長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「聖書が告げるよい知らせ」第12回 生ける水

2022-03-31 19:36:00 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十二回 生ける水

ヨハネ四・五‐一八、二五‐三〇

 

 今回の聖書箇所は、前回取り上げた箇所の続きに当たります。前回は、ユダヤ人の指導者ニコデモが、イエス・キリストと出会った出来事を見ました。今回の箇所では、ニコデモとは随分違った人物が登場します。性別、民族、社会的立場…ニコデモとはあらゆる点で違っていました。しかし、この女性も同じようにイエス様から新しいいのちを得ました。ニコデモに対してイエス様は、「新しく生まれる」ことについて語られましたが、この女性に対しては、「生ける水」という表現を用いて語られました。

 

一、生ける水の必要

 

 イエス様と弟子たちは、ユダヤからガリラヤに行く途中でした。サマリアのスカルという町で、井戸のそばに座って休んでおられた時のことでした。弟子たちは食料を求めて町にでかけていました。

 サマリアの一女性が井戸に水を汲みにきました。イエス様は彼女に声をかけ、「水を飲ませてください」と言われます。これは、大変異例のことでした。

当時、ユダヤ人の男性が女性に語りかけることだけでもまれなことでした。さらに、当時ユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲でした。従って、ユダヤ人男性がサマリアの女性に語りかけるということは、異例中の異例のことでした。ところがこの時、あり得ないはずのことが起ったので、彼女は「どうして」と問い返します(ヨハネ四・九)。すると、イエス様は次のように言われます。

 

「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(ヨハネ四・一〇)

 

 この時彼女は、物質的な水のことが言われているのだと思ったのでしょう。彼女は尋ねます。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」(ヨハネ四・一一)。しかし、主イエスはさらに次のように語られました。

 

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」。(ヨハネ四・一三、一四)

 

 「生ける水」、「わたしが与える水」と言われました。それは、井戸の水とは異なっていました。「この水を飲む人はみな、また渇きます」…当然のことです。どんなにおいしい水であって、喉の渇きを潤してくれたとしても、時間が経てばまた渇きます。しかし、主イエスが言われる「生ける水」は、物質的なものではありません。その証拠に、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われました。しかも、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われました。こんこんとわき出る泉のように、継続的にわきあがる「生ける水」は、内側からその人を潤し続け、永遠のいのちに至るものだと言われました。これは、どんな人にも必要な「神の賜物」です(ヨハネ四・一〇)。

以前、イエス・キリストへの信仰を持たれたある方は、立派に仕事をこなしておられた方ですが、信仰を持つ前の自分を振り返ってこのように言われました。「ジグソーパズルの最後の一片が埋まらない感じだった」と。

人間、社会的立場や経済的安定、幸せな家族関係までもが揃っていても、なお心の空白を覚える一瞬があります。私たちが生ける神様から離れている限り、心の渇きは訪れます。イエス・キリストはこのような渇きをどのようにして満たしてくださるのでしょうか。

 

二、生ける水を受け取るために

 

 「生ける水」が何であるか、よくは分からなかったでしょうが、自分にとって必要なものだと感じたのでしょう。彼女は「その水を私に下さい」と言います(ヨハネ四・一五)。すると、イエス様は、脈絡がないと思えることを口にされます。

 

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ四・一六)

 

 実は、彼女にとってそれは急所を突く言葉でした。「私には夫がいません。」やっとの思いで彼女は答えます。主イエスは言われます。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(ヨハネ四・一七、一八)。

 おそらくそれは、彼女があまり触れられたくない部分だったことでしょう。しかし、イエス様はその領域が彼女の生活を覆っている限り、「生ける水」を与えることができないと感じられたようでした。その領域に光を当てる言葉を投げかけました。彼女はごまかすこともできたでしょうが、そうせずに、ありのままの自分の姿を認めました。そのことが「生ける水」に近づく第一歩となりました。

 その後彼女は、神への礼拝についてイエス様とやり取りを重ねます。そして、彼女は約束のメシアについて口にします。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(ヨハネ四・二五)。これに対して、イエス様は次のように言われます。「あなたと話をしているこのわたしがそれです。」(ヨハネ四・二六)ユダヤ人だけでなくサマリア人も、旧約聖書を通して待望してきた約束のメシア、それはご自分のことだと明確に語られました。

 ここまでの対話により、イエス様は「生ける水」を手に入れるために必要なことが何であるかを明らかにしておられます。すなわち、自分の罪に直面し、言い表すこと、そして、約束のメシアとして御子イエス様を信じることです。

 

三、生ける水の力

 

 「このわたしがそれ(メシア)です」と言われて、女性はそれを信じたでしょうか。明記はされていません。しかし、その後の彼女の行動を見ると、どうやら彼女はイエス様をキリストと信じたようです。

彼女は、真昼に井戸の水を汲みに来ました。暑いパレスチナ地方では、朝夕の涼しい間に井戸の水を汲むのが通例です。彼女は町の人々に会いたくなかったのかもしれません。しかし、キリストとの対話を終えた後、彼女は水がめをそこに置いたまま町に入っていきます。

 

「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ四・二九)

 

 彼女の言葉に、町の人々はぞくぞくとイエス様のところに詰めかけたと言います。その言葉の内容も心を惹くものでしたが、「あの女がこんな風に語りかけてくるなんて」という驚きがあったかもしれません。

 内に渇きを抱えていた一女性は、イエス・キリストとの出会いを通して確かに「生ける水」を得ました。それは彼女の内側にそっとしまっておくことのできないものでした。彼女はそれを人々にあかしせずにはおれませんでした。

人を内側から潤し、満たし、新しくする「生ける水」…あなたも受け取りませんか。

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恵誕生日

2022-03-28 11:58:24 | 恵便り

昨日は恵の誕生日。

中学時代の友人たちが誕生プレゼントを持って来てくれました。

筋トレが趣味ということで、プロテイン。

今朝、早速飲んでいました。

「変わった味のスポーツドリンクみたい」とのこと。

 ⇒中身の粉末を水で溶かして飲みます。⇒ 

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チョン・ピルド牧師の告別式

2022-03-25 16:14:58 | 長田家便り

貞美の母教会である韓国水営路教会の創立時の牧師、チョン・ピルド先生が21日(月)召天され、

本日、告別式が行われました。

式はYouTubeライブ配信が行われ、貞美は韓国語で、私は日本語通訳のものを視聴しました。

  

チョン・ピルド先生は、教団の牧師研修会でも二回ご奉仕され、若い未熟な牧師として、

牧会に困難を覚えていた時期でしたので、大きな励ましと示唆を受けました。

貞美の母教会ですので、韓国に帰国の折には水営路教会の礼拝や徹夜祈祷会など、度々参加させていただきました。

ある時、徹夜祈祷会に参加、少し遅れて会堂に入ると、チョン先生がメッセージを語っておられる途中でした。

具体的なことは忘れましたが、神様の導きをいただいて、日本のために労するようにとチャレンジを受け、

従っていかれた証しをされていました。大きな感動を受けました。

今日の告別式も、生涯、主に従っていかれた先生の信仰の歩みを覚え、御名を崇めました。

病床の中から声を振り絞るようにして語られたメッセージ録音も流されましたが、

いつものチョン先生のメッセージでした。最後の最後まで、主を愛し、み言葉を伝える

牧会者、説教者として生き抜かれたことを覚えます。

奥様、ご家族、教会の皆様の上に、主の慰めがありますように。

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和歌山諸教会訪問

2022-03-24 21:12:02 | 教会便り

22日(火)、23日(水)、教団の数名の先生方と共に、

和歌山県の5教会を訪問、先生方や信徒の方々と懇談の時を

持ちました。

    

教会間の協力、共同牧会のあり方を探り、将来の南海トラフ地震にも

備えるためのもの。

現在、5教会の内、2教会のみが常住担任教師がおられる状況下、

今後どういうあり方が可能か、語り合いの中に色々な可能性が見えてきました。

災害対応のためには、いずれの教会でも情報を集めながら、取り組みを検討しておられ、

各地域が置かれている状況も確認出来て感謝でした。

 すさみ教会近くの避難ビル

 すさみ駅前の避難タワー

 すさみ海岸 素敵に整備されていました。

 和歌山教会裏の秋葉山入口 秋葉山は津波発生時の避難場所にもなっています。

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「聖書が告げるよい知らせ」第11回 新しく生まれる

2022-03-24 20:49:16 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十一回 新しく生まれる

ヨハネ三・一‐一五

 

 前回は、イエス・キリストが語られた神の国についての福音を学びました。その中で、当時のユダヤ人の間で、神の国についての期待はいろいろなイメージを伴っていたことを学びました。今回登場するパリサイ人も、何らかのイメージで神の国の到来を期待していた一人であったことでしょう。しかし、どのような人が神の国に入ることができるのかについて、キリストが語られたことは彼の期待とはかなり違っていたようです。それは、どのようなことだったのでしょうか。

 

一、新しく生まれなければ

 

 彼はニコデモという名のパリサイ人でした。ユダヤ人の指導者の一人であり、サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人議会の議員でもありました。そのような彼が夜、イエスのもとを訪れたと言います。主イエスがなさっておられた色々な奇跡のみわざについて聞いたのでしょう。主イエスのもとに来て、彼はこう語りかけます。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ三・二)

 ニコデモは、「この方は神がともにおられる方だ」と考えました。そして、彼の知りたかったことについても教えてくれると期待したようです。しかし、主イエスは彼が質問を始める前に、こう言われました。

 

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ三・三)

 

 おそらく、ニコデモは神の国について知りたく思っていたのでしょう。そして、イエス様はそのことを見抜かれたのでしょう。神の国を見る条件について語られました。しかし、それはニコデモが予想していたこととは違っていたようでした。

 イエス様は「新しく生まれなければ」と言われました。当時、パリサイ人と呼ばれる人々は、神の国到来への期待を、律法の遵守に関わらせて考えていたようです。そのために、律法の解釈、生活上の適用について、彼らは多くの議論を重ねていました。彼らの議論は、時に律法の本質とは随分離れたところに進んでしまうこともあったようです。いずれにしても、彼らは自分たちがよりよく律法にかなうことができれば、その延長線上に神の国到来を期待することができると考えていました。

 しかし、イエス様がニコデモに語られたのは、「新しく生まれなければ」ということでした。まるで、「今のあなたの生活の延長線上に神の国はない」と言っておられるかのようでした。「新しいいのちが必要だ」ということでした。

 これまで見てきたように、イスラエルの民は律法を与えられながら、それを守ることができず、国が滅ぶ事態にまで至りました。その中で預言者たちは、メシアの到来について語り、新しい契約について語りました。それは、彼らがそのままでは神の国を見ることができないことを意味していました。

これは、私たちにもそのまま当てはまることではないでしょうか。良いことが分かっていてもそう生きることができず、悪いと思いつつその道に迷い込んでしまう私たち。イエス様は私たちにも言われるのではないでしょうか。「新しく生まれなければ」と。

 

二、御霊によって生まれる

 

 「新しく生まれなければ」と言われたニコデモは、その意味を理解することができませんでした。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(ヨハネ三・四)彼はどうやら、主イエスが言われた「新しく生まれる」とは、赤ん坊として生れ直すことを意味すると考えたようです。しかし、イエス様が語られたのは、もちろんそういうことではありませんでした。

 

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ三・五‐八)

 

 まず、「水と御霊によって生まれなければ」と言われました。この箇所の前に記された、主イエスの洗礼の記事に照らして考えると、これは、罪の悔い改めのしるしとして受ける「水のバプテスマ」、信じる者に与えられる「御霊によるバプテスマ」と関係しているようです(ヨハネ一・三二、三三)。

 イエス様は続いて、特に「御霊によって生まれる」ということについて教えられました。これはすなわち、聖霊によって新しく生まれることについての教えです。ニコデモは、主イエスのお言葉が飲み込めず、怪訝な顔をしていたのでしょう。イエス様は、風をたとえにして教えられます。風は目に見えません。ただ、その音を聞きます。あるいは、風が動いた結果、物が揺れるのを見ることはできます。聖霊の働きも同様だと言われます。

それまで神様のことを知らなかった人が教会で聖書の言葉に触れます。最初は関係ないように思っていても、ある頃から聖書の言葉が彼(彼女)の中で働き始めます。いつの間にか、彼(彼女)はイエス・キリストを信じ、神の御心の道を歩き始めます。その経過のどこかで彼(彼女)は新しく生まれたのです。聖霊による新しいいのちを頂きました。詳細は十分理解できなくても、聖霊によって新しく生まれるということは確かに起こることです。

 

三、信じる者がいのちを得る

 

 主イエスのお言葉にも、ニコデモの疑問は晴れなかったようです。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」と尋ねます。イエス様はその無理解に多少なりとも驚きつつ、主イエスはこのようなことを語られます。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ三・一四‐一五)

 

 「人の子」とは、イエス様がご自分をさしてよく用いられた表現です。「人の子も上げられなければなりません」とは、福音書を最後まで読むと、キリストが十字架に挙げられ、人々の贖いを成し遂げることをさしていると分かります。

「モーセが荒野で蛇を上げたように」です。この出来事は、旧約聖書に記されています。出エジプト後のイスラエルの民は、不信仰と不従順の罪の故に、毒蛇にかまれ、苦しんでいました。そのとき、神様はモーセに青銅のへびを造らせ、それを高く掲げさせました。毒に苦しむ人々は、その蛇を仰いで見たとき、苦しみが去り、いのちを得ました。

ちょうどそのように、自分の罪の結果に苦しんでいる者であっても、十字架に死によみがえられたキリストを仰ぎ見るとき、罪が赦され、いのちを得ます。聖霊による新しいいのちです。「永遠のいのち」とあるように、永遠に神と共にあるいのちを受けます。

福音書を最後まで読むと、どうやらニコデモはイエス・キリストを信じたようです(ヨハネ一九・三九)。神の国を見るために必要な新しいいのちをイエス様から頂きました。あなたも、キリストを信じて、新しいいのちを頂いてください。

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誕生日

2022-03-18 19:37:52 | 栄一便り

57歳の誕生日を迎えました。

食事は自宅で父も一緒に。

誕生日の食事はやはり赤飯とわかめスープ。

作業用に「イヤフォンが欲しい」と言ったら、瞳が買ってくれました。

作業用にしては良すぎるので、何か音楽を聴かねば。

瞳は岡山に帰るので、少し早いですが、恵にも誕生プレゼント。

恵みも大満足。

父の買ってきたケーキもおいしかったです。

 

57歳。ずしっと来る年齢です。

 

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「聖書が告げるよい知らせ」第10回 神の国の福音

2022-03-17 21:32:12 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第十回 神の国の福音

マルコ一・一四、一五

 

 「聖書が告げるよい知らせ」というテーマで学んできました。このテーマを考える上で、マルコによる福音書の冒頭には、注目すべき言葉が記されています。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります(マルコ一・一)。この福音書に記されるのは、イエス・キリストの生涯ですが、キリストの生涯自体が私たちにとっての「福音」、よい知らせだということでしょう。福音の中心におられるのは、イエス・キリストだからです。

 さらに、今日の箇所を見ますと、次のように記されます。

 

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。(マルコ一・一四)

 

 ここに、イエス様ご自身が福音を語られたことが記されています。その内容は、続く一節に簡潔明瞭に記されています。それは、どんな内容だったのでしょうか。

 

一、時が満ちた

 

時が満ち、神の国が近づいた。(マルコ一・一五)

 

 イエス様が語られた福音の中心にあったのは、「時が満ち、神の国が近づいた」という宣言でした。

「時」とは、「約束の時」です。満を持して、その時が来たということです。何の約束でしょうか。メシアによる神の国到来の約束です。これまでにも見てきましたように、旧約聖書にはメシア到来の約束が様々な形で記されています。ここでもう一度旧約聖書全体の流れを振り返ってみましょう。

人間は神のかたちに造られ、神と共に生き、互いに愛し合いながら神の祝福の中で生きるはずでした。ところが、人は自らの罪のために神の祝福から遠ざけられる者となりました。そのような人間が神の祝福へと回復されるために、神様はアブラハムとその子孫イスラエルをお選びになりました。

ところが、そのイスラエルもまた神に背き、やがては自ら滅びへと進んでいきます。神様は彼らの度重なる罪のゆえに、預言者たちを通してその裁きが避けられないことを告げられます。しかし、同時に、なお回復の道を備えておられることをも示されます。それは、メシアによる回復であり、その統治は正義と平和に満ち、永遠に続くものであることが告げられました(イザヤ九・七)。

メシアによる神の国の到来…それは神様が長い歴史を通して様々な形で予告し、約束してこられたものでした。イエス・キリストは、時が満ち、約束されたその時が遂に来たことを告げられました。

 

二、神の国が近づいた

 

 しかし、「神の国は近づいた」とはどういうことでしょうか。簡単には説明することのできないほど、深く、大きな意味を持っています。

 まず、「神の国」とは何でしょうか。一言でいえば、「神のご支配」、「神の統治」と言い換えることができるでしょう。しかし、それは具体的にはどのような形で現れるのでしょうか。

当時、多くのユダヤ人はメシアによる神の国到来を待ち望んでいました。その多くは、どちらかと言えば政治的な国の復興をもたらす地上的なメシアをイメージするものでした。しかし、旧約聖書に約束されたメシアは、天的なお方であり(イザヤ九・六)、その統治は一時的、政治的なものを越えて、永遠的なものでした(イザヤ九・七)。それはまた、一民族にとどまらず、すべての民族を含むものとなるであろうことも告げられていました(ダニエル七・一四)。

 そのような「神の国」が近づいたと言います。それはすなわち、メシアの到来により、すべての者が神の国の祝福の中に生きることができる、その時が来ているということです。

たとえば、イエス様は神の国をからし種にたとえられました(マルコ四・三〇‐三二参照)。からし種は、ごま粒よりも小さいものです。しかし、からし種が植えられ、芽が出て、段々大きくなると、大きな木のようになり、鳥も宿るほどになります。そのように、神の国は目に見えない領域、すなわち人々の心の中に始まり、徐々に大きくなって、やがて地を覆うようになることを教えられました。

 キリストの教えと、続く使徒たちの教えを通して明らかになっていくことですが、最終的な神の国の完成までには今しばらくの待ち望みが必要です。神の国は、キリストの十字架の死、復活、昇天の後、このお方のご再臨によって完成されます。その時には神の国の祝福が全世界を覆います。「死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」新しい世界が現われます(黙示録二一・四)。

 その時まで、地上にはなお、死があり、悲しみ、叫び声、苦しみがあるでしょう。しかし、その中にあっても、ある人々の心には神の国の祝福が宿ります。彼らの中に、恵みに満ちた神のご支配が現われます。そのような時がもたらされようとしている…イエス様はそのように宣言されました。

 

三、悔い改めて福音を信じなさい

 

悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ一・一五)

 

 「時が満ち、神の国が近づいた」と言われたイエス・キリストは、結論として言われました、「悔い改めて福音を信じなさい」と。約束のメシア、イエス様が現れ、神の国に至る道が備えられたとすれば、その道に進むためにどうしたらよいのでしょうか。イエス様は二つのことを言われました。

 第一は、悔い改めです。これは、心の転換を意味する言葉です。これまで神様に背を向け、自分勝手に生きてきたとすれば、向きを変え、神様のほうに顔を向け直し、神様に向かって歩み始めることです。具体的には、自分の罪を率直に認め、一つひとつ、神様の御前に言い表すことも含まれるでしょう(第一ヨハネ一・九)。そのようにして、過去の罪一切を赦して頂き、神様の顔を仰ぎつつ歩み始めることです。

 第二は、信仰です。すなわち福音を信じることです。「神の国が近づいた」と言われる、神様からのよい知らせ、イエス・キリストを通してもたらされたこのよい知らせを、そのままそっくり「信じます」と受け取ることです。

それは、単に知的な信仰に留まりません。良い知らせの中心におられるのはイエス・キリストです。福音を信じるということは、今も生きて、私たちを神の国に導き入れてくださるこのお方に、全幅の信頼を置き、自分自身をお任せすることを意味します。

 戦前、英国から日本に来られた宣教師、パジェット・ウィルクスという方は、人が福音を信じることを妨げる四つのものがあると言われました。第一は、偏見です。「キリスト教?外国の宗教でしょう?」といったものです。第二は、肉欲です。いろいろな欲が信仰に進むことを妨げます。第三に、高慢です。神様なしに自分の力で生きていけると考えます。第四に、恐れです。周囲の人がどう言うだろうかと、人の目を気にして決断できない場合があります。(パジェット・ウィルクス著『救霊の動力』関西聖書神学校発行、一〇〇‐一二一頁参照)

神様は聖書を通して、福音を告げておられます。このよい知らせを信じるようにと招いてくださいます。もし、私たちの心に、「信じたい」という願いがあるなら、信じることができるように、その力をも与えてくださいます。様々な妨げを感じるとしても、それらの妨げを取り除き、乗り越えさせてくださいます。

「悔い改めて、福音を信じなさい。」神様の招き、イエス・キリストの招きに、悔い改めと信仰をもってお応えになりませんか。

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神学校卒業式

2022-03-16 08:43:24 | 教会便り

昨日は関西聖書神学校卒業式、私はオンラインで参加させて頂きました。

お二人(ご夫妻)が卒業されました。

世の大海原への進水式。

神様が伴ってくださって、

その歩みとお働きを祝福の内に導いてくださいますように。

 

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野菜の栽培

2022-03-14 21:12:58 | 恵便り

恵は現在、農学部が第一志望ですが、

これまでそれらしい実践はほとんど皆無でした。

今回、高校入試による学校の休みを利用して、

野菜の栽培に初めて取り組み始めました。

といっても、ご覧のように大変ささやかな取り組みですが。

今のところ、毎日水やりもやっているようです。

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植え替え

2022-03-13 13:59:07 | 長田家便り

柿の木、植え替えました。

4つ植えた種の内、2つは伸びないまま枯れてしまい、

残ったのは2つ。

植え替えたら、長い間頭に乗っていた種の殻が取れました。

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