長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

キャロリングとクリスマスイブ礼拝

2019-12-24 21:48:45 | 教会便り

22日(日)夕方、息子たちが通う神戸中央教会より、

キャロリング。事務所前に賛美の歌声が響きました。

24日の今日は、息子たちと共に神戸中央教会の

クリスマス・イブ礼拝に参加してきました。

最後のハレルヤコーラスがひときわ力がこもって

いたようでした。

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クリスマス礼拝と祝会

2019-12-24 21:38:52 | 教会便り

アップが遅くなりましたが、22日(日)、神戸大石教会でも

クリスマス礼拝・聖餐式、祝会を開催。

久しぶりの方々もお見えで、

多くの方々と共に主イエス様を礼拝。

祝会はご婦人方の用意された昼食で開始。

H兄の司会がよく準備されていて、

みんなで楽しく過ごしました。

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瞳の修学旅行

2019-12-24 21:33:31 | 瞳便り

うっかり、アップを忘れていましたが、今月初め、

瞳は修学旅行で沖縄へ。

「楽しかった?」と聞くと、「楽しいはずがない」と

答えますが、それなりには楽しんできたようです。

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信仰への招き  13.神の子とされる

2019-12-17 17:31:15 | 信仰への招き
イエス・キリストによる救いが豊かな内容を持つものであることは、これまでもご紹介してきました。しかし、この救いの豊かさと深遠さの故に、なお三回、諸方面からこの救いを見ていくことにします。
 
今回は、その中でも救いによって与えられる神との新しい関係に焦点を当て、特に「神の子(とされる)」という表現に注目します。これは神の前での立場を表す表現でありつつ、同時に、キリストを通して与えられる内的変革にも深い関わりがあります。現在、信仰によって与えられているものであると同時に、信仰者が将来与えられるものとも深い関わりがあります。
 
旧約聖書においては、神は万物の創造者、イスラエルの主、アブラハム・イサク・ヤコブの神、神の民に対する羊飼い等、多くの表現でご自分を啓示されました。しかし、神とイスラエルとの関係は、父と子の関係として示されることもないわけではありませんでしたが(ホセア1:10、マラキ1:6、2:10)、かなりまれなことでした。
 
イエスが現れたとき、彼は多くの場合神を「(わたしの)父」と呼びました(マタイ11:25-27、26:39、ルカ23:34、ヨハネ5:17-23等)。同時に、弟子たちに対して神を「あなたがたの父」として紹介し(マタイ6:26、32、6:11)、弟子たちにもまた神様に対して「父よ」と呼びかけるべきことを教えられました(マタイ6:9)。
 
イエスはある時、人々に次のようなたとえ話をされました。
 
「ある人に、ふたりの息子があった。(略)それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで身を持ちくずして財産を使い果たした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。(略)そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇い人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきて、この子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(ルカ15:11-24)
 
このたとえ話は、一般に「放蕩息子のたとえ話」として知られています。神のかたちに造られ、神を愛し、人を愛して生きるようにと願われていたのに、自分中心に生きてきた私たちは、確かに神様に対して放蕩息子のような存在だと言えるでしょう。しかし、神様は私たちがご自分に立ち返ることを待ち続けています。そして、ご自分に帰って来るならば喜び迎えようとするお方です。私たちは神様に対して、確かに「息子と呼ばれる資格はありません」と言う他ない存在です。しかし、私たちが悔い改めて神に立ち返るなら、神様は私たちを「雇人のひとり同様」でなく、正真正銘の神の子として迎え入れようとしておられるのだと、このたとえ話は教えています。
 
もちろん、イエスが「神の子」であることと、私たちが「神の子」とされるということには、本質的な違いがあります。イエスがご自分を「神の子」としてお示しになったとき、それはユダヤ人にとって神を冒涜することとして受け止められました(マタイ26:63-66、ヨハネ5:18)。そこでの「神の子」は、本質的に神的な存在として認識されていたことが分かります。しかし、イエスが弟子たちに神を「われらの父」と呼びかけるよう教えられたとき、同様な心配は不要であったようです(マタイ6:9)。むしろ、イエス・キリストと父なる神との独自の関係をベースにしながら、信じるすべての者をも神との関係を「父と子」の関係でとらえるよう教えておられるように思われます(ヨハネ20:17)。
 
後には、使徒パウロが福音の内容を提示したとき、「神の子」としての信仰者の立場を強調しました。信仰によって義とされた者が与えられる新しい命は、聖霊によって与えられ(ローマ8:9、テトス3:4、5)、聖霊が内に宿ることによって与えられるものであり(ローマ8:11)、その歩みは聖霊によって進められるべきものであると言います(ガラテヤ5:25)。そして、「神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」とも書きます(ローマ8:14)。聖霊は、「子たる身分を授ける霊」です(ローマ8:15)。その霊によって、私たちは、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかけることができます(ローマ8:16、ガラテヤ4:6)。そのことは、将来においてキリストと共同の相続人となり、神による相続を受け継ぐことの根拠とされます(ローマ8:17、ガラテヤ4:7)。
 
使徒ヨハネにとっても、信仰者が「神の子とされる」ということは、大切なことでした。既に見たように、ヨハネはキリストの救いを主として「(永遠の)命」として提示しました。しかし、その命は神の子としての命であることをしばしば彼は表明します。彼は福音書の冒頭、次のように主張します。「しかし、彼(キリスト)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ1:12、13)。
 
また、手紙の中でも、ヨハネは次のように言います。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。」(第一ヨハネ3:1)それは、私たちの将来にもかかわる事であることは、続く聖句によって知られます。「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」(第一ヨハネ3:2)また、「神の子」の特質は、罪から離れたきよい生き方にあることをも強調します(第一ヨハネ3:9)。
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クリスマスフェスティバル

2019-12-13 12:52:23 | 教会便り

昨日は神戸クリスマスフェスティバル。

岩淵さんご夫妻の歌声は、20年近く前にお聞きしましたが、

この歳月の間に、落ち着きと渋みがぐっと増しておられるようでした。

奥様とお証しと、続くメッセンジャーの太田裕作先生のお証し、

よく重なって心に響きました。

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