「聖書が告げるよい知らせ」
第十二回 生ける水
ヨハネ四・五‐一八、二五‐三〇
今回の聖書箇所は、前回取り上げた箇所の続きに当たります。前回は、ユダヤ人の指導者ニコデモが、イエス・キリストと出会った出来事を見ました。今回の箇所では、ニコデモとは随分違った人物が登場します。性別、民族、社会的立場…ニコデモとはあらゆる点で違っていました。しかし、この女性も同じようにイエス様から新しいいのちを得ました。ニコデモに対してイエス様は、「新しく生まれる」ことについて語られましたが、この女性に対しては、「生ける水」という表現を用いて語られました。
一、生ける水の必要
イエス様と弟子たちは、ユダヤからガリラヤに行く途中でした。サマリアのスカルという町で、井戸のそばに座って休んでおられた時のことでした。弟子たちは食料を求めて町にでかけていました。
サマリアの一女性が井戸に水を汲みにきました。イエス様は彼女に声をかけ、「水を飲ませてください」と言われます。これは、大変異例のことでした。
当時、ユダヤ人の男性が女性に語りかけることだけでもまれなことでした。さらに、当時ユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲でした。従って、ユダヤ人男性がサマリアの女性に語りかけるということは、異例中の異例のことでした。ところがこの時、あり得ないはずのことが起ったので、彼女は「どうして」と問い返します(ヨハネ四・九)。すると、イエス様は次のように言われます。
「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(ヨハネ四・一〇)
この時彼女は、物質的な水のことが言われているのだと思ったのでしょう。彼女は尋ねます。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」(ヨハネ四・一一)。しかし、主イエスはさらに次のように語られました。
「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」。(ヨハネ四・一三、一四)
「生ける水」、「わたしが与える水」と言われました。それは、井戸の水とは異なっていました。「この水を飲む人はみな、また渇きます」…当然のことです。どんなにおいしい水であって、喉の渇きを潤してくれたとしても、時間が経てばまた渇きます。しかし、主イエスが言われる「生ける水」は、物質的なものではありません。その証拠に、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われました。しかも、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われました。こんこんとわき出る泉のように、継続的にわきあがる「生ける水」は、内側からその人を潤し続け、永遠のいのちに至るものだと言われました。これは、どんな人にも必要な「神の賜物」です(ヨハネ四・一〇)。
以前、イエス・キリストへの信仰を持たれたある方は、立派に仕事をこなしておられた方ですが、信仰を持つ前の自分を振り返ってこのように言われました。「ジグソーパズルの最後の一片が埋まらない感じだった」と。
人間、社会的立場や経済的安定、幸せな家族関係までもが揃っていても、なお心の空白を覚える一瞬があります。私たちが生ける神様から離れている限り、心の渇きは訪れます。イエス・キリストはこのような渇きをどのようにして満たしてくださるのでしょうか。
二、生ける水を受け取るために
「生ける水」が何であるか、よくは分からなかったでしょうが、自分にとって必要なものだと感じたのでしょう。彼女は「その水を私に下さい」と言います(ヨハネ四・一五)。すると、イエス様は、脈絡がないと思えることを口にされます。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ四・一六)
実は、彼女にとってそれは急所を突く言葉でした。「私には夫がいません。」やっとの思いで彼女は答えます。主イエスは言われます。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(ヨハネ四・一七、一八)。
おそらくそれは、彼女があまり触れられたくない部分だったことでしょう。しかし、イエス様はその領域が彼女の生活を覆っている限り、「生ける水」を与えることができないと感じられたようでした。その領域に光を当てる言葉を投げかけました。彼女はごまかすこともできたでしょうが、そうせずに、ありのままの自分の姿を認めました。そのことが「生ける水」に近づく第一歩となりました。
その後彼女は、神への礼拝についてイエス様とやり取りを重ねます。そして、彼女は約束のメシアについて口にします。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」(ヨハネ四・二五)。これに対して、イエス様は次のように言われます。「あなたと話をしているこのわたしがそれです。」(ヨハネ四・二六)ユダヤ人だけでなくサマリア人も、旧約聖書を通して待望してきた約束のメシア、それはご自分のことだと明確に語られました。
ここまでの対話により、イエス様は「生ける水」を手に入れるために必要なことが何であるかを明らかにしておられます。すなわち、自分の罪に直面し、言い表すこと、そして、約束のメシアとして御子イエス様を信じることです。
三、生ける水の力
「このわたしがそれ(メシア)です」と言われて、女性はそれを信じたでしょうか。明記はされていません。しかし、その後の彼女の行動を見ると、どうやら彼女はイエス様をキリストと信じたようです。
彼女は、真昼に井戸の水を汲みに来ました。暑いパレスチナ地方では、朝夕の涼しい間に井戸の水を汲むのが通例です。彼女は町の人々に会いたくなかったのかもしれません。しかし、キリストとの対話を終えた後、彼女は水がめをそこに置いたまま町に入っていきます。
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ四・二九)
彼女の言葉に、町の人々はぞくぞくとイエス様のところに詰めかけたと言います。その言葉の内容も心を惹くものでしたが、「あの女がこんな風に語りかけてくるなんて」という驚きがあったかもしれません。
内に渇きを抱えていた一女性は、イエス・キリストとの出会いを通して確かに「生ける水」を得ました。それは彼女の内側にそっとしまっておくことのできないものでした。彼女はそれを人々にあかしせずにはおれませんでした。
人を内側から潤し、満たし、新しくする「生ける水」…あなたも受け取りませんか。