長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「神と共に生きる」第五話 人となったことば

2023-02-28 20:24:25 | 神と共に生きる

第五話 人となったことば

ヨハネ一・一‐五、一四‐一八

 

 西暦は、イエス・キリストの誕生を紀元として、世界の歴史を大きく二つに分けています。紀元前は「キリスト以前」(Before Christ=B.C.)、紀元後は「主の年」(Anno Domini=A.D.)として表現されます。(西暦制定後、キリストの誕生に若干のずれのあることが分かり、現在、キリストの誕生は紀元前数年とされています。)

イエス・キリストは、世の中では「偉人」、「聖人」、「キリスト教の創始者」等、様々な言葉で紹介されます。しかし、聖書はこのお方についてどのように言っているのでしょうか。ヨハネの福音書の冒頭部分から学びます。

 

一、初めにことばがあった

 

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ一・一‐三)

 

 この福音書の冒頭部分、繰り返されるのは「ことば」という表現です。注意深く読めば、この「ことば」が驚くべき存在であることが分かります。初めから存在し、「神とともにあった」と言われ、同時にこの「ことば」は「神であった」と言われます。万物創造のわざも、この「ことば」によってなされたと言います。

「このことばとは何だろうか。」そう尋ねながら読み進めていくと、次のような一節にたどり着きます。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはその栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ一・一四)さらに読み進むと、「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります(ヨハネ一・一七)。ここで「ことば」とはイエス・キリストのことを指していたのだと分かります。

 なぜヨハネは最初からイエス・キリストと書かなかったのでしょうか。約二千年前イエス・キリストは誕生されましたが、このお方の存在がそこから始まったのではないということを表現したかったのでしょう。「初めにことばがあった」という表現は、世界の歴史の初め、もっと言えば永遠の初めを示しているようです。約二千年前、母マリアから誕生し、イエスと名付けられたこのお方は、その時から存在が始まったのではない、永遠の初めからおられたお方だと言います。

 

二、人となられた神

 

 ヨハネの福音書冒頭を再度読み返してみますと、さらに驚くべきことが記されていることに気づきます。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。この福音書を書いたヨハネはユダヤ人ですから、万物を創造された真の神が唯一であることを知っていたはずです。しかし、ここには、このお方が永遠の初めから神とともにあられただけでなく、「神であった」、すなわちご自身、神としての本質をお持ちの方であったと言います。万物創造のわざもこのお方によるのだと言います。

 この点を心に留めた上で、改めて次の一文に目を留めましょう。

 

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ一・一四)

 

 「ことばは人となって」、すなわち、神であられるお方が人となった…そう理解できます。しかし、そんなことがありえるでしょうか。

 日本では人が神になるという信仰をしばしば見かけます。日本人の神観では神と自然が連続的につながっています。従って、人が死んだ後、神となるという信仰もすんなり受け入れられる面があります。

 しかし、聖書が示す神様は、世界を創造された神です。創造者なる神様と、被造物すべては、明確に区別されています。ですから、人が神となることについては、その可能性を明確に否定します。しかし、神が人となることはどうでしょうか。

 人間の頭では考えにくいことですが、神は全能な方ですから、神がそのようにしようと思われたならば不可能ではありません。そして、事実神はその可能性を現実に変え、「人となって、私たちの間に住まわれた」のだと言います。

 

三、ひとり子の神

 

 続いて次のように記されます。

 

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ一・一四)

 

 人となられたお方、イエス・キリストを人々は目にすることができました。このお方は栄光に満ち、恵みとまこととに満ちておられました。その栄光は「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」だと言います。

 後にも学びますように、イエス・キリストは神様を天におられる父として人々に教えられました。これは、キリストご自身、神との間に、父と子という特別な関係を持っておられたことが背景にあったと考えられます。キリストにとって神は父であられました。「あなたがたも同じように、このお方を天におられるあなたがたの父と考えなさい」と、人々に勧めました。すなわち、キリストはご自分を通して神を父とする生き方へと招かれたと言うことができます(ヨハネ一・一二参照)。

 しかし、ここに見逃せない一点があります。イエス・キリストが神の子であるということには、比類ない特別な面があったということです。それが「ひとり子」という言葉で表現されています。この点をより明確に表現したのが「ひとり子の神」という表現です(ヨハネ一・一八)永遠の初めから神とともにおられた、ご自身神であられたこのお方は、父なる神に対して「ひとり子の神」という、比類ない特別な存在であられることを示しています。

 

四、私たちが神を見るために

 

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ一・一八)

 

 神は霊なるお方ですから、私たちの肉眼で見ることはできません(ヨハネ四・二四)。しかし、神のひとり子、ひとり子なる神が人となってこの世界に生きてくださいました。人間の目に見えるお姿で、ひとりの人として生きながら、神を説き明かされました。単に言葉で神を教えただけではなく、その人格と生涯、その存在自体を通して、神を示してくださいました。

 最後に、聖書中、大変よく知られている言葉をお読みください。

 

神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ三・一六)

 

 私たちは、神が天の高い所におられて、私たちを上の方から見ておられると考えるかもしれません。しかし、神様は世のあり様を上から見ておられるだけのお方ではありません。私たちのことを心にかけ、私たちを愛し、私たちと共にありたい、私たちにご自分を現したいと願っておられる方です。神様から離れ、罪の中に滅びようとする私たちを見て、見ぬ振りをすることができず、ひとり子を人として生まれさせ、私たちのために回復の道、救いの道を開かせようとしてくださった方です。私たちは、御子イエス・キリストを通して神様がそのようなお方であると知ることができます。

 次回は、神が遣わされた御子キリストがどのように誕生し、私たちのためにどのような救いを備えてくださったのか、もう少し詳しく学びます。

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子ども大会

2023-02-26 20:54:55 | 教会便り

昨日、今年初めての子ども大会を開催。

4名の子どもたちと2名の親御さんが参加くださいました。

第一部は賛美と聖書のお話。

今回のメッセージは貞美が担当。

イエス様と出会ったペテロの話から。

第二部は、パラリンピックの種目にもなっているボッチャ。

親御さん方もリピーターの方々で、

リラックスした雰囲気の中で楽しんでくださいました。

神様の恵みが参加されたお一人びとりのありますように。

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「神と共に生きる」第四話 不思議な男の子の誕生

2023-02-21 21:07:43 | 神と共に生きる

第四話 不思議な男の子の誕生

イザヤ九・一‐七

 

 前回は、イスラエルの民に十戒を与えられたことを学びました。神を愛し、人を愛する生き方を示された彼らでしたが、その後、彼らはこれらの戒めを破り始めます。やがて国は滅亡へと向かい始めます。

 そのような中で、人々に神の言葉を語った預言者たちがいました。彼らは、戒めを破る民が滅亡へと至るであろうと警告するとともに、神が回復の道をも備えてくださることを告げます。その中心に示されたのは、メシアの出現でした。預言者のひとり、イザヤの言葉から学びます。

 

一、闇の中に光

 

 イザヤは紀元前八世紀に活躍した預言者でした。イスラエルの民が罪に罪を重ねるにつれ、彼らの地は闇に覆われていくだろうと、イザヤは告げました。「苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者」が地を覆うことになると言いました(イザヤ八・二二)。しかし、同時に、彼は希望の光を示しました。

 

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。(イザヤ九・一、二)

 

 罪は光を遠ざけ、闇をもたらします。いのちを弱らせ、死へと導きます。しかし、そのような地にも光が輝くのだと言いました。

 聖書は常に二つのものを明らかにします。罪悪に陥りやすい人間の現実の姿と、そのような中から私たちを救い出そうとする神の姿です。人間の現実のあり様は深刻です。決して安易に考えることはできません。しかし、その現実のただ中に救いの道を備えようとされる神様がおられる…そこに私たちの希望があります。

 

二、不思議な男の子の誕生

 

 しかし、その救いの道としてイザヤが預言したのは、不思議なものでした。

 

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ九・六)

 

 イザヤは希望の光として、ひとりの男の子の誕生を示しました。この男の子はまさに不思議な存在として示されています。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると言います。

 「不思議な助言者」と訳されていますが、「不思議な指導者」と訳すこともできます。国の滅亡が予告される中、不思議な方法で人々を神のご支配の中に導き入れるお方です。「力ある神」と言われます。旧約聖書は、神が創造者であること、被造物である人間とは異なり、天の高みにおられるお方、栄光に満ちたお方として示してきました。ところが、ここで、ひとりの男の子が「力ある神」と呼ばれるようになるだろうと言うのです。「永遠の父」、「平和の君」…どんな男の子がそう呼ばれうるのか、イザヤの預言を聞いた人々はいぶかしく思ったことでしょう。

 

三、ダビデの子孫の中から

 

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ九・七)

 

 続いてイザヤは、「その主権は増し加わり」、「その王国を治め」と、その男の子が一つの国をもたらすことを告げます。「その平和は限りなく」、「さばきと正義によってこれを堅く立て」と、その国は正義と平和によって治められると言います。

 「ダビデの王座に就いて」とあります。ダビデとは、イスラエルの国の二代目の王で、イスラエルの黄金時代を築いた人です。神を愛し、人々を愛して生きた人でした。しかし、その後、王たちは次第に罪を重ね、国は分裂し、それぞれ大国に滅ぼされていきます。イザヤはそのような行く末を預言しながら、同時に回復の道を示します。その中心に示したのが、不思議な男の子の誕生でした。

 国が滅んでしまう中、ユダヤ人は預言者たちが語る多くの言葉の中にメシアへの待望を持ち始めます。メシアとは、本来、「油注がれた者」という意味です。王や預言者、祭司といった人々は、神の霊の力によってその働きを全うするようにと、任職のときに油を注がれました。そのように、やがて特別に油注がれた者として、民の回復を与えてくださるお方、救済者メシアが現れると期待しました。そして、イザヤがダビデの王座に就くと語った男の子こそ、そのようなメシアだろうと考えました。従って、そのメシアはダビデの子孫として現れると考えられました。

 

四、イエス・キリスト

 

 イザヤが生きた時代から七百年以上の歳月が経ちました。貧しいながらも敬虔な信仰を持つ夫婦の間に、ひとりの男の子が誕生しました。父ヨセフは、ダビデの血統に属する人物でした(マタイ一・一)。天使が告げたところに従って、イエス(「神は救い」の意)と名付けられました(マタイ一・二一)。やがてこのお方が人々の前に宣教活動を進めるに従い、この方こそメシア(ギリシア語でキリスト)と信じる弟子たちが現れました。こうしてこのお方は半ば固有名詞のようにイエス・キリストと呼ばれるようになりました。

 イエス・キリストの宣教活動開始の様子を伝えるマタイの福音書は、次のように記しています。

 

イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」(マタイ四・一二‐一六)

 

 私たちは今、希望を持ちにくい時代に生きていると言われます。経済的な困難、いつ訪れるか分からない自然災害、不透明な国際社会…。しかし、私たちの心に明るさが失われ、何とはなしに闇が覆うように感じられるとしたら、そこにはもっと根源的な問題があるのではないでしょうか。

 私たちの造り主なる神様から離れて生きていること、人としての正しい道を示されながらもそう生きることができないでいること、そうでありながら、正しいあり方へと戻る道が分からないでいること…これらのことが私たちの心を暗くしてはいないでしょうか。

 神が備えてくださった希望の光、不思議な男の子がどのようなお方であるのか、さらに学んでいきましょう。

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「神と共に生きる」第三話 神と共に生きるためにー十戒

2023-02-14 19:59:49 | 神と共に生きる

第三話 神と共に生きるためにー十戒

 出エジプト二〇・一‐一七

 

 『十戒』という映画を見られたことがあるでしょうか。チャールストン・ヘストン演じるモーセの姿が印象に残っておられる方も多いことでしょう。この映画は、旧約聖書の出エジプト記に記された出来事を映画にしたものです。イスラエルの民がエジプトの地で奴隷状態であったのを、神様はモーセを遣わして助け出し、パレスチナの地に導かれます。その途中、シナイ山で神様が彼らに示されたのが十戒でした。これは、彼らが神と共に生きていくためのガイドラインでした。

 神様が彼らに律法として与えられた戒めは多種多様ですが、十戒はその中でも神の民としての生き方の本質を指し示すものでした。直接には当時のイスラエルの民に示されたものですが、現代においても、神と共に歩んでいこうとする者がどういう生き方をなすべきなのか教えています。

 

一、神との関係

 

 十戒は大きく二つに分けることができます。第一戒~第四戒は、神様との関係を教え、第五戒~第十戒は人との関係を教えます。まずは、第一戒~第四戒を通して、神様との関係について考えてみましょう。

 

あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(略)あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。(出エジプト二〇・三‐一〇)

 

 第一戒「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」天地万物の創造者以外に、ほかのものを神としてはならないという戒めです。神様が造られた太陽や月、山や海、動物植物がどれほど力強く見え、神秘的なものとして見えたとしても、神として拝んではならないと言います。

第二戒「自分のために偶像を造ってはならない。」すなわち形あるものを造ってそれを神としてはならない、また拝んだり仕えたりしてはならないということです。神様は霊なるお方、形を持たないお方です。人間は目に見えるものに頼ろうとする傾向があって、形あるものを造って、そこに信仰の対象を見出そうとしますが、そうしてはならないということです。

たとえば、二人の男女が愛を誓いかわし、夫婦として歩み始めたのに、いずれか一方がその誓いを裏切り、他の異性に近づくなら、「お好きにどうぞ」ということにはならないでしょう。神様は、私たちを一途に愛するがゆえに、私たちが他のものを神としたり、拝んだりすることを憎まれます。

第三戒「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」私たちの神様への思いは、崇敬の心を含むべきです。冗談半分に神様のことを口にしてはならないということです。

第四戒「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」私たちは生きていくために働いて、生計を立てていく必要があります。しかし、神様のことを放っておいて働き詰めになってはいけない、週に一度は神様を礼拝する日として確保するようにしなさいということです。

 

二、人との関係

 

あなたの父と母を敬え。(略)殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲してはならない。(出エジプト二〇・一二‐一七)

 

 他方、第五戒~第十戒は人との関係を教えます。

 第五戒「あなたの父と母を敬え。」神様が私たちに与えてくださった両親を大切にし、敬うことを教えます。

 第六戒「殺してはならない。」人の命を大切にすることを教えます。

 第七戒「姦淫してはならない。」配偶者との関係を大切にし、裏切ってはならないことを教えます。もちろん、人の結婚関係をも大切にしなければなりません。

 第八戒「盗んではならない。」人の所有物を大切にし、不正に所有することがあってはならなりません。

 第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」偽りの証言によって人を貶めたり、傷つけたりしてはいけません。

 第十戒「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」人の所有物を盗まないだけでなく、貪り見ることもしてはならないということです。

 これらの戒めは、自分の家族や隣人、周囲のすべての人を大切に考え、尊重することを教えています。

 

三、キリストはどう教えたか

 

 これらの戒めについては、キリストも特に二つの点を指摘しておられます。

 一つは、単に外側の行動だけでなく、行動の背後にある心の大切さを指摘されました。第六戒、殺人についての戒めについては、殺人に至らずとも、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」(マタイ五・二二)と言われました。第七戒、姦淫についての戒めについては、姦淫行為に至らずとも、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」(マタイ五・二八)と言われました。外側に行動となって現れる以前の心の憎しみ、怒り、あるいは情欲を神様は問題にされると教えられました。

 二つ目には、これらの戒めの中心が愛にあることを指摘されました。「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と問われたとき、キリストは次のように答えられました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ二二・三七‐四〇)いずれも律法に記された戒めです(申命記六・五、レビ一九・一八)。このようなキリストの言葉から考えると、十戒で示されているのは、神様を心から愛すること、隣人を心から愛し、大切にすることに焦点があると分かります。

 

四、私たちの課題

 

 さて、十戒を示されたイスラエルの民は、それらを実行することができたでしょうか。次回も学んでいただくことですが、彼らはこれらの戒めを破り始めます。悔い改めを迫る預言者たちの声も退け、最終的には国の滅亡に至ってしまいます。

人として正しい生き方を示されても、そのように生きることができない。これはイスラエル民族だけの問題ではありません。人を愛する生き方が大切だと分かっていても、そう生き切れない、むしろ自分勝手な生き方へと落ち込んでしまうことがないでしょうか。

 夏目漱石は、『こころ』という小説を書きました。人間の心がいかに自分でもままならないものであるか、人を愛したいと願いつつも、人をだまし自分をだまして、利己主義的な道にいかに簡単に落ち込むものか、見事に描いています。多くの人はこの小説を読み、人間の心のやり切れない現実に直面するのです。

 人間は内側に大きな課題を抱えています。聖書は率直にそのことを指摘します。しかし、神様はそのような私たちのために、回復の道、救いの道を備えてくださるのです。

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「神と共に生きる」 第二話 共に生きることを願う神

2023-02-07 20:09:09 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第二話 共に生きることを願う神

創世記一・二七、二・一五‐一七、三・一‐九

 

 フランスの画家ポール・ゴーギャンの代表作に、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵があります。ゴーギャンはカトリックの神学校で学んだこともあり、後にはキリスト教に反発もしますが、人間がどこから来てどこへ行くのか、人間が何者なのかという根本的な問いは、彼の心から離れなかったようです。

 聖書は、世界を創造された神様が、人をも創造されたと言います。神様が人を創造するとき、人間をどのようなものとして創造されたのでしょうか。神様は私たちに何を期待し、願っておられるのでしょうか。

 

一、神のかたちに創造された

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記一・二七)

 

 ここに神様は人を「ご自身のかたち」、「神のかたち」として創造されたと記されています。聖書は神様が霊なるお方であって、私たちがそのお姿を見ることはできないと告げています。ですから、神様が人間と同じように物質的な形を持っているというわけではありません。ここでの「かたち」とは、その性質を示しています。人間は神様のご性質に似せて造られたということです。

神様のどんなご性質に似せられたのでしょうか。色々なことが言われていますが、中でも中心的なことは、人格的な存在として造られていることでしょう。言い換えれば他者との人格的な関わりの中で生きることを願う存在だということです。

神様は人間をロボットのように造られたわけではありません。自分の意志で動き、生きる存在です。喜び、泣き、笑い、怒る…そのような存在です。従って、人間同士の間にも、色々な関わりが展開されることになります。神様は私たち人間をそのような存在としてお造りになり、その上で私たちとの間に人格的な関わりを持ちたいと願われました。神様は私たちを愛し、私たちも神様を愛する…そのような人格的な関わりの中で共に歩んでいきたいと願われました。また、私たち人間同士が互いのことを思いやり、愛し合って生きることを願われました。

 

二、善悪の知識の実

 

神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記二・一五‐一七)

 

 さて、最初に神様が人(アダム)を創造されたとき、彼を園に置かれました。一般に楽園と呼ばれるように、園にはおいしくて栄養のある各種の木の実が実っていました。そして、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われていました。ところがそこに、唯一、禁じられていたことがありました。「善悪の知識の実からは、食べてはならない。」ということでした。「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という警告が伴っていました。

 神様はなぜそのような木を生えさせられたのでしょうか。おそらくそれは、人間が神のかたちに創造されたことと関わりがあるのでしょう。神様は人が自由意志の中で生きていくことを願われましたから、神様のご命令に従うこともできましたし、背くこともできました。しかし、そういう中で、神様を愛し、神様の御心に従って生きることを自分の意志で選び取ってほしい…それが神様の願いでした。

 しかし、そのような神様のご期待は見事に裏切られることになります。

 

そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記三・六)

 

 蛇(誘惑者)が現れ、女性(エバ)に近づきます。それを食べれば「神のようになって善悪を知る者となる」と主張します。「神様はそのことをご存じだからこそ、あなたがたにそれを食べることを禁じるのだ」と言わんばかりの言い方をします。エバが誘惑者の言葉を聞き、改めてその実を見ると、「目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」と言います。エバはその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫もその実を食べてしまいます。

 

三、必ず死ぬ

 

 彼らは神様から「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われていました。何が起きたでしょうか。すぐに肉体が死に至ることはありませんでした。しかし、直後起こったことは衝撃的でした。

 

そよ風の吹くころ、彼らは、神である【主】が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。(創世記三・八)

 

 楽園を神様が近づいてこられたとき、いつもであれば神様の前に喜んで出ていたはずの彼らは、とっさに身を隠してしまいました。「主の御顔を避けて」…そんなことはそれまでなかったことでした。神様と人との麗しい関係は歪められ、ひびが入っていました。

 それは、「必ず死ぬ」と言われていたことが実現する最初の兆候でした。彼らの態度の変化を見、彼らが神のご命令に背いたことが明らかになったとき、神様は彼らに裁きを告げられます。祝福に満ちた彼らの生活の中におびただしい苦しみが生まれます。夫婦関係をはじめとして、人と人との関係も歪められます。そして、多くの苦しみの後、「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創世記三・一九)…やがては死に直面することになると告げられます。

 「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」(創世記三・二二)彼らが神のご命令に従うことを選び取っていたならば、永遠に生きる可能性は備えられていましたが、今やその道は閉ざされることになりました。「必ず死ぬ」という神の言葉にうそ偽りはありませんでした。

 

四、あなたはどこにいるのか

 

 このような事態の中で、神様は人間をお見捨てになったでしょうか。そうではありませんでした。彼らが神様との麗しい関係の中に回復されることを願い、その道を備えてくださいました。その備えについては、今後、引き続き学んでいただきたいと思います。

 ここでは、園の木の間に身を隠した彼らに神様が何と呼びかけられたかを心に留めましょう。

 

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」(創世記三・九)

 

 彼らが木の間に隠れていることは、神様は先刻ご承知だったでしょう。「あなたは私と共に生きて幸いを得るはずではなかったのか。あなたは今どこにいるのか。私のもとに帰ってきなさい。」神様の切実な願いが込められているように思えます。そして、この同じ問いかけが現代の私たちにも向けられているのです。

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教区青年部Snow Camp

2023-02-05 16:58:11 | 教会便り

3日(金)4日(土)、教区青年部主催で、但馬福音教会を会場にSnow Campを開催。

当教会からは恵や貞美含め、3名が参加。

青年たちの交流と、できれば北国の教会への雪かき支援が目的。

当教会からは汽車の往復で参加。

一日目は、他の方々より遅れて夜到着したため、温泉入浴からの参加。

翌日は、教会の駐車場に残っていた相当な雪を、参加メンバーで雪かき。

ぜんざいが温まります。

こじんまりした参加人数だったようですが、

その分、ゆっくりと交流の時間もあったようで、

とても楽しかったようです。

皆元気に帰ってきて、感謝。

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神と共に生きる 第1話 創造者なる神

2023-02-03 15:20:26 | 神と共に生きる

初心者向けに、聖書の基本的なメッセージについて学んでいただくようにと、「聖書が告げるよい知らせ」というシリーズを設け、先日、30回で終了しました。しかし、「初心者には難しい」という声を聞きました。

そこで今回は、半分くらいの回数で、より分かりやすく、聖書の基本的なメッセージをお伝えしたいと思います。第1話は、前のシリーズの出だしとほとんど同じですが、第2話からは少しずつ違った内容になります。

 

第一話 創造者なる神 創世記一・一‐三一

 

 聖書の内容は広大です。生涯かかって学んでも学びきれない豊かな内容を含んでいます。しかし、聖書が書かれた目標は、読む者が神と共に生きることはどのようなものかを知って、そのような生き方へと導かれるところにあります。そのような面から、聖書の最も基本的な教えを伝える十七箇所を選んでご紹介したいと思います。この書を通して、皆様が聖書の基本的なメッセージを理解するとともに、神を信じ、神と共に生きる幸いな生涯へと導かれますよう、お祈りいたします。

 

一、創造者なる神

 

はじめに神が天と地を創造された。(創世記一・一)

 

聖書はこの一句から始まります。聖書は、私たちが住むこの世界を創造された神様がおられると告げています。

同志社大学の創立者となった新島襄は、幕末、国禁を犯してひそかに渡米しました。外国に対する憧れもありましたが、特に聖書の神について知りたいという思いが強かったようです。彼は国内にいる間に、漢訳聖書からの抜粋に触れていました。彼はその本を通して、万物の創造者がおられることを知ります。彼はその本を読んだ後、本を置き、あたりを見回して言ったそうです。「誰が私を創ったのか。両親か。いや、神だ。私の机を作ったのは誰か。大工か。いや、神は地上に木を育てられた。神は大工に私の机を作らせられたが、その机は現実にどこかの木からできたものだ。そうであるなら私は神に感謝し、神を信じ、神に対して正直にならなくてはならない」と。(『現代語で読む新島襄』丸善出版、五四頁)

「この世界はなぜ存在しているのか」。知識豊富な人に問うてもなかなか答えは返ってきません。しかし、聖書は静かに語り始めます。「はじめに神が天と地を創造された」と。

宇宙がどんなに大きな広がりを持っているか、天体がどのような法則によって動いているか、地球上に存在する生命がどんなに多種多様で、神秘に満ちているか…そのようなことに少しでも思いを巡らせるとき、これらのものを創造された神様がどんなに知恵深く、測り知れない御力を持っておられるか、私たちの想像を超えるお方であると分かります。

 

二、秩序をもたらす神

 

 天と地の創造は、万物創造の舞台を用意しました。その後、神様は順番にいろいろなものを創造されます。

 

神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。(創世記一・三‐一〇)

 

 これらの創造のみわざをどのように理解するか、諸説ありますが、たとえば、次のようにイメージしてみることもできるでしょう。地球は厚い水蒸気の雲で覆われています。地上までは太陽の光線も届かないほどです。神が「光、あれ」と言われたとき、水蒸気の雲はやや薄れて、地上にまで光が届きます。ぼんやりとですが、地上に昼と夜の区別が生まれます。それでも地上は水蒸気の雲が覆っています。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」神様がそう言われると、水蒸気の雲は地上の海と天上の雲とに分かれます。その間に大空が広がります。当初地上は海が覆っています。神は地表を隆起させなさいます。すると、海の中から陸が現れます。海は限られた部分だけにとどまることになります。

 このように考えると、続いて記される「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。」とは、天上を覆っていた雲がすっかり取り除かれて、太陽や月、星が顔をのぞかせ、それらの光が地上に注がれるようになったと理解できます(創世記一・一六)。

 このように理解することが当たっているのかどうかは分かりませんが、一つのことは言えるでしょう。神様はやみの中に光をもたらし、地球環境に区分を与え、徐々に秩序をもたらされたということです。

 神様は、地球環境に秩序をもたらされました。同様に、私たちの生活にも秩序を与えてくださいます。私たちが聖書を通して神の御心を学び取る中で、神様がどんなことを喜ばれるのか、どんな行いを悲しまれるのかが分かってきます。人間として正しいこと、間違っていることは何であるのか、少しずつですが教えられていきます。そうすると、私たちの生き方の中に秩序が与えられます。やみの中に光がもたらされるようです。

 

三、豊かさをもたらす神

 

神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。(創世記一・一一)

 

神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。(創世記一・二四)

 

 地球上の地や海、空に、神様は種々様々の動植物を造られます。ここで繰り返されている言葉は、「種類ごとに」という言葉です。無秩序にではなく、きちんとした種類の区別があります。しかも、その種類は限りない程で、そこには豊かさがあります。

 私たちが動物園に行けば、面白いふるまいをする動物が沢山います。水族館に行けば、変な形をした魚や水中の生物を沢山見ることができるでしょう。「神様は、どうしてこんな生き物を造られたのだろう」とびっくりすることがあります。神の知恵は多種多様で、その豊かさは無限であると実感させられます。

 

四、必要を備えてくださる神

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記一・二七)

 

 いわゆる六日間の創造で、神は天と地、その中にあるすべての物を造られましたが、その最後に人を創造されました。この順序は大切です。

神様は私たちに空気や水、太陽の光や熱、食物となるあらゆる動植物が必要なことをご存じで、それらのものをあらかじめ備えてくださいました。人間にとって必要なすべての物が備えられた後、「さあ、これですべては揃ったよ」と言わんばかりに、人間を創造してくださいました。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方」とある通りです(イザヤ四五・一八)。

 私たちには食物も水も必要です。住まいや着るものが必要です。温かい人との交流も必要であることを、神はご存じです。私たちに必要な地球環境の一切を備えてくださった神様は、今私たちに必要なものが何であるか、ご存じないわけがありません。この神様を信じるとき、私たちは自分の将来を愛なる神の御手にお委ねし、安心した心で生きていくことができます。

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