第五話 人となったことば
ヨハネ一・一‐五、一四‐一八
西暦は、イエス・キリストの誕生を紀元として、世界の歴史を大きく二つに分けています。紀元前は「キリスト以前」(Before Christ=B.C.)、紀元後は「主の年」(Anno Domini=A.D.)として表現されます。(西暦制定後、キリストの誕生に若干のずれのあることが分かり、現在、キリストの誕生は紀元前数年とされています。)
イエス・キリストは、世の中では「偉人」、「聖人」、「キリスト教の創始者」等、様々な言葉で紹介されます。しかし、聖書はこのお方についてどのように言っているのでしょうか。ヨハネの福音書の冒頭部分から学びます。
一、初めにことばがあった
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ一・一‐三)
この福音書の冒頭部分、繰り返されるのは「ことば」という表現です。注意深く読めば、この「ことば」が驚くべき存在であることが分かります。初めから存在し、「神とともにあった」と言われ、同時にこの「ことば」は「神であった」と言われます。万物創造のわざも、この「ことば」によってなされたと言います。
「このことばとは何だろうか。」そう尋ねながら読み進めていくと、次のような一節にたどり着きます。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ一・一四)さらに読み進むと、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります(ヨハネ一・一七)。ここで「ことば」とはイエス・キリストのことを指していたのだと分かります。
なぜヨハネは最初からイエス・キリストと書かなかったのでしょうか。約二千年前イエス・キリストは誕生されましたが、このお方の存在がそこから始まったのではないということを表現したかったのでしょう。「初めにことばがあった」という表現は、世界の歴史の初め、もっと言えば永遠の初めを示しているようです。約二千年前、母マリアから誕生し、イエスと名付けられたこのお方は、その時から存在が始まったのではない、永遠の初めからおられたお方だと言います。
二、人となられた神
ヨハネの福音書冒頭を再度読み返してみますと、さらに驚くべきことが記されていることに気づきます。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。この福音書を書いたヨハネはユダヤ人ですから、万物を創造された真の神が唯一であることを知っていたはずです。しかし、ここには、このお方が永遠の初めから神とともにあられただけでなく、「神であった」、すなわちご自身、神としての本質をお持ちの方であったと言います。万物創造のわざもこのお方によるのだと言います。
この点を心に留めた上で、改めて次の一文に目を留めましょう。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ一・一四)
「ことばは人となって」、すなわち、神であられるお方が人となった…そう理解できます。しかし、そんなことがありえるでしょうか。
日本では人が神になるという信仰をしばしば見かけます。日本人の神観では神と自然が連続的につながっています。従って、人が死んだ後、神となるという信仰もすんなり受け入れられる面があります。
しかし、聖書が示す神様は、世界を創造された神です。創造者なる神様と、被造物すべては、明確に区別されています。ですから、人が神となることについては、その可能性を明確に否定します。しかし、神が人となることはどうでしょうか。
人間の頭では考えにくいことですが、神は全能な方ですから、神がそのようにしようと思われたならば不可能ではありません。そして、事実神はその可能性を現実に変え、「人となって、私たちの間に住まわれた」のだと言います。
三、ひとり子の神
続いて次のように記されます。
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ一・一四)
人となられたお方、イエス・キリストを人々は目にすることができました。このお方は栄光に満ち、恵みとまこととに満ちておられました。その栄光は「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」だと言います。
後にも学びますように、イエス・キリストは神様を天におられる父として人々に教えられました。これは、キリストご自身、神との間に、父と子という特別な関係を持っておられたことが背景にあったと考えられます。キリストにとって神は父であられました。「あなたがたも同じように、このお方を天におられるあなたがたの父と考えなさい」と、人々に勧めました。すなわち、キリストはご自分を通して神を父とする生き方へと招かれたと言うことができます(ヨハネ一・一二参照)。
しかし、ここに見逃せない一点があります。イエス・キリストが神の子であるということには、比類ない特別な面があったということです。それが「ひとり子」という言葉で表現されています。この点をより明確に表現したのが「ひとり子の神」という表現です(ヨハネ一・一八)永遠の初めから神とともにおられた、ご自身神であられたこのお方は、父なる神に対して「ひとり子の神」という、比類ない特別な存在であられることを示しています。
四、私たちが神を見るために
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ一・一八)
神は霊なるお方ですから、私たちの肉眼で見ることはできません(ヨハネ四・二四)。しかし、神のひとり子、ひとり子なる神が人となってこの世界に生きてくださいました。人間の目に見えるお姿で、ひとりの人として生きながら、神を説き明かされました。単に言葉で神を教えただけではなく、その人格と生涯、その存在自体を通して、神を示してくださいました。
最後に、聖書中、大変よく知られている言葉をお読みください。
神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ三・一六)
私たちは、神が天の高い所におられて、私たちを上の方から見ておられると考えるかもしれません。しかし、神様は世のあり様を上から見ておられるだけのお方ではありません。私たちのことを心にかけ、私たちを愛し、私たちと共にありたい、私たちにご自分を現したいと願っておられる方です。神様から離れ、罪の中に滅びようとする私たちを見て、見ぬ振りをすることができず、ひとり子を人として生まれさせ、私たちのために回復の道、救いの道を開かせようとしてくださった方です。私たちは、御子イエス・キリストを通して神様がそのようなお方であると知ることができます。
次回は、神が遣わされた御子キリストがどのように誕生し、私たちのためにどのような救いを備えてくださったのか、もう少し詳しく学びます。