長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

クリスチャンであるとは(N・T・ライト)

2015-06-20 14:53:51 | 

N・T・ライトは、世界の聖書神学者の中でも、現在、相当大きな影響力を持って活躍している方だと思いますが、その著作は、これまで、ティンデール注解シリーズのコロサイ・ピレモン書の注解書を除いて、日本では翻訳されていませんでした。私自身、大きな関心を持ちつつも、英語の本をさっさと読み進めるというわけにはいかない英語力ですので、この本の翻訳には大きな感謝を覚えます。一般向けと言われる三部作の第一作として書かれたということですが、N・T・ライトの神学思想に断片的にしか触れることができなかった私としては、かなり分かりやすくまとまった形でその神学思想に触れることが出来たのは、大変ありがたいことでした。

「一般向け」とは言え、その内容はかなり高度なものを含んでいるように思います。歴史や世界情勢、宗教や哲学など、幅広い問題意識を持っている方向け、という感じもします。そうでない方にとっては、クエスチョンマークばかりついて、読み進めるのに困難を覚える場合もあるかもしれませんが、逆に、そういう問題意識を持っている方であれば、クリスチャンでない方であってもかなり強く訴えるものを持つのではないかと想像します。

この本を読んで残った印象の一つは、「複雑さを引き受けつつ、その中から語りかけている」というものでした。たとえば、信仰を勧める本としては異例と思えるほど、世界や歴史の複雑な様相、キリスト教会の負の歴史にさえも正直に向き合い、それらを踏まえつつも、その中から語りかける聖書のメッセージがあることを著者は提示しています。あるいはまた、「一般向け」とは思えない程、聖書の成立やその解釈についても複雑な議論があることを示しつつ、また、聖書のメッセージの語られ方自体、重層的であり、複雑な要素を持っていることを踏まえつつ、けれども創世記から黙示録まで聖書全巻を貫く統一的テーマがあることを示しています。

以下、この書の内容を要約的にご紹介します。想像力をかきたてる色々なイメージに彩られた本書ですので、分析したり、要約したりすることは、本書の性格にそぐわないような気もしますが、この書の中の様々な主張、視点、概念を私自身の中で整理させたいという意図からのことですので、私個人のための「覚え書き」と受け止めて頂ければ幸いです。


本書全体は、三部に分かれています。


第一部「ある声の響き」は、「今日の世界において関心が高まっている四つの領域」を示します。ライトは、これらの領域に目を向けながら、「それぞれのテーマについて、ある声の響きが聴こえてくるまで耳を澄ませてみること」を提案します。四つの領域とは、具体的には、「義への希求であり、霊的なことへの渇望であり、人間関係への飢えであり、美における歓び」と言われます(2頁)。義への希求では、世界中に見られる不正の問題が扱われ、信仰入門書でありながらそんなところから議論が始まっているのも興味深いところだと思いますし、霊的なことへの渇望についての第2章冒頭、国中の水源をコントロールしようとする独裁者の描写は、生涯忘れないと思われるほどの強い印象を私の中に残しました。

この部分の背後にある神学的な課題は、おそらく、「神のかたち」だろうと思いました。この点については、56頁で触れられていますが、この言葉自体を前面に大きく出すことは控えられています。あくまでも一般の人々の理解や意識に沿う形で、現代人の心の中にある求め、渇きを示唆しています。そうしながら、読者の目を少しずつ創造者なるお方に向けさ、「始めたことを完成し、また、いまの世界で失われ、奴隷状態にある人々を救い出すために来られる神の物語」に目を向けさせます(69頁)。


第一部が序論だとすれば、第二部「太陽を見つめる」は、本書の本論と言えます。第5章の「神」では、「神」なるお方についての存在についてのしばらくの議論の後、本書全体のもう一つの重要テーマが示されます。「神は天におられる」ということの意味、そして「天」と「地」との関わりについての議論です。ライトは、両者の関わり方について、三つの理解があることを指摘します。選択肢<一>、選択肢<二>、選択肢<三>の内容については、実際に本書をお読み頂きたいと思いますが、これら三つの理解については、第二部全体を越えて、第三部においても繰り返し指摘されます。私としては、本書を理解する上での最重要概念なのではないかと受け止めました。

続く第6章「イスラエル」は、神の救済の物語においてイスラエルの物語を不可欠のものとするライトの見方をよく表わしています。ライトはアブラハムから始まるイスラエルの物語の中に、「新しい世界、回復された世界、創造者によってもう一度祝福される世界を示すヴィジョン」を見ます(107頁)。それは、アブラハムと結んだ契約の故に確固としたものでありつつ、彼自身、またその子孫の人間性の故に繰り返し頓挫するようにも見えます。それゆえ旧約聖書全体は、「奴隷状態と救出の物語であり、捕囚と回復の物語である」と言われます(108頁)。そのような中で、「人の子のような方」による「『神の国(王国)』到来」へと焦点が合わされていきます(114頁)。

なお、イスラエルの物語を巡る四つのテーマとして、王、神殿、トーラー、新しい創造が取り上げられます。一つひとつ興味深いテーマですが、よく読んでいくと、これらのテーマが、第一部で取り上げた四つの飢え渇きに対応していることが分かります。たとえば、「神殿」のテーマについては、このように記されます。「いつの日か真の王が立てられるとき、(中略)天と地が出会うのにふさわしい場が再建されることになる。人々が深く渇望していた霊的なこと、つまり神に近づくことが、ついにかなえられる。」(118頁)。霊的な渇望を満たすものとして、神殿再建のテーマが捉えられています。(なお、ここで「天と地との関わり」のテーマとも深く結びつけられていることにも注目)。そして、これら四つのテーマの成就をもたらすお方として、一人のお方に焦点を合わせていくことになります。

第7章、第8章は、イエス様に焦点を当てた章です。特に第7章「イエス―神の王国の到来」は、第6章からの流れを受けて記されています。ライトは、キリスト教の本質がどこにあるかについて、次のように書きます。「キリスト教は、いまも生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして―見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える―というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。」(133頁)。イエスについての歴史的把握の可能性の問題、福音書の信頼性の問題を取り上げた後、イエスの宣教の中心にあった「神の王国」を取り上げます。その働きと教えがこのテーマとの関わりのもとに位置づけられることを指摘します。

「神の王国」をイエスの宣教の中心テーマとしてとらえることは、聖書神学の世界では当たり前のことでしょうが、ライトの特徴として印象に残ったことが二点あります。第一は、このテーマをイスラエルの物語とのつながりの中に位置づけていることです。「神の国は近くなった」という宣言について、「異教徒の圧政から人々を救出し、世界が正されることを切望していたユダヤの民の住む世界に向かって、言い換えれば、完全な究極の王となることをついに宣言した」と指摘します(143頁)。ここでは、約束の成就としてイエスご自身が位置づけられ、その宣言はユダヤ人のメシヤ待望の背景の中で語られたことが指摘されています。同時に、続く議論の中では、イエスが王であるということのあり方とユダヤ人のメシヤ待望との間にずれがあることも指摘されていきます。第二には、「天と地」のテーマとの関わりです。「神の王国がいま到来したと語ることは、すべてのナラティブが集約されることであり、そのクライマックスに至ったことの宣言である。まさに神の未来が、現在に突入しようとしている。天が地に到来しようとしている。」(144頁)「神の未来が、現在に突入しようとしている」という指摘は、「開始された終末論」として多くの聖書学者が指摘してきた点かと思いますが、同時に、「天が地に到来しようとしている」との指摘がなされています。

第8章「イエス―救出と刷新」は、イエス様の十字架の死と復活に焦点を当てた章です。第7章で指摘したユダヤ人のメシヤ待望とのずれが次第に明らかになっていく中、受難予告は、弟子たちの間でも誤解されざるを得なかったことが示唆されます。敵への勝利、神殿の再建などを通して王国をもたらすメシヤが期待される中、そのメシヤが死んでいくということは理解しがたいことでした。しかし、イエスご自身の理解は、ご自分を「苦難のしもべ」として見るものであったと指摘します。「このしもべは王であると同時に、苦難に遭う」(154頁)。神殿への攻撃、過ぎ越しの晩餐に続いて、イエスは十字架の死に向かわれます。「神が自分の民と全世界を単に政治的な敵から救い出すのではなく、悪そのものから、人々を捕らえていた罪から救い出す時がきた。」(157頁)「天と地の狭間で木に吊るされながら、イエス自身が天と地の出会う場となる。」(158頁)「天の悲しみと地の苦しみとが結びついた。未来のために蓄えられてきた神の赦しの愛が、現在にどっと注ぎ出された。多くの人々の心に響いている声、すなわち義を求める叫び、霊的なものへの渇き、関わりへの飢え、美への憧れ、それらすべてが、悲惨な断末魔の叫びに合わさった。」(159頁)ライト独特の新鮮な角度から十字架の死の出来事が表現されています。

イエスの復活については、それが蘇生や「認知的不協和」では理解できないことを指摘した後、そのからだが「どこか異なっていた」と指摘します(161頁)。ここで著者は、「このような結論は、科学的視点から見るとまったく物足りないように思われる」という課題を取り上げます。これに対する著者の回答は、次のようなものです。「イエスが死者の中からよみがえったと信じることは、通常は変えようがないと思われることに対して、少なくとも判断を控えることである。もっと肯定的に言うなら、そんなことは起こらないという世界観を入れ替え、創造者である神がイスラエルの伝統を通して知らせようとしたことが、いまやイエスにあって、ついに完全なかたちで実現したという考え方を受け入れ、その視点からすれば、イエスのよみがえりはまったく理にかなっている、と認めることである。」(163頁)同時に、多くのクリスチャンの誤解に対して、復活が「死後のいのち」ではなく、「『死後のいのち』の後の『いのち』」であるとも指摘します(164頁)。更に、「天と地」についての選択肢<1>や<2>ではなく、選択肢<3>によって復活を見ることが妥当であることを指摘し(165頁)、次のように記します。「イエスがよみがえられたとき、神のすべての新しい創造が墓の中から現れ出て、この世界に新しい潜在力と可能性に満ちた世界を導き入れたのである。」「イエスが墓の中から立ち上がり、出てきたとき、義と、霊性と、関わりと、美が、イエスと共に立ち上がったのである。イエスの内に、またイエスを通し、何かが起こり、その結果、世界は異なった場に、すなわち天と地が永遠に結びつく場となった。」(166頁)

章の終りに、イエス様の神性の問題が議論されます。読み進めていた手を止め、「ライトはイエス様の神性を否定しているのか」と考えましたが、落ち着いて読めばそうではないと分かりました。ただ、イエス様ご自身の自覚において、受肉の理解を深めたものと言えるかと思います。「この点でも多くのクリスチャンは間違った方向に進んだ。イエスがその生涯の間、自分が『神である』ことに『気づいていた』というのである。」(169頁)まさにそのように読んできた私にとって、クエスチョンマークがついたわけですが、ライトは次のように説明します。「寒いか温かいか、うれしいか悲しいか、男か女かを私たちが知るのと同じように知っていたとは思えない。むしろ私たちが、自分の使命と結びつけて考える『知識』のようなものだったろう。それは、自分の存在の深みで、ある人が芸術家、技術者、哲学者に召されているのを知っているのというような意味である。」(170、171頁)このような理解は、私にとってはなじみのないものであっただけに、今後、吟味していきたいと思います。

第9章、第10章は、聖霊に焦点を当てた章です。第9章「神のいのちの息」は、ペンテコステの日の出来事についての「使徒の働き」の描写から、風と火、及び新しい命をもたらす鳥のイメージがあることを指摘する所から始まります。そして、使徒1:7-8を引用しながら、聖霊と教会の務めが切っても切れない関係にあることを指摘します。ここでライトは、聖霊が与えられることには、個人に多くのものをもたらすことを否定しませんが、主たる目的が福音の宣教にあることを示唆します。

続く「神の霊なしに教会は教会でありえない」(175頁)との一文をきっかけとして、ライトは、「教会」という存在について言及します。現在、この言葉に否定的イメージがつきまとっていることを率直に認めつつも、次のように書きます。「聖霊が与えられていることで、普通のはかない存在である私たちが、イエス自身がそうであったものに幾分かでも近づくことができるのである。すなわち、神の未来が現在に到来している部分に、天と地が合わさっている場に、神の王国が前進していくための手段に、近づくことができる。」(177頁)

続いて、ライトは、「聖霊が与えられたのは、神の未来を現在に現実化する働きを始めるためである」(177頁)と言い、神の未来の保証としての聖霊に言及します。アラボーンの意味合い、聖霊が「受け継ぐこと」の保証と呼ばれていることが言及され、出エジプトから約束の地に向かうテーマが描かれていることを指摘します。ここでライトは、「受け継ぐもの」、すなわち「約束の地」とは、肉体から離脱した天国ではなく、世界の再生であることを指摘します。「いつの日かやがて、造られたものすべてが奴隷状態から救い出される。また、美を損なう堕落と腐敗と死から、関係の破壊から、神の臨在の喪失から、さらには、世界を不正と暴力と残虐の場とすることから、救い出される。これこそが、救出、『救い』のメッセージであり、パウロが書いた中で最も偉大な章の一つである『ローマ人への手紙』第八章の核となるものである。」(180頁)未来が現在に到来し始めているとは、「イエスに従う人々、つまり、イエスはこの世界の真の主であり、死者の中からよみがえった方であると信じ、認める人々には、新しい世界がどのようなものかを前もって味わうために聖霊が与えられた、ということである」と説明します。(180頁)このような論述を振り返りつつ、クリスチャンが「生ける神の宮、神殿」とされているとのパウロの言葉を指摘します。(181頁)

更に、ライトは、「神の未来を現在にもたらすお方」としての聖霊と共に、「天と地を結びつける方」としての聖霊を説明します。ここで、再び「天と地」についての理解の三つの選択肢について言及し、「新約聖書が聖霊について語っていることを理解する枠組み」として適切なのは、選択肢<三>であると指摘します。(184頁)「聖霊がみずからの内に宿っている人はすべて、神の新しい宮、神殿である」ということは、言い換えれば、次のように表現できると言います。「その人たちは、個人としても共同体としても、天と地が出合っているところなのである。」(184頁)現代の教会が、「一致」と「きよさ」の点で大きな問題に直面していることを著者は指摘しつつ、「このことのゆえに、聖霊についてパウロが伝えようとした教えを、もう一度とらえ直す必要がある」と指摘します。(185頁)

第9章が、聖霊がクリスチャンたちを生ける神の宮としていること、すなわち聖霊が神殿を成就するお方である点に焦点を当てたとすれば、第10章「御霊によって生きる」は、聖霊が旧約聖書の他の三つのテーマを成就するお方であると指摘します。すなわち、律法、ことば、知恵です。特に律法の成就は、「神の神殿として聖さが求められるという驚くべき召命」とも関わっており(186頁)、「律法は神殿のように、天と地が出合う場の一つ」であると指摘されます。(187頁)もちろん、律法の成就は「恐ろしく難しいように聞こえる」課題ですが、「聖霊によってトーラー(律法)が成就されることは、『使徒の働き』第二章のけるペンテコステ(五旬節。五十日目という意味)の驚くべき記述の底流にある主要テーマの一つである」と言います。(188頁)イスラエルの出エジプトの出来事において、過ぎ越しから50日後にシナイ山に到着し、律法を授けられたからです。従って、「復活してから五十日後、イエスは神が臨在する『天』に上げられたが、モーセのように、ふたたび天から降りてきて、新しい契約が与えられたことを確証し、石にではなく人の心の板に生きる道を記された」と言います。(188-189頁)すなわち、聖霊は律法の成就者です。この後、神の言葉についての約束を成就し、神の知恵をもたらすお方としての聖霊についても短く説明しています。

聖霊が本書の初めで取り上げられた四つの問い、「義、霊的なこと、関わり、美に対する答えを提供する」と指摘します(193頁)。それと共に、クリスチャンの霊性については、「神への畏敬と尊厳という感覚と、神の親しい臨在という感覚が結びついている」こと(194頁)、「ある程度の苦しみが伴っている」こと(195頁)が指摘されます。最後に、三位一体の教理を単に「賢い知的な言語ゲームとか、心理ゲーム」のように受け取るのでなく、「愛のゲーム」として受け取るべきこと、すなわち、「父と子と聖霊との間で絶えず行き来している愛」に聖霊によって招かれ(198頁)、「私たち自身も、私たちの内にある神の愛に満ちた生活にあずかる」よう勧められます。


第三部「イメージを反映する」の内、最後の章を除く四章は、クリスチャン生活の具体的なあり様について、深い理解を与えようとするものです。第11章「礼拝」は、『ヨハネの黙示録』4、5章に描かれた天上での礼拝の情景描写から始まります。真の礼拝とは、このような「天において、神のおられるところで、つねになされている礼拝」に加わることであると指摘されます。(208頁)「あなたが礼拝するもののようにあなたはなる」という指摘も示唆に富んでいます。(210頁)礼拝プログラムの一部とされている「聖書朗読」について、「二、三箇所の聖書の短い朗読は、部屋の反対側から見る窓のようなもの」との説明は印象的です。(214頁)「パンを裂くこと」については、「十字架にかかり、墓からよみがえったイエスと一つになる。」すなわち、「過去と現在が結びつく」こととして、更に、「神の未来が現在に入り込む重要な契機の一つとして」説明します。(219頁)ライトは、礼拝や聖礼典についての果てしない議論の数々があることに言及しながら、「天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと聖霊にあって一つとなるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられる」との信念を表明します。(222頁)

第12章「祈り」は、「主の祈り」についての説明から始まります。「神の王国が天にあるように、地にも実現するようにと祈る」という、主の祈りの核心を指摘します。(226頁)主の祈りとイエス様がなさったこととの深い関わりを指摘し、「この祈りを唱えると、天と地を生きるイエスの生き方に私が引き込まれていくのが分かる」と言います。(227頁)「私たちは、天と地、未来と現在が衝突し、地殻変動で地鳴りのするプレート上の小島に幽閉されているようなものだ」と言いつつ、天と地の狭間で祈ることが容易ならざることであることを示唆します。(229頁)しかし、それゆにこそ、クリスチャンの祈りは、「聖霊によって、神みずからが、世界の真ん中からうめいていること」と示唆します。この困難な働きの助けとなるものとして、「祈祷書」の有効性を指摘するのは、英国国教会の主教を務めた人として自然なことなのでしょう。それと共に、「大切なことは始めることである」と言い(242頁)、祈りの課題をリストにしたり、聖書の約束を思い起こしながら祈ったりすること、人によっては異言の祈りや沈黙の祈りさえ有意義であると言い、幅広い祈りのあり方を示唆します。

第13章「神の霊感による書」は、聖書がそもそもどんな書であるのかを取り扱います。旧約聖書や新約聖書の「構成、集大成、普及の歴史」(254頁)を簡潔に紹介した後、「決定的に重要なこと」として、「神の霊感とは?」という問題を取り扱います。(255頁)様々に議論が重ねられてきたこの問いに対しても、著者は「選択肢<三>が解決を与えてくれる」と主張します。(256頁)すなわち、聖書を「天と地が重なり合い、かみ合っている接点の一つ」と見る見方を提案します。(257頁)「聖書の著者、編纂者、編集者、収集家も、それぞれ異なった人格、スタイル、方法、志向性を持ちながらも、契約の神の特別な目的のために用いられた」とします。(257頁)ここでライトは、ひと世代前によく言われたような見方を否定し、「聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきた」と指摘します。(258頁)但し、聖書は単に正しい情報の伝達を目的とするのではなく、「この地で神のわざを果たすために神の民を形造る」という目的を持つことを指摘します。(第2テモテ3:16-17、258頁)「無謬」「無誤」の用語を用いることにより、聖書そのものから人が引き離されることについては警戒の姿勢を示します。ライトはこの章を、次のような言葉で締めくくっています。「聖書は、神の民を整え、神の王国で神のわざを果たすためにある。自分は神のすべての真理を把握しているとふんぞり返り、自己満足に浸らせるためではない。」(260頁)

第13章が聖書がどんな書であるのかを扱うとしたら、第14章「物語と務め」は聖書をどう読むかを取り扱います。まず、「聖書には権威がある」ということの意味合いが論じられます。「救いの計画の権威ある記述というような単純なものではない。聖書自体が、救いの計画そのものの一部なのである。」(262頁)と言い、「聖書の権威は、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。」(262頁)と言います。ここでの「物語」は、単に筋道のあるお話というものではなく、語られることにより聞く者の生き方をその物語の中に招くような種類のものとして考えられています。従って、「『聖書の権威』に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。」と言います。(264頁)

ここで再び、聖書を読むということについて、「天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである」と言われます。(265頁)すなわち、「私たちが聖書を読むのは、神が私たちに、私個人に、いまここで、今日、語っていることに耳を傾けるためである。」と言います。(265頁)それは神秘的なことではあるけれども、「それが起こることは、歴史をとおして何百万人ものクリスチャンが証ししてきた。」と言います。(265頁)そのための具体的助けとして、祈り深く聖書を読むこと、過去や現在のクリスチャン仲間の意見を参照することなどが示唆されます。聖書のことばから神の声を聞くということには誤りの混じるリスクが伴うことを示しつつも、それこそが「天と地の交差した場で生きるということである」と言います。(267頁)

この章の終りでは、聖書解釈のかなりやっかいな問題を扱っています。ここで著者は、「字義的」と「比喩的」とを単純に二元論的に対比して考えることにかなり強く反対しています。

第15章「信じること、属すること」は、言わば信仰への招きが語られている章です。「キリスト教入門」としては最重要の章とも言えます。ただ、ここでの招きは、個人的なものというより、「属すること」に焦点が置かれています。ですから、章の前半は再度「教会」について語られます。あらゆる民族から集まる川のような教会、同時に、一粒の種から四方に伸びる木のような教会、神の民という家族としての教会、宣教(ミッション)を存在理由とする教会に属するとは、どういうことなのかと問います。

まず、ライトはそれを「目覚め」として描きます。急激であったとしても、ゆっくりであったとしても、目覚めることだと言います。(エペソ5:14)「福音、すなわち創造者である神がイエスにおいて実現したことの『よき知らせ』」に対する「最初にして最も適切な反応は、信じることである」と言います(291頁)。「信じる」とは、「神が確かにそのことを行ったと信じること、それをなし遂げた神を信じることとの両面」があると指摘します(292頁)。また、信仰への招きには、「赦しへの招き」の要素があり(292頁)、同時に、「服従への招きでもある」と言います(293頁)。それはまた悔い改めを伴うものでもあることを指摘します(294頁)。このような信仰こそが、「クリスチャンのしるしであり、唯一身に着けるバッジである」と言い(294頁)、「そしてこれこそが、聖パウロが『信仰義認』について語るときに意味していることである」と言います(295頁)。「クリスチャンとしての信仰を持つ人たちは、その先駆けとして『義とされる(正される)』が、それは彼らを、創造のすべてに対して神がなそうとしていることの一手段とするためでもある」と言います(295頁)。この信仰を持つに至ったとき、「あなたの存在の深いところのどこかで、いままでになかったいのちが動き出す」と言います(296頁)。

ここでライトは再び、「母」と呼ばれる「教会」について語ります。まず教会は「コミュニティ、共同体」です。(297頁)教会の主要な目的は、「礼拝、交わり、そしてこの世界に神の王国を反映させていく働き」です。(298頁)教会の正しい機能のためには、小グループの役割が重要であることも指摘します。最後に、ライトは、水のバプテスマについて語ります。ライトは、バプテスマが「水を通して神の新しい世界へ」(301頁)「水を通してイエスに属する新しいいのちへ」(302頁)という物語を持つことを指摘します。この物語は神ご自身の物語であり、「バプテスマを受けることであなたは、その物語の中に、つまり神が脚色し、演出する劇の役者として導き入れられている」と言います。(303頁)役者として失敗があったとしても、「そのドラマに加わるほうがはるかによい」と言います。(303頁)

第16章「新しい創造、新しい出発」は、本書全体の主張をもとに「救い」をとらえ直すところから始まります。まず、「死んだ後天国に行く」ということについて、「まったく中心的なことではない」と言います。(304頁)「聖書の壮大なドラマは、『救われた魂』が天に引き上げられ、悪に満ちた地と、罪に引き込む死ぬからだから引き離されて終わりを迎えるというのではなく、新しいエルサレムが天から地に下り、『神の幕屋が人とともにある』(黙示録21・3)ところで終わるのである」と指摘します。(304頁)ここには、「天と地が重なり合うこと、神の未来が私たちの現在と重なり合うこと」(305頁)、「現在における新しい創造の開始」(306頁)というテーマが示唆されています。新約聖書が「復活への信仰」を強調していることも指摘され、それは、「死後のいのち」を越える「死後のいのちの後のいのち」であると指摘します。(306頁)「この世界を見捨てることは神の計画ではない」とも指摘し、「神の新しい世界」が備えられ、神は「神の民のすべてを新しいからだでよみがえらせ、そこに住むようにされる」と言います。(307頁)イエスの「再出現」は、「ヴェールが引き上げられ、地と天は一つとなる」ことだと言われます。(307頁)「これこそがまさに、クリスチャンの描く『救いのヴィジョン』である」と言います。(308頁)

次にライトは、このようなビジョンを抱きつつ、どのように現在を生きていけばよいのかを扱います。それは、「天と地の狭間で生きる」ことであり(308頁)、「人間としての新しい生き方であり、イエスによって形づくられる人間としての生き方、十字架と復活の生き方、霊に導かれた道である。それは、やがて神がすべてを新しくして私たちのものとする、はるかに豊かな、喜びに満ち溢れた人間のあり方を、いまここで先取りする生き方である」と言います。(311頁)この旅には、特に二つの点が含まれることを指摘します。「それは放棄であり、他方では再発見である。」(312頁)著者は、このことが容易なことではないことを認め、「一方で二元論を避け、他方で異教を退ける」という課題があることを指摘します。(314頁)この課題に取り組むために、「不屈の精神力と注意深い知恵の探求」「聖霊の導き」「聖書に見いだす知恵」「バプテスマの事実とそれが意味するすべて」「祈り」「他のクリスチャンとの交わり」が助けとなることを示唆します。(314頁)

最後に、著者は、「クリスチャンの福音が生みだし、それを支える霊的なこと(スピリチュアリティ)については、それなりの長さを費やして語ってきた」として、「他の三つの『響き』、すなわち義と関わりと美」について取り上げます。(316頁)第一に、義との関わりでは、「和解と修正的正義のために労すること」(319頁)といった具体的取り組みを含め、「クリスチャンは、全人類が望んでいるこの義、イエスを通して新鮮で意外な仕方でこの世に勢いよく注がれた義を精力的に推進し、追求していくべきである」と言います。(320頁)第二に、「関わり」については、これが人間生活の中心であり続けるであろうことを指摘した上で、「積極的な親切」、「怒りにどう対処したらよいか」(321頁)、「私たちの心の底にある欲望」が「洗いきよめられ、癒される必要」(327頁)、「謙遜」(329頁)について触れます。第三に、美との関連では、「創造の中にかいま見える美は、より大きな全体の一部として見るときに最もよく理解できる」と指摘すると共に(330頁)、教会が芸術や演劇などを新しい視点で作り上げることが提案されます。

本書の最後は「いますでに始まっている新しい時代の仲介者、先駆者、世話人としての私たちにふさわしい、最も人間らしい役割を、聖霊の力によって引き受けようではないか」との勧めで締めくくられます。(334頁)

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19章 その1

2015-06-20 14:52:24 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


[最後の章は「結論」と題され、これまでの研究結果の総括が述べられます。]

この研究で我々はクリスチャンの回心―入信式に含まれる三つか四つの要素と三つの関係者があることに気付いた。これらの要素と関係者のそれぞれは、キリスト教の三つの主要な流れに特徴的な強調点であると言われうる。カトリックは教会と水のバプテスマ(と按手)の役割を強調する。プロテスタントは個人と宣教及び信仰の役割を強調する。ペンテコステ派は御霊のバプテスマを与えるお方としてのイエス・キリストと御霊のバプテスマの役割を強調する。

カトリックの教義は何世紀にもわたる自然な発展であった。御霊がより経験の問題ではなくなり、信仰の対象となっていったとき、モンタニストの行き過ぎ(と正典の完結)の結果として直接的な霊感が疑わしくなったとき、回心―入信式の最も実体的で公的な要素がなお一層注意の焦点となることも当然であった。信仰と御霊は統制され得ないが、水のバプテスマは統制されうる。そこでは、コントロールがなされうるし、秩序が維持されうる。御霊はますます「教会」に限定されるようになり、事実上「教会」が御霊より上に立つまでになった。どの点から見ても事実上御霊は教会の所有物となり、御霊の賜物は儀式行為に結び付けられ、それによって決定づけられ、御霊を授ける権威は監督に制限されるようになった。何世紀にもわたり、この礼典的教義はますます魔術的になり、回心―入信式は水のバプテスマに焦点づけられるどころか、全くそれと同一視され、西方教会ではずっと遅れた「残り半分」である堅信礼と同一視されるようになった。

この極端な礼典主義と司祭制主義に対抗してプロテスタントは反応し、その反応の中で強調点は水のバプテスマから宣教と個人的信仰に移動し、権威の中心は教会よりもむしろ聖書に置かれるようになった。多くの者にとってこのことは重点を信仰、すなわち水のバプテスマとは区別され、それ以前のものとしての信仰に置くことを意味するようになった。信仰は宣教の役割と共に高調され、水のバプテスマの役割は引き下げられた。しかし御霊は目立つ場所に戻らなかった。それは主にプロテスタントのアナバプテスト主義に対する疑いと嫌悪による。御霊は信仰とすべてのよきわざを生む者であり、使徒時代における御霊の現われの現実性は受け入れられたが、御霊の賜物についてはそれほど語られず、賜物(カリスマタ)は使徒と共に止んだと考えられた。スコラ的プロテスタント主義において、御霊は事実上聖書に従属するものとなり、聖書は恵みと霊感の主要な手段として礼典に取って替わった。カトリックは礼典の客観性にしがみついたが、プロテスタントは聖書の客観性にしがみついた。御霊は救いのみわざにおいて主要な参与者とみなされたが、聖書から離れて経験されることはほとんどないものとされた。「聖書のみがプロテスタントの宗教である」、そして、回心は本質的に信仰による義認だけであるとされた。

初期の「熱狂主義者」のように、ペンテコステ派はこれら両極端に対して反応した。極端なカトリック主義の機械的礼典主義や極端なプロテスタント主義の死せる聖書主義的正統主義に対して、彼らは注意の焦点を御霊の「経験」に移した。我々の新約聖書証拠の調査は彼らがこの点において全く正しいことを示した。御霊、特に御霊の賜物が、最初期のクリスチャンの生涯においては「経験的事実」であるということは、あまりに明らかであって、詳述を必要としない(例:使徒2:4、4:31、9:31、10:44-46、13:52、19:6、ローマ5:5、8:1-16、第一コリント12:7、第二コリント3:6、5:5、ガラテヤ4:6、5:16-18、25、第一テサロニケ1:5、6、テトス3:6、ヨハネ3:8、4:14、7:38、39、16:7―御霊の臨在はイエスの臨在よりもよいであろう。)新約聖書記者が御霊の賜物やその経験に直接的に言及している言語に出くわすとき、自動的にそれを礼典に結び付けたり、そうすることによってしかその言語に意味を与えることができなかったり(第一コリント6:11、12:13、第二コリント1:21、22、エペソ1:13、14、テトス3:5-7、ヨハネ3:5、6:51-58、63、第一ヨハネ2:20、27、5:6-8、ヘブル6:4)、本質的に聖書の命題の肯定である信仰を好んで、描かれている経験をあまりに主観的、神秘的なものとして割引して聞いたり、御霊を実体のないものとして心理学的に説明したりするのは、我々自身の直接的御霊経験の貧困の悲しむべき注解書となっている。

新約聖書におけるこの点での強調を回復しようとするペンテコステ派の企ては大変称賛されるべきであるが、二つの不幸な側面を持っている。第一に、ペンテコステ派は御霊のバプテスマを(水のバプテスマによって表現される)回心―入信式の出来事から切り離し、御霊の賜物を回心後に続く経験とする点でカトリックに従ってきた。これは、新約聖書の教えに全く反している。ルカとパウロによれば、御霊のバプテスマはクリスチャンになることに続く何かでもなければ、クリスチャンになることと区別されるものでもない。加えて、使徒(あるいは監督)だけがもたらすことを望みえる何かでもなければ、使徒の時代に一度か二度だけ起こる何かでもない。御霊の賜物は回心の前提として回心の前に置かれようと、単に力を与えたり、確証を与えたりする賜物やカリスマ的賜物として回心後に置かれようと、回心から切り離されてはならない。御霊の賜物(御霊のバプテスマ)は、回心―入信式における顕著な要素であり、実際、新約聖書においては回心―入信式の最も重要な要素であり、焦点にあるポイントである。それは救いの恵みの賜物であって、それによって人はクリスチャンの経験と命に入り、新しい契約、教会に加わる。それは最後の分析では人をクリスチャンにするものである(例:マルコ1:8、使徒11:16、17、ローマ8:9、10、第一コリント12:13、第二コリント3:6、ガラテヤ3:3、テトス3:6、7、ヨハネ3:3-8、20:22、第一ヨハネ3:9、ヘブル6:4)。そのように御霊が教会の最初期に命を入れたとき、御霊はその到来を賜物(カリスマタ)によって表わし、その臨在を(証しする)力によって表現するのが通常ではあるが、これらは御霊の主要な目的の系に過ぎない。その主要な目的とは、信仰の段階を踏んだ(πιστευσασ)人の「油注ぎ(christing)」である。

ペンテコステ派の第二の間違いは、信仰を水のバプテスマと区別した点でプロテスタントに従ったことである。彼にとって回心は、御霊が産み出す信仰であり、その信仰は「イエスを受け、あるいは受け入れる」に至る。その結果、人は水のバプテスマ以前にクリスチャンとなるのであり、水のバプテスマはほとんど過去のコミットメントの告白以上のものではない。これは、現在のバプテストの実践と調和しているが、新約聖書のパターンとは調和しない。新約聖書記者は、信仰の決定的動き(πιστευσαι)がバプテスマから切り離されることを拒む。信仰の行為をバプテスマの前に置き、バプテスマを単なる象徴に減ずることによってであろうと、信仰の行為をバプテスマの後ろに置き、バプテスマを人の知識や承認なしに人に働く神の力の手段に高めることによってであろうと。新約聖書のいて適切になされたバプテスマは、本質的に信仰と悔い改めの行為であり、それなしには通常主なるイエスへのコミットメントが必要な表現に至らないという、救いに至る信仰を達成するものである。御霊が救いをもたらす恵みの手段であるように、バプテスマは救いをもたらす信仰の手段である。

このように、回心―入信式における御霊の賜物の卓越性と中心性を主張することによって、我々は水のバプテスマに適切な新約聖書的役割をそれ以上でもそれ以下でもない形で与えることができる。すなわち、神が御霊を与えるところの信仰の表現としてである。まず「バプテスマ」を回心―入信式の手軽な表現として用いることの拒絶は十分正当化されている。新約聖書におけるβαπτισμαやβαπτισμοσは単純に水の儀式を意味し、そのきよめる効力は体以上には届かない(マタイ3:7、マルコ7:4、ルカ3:3、ヨハネ3:25、エペソ4:5、ヘブル6:2、9:10、10:22、第一ペテロ3:21。ローマ6:4、コロサイ2:12も参照。それはただ一度比喩的に用いられている―マルコ10:38、39、ルカ12:50)。βαπτιζεινやβαπτιζεσθαιは文字通り(水で)バプテスマを施すことか、比喩的にバプテスマを施す(御霊によってキリストの中に、苦難の内に師の中に)ことを意味するのであって、決して同時のその両方の意味を持つことはない(マタイ3:11、マルコ1:8、10:38、39、ルカ3:16、12:50、ヨハネ1:33、使徒1:5、10:47、11:16、ローマ6:3、第一コリント10:2、12:13、ガラテヤ3:27)。新約聖書記者は、たとえば「(バプテスマの)しるしがその意味するところのものに等しい、あるいはその意味するところのものを働かせる」とは決して言わない。御霊のバプテスマと水のバプテスマは区別されたままであり、対置的でさえある。後者は前者の準備であり、信仰者が実際に前者を受ける信仰に至るための手段である。再び、バプテスマについての「神あるいはキリストのみわざ」とするOepkeの言葉は、彼が御霊のバプテスマを意味しているのであれば正しい。彼が水のバプテスマを意味しているのであれば、それは間違いである。新約聖書には第三の選択肢はない。

(「礼典的原則」や「礼典の教えへの受肉の土台」についての記述省略)

もし新約聖書が我々のルールであるとするなら、水のバプテスマの儀式は回心―入信式において中心的役割を与えられ得ない。それは御霊がもたらす霊的きよめを象徴し、古い命との断絶の結果を象徴する。それは信仰への鼓舞であり、コミットメントを必要な表現に至ることができるようにするものである。それは地域のクリスチャンや世界代の教会の代表としての会衆による受容の儀式である。しかし、そうでなければそれは恵みの管ではない。また、御霊の賜物も御霊がもたらす霊的恵みのどんなものもそれによって推論されえず、それに帰せられ得ない。新約聖書におけるクリスチャン生涯の始まりに呼び戻すことは、ほとんど常にバプテスマを呼び戻すことではなく、御霊の賜物を呼び戻すことであり、あるいは、その到来がもたらす霊的変容を呼び戻すことである。

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5章 その6

2015-06-14 14:50:29 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

第5章「サマリヤの謎」additional notesは、使徒行伝におけるフレーズの用い方の面で、二つのテーマを扱っています。

第一の、聖霊に関わる表現については、冠詞があるかどうかに神学的に重要な差異はないという著者の見解は妥当なものと思います。

第二の、聖霊の到来に関する表現については、まず、これだけまとまった形でまとめられていることが有難く思います。極めて基礎的な問題ではありますが、時にはこのあたりのことが神学的判断に微妙に、時には重要な形で関わってくることがあるので、押さえておくべきところだと思います。

「聖霊に満たされる」という表現が、同じ人物に対して何度でも使われるものであるという見解について、著者はそれが大方のペンテコステ派の見解であると言います。例外的な見解として、Ervinの見解が紹介され、著者は「4:31についての彼の取り扱いはむしろいくらか不自然でひねくれた解釈を含んでいて、受け入れられない。」と言い、その見解を退けています(70頁)。こうして著者は間接的に、「聖霊に満たされる」という表現が、同じ人物に対して何度でも使われるものであるという大方のペンテコステ派の見解に賛同していることになりますが、この点は、私もその通りだろうと思います。

聖霊の到来に関する7つのフレーズが、少なくとも使徒行伝においては、同じ聖霊到来の経験に対する表現となっているという著者の指摘はその通りだと言わざるを得ません。ただ、著者が少なくともこのノートで指摘していないように思われる点で、なお検討課題として残ることが三点ほどあるように思われます。

一つは、「聖霊によってバプテスマを授ける」という表現がなぜ用いられたのか、という問題です。これは、著者が福音書と使徒行伝の検討の中で触れられていてもよさそうですが、実際には著者自身は、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを対照的に捉えようとする視点が強く、なぜ両者が共通の言葉で表現されているのかについては、特にまとまった説明がなされていないように思われます。

第2章で、バプテスマのヨハネを取り上げるに当たっては、著者の検討の順序として、(1)聖霊のバプテスマ、(2)ヨハネの水のバプテスマ、(3)クリスチャンのバプテスマという順序でした。すなわち、そこではヨハネの水のバプテスマはあくまでもキリストによる聖霊のバプテスマに対する予備的な儀式であるという主張が中心でした。従って、両者共通に「バプテスマ(を授ける)」という言葉が用いられている理由については、あまり説明されていないように思います。

それ以前に、「バプテスマ」という言葉については、第1章で「回心―入信式」という表現について説明する中で、比較的詳しく取り上げられています。そこでの説明は、「『バプテスマ』という表現は、らせん状の構造を持った表現であって、実際に水に浸す行為を表すこともあれば、その意味が儀式を越えて、『回心-入信式』の諸儀式や構成要素をより大きく含むものとして拡大させられることもあります。」というものでした(5頁)。この説明からすれば、著者は『バプテスマ』という表現の最も基本的な意味は、「水に浸す行為」であり、「儀式」としてのものであると考えていることになります。

このような説明の仕方から、この点についての著者の見解をある程度推論することができます。すなわち、ヨハネが自らによる水のバプテスマとキリストによる聖霊のバプテスマを対比して語ったとき、既に「水に浸す行為」が「儀式」として定着していたという前提があるのではないでしょうか。旧約聖書ではきよめの儀式についての言及はあっても、入信の儀式としての「水に浸す行為」への言及はありませんので、バプテスマのヨハネの直前、ある種のユダヤ教グループに同類の入信儀式があったということかもしれません。そういう前提で、ヨハネが自らの水のバプテスマに対比してキリストによる聖霊のバプテスマを予告したのだとすれば、確かにそれは入信儀式としての水のバプテスマと同様に、真の神の民に加えられるためのキリストご自身によるきよめのわざとして理解することが妥当ということになります。但し、これは著者によるわずかながらの説明から推論した説明ですので、本当に著者がそのように考えているのかどうかも定かではありません。

聖霊の到来に関して「聖霊によってバプテスマを授ける」という表現が用いられた理由が何なのか、上記のような理解でよいのかどうか、もう少し掘り下げて調べてみたい気がします。

二つ目のことは、他の6つの表現が「ただ一つの御霊の到来」をさすと考えられるのに対して、「聖霊に満たされる」という表現が同じ人物に対して何度でも使われるものであるということの意味を考える必要がある、という点です。この表現が「ただ一つの御霊の到来」においても用いられつつ、同時に同じ人物に繰り返し用いられていることを著者自身認めています。しかし、そのことの意味を掘り下げて検討するよりは、ペンテコステ派内の特殊な見解としてのErvinの見解を退けるために、そのことを指摘するのみです。しかし、状態としての「聖霊に満たされている」ということではなく、経験としての「聖霊に満たされる」ということが同じ個人に繰り返される、しかも、この表現が「ただ一つの御霊の到来」においても用いられるものである、ということの神学的意味をもう少し考えてみてもよいのではないかと思います。

三つ目に、このadditional notesは、使徒行伝における表現研究としてまとめられているので、ある面、当然なのですが、これらの表現がパウロその他の新約聖書著者たちによって、どの程度共通に用いられているのかについては触れられていませんし、本書の他の箇所でもまとまった説明・検討はなされていないように思います。この点は、このテーマについての新約聖書の教えを総合的に考える際には、確認しておくべき点になるかと思います。

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花の日

2015-06-14 14:40:29 | 教会便り

今年も教会学校で、警察署と消防署に花束のプレゼントを持っていきました。

警察署では、恵があいさつを読み上げました。結構、堂々としていたかも?

消防署では、消防車に載せてもらって、皆大喜び。

その間にも救急車が発車したりと、

日頃のお働きぶりを垣間見ることもできました。

子ども20人弱の参加で、楽しく行って帰ってくることができました。

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5章 その5

2015-06-07 20:23:33 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


[第5章「サマリヤの謎」additional notesの続きです。]

2.使徒行伝において御霊が来ることを表現するためにルカによって用いられるフレーズ

(a)βαπτιζεσθαι εν πνευματι αγιω(聖霊によってバプテスマを受ける、1:5、11:16)
(b)(επ)ερχοεσθαι το πνευμα αγιον(聖霊が臨む、来る、1:8、19:6)
(c)πλησθηναι πνευματοσ αγιου(聖霊に満たされる、2:4、4:8、31、9:17、13:9、52(επληρουντο))
(d)εκχεεν απο του πνευματοσ(霊を注ぐ、2:17、18、33、10:45(εκκεχυται))
(e)λαμβανειν πνευμα αγιον(聖霊を受ける、2:38、8:15、17、19、10:47、19:2)
(f)διδοναι πνεθμα αγιον(聖霊を与える、5:32、8:18(διδοσθαι)、11:17、15:8)
(g)επιπιπτειν το πνευμα το αγιον(聖霊がくだる、8:16、10:44、11:15)

私は10:38-χριειν πνευματι αγιω-を含めない。なぜならそれはイエスへの御霊の注ぎであって、ペンテコステ後の御霊の受領ではないからである。

使徒行伝では、7つの異なる動詞フレーズが27回使われている。おそらくほとんどのペンテコステ派の人々は御霊のバプテスマについての言及が23回であると言うであろう。なぜなら、三番目のフレーズは一度より多く同じ人に対して使われるからである(例:Riggs63頁、Prince68、69頁)。Ervinは、主要な例外である。彼は御霊のバプテスマの鍵となる表現としてπιμπλημι(満たす)に注意を集中し、御霊に満たされることは一度限りの経験であると議論する。4:31を彼はペンテコステの日に回心した3000人についてのみ関連付ける。彼らはその時まで御霊を受けなかったのだと言うのである!4:8、13:9を彼はペテロとパウロの以前の御霊のバプテスマについて戻って関連付ける(πλησθεισ―満たされていた)。13:52を彼は弟子たちが喜びと聖霊で次々に満たされたことを表わすものとして受け取る(59-67頁、71-73頁)。彼の13:52についての解釈は全く可能ではあるが(参照:8:18)、4:31についての彼の取り扱いはむしろいくらか不自然でひねくれた解釈を含んでいて、受け入れられない。4:31の「皆」は明らかにクリスチャン共同体全体を含み、特にペテロとヨハネを含んでいる。彼らは皆、実際4:24-30の祈りに参加していたのである。πλησθεισ πνευματοσ αγιου ειπενという表現について言えば、アオリスト分詞がειπενと共に用いられる場合、それはいつも話す行為の直前に起こったか、話す行為に先立つ行為または出来事を表現する(例:使徒1:15、3:4、5:19、6:2、9:17、40、10:34、16:18、18:6、21:11)。従って、4:8でその表現は、イエスが特別な場合のために約束しておられ、必要時を越えて継続する必要のない突然の御霊の霊感と力づけを表現している(ルカ12:11、12、εν αυτη τη ωρα)。ルカが過去の「満たし」によってもたらされる継続的な「充満」の状態を示したい場合、彼が用いる言葉はπληρησである(ルカ4:1、使徒6:3、5、8、7:55、11:24)

もっと通常のペンテコステ派の見解に戻ると、いくつかのコメントが求められる。第一に、これらの違ったフレーズのいくらかは同じ出来事を示すためにしばしば用いられる。7つのすべての表現がペンテコステの出来事のために用いられる(1:5、1:8、2:4、2:17、10:47、11:17、11:15)。サマリヤの出来事のために3つ、カイザリヤの出来事のために5つ、エペソの出来事のために2つである。このことはそれらのフレーズがすべて同じ御霊の到来を表現する等価な方法であることを意味する。その到来は、とても劇的で圧倒的な経験であるので、その豊かさと十全さを適切に表現する言語を見つけるためにルカのボカブラリーをほとんど使い尽くす。

第二に、これらの7つのフレーズは、御霊の到来を表現するためにルカが用いる唯一のものである。ルカはこれらのフレーズで表現される以外の御霊の到来を知らない。すべての鍵となる出来事において、ルカはより早い御霊の到来について何も言っていない。彼にとっては様々な方法で表現するただ一つの御霊の到来があるだけである。言い換えれば、ペンテコステ派が御霊の第二の区別される働きとして主張する23の表現のすべてにおいて、ルカにとっては御霊の最初の到来であるものをルカは表現していることになる。

第三に、六つの鍵となるフレーズのすべて又はほとんどを含んでいる二つの出来事(ペンテコステとカイザリヤ)は、その中で御霊の到来が回心とクリスチャン生涯の入口に最も明瞭に結び付けられているものである。たとえば、11:17のπιστευσασιν επιと
並行箇所15:8、9のδουσ το πνευμα το αγιον=τη πιστει καθαριασ τασ καρδιασ αυτωνについて考える(これらの出来事の十分な取り扱いを見よ。)用いられているフレーズの多様さとペンテコステとの並行の強調は、使徒10章の御霊の到来を単にカリスマ的現われととして解釈する便法を排除する。ペンテコステの御霊の到来がもとの弟子達のためのものであるのと全く同様、カイザリヤの御霊の到来はコルネリオと彼の友人たちのためのものである。(カトリックの見解に対する論議省略)

第四に、望みを一つか二つの鍵となるフレーズに置こうとして、6つの表現すべてを御霊のバプテスマの表現とする主張をあきらめることは、ペンテコステ派を助けないであろう。βαπτιζεσθαιは同じ二つの出来事(ペンテコステとカイザリヤ)で使われるのみであるが、比喩においても出来事においても明らかに入信的である(第一コリント12:13参照)。λαμβανεινは2:38で使われるが、そこでは御霊の賜物は16:31における救いの約束と同等である(ローマ8:15、ガラテヤ3:2、3、14参照)。επι動詞―(επ)ερχεσθαι、εκχεειν επι、επιπιπτειν―は、御霊の到来の劇的に力を与える影響力を最も示唆する(特に1:8に関して)ものである。しかしそれらは決して御霊の第二の区別された働きを意味するのではなく、単に最初の到来の劇的な性質を意味するものである(テトス3:3-5参照。御霊に関するパウロの(?)επι動詞の唯一の使用)

私は次のように結論する。すなわち、問題となっている23の用例において、これらの7つの異なったフレーズは御霊の異なった働きや経験を表わすのではなく(Unger,Bib.Sac101頁[1944年]233-6頁、484、485頁に反して)、同じ働きや経験―御霊の最初の入信的な、すなわちバプタイズする働き―の異なる側面を表わす。

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恵運動会

2015-06-06 15:45:05 | 恵便り

今日は恵の小学校の運動会。

昨日は午後から雨模様で、天候が心配されていましたが、

起きて見れば多少の雲は出ていましたが、結構晴れ渡り、神様に感謝しながらの参加。

縄跳び演技、恵は満点に近い演技で、私の子でないみたいでした。

午後のリレーは、頑張りましたが、4位で次の子にバトン、こちらは私の子らしく・・・。

教会の姉妹方も見に来てくださり、応援してくれました。

楽しい一日でした。

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