珍しく瞳が大阪へ。少しお兄さんになる友だちと一緒ですが、
自分の意志で出かけるのは大変珍しいこと。
スマホゲームのイベント集会に参加するためでしたが、
そうでもなければ出かけようとしないのを悲しむよりは、
そうであっても自分からでかけたのを喜んでいるのが、
親の実情。
その世界での有名人と出会ったりして、
楽しんで帰ってきたようです。
珍しく瞳が大阪へ。少しお兄さんになる友だちと一緒ですが、
自分の意志で出かけるのは大変珍しいこと。
スマホゲームのイベント集会に参加するためでしたが、
そうでもなければ出かけようとしないのを悲しむよりは、
そうであっても自分からでかけたのを喜んでいるのが、
親の実情。
その世界での有名人と出会ったりして、
楽しんで帰ってきたようです。
これまで、福音とは何か、福音が提示する救いとはどういうものかを見てきました。それでは、キリストへの信仰に導かれ、神からの救いを頂いた者は、どう生きていけばよいでしょうか。ひと言で言えば、「福音に生かされ、福音に生きる」ということではないでしょうか。
使徒パウロの手紙は、多くの場合、福音の内容を提示する部分と、福音によって信仰に導かれた者の生き方を教える部分とに分かれています。そして、後者は常に前者を前提とし、前者を踏まえて書かれています。
福音の内容を真正面から取り上げるローマ人への手紙でも、福音の内容について1-11章まで取り上げた後、12章の冒頭は次のように書かれます。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。」(ローマ12:1)
そこから記されるのは、神への献身であり、賜物に応じた奉仕であり、社会での生き方であり、教会内で互いに受け入れることです。そして、そのすべては、1-11章までの福音の内容に根差しています。
神の救いを個人的な観点と共に、共同体的観点からも描いているエペソ人への手紙でも、1-3章で神の救済のみわざが大きなスケールで描かれた後、4-6章で信仰者の生き方が教えられます。その冒頭は以下のように記されます。
「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き」(エペソ4:1)
同様の表現は、それ以降も繰り返されます。「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」(エエソ5:1)、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」(エペソ5:8)(ガラテヤ5:25、コロサイ2:6、7、3:1、2、5-10、12、13等も参照)
このようなパウロの語り方を踏まえると、福音の内容を示す文脈の中で、信仰者の生き方を同時に示しており、信仰者の生き方が教えられるところでは同時に福音の内容が確認されていることも見えてきます。たとえば、「罪から解放され、義の僕となった」ことを踏まえて、「自分の肢体を義のしもべとしてささげて、きよくならなければならない」と教えます(ローマ6:18、19)。全体としては教会が直面する実際的な諸問題を扱っているコリント人への手紙においても、個々の問題に対する指針を示しながら、福音の再確認を行なっています(第一コリント1章、15章、第二コリント3章、5章後半等)。
このような見方をもう一歩進めれば、信仰者の生き方は福音の中に提示されているとも言えるでしょう。福音によって罪を赦されたならば、罪を赦された者として生きていく。聖霊を与えられたならば、聖霊の導きに従って生きていく。神の子とされたならば、常に父なる神の愛のもとで、子として生きていく。神の家族である教会の一員とされたのなら、神の家族の一員として、その交わりを大切にしながら生きていく。神の国に入れられたのであれば、神のご支配の中に、御国の民として生きていく。
福音に生かされ、福音に生きるということは、福音が示すところに根差し、福音が示すように生きていくことです。そのように生きていくこと自体が福音を証しすることになります(コロサイ1:6、第一テサロニケ1:8-10)。もちろんそれと共に、教会はまた福音を言葉で証しすることも委ねられています(マタイ28:19、20)。
主イエスは、ペテロがイエスへの信仰告白を言い表した際、ご自分が苦難の僕として死に向かっていることを告げられました。同時に、弟子たちもまた「自分の十字架」を負うて、ご自分に従ってくるよう求められました(マルコ8:34)。その際、「自分の命を失う」覚悟さえ求めながら、このように語られました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ8:34)。キリストの弟子としての生き方は、キリストご自身を目的としていることは言うまでもありませんが、それは同時に福音を目的としているということは注目すべきことです。
福音に生かされ、福音に生きる。人格と生涯の全体をもってそのように生きることを通して福音を証しする。そのように生きながら、必要に応じて言葉でも福音を証しする。そのような生き方に、神は私たちを招いておられます。
成人の日の今日は、教区信徒大会。
神戸中央教会を会場に、阪神淡路大震災の25周年記念として行われました。
午前、横田法路先生の講演は、ご自分の体験も交えながら、
天国の希望に生きることが生き方全体に影響を与えていくこと、また、
「キリストさん」という呼び名が示す新しい宣教のあり方等を示唆。
午後は、三人のパネラーがそれぞれのご経験、角度から発題。
災害援助のあり方の多様性の中に、今後の教会の進むべき方向性を考えさせられました。
年末年始は、韓国で過ごしました。
私や息子たちにとっては、二年半ぶりの韓国。
年末は釜山の水営路教会の宣教師用住居に二泊滞在。
釜山在住の貞美の家族たちに会ったり、
水営路教会の年越集会に参加してみ言葉の恵みを頂いたり。
正月は、巨済島の貞美実家で一泊、妹たちが借りてくれたホテルで一泊。
丁度義母の誕生日(旧暦)がお正月と重なり、近辺の親族が集まっての
お誕生会に初めて参加させて頂きました。
子どもたちは、WiFiのつながるところを探して、スマホゲームをしたり、
韓国の食事を楽しんだり。
今回は無理なスケジュールは組まず、
ゆったりとした年末年始を韓国で過ごさせて頂きました。