【検討編】
第一ペテロ書(及びヤコブ書)の研究においても、著者は回心―入信式における聖霊を受けるという経験の中心性と、水のバプテスマの役割について注目します。
(1)第一ペテロにおける聖霊
まず、第一ペテロにおける聖霊に関わる言及を検討しつつ、著者は「我々が確実に言えることは、ペンテコステ派の御霊のバプテスマの教理は、第一ペテロには根拠を持たないということ、逆に、第一ペテロはこの点においてこの教理に対する我々の完全な拒絶を確証する上で、パウロに十分近いということである。」と記します(222頁)。
確かに、1:2は、回心―入信式において、聖霊が与える霊的変革(きよめ)についてかなり明確に語っています。「聖霊を受ける」という表現自体は出てきていませんが、「御霊の聖め」という表現を「聖霊を受ける」経験に結びつけることは不自然ではないでしょうし、この箇所から、「御霊の聖め」を回心―入信式の中に位置づけることもまた自然なことと言えるでしょう。
この点に関連する箇所として著者が挙げるその他の箇所(1:12、23、24、4:14)については、これらの箇所が回心―入信式における聖霊の働きに言及したものであるのかどうか定かではありません。1:12が著者の言うように、「ペンテコステをほのめかし」ているのだとしても、それが即個人のクリスチャン経験の初めに経験されるものと言えないことは、使徒行伝の検討で見てきたとおりです。1:23で、ペテロが「σπορα(εκ)(種)とλογοσ(δια)(言葉)とを区別」しているかもしれないとの指摘は興味深いものであり、前置詞の区別によってある程度の説得力を持っていますし、1:24で引用さているイザヤの言葉に本来あった「ruah」に注目している部分も、興味深いものではありますが、注解者の間で賛同を得るには至っていないように思われます(Tyndale,Grudem等)。4:14における「とどまる」は、οτι節の中の現在形です。現在既に「とどまっている」という状態を指摘するものであるのかもしれませんが、文法的には著者が言うように「クリスチャン生涯の最初に…御霊が人の上にとどまる」とまで限定的に言うことはできないように思われます。
全体として言えるのは、「聖霊を受ける」ということに関するパウロ的な理解をベースにして第一ペテロを読むことは、可能であり、自然でもある、というあたりではないでしょうか。
(2)第一ペテロにおける水のバプテスマ
著者は、第一ペテロの研究に際して、まず3:21に注目し、「第一ペテロ3:21が新約聖書が与えるバプテスマの定義に最も近いアプローチである」と述べ、バプテスマを「人の神に対するεπερωτημα(約束)の表現である」との理解を示します(219頁)。それと共に、回心に関わる二つの箇所(1:2、22)では、、「人の従順と神のきよめ」「きよめと従順」という二つの観念の組み合わせが見られることを指摘し(220頁)、更に、1:3、23について、「ここでは彼は神のみわざに対してだけ注意を集中する」と指摘します(221頁)。従って、「バプテスマに関する限り、人の救いに決定的であるのは、バプテスマが人になすことでもなければ、バプテスマを通して神が人になすと考えられている何かでもなく、人がバプテスマと共になすことであり、人がそれを用いる方法である」とされ(219頁)、回心における役割が限定的であることを指摘している形です。
私自身は聖霊論への関心が強いので、新約聖書全体にわたってのバプテスマ論の中で、著者のこのような理解がどこまで可能なのか、にわかには判断がつけられませんが、興味深い視点であることは確かです。ただ、「第一ペテロのバプテスマ論」を考える上で、直接的にバプテスマを扱っているのが3:21だけであるのは多少心もとないのも確かです。
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