長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

瞳、大阪へ

2020-01-25 18:26:35 | 瞳便り

珍しく瞳が大阪へ。少しお兄さんになる友だちと一緒ですが、

自分の意志で出かけるのは大変珍しいこと。

スマホゲームのイベント集会に参加するためでしたが、

そうでもなければ出かけようとしないのを悲しむよりは、

そうであっても自分からでかけたのを喜んでいるのが、

親の実情。

その世界での有名人と出会ったりして、

楽しんで帰ってきたようです。

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信仰への招き  16.福音に生かされ、福音に生きる

2020-01-25 17:07:58 | 信仰への招き

これまで、福音とは何か、福音が提示する救いとはどういうものかを見てきました。それでは、キリストへの信仰に導かれ、神からの救いを頂いた者は、どう生きていけばよいでしょうか。ひと言で言えば、「福音に生かされ、福音に生きる」ということではないでしょうか。

使徒パウロの手紙は、多くの場合、福音の内容を提示する部分と、福音によって信仰に導かれた者の生き方を教える部分とに分かれています。そして、後者は常に前者を前提とし、前者を踏まえて書かれています。

福音の内容を真正面から取り上げるローマ人への手紙でも、福音の内容について1-11章まで取り上げた後、12章の冒頭は次のように書かれます。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。」(ローマ12:1)

そこから記されるのは、神への献身であり、賜物に応じた奉仕であり、社会での生き方であり、教会内で互いに受け入れることです。そして、そのすべては、1-11章までの福音の内容に根差しています。

神の救いを個人的な観点と共に、共同体的観点からも描いているエペソ人への手紙でも、1-3章で神の救済のみわざが大きなスケールで描かれた後、4-6章で信仰者の生き方が教えられます。その冒頭は以下のように記されます。

「さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き」(エペソ4:1)

同様の表現は、それ以降も繰り返されます。「神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」(エエソ5:1)、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。」(エペソ5:8)(ガラテヤ5:25、コロサイ2:6、7、3:1、2、5-10、12、13等も参照)

このようなパウロの語り方を踏まえると、福音の内容を示す文脈の中で、信仰者の生き方を同時に示しており、信仰者の生き方が教えられるところでは同時に福音の内容が確認されていることも見えてきます。たとえば、「罪から解放され、義の僕となった」ことを踏まえて、「自分の肢体を義のしもべとしてささげて、きよくならなければならない」と教えます(ローマ6:18、19)。全体としては教会が直面する実際的な諸問題を扱っているコリント人への手紙においても、個々の問題に対する指針を示しながら、福音の再確認を行なっています(第一コリント1章、15章、第二コリント3章、5章後半等)。

このような見方をもう一歩進めれば、信仰者の生き方は福音の中に提示されているとも言えるでしょう。福音によって罪を赦されたならば、罪を赦された者として生きていく。聖霊を与えられたならば、聖霊の導きに従って生きていく。神の子とされたならば、常に父なる神の愛のもとで、子として生きていく。神の家族である教会の一員とされたのなら、神の家族の一員として、その交わりを大切にしながら生きていく。神の国に入れられたのであれば、神のご支配の中に、御国の民として生きていく。

福音に生かされ、福音に生きるということは、福音が示すところに根差し、福音が示すように生きていくことです。そのように生きていくこと自体が福音を証しすることになります(コロサイ1:6、第一テサロニケ1:8-10)。もちろんそれと共に、教会はまた福音を言葉で証しすることも委ねられています(マタイ28:19、20)。

主イエスは、ペテロがイエスへの信仰告白を言い表した際、ご自分が苦難の僕として死に向かっていることを告げられました。同時に、弟子たちもまた「自分の十字架」を負うて、ご自分に従ってくるよう求められました(マルコ8:34)。その際、「自分の命を失う」覚悟さえ求めながら、このように語られました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ8:34)。キリストの弟子としての生き方は、キリストご自身を目的としていることは言うまでもありませんが、それは同時に福音を目的としているということは注目すべきことです。

福音に生かされ、福音に生きる。人格と生涯の全体をもってそのように生きることを通して福音を証しする。そのように生きながら、必要に応じて言葉でも福音を証しする。そのような生き方に、神は私たちを招いておられます。

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信仰への招き  15.神の国

2020-01-18 10:05:14 | 信仰への招き
「福音とは何か」という課題を持って新約聖書に取り組むと、一つのキーワードがあることに気づかされます。「神の国」という言葉です。
 
ガリラヤ地方でのイエスの宣教開始の様子をマルコは以下のように伝えます。
 
「イエスはガリラヤに生き、神の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ』。」(マルコ1:14、15)
 
その後の宣教活動についての記録の中にも、同じフレーズが繰り返し現れます(マルコ4:11、26、30、9:47、10:14、24、ルカ10:9)。マタイによる福音書では、「御国の福音」(マタイ4:23、24:14)、「天国」(マタイ3:2、4:17、5:3、10、10:7、13:11等)という表現ですが、同じ出来事を記した他の福音書の並行箇所に「神の国」の替わりに現れていますから、同じ意味だと分かります。
 
日本語で「国」と言えば、領土のイメージが強いかもしれませんが、原語(バシレイア)は「バシリューオー」(支配する)の名詞形ですから、「統治」の意味合いです。従って、主イエスが伝えた福音は、神の統治が開始されようとしているという知らせだったと言えるでしょう。
 
エデンの園において、造られたばかりの人間は、神の愛のご支配の中で生きていました。それは、神を愛し、互いに愛し合う、平和な世界でした。しかし、人が神に背き、罪が人の世界に入ったとき、人は神の愛のご支配から離れ、自分勝手な生き方へと進んでいきました。このような世界に救いを与える神のご計画は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫を通して与えられるとの約束が与えられました。王なるメシヤの預言が繰り返し与えられました。
 
「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。」(イザヤ9:6、7)
 
「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。(略)正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし(略)」(イザヤ11:1、4)
 
このような旧約聖書の預言を通して、ユダヤ人の間にはダビデの子孫としてのメシヤの出現が期待されました。しかし、多くの場合、そこで回復される神の統治は、かなり民族的、政治的、軍事的な色合いを持ったものでした。大国からの解放を与え、民族的独立を与えてくれる政治的メシヤへの期待でした。もちろん、旧約聖書の預言の言葉に、そのような意味合いを見て取ることは容易です。しかし、そこで描かれるメシヤは、同時に、民族を超え、全地に救いと回復をもたらし、世界の有様さえも変えながら、正義と平和に満ちた神の統治をもたらす方であることに、多くの人々は気づきませんでした(イザヤ11:1-10)。
 
主イエスが神の国の福音を告げられたとき、それは暗に、ご自分がダビデの子孫としてのメシアであるとの宣言でもありました。しかし、メシアなるお方として、神の統治をどう回復させようとしているのか、それが大切な点でした。
 
特に、イエスが人々に対して語られた神の国についての教えを見ると、ご自分が来られたことによって既に始められようとしているということと、将来、世の終わりに完成されようとするということと、その両方の面が語られているように思われます。
 
たとえば、イエスは悪霊につかれた人々を癒されましたが、そうしながらこう語られました。「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ12:28。ルカ16:16、17:20、21も参照)。すなわち、イエスの到来は、「すでに」神の国の到来をもたらしたのであると語られました。
 
しかし、ある時には、世の終わり、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき」(マタイ25:31)について語りながら、王(キリスト)がある人々に次のような言葉をかけられるであろうと言われました。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」(マタイ25:34。マルコ9:47も参照。)そこでは、イエスの栄光ある現れ(再臨)は将来のことであり、その意味で、神の国の完成は「いまだ」来ていないことになります。
 
このように、神の国はイエス・キリストの登場によって「すでに」始まっていると共に、「いまだ」来たらず、という両面を持つことが分かります。ガリラヤの地に立ち、イエスの語られた「神の国は近づいた」との宣言は、その両方の意味が込められていたと言えるでしょう。
 
イエスが語られた「神の国の福音」は、弟子たちにも継承されました。主イエスの復活・昇天に続く教会の宣教活動の中で、神の国はその内容を示すものでした。「ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えるに及んで、男も女も信じて、ぞくぞくとバプテスマを受けた」(使徒8:12)、「パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした」(使徒19:8)(使徒20:25、28:23、31)。
 
これまで、福音はイエス・キリストによる救いを提供するものであることを見てきました。救いとは、罪を赦され、義とされ、聖霊を与えられ、永遠の命を与えられることであり、神の子として生きることを可能にするものでもありました。同時に、神の民として生きるよう招くものであることも見てきました。「神の国の福音」とは、これまで見てきた福音と別のものではありません。
 
ある時、資産家の青年がイエスのもとに来て尋ねました。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」(マルコ10:17)。財産を売り払って貧しい人々に施し、ご自分に従うようにとのイエスの答えに、彼は顔を曇らせ、立ち去ります。その時、イエスは弟子たちに言われます。「財産のある者が神の国にはいるのは、なんと難しいことであろう」(マルコ10:23)。すると、弟子たちは驚いて答えます。「それでは、だれが救われることができるのだろう」(マルコ10:26)。主イエスは、「人にはできないが、神にはできる」と言いながら、再び、「永遠の生命を受ける」ことについて語られます(マルコ10:30)。これらの箇所で、「永遠の生命を受ける」、「神の国にはいる」、「救われる」とは、相互に入れ替え可能な表現として用いられていることが分かります。(ヨハネ3:3、5、15も参照。)
 
一人の人が自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて救われるということは、何を意味するのでしょうか。罪が赦されること、神の子とされること、永遠のいのちを受けることであり、神の民の一員とされることでもあります。しかし、それは同時に、神のご支配、すなわち神の国の中に入れられることでもあります。それは、個人的に経験される神の恵みであると同時に、歴史を貫いて進められる神のみわざに加えられることであり、最終的には世界を覆うようになる神の栄光あるみわざにあずかることでもあります。
 
パウロは、コロサイのクリスチャンたちに対して次のように書きました。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。」(コロサイ1:13、14)
 
ヨハネもまた、その黙示録を次のような頌栄(キリストをほめたたえること)の言葉で始めます。「わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン」(黙示録1:6)。そして、黙示録の終盤では、「神の言」と呼ばれるお方(イエス・キリスト)が栄光の姿で現れ、諸国民を治める様子を描きつつ、このお方こそ「王の王、主の主」であることを示唆しています(黙示録19:13-16)。
 
神の国に入れられる条件は何でしょうか。神の御前に的外れな生き方、すなわち罪を悔い改め、イエス・キリスト(福音)を信じることです。
 
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)
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信徒大会

2020-01-13 16:30:22 | 教会便り

成人の日の今日は、教区信徒大会。

神戸中央教会を会場に、阪神淡路大震災の25周年記念として行われました。

午前、横田法路先生の講演は、ご自分の体験も交えながら、

天国の希望に生きることが生き方全体に影響を与えていくこと、また、

「キリストさん」という呼び名が示す新しい宣教のあり方等を示唆。

午後は、三人のパネラーがそれぞれのご経験、角度から発題。

災害援助のあり方の多様性の中に、今後の教会の進むべき方向性を考えさせられました。

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信仰への招き  14.神の民

2020-01-11 11:46:47 | 信仰への招き
自分の的外れな生き方を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主として信じるとき、救いが与えられることを見てきました。前回は、それが神の子とされることでもあるということを見ました。これらのことは、一見、個人的な問題であるように見えますが、聖書全体を見るとき、決してそれだけのことではないことが分かります。
 
福音書を見ると、主イエスが宣教の働きを進める上で、個人的な関わりを大切にされたと同時に、この地上に新たな共同体を形づくることに意を用いていたことが分かります。その宣教活動の最も初期から、ご自分と行動を共にする弟子達を集めたこともその一つの表れでしょう(マタイ4:18-22等)。彼らの中から十二使徒と呼ばれる人々を選ばれたことは、続くステップと言えます(マタイ10:1-4等)。その後は、彼らを中心に宣教訓練を与えたり(マタイ10:5-42)、群衆への教えとはまた別にみ言葉を教えたりなさいました(マタイ13:10-52等)。ペテロがイエスに対して「あなたこそ、生ける神の子キリスト」と告白したときには、信仰共同体としての教会の設立を宣言されます(マタイ16:18)。
 
使徒行伝を見ると、主イエスの十字架の死と復活の後、五旬節の日に聖霊がくだったところから、教会の宣教の働きが始まった経緯が記されます。ペテロが聖霊に満たされ人々に語ったことは、「この曲った時代から救われよ」という言葉で締めくくられましたが、その結果について、次のように記録されます。「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった」。福音を聞いた一人ひとりが信仰により救われたということは、同時に「仲間に加わった」こととして記されます(使徒2:40、41)。個人の救いと共同体の形成が同時進行で進められることは、使徒行伝の中で繰り返し記録されるところです(使徒2:47、6:7、9:31)。
 
このような過程の中で、この共同体にいわゆる異邦人(ユダヤ人から見て)が加わるようになったことについて、福音書と使徒行伝は注意深い記録を残しています。そして、この過程の中で、旧約の神の民イスラエルは、新約の神の民教会とどのような関係にあるのか、神が旧約の神の民イスラエルに与えられた律法を、新約の神の民である教会がどのように扱ったらよいのか、何度も問われることになります。この問題は始まったばかりの教会の歩みの中で、決して小さな問題ではなく、繰り返し問われ、検討され、解答が示されていきます(使徒15:1-29、ガラテヤ書、ローマ書の全体、エペソ2:11-19、へブル書の全体等)。
 
いずれにしても、ここで確認したいことは、福音を信じて人が救われるということは、個人的な出来事であると同時に、信仰共同体である神の民に加えられることです。
 
使徒パウロは、エペソ2章の前半で、救いの個人的側面を扱います。「さて、あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、(略)しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」(エペソ2:1-5)これらの言葉は、信じた者に与えられる救いの恵みがどれほど大きなものであるかを、主として個人的な側面から語ったものです。
 
しかし、直後、パウロは、このことを共同体的側面から語り直します。「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは、以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄されたのである。(中略)というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異邦人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:11-19)
 
ここでは、「肉によれば異邦人」であった者が、いわば「霊においてイスラエル」とされたことが示唆されています。同時に、そこでは肉によるイスラエルと異邦人との間を隔てていた中垣が取り除かれ、霊において一つのものとして父なる神の前に出る者とされていることも明確にされます。このようにしながら、キリストによる救いが個人的なものであると同時に、共同体的な側面を持つことが示唆されます。
 
使徒ペテロの次のような言葉の中にも、同様のことが示唆されています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招きいれて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。」(第一ペテロ2:9、10)
 
福音を信じ救われた者は、同時に、神の家族に迎えられたことを知る必要があります。「神の子」として新しく生まれた者が、一人で信仰を守り、その歩みを進めていかなければならないとしたら、それはどんなに厳しく大変なことかと思います。神は信仰者のために、神の家族を備えてくださいました。信仰者は神の民の一員として歩み、その中で信仰が養われ、神の民として成長していきます。そうしながら、信仰の仲間たちと共に、受けた恵みを世に証しする使命を担っていきます。
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韓国での年越し

2020-01-07 17:47:06 | 長田家便り

年末年始は、韓国で過ごしました。

私や息子たちにとっては、二年半ぶりの韓国。

年末は釜山の水営路教会の宣教師用住居に二泊滞在。

釜山在住の貞美の家族たちに会ったり、

水営路教会の年越集会に参加してみ言葉の恵みを頂いたり。

正月は、巨済島の貞美実家で一泊、妹たちが借りてくれたホテルで一泊。

丁度義母の誕生日(旧暦)がお正月と重なり、近辺の親族が集まっての

お誕生会に初めて参加させて頂きました。

子どもたちは、WiFiのつながるところを探して、スマホゲームをしたり、

韓国の食事を楽しんだり。

今回は無理なスケジュールは組まず、

ゆったりとした年末年始を韓国で過ごさせて頂きました。

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