長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

最後の紅葉

2014-11-29 17:12:35 | 長田家便り

家族+1名で、最後の紅葉を楽しみに、しあわせの村に行ってきました。

桜の葉は散ってしまっていましたが、

モミジその他の紅葉は楽しめました。

三宮でのお食事は、待ち時間が長かった分、

おいしく感じたかも。

ゆっくりとした休日でした。

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看板塔工事終了

2014-11-28 21:08:44 | 事務所便り

事務所屋上の看板工事が無事終わりました。

老朽化激しく、強風時の破損、落下を防ぐために急遽行われた工事でしたが、

随分きれいになりました。

遠くから見ると、看板だけが新品で、

下の建物の古さが目立つ感じですが、

「神は愛です」と、

人々の心にとどきますように。

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今年もクリスマス飾り

2014-11-23 16:06:34 | 教会便り

教会では、今年も大掃除、そしてクリスマスの飾りつけをしました。

いよいよ来週からはアドベント、クリスマスシーズンを迎えます。

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14章 その2

2014-11-22 11:09:52 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

(この回をアップするのを忘れていました。)

【紹介編】

弟子たちの経験がユニークなものであるとする著者の指摘は、以下、4つのポイントで敷衍されます。

(a)

最初のクリスチャンたちにとってイエスの働きは時代区分の間の分岐点であった。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(1:17)。イエスはメシヤ預言、あるいはモーセや預言者の終末論的希望の多くを成就した(1:45、4:25、26、5:39、46、6:31-35、8:56)。彼は以前はなかった光輝をもたらし神の裁きを動き出させた(3:19等)。そうしながら、彼は救いの「時代」を変えた。その時以来、永遠の命は本質的に彼を信じるかどうかの問題となった(3:16-18、36、5:24等)―それは、以前には決してありえなかったことである。

(b)

この変化をもたらしたのは働き全体であった―その生涯だけでなく、特に死、復活、昇天であった―ということを理解することは大切である。ヨハネにとって救いをもたらす信仰は、挙げられたイエスへの信仰であった(3:14-16、12:32)。殊に、イエスが栄光を受けるまでは(死と復活において―7:39)、イエスより御霊を受けることはできなかった。その時はじめて彼を信じる者が、(永遠の命に至る水の泉となる生きた水である)御霊を受けることができるようになった(4:14)。言い換えれば、イエスの死と復活の後はじめて、ペンテコステ派の人々でさえも弟子たちを「純粋な回心したクリスチャン」(プリンス)と呼ぶことができるようになった。13:10、11や15:3で語られているきよめをどのように理解するとしても、それがクリスチャンの回心を意味しているとは受け取ることができない。

7:37、38の句読法は、よく知られた難問である。問題は、生ける水の川の源がイエスであるか、信者であるかをほとんど確実に決定するので、重要である。私の意見では、最も良い解釈は、イエスの言葉をこのように読むことである。

εαν τισ διψα ερχεσθω προσ με,(もし渇く者があれば、私の所に来なさい。)
και πινετω ο πιστευων εμε.(私を信じる者は飲みなさい。)
καθωσ ειπεν η γραφη...(聖書が言うように、生ける水の川が彼の腹から流れ出るであろう。)

(この句読法を支持する注解者等の列挙部分、省略)

言い換えれば、信者はイエスが栄光を受けたとき、イエスの体から流れる生ける水を飲むよう招かれている。

(c)

私が語ってきたことのすべては、20:22と、そこでヨハネがενεφυσησεν(息を吹きかけて)を使用していることによって、最も明らかに確かめられる。それは、創世記2:7、エゼキエル37:9、ソロモンの知恵15:11で人の創造を表現するために用いられており、死体であったはずのものに命をもたらす神の息(πνευμα―創世記2:7ではπνοη)であった。言い換えれば、ヨハネはイエスのわざを新創造として示している。すなわち、イエスは古い世界の創造者であるように、新しい創造をもたらす方である(1:3)。もしペンテコステ派が使徒が新生した瞬間を探そうとするなら、それをここにおいて初めて見つけることができるのであって、それ以前ではない。この時はじめて、新創造の霊的命(息)は彼らに手渡されたのである。

御霊についての節―3:5-8、4:10-14、6:63、7:37-39は御霊の命を与える働きについて語っているので、後の御霊の到来よりも20:22に関連付けられるべきである。この点は7:37-39に対して特に強調されなければならない。ペンテコステ派の解釈では、これらの節をクリスチャンが御霊を受けるようにとの招きとして見るからである(例:Roberts 25頁、Harper,Walk 16頁)。この解釈は上に示した句読法と解釈(省略部分)によって排除される。しかし、たとえ他の句読法が保持されたとしても、御霊を内住させ、あふれさせる信仰は、3:15、16、18、36、5:24、6:47、12:46、20:31に描かれているのと同じ行為―すなわち、最初の信仰のコミットメントである。39節の不定過去は38節の現在形を他の方法で解釈することができないことを示している。

7:39の当惑させるουπω ην πνευμα(直訳すれば、「御霊はまだなかった」)は、存在論的にではなく機能的に解釈されるべきである(4:24におけるように)。弟子たちの御霊経験に関する限り、20:22までは御霊はまだなかったのである。イエスが挙げられ、昇天して後はじめて可能になる御霊によるイエスとの関係を、彼らはまだ経験していなかったのである(Dodd 184頁、Barret,Gospel 324頁、H.F.Wodehouse,Theology 67[1964年]310-312頁)。

(d)

このことは、使徒たちがペンテコステ以前に新生していたとするペンテコステ派の基本的主張を実証するものではあるが、使徒たちの経験を今日の経験の定まったパターンとして、あるいは一つの可能なパターンとしてさえ、受け取ることを正当化するものではない。というのは、20:22は、弟子たちの経験が救済史の過程によって決定づけられているということを明らかにしているからである。神の開示された贖罪の計画は、受肉の結果、決定的な移行段階にあった。律法の古い時代区分は、(より十分な)恵みと真理の時代区分へと移行しようとしていた。救済史の一つの段階は他の段階へと変わろうとしていた。弟子たちはこの移行期に生き、その間、彼らの霊的経験は、各段階にふさわしく、可能なものに限定されていた。もし我々が時系列的枠組みにおけるヨハネの重要な出来事を使徒行伝に結び付けて理解するなら、時代区分の移行期は、もしイエスの生涯の初めからペンテコステまでというのでないなら、あるいは、その誕生からペンテコステまででないなら、少なくともイエスの死からペンテコステまで続いたと言わねばならない。我々が今十全なクリスチャン経験と呼ぶものは、昇天とペンテコステ後初めて可能になったのである。その時、「天からの助け主」は「天におられる助け主」に代わって啓示し始め、働き始めた。同様に、新生と新創造の経験は、神の小羊の罪を担う死と復活後初めて可能になった。同様に、きよめの経験は、受肉したロゴスが御父からもたらした「御言葉を通して」のみ可能となった(15:3、12:48-50、14:24、17:14)。言い換えれば、この時系列的枠組みにおいて、諸時代区分の間の移行期における三つの決定的に重要な出来事を区別しなければならない。すなわち、御言葉を伴う「言」の到来、このお方が十字架に挙げられたこと、そして、彼の昇天後αλλοσ παρακλητοσの派遣(14:25、26、15:26、16:7)。彼らがそれぞれの重要な出来事を過ぎると、その時初めて可能となったより十全な経験に彼らは入った。イエスの復活までは、彼らが神の再創造の息を経験することはできなかった。ペンテコステまでは彼らがペンテコステの御霊を経験することはできなかった。この移行段階を通しての彼らの経験はその時点で可能なものに限られていた。

(訳注:ここで著者は14:17「(その方=真理の御霊は・・・)あなたがたのうちにおられるからです」の部分についての議論を取り上げます。この箇所は、写本上の問題もある箇所で、εσται(未来形)となっている写本とεστιν(現在形)となっている写本があります。)14:17では、εστινがより難しい読みであるので、恐らくオリジナルの本文である(NEB、JB、TEV)。三つの動詞(知っている、住む、おられる)はヨハネが書いた時を反映しているか(Barrett、Gospel387頁)、13:6、27、33、14:3、15:27、20:17、21:23のように、現在形が未来に言及しているかである(Bernard 546頁、Lagrange 384頁、Sanders&Mastin 328頁、Moul'Idiom Book' 7頁)。7:39、14:16、20、23を見れば、イエスの言葉(三つの動詞すべて)は御霊が送られるまでは弟子たちに当てはまらない。また、この時点で御霊が彼らと共にとどまることと、御霊が彼らの中におられることとの間に神学的に重要な区別はないと思われる。

このことすべてによって示されているのはただ、この期間を通しての使徒たちの経験を今日の経験の可能なパターンとみなしたり、基準とみなしたりすることは不可能だということである。ペンテコステにおいて、移行期は終わる。救済史の古い段階は全く過ぎ去り、新しい段階が完全に動き始めたのである。この後ただちに、新しい次元の祝福に入った。それは、使徒たちにとってよろめかせられることではあったが。彼らの一連の経験は、その順序と深さが全くユニークで繰り返されない一連の出来事(ベツレヘムからペンテコステまでの)によって決定づけられており、ペンテコステ後の回心とクリスチャンの成長の通常の経験のパターンとはなり得ない。彼らの経験は、イエスの歴史的みわざに対する関係によって決定づけられているので、もしイエスが何度も生き、死に、よみがえり、昇るのでない限り、使徒の経験が後のキリスト教の標準として示されることはできない。もし御霊の賜物のための標準が要求されるのであれば、我々はそれをヨハネ20:22でも、使徒2:4でもなく、使徒2:38において見出すことができる。

要するに、ヨハネが確かに示しているのは、御霊のバプテスマを新生と等しくないと考えることは可能かもしれないが、それはただ使徒たちの場合においてだけである。この点における彼の神学的メッセージが示しているのは(ルカとパウロも確かに示しているが)、ペンテコステ以降、信じるものは御霊をきよめ、新しく生まれさせる、バプテスマ的な力、新しい時代の赦しと命をもたらす力において受ける。移行期が終わるとともに、ヨハネの神学的強調点はもはや必然的な時系列上のばらばらによって複雑化されず、命を与え力を与える御霊の働きについての神学的単一性は、同様に時系列的単一性ともなる。

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15章 その1

2014-11-22 11:07:25 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】


この章では、ヨハネ3:5に対する理解についての議論が扱われ、主に礼典主義者に対する反論が意図されています。議論はいくつかの段階を経て進められ、あまり細かい議論にばかり注意を集中すると、議論の流れが分からなくなる危険もありそうです。従って、この章については、議論の要約だけをご紹介し、議論の大きな流れをつかんで頂くようにしたいと思います。

○礼典主義者の議論(以下、同様の小見出しは私が内容に基づいてつけたもの。)

ヨハネは御霊がバプテスマの礼典を通して取り次がれるとの理解を私たちに与えているだろうか。ある者は3:5を自動的に考え、「そうだ」という答えがこの節で立ちもし倒れもすると考える。3:5にバプテスマへの言及を見るための主要な議論は以下のようなものである。

(a)ヨハネの礼典主義:6:51c-58と共に3:5は礼典的言及のもっとも明瞭なものとみなされる。

(b)ヨハネの最初の数章における「水」についてのほとんどテーマ的と言える繰り返しを見ると、3:5は福音書記者がクリスチャン・バプテスマをヨハネのバプテスマ(とおそらくはユダヤ人のきよめの儀式)と対照させて表現しているとしばしば言われている。

(c)最もしばしば与えられる理由は、クリスチャンが3:5を読めば入信の儀式が教会にもたらされたと考えないではいられないだろうということである。

○予備的考察

これらの議論を扱う前に、二つの予備的ポイントが考察されなければならない。

(1)

ヨハネの礼典についての理解全般(殊に3:5)の基礎として、6章にいくらかの注意が向けられなければならない。この会話を用いることにより、ヨハネは二つのポイントを明確にしたいと願っている。第一は、信仰は、実際に肉となり、実際に死なれたイエスを中心に置かれなければならないということ。(6:35、51c-58)第二は、永遠の命は栄光に挙げられた人の子によって与えられる御霊を通して来るということ。(27,63節)

主の晩餐への何らかの関心は偶発的なものである。ヨハネの主要な目的は、仮現論と戦うことである。

このことはヨハネが主の晩餐やイエスのバプテスマについて沈黙していることから推論したかもしれないことを確証する。すなわちヨハネは外的儀式に注意が向けられすぎないように、御霊が物質的要素に何らかの仕方で加えられたものとして考えられないようにということに、関心があるということである。

6章の対話において、ヨハネはイエスご自身が永遠の命の源であり本質であることを何よりも強調したいと願っている。贖いのみわざに至る受肉は本質的ではあるが、ヨハネにとって命を与えるのは、肉としてくだられたイエスであるだけでなく、昇られたイエスでもあって、その時イエスは御霊を通して、御霊にあって命を与えられる。

(2)

「水」は第4福音書においてしばしば言及されており、3:5はその概念のヨハネ全体の方法の文脈の中に置かれなければならない。関連個所を調べると、次のような重要な事実が現われる-1:26、31、33、2:1-11(4:46)、3:5、3:22-26、4:7-15、5:2-9、7:37-39、9:7、11、13:1-16、19:34。

第一に、ヨハネは「水」を二つの区別される方法で用いる。すなわち、対照の方法によってと同一視の方法によってである。1、2、3、5章では水は古い時代のものを表わし(予備的であること、欠乏、外的であること、助けにならないことにおいて)、イエスが新しい時代においてあたえるもの(御霊の賜物、ワイン、癒しに表わされる)と対照される。4、7、19章では、水は昇天において栄光に挙げられるイエスによって与えられる御霊の「比喩」である(ヤコブの井戸や仮庵の祭り(?)における古い時代の単なる外的な水と対照されて)。要約すると、ヨハネは水を下に属するものの「例」としてであるか、上に属するものを「象徴する」ために用いている。

第二に、ヨハネにとって水は通常それ自体とは違うものの何かを象徴している。(9章や13章においてさえ、水が含まれている行為は霊的照明、霊的きよめの象徴である。)二つの例外は1章と3章であって、そこで水は水のバプテスマについて語っている。しかし、これらの場合、水が水のバプテスマを表わしているのは、単にユダヤのきよめの秩序に属する外的儀式として、メシヤのバプテスマ―御霊のバプテスマのための予備的なものとしてだけである。

第三に、福音書記者はイエスの口からの他の言及としては二つを記録するだけである(4、7章)。これらの両方の場合、水は命を与える御霊の比喩として用いられている。

○礼典主義者の三つの議論に対する反論

これらの事実に照らして、3:15が礼典的な言及であるとの見解を支持するために用いられる三つの議論を再調査しなければならない。

(a)について

「ヨハネの礼典主義」は呼び誤りである。ヨハネは実際には彼の福音書で礼典に関心を持っていない。これはヨハネが反礼典主義者であることを意味しないが、彼の象徴の多くが礼典に向けられているという見解を排除する。彼の象徴は礼典が示し表わすもの、すなわち、イエスによって勝ち取られ与えられる永遠の命という基本的事実を示し、表わす。しかし、それは、彼の象徴が礼典そのものを表わし、永遠の命が礼典を通して与えられると示唆するということとは全く違っている。

(b)について(この部分、全文翻訳)

ニコデモのエピソードの文脈からの議論がかなり弱められている。直接の文脈においては、水は古い時代と新しい時代の対照―下に属するものの例として、御霊の賜物が対照されるものとして―とは遠いところにある。3:5における水は、違った種類のものである。3:5において、水は御霊と対照されているのではなく、同等である。それゆえ、それは水への言及の他の種類に属していると考えられ、水以外の何か、すなわち、上からのものに属するものを象徴していると考えられる。更に、4章の並行的エピソードにおいて、水についてのヨハネの他の用法の例を見出すことができる。命を与える御霊の働きの象徴としてである(4:14)。これらの水の言及が7:38と共に、イエスの口に上った唯一のものであるという事実、またそれぞれの場合に御霊、水、命の間に互いに関連があるという事実に、何らかの重要性があるとしたら、3:5の水は同様に御霊の命を与える働きを象徴していると考えられる。

(c)について(この部分も全文翻訳)

クリスチャンの読者がクリスチャン・バプテスマを見出さないということはありえないという議論は、強力ではあるが、ヨハネの神学から導かれた議論の優位を認めなければならない。この福音書が書かれた時を我々が知っていること、福音書が当てられた読者の礼典的理解を仮定する他に、その議論はヨハネがその理解の文脈の中に自分の文章を合わせ、その理解に対してどんな過激な方法によっても挑戦したり変えたりしないことが彼の意図であったとも仮定している。しかし、福音書自体はこれらの家庭にほとんど信頼性を与えない。逆に、ヨハネは読者の側に想定されるどんな礼典主義にも挑戦しているように思われる。

他方、3:5を単に他の水ー御霊の箇所の線でリストに挙げることはできない。というのは、3:5において、水と御霊は対照されているのでもなければ同一視されているのでもなく、むしろ互いに調和的に作用すると位置づけられている。両方共に上からの誕生をもたらす手段である。更に重要なのは、他の水の箇所では、御霊が対照されたり同一視されたりする水は、その節の中で対照や同一視の外に言及箇所が置かれている(ヨハネのバプテスマの水、ヤコブの井戸の水、仮庵の祭りの水、イエスのそばの水)。それでは、上からの誕生の概念それ自体は(他の箇所が示すようには)必要としないのに、なぜイエスは3:5で水について語ったのだろうか。最もありそうな答えは、著者が読者たちに水をまずはヨハネのバプテスマの言葉で理解するよう意図したというものである。なぜなら、最初の参照の他の関連個所では水は直接古い時代のきよめの儀式、特にヨハネの水のバプテスマを指しているからだ。

これがその通りであるなら、読者は3:5が次のようなことを意味すると理解するだろう。クリスチャンの回心―入信式はヨハネの水のバプテスマ以上のものであると。それは密接な関連性の内に水の(クリスチャン)バプテスマと御霊の賜物とから成っているか、あるいは御霊によるきよめ、すなわちヨハネの水のバプテスマによって象徴されるきよめから成っているか、いずれかである。

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看板塔の修理

2014-11-15 10:36:39 | 事務所便り

事務所屋上の看板がはってある塔を補修します。

2週間ほどかかります。

足場を組み、シートで囲んで養生もされますが、

強風などから守られ、無事工事がなされますようお祈りください。

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おみやげ

2014-11-13 19:22:02 | 瞳便り

瞳は無事修学旅行から帰ってきました。

おみやげはほぼもみじ饅頭一色。

恵にはもみじ饅頭付きストラップ。

もちろん、食べられませんが、押すと中のあんがプニュっと出て来る、

本物っぽいもみじ饅頭です。

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御影福音教会にて会議

2014-11-13 19:18:31 | 事務所便り

新築献堂されたばかりの御影福音教会で会議。

素敵な空間で会議させて頂きました。

地域に開かれた教会として用いられますように。

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瞳の修学旅行

2014-11-12 18:26:23 | 瞳便り

今朝、瞳は修学旅行へ。広島に行くそうです。

家内は学校まで見送り。

お父さんと恵は、家の窓から。

今頃ホテルに着いている頃かな?

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14章 その3

2014-11-09 20:17:31 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】


これまで、著者の議論はほぼ首尾一貫した明晰なものであったと思いますが、このヨハネの福音書の検討では、多少、議論の流れに揺らぎが感じられます。もしかしたら、この部分は、書きかけた見解を途中で変更したのかと思う位です。そのようなこともあり、ここでの検討を進めるためには、著者の議論をもう少し整理しておくことが必要なように思われます。

著者の揺らぎは、ヨハネの福音書においては20:22以前に昇天があったと示唆されているかどうかという点にあります。もし20:22以前に昇天があったと理解できるとすれば、20:22の出来事をペンテコステの日の出来事と重ね合わせることも可能になります。そうすると、弟子たちが二度にわたる聖霊の経験を得たとするペンテコステ派の主張が倒れることになると指摘します。しかし、そのような理解に魅力を感じつつも、最終的には著者はこの見解を退けます。すなわち、昇天はやはり20:22の後に起こったのであって、20:22における聖霊の付与とペンテコステの日の出来事とは、弟子たちが経験した二回に渡る聖霊のみわざであるということになると、著者は言います。「ヨハネは御霊の授与をただ一つしか記録しなかったのであるが、二つの授与を知っていたであろう」(177頁)、「ヨハネは最初の弟子たちの霊的経験において御霊のバプテスマは御霊の二番目の区別されるみわざであると考えたかもしれない」ということになります(178頁)。

この議論の過程において、「20:22は実際の聖霊の付与を描いているのではない」という考え方についても取り上げられていますが、これに対しては、「これは本文に対してあまりに小さな正当性しか持たないので、支持され得ない思弁である」と退けられています(178頁)。

そうすると、弟子たちが経験した二回の聖霊のみわざは、それぞれどういうものであったのか、ダンの議論は次のように整理することができるように思われます。

まず、上記のような結論に至る過程で、この福音書の中に記されている聖霊についての予告のいくつかは、20:22で成就したとは考えにくく、むしろペンテコステの日に成就したと受け止められるもののあることが指摘されます。すなわち、「14:16、26、15:26、16:7の助け主についての約束」「約束された御霊のバプテスマ(1:33)」は、ペンテコステの日に成就したと受け止めるべきことを述べます(177頁)。

他方、その後のより詳細な議論(その43)では、20:22における聖霊の付与は、「息を吹きかけて」という表現から、弟子たちに新しい命を与えるものであり、弟子たちはこの時新生したと理解されています。その上で、「御霊についての節―3:5-8、4:10-14、6:63、7:37-39は御霊の命を与える働きについて語っているので、後の御霊の到来よりも20:22に関連付けられるべきである」と指摘しています(180頁)。

すなわち、著者の理解によれば、20:22では、命を与える御霊の授与が行なわれ、弟子たちはこの時新しい命を与えられたが、その後、「聖霊のバプテスマ」「もうひとりの助け主」の予告を成就する出来事がペンテコステの日に起こったのだということになります。

従って、ここまでの議論においては、ペンテコステ派の主張が認められる形になるわけですが、それではこのような弟子たちの経験(聖霊の二重の経験)が、私達の経験でありえるのかという段階で、著者はこれを否定します。すなわち、弟子たちの経験は、「ディスペンセーションの移行期」のものとして、特殊な経験であり、ペンテコステの日以後のクリスチャン経験に当てはめることはできないというものです。これは、著者自身、注の形で引用するように、ジョン・ストットが提示した議論で、日本でも知られているものです(182頁注)。

より詳しくは、著者としては、「三つの決定的に重要な出来事を区別しなければならない。」と言います。「すなわち、御言葉を伴う『言』の到来、このお方が十字架に挙げられたこと、そして、彼の昇天後αλλοσ παρακλητοσの派遣(14:25、26、15:26、16:7)」。すなわち、御子の受肉降誕、十字架の死、昇天後の聖霊派遣の三つです。この三つの出来事によって、段階的に新しい時代が始まります。第一に、「きよめの経験は、受肉したロゴスが御父からもたらした『御言葉を通して』のみ可能となった」。第二に、「新生と新創造の経験は、神の小羊の罪を担う死と復活後初めて可能になった」。第三に、「我々が今十全なクリスチャン経験と呼ぶものは、昇天とペンテコステ後初めて可能になったのである。その時、『天からの助け主』は『天におられる助け主』に代わって啓示し始め、働き始めた」と言います(181頁)。

これら全体の議論を振り返りつつ、ヨハネの福音書から問題を再検討してみたいとは思いますが、そのためには、かなり重要な論点が残されています。3:5をどう解釈するかというもので、これについては、著者が次の15章で、(今度は主に礼典主義者を意識しながら)取り上げています。まずは、そちらを先に紹介させて頂き、二つの章を合わせて検討してみたいと思います。

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