長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

5章 その6

2015-06-14 14:50:29 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

第5章「サマリヤの謎」additional notesは、使徒行伝におけるフレーズの用い方の面で、二つのテーマを扱っています。

第一の、聖霊に関わる表現については、冠詞があるかどうかに神学的に重要な差異はないという著者の見解は妥当なものと思います。

第二の、聖霊の到来に関する表現については、まず、これだけまとまった形でまとめられていることが有難く思います。極めて基礎的な問題ではありますが、時にはこのあたりのことが神学的判断に微妙に、時には重要な形で関わってくることがあるので、押さえておくべきところだと思います。

「聖霊に満たされる」という表現が、同じ人物に対して何度でも使われるものであるという見解について、著者はそれが大方のペンテコステ派の見解であると言います。例外的な見解として、Ervinの見解が紹介され、著者は「4:31についての彼の取り扱いはむしろいくらか不自然でひねくれた解釈を含んでいて、受け入れられない。」と言い、その見解を退けています(70頁)。こうして著者は間接的に、「聖霊に満たされる」という表現が、同じ人物に対して何度でも使われるものであるという大方のペンテコステ派の見解に賛同していることになりますが、この点は、私もその通りだろうと思います。

聖霊の到来に関する7つのフレーズが、少なくとも使徒行伝においては、同じ聖霊到来の経験に対する表現となっているという著者の指摘はその通りだと言わざるを得ません。ただ、著者が少なくともこのノートで指摘していないように思われる点で、なお検討課題として残ることが三点ほどあるように思われます。

一つは、「聖霊によってバプテスマを授ける」という表現がなぜ用いられたのか、という問題です。これは、著者が福音書と使徒行伝の検討の中で触れられていてもよさそうですが、実際には著者自身は、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを対照的に捉えようとする視点が強く、なぜ両者が共通の言葉で表現されているのかについては、特にまとまった説明がなされていないように思われます。

第2章で、バプテスマのヨハネを取り上げるに当たっては、著者の検討の順序として、(1)聖霊のバプテスマ、(2)ヨハネの水のバプテスマ、(3)クリスチャンのバプテスマという順序でした。すなわち、そこではヨハネの水のバプテスマはあくまでもキリストによる聖霊のバプテスマに対する予備的な儀式であるという主張が中心でした。従って、両者共通に「バプテスマ(を授ける)」という言葉が用いられている理由については、あまり説明されていないように思います。

それ以前に、「バプテスマ」という言葉については、第1章で「回心―入信式」という表現について説明する中で、比較的詳しく取り上げられています。そこでの説明は、「『バプテスマ』という表現は、らせん状の構造を持った表現であって、実際に水に浸す行為を表すこともあれば、その意味が儀式を越えて、『回心-入信式』の諸儀式や構成要素をより大きく含むものとして拡大させられることもあります。」というものでした(5頁)。この説明からすれば、著者は『バプテスマ』という表現の最も基本的な意味は、「水に浸す行為」であり、「儀式」としてのものであると考えていることになります。

このような説明の仕方から、この点についての著者の見解をある程度推論することができます。すなわち、ヨハネが自らによる水のバプテスマとキリストによる聖霊のバプテスマを対比して語ったとき、既に「水に浸す行為」が「儀式」として定着していたという前提があるのではないでしょうか。旧約聖書ではきよめの儀式についての言及はあっても、入信の儀式としての「水に浸す行為」への言及はありませんので、バプテスマのヨハネの直前、ある種のユダヤ教グループに同類の入信儀式があったということかもしれません。そういう前提で、ヨハネが自らの水のバプテスマに対比してキリストによる聖霊のバプテスマを予告したのだとすれば、確かにそれは入信儀式としての水のバプテスマと同様に、真の神の民に加えられるためのキリストご自身によるきよめのわざとして理解することが妥当ということになります。但し、これは著者によるわずかながらの説明から推論した説明ですので、本当に著者がそのように考えているのかどうかも定かではありません。

聖霊の到来に関して「聖霊によってバプテスマを授ける」という表現が用いられた理由が何なのか、上記のような理解でよいのかどうか、もう少し掘り下げて調べてみたい気がします。

二つ目のことは、他の6つの表現が「ただ一つの御霊の到来」をさすと考えられるのに対して、「聖霊に満たされる」という表現が同じ人物に対して何度でも使われるものであるということの意味を考える必要がある、という点です。この表現が「ただ一つの御霊の到来」においても用いられつつ、同時に同じ人物に繰り返し用いられていることを著者自身認めています。しかし、そのことの意味を掘り下げて検討するよりは、ペンテコステ派内の特殊な見解としてのErvinの見解を退けるために、そのことを指摘するのみです。しかし、状態としての「聖霊に満たされている」ということではなく、経験としての「聖霊に満たされる」ということが同じ個人に繰り返される、しかも、この表現が「ただ一つの御霊の到来」においても用いられるものである、ということの神学的意味をもう少し考えてみてもよいのではないかと思います。

三つ目に、このadditional notesは、使徒行伝における表現研究としてまとめられているので、ある面、当然なのですが、これらの表現がパウロその他の新約聖書著者たちによって、どの程度共通に用いられているのかについては触れられていませんし、本書の他の箇所でもまとまった説明・検討はなされていないように思います。この点は、このテーマについての新約聖書の教えを総合的に考える際には、確認しておくべき点になるかと思います。

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