスに達するために、律法(トーラー)が逆説的に重要な役割を果たしていることをライトは見ようとしています。

(2-2)ローマ書において

ローマ書においてのトーラーに対するパウロの理解をライトがどう見ているかについては、ライトの注解書を中心にかなり詳細に調べることができます。以下のブログ投稿では、注解書本文に当たりながら、ローマ書各節における議論をまとめていますので、参照ください。

「N.T.ライトによるローマ書における律法理解」
(第1回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/884ef80f475113d50f55d358ca1bc140
(第2回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/aa027c3893941d8590f5f60a7537141f
(第3回)http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/fb44fc3532f47f13c57a97adcada76ad

上記投稿では、注解書全体の中から律法に関する議論を抽出し、その論点を洗い出し、それらの論点を整理、要約するところまで行いました。

ここでは、それらの論点整理を踏まえながら、特に、律法に対するパウロの否定的言及、及び肯定的言及をどう見たらよいのか、という観点から、整理し直してみます。

上記投稿で詳しく検討していますように、ライトの注解書本文から洗い出された論点は、各聖書テキストの釈義的議論などと結びついていると共に、論点相互の関係も複雑です。しかし、上記投稿では17の論点を4つの論点群にまとめました。ここにそれらを再掲すると共に、それらの論点に言及する主な注解書箇所を例示してみます。(詳細は、上記ブログ投稿に当たってください。)

(1)トーラーをユダヤ人と異邦人とを区別するものとし、ユダヤ人がトーラーの所有を契約の民のバッジとしようとすることに対して、否定的に扱う論点群

(3:20)もし、『ユダヤ人たち』がトーラーをアピールして、『これがわたしの異邦人と違うことを示してくれる』と言うなら、トーラー自身が『ノー』と言うだろうとパウロは言う。(略)パウロの時代、特に契約の民であることを示すものとして言及された『行い』は、もちろん、とりわけディアスポラにおいてユダヤ人を異邦人の隣人たちから区別するもの、すなわち、安息日、食事規定、割礼であった。(注71)

(3:28)イエスにおける神の真実の啓示の光においては、神の契約的民を今区別するものは、民族的イスラエルの境界を確定するトーラーの行いでなく、『信仰の律法』であって、逆説的ではあっても事実トーラーを真に成就する信仰である。
(注72)

(4:13-15)トーラー自体は契約の子孫の区分の印ではありえない。(略)彼はここでこのことを、なぜ割礼がこの子孫におけるメンバーシップに必要でもなければ十分でもないかということの更なる説明として提供している。それは、トーラーをメンバーシップのバッジとして絶対化するであろう。しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。(注73)

(2)トーラーが罪を指摘し、罪の問題を拡大する機能を持ち、イスラエルを断罪するに至ることについての論点群

(3:20)むしろ、彼のポイントは、トーラーの所有をアピールすることによって自分たちの契約的立場を正当化しようとするすべての者が、トーラー自身が彼らを罪に定めるのを見出すだろう、ということである。(注74)

(4:15)しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。トーラーは怒りをもたらす。(4:15a、それは3:19-20、またその背後に2:12bに言及する。)(注75)

(5:20)トーラーは、その所有者をアダムの罪の継承から解放するどころか、実際、彼らにとってそれを悪化させるように見える。このことは多かれ少なかれ、3:19-20でパウロが既に語ったことである。(注76)

(3)良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。

(3:21)今パウロがしなければならない最初のことは、良い知らせの新しさを強調することであり、この啓示が『トーラーを離れて』起こったことを強調することである。(注77)

(4)罪はトーラーを通して問題をもたらすが、トーラー自体が悪いのでなく、むしろ信仰が御霊によってトーラーを成就に至らせる。

(3:27)むしろ、トーラーは信仰を通して成就される。言い換えれば、誰かが福音を信じるとき、たとえ驚くべき方法ではあっても、トーラーは実際に成就されつつある。(注78)

(7:13)すべての責めは、再度罪そのものに向けられる。罪は律法(『良いもの』)を通して『私』の内に働く。律法それ自体でなく、罪のその働きが死をもたらす。これが7:5の濃縮された言述の背後にある基本的説明であって、トーラーを過程における意図的共犯者の容疑を晴らすものである。(注79)

(7:22-23)トーラーは神に与えられたものであって、それ自体、きよく、正しく、良いものである。それはまさに喜ばれるべきものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいて(8、11節)、それは罪によって乗っ取られ、『罪の律法』になった。(注80)

(8:2)トーラーは、それゆえ(略)神が成し遂げられたもの、すなわち、御霊が人格的与え主となる命の、隠れたエージェントである。(注81)

(8:3-4)神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。(注82)

(10:4)トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。(注83)

(13:8)隣人を愛する人々は、こうして、彼らは決してトーラーが禁じることをしないという直接的な意味においても、彼らを通して神の命の道がよく見られるという、より広い意味においても、『トーラーを成就する』。(注84)

以上、4つの論点群について、該当する聖書箇所、及びそこでのライトの言及を挙げてきました。ご覧いただいたらお分かり頂けると思いますが、これらの論点群は、互いに深く関わり合っています。たとえば、論点群(1)は論点の趣旨自体の中に論点群(2)との接点がありますし、3:20の取り扱いでは両方の論点が含まれます。また、論点群(3)は3:21に見られるものですが、そこでのライトの注解を読むと、その中に論点群(1)と(2)の両方が結び付けられているのが分かります。更に、論点群(4)は、論点群(2)を受けて発展させられています。

これらの論点群をダンの場合と比較してみますと、論点群(1)は、特にダンの理解との一致性、連続性が強くあります。論点群(2)については、ライトにおいては論点群(1)と並んで、かなり強く表現されていますが、ダンにおいては論点群(1)の強調の陰で、あまり強くは表現されていないように見えます。論点群(4)についても、ダンの理解と共通している部分がかなりありますが、ライトはダンよりもなおこの論点群をなお強く強調しているように思われます。

さて、パウロが律法に対して否定的に言及していると見られる箇所は、上記の論点群で言えば、(1)または(4)に属していると見られます。

一方の論点群(1)においては、ユダヤ人がトーラーを所有していることにおいて異邦人とは異なり契約の民のメンバーシップを主張したとしても、それは否定されるという点において、否定的言及となります。

他方、論点群(4)においては、たとえば、7:5のように「律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして」といった箇所において、一見、律法に対する否定的言及に見えるとしても、トーラー自体が悪いのではなく、罪が問題の根源であるという論点において、トーラーに対する擁護がなされることになります。

逆に、パウロが律法に対して肯定的に言及していると見られる箇所は、論点群(4)に属していると見られます。但し、肯定的論旨としては二種類あって、第一には、律法が罪の働きを増すように見えるのに対して、律法自体が悪くないことを主張する場合(7:12、14)、第二には、信仰が御霊によって律法を成就することを主張する場合です(3:21、8:4)。


9.NPPの立場からのその他の解答

ダンが"The New Perspective on Paul"というタイトルでマンソン記念講演を行った1982年から30年以上の歳月が流れました。その間に、これに反対する立場からも、同調する立場からも、多くの論文や著作物が出されてきました。ただ、その多くは、英語での文献になるようで、私にはその状況を大まかにでも把握する力がありません。それでも、ダンとライト以外に、手近なところで入手可能な資料、文献もありますので、二人の方を簡単にご紹介致します。

(1)浅野淳博

一年前、私が「NPPによるノモス理解」のテーマに取り組み始めた頃はまだ発行されていませんでしたが、取り組みにようやく終わりが見えてきた頃、日本で新しいガラテヤ書の注解書が出されました。浅野淳博著『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』です(注85)。この注解書は、まさしくNPPからのノモス理解に立って書かれています。彼は、その注解書の中でガラテヤ書研究において重要なのテーマを17のトピックスとして取り上げており、その中には、「#8 ΝΟΜΟΣ:律法とユダヤ人の律法観」「#9 ΚΑΤΑΡΑ:呪いと救い」「#16 ΝΟΜΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ:律法、キリスト、キリストの律法」が含まれています。NPPの立場からのノモス理解についての日本語のまとまった文章として、今後、大いに参照されるべき内容になっています。ここでは、これらのトピックスの内容を中心として、著者のノモス理解をごく簡単にまとめてみます。

・NPPと律法理解

「トピック#8 ΝΟΜΟΣ:律法とユダヤ人の律法観」では、まず、伝統的な律法理解とNPP及びその後の視点について簡略に触れられています。その中で、パウロの律法理解に対してNPからの問いかけがなされたことが指摘されています。「この律法理解(サンダースが提唱したcovenantal nomismとしての第二神殿期ユダヤ教理解)は広く受容され、『新たな視点(New Perspective)』の幕開けとなった。一方でこの視点は即座に新たな疑問を投げかけた。すなわち、〈律法が悪でないならパウロはなぜ律法を否定的か、律法の何を批判するか〉である。」

このように指摘しながら、サンダース自身の回答に対しては「印象的だが創造性に欠ける」と指摘しながら、次のような示唆を与えています。「むしろ、律法を持つ者の奢りという主題(ロマ2章)や『律法の行い』(ガラ2:16;3:2,5)という表現の意味に注目し、律法が象徴するイスラエルの選民的民族意識がパウロによって批判されている点に注意を向ける必要があろう。」(注86)これは、概ね、ダンが示唆した方向性に一致しています。

・神の律法

パウロが律法をいかに理解したかという問いに対して、浅野は大きく二つの方面から示唆を与えます。まず、「神の律法」とのタイトルのもとに、二つのサブタイトル(「命を導く律法」、「罪を定義する律法」)が掲げられます。ここで指摘されているのは、一見、パウロが律法に対して否定的に言及しているようであっても、厳密には律法を批判しているわけではないという点です。たとえば、次のように指摘されます。「したがって、パウロが律法は命を与えないと述べる場合(ガラ3:21)、それは上述の神の憐みと律法との違いを意識しており、厳密には律法を批判しているのではない」、「したがって、律法をとおして罪の知識がもたらされ(ロマ3:20)、律法のないところに違反が認められない(4:15)ことは、厳密には律法への批判でなく、この律法の機能を述べている。」(注87)

・律法の終末的評価

次に、「律法の終末的評価」とのタイトルのもとに、三つのサブタイトル(「律法の一次性」、「律法の隷属性」、「誤った律法観」)が掲げられます。まずは総括的に次のように言われます。「しかしパウロが、キリストによる神の救済計画の成就という終末的な観点から、律法に関する独特な評価を下していることも確かだ。」(注88)しかし、この観点からの律法評価においても、実は律法を批判しているわけではない点が関わっているとし、それでは実際にパウロが否定的に言及するのが何にたいしてであるのかという問いに迫っていきます。

まず、「律法の一時性」は、ガラテヤ3章に見出されるパウロの論点ですが、次のように言います。「これは神が与えた律法の役割に対する適切な認識で会って、律法の批判でない。」

続いて、「律法の隷属性」は、パウロがガラテヤ4章等で述べている論点ですが、これについても次のように指摘されます。「これは本質的には、上で述べた罪を定義する律法の機能を言い表しており、罪(不従順)→捕囚→帰還というプロセスの拘束性を強調している。人の罪という変数を組み込むと、律法の公式はおのずから拘束/隷属という解をたたき出す(Dunn 1988:158-59参照)。したがってこの点に関しては、律法の批判というよりも、罪深い人類と律法が対峙する歴史が表現されていると理解できよう」。

以上、ガラテヤ3-4章における律法の評価については、「それが与えられた目的を与えられた期間に果たした、ということである」と言います。但し、この評価は同時に、「律法がユダヤ人による神の独占を保証するという民族的な排他性に対する牽制」でもあって、このことが律法に対するパウロの著しく否定的な表現につながると指摘します(注89)。

続く「誤った律法観」というサブタイトルの下で、パウロの批判点が明確化されます。(ローマ2章を挙げながら)「律法を誇りながら律法に従わないユダヤ人は神を侮辱する」、「上では、神が契約の民の生き方を規定する目的で律法を与えたという理解を指摘したが、パウロはユダヤ人がこの神の憐みによる計らいを選民思想の根拠とし、自民族による神の特権的占有を保証する象徴として律法授与を捉えたことを指摘する。」、「ガラ2:16では、このユダヤ人による律法への歪曲した誇り、それを根拠としたユダヤ民族の優位性を『律法の行い』というパウロ特有の句によって表現し、その象徴としての割礼と食事規定を異邦人へ適用することを問題視した。」(注90)

・キリストの律法

他方、「トピックス#16 ΝΟΜΟΣ ΧΡΙΣΤΟΥ:律法、キリスト、キリストの律法」では、「ユダヤ律法と出会い直した新約聖書学は、パウロの倫理における律法の意義をふたたび問うた。この新たな試みにおいて起点となるのが『キリストの律法』というパウロ自身の表現である」と言います。そして、この「キリストの律法」について、「それはユダヤ律法に替わるキリストの原理でなく、キリストが体現した律法の精神だ」と主張します(注91)。

(2)T.ギャラント

日本ではほぼ知られていない学者だと思いますが、ネット上に、この方の以下のような小論を見つけました。

'Paul and Torah-An introductory overview'
http://www.rabbisaul.com/articles/overview.php

この小論は、パウロ研究に関する資料を集めた以下のサイトで掲載されていたところから見つけました。
http://www.thepaulpage.com/

このサイトには、NPPに関する資料が集められており、NPPサイドに立つものが'From the New Perspective'という形でまとめられていました。上記小論は、その中に含まれていましたので、このサイトでは、上記小論をNPPサイドに立つものとみなしていることになります。

以下は、上記小論の内容についての簡単なご紹介です。

NPPが現われてからのモーセ律法についてのパウロの見方についての議論が複雑であることを認めつつ、ギャラントは、以下の点を主張します。

・パウロ研究において福音主義的基本姿勢を明確にすべきである。

パウロ研究についての福音主義的評価のためには、基本姿勢として、パウロが首尾一貫した見解を持ち、自己矛盾を起こしてはいないという前提が必要であることを明確にしています。その意味で、レーザネン、ヒュプナー、サンダースといった学者たちの見解を退けています。

・パウロにおけるノモスは通常トーラー(モーセ律法)を意味する。

いくつかの用法を挙げながら、パウロにおけるノモスが通常モーセ律法を意味するとの見方を明確にしています。但し例外としては、ローマ3:19を挙げます。

・トーラーを救済史的枠組みの中で位置づけようとする姿勢を明確にしている。

ギャラントの特徴として、救済史的枠組みの中にトーラーを位置づけようとする姿勢が強いことです。その意味で、クリスチャンは現在、トーラーのもとにはいないことが強調されます(ローマ6:14、第一コリント9:20)。また、ローマ10:4の「テロス・ノムー」については、"goal"としての訳を好むと言いつつ、その理解としては、ある種の「終わり」として理解しようとします。

・パウロのトーラーを巡っての否定的言及は、主に、トーラーがキリストにおいてゴールを迎えたことを否定することに対して向けられている。

上記強調点の帰結として、パウロがトーラーに対して否定的に語る場合、それはキリストが来られたことにより、トーラーがゴール(終り)を迎えていることを否定することに対して向けられているということになります。なお、彼のこのような理解は、ガラテヤ書自体を注意深く読んだ結果であると言います。

・律法の成就もまた、契約の移行という枠組みの中で理解されるべきである。

ギャラントの強調点は、トーラーとの連続性よりも非連続性に置かれているように見えます。そうした場合、パウロがしばしば提示する「律法の成就」というテーマをどう理解するかが問われることになります。ギャラントは、この点についても救済史的枠組みの中で理解する方向性を示し、トーラーは規範的契約であることをやめたのであって、キリストにある新しい契約の中でこのテーマを見ようとします。

以上、小論におけるギャラントの論点の概略を見てきましたが、印象としては、NPP、特にライトの主張をよく踏まえつつも、ライトがあえて強調しなかった救済史的視点を強調しているところに彼の特色があるように思えます。あまりよく知られている人ではないですし、私自身どこまでネット上の小論を読んだだけのことに過ぎませんが、NPPの幅の広さを感じさせるものではありますので、ご紹介させて頂きました。


10.今後の検討の方向性

以上、パウロのノモス用法について、二つの釈義的課題に照らしながら、OP及びNPの立場からの理解、主張を見てきました。今後は、これらの理解、主張を踏まえた上で、どういう判断でこれらの問題を見ていくのか、検討を深めていく必要があります。ここでは、現時点での所感と共に、今後の検討の方向性として、今の時点で考えていることを挙げさせて頂いて、この論考を一旦終えさせて頂きたいと思います。

まず、二つの釈義的課題に照らしながら、OP、NP双方の論点、主張点を整理する中での所感ですが、自分としては思うに勝って、このテーマについての争点が整理されてきたように思います。しかし、同時に、それはこのテーマの難解さ、複雑さがなお強く理解されてくることでもあったように思います。更には、このテーマについてどういう見方をするかが、パウロ理解にとどまらず、福音理解、聖書理解をも大きく左右することも痛感しています。

今後の検討の方向性ですが、やってみないと分からない面が多々あることを承知の上で、現時点で考えていることをアトランダムに挙げてみます。

・とりあえず、ノモス=トーラーの線で検討を進めてみる

私としては、とりあえず、ノモス=トーラーの線で検討を進めてみたらどうかと思っています。NPからの主張に触れるまでは、私も概ねOPの線でパウロの律法言及を理解していたと思います。しかし、NPからの問いかけを踏まえてパウロの手紙を読んでみると、パウロのノモス用法の少なくとも相当部分はトーラーとして理解するのが自然と思われます。とりあえずは、基本的にノモス=トーラーの線で検討を進めていければと思います。従来、一般的原理として理解されることの多かった箇所(ローマ3:27、7:23、8:2)でも、トーラーとして理解することが可能かどうかを含めて、検討し直してみます。

・各書簡が書かれた背景・状況と、ノモスに関する論点との関わり具合を考える

パウロのノモス理解を考える上では、これまで見てきたように、ガラテヤ書及びローマ書への取り組みが第一となります。両書は、取り組むテーマや提示される論点、またその表現において、多くの重なる点を持ちますが、その書かれた背景においては少し違ったものがあります。そのことが、各書簡におけるノモスに対する論じ方に、ある程度の差異を与えているように思われます。そのあたりを私なりに探ってみたいと思います。

同時に、パウロのノモス理解を考える上で、コリント書やピリピ書も相当重要です。また、その他の書簡にノモスについての言及が少ないとしたら、それはどうしてなのかという問いについても、検討したいと思います。

・ノモス以外の関連フレーズについての釈義的検討

NPPが投げかけた釈義的課題は、ノモス理解だけでなく、パウロの「神の義」「義とされる」、あるいは「ピスティス・クリストゥー」をどう理解するかという課題があります。私としては、それらを一遍に取り組むことは混乱のもとであると考え、これまで特にノモス理解の問題に焦点を当てて考えてきました。しかし、最終的には、これらの別課題にどう答えるかが、パウロのノモス理解の問題への解答の仕方に関わってくることも、避けられないことと思います。いずれかの時点で、これらの課題にも取り組んでいきたいと思います。

・"What St. Paul Really Said"読後の暫時的見解の再検討

2016年には、ライトの著作"What St. Paul Really Said"(原著1997年)に対する検討を進め、14回にわたってブログに投稿しました。その内、特に、「第7章 義認と教会」では、ライトの義認論を巡る文章への検討をしました。その中では当然、パウロの律法理解の問題も扱うことになりました。その際には、その時点での暫定的見解もまとめさせて頂きました(以下の投稿参照)。

「第7章 義認と教会(その3)」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/3b1f74674e764c211c4dc393d8c83b63

内容的には、ノモス=トーラーとしての理解を受け入れ、また、パウロの律法についての議論をいわゆる律法主義に反対する論ではないという指摘も受け止めつつ、なお、全般的には保守的な見方を保持するものだったと思います。その時点では、NPP全般に対する理解も浅く、ライト自身のノモス理解の詳細については無知なところが多々ありましたので、あくまでも暫定的な見解にとどまるものでした。(今となっては、軽々によくも公表したものだと呆れる思いも持ちます。)

今回の検討を通して、ダンやライトその他、NPの立場からの諸見解に触れることができました。その中で、私が以前自らの暫定的見解のために挙げさせて頂いた論点のいくつかは、随分多方面から反論されているのを確認することができました。しかし、ざっと見たところではまだ私の見解が全体的に反証され尽くしているわけではないとも感じています。現段階での印象では「少なくとも部分的には成立の余地を残している」という感を抱いています。この点についての検証も、私の中では大きな課題となります。

・「律法の成就」のテーマを見逃さないこと

他方で、「律法の成就」というテーマは、パウロがローマ3:31、13:8でも表現しており、「キリストの律法」という表現とも関わると見られます(ガラテヤ6:2、第一コリント9:21)。また、主イエスにあっても、同じテーマが強調されていることを考えると(マタイ5:17)、パウロの律法理解をどのように考えるとしても、このテーマを無視してはいけないし、むしろしっかりと踏まえる必要があるかと思います。

・旧約聖書及び主イエス及び初代教会における律法理解についての歴史的文脈を踏まえること

NPPでは、パウロの律法理解を考える上で、1世紀ユダヤ教における律法理解がどうであったのかという、これまで軽視されてきた点をよく踏まえるべきことを提唱しています。パウロが諸書簡を書いた背後には、多かれ少なかれ1世紀ユダヤ教との関わりがあったのですから、この提唱には大きな意義があったと思います。しかし同時に、当然のことながら、旧約聖書における律法に関する啓示、主イエスの律法についての教え、また他の使徒たちがどう律法を理解し、位置づけたか等、律法理解についての幅広い歴史的文脈をも踏まえる必要があるかと思います。パウロがそれらを踏まえた上で、自分なりの仕方でこの問題を整理し、論じたであろうと思うからです。

・律法と契約との関わり、及び契約間の連続性と非連続性の問題を考えること

ライトは特に、律法を契約との関わりで見ようとします。両者の密接な結びつきは、特にガラテヤ3章で明瞭に現われています。ただ、ライトの場合、アブラハム契約、シナイ契約(モアブ契約)、そして新しい契約の間で、非連続性よりも連続性に目を向ける姿勢が強く表われます。他方、ギャラントのように、契約間の非連続性に注目し、律法に対するパウロの否定的言及についても、主としてこの点から説明しようとする学者もいます。律法と契約との関わり、また古い契約と新しい契約との関わりについて、自分なりに検討を加えたいと思います。


以上、思いつくままに書いてみました。この他にも、NPに対するOPからの応答として出された近年の著作がどのような論点を提示しているのかも見ていければと思います。挙げてみると、際限のないことのようにも見えますが、今回の論考をまとめ始めたときには、このような地点に到達することさえ危ぶんでおりましたので、神の許しがあれば、行けるところまで行ってみたいと思います。

なお、パウロのノモス理解の問題は、当然のことながら、今後、新約学者のみならず、日本の諸教会、牧師、信徒が取り組んでいくべき課題となることと思います。諸方面からのご教示、異論、対論、歓迎します。また、ご一緒に取り組んで下さる方がありましたら、ご連絡頂けますと幸いです。

 


(注56)N.T.Wright "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

(注57)Wright上掲書Preface p9

(注58)N.T.Wright "What St. Paul Really Said" Lion Books, 1997(邦訳:『使徒パウロは何を語ったのか』岩上敬人訳、いのちのことば社、2017年)

(注59)N.T.Wright 'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9" Abingdon Press, 2000。

(注60)N.T.Wright "Paul: in Fresh Perspective" Fortress Press, 2005

(注61)Wright 'Romans'、p356

(注62)Wright "Paul: in Fresh Perspective"、p110-112

(注63)Wright "The Climax of the Covenant"、p149

(注64)Wright上掲書、p166

(注65)Wright上掲書、p172

(注66)Wright上掲書、p149

(注67)Wright上掲書、p171

(注68)Wright上掲書、p172

(注69)Wright上掲書、p147

(注70)Wright上掲書、p151

(注71)Wright 'Romans'、p375

(注72)Wright上掲書、p395-396

(注73)Wright上掲書、p408

(注74)Wright上掲書、p375

(注75)Wright上掲書、p408

(注76)Wright上掲書、p442

(注77)Wright上掲書、p383

(注78)Wright上掲書、p395

(注79)Wright上掲書、p475

(注80)Wright上掲書、p480

(注81)Wright上掲書、p486

(注82)Wright上掲書、p489

(注83)Wright上掲書、p562

(注84)Wright上掲書、p625

(注85)浅野淳博『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』(日本キリスト教団出版局、2017年)

(注86)浅野淳博上掲書、251頁

(注87)浅野淳博上掲書、253頁

(注88)浅野淳博上掲書、253頁

(注89)浅野淳博上掲書、254頁

(注90)浅野淳博上掲書、255-256頁

(注91)浅野淳博上掲書、459-460頁

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NPPによるノモス理解―二つの釈義的課題に照らして(第1回)

2018-02-03 10:38:00 | 神学

2016年には、N.T.ライトの"What St Paul Really Said"の検討に取り組みました。その中で、「パウロにとっての律法(ノモス)とはどのようなものなのか」というテーマが浮かび上がってきました。このテーマは、NPP(パウロについての新しい視点:New Perspective on Paul)が掲げる基本的主張、すなわち、パウロの論敵はいわゆる「律法主義者」(すなわち、律法を行うことによって救われるという考え方をする人々)ではなかったという主張(注1)とも深く関わり、パウロ神学の大きな課題となっています。

2017年に入ってから取り組みを始め、ほぼ1年かかっての取り組みとなりました。学んでいけばいくほど、このテーマの深遠さ、難解さを感じさせられています。一方では、パウロ研究の分野でNPPが投げかけた釈義的課題は、多方面に及んでおり、ノモス(律法)についての問題提起はその一部に過ぎません。また、NPPの立場に立つ研究者の中でも、ノモスに関する釈義的見解には幅があることも事実です。他方、パウロ書簡においてノモスの用法はかなり広範囲に及んでおり、かつ、従来より釈義的な課題を持つ用語でもありました。そういった課題に対して、浅学なものが取り組みを進めることは容易なことではありませんでした。(この過程の中で、ダン及びライトの、ガラテヤ書及びローマ書における律法理解をまとめることになりました。)

しかし、パウロ神学の根幹に関わる問題であることは確実ですし、それは聖書全体のメッセージをどう受け取り、どう伝えていくかという、すべての牧師にとっての基本的課題に直結することでもあります。大山に向かって少しずつ上っていくような感がありましたが、とりあえず、NPPがノモスをどう理解しているのかについては私なりに整理されてきましたので、取り組みの途中経過として、ここにまとめてみました。大山の五合目あたりに達したというところでしょうか。

今後、NPPが投げかけた課題に対して、どう答えていくのかという課題が残されます。今回、結部ではこれまでの取り組みの中から見えてきた手がかり、現時点で考えている検討の方向性をまとめています。しかし、果たして無事大山の頂上までたどり着けるのか、現時点では何とも言えません。神の助けを頂きながら、行けるところまで行ってみたいと思っています。


1.NPPによる問題提起

パウロにおける「律法」についての教えについては、従来から新約学者の重要テーマの一つでしたが、NPPが注目されるようになったことにより、この問題が新たな角度からクローズアップされてきたと言えます。

たとえば、福音主義神学会東部会研究会での岩井敬人牧師による発題は、NPPを次のように紹介しています。「パウロ研究に関する新しい視点とは、1977年にE.P.Sandersが著したPaul and Palestinian Judaismを発端として、パウロ研究の分野にもたらされた第二神殿期ユダヤ教の視点であり、そこからパウロの手紙(特にローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙)の再解釈を試みた新約聖書学における一連の研究の流れである。(中略)サンダースによると、第二神殿期ユダヤ教は、律法の行ないによって義とされることを追求する宗教ではなく、神の恵みによる選びと神との契約に基づいた宗教(covenantal nomism,「契約規範主義」)であった。律法遵守は、あくまでも契約を維持するために要求されていたのであり、神との契約関係に入るために求められていなかった。ところが、これまでのプロテスタント理解によると、『律法の行いによって義とされる』とは、当時のユダヤ教が教え、実践したことであると解釈されてきたのである。もし一世紀ユダヤ教が律法主義ではなく契約規範主義であったのなら、これまでのパウロ理解、特にローマ書やガラテヤ書の解釈をもう一度問い直さなければならないのである。」(注2)

もちろん、同じ発題で明らかにされているように、NPPの立場からの釈義的課題としては、「神の義」「義認(ディカイオー)」「ピスティス・イエスー・クリストゥー」理解等、幅広い論点が関わっています。しかし、NPPが掲げる問題提起が、第二神殿期ユダヤ教への理解から始まり、パウロの手紙と「律法主義」との関係(あるいは無関係)の問題に進んでいったことを踏まえると、「パウロにおいて律法はどのように考えられ、教えられているのか」という問題は、NPPがパウロ理解に投げかけた一番最初の基本的な問題提起であったとも言えます。

ただ、人々の関心が「NPPは従来の義認論にどのように変更を迫るのか」といった観点に焦点が当てられがちであるため、なかなか「パウロと律法」という基本的釈義課題が深まらない、ということもあるのかもしれません。ここでは、この点に焦点を絞った上で、NPPの問題提起を整理してみたいと思います。


2.NPPのノモス理解に迫るための方向性

課題への取り組み方は色々ありうると思うのですが、この点について、上記発題は以下のように指摘しています。「パウロ研究に関する新しい視点は、あくまでもパウロ書簡の釈義という土俵で論じられる問題であり、聖書釈義における議論の過程を飛び越えて、神学(あるいは組織神学)の土俵で扱われるべき問題ではない、ということは多くの研究者が同意するのではないだろうか。」(注3)この点については、私もその通りと思いますので、ここでもまずは釈義的課題として取り組みたいと思います。

ただ、釈義的課題と考える際にも、色々な方面からの取り組み、視点がありえます。ここでは、特定箇所の詳細な釈義に入り込むよりも、パウロの各手紙(ローマ書やガラテヤ書を中心に)における律法の用法を、全体的に把握することをめざしたいと思います。その意味では、聖書神学的アプローチを取ることになるかと思います。

取り組みの手がかりとして、パウロ書簡における「ノモス」用法に関わる基本的な釈義的課題を二つ挙げさせて頂きました。一つは、「ノモス」という用語が持つ語意の広がりの問題。もう一つは、パウロがローマ書やガラテヤ書などにおいて、「ノモス」に対して、肯定的言及と否定的言及の両方を繰り返しているように見える問題です。これらは、NPPだけでなく、OP(古い視点)に立つ研究者たちも取り組んできた課題と言えます。従って、まずはこの二つの釈義的課題に対して、OP(古い視点)とNP(新しい視点)がどのようにその問題に解答を与えたのかを注目します。それによって、パウロの「ノモス」用法を巡る議論において、とかくすれ違いに終わりやすいところに、とりあえず共通の土俵を用意することができると共に、OPとNPの視点の違いを比較対照することが容易になるのではないかと考えました。


3.用語についての基本的確認

(1)トーラーとノモス

基本的なこととして、旧新約聖書で「律法」と訳される言葉を確認しておきます。旧約、新約、それぞれ、色々な言葉が「律法」と訳されますが、その中で圧倒的に多い言葉が、旧約聖書では「トーラー」であり、新約聖書では「ノモス」です(注4)。

まず、旧約聖書で用いられる用語として、「律法」(Law)と訳されるのが最も多いのが「トーラー」です(220回)(注5)。この言葉の本来の意味は、「指示、導き、教え」といった意味で、旧約聖書でも、一般的用例がないわけではありません(箴言1:8、イザヤ42:4等)。しかし、最も多いのは、モーセ五書を中心にモーセを通してイスラエルの民に与えられた神の個々の教え(出エジプト12:49等多数)、及びその総体(ヨシュア1:7等多数)について言及するものです。

次に、新約聖書で「律法」と訳される言葉のうち、最も用例が多いのは「ノモス」です。「ノモス」という言葉もまた、いくらかの広がりをもって使われうる言葉です。大きく言えば、(a)「基準、法則、原理」といった意味合いで使われる場合もありますが(ローマ8:2等がその例とされてきました)、より一般的なのは(b)「法律」としての意味合いで用いられるケースで、新約聖書においてはほとんど「律法」と訳されます。細かく分けて言えば、(イ)一般的な「法律」の意味合いでの用例と断定できる箇所は見当たらないようです。「律法」と訳されうる用例としては、(ロ-α)モーセの律法(ユダヤ人の道徳的・祭儀的律法全体)(マタイ22:36等)、(ロ-β)モーセ五書(旧約聖書の区分の一つとして、ルカ24:44)、(ハ)キリストの律法(ガラテヤ6:2)といった使われ方の区別があるとされます(注6)。

(2)パウロにおける「ノモス」用例(概観)

パウロはノモスを119回用いており、それは新約聖書全体の191回の半分を越えます(62%)(注7)。その中でも圧倒的多数は、ローマ書とガラテヤ書での用例です(注8)。たとえば、Leon Morrisは、受け取り方の難しい用例として、ローマ7:23(口語訳聖書で「罪の法則」「心の法則」と訳される部分)、7:2(口語訳聖書で「夫の律法」と訳される部分)、ローマ8:2(口語訳聖書で「罪と死との法則」と訳される部分)を挙げていますが、その他の部分では、「ほとんど彼は、モーセを通して神が与えた律法を考えており、それを神のよい賜物と見ている」と指摘しています(注9)。

すぐ後で見ますように、「ノモス」という用語自体は、かなり幅の広い語意を持った言葉です。ですから、この言葉自体は、必ずしも、モーセ律法に限定して理解される言葉とは言えません。従来、保守的学者の間では、パウロがローマ書やガラテヤ書で、ノモスをかなり幅のある使い方をしてきたと理解してきました。しかし、NPPの立場からは、パウロ書簡におけるノモスを基本的にモーセ律法として理解する見方が提示されています。この点は、今後、検証していくべき大切な点の一つとなりますが、NPPの立場以外でも、レオン・モリスのような新約学者において、パウロの用いたノモスの基本的用法として、「モーセを通して神が与えた律法」としての用法を考えていることを、まずは押さえておくべきでしょう。


4.パウロの「ノモス」用法に関する二つの釈義的課題

まず、パウロの「ノモス」用法を検討していくと、すぐに直面させられる問題が二つあることを指摘させて頂きたいと思います。

(1)「ノモス」の語意の広がり

第一には、ギリシア語「ノモス」に、語意の広がりが見られることです。たとえば、岩隈による「ノモス」の語意分類を要約的に再掲します(「1.」参照)。

(a)「基準、法則、原理」(ローマ8:2等)
(b)「法律」「律法」
(イ)一般的な「法律」
(ロ-α)モーセの律法(ユダヤ人の道徳的・祭儀的律法全体)(マタイ22:36等)
(ロ-β)モーセ五書(旧約聖書の区分の一つとして、ルカ24:44)
(ハ)キリストの律法(ガラテヤ6:2)

これまでパウロの「ノモス」用法の中では、一般にこれらの用法のほとんどを見い出すことができると考えられてきました。

(a)の用法としては、レオン・モリスが受け取り方の難しい用例として挙げているローマ7:23(口語訳聖書で「罪の法則」「心の法則」と訳される部分)やローマ8:2(口語訳聖書で「罪と死との法則」と訳される部分)がその用例と考えられてきました。

次に、(b)の用法の中で、(イ)の用法を指摘するのは比較的少数の注解者のようですが、それでもF.F.ブルースは、4:15、5:13、7:1を「一般的法」として挙げています(注10)。

(ロ‐α)について言えば、少なくとも、パウロの用法のかなり広い範囲に見い出すことができることが明らかです。たとえば、ローマ2章において、ユダヤ人と異邦人について代わる代わる取り扱っている箇所での「ノモス」は、明らかに(ロ-α)の意味で用いられています。「律法を持たない異邦人」(2:14)、「もしあなたがユダヤ人と称し、律法に安んじ(中略)、律法に教えられて…」(2:17、18)等を(ロ‐α)以外の用法で理解しようとすることは難しいでしょう。また、ローマ5:13「律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められない」と、5:14「アダムからモーセまでの間においても」を比較すると、5:13における「律法」はモーセの律法と理解する他ないように思われます。更に、ガラテヤ3:17「神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。」も、明らかに(ロ‐α)でしか理解できません。

次に、おそらくは(ロ-β)の用法と思われるものとしては、ローマ3:21「律法と預言者とによってあかしされて」の部分の「ノモス」で、ルカ24:44に見られる用法と同じです。

(ハ)の用法の意味合いについてどう判断するかは、今後、検討を進めていくべき課題の一つとなりますが、とりあえずはガラテヤ6:2や第一コリント9:21において、クリスチャンも守るべきものとして用いられていることを指摘しておきます。

ここで「ノモス」についてのもう一つの意味合いの可能性を付け加えておきたいと思います。これは、後に説明しますが、F.F.Bruceの解説の中にも見い出されるものです(注11)。すなわち、「広い意味での神の法」としての意味合いです。すなわち、ユダヤ人も異邦人も従うべき神が定めた法としての「ノモス」です。この用法がパウロの手紙の中に見い出されるのかどうかもまた、検討課題の一つとして含めることができるかと思います。

このように、本来「ノモス」という言葉自体はかなり幅広い意味合いを含んでいるため、パウロが各特定箇所で「ノモス」をどの意味合いで用いているのか、見定めていく必要があることになります。

(2)「ノモス」に対するパウロの否定と肯定

次に、パウロの「ノモス」用法において、特に「律法」と訳される箇所の中では、否定的に言及している箇所、肯定的に言及している箇所の両方があります。これらの言及をどう理解したら首尾一貫した理解が得られるのかが問われます。

まず、律法に対して否定的に見える箇所が沢山あります。たとえば、「義とされる」ことのために律法が果たす役割を否定しているように見える箇所、律法による罪の悪性化を指摘する箇所、キリストが「律法の下にある者をあがない出す」と語る箇所、更に、キリスト者が「律法のもとにない」と指摘する箇所があります。(訳はいずれも口語訳)

ローマ3:20「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」

ローマ3:28「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」

ローマ4:13「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫に対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。」

ローマ5:20「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。」

ローマ6:14「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」

ローマ7:5「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。」

ガラテヤ2:16「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」

ガラテヤ2:19「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。」

ガラテヤ3:2「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」

ガラテヤ3:5「すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」

ガラテヤ3:10「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。」

ガラテヤ3:11「そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。」

ガラテヤ4:5「それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」

ガラテヤ5:4「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」

第一コリント9:20「律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。」

このように、律法に関して否定的な言及が沢山ある一方で、肯定的言及も沢山見出されます。たとえば、律法を擁護するように見える箇所、キリストあるいは聖霊によるによる律法の確立・成就を示唆する箇所、キリスト者もまた律法を守るべきであると示唆しているように見える箇所などがあります。

ローマ3:31「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」

ローマ7:12「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。」

ローマ7:14「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。」

ローマ8:4「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」

ガラテヤ5:13、14「ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。」

ガラテヤ6:2「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」

第一コリント9:21「律法のない人には―わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが―律法のない人のようになった。」

律法に対して、明確に肯定的な箇所、否定的な箇所のほかに、肯定とも否定とも取れる箇所として、以下のような箇所があります。

ローマ10:4「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(口語訳)

新改訳では、「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」と訳していますが、別訳として、「律法の目標であり」を表示してもいます。

新共同訳では、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」と訳しています。

更にまた、肯定的及び否定的言及が絡み合っているように見える箇所、律法に対して制限された一定の役割を指摘する箇所もあります。

ガラテヤ3:19-22「それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたものであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。」

ガラテヤ3:24「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである。」

このように、律法に対するパウロの言及は、肯定的なものも否定的なものも複数方面からの言及があり、それらが錯綜しているように見える箇所もあります。これらを統一的にどのように理解すべきかが大きな課題となります。

以上、パウロのノモス理解を考える上で、これら二つの釈義的課題(第一=本来広がりのあるノモスの語意の中で、パウロがノモスをどの語意を想定して用いたのか、及び、第二=パウロのノモスに対する肯定的及び否定的言及をどう理解するのか)のあることを見てきました。以降は、OP及びNPにおいて、これら二つの課題にどう答えてきたのかを確認してみたいと思います。


5.OP(古い視点)の立場から

上記のような、「ノモス」に関する二つの釈義的課題について、OP(古い視点)ではどういう解答を与えてきたのかを確認してみます。もちろん、これらの課題についての解答の仕方は、OP内でも細部においてはかなりの多様性があるはずですが、OPのOPたる特徴点を明確にすることを明らかにするなら、一定の方向性が見えてくると思います。

このために、著名な保守的新約学者二人の解説をまずご紹介します。

(1)F.F.Bruce

最初に、F.F.Bruceを取り上げます。ブルースは、ティンデール注解書シリーズに含まれるローマ書の注解書の序論部分で、"'Law' in Romans"というタイトルで、ローマ書における「ノモス」についての用法を解説しています(注12)。私が持っているものは、第二版で、1985年に出されており、NPが現われ始めた頃のものです。"'Law' in Romans"の最後の部分、脚注において、サンダースの"Paul, the Law and the Jewish People"(1983)も紹介されていますから、ブルースはそれらの文献にも当たった上で、この解説をまとめているはずです(注13)。内容的には、典型的なOPとしての見方を表わしているように見えますが、あるいは現われ始めたNPに対するブルースとしての応答として書かれたものなのかもしれません。

ブルースは、この解説文において、まず、5.(1)の課題、つまり、ノモスの語意の広がりに留意しながら、論を進めます。彼は、パウロにおいて「ノモス」の意味合いとして、頻度の少ない用法から頻度の多い用法へと、以下のように紹介します。

(1)一般的な法(4:15、5:13、7:1)
(2)原理・法則(3:27、7:21、23、25b、8:2)
(3)モーセ五書(3:21b)
(4)旧約聖書全体(3:19)
(5)神の法(Law of God)

これらはいずれも、ほぼ岩熊の辞典に記載される語意と重なりますが、差異を指摘することのできるものとして、(5)を挙げることができます。この意味合いについて、ブルースはまず、パウロが育った背景からは、「神の法」をモーセの律法と同一視することが自然だとします。実際、ローマ書の中でも明らかにモーセの律法を意味している箇所があることを指摘します。しかし、同時に、神の御心の啓示は、モーセ律法に限定されないことも指摘します。ユダヤ人も異邦人も神の御心を行うに失敗していることについては神の前に同じであることを議論する際、ユダヤ人がモーセ律法において神の御心の特別な啓示を持っていた一方で、異邦人は神の御心についてのすべての知識から排除されていないことを指摘していると言い、ローマ2:14、15を引用します。そして、3:20で「律法によって罪の自覚が生じる」とパウロが言うとき、ユダヤ人も異邦人も同様の原理で真理であるようなことを語っていると指摘します。また、同じ文脈で、律法の行いによっては人は神の前に義とされないと言うとき、このこともまたユダヤ人にも異邦人にも当てはまると指摘します。そして、「律法の行い」が明瞭な神の権威によって公表されたおきてに従ってなされたとしても、良心の命令によってなされたものだとしても、それらは人々が神に受け入れられる根拠とはならないと言います。(注14)

このようなブルースの見解は、確かにOP(古い視点)に立つものと言えるでしょう。新約学者として、彼はノモスの語意の広がりに留意しつつ、も、ローマ書における最も頻度の高い意味合いとしては、このような「神の法」を挙げています。そして、「神の法」としてのノモスは、モーセ律法を含みつつも、異邦人にも適用される広い意味での「神の法」であって、ローマ書の中でも義認論に関わる決定的な文脈においては、このような意味でのノモス用法を見い出していることが分かります。

ブルースが5.(2)の課題について、どのような解答を示しているのか、詳細を調べる余裕はありませんが、上記"'Law' in Romans"や、彼の注解書から考えてみると、以下のように要約することができそうです。

・ローマ3章において「ノモス」は義認との関わりで考えられる。ユダヤ人も異邦人も、「ノモス」(広い意味での「神の法」)によっては罪の自覚が生じるのみであり(ローマ3:20)、神の前では、律法(神の法)を行うことによっては義と認められ得ない。(ローマ3:28)

・ローマ6-8章において「ノモス」は、聖化との関わりで考えられる。「律法のもと」にあることが罪に支配されることに結び付けられ、「恵みのもと」にあることは罪の支配から自由にされるだけでなく、律法の束縛からも自由にされることだと指摘される(ローマ6:14)。律法からの自由がもたらされるのは、キリスト者がキリストと共に死んだからである(ローマ7章)。(注15)。「律法の要求が…満たされる」ことは、エレミヤ31:33に預言される新しい契約の成就であり、「肉によって」「律法の下で」(すなわち、束縛の古い時代の中で)なく、「霊によって」「恵みの下で」(すなわち、自由の新しい時代の中で)生きることによって、それがなされる(ローマ8:4)。(注16)

このように、「ノモス」(律法)は神の法であるゆえに「聖なるものであり」「正しく、かつ善なるもの」(ローマ7:12)であることにおいて、肯定されますが、義認においては、ノモスを行うことによっては義認に至らないことにおいて、聖化においてはノモスのもとにあることでは聖化に至らないことにおいて、否定されます。しかし、同時に、キリスト者はノモスのもとにでなく恵みのもとにあることにより、肉によらず霊によって生きることを通してノモスの要求が満たされることにおいて、肯定されます。

(2)Leon Morris

次に、Leon Morrisを取り上げます。私の手元にある"New Testament Thology"は、もともと1986年発行ですので、上記ブルースの注解書同様、NPが現われ始めた頃の発行です。第3章 'God's Saving Work in Christ'(キリストにおける神の救いのみわざ)の中で、'The Law'というタイトルの一節があります(注17)。脚注の中ではありますが、サンダースの"Paul and Palestinian Judaism"を取り上げ、8行にわたってサンダースの律法理解を検討しています。

「2.パウロにおける「律法」用例(概観)」でも、レオン・モリスの指摘を参照しながら、いくつかの点を書きましたが、'The Law'においては、新約学者らしく、まずはパウロのノモスの用例を概観するところから始めています。語意の広がりに留意しつつも、モリスは、以下のように指摘します。「ほとんど彼(パウロ)は、モーセを通して神が与えた律法を考えており、それを神のよい賜物と見ている」(注18)。

従って、ブルースのように、ノモスの基本的な用法として、ユダヤ人だけでなく異邦人にも及ぶものとしての広い意味での神の法という意味合いを考えるのではなく、あくまでも基本的にはモーセ律法のことを考えているのだというのが、モリスの判断です。

しかしながら、モリスは、次のように指摘します。「しかし、律法の位置を誤解することは容易であって、概してユダヤ人はまさにそうしてきたというのがパウロの論点である。ユダヤ教文書には神の恵みやゆるしについてのいくつかの美しい感動的な記述があるが、ユダヤ教文書はパウロのようには語っていない。彼らにとって律法を守ることは基本的なことであり、神の哀れみはその枠組みの中で機能する。ユダヤ人は律法を神が彼らに与えた偉大なよきものとして歓迎する。しかし、彼らは間違って律法を救いの道に引き上げた。」「そのような(律法についてのユダヤ人の)議論のゴールは、神の恵みの不思議さについての畏れではなく、律法に対する深い尊敬であって、その結果すべてのことがあまりに容易に律法主義へと堕落した。」(注19)

従って、ノモスについてのパウロの議論、特に否定的な議論は、律法主義的な考え方への反論として理解されることになります。以下展開されるモリスの主張は、要約すれば以下のようなものです。

・「律法の行い」によっては人は神の前に義とされないとパウロは主張する(ローマ3:20、ガラテヤ2:16、3:11)
・律法の機能は罪を明らかにすることである。
・律法は救いをもたらすのではなく、救いの必要を明らかに示す。
・律法は我々をキリストに導く。(ガラテヤ3:24)
・律法は我々に死をもたらす。(ローマ7:9‐10)

そして、'The Law'の節を次のように締めくくっています。「律法の道に対するユダヤ教の強調に対して、パウロは明らかに反対している。(中略)今や彼は恵みの道を知り、律法を敵として見ることしかできない。律法は救いをもたらすどころか、罪の同盟者である。人々は律法からの解放を必要としている。律法主義的メンタリティは、奴隷の身分である。」(注20)

ここでの議論を見る限り、モリスにおいては、パウロの律法についての(主に否定的な)議論を律法主義への反対という枠組みの中に位置付けていることが伺えます。

(3)まとめ

ここまで、ブルースとモリスの主張点を概観してきました。

パウロの「ノモス」用法を巡る釈義的課題の内、語意の広がりについての解答の与え方については、相違点のあることを確認しました。すなわち、パウロによるノモスの基本的用法として、ブルースが、ユダヤ人だけでなく異邦人に対しても適用される広い意味での神の法を考えるのに対して、モリスは、モーセを通してユダヤ人に与えられた律法、すなわちモーセ律法を考えるという点です。

しかしながら、もう一つの課題、すなわち、「ノモス」に対するパウロの肯定的及び否定的扱いをどう統一的に捉えるのか、という課題に対しては、ブルースとモリスの見解には重なるものがあります。すなわち、特にノモスに対するパウロの否定的な扱いについては、律法を行うことが(従来の意味での)義認や救いをもたらすとの考え方(律法主義)に対する否定として理解するという点です。ブルースの指摘の中には、律法のもとにあることによっては聖化にも至らないとの指摘も含まれており、このあたりについてのモリスの見方を確認することはできませんでしたが、いずれにしても、両者共に、OPに特徴的な見方を維持してることが伺えます。


6.E.P.サンダース

OPの中に考え方の多様性があるように、NPの中にも当然考え方の多様性があります。ただ、OPのOPたるゆえんに注目するとき、OPとしての考え方の特徴が見えてくるように、NPのNPたるゆえんに注目するとき、NPとしての考え方の特徴も見えてくると予想できます。

まずは、NPPのきっかけを作ったE.P.Sandersを取り上げます。

(1)サンダースはNPPと言えるか

いきなりですが、果たしてサンダースがNPPと言えるかという問題があるようです。

「1.NPPによる問題提起」でご紹介したように、従来のパウロ理解が1世紀ユダヤ教を律法主義として理解した上に成り立っていたのに対して、NPPは1世紀ユダヤ教が律法主義ではなく、covenantal nomismであるとの前提に立ち、パウロを理解しようとします。「もし一世紀ユダヤ教が律法主義ではなく契約規範主義であったのなら、これまでのパウロ理解、特にローマ書やガラテヤ書の解釈をもう一度問い直さなければならないのである。」(注21)

ここで、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismであると言い始めたのがE.P.Sandersです。しかも、彼自身、その視点に立って、パウロについての新たな理解を求める取り組みを続けているので、彼こそはNPPの元祖のような存在であると言えそうです。ところが、彼自身は、「自らは『パウロ研究の新しい視点』のグループではない、と主張している」そうです(注22)。確かに、サンダース自身が提起しているパウロ理解は、ダンやライトに比べると、かなりの違いがあり、そういったところから「・・・のグループではない」という主張に至ったのでしょう。あるいは、サンダースのパウロ理解の議論自体は、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismではないということを起点とした議論に必ずしもなっていないという点から、そう言っているのかもしれません。ただ、NPPの起点となったのが、1世紀ユダヤ教についてのサンダースの新たな理解であったのは間違いのないところであり、サンダース自身のパウロ理解も相当な内容を持っていることも事実であるので、ここに含めて検討することにします。

(2)covnantal nomismとの関わり

私の手元にあるのは、サンダースの代表的パウロ著作としては三冊目になる『パウロ』の邦訳です(注23)。一冊目の"Paul and Palestinian Judaism"(1977年)こそは、1世紀ユダヤ教を契約規範主義として描き出した最初の書物であり、本来は、"Paul and Palestinian Judaism"や二冊目の"Paul, the Law, and the Jewish People"により、パウロのノモス用法理解を検討すべきでしょうが、今回はこの二冊を踏まえて書かれ、よりコンパクトにまとめられている『パウロ』により、簡単な検討をします。

まず、注目すべきことは、『パウロ』には、covnantal nomismという言葉が出てきません。"Paul and Palestinian Judaism"はもちろん、"Paul, the Law, and the Jewish People"も、1世紀ユダヤ教がcovenantal nomismであるとの指摘をした上で、パウロ理解の問題に取り組んでいるようですが(注24)、本書『パウロ』には、この言葉が出てこないということは、注目すべきことです。本書の訳者の一人、太田修司によれば次のような解説が付されています。「『パウロとパレスチナのユダヤ教』と第二作、第三作を比べると、釈義が緻密になるのに応じて重点が多少移しかえられていることに気づく。このため、サンダースのパウロ解釈の枢要がどこにあるかは必ずしも明瞭ではないが、パウロの宗教をユダヤ教の契約的法規範主義とは根本的に異なる『参与論的終末論(participationist eschatology)』として特徴づける姿勢は最初から一貫して保たれており、ここにサンダースのパウロ論の要諦があると言ってよいであろう。」(注25)

『パウロ』の議論を見ても、covenantal nomismとしての1世紀ユダヤ教理解についてはほとんど触れられず、主にガラテヤ書及びローマ書により、「信仰による義とキリストにあること」の結びつきを論証した上で、パウロが律法をどのように扱い、理解したかを論証します。従って、ダンも指摘するように、「サンダースは、なおパウロが律法を破棄していると述べ、なおパウロがひとつの体系からもうひとつの体系へ気ままな飛躍をしていると述べている」ように見えます(注26)。サンダースにあっては、パウロの律法理解と1世紀ユダヤ教における律法理解を特別に関連付けて考える必要はほとんど感じていないように思われます。

しかしながら、後のダンやライトにあってはそうではなく、パウロの律法理解と1世紀ユダヤ教の在り方とは深いところで関わりあっていると理解されます。その前提としては、サンダースが主張したcovenantal nomismとしての1世紀ユダヤ教理解があります。幸い、『パウロ』の巻末には、太田修司により、サンダースが指摘したcovenantal nomismについて簡略な解説がなされていますので、ご紹介します。

「サンダースによれば、紀元前二〇〇年頃から紀元二〇〇年頃に至るパレスチナ・ユダヤ教の諸文書(ラビ文献、死海文書、旧約外典と偽典)から知られるユダヤ教に共通する累計は「契約法規範主義(covenantal nomism)として特徴づけられる(七五、二三六、四二二頁等)。これは『神の計画に占める人間の位置は[神とイスラエルの]契約に基づいて確立され、契約は人間の適切な応答として戒めへの従順を要求すると同時に、罪(違反)の贖いのための手段を提供する』という立場を指す。契約的法規範主義に含まれる諸要素としてサンダースは、(1)神によるイスラエルの選び、(2)律法の授与、(3)律法は選びの維持に関する神の約束を含意する、(4)律法は従順への要求を含意する、(5)神は従順に報い罪(違反)を罰する、(6)律法は贖罪の手段を提供する、(7)贖罪によって契約関係は維持ないし再確立される、(8)従順と贖罪と神の慈愛とによって契約のうちに留まる者はすべて救われる者たちの集団に属する、の八つを挙げている。」(注27)

ここには、選び、契約、律法、従順、報いと罰、贖罪の関係が扱われており、確かにユダヤ教の諸要素が総合的に取り扱われているように思われます。特に注目されるのは、律法への従順が神の選びと契約の枠内に位置付けられている点です。そういう意味では、covenantal nomismの訳語として多くの訳語が提案されていますが、私としては契約的律法主義とするのが一番シンプルで、内容を把握しやすくなるのではないかと思うのですが、どうでしょうか(注28)。

(3)「ノモス」に対する二つの釈義的課題について

次に、サンダースによるパウロのノモス用法についての理解の仕方を調べてみます。ここでも、4.で見たように、語彙の広がりの問題と、肯定的・否定的言及についての統一的理解の問題の二点から検討します。

まず、ノモスの語彙の広がりについて、『パウロ』では特段詳しく扱われている訳ではありません。ローマ7:21のように「法則」と訳されうる箇所(注29)等、例外的な用法があることを認めつつ、基本的にパウロのノモス用法はモーセ律法を意味することを大前提として議論が進められています。

次に、パウロのノモス用法は肯定、否定の両方の言及に用いられており、これらをどう統一的に理解するかという点については、『パウロ』においても随分苦心して取り扱われています。

先にご紹介しましたように、少なくとも『パウロ』の議論の展開を見る限り、サンダースにおけるパウロ理解は、「信仰による義」と「キリストにあること」との結びつきを核として理解している様子です。ガラテヤ書、ローマ書を中心に、「義とする」「義とされる」の用法と、「キリストにあること」との関わりがまず注目されます。「義」が法廷的意味合いを持つことが通例であることを認めつつ(注30)、そのような枠を越えた意味で用いられることのあることを指摘し、特に「義とされる」と受動態で用いられたときには、常に変えられること、あるいは一つの領域から別の領域に移されることを意味すると指摘します(注31)。こうして、パウロの思想の中心部分にあるのは、「新しい創造への参与によって実際に変えられること」であるとの指摘がなされます(注32)。

ガラテヤ書、ローマ書がこうした比較的一貫した視点から理解される一方、そこで扱われる律法についての言及をどう理解するかという課題については、サンダースも随分苦心して取り組んでいる印象を受けます。律法について集中的に取り扱う第9章冒頭には、サンダースが取り組んだ課題について以下のように記されます。「パウロが直面した根本的な神学的問題は、古いシステム(dispensation)と新しいシステム―その両方を彼は信じていた―をいかに調和させるかという問題であった。彼は律法を特にねじれた(さまざまに屈折した)仕方で取り扱った。この問題をもっと詳しく考えてみたい。」(注33)

この章で、サンダースはまず、パウロの律法に対する取り扱いを理解するための困難要因として、律法、特に割礼については、「状況に応じてさまざまに異なることを書いた」ことを挙げます(注34)。そして、「彼は、律法についての単一の神学を持たなかった。それは彼の思考の出発点ではなかった」と言います(注35)。その上で、律法が問題となる4つのコンテキストを挙げつつ、パウロが律法をどう取り扱ったのかを描き出します。

(1)神の民の成員の要件としての律法:このコンテキストでパウロは、律法について肯定的発言をする一方で(ローマ3:31)、きわめて否定的な発言をする(ローマ6:14、ガラテヤ3:19、ローマ3:20、4:15、5:20)。

(2)律法の要求する正しい行い:このコンテキストでパウロは律法に対して肯定的に発言し、ほとんど至る所で彼は、律法の要求する行いに同意している。

(3)律法の目的:律法を受けいれることが決して神の民となる要件でないとすれば(1)、神はなぜイスラエルに律法を与えたのか。このコンテキストでパウロは、人々を断罪するため(ガラテヤ3:19、ローマ3:20、4:15、5:20)という理由と、律法は善であるが罪の力のゆえ断罪が起こる(ローマ7章)という二元論的律法の説明との間を行き来するが、最終的には神の摂理の教理を固守するほうを選んだ(ローマ11:32)と、サンダースは説明する。

(4)古い律法のシステム(務め)と新しいキリストへの信仰のシステム(務め)の比較:このコンテキストでは律法は本来悪であるのではなく、新しいシステムに比較すると古いシステムが無価値だということである(第二コリント3章、ピリピ3:3-11)。(注36)

この内、コンテキスト(1)と(3)において、特に否定的発言として挙げられる箇所の中に重複があります。(1)と(3)は内容的に言っても、また実際に手紙で扱われる際にも、重なっていると言えそうです。要約的に言えば、神の民の成員となるための要件としては、キリストへの信仰があるだけで、律法を受けいれることには何の力もないとする点において、パウロは律法を否定するのであって、神がイスラエルの民に律法を与えられた目的も断罪により、キリストによって救うという究極の目的を果たすためとされます。ただ、律法の要求する行いについては、正しい行いとして肯定している、というのがサンダースの理解と言えそうです。


7.ジェイムズ.D.G.ダン

ダンは、1982年に"The New Perspective on Paul"というマンソン記念講演を行い、その内容が翌年発行された大学発行物に収められました(注37)。そして、これが'New Perspective on Paul'という呼称の発端となりました。この講演自体は、ガラテヤ2:16の釈義を中心として取り扱いながら、パウロ理解に新しい視点を提案するものでした。それは、サンダースが指摘したcovenantal nomismとしてのユダヤ教理解と、パウロの理解との間に、非連続性だけでなく連続性を見い出そうとする視点でした。ダンはそのような視点でガラテヤ2:16への釈義を試み、その視点の有効性を主張するのですが、その中心的部分で扱われたのが、この節に現われる三箇所の「律法の行い」の解釈と位置付けでした。その後、ダンはこの視点に基づき、関連する研究書と共に、ローマ書の注解書(1983年)(注38)、ガラテヤ書の注解書(1993年)(注39)、またその姉妹編としてのガラテヤ書の研究書(原著1993年)(注40)を出しました。

これらの書における、パウロのノモス用法についてのダンの理解について、詳細は別途、ブログにアップしていますので、詳細についてはそちらをご覧ください。

「J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/cd165a3f471a2e9804bb12e0b27be498

「ダンによるガラテヤ書の律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

上記ブログ記事では、ローマ書とガラテヤ書におけるパウロのノモス用法について、ダンがどう理解しているか、かなり詳細にご紹介しています。これらを4.で挙げた二つの釈義的課題に即して、要約的にまとめておきます。

(1)ノモスの語意の広がりについて

ノモスの語意の広がりの課題について、ダンは一貫してトーラーとして理解すべきとする点で極めて特徴的です。この点について、たとえばローマ書注解の序文でも取り扱っています。トーラー及びノモスの語意の広がりの問題を扱いつつ、結論的には、パウロのノモス用法は、モーセ律法としてのトーラーと同一線上にあることが指摘されます(注41)。

例外としては、ローマ3:21(「律法と預言者」で旧約聖書全体をあらわす)、ガラテヤ4:21(トーラーではあるが、諸律法だけではなく、ナラティブも含み、モーセ五書としての理解に近い)くらいです。従来、「法則」「原理」と理解されることが多かったローマ3:27及び7:23、8:2においても、ダンは貫してノモスをトーラーと考えます。また、モーセ律法とは区別して理解されることの多かったガラテヤ6:2の律法(キリストの律法)についても、トーラーと理解した上で、ここに律法の成就としてのテーマを見ようとしています。

(2)ノモスに対する否定的及び肯定的言及について

(2-1)ガラテヤ書において

まず、ガラテヤ書におけるノモスについての否定的、及び肯定的言及については、次のような理解が示されます。大きく言えば、5章前半までと、5章後半以降とで、論点の差異を認めることができます。

(2-1-1)5章前半まで

5章前半まででは、まず、否定的言及が以下のような三つの論点を持っていると考えられます。

(1)パウロの非難は、「律法の行ない」が唯一の民としてのイスラエルの特殊性を維持するための義務という観点から捉えられていることに対して向けられる。(2:16、3:2、5、10)

この点は、まさに"The New Perspective on Paul"で取り上げられた点です。以下のように解説されます。「『律法の行ない』によって、パウロは割礼や食物規定のような律法の中の特定の項目を守ることを読者が考えることを意図していた」(注42)。そして、これらの行いは、「ユダヤ人にとっては自らのアイデンティティの印として特別に機能し、(略)ユダヤ人が特別な民族であることを示し、他と区別するための特別な儀式であった」と説明します(注43)。本来、トーラーの中で中心的位置を占めていなかったこれらの行為が、重要な役割を果たすようになったのは、マカベヤ時代以後であるとも指摘します(注44)。そして、「パウロが『律法の行ないによって義とされる』という可能性を否定したとき、パウロが攻撃していたのはまさにこのユダヤ教の基本的な自己理解であった」と主張します(注45)。

但し、注意したいのは、ここでの言及が2:16に3回現れる「律法の行ない」というフレーズについてのものだということです。同様の理解は、3:2、5、10に現れる「律法の行ない」のフレーズに対しても適用されます。しかし、ダンにおいては、「律法の行い」というフレーズで用いられる「ノモス」だけでなく、これら以降に現れる単独での「ノモス」についても、ほぼこれらの「律法の行ない」と一致する、あるいは重なると理解して議論が進められる場合が多くあります。たとえば、3:11に現れるノモスについては次のように言われます。「ここで『律法によって(において)』は明らかに『律法の行ないによって/から』の簡略形である。」(注46)

(2)パウロの非難は、「律法の行ない」に引き続き執着したり、律法の実行に頼ったりすることが、信仰の充足性を否定することに対して向けられている。(2:16、3:10)

この論点は、まず2:16において認められます。たとえば、2:16の「これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」という目的節は、「ユダヤ人たちと異邦人たちが主イエス・キリストによって受け入れられるためにはキリストへの信仰で十分であったという事実は、ただ信仰のみで十分であるということ、および、キリスト教徒ユダヤ人たちに関しては、律法のわざに引き続いて執着することは不必要であり、かつ執着自体がキリストへの信仰の充足性を脅かす、ということを立証する」ものであると指摘しています(注47)。

また、3:10についてのコメントにも同様の論点が見られます。「この含蓄は明らかである。すなわち、それは、『律法の実行に頼る者』は信仰の充足性を見失ったということ(略)」(注48)。

ここでも、これらの箇所においては、「律法の行ない」についての論点であることに留意する必要があります。しかしながら、それら以降の議論に現れるノモスも、「律法の行ない」と一致または重なると理解される場合が多いため、同じ論点がそれらの箇所にも現れることは、論点(1)と同様です。

(3)更にパウロは、律法を終末論的区分の中で位置づける論点を加え、その「一時的役割」、「命を与えるという役割が全くないこと」を指摘し、黙示的転換前の古い時代に位置づけ(3:19-22、24、4:5)、にもかかわらず、律法のもとにとどまろうとすることは、「罪の下」にとどまることと関連付けられ(3:22、23)、(罪に似た)霊的勢力への隷属に逆戻りすることとして言及される(4:3、4:8-11)。

この論点は、多くの節にわたって複雑に展開されています。詳細は、以下のブログ記事を参照ください。注目点としては、論点(1)(2)と異なり、「律法の行ない」ではなく、律法そのものについての論点となっている点です。

「ダンによるガラテヤ書の律法理解」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/b92ebd0ce82cbeaf2b567b831d755f4c

また、上記3つの論点は、ある部分では混然一体となって現れる箇所もあります。たとえば、割礼問題を扱う5:1-12では、上記3つの論点が総合的に組み合わせれ、論じられています。

他方、5章前半まででは、一見、律法への肯定的言及がほとんどないように見受けられますが、その中でも、ダンは律法へのパウロの積極的理解を見出そうとしています。たとえば、上記否定的言及に関わる二つ目の論点は、裏を返せば、「律法の行ない」をイスラエルの特殊性を維持するための義務と捉えることをやめ、律法本来の役割に注目すれば、律法をより肯定的にとらえることが可能になることを示唆していると考えられます。また、三つ目の論点、終末論的区分の論点においても、必ずしも否定的な言及だけでなく、たとえば「養育係」という表現には肯定的な意味合いを見出しています(3:24)。

(2-1-2)5章後半以降

次に、5章後半以降では、否定的言及としては、霊と律法とがアンチテーゼとして扱われていることが指摘されます。たとえば、5:18についてのコメントでは、「『律法の下に』あるということは、成文法、或いはユダヤ人たちの民族的伝統、すなわち、慣習や宗規といった外的拘束によって決定された生活を生きることであった(3:23-25、4・1-2)。霊の下にいるということは、内的要求と強制によって取って代わられた外的拘束からの自由を知ることである」と言います(注49)

他方、5:13-15及び6:2では、律法が肯定的に言及されます。「霊の内的な強制は、キリストという外的な規範に従って表現され、またその基準に照らして評価された」。そして、「その最も際立った特徴は、パウロが『キリストの律法』と称しているもの、および隣人愛において要約されている」と言います(注50)。ダンはここに、「律法の成就」というテーマがパウロによって表明されていると見ています。「最も驚くべきことは、ローマ13:8-10、15:1-2とガラテヤ5:14、6:2の並行関係である。とりわけ、律法の『成就』という共通テーマがあることに注意せよ。」(注51)

(2-2)ローマ書において

次に、ローマ書ですが、ダンは以下のような理解を示しています。ここでも、大まかに言えば、2-4章及び9-10章についての論点は共通のものがあり、5-8章及び13章での論点も共通のものがあるように思われます。詳細は、以下のブログ投稿をご覧ください。

「J.D.G.ダンのローマ書注解におけるノモス」
http://blog.goo.ne.jp/nagata-lee/e/cd165a3f471a2e9804bb12e0b27be498

(2-2-1)2-4章及び9-10章

まず、2-4章での律法に関するパウロの理解についてのダンの論点は、ローマ2:1-3:8の序論部分に記された以下の一文に要約されるでしょう。「パウロのポイントは、律法は神によって設けられた普遍的標準としての機能を許容されなければならず、ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならず、『私達』ユダヤ人を『彼ら』異邦人から区別する割礼のような儀式によってあまりにも表面的に特徴づけられてはならないということである。」(注52)。この一文によれば、パウロが律法を肯定するのは、「神によって設けられた普遍的標準としての機能」のゆえであり、他方律法に対して否定的に言及するのは、「ユダヤ人を異邦人から区別するアイデンティティ・マーカーのレベルに縮小されてはならない」という点だということになります。

ここで特に、律法に対する否定的言及についての論点は、パウロが律法を扱う基本的文脈について、ダンが次のように理解していることと関わっています。まず、ダンはユダヤ人の律法理解の原点を基本的にCovenantal nomismとして理解します。但し、ダンにおいて、そのことはイスラエル民族の創設行為において自明であったのであって、パウロの議論の歴史的文脈としては、むしろ捕囚期後のいわば変質が問題とされていると言えそうです。すなわち、捕囚期後、選び、契約、律法の結びつきが基本的テーマとなり、律法は神の民として選ばれた者たちとしてのイスラエルの「特異性」の表現となります。更には、そのことが選ばれた民としての特権意識をもたらし、特にイスラエル律法のうち三つのもの―割礼、食物規定、安息日―が注目を得ることにもなります。これがローマ書においてパウロが律法を扱う文脈であって、パウロはこの手紙において約束と律法の両方を民族的束縛から自由にしようとしたのだ、というのがダンの理解の基本線となります。(注53)従って、特に「律法の行ない」というフレーズについては、ガラテヤ書で見たのと同様の論点が発生することになります。(3:20、28)

関連する論点として注目されるもう一つの点は、翻訳聖書では見逃されやすい、「行い」の単数・複数です。2:15「ト・エルゴン・トュー・ノムー」(律法の行い・働き(単数))は、心に起こっているものであり、律法本来の働きであると言えます。他方、「(タ・)エルガ・(トュー・)ノムー」(律法の行い(複数形))は、常に否定的に用いられており、外的で深みにかけたものとして理解されます(3:20、28、ガラテヤ2:16、3:2、5、10)(注54)

なお、2-4章にも、9-10章にも、ユダヤ人のアイデンティティ・マーカーとしての外的行いと結びついた律法(行いの律法)と、義を定義する標準として、信仰の従順との関わりで理解された律法(信仰の律法)との対比が現れているとの指摘は注目すべきところです(3:27、9:31-32)。

(2-2-2)5‐8章及び13章

これに対して、5-8章では、律法が罪と死の働きと一緒になって働くように見えるという課題を取り上げながら、実は律法そのものが悪いのではなく、罪が真犯人であることをパウロは明らかにします。たとえば、律法の果たす役割についてパウロは7章でまとめており、ダンは次のように要約します。「彼は律法を誤解から守ろうとするが(7:7-14)、なおより鮮明な主張をなし、律法が罪と死の働きにおける作用因となるのを神がいかにゆるされたかを示す(7:21-23、8:2)。」(注55)従って、ここでパウロが律法を否定的に言及するのは、律法が罪と死によって利用されており、死に至らせる罪の道具となっているという点であり、しかしながら肯定的に言及するのは、問題の真犯人が罪であって律法自体が悪いのではなく、本来的には良いものであるという点です。

ここでは、罪の道具となって働く「罪の律法」(7:23、25)と、内なる人として願わしく考えられる「心の律法」(7:23)、更に「心の律法」をその無能から解放する「御霊の律法」(8:2)とが対比されているのも注目すべきでしょう。そして、「心の律法」「御霊の律法」は、愛による律法の成就を歌う13:8-10につながっていると見ることができます。

なお、以上のようなローマ書及びガラテヤ書におけるダンの解説を、更にまとめてみることも価値ある試みとなることでしょう。ただ、両者をどうまとめるかは、必ずしも容易なことではなく、ダン自身によるまとめでない限り、ダンの見解をゆがめる恐れもあると感じます。ここでは、このままで置いておくことに致します。

(続く)


(注1)鎌野直人「パウロ研究の新しい視点:肯定的な見地から」(日本福音主義神学会西部部会2012年度秋季研究会議資料より、1、7頁)
この資料は以下のPDFファイルに含まれる。(PDFファイルの26-32頁目部分)
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20121119_jets-w_NPP_all.pdf

(注2)岩上敬人「ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点」(日本福音主義神学会東部部会2014年度春の研究会発題資料より)

(注3)岩上敬人上掲資料、2頁

(注4)『聖書語句大辞典』(教文館、1959年、1447-1449頁)

(注5)"The International Standard Encyclopedia, Vol.3" p.76

(注6)岩隈直『新約ギリシヤ語辞典』(山本書店、1993年、319頁)。なお、Bauer "A Greek-English lexicon of the New Testament and other early Christian literature" The University of Chicago Press,1979においても、基本的に同様の用例分類が提示される。

(注7)Leon Morris "New Testament Theology" Zondervan,1986, Paperback Edition 1990, p.59

(注8)George V. Wigram "The Englishman's Greek Concordance"Baker,1979,p.517-518

(注9)Leon Morris上掲書、p.60

(注10)F. F. Bruce "The Tyndale New Testament Commntaries: The Letter of Paul to the Romans -Snd ed.-" Eerdmans, 1985, p50

(注11)F. F. Bruce 上掲書、p52-56.

(注12)F. F. Bruce 上掲書、p50-56.

(注13)F. F. Bruce 上掲書、p56.

(注14)F. F. Bruce 上掲書、p52-53.
 
(注15)F. F. Bruce 上掲書、p135-137.

(注16)F. F. Bruce 上掲書、p153.

(注17)Leon Morris "New Testament Theology" Zondervan,1986, Paperback Edition 1990, p59-62.

(注18)Leon Morris上掲書、p.60

(注19)Leon Morris上掲書、p.60

(注20)Leon Morris上掲書、p.61

(注21)岩上敬人「ローマ人への手紙3:20-22の解釈とパウロ研究に関する新しい視点」(日本福音主義神学会東部部会2014年度春の研究会発題資料より)

(注22)鎌野直人「パウロ研究の新しい視点:肯定的な見地から」(日本福音主義神学会西部部会2012年度秋季研究会議資料、4頁、脚注9)

(注23)E.P.サンダース『パウロ』(教文館、初版2002年、改版2008年)原著は"Paul" Oxford University Press,1991.

(注24)ジェームズ・D・G・ダン『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年、56‐57頁)

(注25)サンダース上掲書、271頁

(注26)ダン上掲書、57頁

(注27)サンダース上掲書、272頁

(注28)サンダース上掲書では、改版に際し、covenantal nomismの訳語を「契約規範主義」から「契約的法規範主義」に改めたそうです(284頁)。また、翻訳者の一人、土岐健治は、訳語として「契約・法主義」を提案しています。「契約律法主義」という言い方を避ける理由は、『初期ユダヤ教と聖書』(日本基督教団出版局、1994年)を参照とのことです(287頁)。これに限らず、covenantal nomismの後半の言葉、nomismの訳語として「律法主義」が避けられているのは、「律法主義」という言葉が救済論などとの関わりで特定の考え方を表す用語として定着してしまっていることが背景に挙げられると思います。ただ、ここでのnomismは、モーセ律法についての考え方を表現するわけですから、「規範主義」「法規範主義」「法主義」といった訳語では、その意味合いからかえって遠ざかってしまうようにも思えます。救済論上の「律法主義」とは区別しつつ、モーセ律法との関わりを示唆するためには、「『契約的律法』主義」「『契約内律法』主義」あたりがよいのではないかと思いますが、ただでさえ多くなっている訳語の種類を更に増やすことにもなりますので、本論考では、引用部分以外ではcovenantal nomismのままで表示することにします。

(注29)サンダース上掲書、100頁(259頁、訳注6も参照)

(注30)サンダース上掲書、96頁

(注31)サンダース上掲書、96‐99頁、138‐139頁

(注32)サンダース上掲書、151頁

(注33)サンダース上掲書、170‐171頁

(注34)サンダース上掲書、171頁

(注35)以上、律法に関する4つのコンテキストは、サンダース上掲書、172-199頁

(注36)サンダース上掲書、171頁

(注37)邦訳は、『新約学の新しい視点』(すぐ書房、1986年)に「パウロ研究の新しい視点」として所収。

(注38)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans" Word,1988

(注39)James D.G.Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans" Baker Academic, 1993

(注40)J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』(新教出版社、1998年)、原著は1993年発行。

(注41)Dunn"Word Biblical Commentary Romans"(1-8)、Preface17

(注42)ダン『新約学の新しい視点』65頁

(注43)ダン上掲書66頁

(注44)ダン上掲書67頁

(注45)ダン上掲書70頁

(注46)ダン『叢書 新約聖書神学8 ガラテヤ書の神学』104頁

(注47)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"、174頁

(注48)ダン上掲書、110-111頁

(注49)ダン上掲書、139頁

(注50)ダン上掲書、149-150頁

(注51)Dunn "Black's New Testament Commentaries: The Epistle to the Galatinans"、323頁

(注52)Dunn"Word Biblical Commentary Romans"(1-8)、p77

(注53)Dunn上掲書(1-8)、Intro.p63‐72参照

(注54)Dunn上掲書(1-8)、p100

(注55)Dunn上掲書(1-8)、p365

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N.T.ライトによるローマ書における律法理解(第3回)

2018-02-01 19:34:48 | 神学

9.まとめ

ここまで、ライトのローマ書注解書の内容を辿りながら、律法に関するライトのかなり複雑な議論を見てきました。これらについて、要約的なことを語るのは困難なことですが、1~3で見たことも含め、以下のようなことは言えるのではないでしょうか。

(1)基本的に言えること

ライトのローマ書におけるノモス理解において、基本的にまず言えることは以下の二点です。

a.ノモスは一貫してユダヤ人律法、トーラーとして示している。

2.で見たように、ライトはダンと同様、ノモスを一貫してユダヤ人律法、トーラーと理解します。このことは、特に、3:27、7:21、23、8:2等、一般的な「法則」として訳されることも多い箇所についてのライトの注解を見ると、その一貫性が明らかです。

b.全般的にトーラーを「契約」テーマとの関わりで理解しようとする。

これは、1.や3.でも見たことですが、ライトはパウロのトーラー理解を特に「契約」テーマとの関わりの中で理解し、位置づけようとする姿勢が強くあります。但し、トーラーが契約とどう関わるかについては、序論での要約的扱いにおいても5つのポイントが掲げられていますし、以下に見るように、注解本文の中でも様々な論点をもって語られていますので、それほど単純とは言えないようです。

(2)注解書本文に現れるトーラーについての論点

以下、注解書本文において現われるトーラーについての論点を挙げます。論点自体はできるだけ細かい論点も含めるようにしながら、論点の提示はライトの趣旨をゆがめない範囲でできるだけ要約的にするようにしたいと思います。そして、ライトは、同じ論点が繰り返し登場したり、各論点が相互に関連し合っていることを度々示唆していますので、そういった点についてはできるだけ各論点の解説部分で触れるようにしたいと思います。概ね、各論点が現れる聖書個所の順に挙げていきます。

論点1:トーラーの所持が神の判決において優越をもたらさず、ユダヤ人においてはトーラーがむしろ罪を指摘することが指摘される。

この論点は、1:18-3:20、特に、2:12、13、17-24、3:20についての議論に現われる論点です。その後、4:15にも現れます。

論点2:ユダヤ人でないのに律法が要求することをなす人々がいる。(彼らは異邦人クリスチャンである。)

この論点は、2:14-15に現れます。また、この論点は、2:29でも現われ(論点3参照)、論点12、15を先取りするものだと言われます。

論点3:割礼はトーラーが守られていることを想定したものであって、トーラーが守られていないところではバッジが偽りを語っている。(逆に新しい契約の民が新しい心を持ち、トーラーを守るなら、割礼にもかかわらずトーラーを破る者の契約的メンバーシップの非妥当性を明らかにする。)

この論点は、2:25-29に現れます。後半の論点は、3:27-31、8:1-11、10:1-13も参照箇所として示されますので、論点7、12、15との関連性が示唆されていると言えます。

論点4:トーラーの行いは、神の契約の民であることを示すしるしであるという考えに対して、パウロはこれを否定する。

この論点は、3:20及び3:28において現われます。ただ、3:20のトーラーについての議論の中には、上記の論点1も現われており、両方の論点が混じり合っている形です。

論点5:良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。

この論点は、3:21についての議論に現われるものですが、序文でのトーラーについての要約的扱いの中でも、5つのポイントの中の1つとして現われます。そして、この論点には論点1、及び以下の論点6の両方が結び付けられています。

論点6:トーラーは異邦人に対してバリアを立てる。

論点4が、「トーラーの行い」についての論点であったのに対し、この論点は、論点2をトーラー全体に拡大したものと見ることができます。この論点は、3:21で現われ、その後、4:13-15、9:32にも現れます。

論点7:一方では、イスラエルを諸国に対立して定義するものとして見られた律法(行いのトーラー)があり、他方では、真に新しくされた神の民が信仰を通して成就する律法(信仰のトーラー)がある。人は律法の行ないではなく、信仰によって義とされる。しかし、我々は信仰によってトーラーを廃棄するのでなく、トーラーを確立する。

この論点は、3:27-31の中に現れます。トーラーの成就というトピックについては、9:30-10:13が参照箇所として示されます。

論点8:トーラーは罪の問題を悪化させた。(しかし、恵みは更に増し加わった。)今、人がトーラーのもとで生きるなら、罪は人を支配するだろう。(しかし、キリストに属する者は、律法のもとで生きないので、罪に支配されない。)

この論点の前半は5:20に、後半は6:14、7:5-6に現れます。(但し、ライトによれば、5:20はイスラエルの問題を扱い、6:14はキリスト者の問題、7:5-6は再びイスラエルの問題を扱うという違いはあります。)この論点は、論点1から一歩進んだ論点と言えます。

論点9 論点8により、律法は罪と同一かという問いが出されるが、律法は問題の根源でなく、不本意なチャンネルである。問題の根源は罪であって、律法自体は良いものとして肯定される。

この論点は、7:5-6に現れる論点7を起点として、7:7-12に現れます。ライトはここでも、イスラエルの問題としてこれを扱います。

論点10 論点9により、良いものである律法が死の原因となるのかという問いが出されるが、死をもたらすのは律法であるよりもむしろ罪である。

この論点は、7:7-12に現れる論点9を起点として、7:13に現れます。(継続して、イスラエルの問題。)

論点11 それ自体では良いものである律法が、罪に乗っ取られ、その働きの拠点となるとき、「他の律法」と「神の律法」「心の律法」との全面戦争を生み出す。

この論点は、論点9、10との関連で語られる「二重の私」の議論を受け、「二重の律法」の問題として、7:21-25に現れます。

論点12 トーラーは、御霊が与え主となる命の隠れたエージェントである。というのは、トーラーがなし得なかったことを、神は成し遂げられた。神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法の義なる評決、すなわち律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。

この論点は、論点11との関連で8:2-4に現れます。この論点については、もう少し要約したいところですが、これ以上へたに要約すると、趣旨をゆがめる恐れもあるため、ここではこの程度とします。

論点13 肉の思いは神の律法に従わない。

この論点は、8:7-8の文脈の中で、8:7に現れます。8:7-8は、それ以前の議論の説明とされます。

論点14 イスラエルは義の律法を追い求めて、それに達しなかった。

この論点は、9-11章の文脈の中で、9:31に現われますが、論点11に近いとされます。

論点15 トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうることことである。

この論点は、10:1-13の文脈の中で、10:4において現れます。10:1-13は、メシアにおいて起こった契約の更新をテーマとすることが指摘されます。

論点16 モーセは(レビ18:5によって)『律法を行うこと』と『生きること』とを一緒にした。同時に、モーセは(申命記30章により)そのことが実際には何を意味するか、捕囚と帰還を踏まえての説明を提供した。この約束をメシアにおいて神がついに果たされたという信仰こそ、契約の民であることのバッジである。

この論点は、論点15を受けて、10:5-8において現れます。この論点も、もう少し要約したいところですが、かなり複雑なライトの議論趣旨を損なう恐れもありますので、ここではこの程度とします。

論点17 すべての戒めが愛の戒めに要約されるゆえ、隣人を愛する人々はトーラーを成就する。

この論点は、13:8-10に現れます。この論点には、論点12、15との関わりがあるとされます。

(3)論点群の整理

以上、ローマ書注解においてライトが提示するトーラーに関する論点を、できるだけ細かく挙げてみました。各論点を、注解書本文に戻って確認しようとすれば、そこには、各聖書箇所の釈義的議論や複雑な文脈把握の問題等と絡み合っていることが分かります。ですから、これらの論点を更に簡潔な表現にまとめることは、そう簡単なことではありません。ただ、挙げた各論点については、相互の関係についてライトが示唆するところをできるだけ拾うようにしました。そのような示唆を手掛かりにしながら、これらの論点を、いくつかの大きなグループ(論点群)にまとめることは、ライトの「ローマ書における律法理解」を大きく把握するために有用なことではないかと思います。単純化には、本来の議論趣旨を歪める恐れが常に伴いますが、ここでは多少の単純化を許して頂くとして、以下のような論点群にまとめてみます。

なお、上に挙げた論点はできるだけ細かく挙げたつもりではありますが、各論点の中に更に細かい論点が折り重なっているものがあります。そのような場合、それらの論点においては、その中のある部分が一つの論点群に関わり、別の部分は別の論点群に関わるということが起こり得ます。異なる論点群の中に共通の論点番号が現れるのは、そのためです。

a.トーラーをユダヤ人と異邦人とを区別するものとし、ユダヤ人がトーラーの所有を契約の民のバッジとしようとすることに対して、否定的に扱う論点群(論点4、6。部分的には論点2、7も。)

b.トーラーが罪を指摘し、罪の問題を拡大する機能を持ち、イスラエルを断罪するに至ることについての論点群(論点1、8)

c.良い知らせの啓示は「トーラーを離れて」起こった。(論点5)

d.罪はトーラーを通して問題をもたらすが、トーラー自体が悪いのでなく、むしろ信仰が御霊によってトーラーを成就に至らせる。(論点9~12、15~17。あるいは論点13、14も?論点2、そして部分的には論点3、7もこれらの論点を先取りする。)

なお、論点群c.(論点5)は、論点1及び論点6に結び付けられていますので、論点群a.とb.の両方に関わっていると言えます。

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N.T.ライトによるローマ書における律法理解(第2回)

2018-02-01 19:22:16 | 神学

6.5:1-8:39におけるノモス

ライトはこの区切りに対して、「真の人間性としてのキリストにある神の民」とのタイトルを付けます。

(1)5:1-8:39全体へのライトの理解

まずライトは、この区切りについて、「ローマ5-8章は、それゆえ、注意深く組み立てられたユニットである」と指摘します。また、「1-4章は『義認』『について』であり、5-8章は、『聖化』『について』である」との見方を紹介した上で、ライトはこの読みが正確でないと言い、8:30での議論の結論を指摘しながら、次のように言います。「もし1-4章が何らかの意味で義認『について』のものであるなら、5-8章は栄化(glorification)『について』のものであると期待してよい。」(注48)同時に、ライトはこれらの背後に、次のようなテーマを見出す見方を提唱します。「パウロは、新しいエクソダスとの関連でメシアの民の物語を語っている。イエスの民は解放された民であり、約束された地に帰る途上である。」(注49)

(2)5:12-21

5-8章で最初にノモスが現れる区切りは、5:12-21です。この区切りの議論の流れについて、ライトは、12、18、21節が議論上の主要な節であり、13-14、15-17節、及び19、20節は、これらに対する説明であると指摘します。また、この区切りのテーマとしては、バシルーオー(王として支配する、統治する、パウロの著作での9回の使用の内、5回がこの箇所に現れる)、罪と死及び関連諸用語、アダムとメシアの対比等があることを指摘します。その後、ライトは、「それでは、イスラエル自体はどうなのか。トーラーはアダムの罪の継承をイスラエルが免れうるために与えられたとイスラエルは言わないだろうか」という問いを立て、以下のように答えます。「パウロは大変異なったラインを考える。2:25-29、3:19-20、そして4:15aといった以前の言明に従い、彼はトーラーが一見悲惨な結末の描写をもたらすのを見る(5:20)。しかし、神はこれをも取り扱う。イエス・キリストを通して、神の真実(それはトーラーを離れて啓示されるのであるが)は恵みが来るべき時代の始まりを告げる手段となった(5:21、また、3:21の遠まわしの響き)。」(注50)

5:13-14は、5:12の議論を途中で遮った形で「アダムとモーセの間」の問題を扱っています。ここで現われるノモスがモーセ律法であることは文脈上明らかであるとしながら、パウロがここで説明しているのは、罪がトーラーへの違反を意味するとするユダヤ人の視点から見て、罪なしであるように見える人々にも罪が広がっていたということについてであるとライトは指摘します。「彼の説明はシンプルである。罪はそこにあったに違いない(5:13a)。なぜなら、死がそこにあり、王のように支配していたから(5:14a)。彼は律法のない所では罪が数えられず、どんな記録機にも記録されないことを知っている(5:13b)。(略)結果的に、死が支配していた人々は、罪人ではあるが、アダムと同じようなタイプの罪人ではなかった。彼らは『アダムの違反(trespass)と同じように』罪を犯したのではなかった。」(注51)ここで、ライトは、"trespass"を「(知っている)戒めに違反すること」と理解しています。

5:20もまた、議論の流れからすると付加的な説明と位置付けられますが、「アダム-キリストの図において律法がどう当てはまるかを示すもの」とされます(注52)。「トーラーは、その所有者をアダムの罪の継承から解放するどころか、実際、彼らにとってそれを悪化させるように見える。このことは多かれ少なかれ、3:19-20でパウロが既に語ったことである。パウロはそれを5:13-14で明らかにしたが、律法のもとで罪を犯すこと―言い換えれば、違反する、知っている戒めを破ること―は問題をより悪くする。罪を小さなカラーの透かし絵と考えよう。律法はその背後に明るい光を置き、その前に大きなスクリーンを置く。それがパウロの言う『違反を増す』ということの意味である。(略)アダムの罪の問題はトーラーによって拡大されたが、神はトーラーがなし得なかったことをされた。罪が増し加わったところ、すなわち、イスラエル自体においては、アダムの罪のトーラーによる拡大の影響が十分感じられたところで、恵みは更に増し加わった。」(注53)

(3)6:1-23

ここでパウロが取り上げている問題について、ライトは以下のように指摘します。「パウロの質問はこうである。クリスチャンは今やアダムの連帯の中に自らを見出すべきか、キリストの連帯の中に自らを見出すべきか。彼らはなお罪と死の支配のもとで生きるのか、恵みと義の支配のもとで生きるのか。(略)」そして、この質問に対するパウロの答えを次のように要約します。「彼は言う。クリスチャンは古い連帯を去ったのであり、新しい連帯に属する。彼らはそのようにふるまわなければならない。その移行はメシアと共に死によみがえることによってもたらされる。そして、この死んでよみがえることが成し遂げられる出来事はバプテスマである。」(注54)

6:12-14は、章の前半と後半の間の橋渡しとして理解されます。すなわち、「2-11節の直接法を実際的現実とする命令法として続いている。しかし、続く奴隷と自由の議論のための用語を設定してもいる。」と言います(注55)。

その中で、6:14に、「というのは、あなたがたは罪と死のもとにでなく恵みと義のもとにあるから」と予想されるところで、「というのは、あなたがたは律法のもとにでなく、恵みのもとにあるから」となっていることに注意を促し、「パウロは議論を少し違った方向、すなわち律法の役割の問題へと向けている」と指摘します。この点については、ローマ書のこの箇所の前後での律法の取り扱いとの関連を指摘しながら、次のように説明しています。「現在の文脈においてパウロのポイントは明瞭である。キリストに属する者、バプテスマにおいて死に、よみがえった者は、アダムの連帯の中に生きず、『それゆえ、律法のもとで生きない』。これは我々がガラテヤ2:19で見出すそのものである。『私は律法を通して律法に死んだ。それは私が神に生きるためである。』示唆は衝撃的である。我々が6:14bの神学的説明を6:14aと共に行うとき、パウロは次のことを言っていることになる。もし人が律法のもとで生きるなら、罪は実際に支配する『だろう』。それを説明するのが7章全体である。」(注56)

続く6:15では、「人が律法のもとにいないなら、それは人が今や罪人であることを意味するか」という質問を扱います。「パウロの答えは今回次のことを示唆している。強調点は立場よりも(それも重要であるが)実際の振る舞いにある。ここでも再び、議論の用語は人間が属することのできる二つの領域であり、要点は神/恵み/義の領域にある人々の、特定のタイプの振る舞いのふさわしさにある。」(注57)

(4)7:1-8:11

ライトはこの区切りに「律法が与えることのできない命」とのタイトルを付けます。ライトはこの部分をローマ書全体の中でもひと際重要な部分として理解しているようで、節ごとの注解に入る前に、この区切り全体についての理解について、9頁にわたってコメントしています。(注58)

まずは、「ローマ7章、そしてそれと密接に関連するローマ8章の最初の節―の表面上の主要なテーマはユダヤ人律法、すなわちトーラーである」と指摘されます。そして、「パウロはここで特定の外観を持ったイスラエルの物語を語っている。これは、イエスの物語でクライマックスに達する物語である(8:3-4)。そして、この物語がクライマックスに達する方法は、キリスト教の基盤を理解するために重要である」と言います。(注59)

ライトは、この部分を「手紙全体の連続した、破られることのない議論の一部」、「5-8章という偉大なセクションの中心に立っている」と評価します。「パウロがここでしていることは、7:5-6と第二コリント3:1-6の並行関係が明らかにするように、『神がキリストにあって、御霊によって、契約をいかに更新したか』を提示することである。すなわち、『トーラーがなし得なかったことを神はなされた』(8:3)」。「この節はそれゆえ、確信についてのパウロの議論の肝要な部分である。」と指摘しつつ、更に、「ここで中心部分に達する5-8章の他の主要なテーマは、新しい出エジプトである。」とも言います。(注60)

このような文脈の中で、「新しい出エジプトの物語は、初めの出エジプトの物語と緊張関係にある」ことが指摘されます。「もともとの出エジプトとの関わりで言えば、イスラエルは自由な神の民である。新しい出エジプト、罪と死からの出エジプトとの関わりで言えば、イスラエルはなお奴隷状態である。もともとの自由について語ったトーラーがまさに継続した隷属状態とその結果をイスラエルに日々思い出させる。」

但し、この箇所でのトーラーの扱いがかなり微妙なものであることもライトは指摘します。「しかしながら、ここでのトーラーについてのパウロの見解はなおより微妙である。他の箇所で議論したように、8:1-11は、他の事柄の中でトーラー自体の擁護を構成している。(略)ことに、この節はトーラーが最も消極的であるように見えるまさにそのところで、トーラーが救済の歴史において果たした積極的役割を示す。」

そして、このような文脈の中で、8:3-4のイエスの死の意味を捉えようとします。「それゆえ、確信についてのパウロの議論、そして、新しい出エジプトについての彼の説明を中心で、我々はイエスの死の意味についての最も明瞭な言述の一つを見出す。(8:3-4)」(注61)

以上のことを踏まえつつ、7:7-25の「わたし」が誰であるかという問題をかなり詳細に扱っています。「このすべてのことから、ローマ7章の問題としてしばしば言及される問題、すなわち、7:7-25を支配する『わたし』とは誰かという問題に私が与える解答が明らかとなる。」ライトはまず、それが「通常のクリスチャン」をさすという見解を退けます。(提唱者としてクランフィールドやダンの名が挙げられます。)その理由としては、「バプテスマを受けたクリスチャンが『罪の内に』いない、『肉の内に』いない、『律法のもとに』いないという、6:1-8-11繰り返されている主張」が挙げられます。ライトは、ここでのノモスがモーセ律法、すなわちトーラーであることを踏まえ、次のように言います。「7:7-25の『わたし』は、いかなる主張においても顕著な修辞的な特徴があり、それゆえパウロの二つの支配的ナラティブの中で接近されうる。(a)アダムとメシアの物語、そして(b)新しい出エジプトである。トーラーは最初のナラティブの中に入って来る(5:20)。シナイは、二番目のナラティブにおいて鍵となる瞬間である。これらの中で、パウロはイスラエルについて語っているように見える。トーラーのもとにあるイスラエルについて、トーラーが来た時のイスラエルについて(7:7-12)、その後、トーラーのもとで生き続けたイスラエルについて(7:13-25)。」(注62)従って、ライトは、7:7-25における「わたし」を、パウロ自身でなく、通常のクリスチャンでもなく、上記二つの支配的ナラティブにおけるイスラエルと理解していることが分かります。

また、この節から御霊についての言及が突然増えていることに注目を促しつつ、次のように指摘しています。「パウロがここで御霊に割り当てている役割は、律法がなし得なかったことをするというものである。」「それゆえ、彼がこの節で御霊に与えている主要な機能は、『命を与える』というものである。その命は、トーラーが約束したが与えられなかったもの(7:10)、究極的には肉体の復活によるものである。しかし、この命は単に将来のものではない。6章にあるように、クリスチャンは既に復活の基盤の上に立っており、6:4-5、8-11で主張される立場はここで実際的な内容で満たされる。なぜなら、『朽ちるからだ』に命を与える御霊は、『キリストにある』者たちが新しい考え方を持ち、ついに事実神の御心に従い、神の律法(!)にさえ従い、自分たちの行いにおいて神を喜ばせることを可能にすることによって、復活を待ち望ませるからである(8:5-8。1:21-22、28、12:2も参照。最後の節は特に重要。)それゆえ、このことは神の新しくされた民の『荒野の彷徨』の解説を与えるものである(8:12-27)。彼らは御霊に導かれており、御霊は彼らが隷属を後ろにし、神の子として生きることを可能にするのである。」(注63)

この節全体の議論の流れとしては、以下のように指摘されます。「この節の議論は、明瞭な節に分かれる。導入(7:1-6)は、律法と罪が同一であるのかという問題(7:7-12)に導く。これは二番目の問題、すなわち、一番目の責めを免れるとしても、良い律法が死という結果をもたらすのかという問題を産む(7:13-20)。次にこのことはパウロの逆説的結論に導く(7:21-25)。パウロはそこで神の解答を明細に述べ(8:1-11)、それは自然に、御霊にある命の更なる解説の基礎として役立つ(8:12-30)。」(注64)

(4-1)7:1-6

7:1-6は、「律法から出て来る」とのタイトルが付けられます。

7:1については、次のように言われます。「彼は6:14-15を振り返っている。『あなたがたは律法のもとにいない。・・・それとも、あなたがたは律法が人を生きている間だけ支配することを知らないのか。』(略)パウロは章の初めの6節で、実際、死がクリスチャンの『もはや律法のもとにはいない』ということをもたらしたということを強調している。」「彼は『律法を知っている者たちに』語っていると彼は言う。彼は彼らを自分の同族と呼び、この議論の中では彼ら自身を彼と同一視してもらいたく思っているように見える。」「彼は律法(law)を知っている人々として彼らを提示している。これはもちろん、一般的なローマの法(law)でもありえる。そこでは、ユダヤ人律法におけると同様、死はすべての借財を支払う。しかし、主題からすれば、ユダヤ人律法を意味するほうがはるかにありえる。」(注65)

7:2-3については、「解説として、パウロは時々例話として受け止められているものを提供する」と言い、少しの説明を加えています。(注66)

7:4については、以下のように記されます。「この節全体は、三つのことを同時に簡略化して言っているように見える。(a)メシア・イエスの肉体の死は、それを通してメシアの民が『彼と共に』死ぬところの代表的出来事である。(b)あなたがたはバプテスマによってメシアの中におり、それゆえその死を共有している。(c)あなたがたのメシアとの連帯は彼の『からだ』におけるメンバーシップの用語で表現されうる。」(注67)

7:5-6については、まず要約的に以下のように指摘されます。「パウロは今や4節を古い命と新しい命の二重の描写で説明する。広く認められているように、これは続く二つの区切り、7:7-25と8:1-11についての二重の見出しとして機能する。」5節の「律法を通しての」(罪の欲情)という言葉は、「大変例外的表現」であるけれども、「パウロはここで自分が意味するところを説明していない」と言いつつ、「6:14-15と、その背後にある5:20と調和している」と指摘します。6節の(律法から)「解放された」という動詞は、2節で使われているものと同じであることが指摘されます。「奴隷であることの古いあり方と新しいあり方の対照は、第二コリント3:6を呼び起こす。そこにおいて、それは明らかに『新しい契約』の用語である。」とも言われます。そして、5-6節は、次の質問を引き起こすことが指摘されます。「もし『罪の欲情』が律法によって引き起こされるなら、律法について何と言ったらよいか。それは実際上罪それ自体と同一なのか。」(注68)

(4-2)7:7-12

7:7-12については、「律法の到来:罪はその機会を捉える」とのタイトルが付けられます。

ここでは、律法に関する最初の質問が取り上げられます。「最初の区切りは『律法は罪か』と尋ね、シナイにおける律法の到来とイスラエルのアダムの罪の反復の物語を語ることによって答えている。これは律法の過失ではない。律法は罪自体の不本意な道具であった。」(注69)

7:7b-8aについては、まず「律法は罪と同一か」という質問に対してパウロの答えはそれを否定するものであることが指摘されます。そして、「律法は弱くとも、問題の根源ではなく、単に不本意なチャンネルである」と言います。また、「7bでの第10戒への言及(出エジプト20:17、申命記5:21)は、律法がシナイ山で最初に与えられた時のことを言及しているように見える。」と言います。(注70)

7:8b-10については、次のようなことが指摘されます。「『しかし、戒めが来たとき』すなわち、シナイにおいて『罪は生き返り、私は死んだ』。ここ、及びこの節全体の中で、出エジプトの物語において、戒めの付与の瞬間、アロンとイスラエルの子らが金の子牛を造ったという事実がほのめかされている。」「結果(10b)は、命を約束した戒めが『わたし』にとっての死となったことである。(略)創世記の命の木へのほのめかしは、レビ18:5(パウロはこれをこの節と密接な関連のある個所、ローマ10:5で引用している)と、トーラーを守る者たちのために命を約束する節、申命記30:15-20における契約的節への、より直接的な言及の下に隠れている。」(注71)

7:11については、次のように言われます。「予備的な描写は完全である。(a)罪と律法は完全に異なる。(b)罪は命を約束した律法を上回った。(c)罪は律法を働きの根拠として用い、律法が約束したものとは反対のものを生み出した。」(注72)

7:12については、次のように指摘されます。「トーラーは罪との同一の疑いを晴らされ、神の律法、聖なる、正しい、良いものとして、再び肯定される。」(注73)

(4-3)7:13-20

7:13-20については、「律法のもとで生きる:罪は死を引き起こす」とのタイトルが付けられます。

この区切りについては以下のように言われます。「13節aは、律法が今や良いものであると証明されたが、にもかかわらず死の原因であるのかという問いを立てる。13節bは、最初の答えを与える。すなわち、死をもたらすのは、律法であるよりもむしろ、罪である。これは、14節(ガル)と続く節によって更に説明される。」「13-20節は、更に区切られる。13-16節は、基本的に、『私』における罪と死にもかかわらず、律法が良いものであることについて。17-20節は、悪いのは実際には『私』ではなく、再度罪であることを示すため、『私』の逆説的振る舞いの思想を展開する。概観で議論したように、ここでの『私』は、一義的にはトーラーのもとでのイスラエルであり、トーラーのもとでさえ、イスラエルはアダムの領域、罪と死の支配の内にあるというポイントが明らかにされる(5:20。6:14、7:5参照)。」(注74)

7:13aについては次のように言われます。「それではトーラーは結果的に起こるもの、すなわち死に対して責任があるのか。再び、パウロは答える。もちろん、違うと。」(注75)

7:13bについては次のように言われます。「すべての責めは、再度罪そのものに向けられる。罪は律法(『良いもの』)を通して『私』の内に働く。律法それ自体でなく、罪のその働きが死をもたらす。これが7:5の濃縮された言述の背後にある基本的説明であって、トーラーを過程における意図的共犯者の容疑を晴らすものである。」加えて、次の点が指摘されます。「13節の二重のヒナは、議論全体から現れる十字架理解を指し示す。」(注76)

7:14については次のように言われます。「トーラーの容疑を晴らすため、パウロは今や更に罪にとらわれ、それゆえ死にとらえられている『私』を分析する。これをするため、彼はトーラーの真の性質と、人間(とまさに『アダム』にある人としてのユダヤ人)の性質とを比較する。彼は言う。トーラーは霊的であるが、『私』は『肉的』であり、罪のもとに売られており、罪の奴隷である。」(注77)

7:15については、次のように言われます。「『私は肉的である』ということのパウロの説明は、『私』の振る舞いの記述である。」「彼は、イスラエル全体について語っている。一民族としてイスラエルは(言わば)形式上、また公式上、トーラーを喜んだが、大抵はトーラーが従われていないことに常に気づいていた。」(注78)

7:16については、次のように言われます。「そこで、13-15節より結論が引き出され、13節aの『断じてそうでない』が補強される。」(注79)

7:17-20については、次のように言われます。「次の4つの節は、トーラーについて何も語らず、『私』と、その罪との関係について、全般的に集中する。」「『私』は欲求不満であったとしても、実際、トーラーのように容疑が晴らされ、責めは(もちろん)罪に行く。」(注80)

(4-4)7:21-25

この区切りに対しては「律法を振り返る:神の律法と罪の律法」とのタイトルが付けられます。

7:21については、まず次のように言われます。「『それゆえ、これが、私が律法について見出したことである。』パウロはここで彼の長い議論の結論を引き出そうとしている。」ここで、まず、ここでの「律法」についての理解が議論されます。「しかし、ここでの真の問題は、これである。彼がここで語っている『law』とは何か。」多くの注解者が一般的な原則、理論として理解していることを踏まえつつも、次のように指摘します。「これはあまり注目されないことであるが、パウロはここで一般的な"a nomos"でなく、"the law"について語っている。ヒューリスコー・アラ・トン・ノモン、『これが、私が律法(the law)について見出したことである』。定冠詞は非常に重要である。(略)"the law"すなわち、これまでずっと主題であったものである。」このようにして、ライトはここでのノモスもまた、モーセ律法、トーラーであると考えます。

そして、続く結論(私が善をしたいとき、私の内に悪が待ち構えている)について、次のように言います。「最初の結論は、15-16節、17-20節における『私』の描写から取られている。それは、そこから、『律法』について結論付けられうることを導き出すためである。」(注81)

7:22-23については、再び、次の問題点が指摘されます。「この地点で多くの注解者は再び、ノモスをトーラーとして読み通すことを躊躇してきた。彼らは言う。22節の『神の律法』は明らかにモーセ律法であるが、彼が23節でヘテロン・ノモン(別の律法)について語るとき、この節自体が確かにパウロが違う律法について語っていることを示している。」

しかし、この点についても、ライトは次のように指摘します。「返答として強調されるべきポイントは、これらの『消極的』定式は、『単にパウロがトーラーについて5:20、7:5、また特に7:8-11、7:13で語ってきたことを拾い上げ、明快に説明している』だけであるということである。」「トーラーは神に与えられたものであって、それ自体、きよく、正しく、良いものである。それはまさに喜ばれるべきものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいて(8、11節)、それは罪によって乗っ取られ、『罪の律法』になった。」「それゆえ、二重のトーラーは、『私』、すなわちトーラーのもとにあるイスラエルの不思議な二重のアイデンティティに適合する。『私』それ自体はパウロが17-20節で議論してきたように、原則的には容疑を晴らされている。しかし、この『私』がアダムにあり、サルキノス(肉的である)(14節)限りにおいて、罪と死はその『肢体』の内に働く(23節(略))。これらの節においてパウロは一方で『心』との関連で、他方で『肢体』との関連で、この二重性を表現しており、前者を更に『内なる人』(略)というフレーズで説明している。」「ここでの問題は(略)、罪である。すなわち、罪はトーラーを乗っ取り、それを働きの拠点とし、今や(略)5:20や7:5で現れるような『他の律法』と、聖なる、正しい、良い神の律法との間の全面戦争を生み出している。」(注82)

7:25bについては、以下のように言われます。「『私』の二重のアイデンティティとトーラーの二重のアイデンティティは、節全体を皮肉にも特徴づける二重の奴隷との関連で述べられる。」「『私』について真実な二つのことの間の対照は、『心』と『肉』とを区別することによってなされる。」(注83)

(4-5)8:1-11

この区切りに対しては、「神は御子と御霊を通して命を与える」とのタイトルが付けられます。

この区切り全体に対しては、概観的に、以下のように言われます。「ローマ8章の最初の11節は、ローマ5-8章全体のまさに中心に位置する。同時に、それらは7:1で始まったセクションの思想を完成させ、8:30に至るまで動く偉大な結論を始める。」「この区切りの形はそれゆえ明確となる。最初の言述(1節)は、パウロの通常のやり方で、まずもう一つの濃縮された短い言述ですぐに説明される(2節。1節とはガルで結ばれる)。次に、(もう一つのガル)3-4節の複雑で力強い言述で説明される。その一文は、彼の全神学と言わずともローマ5-8章でパウロが語っていることのまさに中心を表すと言ってもよいものである。1-4節全体は、律法が与えられなかった命を神が与えたのがいかに正確にであったかを説明する、順序だった議論のプラットフォームを提供するものである。5-8節は、『肉にある』者に対して命に至るいかなる道も排除しているが、御霊がその命の重要な源であると主張する。9-10節は、これを『キリストにある』者たち、それゆえ『御霊にある』者たち、すなわち、御霊を、あるいはキリスト自身を宿している者たちに適用している。そして、11節は結論である。」(注84)

8:1については、「こういうわけで」(アラ)をどう理解したらよいかについて、a+b=cといった、三段論法の通常のパターンでなく、cを先にし、それをbで説明していると言い、次のような趣旨になると言います。「私は心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えている。それゆえ罪に責められることはない。なぜなら、神が肉において罪を扱い、体のための新しい命を備えられたから。」(注85)

8:2については、3:27-31や7:21-25で直面した問題の新しいバージョンがあることが指摘されます。すなわち、「パウロは、ノモスのこれらの使用によって、『律法』、トーラーを意味することができたか。」という問題です。この問題について、それが7:21-25とつながっていることを指摘した上で、次のように言います。「私がそこで議論したように、問題の『律法』は一般的な原則ではなく(略)、一方向から、特に4:15、5:20、7:1-6(7:7-25は言うまでもなく)の角度から見たトーラー自体であるということが不可避であるように思われる。」

しかし、「罪と死の律法」は、7:23、25における「罪の律法」とのつながりを考えるとしても、この文の主語となっている「命の御霊の律法(law)」はどうなのかという問題が提起されます。ライトはこの点について、次のように言います。「2節の説明は、結局のところ、3-4節に見出される。そして、そこでは、章全体の中心として、『律法の義なる評決』(ディカイオーマ・トュー・ノムー)が『御霊によって歩く私たちにおいて』今や成就するということが見出される。(略)それゆえ、パウロが『キリスト・イエスにおける命の御霊の律法(law)』について語る時、彼は実際にトーラーについて言及しているのだということは、奇抜なことではなく、節全体の趣旨に即している。(略)結局、3、4、7節のホ・ノモスは、明らかにトーラーである。」「『というのは、キリスト・イエスにある命の御霊は、あなたがたを自由にした』と書くことは簡単であったことだろう。しかし、パウロはめったに簡単なオプションに甘んじない。彼は見かけにもかかわらず(そして多くの注解者にもかかわらず!)トーラーは神の律法であり、きよく、正しく、良いものであること、それを抱く者たちのもとに来る死の原因ではないことを議論するため、1章全体を費やしてきた。今や彼は更にステップを進める。神がキリストにおいて、そして御霊によって働かれる時、トーラーは同様にともかく含まれ、ともかく生きて働く。」「トーラーは、それゆえ(略)神が成し遂げられたもの、すなわち、御霊が人格的与え主となる命の、隠れたエージェントである。」(注86)

8:3-4については、まず関連する二つの問題が提起されます。「律法が『なし得なかった』のは何か」(3節)。もう一つは、「4節のト・ディカイオーマ・トュー・ノムーの理解」です。

ライトはまず、後者の問題から扱います。ディカイオーマを「要求」と理解し、ト・ディカイオーマ・トュー・ノムーを「従われるべき道徳的命令」と理解する読みに対して、次のように指摘します。「この読みに対しては、二つの顕著な反対がある。第一には、ディカイオーマがこの意味で使われる時、それは通常複数形である(例えば、2:26。NTの他の箇所としてはルカ1:6、へブル9:1、10、黙示録15:4、19:8。)第二には、この節が振り返っている節において、ディカイオーマはここでと同様、カタクリマと対照されており(5:16、18)、ディカイオーマは間違いなく神の民に求められる振る舞いではなく、神の義なる判決あるいは評決である。(略)従って、ここでのト・ディカイオーマ・トュー・ノムーは、律法が求める振る舞いよりもむしろ、律法が宣言する評決に言及している可能性が高い。」5:16、18との比較により、ここでの評決は積極的な評決であり、「これを行え。そうすればあなたがたは生きる」というものだと言われます(10:5)。このような読みを支持する三つの事実として以下の点が指摘されます。「7:10で律法のこのような意図に焦点が当てられていること。8:1-10の議論全体の趣旨(背景における5:21と共に)。そして、10:5-11における命を与える律法についてのポイント。」

こうして、ト・ディカイオーマ・トュー・ノムーを「律法の義なる評決」=「命」とする理解により、「律法が『なし得なかった』のは何か」という問題についても以下のように答えます。「律法に不可能なことは何か。命を与えることである。律法は命を提示したが、手渡すことはできなかった。」(注87)

以上の理解に基づき、この箇所は以下のように理解されると言います。「神は罪をイエスの肉において罰せられた。その結果、律法が提示した命は御霊によって導かれるものによって正しく与えられた。」この後、ライトは、この言述の前半について、詳細な議論をします(約3頁分)。その上で、後半の言述について、次のように言います。「従って、4節はぴったり収まる。導入の『so that』(ヒナは、5:20、7:13のように、神の目的を明確に表現している。)は神の意図を述べている。すなわち、律法の義なる評決は『私たち』において満たされる。トーラーが神の民に与えようとし、実際そのように切望してきた命は今や御霊によって与えられる。」「既に議論したように、ディカイオーマは、律法が宣言する評決よりもむしろ律法が命じる振る舞いを言っているとも考えられうる。パウロは、罪の有罪判決の意図的結果は神の新しくされた民がついに律法の求めたことをなすことができるようになることであったと言った可能性もある。(略)しかし、単数形(略)、及び節全体のより大きな趣旨とは、命という、律法の『義なる評決』への言及を強く示唆している。」「既に指摘したように、このことは現在の信仰義認を損なうものでは決してない。ここで語られていることは将来の評決であって、最後の日、パウロが2:1-16で描いた日の評決である。その評決は現在の評決に一致し、パウロが今語っている御霊に導かれる命に続くものである。」(注88)

8:5-6については、次のように言われます。「続く二節は、御霊によって歩く者がなぜ命を継ぐのかについての二段階の説明である。」(注89)

8:7-8については、次のように言われます。「続く節は、以前の節の更なる説明として自らを提供している。(略)パウロが言おうとしていることは次のようなことに思われる。(a)肉の思いは死であり、御霊の思いは命と平和である。(b)『なぜなら』肉の思いは、神に敵対する。(c)しかし、御霊の思いは神との平和である。(こうして『平和』を説明する)(d)『そして』御霊は復活の命の源である(こうして『命』を説明する)(e)そして、それゆえ、あなたがたには現在御霊が内住しており、将来の復活の命が保証されている。しかし、パウロがしたことは、思想の流れを縮めて、(a)(6節)、(b)(7-8節)、そして(d)と(e)との組み合わせである(9-11節)。彼が思想の明らかなリンク(ここでは(c))を省略することは初めてのことでもなければ、最後のことでもない。」「パウロは少なくともステージ(b)を十分に説明している。(略)彼は肉の思いが神に敵対するという。興味深いことに、このことについての彼の更なる説明は(略)肉の思いが神の律法に従わないというものであり、そのポイントは肉の思いがそうできないことに基づいて更に説明される。」(注90)


7.9:1-11:36におけるノモス

ライトは、この区切りに対して、「神の約束と神の真実」とのタイトルを付けます。

(1)9:1-11:36全体に対するライトの理解

この区切りに対する様々な見方を概観した後、「これらの三章を支配する二つの質問」があることを指摘します。「信じないイスラエルの問題と、神の真実の問題である。もちろん、この二つは密接に関連している。後者は前者によって引き起こされる。」「この二重のテーマは、神の契約的真実、ディカイオシュネー・セウーの問題として焦点が合わせられる。」

この問題に、パウロがどのように答えているかについて、次のように言われます。「この手紙のバックボーンは、『アブラハムから(パウロの)今日までのイスラエルの物語の語り直し』であるということを理解することが、ローマ書を読む際に最も重要である。」「この手紙において、このすべての主要な趣旨は堅固な土台に両足をつけた状態で、11:1と11:11の質問に行き着く。」

ローマ教会の歴史のこの段階で、パウロはなぜこのようなことをこの教会に対して言う必要があったのか、という問題については、三つの歴史的解答を指摘します。「まず、ローマが反ユダヤ人の志向の長い伝統を持っていること。」「第二に、西暦54年のクラウディウス帝の死後、かなりの人数のユダヤ人がローマに帰ってきたこと。」「第三に、50年代後半までに、ユダヤとガリラヤとの間に緊張が高まっていたこと。」

ローマ5-8章の主題と9-11章との主題の間に、見かけ上の分離があるように見えるという問題については、以下のように言われます。「ローマ5-8章は、神がイエス・キリストにおいて成し遂げられたことについての定型的な、ほとんど様式化された段階的提示である。しかし、この提示の下には、これまで見てきたように、イスラエルの物語がある。」「9-11章には、多かれ少なかれ逆のことが起こっている。(略)表面上の物語は、アブラハムから彼の時代までの神の民の物語である。しかし、より深い次元は、肉におけるメシアの民の物語である(9:5)。」

以上のようなことを踏まえつつ、トーラーについて以下のように言われます。「こうして、5-8章と9-11章、及び両者の関係についての解釈において決定的なことは、7:1-8:11におけるトーラーについての複雑な議論が、9:30-10:13の同様に複雑な節のための基盤を据えたことがわかる、ということである。」「この新しい文脈では我々は神が与えたトーラーに対してイスラエルが躓いたということに再度直面し、また、トーラーが常に意図してきたこと、言い換えればディカイオシュネー・セウーの成就を神がメシアを通して再びされたことに直面する(10:3-4)。」(注91)

(2)9:1-5

この区切りに対しては、「イスラエルが約束の担い手であるにもかかわらず信じないことへのパウロの嘆き」とのタイトルが付けられます。

まず、「ローマ9章の最初の5節について奇妙なことは、パウロが問題が実際何なのか、述べていないことだ」と指摘します。嘆きと祈りが記され、問題自体は舞台裏で舞っていると言います。((1)参照。)

この中で、ノモスへの言及があるのは、9:4-5です。「パウロは彼の同族の特権について列挙する。彼はあるレベルでは、直接的修辞的力、同情への訴えを高める。これらは、こんなにも多くを与えられた民であると。別のレベルでは、このリストは高い皮肉としても機能する。これらの特権の多くは(どんな民族にしろ)今や『メシアにある』者たちに属すると、これまでの章で議論してきたものである。(略)7:1-8:11は、律法付与と御霊にあるその不思議な成就についての複雑な物語を語っている。」(注92)

(3)9:6-29

この区切りには、「アブラハムから捕囚までのイスラエルの物語は裁きと憐みにおける神の正義を示す」とのタイトルが付けられます。

(4)9:30-33

この区切りには、「信仰、行いと躓きの石」とのタイトルが付けられます。この箇所では、これまでに描かれてきたことを踏まえながら、「パウロは議論に新しく、極めて重要な要素を加えている。律法と信仰の相克である。」と言います。

9:30については次のように言われます。「ポイントは、神の契約に属することに関心のなく、当然ながら彼らの異教の信仰と行いに満足していた異邦人たちが契約のメンバーシップ、メシヤによって成し遂げられた『権利を与えられた』立場を今や得たということである。しかし、このメンバーシップは、もちろん、ユダヤ人のトーラーを守ることによってではなく(略)、信仰によってである。」(注93)

9:31については、次のように言われます。「けれども、イスラエル自体は逆の状況にあることを見出す。」「我々は、パウロが次のように言うのを期待する。『イスラエルは、義を追い求めて、それに達しなかった。』しかし、パウロは滅多に我々が期待するようには言わない。」そして、実際にパウロが語ったのは、「『イスラエルは律法を追い求めて、律法に達しなかった』」ということだと指摘し、「実際、その思想は7:21-25から遠くない」と言います。そして、「パウロは、『律法』への最初の言及に『義の』を加えることによってこれをさらに複雑にする」と言います。そして、「再び7章におけるように、彼は律法が神の律法でなく、きよくなく、正しくなく、良いものでないことを意図しようとしていない」と説明します。(注94)

9:32aについては、次のように言われます。「パウロの説明はほとんど同様に逆説的である。イスラエルがトーラー、契約の証書に達しなかった理由は、彼らが信仰によってでなく、『あたかも行いによって』追い求めたからだ―その含意は、『決してそうでなかった』あるいは少なくとも『それは不可能な道筋だった』ということである。パウロのユダヤ人律法についての見解には、しばしば見過ごされていることであるが、微妙さがある。パウロは、ユダヤ人律法、トーラーが悪く、取るに足らないとは考えず、他の何かを好んで道を譲るべき二流のものであるとさえ考えない。唯一の疑問は、『それに達する』をどう考えるかということである。これに対する十分な解答は、10:6-9で、申命記30章での『新しい契約』の節を用いることによって、明瞭に与えられている。しかし、パウロが8:1-11、特に8:4-8、またその背後に再び2:24-29と3:27-31で語ったことを思い出す者は、既に手がかりを持っているかもしれない。奇妙に見えるかもしれないが、すべての者、ユダヤ人にも異邦人にも同様に開かれている『律法を守ること』が存在する。これは、パウロが既に示唆し、間もなく議論するであろうことであるが、言わば、トーラーが事実ずっと欲していたことである。戒めの完全なリストの意味であっても、ユダヤ人を異教の隣人たちと区別する(より一般的な)意味であっても、単に『律法の行い』によってそれが達せられる、あるいは契約のメンバーシップがずっと保証されると考えることは、パウロの見解と衝突する。律法の行いによってはどんな人(肉)も義とされない(3:20。ガラテヤ2:16参照)。節の文脈では、視界を支配しているのは二番目の意味の『行い』である。イスラエルが求め、9:6-29が痛みをもって否定したのは、神の民と、トーラーを所有する人々すなわち民族的イスラエル全体とを、全く同一視することである。パウロはこれまでの全議論を踏まえ、このことがトーラーの適切な成就では決してなく、トーラーに達することでも決してないと主張する。トーラーを与えた神は、アブラハムに約束を与えた神であり、全世界の家族について約束された神である。トーラーが神によって後に見捨てられた悪い考えだと考えない限り(パウロは決してそうしていない)(10:4の注解を見よ)、我々は神が常に一種のトーラー遵守、一種の律法成就を提示したと結論しなければならない。それは、初期のパウロ自身を含み、パウロの時代の熱心なユダヤ人たちが熱心に追求した順序とは違うのであるが(ガラテヤ1:14、ピリピ3:4-6)。」(注95)

(5)10:1-21

この区切りに対しては、「神の義と世界宣教」とのタイトルが付けられます。

(5-1)概観

まず、「ローマ10:1-13は、その各部分を適切に理解しようとするなら、全体として見られなければならない」と指摘されます。(各文は多くのガルで結ばれている。)続いて、この区切り全体に対して、次のように言われます。「この節の主要なテーマは、メシアにおいて起こった契約の更新、そして契約の再定義である。神は常に約束されたことをなさった。神が重要な申命記30章で約束されたことは捕囚という裁きの後、イスラエルを回復し、律法を新しい方法で守ることができるようにすることだった。パウロの時代のイスラエル(略)はこれを理解しなかった。言い換えれば、彼らはディカイオシュネー・セウー、神の義を理解しなかった。彼らは、神がいかにずっと契約に真実であられたか、あるいは、神が約束されたことを、その契約を更新し、異邦人を信仰によって信じるユダヤ人と共にメンバーシップに入れることにより、いかに正確になしておられるのかを理解しなかった。」(注96)

(5-2)10:3

10:3については、次のように言われます。「要約すると、パウロは同胞ユダヤ人が神の義、すなわち、ご自分の言葉と約束に対して(略)真実にずっとなしてこられたことに対して、無知であった。替わりに、彼らはユダヤ人のため、またユダヤ人だけのためにものである契約のメンバーシップを打ち立てようとしてきた。結果として、彼らは神の契約的真実、すなわち、約束の成就におけるメシア・イエスに対する神の決定的行為に対して従わなかった。」(注97)

(5-3)10:4

10:4については、「3.」で既にみたように、テロスという言葉の理解を巡っての議論があることを指摘します。「この言葉は、通常『end』と訳され、英語の『end』それ自体のように、『停止、終了』と、『ゴール、達成』の両方を意味し得る。」ライトは、テロスを「終わり」と理解する見方が、ルター派を中心に行われてきたことを指摘しながら、ギリシヤ語翻訳のレベルで3つの問題点、またローマ書全体における文脈におけるパウロ思想のレベルでのより大きな問題点を指摘します。そして、次のように言います。「私は以下のように結論づける。すなわち、10:4において、パウロは違う『システム』を好んで律法の廃棄を主張しようとしたわけではなく、メシアが神とイスラエルの長いストーリーのクライマックスであること、そのストーリーはトーラーが語るものであり、トーラーがそのストーリーの中で戸惑わせるけれども重要な役割を果たすのであることをむしろ告げている。トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。」(注98)

(5-4)10:5-11

10:5-11については、次の問題点を指摘します。「ここでは、モーセは人々がトーラーを守るように語っており、また、彼らにただ信じるようにと語る『信仰の義』と呼ばれる何かがある!」というように見えるという問題です。これに対して、ライトは10:5で引用されるレビ18:5だけでなく、10:6-8で引用する申命記30章も、モーセによるものであることに注意を促します。「より重要なことは、申命記30章の文脈と、それが第二神殿期ユダヤ教における機能の仕方である。」

申命記30章の文脈については、申命記28:1-14でトーラーに従う者の祝福が、申命記28:15-68でトーラーに従わない者へののろいが記され、最終的なのろいが捕囚であるとされ、実際にこのことが起こることが予告されます。しかし、そのすべてが起こった後、申命記30章では、捕囚からの帰還が予告されます。この中で、パウロが10:6-8で引用する申命記30:11-14が現れます。「戒めは難しすぎるものではない。遠くにあるのでもない。誰かが天に上ってそれを持っておりる必要もなければ、海を渡ってそれを持ってくる必要もない。あなたはそれを聞き、行うことができる。」「言い換えれば、この章はイスラエルが捕囚に送られ、心からヤーウェに立ち返り、律法を『行い』、そうして『生きる』ということが実際に何を意味するかを説明するようになる。」「このことは、パウロが10:5でレビ18:5を引用したのは、申命記30章に反対するものとしてではないということもまた明らかになる。」「レビ18:5は、二つのもの、『律法を行うこと』と『生きること』とを一緒にした。」「それ(申命記30章)は、『律法を行え。そうすれば生きる』ということが実際には何を意味するかについて、捕囚と帰還を踏まえての新鮮な説明を提供すると、パウロは主張する。」

(4QMMTと、バルク3章での申命記30章の引用については省略)

加えて、ライトは、5-9節がガルで始まっていることを指摘し、更に5節と6節の関係について以下のように言います。「5-6節を結ぶ『デ』は、直接的な対照あるいは矛盾でなく、変形、再定義である。『その通り、モーセはレビ18:5を書いた。「しかし」その主要な用語は、更に申命記30章で説明される。』」

最後に、「信仰による義」について、以下のように言います。「それでは、パウロはなぜ申命記30章を『信仰からの義』(ヘー・エク・ピステオース・ディカイオシュネー)と呼んだのだろうか。手紙についてのこれまでの議論全体、そしてとくに3:21-4:25からすると、これは、アブラハムに約束されたこと、そして、ここでのように申命記30章で約束されたことを、メシアにおいて神がついになさったという彼の信仰の要約として働く。神はそれゆえ更新された契約、すなわち、人々がその契約の中で喜び、メンバーシップを示す『義』を確立された。そして、メンバーシップのバッジは信仰である。」(注99)


8.13:8-10におけるノモス

12章以降では、この節にだけノモスが現れます。12:3-13との比較等の後、この節とトーラーとの関わりについては、次のように言われます。「3:27-31、8:1-8、10:5-11を背景としながら、観察している世界から、非難よりもむしろ尊敬をもたらす隣人愛において、トーラーがいかにして成就されるのかについて、パウロは簡単であるけれども多くを語る絵を描いている(2:16-17参照)。言い換えればここに、世に神の光と愛をもたらす『真のユダヤ人たち』がいる(2:28-29を見よ)。これは、ガラテヤ5:14の文脈とよく一致しており、この節はパウロがほとんど正確に同じことを言っているもう一つの節である。」(注100)

13:8については、次のように言われます。「この節の後半の説明は誤解されるべきでない。パウロは当然、次のようなことを言っているわけではない。『愛はトーラーを成就する。それゆえ、愛は神との義を獲得する方法である』。彼はこういったことがトーラーの目的であったとは考えていない。むしろ、トーラーの目的は、イスラエルが世に対する神の光であることであった。イスラエルは神の言葉を委託されたが、不真実であることを証明した。『トーラーの行いを離れて』信仰によって義とされた者たちは、今や、トーラーそれ自体がなし得なかったことが果たされるべき人々として生きるよう、完全に論理的に教えられている(8:3-8、10:1-11)。隣人を愛する人々は、こうして、彼らは決してトーラーが禁じることをしないという直接的な意味においても、彼らを通して神の命の道がよく見られるという、より広い意味においても、『トーラーを成就する』。」(注101)

13:9-10については、次のように言われます。「パウロは、愛が律法を成就すると言うことによって、何を意味しているのか説明する(ガル)。まず、彼はすべての戒めが事実愛の戒めに要約されると述べる(9節)。そして、彼は、このことの結果を愛がどんな悪もなさないという結果に要約し、愛は実際トーラーの成就であるという結論を引きだす(10節)。隣人を愛すること自体、もちろん、十戒の一部ではないものの、トーラーの中の戒めである(レビ19:18がここで引用されている)。パウロはそれを律法全体の要約と見る最初の者ではない。これは、ローマ12-13章でイエス自身の教えの響きを推測してよいいくつかの節の一つである(マタイ22:37-39(略))。」(注102)



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N.T.ライトによるローマ書における律法理解(第1回)

2018-02-01 19:11:29 | 神学

先に、N.T.ライトによるガラテヤ書における律法理解についてまとめました。今回は、ライトのローマ書の注解書から、パウロの律法理解についてのライトの見方をまとめます(注1)。

私なりの評価、見解を早くまとめたいという、焦りのような思いもありますが、正しく評価するためには、まず正しく理解する必要があるかと思います。焦る思いを抑えながら、ライトの注解書に取り組みました。今回も、自分の非力さと向き合うことにはなりましたが、何とかまとまったものができましたので、ご紹介したいと思います。

順序としては、まず注解書の序論より、パウロのトーラー理解について要約した部分をご紹介し、ライトの理解の特色をつかむようにします。次に、もう少し詳しく、ダンの理解との共通点、及び相違点を、それぞれ目立つ点だけですが二点ずつ挙げます。その後、ローマ書において律法(ノモス)について触れている各節の注解に当たっていきます。ライトの議論はかなり複雑ですが、釈義的論点が理解できるよう、直接、間接に関連する議論をできるだけ取り上げるようにします。最後に、簡単にまとめをします。

できるだけライトの理解をゆがめることなくご紹介できるよう、部分引用を中心にご紹介していきたいと思います。


1.パウロのトーラー理解:序文より

注解書の序文の中に、トーラーについて、簡潔ではありますが、濃縮された形で、要約的に説明している部分がありますので、まずはこれをご紹介します。

「この観念(イスラエルの神は、契約と約束に対してずっと真実であられたという考え)は、トーラー、ユダヤ人律法についてのパウロの見解によく表れている。これについては、注解の中でかなりの量、触れられるであろう。ここでのパウロの根本的洞察は、当時から現代までのユダヤ人同族から多くの批判を受けてきたのであるが、次のようなものである。
(1)モーセ律法をアブラハムの契約から分離すること。
(2)アブラハム契約を『律法を離れて』成就したと考えること(3:21)。
(3)トーラーをユダヤ人のみに当てはまると見、それゆえ、異邦人が神の民に入って来る終末論的時代には関わらないと見ること。
(4)トーラーを『トーラーのもとにある』人々にとってアダムの罪の問題を増強するものと見、従って、その信奉者が離れなければならないものと見ること。
(5)にもかかわらず、トーラーは神から与えられたものであり、自らに割り当てられた逆説的任務を達成し、キリストにおける、御霊による、神の新しい民の創造において、今や不思議に成就されつつあると主張すること。
ローマ書はこの複雑で首尾一貫した絵に対する本質的貢献をなしている。」(注2)

まず、ローマ書におけるノモスについて、ライトは、ダンと同様、一貫してトーラーとして理解する基本姿勢を持っています。この点については、上に紹介しましたように、序文では特に触れられておらず、それを前提として、もっぱらトーラーについての説明となっています。(この点は、2でご説明します。)

次に、ライトはトーラーを契約との関わりで理解しようとする方向性が明確です。後でご紹介するように、この序文でライトは「神の義(ディカイオシュネー・セウー)」をこの手紙の主要テーマとして提示し、序文のほぼ全体にわたって、このテーマを解説しています。ライトはローマ書における「神の義」を神ご自身の義、神の契約的真実として理解します。上記トーラーについての要約においても、イスラエルの神がなされた契約との関わりでトーラーを理解すべきとの主張が明瞭です。

さて、ローマ書において、トーラーについてのパウロの言及は消極的言及、積極的言及が混在しています。ライトはここで、トーラーを一貫して契約との関わりの中で考えながら、消極的言及を(1)~(4)にまとめ、積極的言及を(5)で表現していると言えます。なお、序文の文章の文脈からすると、パウロのトーラー理解についてのこの要約は、ローマ書に限らるものとは言えないようですので、(1)~(5)のすべての論点がローマ書に明瞭に表わされているとは限りません。しかし、要約の最後に付加されている一文からすると、これらのポイントを見い出すために、ローマ書が本質的な貢献をしていることになります。

(1)~(5)の論点の内、特に(5)には、ライトの特色が表われているように思います。ダンもパウロのトーラー理解の中に積極的側面を見い出そうとする姿勢は明確ですが、ライトは特に契約の成就に至る過程の中にトーラーの逆説的役割を見ようとする点に特色があるように思われます。


2.ノモス理解におけるダンとの方向性の一致

次に、ダンとの比較をしながら、ライトの理解の大枠を理解して頂くことにします。おおまかな見方をすれば、ライトによるローマ書内のノモス理解は、ダンによる理解の方向性に一致していると言えます。一致点として、とりあえず以下の二点を挙げさせて頂きます。

(1)トーラーとしてのノモス理解

まず、ローマ書で最初に登場するノモス(2:12)について、ライトは以下のように説明しています。「『律法』はここにおいて、また多かれ少なかれローマ書全体において、『ユダヤ人律法』、すなわち、シナイ山においてモーセに与えられたトーラー、イスラエルを定義づけ、教え、彼らが(おそらく)神の民であることを可能にする律法を意味する。」(注3)

これは、ダンが、多様な訳し方が可能なノモスについて、パウロ書簡においては一貫してユダヤ人律法、トーラーとして理解したのと同一の方向性を示しているものと言えます。このような方向性は、口語訳聖書で(一般的な)「法則」と訳されている箇所(3:27、7:21、23、8:2)でも同様で、ダンが示している理解とほぼ一致しています。

たとえば、3:27「なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである」と訳される三箇所のノモスをいずれもトーラーと理解します。「行いによって特徴づけられるトーラー」と「信仰によって特徴づけられるトーラー」を比較しているのだと言います(注4)。

また、7:21は口語訳で「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」と訳されており、多くの注解者もノモスを一般的な原理と理解しています。ライトはそのことを認めつつ、パウロがこの部分で言葉遊びを始めているのではなく、一貫してトーラーについて語っていることを主張しています。すなわち、この一節が意味するのは以下のようなことであると言います。「これが私が律法について見出したことである。私が善をしようと欲する時、私に悪が手近なところに接近するということである。」(注5)

更に、7:23、25では、口語訳聖書で「神の律法」「別の律法」「心の法則」「罪の法則」(23節)「神の律法」「罪の律法」(25節)と色々に訳されていますが、いずれもノモスが用いられています。ライトは、これらの箇所すべてをトーラーとして理解するべきであると言います。そして、「トーラーが神によって与えられ、それ自体きよく、正しく、善いものである限りにおいては、まさに喜ばしいものである。トーラーが罪の働きの拠点となる限りにおいては(8、11節)、罪によって乗っ取られきたし、『罪の律法』となったのである。」と説明します(注6)。

続く8:2でも、口語訳聖書では、「いのちの御霊の法則」「罪と死との法則」と訳されています。「『いのちの御霊の律法』が更にトーラーに言及しているのであり、7章で見られなかったトーラーの新しい相を導入しているのだということが本当に可能だろうか」と問いつつ、それを可能だとライトは考え、次のように説明します。「2節の説明は結局3-4節において見出される。そこでは、ある程度までこの章の中心部分として、以下のことが見出される。すなわち、『律法の義なる評決』(ディカイオーマ・トュー・ノムー)は今や『御霊によって歩く私たちにおいて』満たされる。」(注7)3、4、7節のノモスがトーラーを指す以上、2節のノモスもトーラーをさすと言います。

以上のようなノモス理解は、いずれもダンの理解とほぼ重なるものと見てよいでしょう。

(2)ユダヤ人を異邦人から区別するものとしての「律法の行い」

また、3:20「エクス・エルゴーン・ノムー」(口語訳で「律法を行うことによっては」と訳されている部分)について、「パウロ研究の最近の四半世紀の大きな収穫の一つによって、次のことが認められてきた。パウロの同時代人たち―そして回心前のパウロ自身―は、『律法主義者』ではない」としながら、ライトは次のように書きます。「パウロの時代、殊に契約メンバーを表わすものと考えられた『行い』は、もちろん、ユダヤ人をとりわけディアスポラにおいて異邦人たちから区別した行い、すなわち、安息日規定、食物律法、割礼である。従って、ローマ書とガラテヤ書における『律法の行い』を特にこれらの要素を強調するものとして見る強い論拠がある」。そして、この部分への脚注として、以下のように記されています。「このことは、殊にダンの様々な研究において議論されている。ダンRomans1-8、153-60及びそこに記された参考文献を見よ」(注8)。

「律法の行い」についてのこのような理解は、3:28でも同様です。


3.ダンとの違い

ノモス理解における基本的な方向性においては、ダンと同一のものを示しているライトですが、ダンとの違いもいくらか見出すことができます。細かい部分ではもっといろいろと挙げることができると思いますが、とりあえず、目立つところとして、以下二点を挙げておきます。

(1)「契約」テーマとの関わりの重視

まずは、1.でも見たように、「契約」テーマとの関わりでトーラーを位置づけようとする点です。ローマ書においてライトはパウロの主要テーマとして「神の義=神の契約的真実」を見ます。そして、パウロのトーラー理解も、契約との関わりの中に位置づけようとします。これは、ダンと比較してのライトのトーラー理解の特色と言えるかと思います。このことは、ダンとライト、両者の注解書の序文における「ノモス」問題の扱い方の中にも、ある程度表われているように思われます。

ダンにおいては、彼の注解書の序文の最期に、"The New Perspective on Paul: Paul and the Law"というタイトルの節があります。ここには、パウロの律法理解についてのNP(新しい視点)に基づいてローマ書全体を読み解こうとする意図が伺えます(注9)。

これに対して、ライトの注解書の序文で中心的に扱われているのは、「神の義」です。11ページある序文の中で、6ページを割いて扱っているところから、ライトの意図は明確です。「この手紙の主要テーマを見つけることは難しくない。『神の福音は神の義を啓示する』。事実、それは1:16-17におけるパウロ自身の要約であり、この手紙は実際この凝縮された言述を解き明かしている。」(注10)ライトは、「神の義」を法廷的用語であると共に、契約的用語であり、黙示的用語でもあると言います。詳細な議論は省略しますが、従来、ローマ1:17その他の「神の義」(ディカイオシュネー・セウー)が、ピリピ3:9に見られる「神からの義」(ヘー・エク・セウー・ディカイノシュネー)と同義であると見られてきたことを指摘しながら、ライトは、それとは違った「神の義」理解を提示します。「もしわれわれが1:17におけるこのテーマの言述を、単に『義認』についてのものというよりも、神と、神の契約的真実と正義についてのものとして理解するならば、殊に、手紙全体の思想の流れははるかに意味がよく通る。」(注11)「神の義」を一貫して「神の契約的真実」として理解する見方を提示しています。

そして、先にご紹介したように、そのような「神の義」理解の説明の中で、パウロのトーラー理解の問題が、ごく簡潔に紹介されます。これは、ライトがパウロの律法理解を重視していないということを意味するわけではないでしょう。後にご紹介するように、ノモスが現れる各節の注解を見て頂くと分かりますが、各箇所でのトーラーに関する解説は、相当力の入ったもので、パウロのトーラー理解の問題については、ライトも大変重要視していることが分かります。ただ、ライトにおいては、トーラー理解の問題を、先に見たような「神の義」理解、つまり、「神の契約的真実」との関わりで見ようとする姿勢があります。

ダンのトーラー理解と重なる点も多い中で、もし違いが現れる基本的要因があるとすれば、ライトが「契約」テーマとの関わりでトーラーを位置づけようとする方向性を挙げることができるのではないでしょうか。

(2)テロス・ノムー(10:4)の理解

ローマ書本文の中に現われるノモスについて、ダンとの釈義上の違いは小さな点を含め、様々な点に現われているようですが、中でも目立つものとしては、10:4、5の理解でしょう。特に、10:4のテロス・ノムーをどう理解するかで、両者の間に違いが生じています。そして、実はこのようなところにも、(1)で見たような、「契約」テーマ重視のライトの姿勢が表われているように思われます。

10:4のテロスを「終わり」と理解するか、「ゴール」と理解するかについては、これまでも議論がありました。一方のダンは、この言葉が英語の"end"同様、両義性を持つと考えます。「たとえここで『ゴール』あるいは『目標』が考えられているとしても、"end"=『完成、結末、停止』の思想を排除することはできない」(注12)と言います。また、ここでの律法は、義を定義するものとしてでなく、「『行い』との関係で誤解された律法(9:32)、イスラエルの特権としての義を確立し固定する手段として誤解された律法」とされます(注13)。「『キリストは律法の終わり』とはキリストの生涯、死と復活によって果たされた神の救済の目的においける一度限りの移行について語っている」(注14)、「イスラエルの排除的特権の時代が終わった。すなわち、選びのバッジとしての律法の役割が終わった」(注15)と言います。すなわち、テロスの両義性を認めつつも、「停止、終わり」としての意味合いを中心に理解しようとしています。

これに対して、ライトは、テロスを「終わり」と理解する見方が、ルター派を中心に行われてきたことを指摘しながら、ギリシヤ語翻訳のレベルで3つの問題点、またローマ書全体における文脈におけるパウロ思想のレベルでのより大きな問題点を指摘します。そして、次のように言います。「私は以下のように結論づける。すなわち、10:4において、パウロは違う『システム』を好んで律法の廃棄を主張しようとしたわけではなく、メシアが神とイスラエルの長いストーリーのクライマックスであること、そのストーリーはトーラーが語るものであり、トーラーがそのストーリーの中で戸惑わせるけれども重要な役割を果たすのであることをむしろ告げている。トーラーにおける神の目的は、消極的なものも積極的なものも、メシアにおいてゴールに達し、その結果は、信じるすべての者にとって『義』に接近しうること、『義』を入手しうることである。」(注16)ライトもまた、「テロス」がここで「終わり、終了」をも意味することを認めながら、旅の途中での停止を意味するのでなく、旅の目的地に着いたことを意味すると言います。

10:4のテロス・ノムーへの理解の違いは、当然のことながら、10:5のノモスへの理解に違いとして引き継がれます。ダンが「律法による義」を限定的なフレーズとして理解し、「律法を守る人々、すなわち契約の民に限定されている」と理解するのに対し(注17)、ライトは違った理解を提示しています。すなわち、5節の「律法による義」と6節の「信仰による義」を対置させるのでなく、同一線上にあるものとして捉えようとします。すなわち、「10:5におけるレビ18:5のパウロの引用は、(10:6~8において引用される)申命記30(:12~14)と対置されているのではない」と指摘します(注18)。ライトは特に、申命記30章が契約的祝福とのろいについて提示する諸章に続くものであることを指摘し、そこに記されたのろいが民の上に起こり、特に捕囚において最悪のかたちで起こった後、申命記30章が捕囚後の帰還を予告するものとして注目されたこと、その中で、ローマ10:6~8に引用される申命記30:12~14は、本来、戒めが難しすぎるものでないことを言うものであることを指摘します。レビ18:5は、「律法を行うこと」と「生きる」を一緒にしたものであり、「律法を行い、生きる」ということが実際意味することを申命記が新鮮に説明しているとパウロが主張している・・・そのように、ライトは言います。

対比的に言うならば、ダンはここで律法を「選びのバッジとしての機能」に関連付けて理解した上で、律法とキリストとの間には不連続性を、律法と信仰との間には対照性を見い出そうとするのに対して、ライトは律法が神とイスラエルのストーリーをクライマックスに至らせるための役割に注目し、律法とキリスト、律法と信仰の間に相互関係性を見い出そうとしているように思われます。

このようなダンとの違いは、(1)で取り上げたように、ライトの「契約」テーマの重視姿勢に関わっているように思われます。すなわち、神の契約的真実によってイスラエルのストーリーは、メシアにおいてクライマックスに至ります。そのために、トーラーが消極的な役割と共に、逆説的にですが、むしろ積極的で重要な役割を果たす点を、ライトは重視していると言えます。

以上により、ある程度、ライトのトーラー理解の概要をつかんで頂けるかと思いますが、注解本文を見ていきますと、聖書各本文の文脈をライトの視点からとらえ直しながら、パウロのトーラー理解に迫ろうとしていることが分かって頂けるかと思います。


4.1:18-3:20におけるノモス

ライトは、1:1-4:25を大きな一区切りとしたうえで、「神の真実」とのタイトルをつけ、
A.1:1-1:17「最初のテーマ陳述:神の福音と神の真実」
B.1:18-3:20「神の真実への挑戦:異邦人もユダヤ人も同様に神の怒り、偶像礼拝の罪悪、邪悪のもとにある」
C:3:21-4:25「契約に対する神の真実」
とサブタイトルをつけます。

この内、ノモスが登場するのは、Bからですので、まず、1:18-3:20におけるノモスの用法について、ライトの理解を調べます。

(1)1:18-32

この区切りにはノモスは現われませんが、ライトの文脈把握を確認する意味で、ごく簡単に触れます。「偶像礼拝と非人間的振る舞いが神の怒りをもたらす」とのタイトルがつけられ、「それゆえ、悲しい全体の絵の上をくくる陳述がある。神の怒りが啓示されている(1:18)。彼らはそのようなことを行う者が死ぬに値するという神の定めを知っている。(1:32)」(注19)

(2)2:1-16

この区切りには「神の公平な裁きは道徳的優越の余地を残さない」とのタイトルが付けられます。この箇所は全体として「場面は最後の裁きのために設定されている」、「パウロはここや他の場所でディアトリベとして知られる散文スタイルを採用している。(略)このスタイルにおいては筆者は想像上の反対者と議論をする」、(注20)「ローマ書のこの区切りを理解するためには、ローマにいるクリスチャンの聴衆が彼自身と想像上のユダヤ人の対話者との会話に耳を傾けるようにとパウロが意図しており、しかもその想像上のユダヤ人対話者が当面、まるで異邦人の道徳主義者であるかのようにとパウロが話しかけているということが示されなければならない」と言われます(注21)。

この中で、2:12-16の間に、初めてノモスが登場します。この小区切りについて次のように言われます。「12-16節の全体は7-11節に含まれることを更に説明する。神はユダヤ人とギリシア人を完全な公平さで同様に裁くであろう。『というのは』律法の外の者たちと律法の内の者たちは正当に裁かれるであろう。」(注22)

ここで既にご紹介したように、この箇所(及び、概ねローマ書全体)においてノモスはモーセ律法、すなわち、トーラーを意味するというライトの見解が述べられます。従って、「律法なしの者」とは異邦人を、「律法のもとにある者」とはユダヤ人を意味すると指摘します。

12-13節については、次のように説明されます。「それゆえ12節全体のポイントは、再度、判決において考慮されるべき公正さである。神は異邦人の罪人を有罪とするのにユダヤ人律法を用いず、ユダヤ人の罪人を有罪とするのにそれを用いる。13節の効果は更に神の公平さを支えることである。すなわち、トーラーを単に所有していること、会堂でそれが読まれるのを聞くことは神に対して効力をもたらさない。トーラーは従われるよう意図されているのであって、ただ聞かれることではない。」(注23)

14-15節では、「ユダヤ人でないのに律法が要求することをなす人々」のことが語られます。ライトはこの人々についての理解の仕方が三つあることを示唆しながら、彼らを異邦人クリスチャンと考える理解を支持します。ライトはこの箇所を2:29、8:1-11、10:5-11を先取りした箇所と理解しています。(注24)

(3)2:17-29

ライトはこの区切りを「『ユダヤ人』への直接的挑戦」とのタイトルを付けます。ライトはこの箇所が単に個人主義的に理解されることを避けるべきであって、「ここでパウロの『あなたがた』は、ユダヤ人全体について行われていることについて焦点を当て、劇的なものとする」と言います(注25)。また、「ここでのポイントはイスラエルが世界の問題に対する神の解答であるはずだった―そのように召されてきた―が、その代わりに自分自身がまさに同じ問題に対して決定的に妥協しているということだ」と言います(注26)。

17節「律法に安んじ」(口語訳)については、「"rest on"という意味である」と言い、「よきわざの梯子としてトーラーを用いるということでない」、「パウロが描写している態度はこういうものだ。『神はイスラエルにトーラーを与えた。我々がそれを持っていることは我々がその上に立っている岩である。それは我々ユダヤ人を神の特別な民としている』」と言います(注27)。

18-20節については、次のように要約します。「トーラーの所有は、『ユダヤ人』が神の御心を知り、『異なるものを見分ける』ことを可能にするはずである(18節)」「結果としてイスラエルは理論上諸国の光、世界の道徳的教師となった。なぜなら、トーラーにおいてイスラエルは事実『知識と真理の体言』を所有した(19-20節)。」(注28)

21-22節はユダヤ人たちに対する告発を描く箇所ですが、「この告発は再度次のことを示す。(a)ここでの彼の関心はイスラエル内のすべての個人よりもイスラエル全体にある。(b)イスラエル全体についての彼のポイントは単にユダヤ人の罪にあるのでなく(それは重要であるが)、この罪の結果、イスラエルが異邦人世界に対する神の光であることに失敗したということである。」(注29)

23-24節については、「真の問題はイスラエルが神に世界的誉れをもたらすことに失敗したことである」と言われます。(注30)

25-29節については、「彼はトーラーについてのポイントと並行して、割礼の問題を導入することによりこの後者のポイント(前節まででほのめかされているとされる契約の更新と御霊の賜物)に至る」と言われます。そして、「割礼はユダヤ人のアイデンティティを示す鍵となるバッジとして見られている。」ことを指摘した上で、「割礼とトーラーを一緒にしながら、パウロは前者が意味するのはトーラーが守られているところで想定されていることに過ぎず、ここでも再びトーラーは破られた。それゆえバッジは偽りを語っている」と言います。逆に、「もし契約の更新についてのエゼキエルその他の預言が他の場所で真実となるなら―もし新しい心、新しい霊を持ち、トーラーの戒めを守る者たちがあるなら―彼らが割礼を受けていようといまいと、彼らはまさにその存在によって、割礼にもかかわらずトーラーを破る人々の契約的メンバーシップの破れ、非妥当性を明らかにする」と言います。新しい契約についてのこのテーマについては、3:27-31、8:1-11、10:1-13も参照箇所として示されます(注31)。

(4)3:1-8

この区切りには、「イスラエルの不真実と神の真実」とタイトルが付けられます。この中に直接ノモスは現われませんので、ライトの文脈理解だけご紹介します。「このセクションの要点は二つの事柄が評価されて初めて理解される。一つは手紙の『交響楽的』構造(Introductionを見よ)であって、そこにおいては、諸テーマが十分な陳述の前にあらかじめほのめかされている。もう一つは契約に対する神の真実と、世界に対する神の目的が完遂されるためのイスラエルの応答的真実への召しである。パウロはここで、ユダヤ人全体の罪深さよりもむしろ(それは重要であるが)、世界の救いの手段となるようにという神の委託をイスラエルが果たしていないことに関心を寄せている。」(注32)

(5)3:9-20

この区切りには、「トーラーは異邦人と共にユダヤ人をも裁く」とタイトルが付けられます。この区切りについては以下のように言われます。「『すべてトーラーの言うところは、律法のもとにある(文字通りには『律法内の』)者に対してかたりかける。』(3:19)これは、一連の聖書引用と共に今の節への鍵である。異邦人の罪と罪悪の普遍性は既に議論されてきたが、パウロは今やユダヤ人が異教徒と共に裁かれなければならないことを強調する必要がある。(略)パウロはどんな人もトーラーによっては義とされないということとの関連で問題を要約する。というのは、トーラーができることは罪を指摘する事だけであるからである。このことによって彼はすぐに次のことを示すことができるようにされる。すなわち、福音の中での神の真実の啓示がいかにこの問題を正確に取り扱うかを。」(注33)

この区切りの中では、最後の二節にノモスが登場します。

3:19には二回、ノモスが使われますが、いずれもトーラーと理解するものの、一方は広い意味であることが指摘されます。その上で、この節の要点が以下のように指摘されます。「事を結論づけるため、パウロは法廷イメージに戻る。トーラー(ここでは単に最初の五書でなく、ユダヤ人聖書全体として理解される)は『律法の内にある』者たちに向けて語られ、その結果、すべての口は止められ、全世界は神に対して弁明責任がある。」(注34)

3:20は、長い区切り(B)全体の最後を締めくくる節ですが、ライトはこの節のために丸3頁以上を費やしています。ただ、ライトのノモス理解だけでなく、義認理解も表われており、ライトのパウロ理解の基本的な部分が凝縮されているような箇所で、冗長さを感じさせません。全文を訳出したいくらいですが、部分的に訳してみます。

「この節は3:19の論理的根拠を提供しており、逆ではない。パウロは言う。トーラーはトーラーの下にある者たちに対して語っており、その結果、すべての口は止められる。なぜなら(20節a)、誰もトーラーの行いによって義とされない。なぜなら(20節b)、トーラーを通しては罪の知識が来る。」

「まず文の主語であるが、"No human being"(NRSV)や"no one"(NIV)は、パウロのフレーズのニュアンスを捉えていない。詩篇143:3(七十人訳では143:2)をほのめかしながら、文字通り『すべての肉は(パーサ・サルクル)は義とされない』と言っていることは驚くべきことである。」

「パウロは詩篇を一語一語引用していないが、明らかにそれに言及する意図がある。ふたたび、より広い霊的文脈に留意しているように思われる。詩篇143編は、ヤーウェの真実と義を嘆願する祈りであり(1節)、いかなる功績にもよらず(2節が言うように、生ける者はだれも神の前に正しくないので)、ただ神の御名と神の義によって(11節)解放を求めている。」

「この節において、義認は明らかに法廷用語である。(略)イントロダクションで述べたように、パウロがこの用語を用いるとき、三つの組み合う言及領域がある。この用語は最も自然に法廷に属する。また、パウロの中で包括的な概念は、イスラエルとの神の契約、(あたかも宇宙の法廷内のように)世界がそれによって正しくされるところの契約である。そして議論の重要な考え方は終末論的であって、パウロは最後の審判の光景が現在にもたらされ、神の『義』が既にメシア・イエスにおいて現されたことを主張する。」

「要するに、ここでのパウロのポイントは、法廷、すなわち神の宣告は、自分たちの証拠として『トーラーの行い』を持つ者たちが『義』という宣告を受けるということではありえないということである。再度我々が思い出さなければならないことは、彼はここで異邦人について語っているのではなく、ユダヤ人について語っていることである。」

「それでは、これらの『トーラーの行い』とは何か。」

「『トーラーの行い』というフレーズを用いるキリスト教前のユダヤ教文書として、我々が所有する唯一のものは、以前から良く知られており、最近発行された死海写本、4QMMTである。著者は読者に言う。『我々はあなたの幸福とあなたの民の幸福のため、我々の決断に従って、トーラーの行いのこのセレクションを実際にあなたに送った。』しかし、これはこのフレーズについてのパウロの意味自体の型として用いられることはできない。なぜなら、そこで語られている『行い』は、(a)神殿のきよめに関する聖書後のルールであり、(b)ユダヤ人の一つのグループを他から区別して定義することを目的としているからである。ローマ書とガラテヤ書からは、これから見るように、パウロが『律法の行い』について語るとき、彼はむしろ次のように考えていることが明らかである。すなわち、(a)聖書的ルールであって、(b)ユダヤ人(とユダヤ教改宗者)を異教徒から区別するものであると。」

「けれども、このクムラン・テキストが現在の議論への主要な積極的貢献は、『トーラーの行い』が義認用語の中でどのように機能するかの理解を助けることである。MMTの三番目と最後の節は、申命記の約束と警告から筆者自身の時代に至るイスラエルの物語を語っている。申命記30章は、歴史的経緯を約束した。すなわち、契約的祝福、のろい、そして再び祝福。初めの祝福とのろいは君主制の時代にイスラエルにやってきた。この内、のろいは、多少なりとも捕囚であった。しかし、今や同じテキストによって約束された二番目の祝福がイスラエルにやってきた。それは、まさにセクト、密かに始められ、しかし最後には公けに正当化される新しい契約の民の生活において、やってきたのである。セクトのメンバーたちは、彼らが正当化される時に先立ち、既に終末論的イスラエルとして区別されている。現在、彼らを区別するものは、まさに特別な『トーラーの行い』であって、それらをテキストは読者に強いている。すなわち、セクトによって必要だと考えられている聖書後の諸規則である。従って、これらの『トーラーの行い』は、将来の評決(セクトに対する神の正当化)が現在期待されることのしるしである。セクトは、今や、更新された契約、新しい祝福の共同体、申命記30章で言われている『捕囚から回復した』民のメンバーであることを確信できる。我々が巻物に言われるセクト的『行い』からパウロが意図するより基本的な聖書の『行い』に視点を広げると、彼が反対している立場は以下のように陳述されうる。『トーラーの行い』は、イスラエル、待望された『神の真実』がついに実行をもって明らかにされる将来には、正当化されるであろう神の契約の民のメンバーであることのしるしである、と。」

「パウロ研究における最近の四半世紀の大きな成果の一つは、パウロの同時代人たち―そして、回心前のパウロ自身―は、『律法主義者』ではなかったということを認めたことである。(略)パウロの批判は、トーラーが悪いものであるというものではなかった。(略)むしろ、彼のポイントは、トーラーの所有をアピールすることによって自分たちの契約的立場を正当化しようとするすべての者が、トーラー自身が彼らを罪に定めるのを見出すだろう、ということである。もし、『ユダヤ人たち』がトーラーをアピールして、『これがわたしの異邦人と違うことを示してくれる』と言うなら、トーラー自身が『ノー』と言うだろうとパウロは言う。『ノー。そうではない。それはあなたがたが異邦人と同じだということを示す。』と。」

「パウロの時代、特に契約の民であることを示すものとして言及された『行い』は、もちろん、とりわけディアスポラにおいてユダヤ人を異邦人の隣人たちから区別するもの、すなわち、安息日、食事規定、割礼であった。それゆえ、ローマ書やガラテヤ書における『トーラーの行い』を特にこのような要素を強調するものとして見ることに対しては強い立証が与えられうる。」

最後の一文には以下のような脚注が付けられています。「このことは特にダンによって様々な著作において議論されている。ダン、Romans 1-8,p153-160、またそこでのその他の参考文献を見よ。」(注35)


5.3:21-4:25におけるノモス

ライトは、1:1-4:25の大きな一区切りの中で、C:3:21-4:25に対しては、「契約に対する神の真実」とサブタイトルをつけます。この区切りの中にも、多数のノモス用法が見いだされます。

(1)ローマ3:21-4:25についてのライトの文脈理解

この区切りについてのライトの文脈理解は、"Overview"(概観)に示されています。詳細は省略しますが、ノモス理解にも深く関わりますので、ポイントとなる3つの事項だけ以下に挙げます。

・「契約」神学
「それゆえ、パウロは、用語を使うことなしに、契約について語っている。(略)私や他の者たちが時々してきたように、この点で『契約』神学について言及することは、以下のことを意味する。パウロは神がメシア・イエスにおいてなしたことはアブラハムに対する約束の成就であるということを主張しようとしている。」(注36)

・「神の義」
「このフレーズ(神の義)は、NIVのように『神からの義』を意味することは全くありえない。(略)それ(神からの義)は、その義(神自身の義)の、すなわち神の救済の契約的真実の啓示の結果である。」(注37)

・「義認」
「パウロの文脈において『義認』は、通常以下の両方を含む。罪人の罪からの救い、そして、ゆるされた罪人による世界大の家族の創造である。」(注38)
「パウロにおいて義認は、人がクリスチャンになったり、クリスチャンとして成長するプロセスや出来事ではない。それは、誰かが現在、神の民のメンバーであるということの宣言である。(略)我々は、パウロの『義』用語における三層の意味を思い起こすことができる。それは契約的宣言であり、比喩的及び決定的な法廷のレンズから見られたものであり、終末論的に働きだすものである。」(注39)

(2)3:21-26

ライトはこの区切りに対して「イエスの真実を通して啓示された神の義」とのタイトルを付けます。

ノモスは、3:21で2回現れます。

ライトは、まず次のように指摘します。「最初の言及はトーラーについて注意深くバランスを取られた言及によって側面を固められている」。

「トーラーは、19-20節の主要テーマであった。今パウロがしなければならない最初のことは、良い知らせの新しさを強調することであり、この啓示が『トーラーを離れて』起こったことを強調することである。これは二つの機能を果たす。最も明らかなことは、ユダヤ人が有罪であると宣告するのはトーラーであるということである。(略)直截的に明らかではないが、パウロの議論展開にとって決定的なのは、異邦人に対してバリアを立てたのはトーラーであるということである。」

「しかしながら、啓示は、『トーラーと預言者によって証しされて』いる。」(ここでのトーラーは、ヘブル語聖書の区分をさしていることが指摘されます。)「新しい啓示が『トーラーを離れて』起こることはパウロにとって重要であるが、同様に重要なのは、それは新しい啓示であったとしても、神があらかじめ約束されたそのものであるということである。」(注40)

なお、この区切りでは、「ピスティス・イエスー・クリストゥー」についての興味深い議論が取り上げられます。ライトは、このフレーズがイエス自身の真実について言及していると考えています。

(3)3:27-31

ライトはこの区切りに対して、「一人の神、一つの信仰、一つの民」とのタイトルを付けます。

3:27については、ここで取り上げられる「誇り」が道徳的律法主義者の一般的「誇り」でなく、ユダヤ人の民族的「誇り」であることを指摘した上で、「誇りは排除されている」と言います。続いて現れる二回のノモスについて、既に見ましたように、ライトはトーラーを意味していると考えます。すなわち、文脈としては以下のようであると考えます。「それゆえ誇りの排除の手段は、簡潔に述べられる。イスラエルの立場は、トーラーの賜物と実行にかかっていた。新しい整理はいかにして支持されるのであろうか。どんな種類のトーラーがそれを支えるのか。『行い』によって特徴づけられるトーラーか。否、『信仰』によって特徴づけられるトーラーである。」(注41)聖書本文の文脈はいくらか飛んでいるように見受けられますが、ライトは、上記文脈の内、「イスラエルの立場は、トーラーの賜物と実行にかかっていた。新しい整理はいかにして支持されるのであろうか。」といった意味合いの問いかけが省略されていると見ていることになります。

その上で、ライトは、「パウロがこうして二種類の異なった方法で見られるトーラーを区別している」とします。「一方では、『行いのトーラー』がある。これは、イスラエルを諸国に対立して定義するものとして見られたトーラーであり、安息日、食物規定、割礼だけでなく(これらは社会学的に言えば、神学的に規定された区別を実体化する明白な事柄ではあるが)、トーラーが描く行為の実行によって証しされるものである。他方では、パウロがここで案出している新しいカテゴリーがある。『信仰のトーラー』は、(3章の多くのものと同様)未説明の意味を持ち、真の新しくされた神の民がどこで見いだされるかを示唆するものである。彼は神の与えたトーラーが神の民を定義づけるという信仰を諦めたくないように見える。彼がしていることは、『トーラーの行い』すなわち、イスラエルを民族的に定義づける事柄をなすことを否定することであって、トーラーの適切な使用方式である。むしろ、トーラーは信仰を通して成就される。言い換えれば、誰かが福音を信じるとき、たとえ驚くべき方法ではあっても、トーラーは実際に成就されつつある。(このトピック全体については9:30-10:13の注解を見よ。」(注42)

続く3:28でも、ライトは、3:27での「行いのトーラー」と「信仰のトーラー」の対比を受けての理解を示唆します。「パウロは今や『行いのトーラー』と『信仰のトーラー』の対比を、人は『律法の行いでなく信仰によって義とされる』と宣言することによって説明する。」ライトはこの後、「義とされる」という言葉が人の回心を意味する言葉ではないとの理解を再度説明しています。その上で、以下のように記します。「ともかく、この節でのパウロのポイントは、ただ次のことである。イエスにおける神の真実の啓示の光においては、神の契約的民を今区別するものは、民族的イスラエルの境界を確定するトーラーの行いでなく、『信仰の律法』であって、逆説的ではあっても事実トーラーを真に成就する信仰である。」(注43)

3:31では、それまでの文脈を受け、「ここでの当然の疑問は以下のことである。我々は3:20までで語られてきたトーラー肯定を放棄するのか。我々は信仰によってトーラーを廃棄し、それを無価値、無効とするのか。」この問いに対して、「我々はトーラーを確立する("establish"NASB)」と答えることにより、パウロはここで次の二つのことをしているとライトは言います。「一つ目は、シェマ自体を持つことの重要性を新しい家族(そして、その心に御霊が働いている人々に言及する、2:25-29で言われる逆説的『トーラーの成就』)の〈ユダヤ人+異邦人〉という性質への指標として描こうとしている。二つ目は、手紙のこの段階では当然のことであるが、暗く深い、未達の議論をあらかじめ示唆しようとしている。その議論においては、キリストにおける、御霊による、神の全ご目的の成就によって、トーラーさえもが、その消極的側面を十分認めたとしても、その不思議な召しを達成したとみられるであろう。」(注44)

(4)4:1-25

ライトはこの区切りに対して、「アブラハムの契約的子孫」とのタイトルを付けます。ライトはこの箇所を、次のように理解します。「本章は実際、創世記15章で神がアブラハムと結んだ契約の十分な講解であり、神がいかに常にアブラハムの契約的子孫がユダヤ人同様異邦人も含むことを意図し、約束されたかをすべての点で示すものである。」そして、次のように指摘します。「議論の主要な三つのポイントは、行い(2-8節)、割礼(9-12節)、律法(13-15節)に関わる。二つ目、三つ目の場合は明らかに、また一つ目の場合は議論あるところであるが、議論は通常考えられているような、人はいかにクリスチャンになるか(略)という質問に関わるのではなく、アブラハムの子孫はただユダヤ人だけか、あるいは異邦人も含むのかという質問に関わっている。」(注45)

三つ目のポイント「律法」を扱うとされる4:13-15について、ライトはまず、「これらの節は新しいトピックを導入しているのではない」と指摘します。その上で、「彼は今や3:21でのコーリス・ノムー以来、留意してきた点に達した」と言います。この箇所についての文脈を以下のように説明します。「トーラー自体は契約の子孫の区分の印ではありえない。(略)彼はここでこのことを、なぜ割礼がこの子孫におけるメンバーシップに必要でもなければ十分でもないかということの更なる説明として提供している。それは、トーラーをメンバーシップのバッジとして絶対化するであろう。しかし、パウロはトーラーがそれを所有する人々の罪を指摘するだけであることを既に示してきた。トーラーは怒りをもたらす。(4:15a、それは3:19-20、またその背後に2:12bに言及する。)」(注46)

4:16では、「『律法からの者』は、ここでは単に『ユダヤ人』の簡略表記法である」と言い、「パウロは既に4:12で次のことを指摘した。割礼によって特徴づけられるユダヤの家系は、もし当該の人がアブラハムの信仰の歩みに続かないなら、何の益もない。」と指摘します。(注47)

(続く)


(注1)N.T.Wright 'Romans' "The New Interpreter's Bible Commentary Vol.9" Abingdon Press, 2000。
この注解書は、当然ながら、以下のような著作の内容が踏まえられている。
N.T.Wright "What St. Paul Really Said" Lion Books, 1997(邦訳:『使徒パウロは何を語ったのか』岩上敬人訳、いのちのことば社、2017年)
N.T.Wright "The Climax of the Covenant : Christ and the Law in Paul Theology" Fortress Press, 1992

(注2)Wright'Romans'p324

(注3)Wright上掲書p356

(注4)Wright上掲書p394

(注5)Wright上掲書p479

(注6)Wright上掲書p480

(注7)Wright上掲書p485

(注8)Wright上掲書p375

(注9)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans(1-8)" Word,1988、 Intro.p63‐72.

(注10)Wright上掲書p321

(注11)Wright上掲書p325

(注12)James D.G.Dunn "Word Biblical Commentary Romans(9-16)p589

(注13)Dunn上掲書p596

(注14)Dunn上掲書p597

(注15)Dunn上掲書p598

(注16)Wright上掲書p562

(注17)Dumm上掲書p600

(注18)Wright上掲書p564

(注19)Wright上掲書p347

(注20)Wright上掲書p353

(注21)Wright上掲書p354

(注22)Wright上掲書p356

(注23)Wright上掲書p356

(注24)Wright上掲書p357

(注25)Wright上掲書p360

(注26)Wright上掲書p361

(注27)Wright上掲書p361、362

(注28)Wright上掲書p362

(注29)Wright上掲書p363

(注30)Wright上掲書p363

(注31)Wright上掲書p363

(注32)Wright上掲書p367-368

(注33)Wright上掲書p371

(注34)Wright上掲書p372

(注35)Wright上掲書p373-376

(注36)Wright上掲書p379

(注37)Wright上掲書p380

(注38)Wright上掲書p382

(注39)Wright上掲書p383

(注40)Wright上掲書p383

(注41)Wright上掲書p394

(注42)Wright上掲書p395

(注43)Wright上掲書p395-396

(注44)Wright上掲書p398

(注45)Wright上掲書p401

(注46)Wright上掲書p408

(注47)Wright上掲書p411

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